〜粉砕天使ナツメ 第二話 後編〜  
 
足早な長針は幾度短針を追い越したのだろうか。夜の校舎は外界から完全に隔絶されたかのように静まり返っていた。  
時折、正門の前を通過し行く車のヘッドライトも三階のこの教室までは届かない。その数ですら今はもう疎らだ。  
もうじき日付も変わろうとしている。果たして夜とはこんなに短いものだったのだろうか。  
 
「―――――――ふぅ………」  
 
エミリアはひたすら待っていた。幻影が目蓋の裏で踊っては跳ねる。それは幾夜もうなされて来たユイの姿。そして、人間として在りし日の彼女の笑顔。  
回想は止まる所を知らない。黒い森で無邪気に暴れ周り迷子になった彼女。デスパイアにトドメの一撃を打ち込んで同時に足を滑らせ、そのままドナウ川に落っこちた彼女。  
そして………、月明かりに照らされるステンドグラスの下、自分を組み敷き、下着を剥ぎ取り、同じ人間とは思えない形相でエミリアにむしゃぶりついて来たユイ。  
今となっては全てが遠い日、いつか見た夢。蜃気楼の如き思い出である。  
 
追憶を打ち払えば、次に浮かんでくるのはついこの前、出会ったばかりの少女の姿。  
あの晩、嬲り物にされている妹を助け出そうと父親のゴルフクラブでデスパイアに殴りかかって行ってナツメ。  
その後、幾度と無く戦いを志願し自分に付き纏った彼女を、エミリアは何度も諌めては遠ざけた。もっとも、今にして思えばその程度で引き下がるような子ではなかったのだが。  
そんな彼女だからこそ、エミリアはナツメにユイの存在すら教えていない。彼女にまで累を及ばせる訳には行かないのだ。そう、これは私の問題なのだから。  
 
願わくば今夜で全てに片を付け、次にナツメに会う時は何事も無かったかのように振る舞いたい。だが、それが叶うこと容易ではない現実も重々承知している。  
3年前、デスパイア化したユイに自分は手も足も出なかった。  
あの日以降、戦いに明け暮れた来た末に手にした今の実力。それを信じていない無い訳ではない。だがしかし、五体満足で勝たせてくれる相手でもないだろう。いや、下手をすれば今度こそエミリアはユイの手に堕ちる。  
ひょっとして先週の昼食がナツメと交わした最後の言葉だったのかもしれない。そうなれば自分はとてつもなく残酷な仕打ちを彼女にしてしまった事になる。やはりこの一戦、負ける訳にはいかないのだ。  
 
決意を新たに、相棒<クロイツァー>を握り締めたその時だった。  
 
「―――――――!」  
 
空気が変わった。それ以上は言葉には言い表せない。  
強いて言えばおよそ人が抱けるあらゆる負の感情を釜で煮て漆喰で固めたようなドス黒い思念。ある種の高潔ささえ感じさせていた月夜の闇が、何かドロリと下卑た暗黒へと変換されたのだ。間違いなくデスパイアの気配だ。  
耳をそばだて息を呑み、五感とプラスアルファを研ぎ澄ます。  
 
「―――――――?」  
 
足音が近付いている。それはいい。ただ、その数がとてつもなく多いのだ。二本の脚で大地を踏みしめる生き物の類では無い。  
ユイではないのか?ならば一体何者がここに?結論を出す暇もなく、違和感の正体と思われる気配は扉の前までやって来た。そして、  
 
 
 
ガラガラガラ―――――――バタァン。  
 
 
 
「ちィ―――――――ッス!二夜連続でおコンバーン!!」  
 
誰の断りも無く破られた深夜の静寂。黒板側のドア豪快に開け放ち、仰々しく現れたのは褐色のサソリ型デスパイアであった。  
 
「やっほー、エ〜ンジェルちゅわ〜ん!お待た〜!………ってドア修復されてる!?こんちくしょ、ホワチャァァァァァア!!!」  
 
招かれざる来訪者は場違いなテンションのまま、香港映画のような怒号を一発。頑丈な角質に覆われた脚で開かない方のドアを蹴り倒し、教室の中へとその巨体を躍らせる。  
 
「いーやー、日本の建造物は狭いの何のって。女の子の喘ぎ声なんて三町先まで筒抜けじゃん?ねぇ?」  
 
「……………」  
 
机や椅子をガラガラと薙ぎ払いながら一歩一歩近寄ってくる乱入者。しかし、その先に腰を据えるエミリアは一向に動く気配が無い。  
 
「ン、なになになに?ひょっとしてオレのマッスルボデーにもうトキメキモードとか!?」  
 
自分の席に腰掛けたままの少女を前にして、デスパイアはアレコレとボーズを決めて魅せる。事これに至って、目の前の化け物を冷ややかに見つめるエミリアは、溜め息混じりにようやくその口を開いた。  
 
「悪いけど、人を待ってるの。見なかった事にしてあげるから、どっか行って貰えないかしら?」  
 
「…………………………」  
 
およそデスパイアを前にしたエンジェルの台詞とは思えない言い草が端麗な唇から紡がれる。  
その表情は全く興味をそそらない対象を見下げるソレ。なまじ美人なだけに相当きつい。相手のデスパイアも暫し硬直している。エミリアの返事を頭の中で整頓している様だった。それから待つこと約5秒………、  
 
「ンだとゴルァ!!世間じゃ“斜め45度の流し目でマリア様もご懐妊”と言われる、このデス業界随一のナイスガイをナメんのも大概にしやがれッてぇーのゥ!!!」  
 
全身を真っ赤に染め上げ地団太踏みながら喚き散らすデスパイア。こうなるとサソリというよりも茹で上がったロブスターに近い。余り大きな声では言えないが、正直、美味しそうですらある。  
 
「ああ、そう。プレイメイツの尻でも追いかけてなさい。お似合いよ」  
 
「ゴッダムユーッ!ファッキンビィィィッチ!!トサカに来たぞ小娘ぇッ!!!もうアレだアレ。ぜってー泣かす、マッパで泣かす、孕まして泣かす!  
シャワー浴びたかァ!?よっしゃ、いくぜ百万発!くらぁぁぁあッ!!柔道チョ――――――ップ!!!」  
 
怒声と共に巨大な鋏脚が夜の教室を切り裂く。エミリア目掛けて放たれた大振りの一撃は、轟音と共に彼女の座っていた席を真っ二つに叩き割り、そのまま床をも打ち抜いた。  
軽やかに身を翻し、ロッカーの前に降り立つ黒衣の少女。その右手のアーチェリーグラブには既に光の矢が携えられ、月明かりに満ちた教室はもう一つの灯篭に照らされる。  
 
「っしゃあ!バッチ来いやコルァっ!!」  
 
闘志を剥き出しに挑発するデスパイア。返事の代わりに返って来たのは弓鳴り。  
 
―――――――ガシィィィイ。  
 
だが、<クロイツァー>を離れて闇を駆けた一撃は、化け物の頑強なハサミで見事に捕獲される。強靭な甲冑の庇護下にあるその肉体は、表面を光の魔力に焦がされようと一向にお構い無しだ。手練の天使に正面決戦を挑むだけの事はある。  
 
「ハッハァー!見たかァ、真剣白刃取りィッ!!微妙に違うけど気にすンなァ!!」  
 
しかし、その会心の笑みはすぐさま凍りついた。  
彼の複眼が次の瞬間捉えていたのは、二発目の矢のように一直線に突っ込んでくるエミリアの姿。  
凍てつく瞳は感情を読み取らせる事無く、その右手には再び光条が握られている。  
 
「ま、マジっすか!?」  
 
一発目の矢をキャッチしている為に両腕は迎撃に使えるはずも無く、自慢の凶器は呆気なくエンジェルの踏み台と化す。  
緩やかなカーブを描くハサミの上を一気に駆け上がりエミリアは飛翔。天井ギリギリまで上昇し全体重を乗せて急降下。その眼光が狙っていたのはデスパイアの頭頂部。  
 
―――――――ザシュ。  
 
「ぬ、ぬがぁぁぁぁぁぁあッ!!!」  
 
魔力の塊が遠慮なく脳天を貫く。エミリアの右手に握られていた矢は弓本体を経ず、彼女の腕によってナイフの様に直に突き立てられた。  
急所を一撃され、余りの激痛に仰け反り返るデスパイア。その挙動で露わになる柔らかな腹部。  
続いて唸ったのは手甲を填めた右腕。その細腕からは想像だに出来ない鋭いアッパーカットが風を切る音と共に顎の下に叩き込まれる。  
真下から突き抜けた鉄拳の衝撃は頭蓋を軋ませながら脳天の傷口まで容赦無く到達。  
哀れなデスパイアは勢い余って天井に激突し、砕いた蛍光管を辺り一面に撒き散し、溢れる緑色の血液もその後に続く。エミリアは尚も攻撃の手を緩めない。  
 
「―――――――ハァッ!!」  
 
落下してくる巨体目掛けて踵を蹴り反転しながら跳躍。錐の如き鋭角を描いた爪先が標的に迫り……。  
 
「あ、タンマタンマタンマ、……――――――むぼふぅッ!!!」  
 
―――――――ドゴンッ。  
 
その胸部目掛けて強烈なサマーソルトを見舞う。  
 
―――――――ズズゥン………。  
 
吐瀉物を盛大に撒き散らしながら床に叩きつけられるモンスター。猛攻の主は何食わぬ顔でその目の前にストンと着地。宙返りで乱れたプラチナブロンドの髪を優雅に撫で整えたのだった。  
 
「………て、てめ………っ!なんで弓使いがボカスカ殴って来ンだよ!?オマケに浮かして落とすって詐欺だろコレ………、ごふッ!?」  
 
「自分で言ってたじゃない。狭いのよ、ここ」  
 
「な、ナルホド……。って納得できっかよ!こんクソアマっ!!」  
 
中々どうして打たれ強い。止まらぬ出血もお構い無しにその身を持ち上げるデスパイア。その恨めし気な視線の先に位置するエミリアは、既に次の矢をノッキング完了している。  
 
「ンだよそれ。うっふん、さぁトドメよ〜ん♪ってか!?そうはイカのアニサキス!!」  
 
サソリ型の体躯の象徴とも言える長い尻尾がエミリアに向けられた。その先端は充血した肉色の巨根。既に包皮が剥け上がりはちきれんばかりに膨張して震えている。  
 
「―――――――っ!?」  
 
 
 
どびゅ―――――――べちゃ。  
 
 
 
間一髪のサイドステップで直撃を逃れたエミリア。ツーンとした精臭が教室全体に広がる。彼女の背後の黒板は汚れたミルクを塗りたくられ、一瞬の内にホワイトボードと化していた。  
 
「アウチ!ガッデーム!惜しいッ!!」  
 
「………随分と下品な飛び道具ね」  
 
「ンな事言ってイイのかなー?もうじきレディのお腹はコイツでタプンタプンになるんだぜぇ?魔力で浄化なんて野暮な真似はパパ許しませんよ〜!ヒャッホーゥ!!」  
 
ごぷん、と次の弾がこれ見よがしに掲げられたペニスへと装填された。よくもまあ、これだけハイペースで出せたものだと感心させられてしまう。  
 
「ホラホラ行くぜぇ!美白ブームの最先端!デスパイア特製スペルマ・ファウンデーション!!クールビューティーなあの子も汁だく美女に大変身!!さぁ、ベチョっといっちまいなァ!!」  
 
どびゅ―――――――っ、どびゅ―――――――っ。  
 
間断なく撃ち出される白濁液の塊。その照準の一歩手前を疾走するエミリア。彼女がステップを踏むたびに透き通った白銀の髪が鈍色の軌跡を闇へと残す。  
その通り過ぎた後には一拍遅れて真っ白な液体が着弾し、幻想的なほどの美が舞っていた空間を欲望のヘドロで染め上げていく。  
 
「なーッはははははァ!こーれぞホントのセックス・マシンガーン!一発当たればお股がキュン、ってなァ!!だーッははははーァ!!」  
 
「後で請求書見て腰抜かしても知らないわよ!」  
 
彼女も逃げてばかりではない。驚異的なバランス感覚で走りながらも弓を引き絞り、化け物めがけて一撃を見舞う。  
だが、その煌きも巨大なハサミで打ち払われて宙を舞い、窓ガラスを砕いて深夜の空へと消えていく。  
 
「そらそらそらァ!コイツをブチ込んでザーメンロケットにして飛ばしてやるぜぇ!行き先はズバリ精子衛星軌道!なーんってなァ!!」  
 
ヒュン―――――――、ガキィィィン。  
 
「いてッ!ンだコラァ!今の笑うところだろッ!!」  
 
帰国子女は愚か、ましてやハーフにそんな親父ギャグを理解しろと言うのも無体だ。  
 
「………っのアマ〜!お約束通り俺を本気にさせやがったなァ!!いいだろう。目ン玉かッ広げてご覧あれ!  
俺の股間が真っ赤に燃える!オマエを犯せと轟き叫―――――」  
 
「―――――――ハッ!」  
 
どごっ。強烈な上段回し蹴りが化け物の首を右方向に60度ほど湾曲させる。だが、  
 
「た、大概にしやがれよテメっ………!!決め台詞の最中ぐらい神妙にしてろ!アバズレがぁ!!」  
 
人間ならば一撃で頚椎を叩き割り三途の川を渡らせる蹴撃も、化け物には大したダメージになっていないようだ。  
 
「………フン!プールの奴といい、コイツといい、大した装甲厚ね。ツラの皮の厚さがそのまま反映されてるわ」  
 
「そうでもねぇぞ?やっぱ可愛子ちゃんの前でチンコぶ〜らぶらってのは結構ハズくてな。アナルがあったら入りたい、なーんって!!分かったらサッサと挿入れさせやがれぇッ!!」  
 
咆哮と同時に突き出されたハサミを、大きなバックステップで回避するエミリア。だが次の瞬間、その背後に固い感触が。  
 
「そぅら!追い詰めちゃったぞー。どうする?ん、どうするゥー?ホラホラ、チワワも訊いてるぜ?」  
 
ガタンとエミリアの背中に触れるロッカー。白濁液を連発しながら間合いを詰めて来た敵に、いつの間にやら彼女は教室の隅へと追いやられていた。  
左右を抜けて逃れようにも待ち構えているのは巨大なハサミ。上を飛び越そうとすればそこには怒張した逸物が我慢汁をダラダラ垂れ流しながら構えている。  
 
「あー………いってえ、まだ痛むぜ畜生め!手こずらせやがってよォ、ンー?」  
 
未だに塞がらぬ頭の傷口を撫でながら、デスパイアが毒づく。  
 
「今度からはせいぜい特大のコンドームでも持ち歩くこったな。なんせ俺サマは紳士だからよ、頑張ってお願いすりゃ装着してやらねぇ事も無いぜ?  
ま、後で中身は全部飲んでもらうけどよ!ヘヘヘ………」  
 
額に青筋を浮かべながら、ズシリと一歩間合いを詰めるデスパイア。  
 
「さ〜て、どんなプレイがお好みかなァ〜?とりあえず一枚づつ脱いで貰おっか?あ、その前に下着の色を当てっこなんてどうよ?  
ンでよ、ンでよ、当たったらその綺麗な唇で俺のナニにたっぷり御奉仕してくれよ。実は結構イケたりすんだろ?なァ、なァ?」  
 
銀色の糸を引く男性器をエミリアの顔の前でユラユラと見せ付けるデスパイア。だが、目の前の天使は動揺する気配すらない。とことんポーカーフェイスを決め込んでいる。  
生意気な女だ。まずはそのスかした顔からメチャクチャにしてやる。そんな事を考えていた折、唐突にエミリアの口が開いた。  
 
「ひとつ、尋ねていいかしら?」  
 
「ん、あぁ?ひょっとして、子供の名前は何がいいかしらー、ってヤツ?んだな、俺的には男の子ならダミアン。女の子ならミザリーなんてのは――――――」  
 
「今朝、この教室で倒れてた子。やったのは貴方?」  
 
デスパイアの投げ返すボールを完全に無視してエミリアは問う。  
 
「ンだよ、面白くねぇな、そんな質問かよ。座布団没収」  
 
デスパイアがつまらなそうに舌を鳴らす。そんな彼は、少女の瞳の奥で静かに蠢いているドス黒い殺意に気が付いていない。  
 
「もち俺だぜ、俺。オレオレ。大した魔力も持ってねぇガキだったけどよォ、見た目的にメッチャ好みだったんでなァ。  
そりゃもーアソコがガパガパになるまで犯ってやったぜ。もう人間のイチモツなんか一生収まンなくなってんじゃねぇの?」  
 
教室の窓際を見遣りながら、肉欲獣は愉快気に語る。  
 
「あ、ひょっとしてお友達だったのかなァ〜?そりゃあ悪い事しちまったぜ。許してちょ。  
だって羨ましいよなァ。あんなにたくさん汁貰ってよォ?天使ちゃんだって欲しいよなァ?あ、そだ!ピキーン、いい事思いついたー!」  
 
グイっと先端から垂れていた先走りを拭うと、デスパイアは自らの性器をエミリアの頭上に持って来た。  
 
「こっからドロドロっとぶっかけて、天使ちゃんをクリームパフェにしーちゃおーっと!どわーははははははァッ!!」  
 
だが、その笑いはそう長く続かなかった。  
 
「なんだ、アンタだったんだ………」  
 
「……………へ?」  
 
 
 
―――――――ザシュ。  
 
 
 
ボトリと、大きな弧を描いて宙を舞った物体が背後の床に転がる。  
 
「な………、う 、うそ……?」  
 
ドクドクと流れ出しているのは精液ではない。緑色の血液だ。尻尾の先端に飾られていた不浄の魔槍が根元から無くなっている。  
怪物の視線は自然とエミリアの右手へ吸い寄せられた。そこに装備されているのはアーチェリーグラブ。  
ただ、先刻までとの違いが一つ。手の甲の部分から、三本の鋭利なクローが飛び出し、残忍な輝きを放っていたのだ。  
 
「あ、隠し………武器、……っスか?」  
 
エミリアは応えない。代わりに一歩踏み出し、もう一度、右手の鍵爪を唸らせる。  
 
―――――――ザシュ。  
 
「ぬ、ぬぎゃぁぁぁぁぁぁあ!!」  
 
突き刺さったのは左目。エミリアの一撃は複眼を貫いただけでは飽き足らず、そのまま手首を90度ひねり、その奥の視神経に至るまで無慈悲に掻き回す。  
 
「あぐっ、ぬがあ!ぬ、抜け!抜いてくれぇ!!あが……ぬ、抜きやがれっての!!」  
 
因果だ。顔面内部で尚も破壊活動を繰り広げる鍵爪に堪えかね、デスパイアの悲鳴が上がる。辛うじて意味を成していたその叫びは、奇しくも前の晩に嬲り物にした少女と同じ慈悲を求めていた。  
 
ぐちゅ―――――――ぶしゅっ。  
 
鮮血の迸りと共に、ようやく引き抜かれるエミリアの右手。白い肌と返り血のコントラストは狂気の芸術が為す壮絶美である。  
 
「ぬば、がふッ!て、テメェ……。きィ、汚ねぇぞ!天使のッ、…やる……こと…かァ!?」  
 
「心外ね。私は職務に忠実なだけよ。それに………」  
 
ここに来てようやくエミリアの麗貌は、僅かではあるが憤怒の色が差した。  
 
「抵抗一つ出来ない女の子を大喜びしながら玩具にした奴に、一体誰を詰る権利があるのかしらね。教えてくれる?」  
 
傷口を押さえながらヨタヨタと後ずさりするデスパイア。その眉間に<クロイツァー>の照準がピタリと合わせられる。  
 
「………ち、畜生め。とんだ厄日だっての。……クソっ!!」  
 
「こっちの台詞ね。とんだ無駄足だったわ。帰って寝直さなきゃ」  
 
キリキリと、限界まで引き絞られる魔力の弦。断罪の一撃は目前まで迫っていた。  
 
「あ、姐さん。やっぱ、俺一人じゃ無理っぽいです。頼ンます!!」  
 
「……………アネ、…さん?」  
 
矢を解き放とうとした指がピタリと止まる。目の前のデスパイアが何を言っているのか、エミリアには理解できなかった。  
だが、次の瞬間。全身の毛穴が震え立つような寒気が彼女に走る。  
 
「―――――――っ!!!」  
 
ハッとエミリアは<クロイツァー>の弓先を出入り口の方角へと向ける。そして、気配の主を探す灰色の瞳は、扉にもたれ掛かる一人の少女の姿を捉えていた。  
 
「…………………ユイ」  
 
 
♯  
 
悪夢。ナツメの目の前に広がっている光景は、他に例え様が無かった。  
とてつもない数の触手が、肉色の津波となって押し寄せ街を飲み込んでいく。  
 
そしてその先を逃げ惑うのは年頃の女性たち。追いつかれた者から、抵抗ひとつ出来ず、次々とひん剥かれて裸にされていく。  
ベルトの金具が弾け飛び、引きずり下ろされるジーパン。ホックを外され宙に舞うスカート。商店街の歩道に放り捨てられるホットパンツ。  
乱れ飛ぶのはYシャツのボタン。まだ温もったショーツが植え込みに投げ捨てられた。信号機に引っ掛かっているのは、放り投げられたブラジャーだ。  
必死に閉じようとする太腿は力ずくで開帳され、大通りは甲高い悲鳴の混声合唱で満たされていく。  
 
追い詰められ、遂に校舎の屋上から飛び降りた少女。しかし、地面に激突する前に、その身体は触手に抱き止められる。  
あっと言う間に彼女の身につけていたセーラー服が剥ぎ取られ、代わりに校庭に落下した。  
そのグラウンドも、触手に絡め捕られ、桃色の局部に集中砲火を浴びる女子生徒たちで埋め尽くされている。  
ベキベキと体育倉庫の扉がこじ開けられ、中から引きずり出される女の子たち。バンザイのポーズで両手首を縛られ、抗う間もなく体操服を脱がされる。  
水泳の授業中だったプールサイドには、群青色のスクール水着を膝下まで降ろされた少女たち。発育途上の胸は触手に縛り上げられ、変幻自在にその形を変えている。  
 
道路を埋め尽くした触手は建物の中へも侵入していく。  
ビルの窓から女物のスーツが放り捨てられ、街路樹の枝に引っ掛かった。オフィスビルからはビリビリと、ナイロン製のストッキングが引き裂かれる音。  
続いてベトベトになったレース編みのショーツが窓から放られ、すぐ下に停められていた自動車の天井にへばり付く。その車のボンネットをベット代わりに、半裸の女性が組み敷かれ、前後の穴を肉蔓で弄ばれていた。  
ぶちゅりと音がする度に、彼女たちの膣は白い爆発でドロリと満たされ、湛え切れなかった欲望の残滓を僅かな隙間から噴き出し逃がすのだ。  
ショーウインドウにビチャリと飛ぶスペルマ。ごぼごぼと排水溝を流れるのも雨水ではなく大量の精液である。  
 
足首まで浸かる白濁液の洪水にタイヤが空転し動き出せない自動車にまで触手の軍団は襲い掛かった。  
ドアをこじ開け、運転席の女性を容赦なく性処理器具にする。バックから突かれ、剥き出しの乳房がハンドルに押し付けられる度にやかましく鳴るクラクション。  
後部座席ではまだあどけない顔の少女がパンティーを奪われ、今まさに挿入されようとしている。  
ホームに止まっていた電車にまで触手は雪崩れ込み、逃げ場を失った獲物に襲い掛かる。  
吊革に両手でブラ下がったまま、股間を突き上げられるOL。シートの上にはM字開脚を強要されている女子学生。女性専用車両など目も当てられない光景だ。  
誰一人、この凌辱劇から逃れられる者は居ない。膨大な量の液体を注ぎ込まれる彼女たちのお腹は見る見る内に膨らんでいく。  
 
駅前で、公園で、庭先で、学校で、商店街で、大通りで、オフィス街で、あられも無い姿になり果て犯される女性たち。咽せ返るような甘い性臭が街全体から沸き立っていた。  
その凄惨極まる光景を、ナツメはただ眺めている事しか出来ない。街全体が一望できる小高い丘の上で、触手に拘束されながら、妊婦のように膨れたお腹の彼女は泣いている。  
 
「ごめんな………さい。……ひっく……、ごめん……な…さい……、えぐっ……」  
 
覚悟なんて物がどれほどの役に立ったというのだろうか。ナツメは謝り続ける。膣内射精の餌食となり、ゆくゆくは奴らの子孫を身籠る運命にある女性たちに、ひたすら謝り続ける。  
自分が負けてしまったから、エンジェルが負けてしまったから、この惨劇は引き起こされてしまったのだ。だが、その言葉が彼女たちに届くはずも無い。  
無力な天使は自らの残した結果をひたすら見せ付けられるだけ。これから先、ベルトコンベア上の流れ作業のように、ただひたすらデスパイアを“生産”し続けるであろうこの街の姿を。  
 
永遠に……………、そう、永遠に……………。  
 
ふと目の前に一人の女性が立っていた。夕闇を思わせるガウンを羽織り、微笑を湛えた娘。その女は身動きできないナツメの耳元に唇を寄せ、こう囁いたのだ。  
 
「うふふ………、いいザマ。それじゃ、エミィは貰っていくね」  
 
「――――――――え!?」  
 
♯  
 
………R…!RRRRRRRR!RRRRRRRR!RRRRRRRR!  
 
 
 
「―――――――あ………」  
 
彼女の意識は深淵から揺さぶり起こされる。呆けていた聴覚は耳元で響いていた電子音をようやく拾い、ナツメはガバと飛び上がった。  
ここは自室。そしてベッドの上だ。どうやら普段着のまま眠りこけていたらしい。  
 
「夢、………だよね?」  
 
昼間の話が尾を引いているのだろうか。両親を失ってからというもの、幾度と無くデスパイア絡みの悪夢にはうなされて来たが、先程まで強烈なインパクトを持ったビジョンは流石に初めてだった。  
パジャマに着替えるのも忘れてせいか、寝汗でベットリとへばりつく衣服が妙に気色悪い。まるで今も、触手に絡め捕られているかのような………。  
 
「あ、いけないっ!」  
 
慌てて彼女はあまり馴染みの無いデフォルトの着信音を発する携帯電話を手に取った。  
夕食の後も、シャワーの後も、マルーシャから聞いた話が頭から離れなかったナツメは、何とか気を紛らわそうと、さほど乗り気ではない着メロ選びや壁紙変更に打ち込み、その甲斐あってか否か、いつのまにやら眠りに落ちていたのだ。  
 
そろそろ傷が目立って新機種に買い替えたいと思っていた小さなディスプレイ。そこに並んでいる番号は間違いない、マルーシャの物だった。  
 
「す、すみません!もしもし!?」  
 
『ナツメ!よしよし、起きてたか。夜更かし朝寝は悪い子の基本。上出来ね!』  
 
「――――え?あ、いや、正直うたた寝してましたけど………?」  
 
火急の用、と言う訳ではなさそうな反応だ。  
 
『結構。それよりマズい事になった。実はエミィが自分の通い先でドンパチ始めたらしい』  
 
半開きの二重目蓋が見開かれ硬直する。前言撤回。ナツメの眠気は一瞬にして吹き飛んだ。  
 
「か、通い先ってあの丘のところの!?」  
 
『そ。クリスチャン風の女子校?あー………、名前なんてったっけ?』  
 
「そんな事より!相手はその、昼間聞いたユイさんなんですか!?」  
 
『わからん。ってか今は何とも言えない。ただ、あのバカチンが一人で戦ってるトコからして………』  
 
携帯電話の向こうから聞こえているマルーシャの息遣いは弾んでいる。どうやら彼女は全力疾走中らしい。  
 
「わ、わかりました!とにかく急ぎます!!じゃあ、学校で………っ」  
 
『待ったナツメ!まだ切ンな!!』  
 
「え、あ、ハイ………!?」  
 
ナツメは耳から放し掛けた機械を慌てて所定の位置に戻す。  
 
『いいか?良く聞けナッちゃん。こっからが一番重要だ』  
 
一拍置いてマルーシャが続ける。  
 
『場所的に言ってアンタの方が先に現場に着くから、もし相手がタダのデスパイアだったらエミィに加勢だ。二人掛かりで押し花にでもして尻でも拭いちまえ。そんで万が一、相手がユイだったら――――――――』  
 
ナツメも息を呑み耳をそばだてる。  
 
『相手がユイだったら、エミィを引き摺ってでもいいから全速力で離脱しろ!無理だったらアタシが到着するまで時間を稼げ!落語でも手品でも何でもいいから正面からの殴り合いだけは避けろ。  
そんで万が一の万が一、ホントに万が一だぞ!?エミィがもう助け出せそうにもなかったら…………、そんときゃアンタひとりでその場から一旦逃げろ。いいな!?』  
 
最後の一節に、ナツメの目は点になった。  
 
「そ、……そ、………そんな!マルーシャさん、貴女、自分が何言ってるか分かってるんですかっ!?」  
 
抑えなくては。頭ではそう思っていた。しかし気が付けばナツメは、金切り声にも近い怒声を電話越しにぶつけていたのだ。  
 
『聞き分けるんだよ、ナツメ!いいかい、ユイの奴はタイマン張って負けた事は一度も無い。殆ど無敵だ。サシだと呂布よりもハルクよりも強ぇんだよ!その気になりゃプレデターだってコンマ三秒でヴァルハラ直行便だ!!』  
 
「で、でも!………エミィちゃんを見捨てるなんて!!」  
 
『見捨てるもんか!そんときゃナツメ、一旦仕切り直しだ。そんでいいかい?二人でエミィを助け出そう。ファンタジーよろしくお姫様を取り返すんだよ』  
 
見捨てる。その言葉に返って来たマルーシャの台詞は、精密機器を挟んでも分かるくらい昂ぶっていた。  
ナツメは恥じた。昼間、諌めるマルーシャに頑固に食い下がったのは自分の方なのだ。なのに自分は今、彼女に一番辛い役回りを押し付けて、しかもそれを非難している。どう考えたって理不尽なのはナツメの方だった。  
 
「………ご、御免なさい。無茶言っちゃって」  
 
『気にすんな。万が一の話だからね。それにだ、あのエミィがそうそう簡単に捕まると思うか?そんなヤワなタマじゃないよアイツは。心配なら保証書出してもいいくらいさ。ハハ………』  
 
宥めるような口調で言い聞かせると、マルーシャは続ける。  
 
『んで、そうだな………。20分、いや30分だ。アタシの到着まで持たせてくれ。今、こっちもシベリア超特急だからさ!』  
 
「わ、わかりました。じゃあ、出ます!!」  
 
『ああ、頼んだよ!』  
 
時計に目をやりながら、ナツメは携帯電話を切る。日付はとっくに変わっている。  
 
マルーシャの看破していた通りだった。エミリアは一人で戦いに赴いたのだ。置いてけぼりを食った寂寥感が硝子の破片のようにナツメの胸に突き刺さる。  
確かに二人で共に戦った時間は決して長いものではなかったが、それでもナツメは二人の間に揺らぐ事の無い信頼感が芽生えた物と確信していたのだ。  
それだけに、エミリアの気持ちが分からなかった。  
巻き込みたくない。そんな陳腐な言い訳を、今更突きつけられる筈が無いと。  
 
(………いけない。こんなんじゃ)  
 
再度、マルーシャの言葉を反芻させる。聞いての通りならば相手は尋常な腕前では無い。雀の涙ほどの迷いでも抱いたまま渡り合えば、勝敗は戦う前に決してしまう。  
困った時は深呼吸、と母がいつも冗談交じりに言っていた。大きく息を呑み決意を新たにすると、ナツメは月明かりの下に飛び出して行った。その右手に力の源、純白の結晶を握り締めながら。  
 
♯  
 
夏の夜風が湛える湿気は、上空に逃げても緩和される気配が無い。相も変わらず、不快な空気が首筋に絡みつき、白いうなじを捕えて放さずにいる。  
 
「………やっぱマズったかねぇ………」  
 
ビルの屋上に降り立った人影。通話を終えたマルーシャは一人呟く。思い起こされるのは昼間のやり取り。やはり許可するべきではなかったのかも知れない。  
あの様子では、ナツメが律儀に自分の言い付けを守るかどうかは微妙な線だ。  
まあ、今となっては後の祭り。“助けてやる”と大風呂敷広げた手前、善処する他に無い。  
 
藤沢ナツメ。なるほど、確かにエミリアが選んだだけの事はある。潜在的な魔力は相当なものだ。下手をすると自分よりも上か。  
向かい合っているだけでチリチリと伝わって来るくらいだ。ダイヤの原石なんて例え方がこれ程までしっくり来る娘は、後にも先にもそうそう見つからないだろう。  
 
しかし困った子でもある。大切なものを守りたい気持ち、これを否定するつもりなどマルーシャには毛頭無い。  
ただ、肝心の天使が倒れてしまっては、守りたいものも、これから守るであろうものも、何一つ守り通せる筈が無い。駆け出しに有り勝ちと言えば有り勝ちだ。  
要は優先順位という物が付けられない。俯瞰で物を見れないのだ。目の前の事象に対し、人参をブラ下げられた駄馬のようにひたすら喰らい付いてしまう。  
 
「結局、若さってヤツか」  
 
もちろん年齢の事ではない。それなら自分もそう変わらない。彼女が言いたいのはそのものズバリ“経験”だ。  
天使は何処まで行っても天使であり、逆立ちしたって神様にはなれっこないし、その神様が人間に与えたもうた時間もこれまた短い。一人の戦士に守れる物なんて、手の届く距離にある物の中からでさえほんの一握りなのだ。  
アレもコレもと欲を掻けばいずれ足元を掬われる。個人の肩に乗せられる積荷は本人が思っているよりもずっと小さい。  
少なくともマルーシャはそう信仰しているのだが……、あの真っ直ぐなナツメにそれを今すぐ理解しろと言うのも無理なオーダーか。  
結局、エミリアという人間磁石が引き寄せた娘にまたもや振り回される自分だけが残った。いやはや苦労の絶えない人生だ。  
 
「………ったく、相変わらずモテモテじゃないか。エミィの馬鹿ちん」  
 
どこまでも自覚の無い友に愚痴をこぼしながら、湿った向い風にコートをなびかせ大きく跳躍。自動車のテールライトを遥か下界に望み、街灯の眩しく輝く大通りを越え、向いのオフィスビル屋上へ着地。  
月に照らされて輝く金髪を掻き上げると、目線は既に次の足場へ。建物の高低差など気にも掛けない。その全てが流れの中の飛び石同然である。  
 
「まァ、頼り無いのは今回アタシも一緒さね」  
 
エミリアとユイがドンパチやるなら、二人は恐らく人気の無い場所を選ぶ。真っ先に候補に挙がるのは、沿岸の旧コンビナート地帯。次に廃ビルの目立つ駅南口の再開発地区。  
そんな具合にマルーシャは踏んでいたのだが、二人は仲良くその斜め上を行ってくれた。  
 
「まさか夜の校舎とはね。しかもエミィの通学先」  
 
駄目押しにその場所はマルーシャが網を張っていたポイントから街の中心線である高架を挟んで丁度反対側に位置する。とんだタイムロスを食った。まさかナツメをアテにする羽目になるとは。  
呼び出すヤツも呼び出すヤツだし、ホイホイ出向く方も出向く方だ。朝になったら一体どんな騒ぎになることやら。ただでさえ、前日のデスパイア騒動で耳目を集めていたのに。  
どうやらお二人さんの頭は予想以上に発酵食品と化していたらしい。そして自分の勘も酷い体たらくだ。これは相当鈍っている。  
 
「やっぱ暑さだな、暑さ!それとあと湿度!!」  
 
温帯モンスーン気候に全責任を押し付けると、彼女はその身を夜空に躍らせた。  
 
♯  
 
静寂。例えるならば、この世でたった二人きりになったような瞬間。彼女の繰り出す爪先の音も、消え入りそうなデスパイアの虫の息も、エミリアには届いていない。  
そして月は万物の観測者であるかの如く窓の外に佇み、対峙する二人を無言の内に見守っている。  
 
「あ……、姐さん。ヘルプっす、ヘルプ……。姐さァん…」  
 
彼女の注意を引くように、デスパイアがハサミを持ち上げ喉を震わせる。その傍らまでコツリ、コツリと歩みを進める夕闇の娘。  
そのシルエットが化け物の顔前と重なった瞬間――――――――。  
 
ドシュッ――――――――ごろん………。  
 
エメラルドの破片のような美しい飛沫が教室を彩った。そして血の匂い。床に転がっているのは、先刻まで助けを求めていたデスパイアの頭部だ。  
 
「あ……やっぱ、……こうなるんスね。ハハ……、いや………、わ、わかってた…ってか。で、……でも俺。姐さんの、そーゆーキツイとこ、結構、好きだったり………っ」  
 
――――――――――ゴバシュ。  
 
湿った破砕音が再度響く。首だけで紡がれる辞世の句はそこで途切れた。  
四分割された醜悪な顔面からは最期の表情が消え、デスパイアと呼ばれた化け物はサラサラと、砂とも埃とも分からぬ粉末へと変質し、音も無く崩れ去っていく。  
その様子を見つめもしないユイの両手はポケットに差し込まれたままだ。傍目には、彼女が何を持って今の一撃を繰り出したのか、全く測り知る事が出来ない。  
コツンともう一度踵を鳴らし、優雅な挙動でユイはエミリアの正面に向き直った。  
 
「やあ。エミィ」  
 
数秒前の惨劇に馴染まないとても子供っぽい声。それは記憶の彼方で響く音色と全く同じ物であった。  
 
「なんか………、また綺麗になったね」  
 
エミリアは一言も発しない。目の前のユイは三年前とまるで変わっていないように見えた。彼女を中心とした僅かな空間だけが、時間という概念から開放されているかの如き錯覚さえ受けてしまう。  
暫しの沈黙を挟んでようやくエミリアの口が開いた。  
 
「………どうして、こんな下っ端を差し向けたの?」  
 
ユイは嬉しそうに白い顔を緩める。  
 
「釣り餌よ、釣り餌。久々にエミィの戦ってるとこ観たかったしね。前よりずーっと格好いいよ。流石、私のエミィってとこだね」  
 
「貴女、そんな物の為に………」  
 
ここの生徒たちを。そう言い掛けて止めた。もう、そんな言葉の通じる相手ではないのだ、彼女は。  
 
「仮にエミィが負けちゃっても、私はちゃんと助けたよ?その方が手間省けるしね。で、そのままホテルに―――――」  
 
―――――――――キリキリキリ………。  
 
だからエミリアは黙って<クロイツァー>を引き絞る。フルドローされた凶器の切っ先は言うまでもなくかつての仲間の眉間へ。  
 
「あ、もう始めるんだ。相変わらずせっかちだね」  
 
パサリと、ユイの纏っていたガウンが木目の床に落ちる。その下に彼女が着込んでいたのは、黒一色の生地に白いフリルをあしらったロングドレス。  
 
「――――――――ッ!!」  
 
弓先が微かに震える。エミリアの顔が軽く引きつった。間違いない、あれは………。  
 
「えへへ、覚えてる?エミィから貰ったヤツだよ。どう、似合ってる?」  
 
忘れるはずも無い。3年前、敗北を喫したエミリアが脱がされた衣装だった。  
 
「ちなみにね………、ホラ、下もだよ」  
 
ユイは恥じらいひとつ無く笑顔でスカートをたくし上げる。彼女が履いていたのは紫陽花のような刺繍とグラデーションが美しい洒落たショーツ。もちろん、その下着もエミリアの………。  
 
―――――――――スタァァァン。  
 
「あー、エミィったらもう怒ったー」  
 
ユイの立つ背後の黒板に突き刺さった光の矢。自らの頭めがけて飛来した一撃を、彼女は僅かに首を反らすだけで回避していた。完全に見切っている。  
 
「んじゃ、これ以上エミィがプリプリしちゃう前に――――――――」  
 
ユイは背中に両腕を回す。静かな教室に、パチリ、パチリ、と2回続けて、金具か何かを外す音が響いた。  
 
「力ずくでお持ち帰りといきますか!!」  
 
宣言と同時にユイは両腕を突き出す。左右の手に握られていたのは、艶の無い黒一色に染め上げられた大小の冷兵器。  
 
「………………」  
 
その姿を認めたエミリアの顔は一層険しくなる。  
 
右手に握られているのは、大人の前腕部ほどのリーチを持った戦闘用マシェット。名は<ヘンゼル>。  
そして左には小振りながらも凶悪な意匠を施した片刃のファイティングナイフ<グレーテル>。  
女を貪るのに夢中な幾多のデスパイアを、背後から物音一つ立てずに地獄へ送ってきた自慢の双子。それが今もなお健在である事をエミリアは確証するに至る。  
 
―――――――――シュタッ。  
 
そして次の瞬間、一陣の黒い風が教室を駆け抜けた。脇目も振らず地を這うような低姿勢で一直線にエミリアへ突っ込んでくるユイ。  
 
(―――――――――くっ!)  
 
エミリアはすぐさま一歩飛び退くと同時に、傍に転がっていた机をひとつ、ユイ目掛けて蹴り上げた。  
乾いた音と共に、放られた備品は空中で真っ二つに叩き割られる。左右どちらの凶器で両断されたのかは判らないが今はどうでもいい。  
 
「―――――――――ハッ!!」  
 
その僅かな挙動を付いて、気合と共に矢をリリースするエミリア。狙うは左右に分断された机の向こうから覗くユイの姿。  
邪悪なデスパイアを貫き、焦がし、滅する一撃が、かつての戦友に放たれる。しかし。  
 
―――――――――ガキィィィン。  
 
耳をつんざく金属音。左手の<グレーテルが>一閃。光の矢は造作も無く弾かれ廊下側の壁に突き刺さった。  
苦い表情を隠せないエミリアを捉え、その位置からさらに一歩大きく踏み込むユイ。唸ったのはリーチに長けた右の<ヘンゼル>。  
 
―――――――ヒュン。  
 
無理のある体勢で強引に床を蹴るエミリア。敵の頭上を飛び越え、狙い違わず胸元目掛けて繰り出された一振りを辛うじて回避する。掠った切っ先が、ピシリと長いスカートにスリットを作った。  
そして着地と同時に振り向きユイの姿をサーチ。いや、探すまでも無かった。敵は今、顔が触れるような距離で逆手に持ったナイフを振り向きざまに打ち下ろそうとしている。  
 
―――――――――ガキィィィン。  
 
「くぅ………っ!」  
 
両腕の筋がギシリと唸る。エミリアは半ば反射的に<クロイツァー>本体とクローを交差させ、その一撃を受け止める事に成功した。脊髄に感謝したいくらいだ。  
だが長くは持たない。武器の剛性は敵が上。魔力を纏った三つの凶器がせめぎ合いギリギリと悲鳴を上げる。  
エミリアが相手を突き飛ばそうと踏み込むのより一歩早く、ユイがフリーになっていた<ヘンゼル>を振り上げた。  
 
「こ、この………ッ!!」  
 
―――――――どごッ。  
 
「あ、………たたたッ」  
 
刃の到達よりも早く、その脇腹を目掛けて至近距離から膝蹴りを見舞う。戦闘開始から経てようやくマトモな一撃を食らい跳び退るユイ。その隙に大きく助走するエミリア。  
体勢を立て直そうとするユイが転がるのとは真逆の方角だ。雲一片の逡巡も無く頭を下げ、右肩を突き出し、エミリアは窓際へと疾駆する。そして跳躍。  
 
ガッシャァァァァァァアン。  
 
打ち破られる窓ガラス。漆黒の天使はそのままベランダも飛び越え、その身を夜空に躍らせる。  
黒衣を翻し、白銀の髪を靡かせ、3階の窓から飛び降りた彼女。月明かりに照らされて舞うガラスの破片と共に空中で一回転。夜の校庭に利き脚から着地する。  
膝に走る衝撃を堪える暇も無く首筋を焦がす背後からの殺気。飛び退いたエミリアが半秒前まで立っていた場所に、投擲されたナイフが突き刺さる。  
それに追い縋る様にして飛び降りて来たのはユイだ。  
空振りし、砂を噛み突き立てられたナイフを引き抜くと、左手の中で鮮やかにスイッチ。得物を逆手に持ち返え防御姿勢をとる。  
 
陸上競技用レーンを引く石灰を巻き上げ、校舎から距離を取るエミリア。宙に踊る白煙の匂いが鼻につく。流石に教室の中でユイと渡り合うのは無理があった。  
なにせ端から端まで彼女のテリトリーだ。だがここなら距離は十分過ぎるほど取れる。攻勢に出るなら今に於いて他に無い。  
 
「リカーヴ<クロイツァー>……モード変更、ベラーゲルング!!」  
 
詠唱開始と共に幾筋もの輝きが右手のグラブに集まり出す。現れたのは一際長大な光の矢。優しく、柔らかく、それでいて凶暴な光の集合体が<クロイツァー>にマウントされた。  
切っ先から走る蒼白いガイドレール。その矛先は微動だにせず、標的の顔の中心線を捉えている。  
 
「………………」  
 
ユイは表情を変えない。想い人から向けられる渾身の殺意も、魔力の余波に巻き上げられる砂の匂いも、彼女の微笑を崩すには至らない。  
待ちに待ったこの日、遂にやって来たこの夜、引き下がる理由など絶対絶無。肺腑に突き刺さる憎しみの視線さえ今は心地良い。  
鉄壁の沈黙を維持したまま、双子の凶器を構え彼女はただ月下に佇む。  
 
「―――――――――フォイア!!」  
 
沈黙を破ったのはエミリアの撃声。夜の帳を切り裂く弓鳴りが校庭に木霊した。  
放たれたのは無数の閃光。辺り一面を満月に呑まれたかの如き輝きで包み込みながら、滅尽滅相の暴風は迫り来る断崖のようにユイへと襲い掛かった。しかし。  
 
「レイヤー<ヘンゼル>、形態更新、バティレーサー!アンカー<グレーテル>、モード変更、コンストリクター!!」  
 
唇の両端を目一杯吊り上げ放たれる咆哮。底の見えない深淵の黒さを湛えたユイの瞳が、まるで蛇のそれの様に縦瞳孔へと変貌する。  
月に届けとばかりに振り上げられる<ヘンゼル>と<グレーテル>。その刃には大蛇の如くのたうつ魔力が絡み付き、真夜中の大気を嬲り物にして唸りを上げている。  
エミリアの<リヒト・レーゲン>がその身に達しようとした正にその瞬間、燦然とユイの両腕は振り抜かれた。  
 
「―――――ッシャァァァア!!<レティキュレート・パイソン>!!!」  
 
ガギギギギギギギギギギギィ―――――――――イ………ン。  
 
けたたましい刃の二重奏。敷地内に収まり切らず丘陵全体を制圧した激発音。撃ち出されたのは網目状に編まれた剣戟の嵐。  
両腕から繰り出される冷兵器の連続高速斬撃は如何なる黒よりも暗い闇を纏い迫り来る光の雨を迎え撃つ。  
グラウンドの砂を一粒残らず巻き上げる魔力の余波。校舎の窓ガラスは衝撃により一枚残らず砕け散り、月明かりを受けた光のシャワーが校庭一面に降り注ぐ。  
 
「………なっ!?」  
 
もうもうと立ち込める土煙が幾らか収まりようやく視界が開けた時、エミリアの両目に映っていたのは無傷で立ち尽くすユイの姿だった。  
あの猛攻を全て、尽く、一発残らず捌き切ったと言うのか。  
銀色の瞳に湛えられた闘志が揺らぐ。それは恐怖。この3年間、一度も味わう事の無かった、そして二度と味わう事は無いと信仰していた感情。  
 
「フフ………ふはッ、アハハハハハハハッ!!」  
 
笑っている。ユイは笑っている。心底、愉しそうに笑っている。  
 
「ふぅ〜―――――。さぁ、エミィ」  
 
………………ジャリ。  
 
靴の踵が砂利を噛む音。ユイが一歩前に踏み出し、エミリアが一歩後退する。  
 
「どうするのかな?」  
 
蛇は獲物を追い詰めつつあった。  
 
♯  
 
「い、今のって!?」  
 
鼓膜を食い破らんばかりの凶暴な響きに、ナツメは背中まで伸びた美しい黒髪を翻し丘の中腹を仰ぎ見る。  
闇の中に佇む年期の入った校舎は厳かに静まり返り、遠目にはさながら神殿のような威容を誇っていた。しかし今やその静寂は破られ、砕け散ったガラスの破片が波間に踊る気泡のように夜空を舞っている。  
間違いない。誰かがあそこで戦っている。戦いを前に研ぎ澄まされた彼女の肌は、僅かに流れてくる魔力の余波から、その主の正体までも感じ取っていた。  
 
「間違いない。エミィちゃんに、それと………」  
 
ズクリと背筋を冷たい感触が一撫でする。一瞬だけ感じ取れたとてつもなく禍々しいオーラ。撃発音と共に僅かな間だけ漂ったその魔力は、もう既に拾うことが出来ない。  
代わりに後に続くのは感じ馴れた親友の魔力。先刻より幾らか弱々しくなっている。ここに来て予感は確信へと変わった。疑問を差し挟む余地は無い。エミリアは何かとんでもない相手に追い詰められている。  
 
「………………」  
 
どうやら事態は最悪の方向に突き進んでいるらしい。唇を噛み、その手に握り締めた力の源を見下ろすナツメ。  
止めておけ、まだ早い。物言わぬ純白のクリスタルは無言の内に警告している様だった。大丈夫だ、信じろ。一方でそう励まされている様にも見える。  
分からない。今、自分が進もうとしている道は果たして正しいのだろうか。戸惑うナツメをいつも傍らで叱り飛ばしてくれた彼女は隣に居ないのだ。頼みの綱のマルーシャも到着していない。  
 
ガキィ………ィン…。  
 
遠くで再び音がする。迷っている暇は無い。  
 
「お願い………!間に合って!!」  
 
震える瞳でその先に広がる闇を見据え、ナツメは大きな一歩を踏み出した。  
 
♯  
 
「ハァ………、ハァ………、ハァ………、くッ!」  
 
鈍い痛みの走る左肩を押さえながら、エミリアは壁に寄りかかった。ここは学校の敷地内にある礼拝堂。校舎裏手に広がる広葉樹林の中に佇むこの学校のシンボルだ。  
明治時代に建てられた慎ましやかなこの文化財は、今や老朽化のため立ち入りが禁止されている。  
 
「………私ってば、本当に無様ね」  
 
ステンドグラスから差し込む柔らかな光の下、彼女は自分の右手を見遣った。ベットリと、気が滅入る匂いのする真っ赤な液体がこびり付いている。左の肩口がまたズキリと痛んだ。  
魔力を使えば傷の治療も可能だが、回復に割ける力があるなら少しでも攻撃に回さねばこの猛攻は凌げない。これが現実だ。一度守勢に回ってしまえば一瞬で押し切られてしまう。  
 
「ホント、お笑いだわ………」  
 
軽い自嘲と共に疲弊した全身に鞭打ちその身を起こす。  
圧倒的だった。まさかこれ程とは。  
ユイはまだデスパイアの力を開放してすらいないと言うのに自分はもうこのザマなのだ。信じられないとかそんな話ではない。ただ笑うしかなかった。  
残された魔力もそう無い。決めるなら恐らく次がラストチャンス。  
 
ギィィィィィィ………………バタン。  
 
「どうしたのエミィ?もう逃げないの?」  
 
重い木製の扉が開閉する響き。死神の到着を告げる鐘が打たれる。  
 
「懐かしいなぁ、ここ。小さい頃、みんなに内緒でよく入り込んでたっけ」  
 
教会の中に入って来た人影は愉しげに告げた。  
神の御前だというのに恥じ入りもせず舌を舐め回し、およそ人の物とは思えぬ視線をこの3年間追い求めてきた獲物の身体を這いずり回らせ、所々破けた服の上からその完璧なプロポーションを品定めする。  
 
「待った甲斐があったわぁ………。エミィの躯、前よりすっごく好くなってるよ」  
 
マシェットの背をトンと肩に乗せ静かに歩みを進めるユイ。心なしか荒ぶっている呼吸は激しい戦闘によるものではない。その証拠に、彼女は口の中を満たすツバをゴクリと飲み込んだ。  
その視線の先で立ち尽くすエミリアの肩口に附けられた傷からはポタポタと赤い雫が滴っている。  
 
「さ、エミィ。もう降参の時間だよ。私だってこれ以上、貴女を傷物にしたくないもの」  
 
「ハ、冗談………。私はまだまだ行けるわよ」  
 
「ふふ、もうそんな風に強がる必要なんて無いのよ。全ては運命。決着は付いたわ。後は神様の前で、生まれたままの姿で愛し合うの。  
事のついでにその傷も治してあげるわよ。お互いの魔力を分かち合いましょ」  
 
ギシリと、古びた床を軋ませユイが歩み出る。  
 
「さぁ、エミィ………。脱いで」  
 
両手を差し出し距離を詰めてくる敵に、痛みを堪えながら<クロイツァー>を擡げるエミリア。  
小突けば霧散してしまいそうに震える腕とは対照的な眼光だけが輝きを失わずにそこにある。その姿はユイの笑顔を曇らせた。  
 
「………うわ、エミィしつこ」  
 
「お互い様でしょ」  
 
「前々から思ってたけどさ、やっぱエミィって頑張り過ぎ。そんなに焦らなくても今夜はたっぷり安心させてあげるよ。  
もちろん、……………私の腕の中でねッ!!」  
 
ヒュンとユイの身体が宙に踊った。右手に握ったマシェットを振り被りながら流れ星のように標的の間合いを侵略。  
瞬き一つさせぬ間に矢を放とうとする<クロイツァー>を一撃し、同時に膝蹴りを繰り出そうとするエミリアの軸足を足首に絡めて薙ぎ払い、遂に礼拝堂の床へ彼女を組み敷いた。  
衰弱した獲物はもはや抵抗すら見せない。  
 
「長かったわ。この夜を私がどれだけ待ち望んできたのか。エミィ、貴女に分かる?」  
 
身体の下からキッと睨み返してくるエミリアの前髪をサラサラと撫で回しながら独白するユイ。  
その手はゆっくりと下がり、軽く唇に触れ、首筋を流し、柔らかな胸の感触を服の上から愉しむと、そのまま降下してスカートの裾を捉えた。  
節足動物の脚のように動く指がフレアの下に潜り込んで来る。  
 
「さぁ………、始めましょうか」  
 
空いていた右手の指が胸元のボタンへ走る。その触覚器官が服の下に潜む柔らかな脂肪の塊を捉えようとした時だった。  
 
「ええ、私も待っていたわ。―――――この瞬間をね!!」  
 
「っ!?」  
 
ガシリと、その手首をエミリアが掴み取る。咄嗟の出来事に上体を起こすユイ。彼女が離脱するよりも早く、エミリアの唇が次なる句を刻んだ。  
 
「――――ラヴィーネッ!!」  
 
ガシャガシャガシャガシャァァァァッァ。  
 
空間を舐め尽す破砕音。砕け散る虹色のステンドグラス。美しい窓ガラスを突き破って全方位から殺到したのは光の矢だった。  
 
(――――――トラップ!?)  
 
礼拝堂に逃げ込む前に、エミリアが放っておいた無数の矢。  
木々の間に埋もれ、建物を取り囲むように配置されていたそれが、彼女の一言をスイッチに再起動。詠唱句通りに雪崩の如く、ユイ目掛けて襲い掛かったのだ。  
回避しようにも組み敷かれた体勢のままギリギリと手首に爪を食い込ませて来るエミリアがその動作を許さない。  
ユイは唯その灰色の瞳を見つめる。怒りと、哀しみと、僅かな同情の綯い交ぜになった視線が自分に投げかけられていた。そして。  
 
ザシュザシュザザザザザ――――――――ザシュッ。  
 
「え、………えみ…い…?」  
 
口の中に鉄の味が広がる。そこには全身を光の矢で貫かれたユイの姿。真っ赤な返り血が古びた床を染め上げ、エミリアの衣装まで黒々と濡らして行く。  
右手を離してやるとユイはフラフラと立ち上がり、床に転がる<ヘンゼル>と<グレーテル>を拾い上げ、糸の絡まったマリオネットのような足取りで後ずさって行く。  
大きな咳と共に、赤黒い塊が喉から吐き出された。その様子を視界の中央に納めながら身体を起こすエミリア。力の篭った両腕には、戦闘開始から片時も離さなかった彼女の相棒が握られている。  
 
「………う……あ……ぁ、がふっ。……え………、エ…みぃ…」  
 
「ユイ………。ごめんなさい」  
 
キリキリと張り詰める弦。それはかつての仲間への死刑宣告。  
 
「――――――――さようなら」  
 
別れの一言。放たれた矢は既にハリネズミのような姿になっているユイの胸板を貫いた。  
両手に漆黒の凶器を握り締めたまま、イエスの磔像を背に白目を剥き、膝から崩れ落ちる元天使。  
長い年月を掛け積もりに積もった埃が宙を舞い、ドサリという虚しい響きだけが悲しいほど高い天井に反響する。  
それを最後に、礼拝堂の中は再び静寂に包まれたのだった。  
 
♯  
 
「………………」  
 
エミリアは黙って弓を下ろす。勝利。これは果たしてそう呼んで良いのだろうか。  
そこには一仕事終えた安堵感も達成感も存在しない。在るのは胸に大穴を穿たれたような虚しさだけ。  
暫しの間、彼女は瞑目し、ただ独りこの空間に残された寂寥感に耐えていた。やがて震える灰色の瞳を開くと、エミリアは静かに信徒席の間を進んでいく。  
不思議と涙は流れなかった。自分は随分と強くなったものだと感慨に浸る。行く手に横たわる亡骸はカッと両目を見開き、拡散した瞳孔で天井を睨み付けたまま、目線だけで今も彼女を求めているようだった。  
エミリアは静かに膝を折り、暫くその死に顔を見つめた後、目蓋に優しく手を添え柔らかに閉じてやる。  
 
「おやすみなさい。………ユイ」  
 
かつて何度も掛けてやったその言葉を口にしエミリアは立ち上がった。  
まだ夜明けまでは幾許か時間がある。遺体はこのままでいいだろう。体内を循環する魔力が途切れればデスパイアの身体は分解が始まる。朝になればもう、ここには二振りの刃物が残っているだけ。それがきっと彼女の墓標なのだ。  
これで良かった。そう信ずる他に無い。家族の居ないユイ事を弔い、記憶しておいてやれる人間は、どの道もう自分しかいないのだから。  
 
そうしてエミリアがユイの傍から離れようとしたその刹那だった。彼女の耳は今日一番の凶報を拾う事になる。  
 
 
 
――――――――ピチャリ。  
 
 
 
「………………え?」  
 
水の音がした。足元からだ。視線を落とすとそこにはユイの身体から流れ出た鮮血。  
 
――――――――ピチャリ。  
 
白昼夢のような光景にエミリアの顔が凍りつく。真紅の水溜りを作っていた赤い液体は、あたかも自らの意思を持っているかのように床の上を這っていたのだ。  
信徒席の間から、壁際から、床下から………。ユイの身体から噴き出し広がっていた血液は、流れ出た時の映像を逆再生するかのように元来た道を辿っていく。  
 
「甘いよエミィ」  
 
ゾクリと背筋を走る悪寒。聞き馴れた声が耳元でした。振り向けばそこには真っ赤な唇。端から垂れた血がその上を滑り口の中へと帰って行く最中だった。  
 
「―――――――なッ!?」  
 
咄嗟にその身体を突き飛ばそうとする。だが、間に合わなかった。肩口に走る灼熱痛。首筋に熱い吐息が吹きかけられている。  
 
「………くッ!?あう……あ……、あぁッ!」  
 
斃した筈のユイがエミリアに組み付いている。その針のように細く鋭い彼女の牙は、エミリアの白いうなじに突き立てられていた。  
苦悶の声が天使の喉から搾り出される。そんな姿を嘲笑うかのようにズルズルと音を立て、流れ出た血液は今もユイの肉体へと帰還していく。  
 
「ごめんねエミィ。今のはちょっと心臓に悪かったかなァ?」  
 
ユイの唇が離れ、ようやくエミリアは開放された。彼女はよろめきながら後退し化け物の姿を視野に納める。  
信じ難い光景だった。眼前に佇むユイの衣服は所々が破られ、穴が開き、地肌が露出している。そこから顔を覗かせている傷口がズブズブと蠢き、自らを塞ごうと躍動しているのだ。  
再生。そんな生易しいレベルではない。これはもう“蘇生”と呼ぶべき現象ではないのだろうか。  
 
「へっへー。あれっくらいじゃ私は死なないよ?エミィのお嫁さんになるまではね」  
 
「ゆ……ユイ!あ、貴女っ………、一体!?」  
 
恐怖に攫われそうになる意志を奮い立たせ、エミリアは<クロイツァー>を構えようとする。だがその瞬間。  
 
「う!………くぅ!?」  
 
視界が揺れる。ガクリと折れるエミリアの身体。腰から引きずられるようにして、彼女は埃まみれの床に膝を付いていた。  
 
(ど、―――――――毒!?)  
 
全身の筋肉が言う事を利かない。立ち上がろうとしても下へ床へと身体は持っていかれる。この身が鉛の塊に化学変化したようだ。  
腕の力も抜けてダラリと肘が伸びる。<クロイツァー>を握り締める指までもが静かに緩み始めた。  
 
――――――――ガシャッ。  
 
手の平が開かれ、幾多の死線を共に潜り抜けて来た相棒が床に転がった。そしてエミリアの目の前にはもう一人の相棒。いや、元相棒。徐々に力を失っていく彼女の姿を心底嬉しそうに眺めている。  
 
「……………くッ」  
 
駄目だ。戦闘続行は不可能。逃げなくては。しかし身体はもう彼女のコントロール下に無い。残る力の全てを振り絞り、大きく一歩跳び退ろうとしたその時、ドサリと大きな音が礼拝堂に残響した。  
 
「……………!!」  
 
視界が反転する。目に飛び込んできたのは質素な装飾を施された古めかしい天蓋。そしてその下で満面の笑みを浮かべるユイの麗貌。仰向けになったエミリアのお腹の上に彼女は跨っていた。  
 
「………エミィ………」  
 
母親に甘えるような囁きと共に、彼女の笑顔が飛び込んでくる。吸い寄せられるようにうなじを撫でるユイの唇。鼻先はサラサラと、心地よい香りを放つエミリアの銀髪を掻き分けている。  
汗ばんだ肌の全てを包み込もうとする吐息が首筋に吹きかけられた。そしてユイの利き腕はエミリアの下半身へ。  
長い指はせわしなく運動し、漆黒のロングスカートを獲物の腰に繋ぎ止めるホックを探り当てた。  
 
「………エミィ………」  
 
もう一度、手にした戦利品を確認するかのようにユイが囁く。パチリと、月明かりの中、留め具の外れる音が響く。  
 
「――――――――大好きだよ」  
 
その一言に何か言い返そうとした瞬間、開きかけた彼女の唇はもうひとつの艶かしい唇によって奪われた。逃げ場を失った吐息が唾液の風船を作りながら唇の端から溢れ出る。  
 
分け入って来る舌の感触に、エミリアは自分が敗北した事を悟った。  
 
 
 
 
突然ですがここで悲しいお知らせです。  
昨日未明、サソリ型デスパイアとして有名なスコルピオン遠藤(仮名)氏が、頭部損壊のため搬送先のゴミ捨て場で亡くなられました。  
国際噛ませ犬委員会(IKC)の初代会長として精力的に活動して来た同氏の突然の訃報に、全米各地からは「………誰、それ?」など、その死を惜しむ声が上がり、一夜明けた今もワシントンは深い悲しみに包まれています。  
尚、氏の葬儀は近親者のみで執り行われるとの事です。以上、お昼のニュースでした。  
 
 
 

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