〜粉砕天使ナツメ 第三話 前編〜  
 
「ふ………ん、む……。はむ……、ふぅ……。美味しいよ、エミィ……」  
 
「く、くぅ………ッ!む、むぅ………、ふぐっ!!」  
 
パサリ。脚美線を包み隠していたスカートは力無く床に滑り落ちた。降り積ったばかりの雪のように白い太腿が勝者の前に差し出される。その遥か上方、口腔内部で展開される一方的な蹂躙戦。  
湿った空間のどこに逃げてもユイの舌はエミリアの味覚器官を捕まえて、軟体生物の交尾にも似た抱接を強要してくる。  
人間の舌とはこうも長く器用な物体であっただろうか。いや、今やその問いは無意味だ。彼女はもう人間ではないのだから。女の身体を貪るためなら如何なる不可能をも可能にしてみせる化け物。それがデスパイアだ。  
 
「ん…む……、むふ………、ぷはっ!」  
 
どれほどの間、互いの吐息と唾液を交換し合っていたのだろう。名残惜しげな銀の糸を引きながら、エミリアの唇はようやくその遊戯から開放された。  
呼吸を整える暇も無く、残された上半身の衣服にユイの両手が掛かる。喪服にも似た飾り気に乏しい衣装は滞りひとつ無く柔肌の上を滑り、その生地の下に秘匿していたスレンダーボディを公開した。  
胸元までたくし上げられたコスチュームが包み込んでいるのは、今や首筋と両腕のみ。残る全ては露出。  
邪魔者はランジェリーと言う名の無粋な布切れだけ。月明かりに照らされ白磁にも似た輝きを放つ皮膚とのコントラストがユイの心を躍らせる。  
 
「エミィ、前よりちょっとだけ大きくなったね」  
 
「う…く……、ゆ…ユイ……ッ」  
 
再び接近してくるユイの顔。鼻先が触れ合う距離まで迫った恍惚の笑みはエミリアの顎の下へと沈み視界からフェードアウト。  
今度の行き先は胸板。お目当ては慎ましやかに佇むエミリアのバスト。体温が感じられる程の至近距離でその膨らみをユイは網膜に焼き付ける。  
そして一通り鑑賞を済ませると、彼女はその浅い谷間に深々と顔を潜り込ませて来た。  
 
「ほぉら、やっぱりおっきくなってる。嬉しいなァ………」  
 
彼女はそう嘆息しながら左右に首を振り、たった一枚の防具越しにエミリアの香りを堪能する。  
そろそろこの下着も邪魔になって来た。ユイは自分の柔らかな頬をギュっと押し付ける。そしてそのままゆっくりと顔を上へ。それを何度も繰り返す内に、二つの柔肌にサンドイッチされたブラジャーは徐々に上へ上へと移動。  
丁度十回目ぐらいの挑戦だったろうか。乳房を覆っていたカップが遂に頭頂部の突起から外れる。そこから先は呆気なかった。  
下り坂を一遍に滑り降り、乳房を抑圧していた裁縫物は一気に鎖骨の辺りまで持ち上げられる。  
プルンと震えて解き放たれる母性の象徴。指一本使わずに、頬の摩擦力だけで暴かれたその先端は既に自己主張を始めていた。  
 
文字通り手持ち無沙汰だったユイの手はその間、エミリアの手の平を陥としに掛かる。  
アーチェリーグラブを器用に剥ぎ取り、頑なに閉じようとする指を一本一本こじ開け、痺れて抵抗できないその隙間に一本づつ、計五本の触覚器官を滑り込ませた。  
二人の手と手はシーツの上で絡み合う恋人のように密着し、体温を分かち合い、その存在を確かめ合う。  
 
「さぁて、お次はエミィ………」  
 
「………………く、くぅッ!!」  
 
エミリアの顔が屈辱に歪む。もう残すところは後一箇所のみだ。ユイの唇の隙間から、何かワインカラーの物体がチロチロと這い出てきた。血ではない。  
その正体を目の当たりにしたエミリアは、ようやく冒頭の一方的口腔戦のカラクリを悟ったのだ。  
 
―――――――蛇の舌。  
 
他に該当する項目が無い。ユイの口から伸びる真っ赤な味覚器官は先端が二股に分かれていた。  
リーチも尋常ではない。常人の腕の長さも軽く凌駕し尚も伸び続ける。その先端はゆっくりとエミリアの下半身へ。目指す先には白いフリルをあしらった紺色のショーツ。  
ヘソの真下を横断するゴムを先端で軽く押し上げ、ユイの舌はその内側へと滑り込んできた。  
 
「や…、やめな……さいっ!ユイ!やめ………っ!!」  
 
「ふむぅ、ちょっとキツイかなァ。もっとゆったりしたの履いた方がイイと思うよ?ほら、ゴムの跡ついちゃってるし」  
 
舌でエミリアの恥部をまさぐっているのにも関わらず、器用にもユイは流暢な発音で放し続けていた。  
表面の腺から分泌される唾液が紺色の生地を内側から黒々と染め上げる。上品な香水の香りには怪しい臭気が混じり始めていた。  
 
(だ、駄目……。お願いだから動いて!!)  
 
しかし身体は命令を受け付けない。床に縫い付けられたマネキン。或いは糸を別の主人に握られてしまったマリオネット。まさにそんな感じだ。  
クイクイと、下腹部で何かが引っ張られている。見ればそこには陥落寸前の砦。ユイの舌によって、エミリアのショーツが引き摺り下ろされて行く。  
 
「ちなみにエミィ、これって勝負パンツ?」  
 
全身全霊を振り絞り生み出された僅かな力で以って、エミリアは太腿を閉じようとした。しかし、そのささやかな抵抗が上げた戦果とくれば、落ちていく自分のショーツを裏返しにするという余りにも虚しい物であった。  
ユイの指摘する通りに窮屈であった空間から開放され、寝かされたまま押さえつけられていた茂みがゆっくりと、綿菓子のように膨らむ。上と同じく綺麗なプラチナブロンドだ。  
とてもこんな場所に生えている毛とは思えない。ユイがごくりと生唾を飲む。  
 
(な、何か……!何か手立ては……!!)  
 
距離にして1メートルにも満たない所に<クロイツァー>は転がっていた。だが、その僅かな隔たりでさえ今は大河の向こう岸よりも遠い。  
いっそ至近距離で魔力をオーバーロードさせてみるか。いや、そんな子供騙しを食らう相手ではないだろう。大体、こんなコンディションで成功するものか。  
助けも来ない。彼女が今夜ここにいる事を知る人間も皆無。万が一来訪者があるとすれば、前日の騒動で見回りを強化している警備員か、それに準じる学校関係者か。  
いずれにせよ、無用な犠牲者が増えてしまうだけだ。  
 
(万策………、尽きたか)  
 
ひゅん、とユイの舌が風を切る。足首から引き抜かれ、そこに絡め取られていたショーツは、無造作に放り投げられ宙を舞う。  
落っこちた場所は十字架の天辺。磔にされた救世主の頭に下着がパサリ。  
 
「じゃ、エミィ。―――――ボチボチいくよ?」  
 
「………………っ」  
 
手の平の温もりが離れる。ユイは両腕を交差させ自分の衣服に手を掛けた。いよいよ肌を重ねるつもりらしい。  
初っ端からデスパイア形態で襲われないだけでもマシだと受け止めるべきかもしれないが、どのみち行為がエスカレートすればそんな事は関係なくなるだろう。暴走したユイが止まらないことは以前思い知らされた。  
こうなった以上、覚悟を決めて耐えるか、空っぽな人形になって流されるか、それともいっそ受け入れてしまうか。決断しなくてはならない。なんて幅の無い選択だ。  
 
(ナツメ、………ごめんなさい)  
 
最後の最後で一番気掛かりなのはやはり彼女の身だった。ナツメはこれから一人きりでデスパイアと戦わなければならない。いや、その前にきっとエミリアのことを捜し回るのだろう。そして何時かは知ってしまう。エミリアはもう、帰って来ないのだと。  
その時、彼女はどうするだろうか。いっそ天使の責務を放棄してくれれば安心出来るのだが、残念ながらそんな子ではない。  
 
(マルーシャ。せめて、貴女がいてくれればね………)  
 
それも無理な願いだった。腐れ縁という言葉が最も相応しい友人は今、地球を半周近くした場所に居る筈だ。結局、最悪の選択を尽く積み重ねてしまった。  
これから始まる辱めは、恐らくそんな自分への罰なのかもしれない。不埒で厳かなペッティングは遂に凌辱へと移行する。  
 
―――――――くちゅ。  
 
「うあ……ッ!」  
 
二股に別れた舌が左右から挟み込むようにしてクリトリスを舐め上げた。めくるめく快感にエミリアの身が竦み、ユイの手に爪を食い込ませ、真っ赤な引っ掻き傷を創る。  
だが、その裂傷さえもユイの肉体はチョークの文字を黒板消しで撫でるように一瞬で再生して掻き消してしまう。そして………。  
 
―――――――ぐに………、ぐ、ぐ、ぐ。  
 
「や、待ってユイ!そ、そこは………!!」  
 
「えへへー。なんかヘンなトコロに入っちゃいそうだねぇ。エミィが引っ掻いたりするからだよー?」  
 
「………んな!?―――――――ひぐッ!!」  
 
―――――――ぐ、ぐ、ぐ………ぐちゅん。  
 
「いっ、……………嫌ぁぁぁぁぁぁあっ!!!」  
 
ユイの舌が貫いたのは後ろのすぼみ。エミリアのお尻だった。  
 
「ゆ、ゆ、ユイぃ!!お願い、後生だから抜いてぇっ!!い、痛い!痛いの!!」  
 
「だーめ。さっきの、お、か、え、し♪今夜は一晩かけてココを私とエミィの愛の証に昇華するんだから」  
 
「あぐ!!駄目っ!私そこ、だっ駄目!!お願いだから許して!許して、ユイ!!」  
 
「あーあー、暴れると擦れちゃうよ?いーからここはプロに任せなさいって。この日の為に他の女で何人も練習して来たんだし。ね?」  
 
入り込んだ異物を必死に締め出そうとするエミリアの括約筋が徐々に押し広げられていく。ズチュズチュという響きの間に、時折肛門を空気が通過する下品な音が混じった。  
絶叫に次ぐ絶叫で危険信号を発する声帯。だがエミリアの体で満足に機能するのはもう喉だけ。だから彼女は叫ばずに居られない。逃れられないと解っていても、虎に捕まった雌鹿は啼かずには居られないのだ。  
 
「あ、くぅぅ……。あぁ!ひぁぁぁあ……っ!!」  
 
狩る者と狩られる者は完全に逆転した。魔物を狩る猟師たる天使が今、化け物の首輪に繋がれている。  
あられもなく喚き散らすエミリア。その無様な姿はユイはちょっと不愉快だった。何かが違う。自分の欲しがっていたエミリアは、もっと甘く切ない声で懇願したハズだ。  
まあ、あれから大分経つ。長い戦いで少し荒んでいるのだろう。それなら自分が彼女を昔の気高くて可愛らしいエミリアに戻してやれば済む話だ。とりあえず、この喧しい口を塞いでしまおう。  
エミリアのアナルを嬲る舌を垂れ流したまま、ユイが自らの唇でエミリアの口腔を塞ごうとしたその瞬間だった。二人の前に、今夜第一の訪問者が現れたのである。  
 
 
 
バタァァァァァァァァア………ン。  
 
 
 
「―――――――え!?」  
 
「………ン?」  
 
轟音と共に開け放たれる礼拝堂の扉。エミリアは勿論、ユイもがそちらに首を回す。息を切らせて、その向こうに立ち尽くしていたのは一人の少女。大きく肩が上下する度に、背中まで伸びた綺麗な黒髪が闇にアーチを描き踊る。  
 
「………う、ウソ………」  
 
乱入者の正体はここに来る筈の無い人物。この街の守護者であるもう一人の天使。  
 
「―――――――ナツメ!?」  
 
♯  
 
真っ先に視界に飛び込んで来たのは荘厳な美しさのステンドグラス。吹き荒れた破壊の大渦に巻き込まれ半分以上が砕け散った今でも、当時の技術の粋を凝らした秀作はその輝きを失っていない。平時であればそれこそ見る者から一様に溜め息を奪った事だろう。  
 
だが、その神秘的芸術も数秒たりと彼女の視線を繋ぎ止めておく事は出来なかった。礼拝堂を満たす空気はその厳かな装飾とは相容れぬ背徳的な女の匂いに染まり切り、  
そしてナツメの瞳はその下で裸で寝かされている親友と、そこに馬乗りになっている少女に吸い寄せられていたからだ。  
 
「エミィちゃん!!」  
 
すぐさま彼女は右手を天蓋に届けとばかり振りかざし唱える。  
 
「エンジェライズ・クラッシャーレボリューション!!」  
 
闇を切り裂くまばゆい閃光と共にナツメの姿は一変。その輝きが引いた時、光の中から現れたのは純白の衣装に身を包み、巨大なスレッジハンマーを携えた一人の天使であった。  
 
「へぇー………、“エミィちゃん”ねぇ?」  
 
その姿を見咎めたユイは目を細め、肛門に挿し込んでいた舌をジュルリと回収すると、ドスの利いた声でエミリアの顔を覗き込んで来た。  
 
「エミィ……。あの子、だーれ?」  
 
不味い。確かに助けは来た。だが、それは同時に最悪の二人が顔を合わせてしまった事を意味する。一体誰がナツメを此処に?いや、とにかく今はそれどころではない。  
 
「エミィちゃんから離れなさいっ!!」  
 
そんなエミリアの気持ちも知らず、ナツメは怒りも露に宣言し既に臨戦態勢である。逆立った柳眉。食い縛られた歯がギリッと鳴る。こうなるともう万全な体勢のエミリアでさえ容易には止められない。  
 
「いーやーよ、って言ったら?」  
 
ユイの挑発。それに向かう返事は無かった。何故なら次の瞬間には、ナツメの身体は砲弾の様に弾け一直線に突っ込んでいたからだ。  
螺旋状の魔力を纏い高速で飛来する彼女は今やライフリングを施した砲身から打ち出される人間弾頭。  
この突撃に巻き込まれれば自動車だって一瞬でスクラップと化し紙屑のように宙を舞っていただろう。  
 
「でぇぇぇぇえ、やぁぁぁぁぁぁぁあッ!!!」  
 
礼拝堂全体に荒れ狂う竜巻。咆哮する魔力に全運動エネルギーを上乗せした横殴りの一撃が放たれる。  
インパクトの巻き添えを食らった周辺の信徒席は、ベキベキと床から引き剥がされ、木枯らしに攫われる落ち葉のように四散し壁に突き刺さった。  
だが、振り抜いた<フロムヘヴン>からは一切の手応えが伝わって来ない。  
 
「あらあら、タチの悪いケダモノが紛れ込んだものね。一体何処から脱走してきたのかしら」  
 
冷淡な罵声が演台の上から浴びせられる。つい先程までエミリアのお腹の上に跨っていたユイは軽々と飛び退り、空振りに終わった天使の姿を見下ろしていた。脱ぎかけた衣服のボタンを興醒めと言いいたげな態度で元に整えていく。  
 
「ねぇ、エミィ。この子誰って訊いてるんだけど?」  
 
軽い放心状態だったエミリアがハッと我に返る。なにせナツメの攻撃は、仰向けで寝かされている自分に馬乗りになっていた敵目掛けて放たれたのだ。流石に生きた心地がしなかった。  
ビル解体用の鉄球のような一撃が水平スイングで頭上を通過。ナツメの強烈な踏み込みが、頭のすぐ傍で床を打ち抜いた瞬間など、鼓膜が破けてもおかしくなかった。  
 
「大丈夫!?エミィちゃん!?」  
 
あまり大丈夫ではないが文句を言ってもいられない。僅かであれ時間を稼げたのは確かなのだから。しかし、エミリアはナツメに命じなければならない事がある。自分の身を思えば賢明とは言い難い決断だが、彼女をユイの毒牙に掛けさせる訳には行かない。  
 
「ナ、ナツメ………。私はいいから、早くここから逃げなさい………!」  
 
しかし、今日ばかりはお約束の戸惑いをナツメは見せなかった。  
 
「嫌!絶対嫌!!」  
 
断固拒否。まるでエミリアの言葉を予測済みであるかのように、梃子でも動かぬ装いでナツメは宣言する。その彼女らしからぬ強い語調にエミリアの心臓は小さく跳ねた。ナツメの怒りが、半分は自分に向けられている事を感じ取ったからだ。  
 
そうだった。ナツメに何ひとつ伝えず勝手に死地に赴いたのは他ならぬ自分だ。置いてけぼりを食ったナツメの心中は察するに余りある。そしてその心の乱れは、ユイを前にして致命的な隙を生み兼ねない。  
不味い。甚だ不味い。何とかして止めたい。だが、事態はそんなエミリアの都合など露ほども省みず進む。  
 
―――――――ヒュン。  
 
二人の間を割るようにして、一振りのナイフが床に突き刺さった。重装備に似合わぬ軽やかなステップで飛来物を避けるナツメ。  
その視線は既に友人を破廉恥な姿にした敵へと向けられている。  
 
「なかなか見せ付けてくれるじゃない。知らなかったわ。日本にもハイエナは棲んでいたのね」  
 
「………貴女がユイさんですか?」  
 
「さあ、どうかしら。役所にでも問い合わせてみたら?」  
 
ギリっとナツメは奥歯を噛む。  
 
(―――――――いけない。落ち着け、私!)  
 
ハンマーの柄を握り締めるか細い手には血管が浮いていた。  
 
「まったく、エミィも隅に置けないわね。私から逃げ回って何をしているかと思えば、こんな子と遊んじゃって。あらやだ、なんかムカムカしてきちゃった。胃薬ない?」  
 
おどけた語気とは対照的に、冷え切った二つの瞳孔がエミリアとナツメを貫いている。  
 
「……ユイさん、今日のところは引き下がって頂けませんか?」  
 
「そんなツレない事言わずにさぁ。ナツメちゃんだっけ?貴女が普段エミィと何してるのか、私にもじっくり教えてよ。お泊り会とかしてるんでしょ。ンでやっぱお揃いのパジャマとか。ね?」  
 
「退く気が無いなら黙って下さい。………じゃないとその顔、潰しますよ」  
 
「あらま物騒。で、どうやって?」  
 
無言のまま、ナツメは<フロムヘヴン>をジャキリと構える。  
 
「なーる。一人で出来るモン、ってヤツね」  
 
自分に射殺すような目線を投げかけて来る少女を、ユイは鼻でせせら笑う。黒く濁った瞳はもう何も映していない。右手に握り締められたマシェットが妖しい輝きを放ち始めた。  
 
「やめてユイ!ナツメは関係ないわ!!」  
 
「相変わらず嘘が下手ね、エミィ。どう見たって………―――――泥棒猫でしょうがアッ!!!」  
 
怒号と共に、ユイの立っていた床がゴシャッと陥没する。鋭く床を蹴った堕天使は一陣の風となり………。  
 
(………き、消えた!?)  
 
既にナツメの視界にいない。その直後、彼女の聴覚が拾ったのは、悲鳴にも似たエミリアの一声だった。  
 
「ナツメぇ!うしろッ!!」  
 
「………―――――え!?」  
 
日頃の訓練の賜物だった。条件反射で180度回頭し<フロムヘヴン>を突き出すナツメ。瞳を眩ます豪快な火花。間一髪の差で繰り出されたスレッジハンマーの柄は<ヘンゼル>の一閃を受け止めていた。  
すぐさま鍔迫り合いに持ち込もうとナツメは膝に力を込めたが、彼女の対応よりも早くユイの爪先は床を蹴り、その上体に強烈な右ハイキックを見舞う。  
 
「………きゃあッ!」  
 
埃を盛大に巻き上げ、純白のドレスに身を包んだ天使は無様に転がされる。体勢を立て直し頭を上げたその瞬間にはもう、ユイは眼前まで肉薄していた。  
脳の返事を待たず飛び退った身体を、マシェットの一閃が掠める。半秒遅れていれば、ナツメの両目は顔から引き剥がされていただろう。シャンプーの香りを残した前髪が数本、はらりと宙を舞った。  
そのまま次のバックステップを繰り出し、一旦仕切り直そうとするナツメ。だが、対する堕天使は僅かな勝機も逃さず、戦いの流れを我が物にせんと踏み込んで来る。  
 
(――――――は、疾い!!)  
 
鉄塊を振り上げたナツメの間合いをつむじ風の如く侵略。<フロムヘヴン>を打ち下ろそうとする彼女の腹部に、欠片たりとも容赦を宿さぬ掌底が叩き込まれた。  
 
「………あうっ!!」  
 
二度目の悲鳴をと共にナツメの身体は前回の倍近い速度で床に打ち付けられる。苦しい。危うく視界がブラックアウトしかけた。まるで肺の中を循環していた全ての気体が逆流したようだ。  
辛うじて意識を繋ぎ止めたナツメの前で、ユイは先刻投擲したナイフ<グレーテル>を退屈そうに床から引き抜く。  
 
「ハァ……、ハァ……、ハァ……、くっ!!」  
 
「あら、起きてたの?」  
 
「……ま、まだよ!これっくらいで、これっくらいで私は負けたりしないんだから!!」  
 
「ならどれっくらいで負けてくれるのかしら?」  
 
投げ掛けられる言葉を無視し、大きく床を蹴るナツメ。ミドルレンジから一気に間合いを詰め、今度はゴルフスイングのように<フロムヘブン>を打ち上げたのだ。当然の如く後退し、唸るモンスターウェポンを脇目で見送るユイ。だが、そこでナツメは更に一歩踏み込む。  
 
「ぜやぁぁぁぁぁあッ!!」  
 
振り抜いたハンマーが豪快に蒸気を噴き出し主人と共に咆哮。単発で仕留められないならば連撃で。一発目のスイングの最高到達点から、流星の如くその怪物は打ち下ろされた。  
 
 
 
ズズゥゥゥゥゥゥゥウ………ン。  
 
 
 
だが、床に大穴を空けたインパクト地点に、敵の姿は既に無い。  
 
「マニュアル戦術ね。衣装通りのオメデタちゃん」  
 
「――――――っ!?」  
 
「遅いッ!!」  
 
世界がフラッシュバックした。前髪が触れ合うような至近距離から放たれたのは、恐らく肘鉄。もう確証は無かった。ナツメはただ倒れ込みながら、これだけの衝撃を受けても内容物を引っ繰り返さなかった消化器官に感謝する。  
精神の叱咤激励も用を為さず崩れ落ちる身体。必死の思いで突いた片膝も、その身を支えるには至らなかった。  
 
遠い。遠過ぎる。一体何なのだ、この差は。  
 
靄の掛かった思考に、コンビネーションのピリオドが打ち下ろされる。ユイの踵だ。  
脳裏を掠めるのは既に前日になっているマルーシャとの会話。  
 
 
 
“――――――アンタとユイじゃ勝負にならない。実力キャリア共に差が有り過ぎる”  
 
 
 
その言葉に描かれていた未来図を、ナツメは後頭部への衝撃と共に味わった。  
 
♯  
 
「な……、ナツメ……」  
 
さながらオセロゲームのように、クロスレンジで踊り乱れる白黒の天使たちを、エミリアはただ眺めている事しか出来ずにいた。勝負の行方は火を見るよりも明らかだ。ボードの上は黒一色で埋め尽くされようとしている。  
打撃ばかりだったユイの攻撃に、徐々に斬撃が混じり始めた。フィニッシュが近い。左右の刃物が交錯し唸るたびに、ナツメの纏う純白のコスチュームが少しづつ切り裂かれていく。  
 
エミリアには分かる。ナツメにはユイの動きが全く見えていない。いや、そもそも彼女を人間の動体視力で追いかけろと言うのが無理な注文なのだ。  
電光石火の堕天使を唯一補足できる物はレーダーでも光学探査装置でもない。そう、魔力の流れだ。  
そして、その芸当が今のナツメに期待出来ない事もエミリアには解っている。それこそが今のナツメに一番欠落している要素、つまり経験によって養われる力だからだ。  
 
「………く」  
 
全身を冒す毒は今なおエミリアを支配して放そうとしない。全力で中和を試みているが、敵もさるもの。この状態で身動きを取るのは容易ではない。  
だが、後輩が殺されそうになっている時、裸で転がされていましたなんて、そこまで無様な天使には成り下るのは真っ平ご免だ。  
 
最悪の場合、自分はこの事態の責任を取らなければならない。つまりそれは、仲間を救う為に進んでユイにその身を委ねるという事を意味する。ナツメは絶対に良しとしないだろうが、どの道、事がそこまで至る頃には彼女の意識はあるまい。  
 
だがその前にひとつ、ひとつだけやっておかなけらばならない事がある。  
 
震えながらも辛うじて機能する両腕を酷使し、彼女は床の上を蝸牛のように這い進む。剥き出しの肌にこびり付く煤けた粉塵さえも、エミリアの意思を削ぐ事は出来ない。彼女の目指す先はその先の一点。そう、相棒<クロイツァー>の転がる場所。  
 
一矢報いる。そう、文字通り一矢だ。  
 
「―――――――あうッ!!」  
 
ナツメの悲鳴。重たい物が転がる音。残されている時間はもう少ない。震える指先がありったけの力を込め、埃まみれの床にその存在を刻み込む。  
総ての迷いをかなぐり捨て、波に洗われた思考の浜辺に取り残されたのは、たった一つの疑問だった。  
 
(そう言えば………、ナツメはなぜユイの名を?)  
 
♯  
 
第一印象通り、嫌な娘だ。  
 
これだけ打ち込んでも、まだ立ち上がる。原子炉でも積んでいるのか、こいつは。  
ナツメとか言う天使は明らかに疲弊している。現に呼吸は今すぐ落ちても不自然でないほど荒い。だが、その奥で確かに脈打つ不可視の鼓動。  
そう、魔力の方は戦闘開始から全くと言って良いほど磨り減っていない。実に化け物じみたキャパシティ。  
一撃入れる度に、内部から反発するような恐ろしい感触が跳ね返ってくる。まるで巨大なダムでも蹴飛ばしているようだ。  
 
無駄にデカイ金槌の柄をナイフで捉え、ガラ空きになった脇腹に膝蹴りを見舞い、本日これで七度目のダウンを奪う。  
だがやはり敵は立ち上がる。そしてその瞳には一切の迷いが無い。  
大振りな攻撃。創意工夫に乏しい組み立て。戦場を選ばない浅はかさ。どれをとってもド素人。丸裸のルーキーだ。  
だが、コイツはひとつだけ心得がある。そう、諦めこそが人を殺すという事を知っている。生死の境は既に経験済みと言う事か。  
 
率直に言う。危険だ。  
 
この娘の攻撃力は凄まじいが、幸いにも技量の方はユイに命中させるに程遠い。だが、もしもの話。この雷神トールの鉄槌にも似た一撃がユイに届くレベルまで完成されたとしたら―――――――。  
 
殺す。ここで殺して置くに限る。ヒナ鳥はいつまでもヒナ鳥ではない。どの道このまま放って置けば、このナツメとやらは、かつてユイが居たポジションを完全に自分の物にしてしまうだろう。  
現に先程のやり取りを見れば、彼女が既にエミリアの中で相当なウエイトを占めている事は疑う余地が無い。そうだ。翼をもぐなら今しかない。  
 
(―――――――来た)  
 
突進からの一撃。今度は横スイングか。いやはやレパートリーに乏しいシェフだ。ボクサーよろしく軽く上体を反らすだけで、暴風はユイの身体を寸分も掠める事無く通過していく。  
それでは決めるとしよう。狙うは左の首筋。攻撃は<グレーテル>。ついでに<ヘンゼル>で鳩尾から心臓を一撃しておくか。念は入れるに限る。  
 
(さあナツメ、サヨナラだ)  
 
だが、会心の笑みと共に振りぬかれる筈だった一撃はその道半ばで止まる。  
 
―――――――ガキィィィィィイン。  
 
「………っ!?」  
 
彼女の想い人、エミリアの手で放たれた希望の光によって。  
 
♯  
 
ドサリと、渾身の一撃を最後に<クロイツァー>を握り締めたままエミリアは崩れ落ちる。続いて床に突っ込んだのは漆黒のナイフ。二人の戦いより遥かに離れた位置に、勢い良く回転しながらそれは突き刺さった。  
 
「―――――――ちっ!」  
 
彼女は焦らない。右手にはまだ<ヘンゼル>が残されている。だが、いささか大きな隙を作りすぎたか。目の前のナツメは体勢を整え終え、先刻の一撃とは逆方向に<フロムヘヴン>を振り抜こうとしている。  
幾多の死線を潜り抜けて来た思考は、この窮地に於いてもその活性を上げも落としもしない。ただ冷静に、一歩退けとユイに命じる。しかし………、  
 
――――――今度ばかりは少々、それが仇となった。  
 
「………!!!」  
 
一歩飛び退こうとした所で、ユイの身体はガクンと床に引きずられた。足元に目を遣ればそこには光の矢。先刻、ナイフと相打ちで弾き飛ばした<クロイツァー>からの一撃。  
狩人の手綱から放たれた猟犬が舞い戻り、ユイのロングスカートを貫通し、打たれた釘のようにその身を床に繋ぎ止めていたのだ。  
堕天使はすぐさま、<ヘンゼル>でエミリアから奪った思い出の品を切り裂こうとする。だが、彼女は認識してしまった。今まさにその身に襲い掛かる、天も驚かせ地も動かす殺気の塊を。  
 
「―――――――いッ、けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえっ!!!」  
 
荒れ狂う魔力との摩擦でプラズマ化した大気が、<フロムヘヴン>に白亜の輝きを纏わせる。最高到達点から一気に打ち下ろされたその軌跡は、逆放物線を描いて急上昇。振り抜かれた破壊の女神が向かう先はユイの頭部、その顎の突端。そして……!  
 
 
 
―――――――ゴシャァァァア。  
 
 
 
命中。真下から天高く標的を打ち上げる一撃<ズムウォルト>。ユイの身体は重力が逆転したかのように天井へと激突。無数の破片と共に壊れた玩具となってそのまま落下。  
聴覚を狂わせそうな轟音と共に床板を打ち抜き、瓦礫と一緒に、礼拝堂にぽっかりと空いた深淵へと消えて行った。  
 
♯  
 
(……………や、……殺ったの!?)  
 
エミリアは見てしまった。天井高く打ち上げられたユイの顔が、丸めた雑巾のように潰れていたのを。落下していく彼女の身体が、解剖されたラットのようにバラバラになるのを。  
如何に再生能力に長けているとはいえ、これでは流石に一巻の終わり。お陀仏だ。  
カランと、金属音が礼拝堂に響き渡った。音の主は一振りの刃。ユイの武器、マシェットの<ヘンゼル>。  
 
パラパラと、大小の破片が降り注ぐ中、ナツメはただ立ち尽くしていた。天井の穴から降り注ぐ月光が、まるでスポットライトのように勝者を照らし祝福している。  
 
「………………………………」  
 
彼女は無言だった。荒ぶる呼吸が凪いだ後も、ナツメは唯の一言も発しない。まるで魂の抜けた人形のように、彼女はその場から動こうとしなかったのだ。  
 
「………ナツメ?」  
 
覚束ない足取りで、ヨタヨタとその傍らに歩み寄るエミリア。返事は無い。ナツメはただ呆けた顔で、自らの一撃がもたらした大穴を見つめている。  
 
「ナツメ!どうしたのナツメ!?しっかりしなさい!!」  
 
エミリアが肩を揺すると、ナツメの顔はようやく表情と呼べる物を取り戻す。  
 
「エミィ………ちゃん…。私……」  
 
だが、その焦点定まらぬ瞳にはエミリアは映っていなかった。ナツメの頭の中では、数瞬前の光景が何度も何度も繰り返されていたからだ。そう、それはユイの顔。眼下に迫る死に、凍りついた少女の美貌。そして、それが砕かれる瞬間。  
 
「私……、わたし………」  
 
瞳は完全に宙を泳いでいた。壊れたテープレコーダーは同じフレーズを繰り返す。そしてその締めくくりの一言は、  
 
「わたし―――――――、ユイさん、……………殺しちゃった」  
 
ガタガタと震えながら、その一言を搾り出したナツメの姿に、ようやくエミリアは自分が取り返しのつかない過ちを犯した事を悟った。  
目の前が真っ暗になる。己の無力さが生み出した咎を、業を、罪を、すべて残らず後輩に押し付けてしまったのだ。  
今までナツメが相手にしてきた化け物たちとは何もかもが違う。そう、ユイは、――――――ユイはヒトそのものだった。  
 
「な、ナツメ……っ!いい、とにかく落ち着いて!!」  
 
「だって……、だって……ッ!!」  
 
精神の消耗に堪え切れずブレーカーが作動。ナツメはそのまま床にへたり込む。  
彼女にはエミリアのような覚悟があった訳ではない。ユイの存在だって、数時間前に知ったばかりだ。そして、友人を助けようと死に物狂いで戦い、結果、圧倒的な実力差を引っ繰り返し奇蹟的な勝利を拾った。  
確かに潰すとは言った。けど、本気でそうしたかったワケじゃない。あの時はただ、エミリアに酷い事をする彼女が許せなっただけなのだ。  
 
「御免なさい、ナツメ。一番馬鹿だったのは私。もう、許してなんて言わない。だからお願い!今は気を確かに持って!」  
 
「う………、ひっく……。エミィちゃん………、私、どうしたらいいの?……ひっく、……ねぇ?」  
 
「彼女は人間じゃない。デスパイアよ。本当なら、私が倒さなければならなかった相手なの」  
 
「でも、でも………!」  
 
ナツメの身体を抱き締めるエミリア。その一糸纏わぬ背中に細い指が力一杯食い込んだ。少し痛い。  
純白な天使は未だ震えている。こうして抱き止めていなければ、このまま消え入ってしまいそうなか弱さだった。そしてその穢れ無き魂に、血糊を塗りたくったのは他でも無い自分。  
一体どれほど、自分を責めればいいのかエミリアは分からない。ただ、底なし沼のような後悔に耐えながら、互いの温もりを拾い合うように、彼女はナツメを包み込んでいた。  
 
この時既に、二人はこの場から逃げおおせる最後のチャンスを浪費していた事など、互いに知る由も無かったのだ。  
 
♯  
 
「………どう、落ち着いた?」  
 
「うん………」  
 
月は動き礼拝堂の中には抱き合う二人の影が伸びる。ようやく平静を取り戻し、少々気恥ずかしい思いを抱いたナツメは、エミリアの胸から離れて行った。  
泣き腫らした目蓋が少し滑稽だ。出会って以来、何時もこんな調子の繰り返しのような気がする。  
 
「ごめんなさい。取り乱しちゃって」  
 
「いいのよ。今度ばかりは本当に………私の落ち度だから………」  
 
あまりナツメに見せた事の無い伏し目がちな表情でエミリアは言葉を綴る。  
 
「ユイのこと、一体誰から聞いたの?」  
 
「え、あ、うん。その……………、マルーシャさんから」  
 
「マルー!?彼女、日本に来てるの!?」  
 
意外な人物の突飛な登場にエミリアは驚く。いや、確かに彼女は毎度毎度唐突に現れる女だが、まさかこのタイミングでナツメの口からその名を聞くとは夢想だにしていなかった。  
 
「来てるって言うか………、つい昼間、ガス灯通りの喫茶店で一緒にお茶して、それで色々話して………」  
 
例の有害図書をもう一冊押し付けられそうになった事には敢えて言及しない。  
 
「たぶん、時間的にそろそろここに来ると思うけど……」  
 
「まったく、何考えてるのかしらあの子!ナツメをけしかけるなんて!!」  
 
顔にも声にも怒気を隠さず、エミリアが唸る。その様子にナツメは少したじろぎながらも、正直に告白する事にした。  
 
「それも……ごめんなさい。マルーシャさんにもダメだって言われたんだけど、私が無理言ってゴネて、しつこく食い下がって、それでとうとうマルーシャさんも溜め息混じりに折れて………」  
 
「それにしたって無茶があるわ。大体、新人の扱いに一番ウルサイのは彼女なのに。何考えてるのかしら!もうっ………!」  
 
「……………」  
 
自分の所為で昼間の女性がどんどん悪しざまに言われていくこの状況。罪悪感のあまりナツメはただ小さくなる。今度ばかりは我侭が過ぎた。  
でも、エミリアだって悪い。何も告げずにとんでもない相手と一人で戦って。現に自分が駆けつけた時、既にアウトだったではないか。他にも言ってやりたい事が色々あったのだが、ようやく訪れた安堵の為か咄嗟に出てこない。  
 
「まぁ、いいわ。………とにかく、ユイの事は一度私の口から説明しておくから、とりあえず今はここから離れましょ」  
 
彼女の言う通りだ。市の指定文化財を見る影もなく破壊してしまった。  
戦闘中の公共物への被害は、デスパイア撃退最優先の方針と緊急避難的な要素もあって、多少は大目に見るのが暗黙の了解なのだが、今回の一件はどう贔屓目に構えても私闘の色合いが強い。  
清く正しくズラかるなら今の内だ。  
一旦話に蹴りをつけ、エミリアはその場から立ち上がろうとして――――――、  
 
「え、エミィちゃん!?」  
 
再び床に崩れ落ちた。  
 
「………ごめん。ユイにやられた毒がまだ残ってるの」  
 
「待って、今肩貸すから!」  
 
ナツメはエミリアの身体を支えようとして………。  
 
「………………」  
 
支えようとして、固まっていた。  
 
「………何?」  
 
私の顔に何かついているの?とでも言いたげな表情のエミリア。いや、確かに何も付いていない。何も付いていないどころか……、  
 
「エミィちゃん、すっぽんぽん………」  
 
「―――――――!!!」  
 
二人ともすっかり忘れていた。我に返り、慌てて胸を隠すエミリア。メラニン色素に乏しい淡いピンクの突起が、ようやくナツメの視界から消える。  
 
「さ、ささ、先に言いなさいよッ!!」  
 
「いやフツー自分で……、って言うか何で気にならなかったんだろ?」  
 
「………まさかナツメまで変な気起こした訳じゃ無いでしょうね」  
 
「な、そんな!わ、私はただ……ッ!し、しかも、何その言い草!そもそも私、エミィちゃんのこと助けに来たのに……!!」  
 
「冗談よ。迷惑掛け放題で悪いけど、私の服、集めて来てくれる?まだ良く動けないから」  
 
「え、あ、……うん」  
 
少々歯切れの悪い返事をして、礼拝堂の中を散策しだすナツメ。さはど間を置かず、上下バラバラになったコスチュームをそれぞれ聖歌隊席と信徒席から発見。一瞬、頭にモクモク浮かんだエミリアが脱がされていく図を打ち払い、アーチェリーグラブを回収。  
ブラジャーは………、既にエミリアが持っていた。そして最後の下着一枚は、  
 
「……………どこだろ?」  
 
「正面よ」  
 
床板に空いた大穴の向こう。磔像の上に置かれている。これではイエス様も形無しだ。  
 
「……………」  
 
「どうしたの?」  
 
その穴の前で歩みを止めたナツメに後ろからエミリアの声が掛かる。  
 
「うん、ただ。………ちょっとね」  
 
返って来た音色はこの上なく寂しげだった。蚊の鳴くような声。そんな例え方がピッタリだ。  
 
「ユイさん、結局、悲しい人だったんだなぁ………って。斃した私が言っても、説得力無いかもしれないけど」  
 
「……………」  
 
振り向いたナツメの顔。そこにある力の無い笑みは、相当無理をして作られたマスクに違いない。少しでも小突けば音を立てて崩れ、その下に隠した泣き顔が暴かれてしまいそうだ。  
 
「ねぇ?」  
 
「何?」  
 
「エミィちゃんはユイさんのこと、どう思ってたの?」  
 
口走ってしまった事を後悔させる痛々しい沈黙がその場を支配する。それでも、それでもナツメは、これだけは確認して置きたかった。そうでないと、ユイが余りにも不憫過ぎる。  
 
「……………仲間よ」  
 
暫く間を置いてエミリアは言った。  
 
「掛け替えの無い、互いに背中を預け合った、本物の仲間。マルーだってそう。昔の私は信じていたの。私たち三人は運命に引き逢わされた仲間で、これからも、その先も、ずっと一緒なんだって。そして、今となってはそれがもう叶わぬ望みだという事も、ね」  
 
そう言葉を結び、彼女は大きく息をついた。  
 
「そう………なんだ」  
 
ナツメは顔を俯けて唇を噛む。自分が期待していたのはそんな言葉じゃない。せめて一言“好きだった”と。そう彼女に、ユイに言ってやって欲しかったのだが………。  
いや。それもきっと、自分の罪悪感を濁すためのエゴなのだ。エミリアの思い出の中に立ち入る資格はナツメには無い。二人を隔てる僅かに見えて遠い距離は、そのまま天使として戦ってきた歳月の違いでもあるのだ。  
 
今夜は本当に、色々あり過ぎた。ナツメとエミリア。表面的には何事も無く、互いに友達として、戦友として認め合っていた二人の間に眠る大きな溝を、その気もなしに掘り起こしてしまったのだから。  
 
伏せていた顔を持ち上げ、耐え切れず逸らしていた視線をエミリアに戻す。あまり話し込んでも居られない。何はともあれここから引き揚げるため一歩踏み出したその時だった。  
 
 
 
「私はいつまでだって一緒にいてあげるわよ。貴女が望みさえすればね、エミィ………」  
 
 
 
聞く者全ての心臓を凍らせるような響きが、礼拝堂に木霊した。  
 
♯  
 
一歩。また一歩。振り返ったナツメが後ずさる。  
 
「あ……あ…、う、……うそ…」  
 
その唇は完全に青ざめ、紡がれる言葉もまた意味を成さない。ただひたすら、目の前の現実を否定しよう無駄な努力を繰り返す。  
 
「冗談……でしょ……」  
 
エミリアも一緒だ。背後から聞こえる驚愕の声は、ナツメが目にしている光景が幻影の類ではない事の証明だ。  
 
ペキペキペキ―――――――ベキリ。  
 
湿った小枝を踏み砕くような音。その響きの主はズタズタになった黒衣を纏い、ゆっくりとその身を大穴から起こす。  
 
ペキペキペキ―――――――ベキリ。  
 
ズルズルと地を這う血液の群れ。渾身の一撃に砕かれた頭蓋が気色の悪い響きと共に、まるで立体パズルのピースの如く噛み合わさり、元の形状を修復していく。  
普通の人間ならば、直前に胃に収めたメニューを残らず床に撒けていただろう。  
 
「……あ………あぁ………」  
 
たった二人の観衆は恐怖のあまり、瞬きする事も忘れている。手品で特撮でもない現実。裂かれたザクロのように、原形を留めないほど砕かれていたユイの頭がベキベキと音を立てその冷たい微笑を再構築。  
最後に一度、内側からパキリと、復元完了を告げる断片が鳴り響き、彼女の頭蓋はその姿を取り戻した。  
 
「ふう〜。あー痛かった」  
 
具合を確かめるように軽く頭を回すとコキリと首が鳴る。  
 
「まったく、危うく走馬灯が走り掛けたわ。そりゃもう凱旋門賞クラスのヤツがね」  
 
「ユ、ユイさん……。貴女、って一体………なん……なんです……」  
 
ナツメは完全に呑まれていた。エミリアの助けを借りて半ば奇跡に近い形でヒットさせた必殺技が、目の前の相手には全く通じなかったのだ。  
圧倒的な実力差以上に、絶望的な高さの壁がユイとの間に存在している。その事は最早疑う術がなかった。  
 
「何、ですって?フフフ………、私は何にだってなって見せるわよ。貴女からエミィを取り戻す為なら」  
 
忌々しげに吐き捨てるユイの顔に凄惨な笑みが広がっていく。  
 
「………そう、例えばこんなのにだってね」  
 
そしてユイは―――――――、  
 
 
 
………パサリ。  
 
 
 
「え、あ…、ちょっ、ちょっとユイさん!?」  
 
そしてユイは、なんと二人の見ている前で服を脱ぎ始めた。余りの脈絡の無さに慌てたナツメが素っ頓狂な声を張り上げる。  
 
「ウルサイわね。いいから黙って見てなさい」  
 
「い、いや。私、そ、そんな趣味ありませんってば!!」  
 
抗議するナツメの目の前でスカートを放り投げ、美しい脚のラインを腰から撫で下ろすようにしてショーツを取り払うユイ。呆気に取られるナツメの前に、闘いの傷一つ残さない完璧なプロポーションを惜しげもなく曝け出す。  
やっぱり頭に入ったのはマズかったか。繰り広げられるストリップショーに困惑するナツメの脳内は、そんな後悔が駆け巡っていた。しかし、  
 
(ま……マズイいわ……!!)  
 
その背に庇われるようにして膝を着いていたエミリアは奥歯を噛み締める。間違いない。ユイは解き放つつもりだ。他でも無い、連中の力を。  
 
「さァて………、それじゃあ始めましょうか」  
 
「―――――――え?」  
 
 
 
………ベキリ。  
 
 
 
「ユイ………さん…」  
 
 
 
ベキベキベキ………ズチュ、ボコボコボコ………。  
 
 
 
突如崩壊を始める美しき肢体。熟れた果実が裂けるように、蚯蚓の群れが大地を浸蝕するように、白き肌を突き破って現れた無数の繊維が互いに絡み合い、膨張し、癒合し、少女の仮面を剥ぎ取っていく。  
肩甲骨の辺りを吹き飛ばして伸びてゆくのは堕天使の翼。否、翼を象った六対の長大な触手だ。そして肥大した前腕部を食い破り、五本の新たな指が出現。その先端には日本刀のように浅く反り返った鉤爪があしらわれる。  
癒着して溶け合い一本の巨大な肉の柱となった両脚は、空間を喰らい尽くす黴の様な勢いで伸長。全ての異変が完了した刻、そこに佇んでいたのは紛れも無い―――――――。  
 
「―――――――デス……パイア!!」  
 
そう………。人類の、いや、天使の宿敵であった。  
 
♯  
 
上半身は人間の女。そして下半身は大蛇の胴。ナーガ、エキドナ、メデューサ。例えるならばそんな神話上の怪物。  
暗緑色の肌を串刺しにし全身の所々から飛び出す鋭利な突起。ナツメの身の丈ほどもある巨大な腕には如何なる肉食獣のそれをも上回る殺傷能力を秘めたクロー。  
その背後で蠢く十二本の触手は、獲物に躍り掛かる瞬間を今か今かと待ち侘び蠢いている。  
 
「――――――ナツメ」  
 
「――――――エミィちゃん」  
 
二人はほぼ同時に互いの名を呼び合った。ナツメは目線でエミリアに言葉の続きを促す。彼女なら、かつてこの化け物と一戦交えたエミリアなら、何らかの対処法を心得ているのではないかと微かな期待を込めて。  
 
「ここまでよナツメ。………逃げなさい」  
 
残念な事に、エミリアの言葉はその僅かな望みも裏切ってくれた。  
 
「………無理だよ」  
 
「ナツメ!!」  
 
「いや、エミィちゃんを置いて行けないってのも勿論だけど………」  
 
語尾が濁る。それでもナツメの言わんとする事は十分過ぎるほど伝わっていた。そう、逃げるも何も、“彼女”が逃がしてくれるハズが無い、と。エミリアも苦い表情で黙り込む。  
 
「………さて、と」  
 
二人の会話が絶望的閉塞に終った頃合を見計らって、ユイが口を開く。何もかもが変わり果てたこの姿で、声だけがそっくりそのまま彼女の原形を留めている。  
 
「案外燃費が悪いのよね、この格好。さっさと終わりにしてあげるから、かかってらっしゃいな」  
 
メキメキと床を軋ませ、ユイ、いや、サーペンタインがその身を起こす。その頭部は地上数メートル、天井の梁ギリギリの高さに。胴体まで入れれば全長はどれ程になるのか見当がつかない。  
 
「くっ!!」  
 
思わず一歩退きかけた脚を内なる叱咤の末に踏み止め、ナツメはスレッジハンマーを構える。だが、状況は正に蛇に睨まれた蛙そのもの。必死になって震えを堪える膝はその様を如実に物語っている。  
 
(――――――でも!)  
 
ここで負けたら、何もかもが無駄になってしまう。天使になってからの月日も、今までの戦いも、エミリアと共に過ごして来た時間も、何もかもが否定され、呑み干され霧散してしまう。  
 
(………そんなの!そんなのは絶対に嫌!!)  
 
そうだ。迷っている暇は無い。殺るか、犯られるか。天使の転がすダイスの目はたった二種類だけ。  
左肩を突き出し、遥か頭上に位置する敵の瞳を見据え、相棒の破壊神をフルドロー。幸いにもここまで化け物然とした姿で立ちはだかられれば、もう先程のような良心の呵責も湧いてこない。  
敵がこの巨体で一体どれほどの速さで動くのか、問題はそこだ。少なくとも、人間大の姿だった時点に比べれば的は確実に大きくなっている。攻めるならまずはそこから――――――。  
 
「………ナツメ、もういいわ」  
 
「え!?」  
 
必死で作戦―――と呼べるほど緻密なものではなかったが―――を組み立てていた思考は、一糸纏わぬ姿のまま、ナツメとデスパイアの間に割って入るように立ち尽くしたエミリアによって、そこで中断されてしまった。  
 
「ユイ、悔しいけど今の私たち二人には、貴女を退けられるだけの力は残っていないわ。だから………、取引よ」  
 
「エミィちゃん!どうしてッ!?」  
 
「貴女は黙ってて!!」  
 
強烈な語気で制され、ただ息を呑むナツメ。そんな彼女を振り返る事も無くエミリアは続ける。  
 
「私を………抱いていいわ。もう抵抗はしない。貴女の好きにすればいい。その代わり、ナツメは見逃して頂戴」  
 
♯  
 
粉砕天使の瞳が、目蓋を引っ繰り返さんばかりに見開かれた。頭の中は今エミリアの口から流れ出た文章がエンドレスで駆け巡る。  
目の前の友人は、一体何を言っているのか。その一言が、誰を一番傷付けるのか解っているのか。好きにすればいいなんて、そんな言葉で庇われる人間の身になった事があるのか。  
 
「エミィちゃん」  
 
「……………」  
 
「取り消して。じゃないと私、………本気で怒るよ」  
 
返事は無かった。無言のまま立ちはだかるエミリアの背中は、何もかも覚悟した人間の物だ。前言が撤回される気配は無い。  
 
(何で………、何でよ……)  
 
なぜ、友達一人守り通す事が出来ない。何の為に私は天使になったんだ。  
全身の血が煮え滾るような悔しさ。不思議と涙は出ない。ただ憎い。他でも無い、自分の弱さが。  
 
「フフフ………」  
 
三日月型に裂けたサーペンタインの唇から笑みが零れる。  
 
「嬉しいわァ、エミィ。ようやくその気になってくれたのね」  
 
「………………」  
 
ペタリと床を撫でる素足の音。エミリアが黙ってデスパイアに向かい一歩踏み出す。  
行ってしまう。本当に行ってしまう。絶対に守らなければ、いや例え今は無理でも、いつかはきっと守れるだけの力を手に入れて見せる。そう胸に誓った彼女の背中がナツメから遠ざかって行く。  
何もかもが、ここで終わってしまう。そうナツメが絶望に飲まれ掛けた正にその瞬間だった。  
 
「………――――――でもね」  
 
ブンッと、巨大な物体が風を切る。  
 
「――――――うぐッ!!」  
 
何が起こったのか分からなかった。  
 
悲鳴。彼女の脇腹を打ち据えたのは大蛇の胴体。続いて宙を舞った裸の少女。  
極太の丸太を叩きつけられたエミリアは礼拝堂の壁に打ち据えられ、そのまま小さな呻きを一声残し、遂に動かなくなった。  
 
「え、え、エミィちゃんッ!!なっ、………なんで!?」  
 
「エミィの提案も中々魅力的だけどさ。悪いけど私、もう決めたのよ」  
 
金色に輝く化け物の双瞳。既に人間の光を失い、爬虫類めいた貪欲さを宿す視覚装置が捉えているの標的はもうエミリアではなかった。その視線が貫くのは、遥か下界で一瞬の出来事に目を奪われている純白の天使。そう、ナツメだ。  
 
「ようやく判ったわ。エミィの心は今、貴女の許にある。だからね………」  
 
月明りの下、振り上げられる巨大な右腕。  
 
「まずはナツメ、貴女からメチャメチャにしてあげるのよッ!!!」  
 
「………………!!」  
 
 
 
ズズゥゥゥゥゥン。  
 
 
 
深々と床板を打ち抜く豪腕。直撃寸前でナツメは跳躍し空中に退避。そのまま加速を付け、怪物の上体に<フロムヘヴン>を叩きつけようとした所で――――――、  
 
「………っ!?きゃあッ!!」  
 
撥ね飛ばされ、柱に叩きつけられた。エミリアを攻撃した長大な胴が、還り際の逆スイングで空中のナツメを薙ぎ払ったのだ。  
 
「く、くぅぅぅう………!」  
 
パラパラと肩から建材の破片を落っことしながら立ち上げる天使。強烈な直撃を受けた二の腕は一瞬感覚が吹っ飛んでしまった。間を置いて徐々に広がる苦痛に顔を歪めるナツメの前へ、ズルリと大蛇は迫り来る。  
 
「ナツメ………!貴女の総てを喰らい尽くして、私のエミィを返してもらうわ!!」  
 
「か…、勝手な事っ、言って………っ!」  
 
ジャキリと得物を握り締めるナツメ。傷だらけの身体にボロボロの衣装。だが、バサバサに乱れた黒髪の間から覗く瞳は闘志を失っていないどころか、輝きを増しつつある。  
そう、彼女を突き動かしているもの、それは怒りだった。  
 
「エミィちゃんを、エミィちゃんを一番苦しめてるのは、――――――貴女じゃないですかっ!!!」  
 
スレッジハンマーと鉤爪が同時に唸る。既に破壊しつくされ、荒れ果てた礼拝堂を揺らす衝撃波。魔力と魔力がカチ合う閃光が厳かな闇を切り裂いた。  
 
♯  
 
――――――ズゥゥゥゥゥゥゥ………ン。  
 
礼拝堂の扉が紙切れのように吹き飛ぶ。真っ先に飛び出したのはナツメ。埃を被り殆ど灰色と化したドレスを翻し、彼女は無人の校庭に躍り出た。  
 
――――――ドズズズゥゥゥゥゥゥゥウ………ン。  
 
轟音と共にその後に続くのはサーペンタイン。列車が車庫を突き破って飛び出すように、長大な胴をうねらせ蛇の女神は降臨する。  
 
鼻を突くのは研ぎ澄まされた刃のように静謐な空気。早朝出勤を前に付近の木々で羽を休めていたカラス達が一斉に逃げ惑う。容姿、質量、性質、どれを取っても共通点など何ひとつ見出せない異形と天使は、夜明け前の決戦場で対峙した。  
 
「………ッシャァァァァァァァア!!」  
 
先手を打ったのはユイ。重機のようにグラウンドを抉り、砂埃の津波を巻き起こしながら、巨大な鞭がナツメをこの世からデリートすべく肉薄する。  
 
「――――――ハァッ!」  
 
巨木ほどもある胴体が三度目のバウンドで浮き上がり、ナツメの側頭部を叩き割ろうとしたその瞬間、彼女はまるで自身の影と同化したようにその身を沈め、必殺の一撃を回避。ありったけの筋力と魔力を掛け金に大地を蹴る。  
砂一色のグラウンドを縦一文字に引き裂きながら、マズルから解き放たれた弾丸のようにサーペンタインに突撃を敢行。魔神の如く振り被った<フロムヘヴン>を右肩からターゲットの額目掛けて打ち下ろす。  
 
 
 
ガキィィィィ――――――イン。  
 
 
 
撃発音。そして星屑が落ちて来たのかと錯覚させる閃光。全体重と運動エネルギーを上乗せした打撃は、フリーになっていた両腕の鉤爪によって当然の如く受け止められる。行き場を失った魔力が光の粒となって辺り一面に逃げていった。  
 
「ふはッ!相も変わらず馬鹿の一つ覚えねェ!!」  
 
蛇の顔には嘲笑が張り付く。眼前で交差させていた腕を片方を引き抜き、息も掛かるような距離にいるナツメを腹から真っ二つに切り裂こうとする。――――――しかし!!  
 
「でっ、やぁぁぁぁぁぁあ!!!」  
 
「な――――――、ぬあっ!?」  
 
尚もその身に纏う魔力を増幅させたナツメは再度地を蹴り前進。後方への急激な加速を喰らい骨格を軋ませるデスパイア。金色に輝く天使の強行軍に、その何十倍もあろうかという巨体を持つデスパイアが押されているのだ。  
 
「ぬがぁぁぁぁぁあ!!!」  
 
敷き詰められた砂利を盛大に巻き上げ、朝礼台を弾き飛ばし、記念樹までも薙ぎ倒してナツメは尚も突き進む。彼女の翳すスレッジハンマーに圧された状態で後退するユイが、腹の底から苦悶の声を上げる。そして二人は――――――、  
 
ズゴバァァァァァア………ン。  
 
さながら怪獣映画のひとコマの様に校舎に激突。魔力の塊と鉄筋コンクリートの建造物に挟まれたデスパイアが、喉の奥から緑色の液体をゴバッと迸らせる。  
がむしゃらにのたうつ蛇の胴は、彼女が堪え難い激痛を味わっている証拠だ。  
 
(――――――いけるっ!!)  
 
そうだ。追い切れないならば、敵の最大の武器である“疾さ”を封じてしまえば良い。手の平に伝わって来るのはメキメキという肋骨のひしゃげる感触。  
勝てる。力比べなら勝てる。  
 
「ハァァァァァァァア!!!」  
 
全魔力、全体力を使い切っても構わない。どうせ二度三度と通じる戦法ではないのだ。このまま………押し潰す!!  
 
 
 
――――――べちょ。  
 
 
 
「………え?」  
 
あと一歩。あと一押しのところで生理的な嫌悪を催させる粘着音が顔の傍からした。そして胸元に湿った感触。  
返り血ではない。ユイの背中から生えた触手が一本、先端をこちらを向けて銀色の糸を引いている。目線でその行き着く先を辿れば、そこにはふくよかなナツメの膨らみが。  
そして、その柔らかな丘を包み込む衣服がジュクジュクと音を立て、粘ついた飛来物によって今まさに浸蝕されていく最中なのであった。  
 
「――――――な、やだ!なによこれっ!?」  
 
「……ッシャァァァァァァァア!!」  
 
「あっ!し、しまっ――――――」  
 
思わず腕の力を緩めてしまった。ガキィンという音と共に<フロムヘヴン>が打ち払われ、ナツメの身体が後ずさる。僅か一瞬の隙を突いて万力の間から逃れるデスパイア。  
慌てて体勢を立て直そうとするナツメの横身を強烈なフックで打ち据える。何の備えも無しに叩き付けられる衝撃に、更なる後退を余儀なくされる粉砕天使。  
 
「いっ、いけない!」  
 
そうもしている内に白濁液をマトモに浴びせられた純白の生地は音を立てて溶けていく。着弾地点周辺に染み渡るのを防ぐ為、ドロドロになったドレスの胸元を止む無く破り捨てるナツメ。ところが………、  
 
「う………っ!?」  
 
思っていた以上に浸蝕は進んでいた。ぶるんと震えて曝け出される二つの果実。コスチュームだけ引き剥がすつもりが、その下で溶け掛けていたブラジャーまでもがベロンと破れて取れてしまったのだ。  
真っ赤な顔でみずみずしい張りを隠すナツメ。その瞬間、両手が塞がってガラ空きになった彼女の間合いに黒い影が躍り込む。今度は直撃。デスパイアの振り回す尾がナツメの身体を薙ぎ払った。  
 
「――――――きゃあぁぁぁっ!!」  
 
「ホラ、ホラ、ホラァァァア!おっぱいの心配してる場合かなッ!?」  
 
豪快に吹き飛ばされながらも空中で姿勢を整えるナツメ。だが、敵は彼女の足が地を捕らえる前に追撃を仕掛けて来た。  
 
ガキィィィィィイ………ン。  
 
背に腹は代えられず、乳房を庇っていた右手で<フロムヘヴン>を真横に構え、振り抜かれるダブルクローを受け止めるナツメ。だが、片手では敵の膨大な質量を支え切れない。カチャカチャとなる鉤爪は徐々にナツメの首筋へと迫って来る。  
 
「ほーんとウブな子ねぇ。よくそんなんで今まで他の連中の玩具にされずに済んだこと。フフフ………」  
 
「………なっ!!」  
 
「ま、どうせバージンなんてそんなモノよ。アタリでしょ?」  
 
ゾクリと背筋を撫でる悪寒。だが、その次に走り抜けたのは熱気。いや、止め処ない怒りが込み上げてくる。  
 
あの日、エミリアと共に潜り抜けたプールでのデスパイアとの死闘。初体験を触手に奪われたその晩、ナツメは一人シャワーを浴びながら、病院で処方された軟膏をズキズキと痛む陰部に泣きながら塗りたくっていた。  
そしてそのままバスルームに篭り切り、火傷するような熱湯を浴び続け、落ちるハズも無い汚れを洗い流そうと無駄な努力を続け………、ようやくナツメが風呂から上がったのは、既に東の空が白み始めて来た頃。  
それでも股間の疼き止は彼女を解放せず、ナツメは三日三晩、家族には風邪と偽り布団の中で嗚咽を堪え続けたのだ。  
 
敵は、目の前の女は今、その生き地獄の総てを嘲笑った。  
 
「貴女みたいなヤワな子が天使なんて務まるワケなかったのよ。さ、早く片付けてエミィを拾いに行かないと。あんなトコに裸で転がしといたら風邪ひいちゃうもの」  
 
馬鹿だった。一瞬でも同情した私が。彼女は――――――そう、デスパイアなのだ。  
 
「でぇやぁぁぁぁぁあっ!!」  
 
ガシリと、両手が<フロムヘヴン>の柄を掴む。たわわな双丘が丸出しになるのもお構い無しに、周囲の魔力を掻き集め闘気を昂ぶらせるナツメ。彼女の首筋に迫っていた処刑刀がギリギリと押し戻されていく。  
 
「お、そう来なくっちゃ」  
 
半月状に裂けた化け物の唇は歓喜の色を帯びる。命の遣り取りと言う、この世で最も崇高で無分別なゲームに興じるギャンブラーの顔だ。その表情を驚愕に凍りつかせるべくナツメは更なる一歩を踏み出す。  
メキメキという響きと共に砂利を噛み、デスパイアの巨体が再び押し戻されていった。  
 
「ンなら、お次は――――――」  
 
サーペンタインがボディーブローを放とうとその右腕を大きくストロークさせた瞬間だった。  
 
「………ハッ!!」  
 
「――――――ぬ!?」  
 
ナツメは絶妙のタイミングで左半身を反らし、ハンマーの柄で支えていた力点を外す。見事な肩透かしを喰らい、上体を大きくつんのめらせるサーペンタイン。  
その隙を逃さず突き出された輝く拳。魔力を纏い光の塊と化した右ストレートが、ぶ厚い皮膚に覆われたデスパイアの腹部にクリーンヒットした。  
 
「――――――どうだ!!」  
 
手応えあり。しかし………!!  
 
「そうねえ、40点ってトコかしら。………追試決定ね」  
 
「う、………うそ!?」  
 
ナツメの拳が命中した腹部が、まるで扉のように、中央から左右に分かれて開いたのだ。観音開きの奥に控えていた空洞にはギッシリと詰まった赤黒い物体。そう、………触手だ。  
 
「――――――っ!!!」  
 
声にならない悲鳴を上げて、ナツメすぐさま右腕を引き戻す。だが、間に合わなかった。  
 
「や!は、放してっ!!」  
 
「だーめ。私の追試からフけようなんて一万光年はや――――――、遠いのよ」  
 
あっと言う間に右腕を呑み干し肩口まで伸びてきた生暖かい感触。腕どころか<フロムヘヴン>にまで無数の肉色をしたツルが絡み付いている。唯一にして最大の武器はいとも呆気無く封じられてしまった。  
必死の思いで後退しても、捕獲器官はナツメの身体から離れない。それどころか、彼女の服の中にまでゾルゾルと潜り込んで来たのだ。  
 
「!!」  
 
ここに至って、ナツメはようやく自分の身を貪ろうとしている触手が普通のそれではない事に気が付いたのだ。繋がっていない。デスパイア本体から分離独立している。  
つまりコレは――――――蛇だ!  
頭部が男性器その物のカタチをした、気の遠くなるような数の蛇の群れなのだ。だから、どんなにサーペンタインから距離を取っても、獲物が開放される事が無い。  
それどころか、今もボタボタと産み落とされるデスパイアのビットたちは、本物の蛇さながらに地を這い、絡みつく触手に悪戦苦闘しているナツメの身体を足元から登って来たのだ。  
 
「………さァて」  
 
「あうっ!!」  
 
両足が打ち払われる。崩れ行く体勢を何とか整えようと試みたが、それも叶わぬ抵抗。ドッシリと全身に纏わりついた蛇たちの重みで、呆気なく尻餅をつくナツメ。  
その手首と踵に一本づつ、デスパイアの背中から生えるメインの触手達が絡みつく。気が付いた時にはもう遅い。哀れ粉砕天使は両手両足を押さえられ、固いグラウンドの土の上で大の字に拘束されてしまった。  
 
「随分とまあ手こずらせてくれたわね。まずは先刻の再生で使った分の魔力、キッチリ体で払って貰おうかしら。うふふふふ……」  
 
ナツメの全身を巨大な影が包み込む。息遣いが見て取れるような至近距離に化け物の顔が迫っていた。  
 
「な、何考えてるんですかユイさんっ!やめて下さい!!貴女は天使だったんでしょっ!?だったら!だったらデスパイアの餌食になる苦しみを、一番理解してるハズじゃないですかっ!!」  
 
「あらま、ご都合主義な脳ミソだこと………。人様の頭をグシャグシャにしたかと思えば、いざ自分がヤられる番になってみるとそんな台詞が吐けちゃうワケ?地雷踏んだわねナツメちゃん。今ので嬲り殺し決定よ」  
 
「………うくっ…」  
 
言葉に詰まる。グウの音も出ない。  
 
「別にかしこまる必要も無いのよ。貴女が言ってた“デスパイアの餌食になる苦しみ”だっけ?最期の夜を記念して、そいつをタップリとレクチャーしてあげるわ。先輩からの贈り物よ」  
 
恐ろしく長い舌が脈動し、紫色に変色した唇を一舐めした。もう一本の舌のように這いずり回るユイの目線は、曝け出された豊満な乳房の上でピタリと止まる。  
 
「なかなか食欲そそられちゃうボリュームね。あ、そうだ………フフ」  
 
化け物以外の何物でもなかった顔に子供っぽい光が射す。まるで、何か新しい悪戯を思い付いた幼女の様な、とことん無邪気な笑み。  
 
「魔力ってね、おっぱいからでも吸い取る事出来るのよ。知ってた?」  
 
「――――――!?」  
 
触手が二本、サーペンタインの頭越しに伸びてくる。その先端は円形状にビローンと広がり、まるでヤツメウナギの吸盤を思わせる形状へと変貌を遂げていた。  
 
「夜食にはちょっとコレステロール高そうだけど、今夜くらいはイイよねぇ?」  
 
ナツメの顔から血の気が引く。間違いない。敵の狙いは胸板の上でたぷたぷ揺れる温もった果実。そこにあの器具を………。  
 
「さァて…。それじゃ頭に行くハズの栄養を全部吸い取っちゃってる悪いおっぱいを懲らしめてあげるとしますか」  
 
「や、やだ……!やめてっ。そんなの、そんなの………っ!!」  
 
嫌だ。酷過ぎる。同じ女性のやる事じゃない。  
 
「それじゃ、いーただーきまーす!」  
 
「ひ………っ!?」  
 
挨拶と共に、それまでダラリと鎌首を擡げていた触手たちはビュルンと飛んだ。そして―――――。  
 
 
 
――――――ぶちゅ、ずちゅぅぅぅう。  
 
 
 
「い、嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ――――――っ!!!」  
 
真っ白な乳房に取り付けられる吸盤。目尻から涙の粒を飛ばし、無駄肉の無い背筋を大きく海老反らせるナツメ。そのアラレもない喚き声が未明の校庭に響き渡った。  
 

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