「ふぁあぁ〜〜〜」  
 欠伸にも似た気だるげな声を上げると、稔一(じんいち)は自分の布団に向かってゆっくりと  
倒れこむ。疲労、緊張、そしてこの夏が最後のチャンスだという事実に肉体的にも精神的にも  
追い詰められ、身体中を倦怠感に襲われ続けていた。  
 布団に身を委ねれば、床と同化してしまいそうな感覚を覚えてしまうほどに気持ちいい。  
日頃、三大欲求の中では食欲を最重要視している男ではあるが、こういう気分だと、睡眠欲の  
重要性もあながち馬鹿には出来ない。  
 しかし眠ってしまうわけにはいかない。この後隣の家に住んでいる幼い頃からの腐れ縁と、  
何の因果か地元の夏祭りに出掛けないといけないのだ。  
 というわけで、このまま夢の世界へ旅立つわけにはいかないのである。  
 
「………Zzzzz」  
 
 ……いかないのである。  
 
「Zzzzzzzz…」  
 寝息は徐々に大きくなっていく。やはり人間、一番大事なのは自分の身体ということなの  
だろうか。しかしながら、人間たるもの欲求に従順なのは致し方ないことである。  
「やっほー」  
 すると突然、備え付けられた窓がからからと開き、いかにもダルそうな眠そうな少女の  
声が部屋に響く。どうやら彼女が、先の約束相手らしい。  
「稔一ぃ、準備できて……ないなぁ」  
 姿を表した時は晴れやかだった表情が、一転してみるみる曇っていく。つかつかと彼の  
枕元まで歩み寄ると、フラミンゴのように片足立ちになる。  
 そして。  
「うるぁ」  
 
ゴシャッ!  
 
「痛ってぇ!」  
 額に容赦なく踵を踏み落とされ、稔一はたまらず跳ね起きる。踏みつけられた箇所を  
押さえながら顔を上げれば、そこにいたのはジト目で睨みつけてくる、物心つく頃からの  
顔なじみ。  
「何寝てんだハゲ」  
「ハゲ言うな。……起こすならもっと、まともな起こし方にしてくれよ」  
「約束すっぽかしかけといてよくそんな偉そうなこと言えるね」  
「毎度毎度勝手に窓から部屋に上がり込んでくる不法侵入者を快く迎えてやってんだ。  
そのくらい大目に見ようぜ」  
 隣の家とは二メートルほどの隙間が存在しているのだが、向こうの家からはベランダが  
備え付けられている。おかげで、二人は玄関を経由することなくこうして出会いを重ねるのが  
常だった。通っている高校は同じだが、クラスが違っているせいで一緒に過ごせない時間を  
こうして埋めることが茶飯事だった。  
 
「佳奈ー」  
「んー? 起きたんなら早く準備してよ」  
「浴衣。タンスから引っ張り出してこいよ」  
「えー」  
 佳奈の格好は、普段と変わらないタンクトップと短パンというなんともラフな組み合わせ  
であり、手に持っている履物はなんと草履である。  
 アルファベットで数えて三番目のカップを誇るバストがかろうじて彼女が「彼女」である  
ということを証明しているものの、短く切った髪の毛をぼさつかせている様子といい、  
(もっとも佳奈に言わせればこれはこういう髪型であり、彼女なりのお洒落なのだそうだ)  
前述した部屋着同然の服装といい、見る人が見れば男子に見られかねない。  
 
「あははー、どうせあたしにはそういうの似合わないしさー」  
 身も蓋もない反論に、眠たげに垂れ下がっていた稔一の眉尻が微かに跳ね上がる。  
「お前から誘ったんだから、そのくらいサービスしてくれても良いと思うんだけど」  
「どーせ着て来たら着て来たで、あんた何も言わないでしょ。そんくらい分かってるよ」  
 口角を片方だけ釣り上げニヤリとした笑みを返され見下され、彼はフーッと細く長く  
息を吐く。どうやら、こちらの意見を受け入れるつもりは最初っから毛頭存在してないらしい。  
「ほら、さっさと着替えて。花火始まったら意味ないよ」  
「あー…面倒だからこのまんまで行くわ」  
 背中を丸めたまま欠伸をして、そしてゆっくりと立ち上がる。ついつい寝入ってしまって  
いたものの、彼が身につけているのはTシャツジーンズという、彼女と比べればまだ幾分  
マシな姿である。本当は着替えようと思っていたのだが、佳奈の格好を目の当たりにして  
しまっては、そんな気持ちもすっかり失せてしまっていた。  
「なら早く行こうよ、折角だから色んなもの食べたい」  
「……奢るのか?」  
「トーゼン。期末テストで負けた方が『何でも』言うこと聞くって話だったじゃん」  
 台詞の中の「何でも」の箇所だけやたら強調され、「一つだけ」という単語が含まれて  
いなかったことに、ついつい恨みがましい視線を送ってしまう。こっちは高校生活最後の  
部活動に必死に打ち込み、向こうは家でのんびりぐーたらやってるのだ。テスト勉強する  
時間を考えれば、当然相手が有利に決まっている。  
「はー…っ」  
 たまった疲れを吐き出すように、苦々しさを覚えながらも相手の意見を受け入れる。  
 どうせ彼女に言い訳などしても徒労に終わる。自分にとって都合の悪いことには耳を  
貸さないのだ。そのくせ都合のいいことに関しては地獄耳なのだから性質が悪い。なのに  
人望はそれほど悪くないのだからおかしな話、不公平である。  
 
「ほらー、早く行く早く行く」  
「わーったわーった」  
 既に廊下に出ている佳奈の催促を受け止めると、不承不承ながらも稔一は財布を掴み、  
自分の部屋を後にするのだった。  
 
 
 
 
 鷲尾稔一と桜井佳奈は幼なじみである。  
 
 しかしながら、二人は周りの人間にそう呼ばれることをあまり好まない。  
お互いの関係が、そんな若干の甘酸っぱさを含んだような言葉じゃ言い表すことができないからだ。  
そんな言葉より、「腐れ縁」というただれた表現の方がよっぽど自分達らしい。  
 まあ実際のところ、ただれきっていたりするのだが。  
 
「財布、まずは焼きそばが食べたい」  
 桜井佳奈、高校三年帰宅部に所属。普段はあまり人の輪に加わって話しこむことを好んだりは  
しないが、テンションがハイマックスになると誰よりもうるさくなるパッと見男子な一応恋愛適齢期。  
 好きなものはその時好きなもの、嫌いなものはその時嫌いなもの。好きな人は幼い頃からの  
腐れ縁、嫌いな人は幼い頃からの腐れ縁という本当に困りきった気分屋女子高生である。  
 
「誰が財布だ、俺には俺の名前がある」  
 鷲尾稔一、高校三年こちらは野球部に所属。髪の毛を坊主頭に駆りこんでいるが本意では  
ないため「ハゲ」と呼ばれると若干の拒否感を示すナイーブな一面を持つ。と思わせといて、  
実はそんなに気にしてないこちらもちょっと変わった思春期青年。  
 とはいうものの、こちらは好きなものが小学生の頃から野球と一貫していることもあり、  
彼女と比較してみれば大分まっすぐ健やかに成長している模様である。  
 
「あんた今日お金担当なんだから財布でいいじゃん、その方が呼びやすいし」  
「じゃあ俺もお前のことをヒモ女と呼ばせてもらおう」  
「いいよ別にー。そんじゃ財布、焼きそば買ってきて。あとたこ焼き」  
「せめて店くらいは自分で探せヒモ女、不味い店で買ってきたらお前怒るだろ」  
 二人の関係会話には、高校生とは思えないくらいに新鮮味が存在していない。どんなに  
お互いを煽ろうとも右から左へ受け流し、緩やかに咀嚼して事も無げに会話を続行する。  
先に述べたテストの結果で勝負したように、何かと勝ったほうが負けたほうがと条件を  
つけては争ったりはするものの、負けて悔しがることもない。そうした関係が、一番上手く  
付き合えると分かっているからだ。  
 
 そんな二人の関係は恋愛面においても発揮される。こうやってデートをする理由も無ければ、  
本人達にはデートという意識もあまり無い。既にキスも済ませているのだが、その理由も「キスって  
どんな感触なのか知りたかった」というなんとも色気の無い理由である。とは言っても、流石に  
その時ばかりは微かに顔を赤らめていたらしいのだが。  
 しかししかし、そこまですることしておいて、本人達の弁は「別に付き合ってない」と  
くるのだから、周りはもう彼らを変人カップルとして認定して扱うしか他に無かった。  
 
「ふまい!」  
「食ってから喋れ」  
「ふまいふまい!」  
「食いきってから喋れ」  
 人の金なら何の気兼ねなく食べられるとはよく言ったものである。  
 焼きそばたこ焼きイカ焼きたい焼きフランクフルトにりんご飴、わたあめカキ氷天津甘栗  
フライドポテトに焼きとうもろこしと、佳奈は目に付いた食べ物を片っ端からせがんでは  
ぱくついている。その食いっぷりに稔一は、途中で使ってしまった分のお金を計算するのを  
止めるのだった。  
「はー食べた食べた」  
「……お前、食いすぎだろ」  
「? 何か言ったー?」  
「太って死ねばいいのにって言った」  
「……むー」  
 普段眠たそうに弛んだまぶたを微かに引き締めながら、佳奈は不満を露わにする。彼女が  
露骨に怒りの表情を見せるのは珍しいことなのだが、その辺は幼なじ……腐れ縁という仲が  
二人の根底にあるからなのだろう。  
「そーんなこと言ってると、まだまだ注文しちゃうよ」  
「好きにしろ、どうせ諦めてる」  
「あっそ……じゃあもうお腹いっぱいだし、勘弁してあげよっかな」  
「そりゃどーも」  
 どうせもう、お札が野口さん一枚しか見当たらなくなっていたのだ。ここまで減って  
しまえば、お金のことなんかどうでも良くなってしまう。溜まりに溜まった小遣いも、  
部活で忙しければ使う暇も無いのだ。  
「ねー、稔一ぃ」  
「んー?」  
「"ぱしゅぱしゅ"したいー」  
「ぱしゅぱしゅ?」  
唐突な佳奈の言葉の意味がよく分からなくて、服の袖口をくいくい引っ張られ促された方を  
向いてみる。そこには、水風船の屋台が出店をしていた。広く浅い水槽に、色とりどりの  
水風船がぷかぷか浮かんでいる。  
「ねー、"ぱしゅぱしゅ"したいー」  
「……」  
「ぱしゅぱしゅー」  
「……」  
「ぱーしゅーぱーしゅー」  
「分かった分かった、一個でいいな」  
「うん」  
 
 幼稚なせがまれ方に根負けして、稔一は大人しくその店に近づいていく。適当な色を  
見繕い、金を払って選んだ水風船を釣り上げると、また佳奈の元へ舞い戻っていく。  
「ほら」  
「へへー、ありがと」  
 手渡すと彼女は喜々としながら中指をゴムの輪に通し、風船を手の平で叩き始めた。  
 
パシュパシュ  
 
「……」  
「……」  
 
パシュパシュパシュ  
 
「……」  
「……」  
 
パシュパシュパシュパシュ  
 
「……楽しいか」  
「ビミョー」  
 淡々と言い放ちながらもその動作を止めないということは、どうやら彼女なりに楽しんで  
いるらしい。  
 
「ねー、稔一」  
「ん?」  
「次の試合、いつ?」  
「明後日」  
 水風船の音をBGMに、佳奈は稔一の日程を聞いてくる。空いていた方の手の平を、  
稔一の手の平に重ねながら。  
「うお、明後日試合なのに女とデートとは余裕だな」  
「『もし断ったら、一日中付きまとって耳元でしくしくめそめそ泣いてやるー』って脅して  
きたのは誰だっけ」  
「あたしー」  
「『試合前日深夜に部屋に忍び込んで喚きたててやるー』って言ってたのも誰だっけ」  
「あたしー」  
 ゆるゆるした笑顔を浮かべながら、悪びれることなく手を挙げる彼女に、稔一は穏やかな  
表情のまま鼻で笑い返す。  
 
 全国で一斉に始まった高校野球夏の大会地方予選も佳境に入り、早いところでは甲子園  
出場校も決まってきている。各家庭のブラウン管は、このところ毎日のように勝利の歓喜に  
湧き、また夏を終え悔し涙を流す球児達の姿を鮮明に映し続けていた。  
 稔一もまたそんな高校球児の一人である。彼の通う高校の野球部は、地方予選準決勝まで  
無事に駒を進めていたのだった。  
 
「勝てる?」  
「どうかなぁ、相手はプロ注目のエースだし」  
「……むー」  
 しかし準決勝の相手は、全国でも名の知れた好投手を擁し、春の大会では甲子園ベスト4に  
まで進んだ強豪校である。ちなみに稔一達はその時の地方予選でも対戦していたのだが、  
結果は6対1と完敗を喫していた。  
 
パシャンッ  
 
「っと!?」  
 その時、何かが跳ねさせながら稔一の頬を襲った。その箇所を触ると、ひんやりと冷たく  
水に濡れてしまっている。  
「そんな気持ちじゃ、勝てるもんも勝てないぞー」  
 どうやら水風船で瞬かれたらしい。次の相手が格上だと伝えたかった言葉は、弱気で  
消極的な台詞と受け止められてしまったようだ。  
「そう怒んなって」  
 ポンポンと二度、彼女の頭を軽く叩く。  
「俺だって、同じ奴らに二回も負けたくないさ」  
 口をへの字に曲げた佳奈の顔を見つめ返しながら、静かな、だけど確かな闘志を露わにする。  
繋いでいる手にも、無意識の内に力がこもっていく。  
「それに、以前対戦した時はホームラン打ってるしな」  
 前回対戦した時にもぎ取った唯一の得点は、稔一が一閃したバットから生まれたものだった。  
あの時の感触は、未だにはっきりと覚えている。その時の、相手投手の悔しそうに歪んだ表情と  
共にしっかりと。  
 
「そだね。稔一も一応、プロ注目の選手だもんね」  
「実感ないけどな」  
 
 有望選手から結果を残した選手が、その時訪れていたスカウトの目に留まることは、往々に  
してよくあることである。他の選手が軒並み凡退する中、稔一だけは全国に名を轟かす投手から  
ホームランを含む三安打猛打賞を放つ活躍を見せ、「ついで」という形ではあるが、一部の球団と  
大学の興味を勝ち得ていたのだった。  
「あれからチーム強くなったんだ?」  
「まぁな。毎日毎日練習だったし」  
「おかげで、遊びに来てもいっつも寝てたよねー」  
「いっつも無理やり起こされてたけどな」  
 互いに前を、そっぽを向いたままの皮肉な言葉は、いつものように受け流されていく。  
 
「今度は負けん。……勝つよ」  
 
「……」  
 
 飾り気のない端的な台詞には、らしくもなく強い意志が込められていて。佳奈ほどでは  
ないものの、稔一も普段はふわついた雰囲気を纏わせている。しかし、こと野球に関しては  
非常に真摯だった。彼が見つけることの出来た、唯一全ての情熱を注ぐことのできるもの  
だったからだ。  
 
 
ヒュルルルルル  
 
 
ドーンッ  
 
 
 空に咲いた一瞬の大輪が、二人の顔を赤に青に染めていく。人混みの足は途端に鈍り、  
その花を愛でようと顔を見上げる。それは二人とて例外ではない。  
 
 稔一は気付かない。佳奈が今更になって、浴衣を着て来なかったことに少しだけ後悔を  
募らせていることを。試合が目前に迫っているのに、嫌な顔せずこうして付き合ってくれた  
ことに感謝していることを。彼女自身は未だ見つけられないでいる熱くなれるものを見つけて  
いることに、羨ましさを覚えられているということを。  
 
 
「応援、行くね」  
「あー……別にいいけど…」  
「? けど、何?」  
「いや、前の試合の時みたいな声援は困るなと思って…」  
「えー?」  
 前の試合、つまり準々決勝戦。終盤同点チャンスの場面で、稔一に打席が回ってきた時の  
ことである。  
 
『稔一ぃぃー! あたしの為に打ってぇー!!』  
 
 試合中には審判から、試合後には教育委員会やら学校やらの一部から物議を醸し、  
後に個別で厳重注意を受けた声援である。  
 もっとも観客席からは笑いが起こり、その声援を送られた本人は顔を真っ赤にしながら  
決勝のタイムリーヒットを放ちはしていたのだが。それでもあの時のことは赤っ恥に近い。  
 余談ではあるが、「あたしの為」というのはクラスメイトと野球部の勝敗でトトカルチョを行った  
末に出た言葉である。それはそれで充分警告ものだが。そこに他意があったかどうか、不明の  
ままだが。  
   
「だめー?」  
「今度言ったら、球場から追い出されると思うぞ」  
「うー…そいつは困る。あたしがいなくなると、稔一は打てなくなるからなー」  
「はいはい」  
 なんとも横柄な台詞ではあるが、これはれっきとした事実である。実際、佳奈が応援に熱を  
入れれば入れるほど、昔から稔一はよく打った。彼女に所用があったり面倒臭がったりで  
姿を見せなければ、バットも湿り勝ちだった。  
「声援送ってくれること自体はありがたいけどな。『がんばれ』とかそういうのにしてくれ」  
「んー……しょうがないなぁ」  
 
 花火を見に来たはずなのに、結局二人の意識はお互いの会話に傾いてしまっていて。  
一年、二年の時と違って、今年はクラスが違っている。その事実が、二人のこれまでの  
関係をほんの僅かに変えつつもあった。当人達は、未だ気付いてないことなのだけれど。  
 
 
ヒュルルルルルッ  
 
 
ドーンッ  
 
 
ドーンドーンッ  
 
 
「勝ってね。また稔一達が勝つほうに賭けたんだから」  
「オッズは?」  
「10倍。相手が相手だしねー」  
「ま、そうだろうなぁ」  
 自分の頭をしゃりしゃりと撫で、稔一は諦めたようにまた息をつく。手を振りほどいて  
佳奈の前に躍り出ると、ぐっと握り拳を作る。  
 
「……大儲け、させてやるからな」  
 
「えへへ、期待してる」  
 
 二人がそう言葉を交わすと同時に、これまでより一層大きな大輪が、空に咲いて消えていく。  
その瞬間、稔一の身体がシルエットになって。佳奈の顔はまた黄色く染まる。  
 
 
 その光景は脳裏に焼きつき、いつまでも残り続けるのだった―――――  
 

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