かあかあと、間の抜けた鳴き声をあげながら、夕焼け空を鴉の群れが  
渡っていく。  
町の入り口にあたる、細い橋の上を歩きながら、群れの先へと目をやる。  
夕日に照らされこんもりと黒く浮かぶ、小さな森が見えた。  
町外れにある、社の鎮守森だ。あそこに巣があるのか。  
この時期なら親と同じ、真っ黒な七つ子が、狭い巣の中で同じように  
せわしなく鳴きながら、帰りを待っているのだろう。  
茜色に染まったいわし雲の下を、上へ下へと重なるように飛んでいく  
幾羽もの黒い群れを見送ってから、私も背中の荷を背負いなおし、再び歩き出した。  
 
埃だらけの乾いた道は、夕暮れ時とあって、家路を急ぐ人でいっぱいだ。  
人も馬も、一様に忙しなく、前ばかりを見て急ぎ足で歩いていく。  
流れに押され、私の足も自然と速まった。  
空を群れ飛ぶ鴉のように、前へ、前へと誰もが進んでいく。  
自分の家と、そこで待つ人を目指して。  
 
 
 
大通りから町外れへ向かう、緩やかな坂を下っていると、途中で近在の女房と出会った。  
あらまあ久しぶりだねえと目を丸くするのに、隠れ蓑代わりの穏やかな笑顔で  
挨拶を返す。  
「二月ぶりかね。商売はうまくいったかい」  
「はいお蔭様で。薬もよくはけまして」  
行商の薬売りが、私の表向きの仕事だ。  
「今回は随分長く旅に出ていたもんだね。早く帰っておやりよ平助さん。  
お妙ちゃんずっと待ってるよ」  
若夫婦はいいねえ、とからかうような言葉に、こちらも表情を崩さず笑顔を返す。  
だが女房が発した名を聞いた途端、東の空に迫る夜空のような、薄暗い不安が  
ポツリと胸に落ちた。  
「……いつもお世話になっております。その、あれがまた何か、ご迷惑を  
おかけしませんでしたか」  
にこやかな笑顔のまま、おそるおそる問いかけると、主婦も笑顔を崩さずうなずいた。  
 
「いやいつもどおりだよ。道で転んだり井戸に落ちかけたり、子どもと遊んでて  
迷子になったりさ。そうそう、こないだはおかずが鍋ごと焦げて穴まで開いたと  
半べそかいてたから、うちでご飯を食べさせてやったがね。ああ安心しな。  
もう鍋は買ってきたようだよ」  
 
「……まことにお世話になっております。今後もよろしくお願いします」  
あらこれは内緒にっていわれてたよ、と豪快に笑う主婦に深々と頭を下げ、  
私は再び、今度は少々急ぎ足で歩き出した。  
早く帰らねば。  
鍋ならまだいいが、もしや家が焦げているかもしれない。  
しかしどうしてあれはこう、やたらと問題を起こすのだろう。久々に帰ってきたと  
いうのに、姿を見る前から気が休まらないことだ。  
おかげで、下げたくもない頭を下げてしまった。  
ひそかにため息をついて荷を背負いなおす。慣れたはずの重みが、いやに肩を苛んだ。  
ざくり、ざくりと足元で、乾いた土くれが音を立てる。  
 
この自分が、たかが町家の女房に頭を下げているところを見たら、同輩や部下は  
どんな顔をするだろうか、とふと思う。  
きっと大騒ぎだ。己の目がおかしくなったかと疑うものも出るに違いない。  
むしろ私がその心境だ。  
想像するにつれ、おかしいやら情けないやらでまた一つ、ため息が出た。  
 
町外れにぽつんと立った小さな家は、夕日に照らされ燃えるような  
茜色に染まっていた。  
二月ぶりの我が家だが、すぐには入らず、まずあたりの様子を探る。  
この一年ばかりでついた習慣だ。  
古びたわらぶき屋根やほつれた暖簾、煤けた壁板や雨戸の枠と  
仔細に眺め、二月前と比べてこれといった変化がないのを認めて、  
私は無意識に小さく息をついた。  
 
よかった。今日も無事に立っている。  
 
暖簾を分けて中を覗いてみるが、土間にも居間にも、人の気配はなかった。  
だが、水場には真新しい鍋のほか、ざるや野菜が散乱している。  
さて、夕餉の支度中にまた、どこへ行ったのか。  
答えは、再び暖簾を分けて外に出たところでわかった。  
「旦那さま!」  
夕日に染まる道に響いた甲高い声に、振り返る。  
茜色の光の中、町へと続く小さな下り坂の途中に、大根を抱えた小さな影が  
立っていた。  
小柄な、まだ娘と呼べるほどの若い女だ。  
薄暗い光に、ふっくらした頬がつやつやと輝いている。その頬と同じほどに  
輝く丸い目や、手ぬぐいを巻いた長い黒髪、汚れた前掛けの下から覗く  
細い足へと、私はほとんど習慣で目線を走らせた。  
それらにも家と同じく、これといった変化がないことを見定めてから、  
また、こっそりと息をつく。  
 
よかった。今日も無事に立っている。  
 
安堵の息をつくと同時に、女の手から大根が転がり落ちた。  
いや、投げ出されたというべきか。  
高々と宙を舞い、夕日を弾き、輝きながら落ちていく大根の行方に  
気をとられた瞬間、今度は女が走り出した。  
なだらかな坂道を、文字通り転がるように走ってくる。  
走るなといっても聞かないのはわかっているので、こちらも駆け寄りながら  
両手を伸ばした。同時に腰を落として息をつめる。  
「旦那さまー!!」  
砲弾でも受け止めたような衝撃と共に、一瞬、片足が宙に浮いた。  
げふっと変な息が漏れる。  
いくら小柄で軽いといっても、転びかけの勢いのままつっこんでこられては  
受け止めるのも容易ではない。毎度のことながら、厳しい。  
坂どころか普通の道でもすぐ転ぶのだから、外ではなるべく走るなと、  
この一年、いつも言って聞かせているのだが、私の姿を見ると走り出すのを、  
この女は何故か、決してやめようとしない。  
いったん跳ね返って離れかけ、だがすぐ小さな手が、しゃにむに私の体を抱きしめてきた。  
精一杯の力が、背中の荷物ごと私の体をぎゅうぎゅうと抱きしめる。背負子がみしみし  
音を立てた。何度言っても加減を覚えぬ奴だ。  
仕方なく抱き返した腕の中で、小さな顔がひょいと上がった。  
 
やっと私の胸ほどの場所から、丸い大きな目が、喜色に溢れて私を見上げている。  
ふっくらした唇をむずむずと動かし、またぎゅっと私の胸に顔を埋め、匂いをかぐように  
ふかぶかと息を吸う。  
またすぐ上がった顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。  
 
「旦那さま、お戻りなされませ!」  
「ああ」  
いつもながら、でかい声だ。  
「今日あたりお戻りかと、妙は一月前から毎日、ご馳走を作ってお待ちしておりました!」  
「そうか」  
毎日。  
まさか、残してはいるまいな。  
「野菜のお煮つけですとか草もちですとか、岩魚の塩焼きですとかそれから……」  
「……妙。ところで大根は」  
 
さりげなく話をそらすと、丸い目がぱちくりと瞬いた。  
あっと小さく呟き、慌てたように振り返って、先ほど道に落ちた大根に目をやる。  
坂の途中の地面に落ちた衝撃で、見事に半分に折れたそれは、折れ口まで  
土くれだらけになっていた。  
「申し訳ございません……」  
先ほどまでの笑顔が見る影もなく、しょんぼりしょげ返る。うつむいたまま、  
妙はそろそろと私から離れた。  
 
宵の風が胸元を、ひどく冷たく吹き抜ける。残り香だけが手の中に残った。  
 
しゅんとしてきびすを返す妙を追い、また走り出さないように、さりげなく  
その帯を掴む。犬の仔のようだとふと思った。  
掴んでしまえばどうしようもないので、私もそのまま一緒に歩き出した。  
「夕餉の支度中にわざわざ、大根を買いに行ったのか?」  
「お味噌汁を作ろうと思ったら、使い切ってしまっていて……」  
「味噌汁の具など、何でもよいだろう」  
「駄目です。お味噌汁は大根でなくては!」  
そこだけ変に力をこめて首を振る。  
まあ、それは同感だが。  
「それに大根のお味噌汁は、旦那さまの好物でしょう」  
お戻りに間に合って、本当にようございました。  
そっと振り返り、にこりと笑って、またてくてくと歩いていく小さな足を、  
ぼんやり見つめる。  
市はとうに終わっている時刻だ。大根一本求めるために、この女はきっと、  
遠くの農家まで走ったのだろう。  
ほつれたわらじの中で、小さな足は泥だらけだ。  
暮れていく日の中、薄汚れていても白い甲が、そこだけひどくまばゆく光って見えた。  
 
そんなことをよく知っているな、と呟けば、だって妙は旦那さまの妻ですもの、と  
なにがおかしいのかまた、嬉しそうに笑った。  
 
 
 
夕餉の飯は、粥だった。  
少しほっとした。  
水加減を間違えました、と必死に頭を下げる妙をなだめて、粥と魚の干物の夕餉を終える。  
少々腹の中が水っぽいが、芯があったり炭と化した米よりは、はるかに食べやすい。  
腕を上げたものだ、と感心した自分の考え方のおかしさに、気づいたのは食後の茶を  
飲んでいる最中だった。  
いささか愕然とする。思わず茶碗を運ぶ手が止まった。  
「旦那さま、どうかなさいましたか?」  
囲炉裏の向かいで、破れた私の足袋を縫っていた妙が、不思議そうに顔を上げた。  
表情には出さなかったつもりだが、読まれたか。この女にはこういう、不思議に  
鋭いところが時々ある。  
なんでもない、と呟いて茶碗を置き、私も仕事道具の手入れに戻った。  
 
くない、しころ、手裏剣。小刀、まきびし、そして表の商売品とは違う、数々の薬。  
どれも己の命を守るものだ。日々の手入れは欠かせない。  
こればかりは妻にも任せられない。いや、もとより妙には恐ろしくて渡せないが。  
 
とくに追求もせず、そうですか、と呟き、なにがおかしいのかにこっと笑う。  
それから妙は、縫い上げたものを傍らに置き、新しい足袋へと取り掛かった。  
何をやらせても抜かりばかりなのに、妙は何故か、縫い物だけはうまい。  
たまに前掛けを一緒に縫ってしまう程度だ。  
「今日も足袋の繕いがたくさん。随分歩かれたのですね」  
「それが仕事だからな」  
「此度は、どちらへ?」  
答えずにいると、はたとこちらを見上げ、申し訳ございませんと頭を下げる。  
そうして妙は、また小さく笑った。  
 
囲炉裏の中でぱちぱちと、高く低く薪がはぜる。  
夜の明かりに照らされる妙の顔は、昼間の子どもじみた様とは違い、  
陰を含んでどこか妖しくさえ見える。  
昔の影がよぎるのだろうか。  
頬も、額も、目元も、夕暮れ時に比べてひどく暗く、奇妙に艶やかで。  
けれどその表情は、今もやはりあけっぴろげに、嬉しそうだった。  
 
ふと気づくと、囲炉裏の向こうで縫い物の手を止め、妙がじっとこちらを  
見ていた。  
視線が気になり、何だ、と問いかければ、鼻の頭を赤くして、ひどく嬉しそうに笑う。  
「旦那さま。お戻りなされませ」  
「何度目だ」  
「だって嬉しいのですもの。旦那さまがここにおいでなのが」  
「……それはいるだろう。私の家だからな」  
「はい。それが嬉しいのでございます」  
この女のいうことは、時々さっぱりわからない。  
首をかしげ、作業に戻る。妙は気にした様子もなく、にこにこと笑いながら  
今度は小さく頭を下げた。  
「旦那さま。ありがとうございます」  
「何が」  
「私のようなものをもらってくださって」  
答えに窮した私を、ひたむきな顔がじっと見上げてくる。  
囲炉裏の火よりも赤く、頬が染まる。黒々とした瞳が、潤んだように輝いた。  
 
「いつもいつも、感謝しております。旦那さまに拾っていただけなければ、  
妙はきっと生きてはおりませんでした。妙が今あるのは、すべて旦那さまのおかげです。  
旦那さまがおいででなければ、妙は生きていけません。私を救ってくださって、  
妻にしてくださって、本当にありがとうございます」  
 
真っ赤な顔で一息に言い切り、これ以上があるのかと思うほどさらに頬を染める。  
湯気でも出そうだ。  
「……そうか」  
「はい!」  
きらきらと輝きながら、食い入るように見つめてくるその目に気圧され、  
実は私はときどき、お前を妻にしたことを後悔しているのだが、とは言い損ねた。  
胸の中の言葉は飲み込み、重ねてそうか、とだけ呟く。  
今度は言葉もなくうなずき、そうして妙は子供のような顔で、にっこりと笑った。  
「お邪魔をして申し訳ございません!……あの、あの、では、お風呂を炊いてまいります!」  
真っ赤な笑顔のまま、慌しく立ち上がり、土間へと駆け下りていく。後ろから見ても、耳が赤い。  
あれはあれで恥ずかしいのだろうか。  
囲炉裏の中の薪がひときわ大きく、ぱちんとはぜた。  
土間の隅から聞こえてきたけたたましい騒音に、炊く前に風呂を燃やさなければいいが、と  
少し、不安になった。  
 
 
 
一年半前、妙を拾ったのは、旅の途中で寄った田舎の宿場町だった。  
そこの最下層の宿で、妙は飯盛り女をしていた。  
その頃私は仕事をしくじり、ひどい怪我を負って行き倒れていた。それを物好きにも  
拾い、朋輩に笑われながらも、自分の飯まで割いて助けたのが、妙だった。  
拾われたのは、私が先なわけだ。  
とはいえ、傷が癒えれば、飯盛り女の気まぐれなど気にする必要もない。  
おかしなことに妙は、私の枕探しもしようとしなかった。だからその分、多少の礼金でも  
置いていけば、それで終わるはずだった。  
だから何故あの時わざわざ、あの女を拾って連れて行ったのか、今思い返しても  
実はよくわからない。  
 
誰でもよいから女を囲い、拠点を作れと頭に言われていたからか。  
妙には身内もなく、いなくなっても誰も気にせぬ身の上なのが、ちょうどよかったからか。  
私に怪我を負わせた仕事の標的を、倒せたのが妙の助けによるものだったからか。  
 
その頃から、何をやっても手抜かりばかりの妙は、不思議と朋輩には好かれていたが、  
主には疎まれていた。  
だからひどい客ばかりをあてがわれていたのだが、その中に、私をすぐには死なない程度に刻んで  
放り出した、標的の男がいたのだ。  
お妙ちゃんがおかしな客を取らされている、と、仲間の飯盛り女があわをくって駆けつけてきたのは、  
私が宿を抜け出す直前だった。  
その特徴が、標的のものと同じと気づいた時、すでに妙が客を取って半刻が過ぎていた。  
 
妙の上で、夢中になって腰を振る男を刀で刺したとき、私は本当は妙ごと貫くつもりだった。  
そのほうが、確実に止めをさせる。  
それに、抱かれながら少しずつ肉を刻まれ、血まみれで横たわる妙は、とても息をしているとは  
思えない状態だったからだ。  
 
何故あの時、妙ごと貫かなかったのか。  
何故逃げもせず、生きているとも思えないあの女を、わざわざ介抱したのか。  
何故死んでいないとわかったとき、邪魔になるだけのはずの妙を連れて行ったのか。  
今でも、よくわからない。  
 
 

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