■■【2】■■  
 零幻が一夜の宿に戻った時、部屋の中は明かりが消され真暗だった。村長が用意させた行灯の油は、ま  
だ十分にあるはずであったし、光虫玉の卵もまだ孵化にはいくばくかの猶予があるはずだから、明かりの  
確保に難儀して…の事とは思えない。  
「なんだよ。御主人様がお帰りだってのに、出迎えも無しか?」  
 蒼月の明るい夜だというのに窓の開き戸もぴったりと閉められ、部屋の中は真闇と言えるほどの黒が蟠  
(わだかま)っていた。  
 誰もいないのか?とは思わない。声も物音もさせずとも、わずかな翼の呼気を感じるからだ。  
 零幻は“ちっ”と舌を鳴らすと、クツを脱いでズカズカと部屋を突っ切り、入り口正面の開き戸を大き  
く開け放した。そしてそのまま、部屋の左手に備え付けられている寝床を見やる。  
 果たしてそこには掛け布団代わりの毛織物を引っかぶって、こんもりとした山を形作る何者かがいた。  
 零幻が“すんっ”と鼻をひくつかせれば、満ちているのは嗅ぎ慣れた翼の芳(かぐわ)しい香りのみ。  
 何度もこころゆくまで味わったのだ。  
 間違えようも無い。  
「起きてんだろ?」  
 沈黙を守っているが、覚醒しているのが彼にはわかる。  
 起きていて、じっと息を潜めている。  
 零幻はぼりぼりと頭を掻くと、部屋に入った時から手に持っていた徳利を質素な机の上に“ごとり”と  
置いて、懐から取り出したそれなりに雅(みやび)な碗にその中身を注いだ。村長の家から土産代わりに  
と持たされたものだったが、このひどく貧しい村にしてみれば、こんな薄汚れた碗であっても上等な部類  
に入るのだろう。  
 窓の縁に背を預け、碗に満ちた香気溢れる濁酒(にごりざけ)を一息にぐいっと煽った。米もろくに採  
れぬこの村では、酒にするほど米も果実もあるわけもなく、おそらく麓の町で買い求めてきたに違いない。  
一杯でこの村の飢えた子供の飯が何食分賄(まかな)えるか…と考える輩もいようが、もとより零幻はそ  
んな事を気にするような愁傷な心持ちなどしていなかった。  
 
 それでも、  
「さっきの事、まだ根に持ってんのかよ…」  
 ふてくされているのであろう自分の使役魔には、ほとほと弱りきった声をかけるのだった。  
 
 零幻は2杯目の酒を今度はちびりと嘗めるようにして呑み、生暖かい風が吹き込む窓から肩越しに蒼月  
を見上げた。虫の鳴き声や草木の立てるさざめきに耳を傾けるものの、「風流」と洒落こむには状況が許  
さなかった。  
 これ以上も無い重苦しい沈黙が、部屋をじくじくと満たしている。  
 何度声をかけても、翼からの返事は無い。  
 こうなったら、もう何を言っても無駄だ。  
 旅をはじめてはや数ヶ月、今までの苦い経験から零幻が学んだ事だった。  
 こうなった翼は、それでも用事を言えばそれなりに足すし、行動を別にする事も無いが、四六時中ただ  
ひたすらに無言のまま無表情の抗議を続ける事となる。それはくどくどと小言を言われるより、ぎゃんぎゃ  
んと吠えかかられるよりも遥かに零幻の精神を磨耗させ、疲弊させる。  
 もっとも、翼が主である零幻に対してそのように不遜な態度を取るには、その前に零幻がよほど翼を怒  
らせたか、それとも心根が凍るほど哀しませたかの、どちらしかない。  
 前に翼がこうなったのは、3つほど西の国の娼婦宿で可哀想な「美人」の娼婦としっぽり“良い仲”に  
なり、しつこいヒモを追い払うのに利用され、さらには全財産を身包み剥がされた上、狂王の手の者に売  
られかけた時以来だから、かれこれ一月と6日ぶりになるだろうか。  
 その「美人」の娼婦には最初から他に心を捧げた男がいて、その男と手に手を取って新天地へと旅立っ  
ていったのだから、零幻にとっては「その手助けが出来た」と思えばなんということも無いのだが、危う  
く狂王の手の者に捕縛されかけ、その後5日間も追いかけまくられてしまう原因となってしまった。翼は  
その間、今のようにじっと黙ったまま唖(おし)のように目だけで抗議を続け、最後には零幻が何度も謝っ  
て許してもらったという情けなくも恐ろしい経緯がある。  
 
 「呪人が使役魔に頭を下げる」など、王都ではたとえ魚が空を飛ぼうとも、絶対に考えられ  
ないことだろうが、黙ったまま無言で一日中行動を共にするあの辛さを味わえば、長老共も  
「已む無し」と、膝まで伸びた白髭を撫でながら頷くに違いなかった。  
 
 溜息が漏れる。  
 続いて零幻は、低く、小さく、囁くように言葉を紡ぎ、意識をすべらせて「小炎」の術式を  
練り上げる。力在る者が見れば、薄く開いた彼の唇から銀に光る文字がすべり出ているのが見  
えるはずだ。「意識をすべらせる」というのは他者に説明出来るものではなく、呪人が生まれ  
ながらにして“出来て当然”のことであり、常人が手足を動かすのと同様に、ことさらに集中  
せずとも行える術式展開の基礎だった。  
 唇から滑り出した銀字は、宙で複雑な文様を描き、編み込まれ、やがて“ふっ”という零幻  
の呼気によって一瞬のうちに針のように細く鋭くなって、行灯へと疾(と)く走る。  
 ポッと、火皿に浸した芯の先に小さな炎が点り、すぐに部屋の中を、橙色の光がやわらかく  
染めはじめた。  
 零幻は碗を机に置くと一息ついて、寝台に歩み寄り、その縁に腰をかける。  
「翼」  
 ひとこと名を呼ぶが、毛布はぴくりとも動かない。  
 弱りきった零幻は、がりがりと頭を掻くと、  
「ったくよ…ちーとしつけーぜ?そーゆーのはさらっと流せや、な?」  
 と言った。  
 “そういうの”というのは、もちろん先ほどのやり取りの事だ。聞き分けの無い翼にちょっ  
とだけお灸を据えたつもりだったのだが………どうやら、効果があり過ぎたようだ。  
「どうして…」  
 やがて、小さな声が零幻の耳を打つ。  
 そっと毛布を捲り上げると、そこには彼に背を向けて壁を睨んだまま、じっと息を潜める翼  
がいた。  
 見れば、目許が濡れている。  
『泣いていたのか…』  
 さすがの零幻も、ほんの少しだけ胸が痛んだ。  
 …気がした。  
「その…なんだ、お前だって悪いんだぜ?オレの事をちったぁ信用してもいいだろうに」  
 
 気まずくなって翼に背を向け、零幻はぶちぶちと文句を言った。  
 まるで子供だ。  
 そして零幻はそれに気付かない。  
 翼はその主の言いように、ぼろぼろと涙をこぼしながら身体を起こした。  
「どうして……どうして零幻様はいつもいつも…いつもいつもいつもいつもいつも…そうなのです!?私  
の忠告など、道端の老いさらばえた野良犬が吼えているとしか、思っていらっしゃらないのでしょう!?」  
 翼は哀しかった。  
 哀しくて、苦しかった。  
 我侭だとわかっている。使役魔が主にするべきことではない。  
 でも、止められなかった。  
「おいおい」  
 零幻は、眉を山の形にして、困ったように胸の前で両手を立てた。翼にはそれすらも哀しい。  
 まるきり拒絶されているような気がした。  
「わ、私は、わた…」  
「落ち着け」  
 やんわりと翼の両肩に手を置き、落ちつかせようとする御主人様が、彼女はいつになく憎たらしかった。  
「わ…私と零幻様は確かに契約を結びました。主(あるじ)と使(つかい)の関係です。でも、でも私は  
……私は零幻様が心配だから…だから…」  
「わーってるって」  
「わかってません!零幻様はいつもそうです。いい加減なことばかり。私の事など、亜人だからどうでも  
よいと御思いなのでしょう?!」  
「…オレが本気でお前をそんな風に思ってると?」  
 不意に真剣味を帯びた瞳に射竦められ、翼は“ひくっ”と息を呑んだ。その隙に、零幻はぐいっと肩を  
押さえ、彼女の細い肩を壁に押し付ける。  
「だ…だって…」  
「なんだよ…オレの事がそんなに信用できねぇか?こんなにもオマエを大事に思ってるオレのことをよ…」  
 “あれ?”と思う間も無かった。  
 零幻のやや面長の顔が間近に迫り、お酒の匂いの息が藍銀の前髪を揺らした。吐息は彼女の頬を撫で、  
先の尖った耳を撫でる。  
 その甘い感覚に、翼は身体のいちばん奥が“うずっ”とするのを感じた。  
「だ…んっ…で、でも…」  
 
「でも、なんだよ?信用してくんねぇの?オレが好きなのはオマエだけなんだぜ?オレが今、大事なのは、  
オマエなんだ。オマエが一番大事だ」  
 『好き』  
 『大事』  
 『一番大事』  
 なんてひどい人だろう。  
 一番言って欲しい言葉を、こんな時に口にするなんて。  
「また…そんな……」  
 翼の視線が泳いだ。  
 零幻の黒い前髪を見て、太い眉を見て、筋の通った高い鼻を見て、がっしりと張った顎を見て、ざらざ  
らと散った不精髭を見て、そして自分をまっすぐ見つめる優しい瞳を見た。  
「信じられねーか?」  
 
 捕まった。  
 
 翼はそう思った。  
 泣きたくなる。  
 泣く。  
 涙が溢れそうになる。  
「でも…んっ…」  
 それでも最後の抵抗のように抗議しようとした途端、  
 
 キス。  
 
 “んむぅ”と、吐息まで吸われるように舌をねじ込まれ、巧妙に誘い出されて、“ちゅううう”と脅え  
た舌を吸い上げられた。  
 それだけで全身が“ぞくぞく”と震え、頭がまっしろになる。  
 
『あ…だめ…』  
 思う間も無かった。  
 一度唇から離れ、御主人様の唇は涙の跡を優しく撫でた。  
 
 そして再びのキス。  
 
 容赦が無かった。  
 何度も何度も何度もキスされた。  
 食べられた。  
 嘗められ、甘く噛まれ、そして吸われる。  
 唾液を音を立てて飲まれて、その卑猥な音に腰が震えた。送り込まれる酒の味の唾液を“こくこく”と  
夢中で飲み、口の中の全てを撫で、くすぐり、嬲ってゆく力強くてしなやかな舌を、夢中になって吸った。  
 鋭い肉切り歯で御主人様が舌を、唇を切ってしまうのでは…と頭の片隅でちらりと思ったが、熱に浮か  
されたような行為にすぐに霧散して消えてしまう。  
 全身の力が抜け、自分の体が米を詰めた麻袋のように重たく感じた。  
 全てがとろとろにとろけ、全ての感覚が熱く、にぶくなってゆく。なのに、御主人様の触れる部分だけ  
が憎らしいほど鋭敏に、甘くてねっとりとした感覚を拾い上げる。  
「…あ…だめ……だめ……いや……」  
 思わずそう呟いたのは、御主人様の唇が耳から首筋を通り、喉へと至ったからだ。  
 翼の、人間の男で言う「喉仏」があるだろう場所に、ぷっくりと膨らんだものがある。それは、強大な  
力を持ち、自然界に適う者の無い龍の「唯一の弱点」と言われている「逆鱗」だった。龍は、霊的または  
呪的なものは頭の両脇にある2対の硬角で受ける事ができ、それ以外の微細な感覚情報は、極度に鋭敏な  
この部分を研ぎ澄ます事で処理をする。そのため、肉体的に成龍より脆弱な龍人の場合、皮膚の下に潜り  
こむようにして無用な接触から保護されていた。  
「…んっ!あっ…いやっ…だめっ…あっ…ぁっ!」  
 その部分を、零幻が“嘗める”。  
 舌を平べったくしたまま、べろりと野卑に。  
 細く尖らせて、つつつ…となぞるように。  
 舌先だけを動かして、つんつんと突つくように。  
 
 そして、  
「ひああぁあぁあぁぁ〜〜〜〜…」  
 零幻は、大型肉食獣が草食動物に対してそうするように、“かぷり”と翼の細く白い首に歯を立てずに  
かぶりつき、舌でべろべろと何度も「逆鱗」を嘗めたくった。  
 零幻の両肩に置いて、必死に押し返そうとしていた翼の両手が、御主人様の着物を“ぎゅうう”と握り  
締めたまま小刻みに震えた。「…ぁ………ぁ〜……」  
 ひくんひくんと細い肩が震え、固く閉じられた瞼から“つうっ”と涙がこぼれて頬を滑り落ちた。  
 立て続けに達してしまったのだ…と翼が気付いたのは、髪を優しく何度も撫でられている事に気づいて  
から。  
「翼……ああ…オマエは本当に可愛いなぁ…」  
「…いつもいつも……ひどい……」  
 にっこりと笑う“ずるい”御主人様が憎らしくて憎らしくて、ぽろぽろと涙が止まらなかった。  
「ひどかねぇよ……こんな事言うの、オマエだけなんだぜ?」  
「うそ……うそです…」  
 香の匂いがする。  
 他の女の匂いだ。  
 きっとまた他の女を抱いてきたのだ。  
 妖亀の生贄にされかけた生娘を抱いてきたのだ。  
「うそなもんか…な?触ってみろや」  
 左手を掴まれ、下の方へと導かれた。  
「あ…」  
 そこには、着物を下から力強く押し上げる、剛直な激情が在った。  
「あぁぁ…」  
 思わず吐息が洩れる。  
 さわさわと撫で、その硬さ、熱さを着物の上からでも確かめようとした。  
「こんなになんのは、オマエに対してだけなんだぜ?」  
「…すぐ他の女性(ひと)とだって、してるくせに…」  
「オマエも知ってんだろ?聖月を迎えずに他の女に精を漏らせば、オマエに与えた陰気も霧散する。そう  
なればオマエは二度と天にゃ昇れねぇ……このオレがそんなヘマをすると思うか?」  
 
「……それは…」  
 迷う。  
 こと、呪(まじな)いに関して、彼ほど真摯で誠実な人はいないだろう。  
 それは真実だ。  
 でも、やはり抱いてきたのではないのか?  
 他の女を抱いてすぐに、私を抱くのか?  
 翼の目に再び涙が溜まる。  
「オマエが大事だ。俺はオマエに幸せになって欲しい。それにゃぁ、地上にいてはダメだ。そのためにこ  
うしてオマエだけに精を与えているんだろう?」  
「それだけ…ですか?」  
「あん?」  
「それだけなんですか?わ、わた…私を…天に…」  
「…違うさ…わかってんだろう?」  
 
 キス。  
 またキスされた。  
 
 翼は左手に硬さを感じながら、御主人様の命の高鳴りを感じながら、身体の奥をとろとろにして、涙を  
ぽろぽろとこぼした。  
『ああ…私はまたこの人に騙される…』  
 哀しい想いが胸を焼く。  
 
 わかっているのに抵抗出来ない。  
 騙されるなら騙されてもいい。  
 今このひと時だけは、私を見てくれる。  
 愛してくれる。  
 だから私も、今このときだけは信じよう。  
 こころから…お慕いしているのだから…。  
 
 胸が張り裂けそうなほど愛しい御主人様の舌を嘗め、ちょっとだけ酒の匂いのする唾液を飲み込めば、  
 もう、拒むことなんて出来なかった。  
 

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