■■【5】■■  
 零幻は、翼に添い寝するようにして肘で体を支えながら、さらさらとした彼女の藍銀の髪を撫でていた。  
指で梳くようにすると、髪は指の間を流れるように滑り落ちてゆく。腰までの長さでありながら、枝毛も  
無く艶やかなのは、人あらざるもの故…だろうか。。  
「……ぁ……」  
 吹き曝しの氷河に呆然と立ち尽くした時のような冷たさと寂しさと恐さが翼の中から去ると、今度はあ  
られもない自分の姿に激しい羞恥が沸き起こる。浅く短かった呼吸が、深くゆったりとしたものになり、  
全身にしっとりと浮かんだ汗が揮発してゆくと、とろとろにとけた頭がじわじわとハッキリしてくるのだ。  
「…はふっ……」  
 身体が、どうしようもないくらいに満足している。  
 満ちている。  
「オマエ…感じやすいクセに体力だけはバカみたいにあんのな」  
「なんですかそれぇ…」  
 帯が無いまま、とりあえず汗でしっとりとした寝間着の前を合わせて、翼は剥き出しの乳房を零幻の目  
から隠した。少しひんやりとしてきた夜気が、開け放した窓から入ってくる。寒くは無いとはいえ、いつ  
までも御主人様の前で乳房も腹も、下腹さえも無防備に晒している…というのは、やはり恥かしかった。  
「オマエに付き合ってたら体がもたん」  
「……ダメですよ…責任は…取ってもらいます」  
 翼は目を瞑り、髪を撫でる零幻の手にうっとりとしながら“くすり”と笑う。  
 白い肌は健康そうに赤らみ、艶やかで張りがあった。  
「…責任って……」  
「一度抱いた以上…最後までちゃんと責任取って頂かないと…」  
「一番最初ん時は、確かオマエが無理矢理…」  
「…何言ってるんですか…そうでもしなければ、零幻様一人じゃ…とても狂王の手の者から逃れられなかっ  
たくせに…」  
「……オマエ、最近ちょっと反抗的だよな」  
 薄く開いた目で、翼がちらっと零幻を見る。じっと見つめる零幻と目が合って、ちょっとだけ胸が“ど  
きり”とした。  
「…だって…御主人様が御主人様がですから…ほら…『使(つかい)は主(あるじ)の鏡』って言うじゃ  
ないですか…」  
「言わねー」  
 
「言います」  
「…ちっ……大体よ、オレ、こんなにスケベでインランじゃねーもんよ」  
「…誰がスケベでインランですか」  
「そのくせ妙なとこ堅いし、融通利かないし、おまけにすげーヤキモチ焼きだわ、意固地だわ素直じゃねー  
わ頑固だわ…」  
「…最後の3つは全部同じ意味じゃないですか」  
「おまけに、すげーこまけーわ…」  
「…もうっ……御言葉ですが零幻さ」  
「でも、可愛いからいーや」  
「え…」  
 誰何する前に翼は、『ちゅ…』と、汗で湿った額に口付けされた。  
「も…もうっ……」  
 …何も言えなくなってしまった。  
 たったこれだけの事で、もう何もかもどうでもよくなってしまう。  
『我ながら単純だな』  
 と、翼はひっそりと溜息を漏らした。  
「さて、今日はもう寝ておけ。明日は早いぞ」  
「あ…まだ……」  
「ん?」  
「まだ……いてください…そばに…」  
 寝台から下りようとした零幻に、少し怒っているような、拗ねているような、そんな声で翼は囁き、零  
幻を逃がさないように…と彼の右手を両手で“きゅ”と握る。  
 零幻は「仕方ないな」という顔をしつつも、彼女が求めるままに寝台へ再び身を横たえた。  
「寒くはないか?」  
 零幻がそう聞けば、翼は“ふるふる”と首を振る。  
 彼の優しい物言いに、心が濡れた。  
『りょうげんさまの……せーえき……』  
 目を瞑り、下腹の中で子袋に満ちているだろう白濁した粘液を想う。  
 
>226  
 練られた陰気を取り込む事が目的であるはずなのに、今は何より、愛しい人の精を胎内に受け止められ  
た事こそがいとおしい。  
 
 ふと、想う。  
 
 今までも幾度となく浮かんだ想い。  
『…子が…欲しい………』  
 自分と、御主人様の子が。  
 わかっている。  
 それは無理な話だ。もとより、神魔的な存在である自分と人の血肉を持った零幻との間に、子など出来  
ようはずも無い。人の精は、陰気と共に子袋で受けても跡形も無く消え去り、ただ霊的循環のための触媒  
となるだけだ。  
 あと一呼吸する間もなく、下腹のぬくもりは消え去ってしまうに違いない。  
 それは、いつものこと。  
 …そう。  
 いつものことなのだ。  
 なのに、今日だけは『愛しさ』が溢れて止まらなかった。  
 いっしょにいたい。  
 ずっといっしょにいたい。  
 ずっと愛し合いたい。  
 ずっと  
「翼…?」  
 零幻の訝しげな問い掛けに、翼は“ふ…”と顔を向け、彼の手を取って自分の頬にあてた。  
 細く、長く、節くれだって、いぢわるでやさしくて愛しい…手。  
「……なんでも……ありません……」  
 
 どうして別れがあるのだろう?  
 どうして私は龍人なのだろう?  
 
 どうして零幻は人なのだろう?  
 
『私が龍人でなく人だったら……御主人様が人ではなく龍人だったら……』  
 問うても詮無いこととは知りながらも、それでもそう問わずにはいられない。  
 愛し合うたびに別れが近付き、愛し合わなければ力を得る事が出来ず、そうなれば主を狂王から護る事  
も出来ず結局……別れなければならなくなる。  
 どうあっても別れは避けられないさだめ。  
 
 数千年前から、決められていた「さだめ」。  
 
 これが自分に課せられた『償い』というのであれば、天はなんと非情なのだろう。  
 遥か昔の因果が、出会いと別れを「さだめ」とし、ただ翼を苦しめるためだけに「愛」が在る。  
『そんなこと………』  
 すりすりと愛しい人の手に頬擦りし、翼は静かに涙を流す。  
 困ったような顔をして自分を見下ろす御主人様の、見慣れた…けれど決して飽くことなどない顔を見上  
げる。  
『御大聖龍冠剛王さま……』  
 翼は心の中で、今はもう遠い昔に失われて久しい、その聖名を呼んだ。  
 自らが肉を食らい血を啜った、愛しい人の名を呼んだ。  
 数千年前、共に生きる事を近い契りを交わした彼の者は、狂王の祖と言われている現人神(あらひとが  
み)だった。  
 目の前の御主人様が石の中に封じられていた自分を解放してくれた時、翼には「そうなのだ」とすぐに  
識(し)った。  
 零幻は、神と人の子…剛王の生まれ変わりなのだと。  
 神族であることを捨て、それ故に天に罰せられ地に落ちた人の王。  
 決して結ばれてはならない二人だった。先には、破滅しか無かった。  
『それでも私達は…』  
 剛王は血肉を纏い煉獄に落ちながらも人間を護り……そして護るべき人に討たれた。  
『その愛しい人の遺言に従い、私は彼の肉を食(は)んだ』  
 口内に広がる、命を賭してまで愛した人の、肉と血の味。  
 そして、剛王の肉を食み血を啜った翼は、その咎(とが)により神々によって石に封じられた。  
 
 封じられるその瞬間、いづれ蘇り、共に生きる事を切に願って父神に祈り、聞き届けられたのは再びの  
逢瀬。  
 
 刹那の愛。  
 
 けれど、時を経た人の命は古(いにしえ)よりも遥かに短くて、ただ愛し合うしか手が無い。  
 また魂は同じであっても、そのありようには埋められぬ落差があった。  
 剛王は高潔であった。  
 清廉であった。  
 慈愛は深く、翼を頼ってみせる余裕も持っていた。  
 翼はただ、彼に全てを委ね、愛し、求め、そして与えれば良かった。  
 零幻は、剛王とは似ても似つかない。  
 むしろ正反対ではないかと思った。  
 そう思っていた。  
『でも……』  
 力を得るため零幻に抱かれた時、剛王と同じものを感じた。  
 いや、あの方よりも、遥かに激しく、熱く、そして哀しい魂を感じた。  
『そう…』  
 最初は、剛王の生まれ変わりなのだから…と「愛そうとした」。  
 けれど、今では。  
「りょう…げん…さま…」  
 翼は涙のいっぱいに溜まった瞳で、愛しい御主人様を見上げ、彼の手を自分の寝間着の間に滑り込ませ  
る。  
「…ん……」  
 そして、自ら右の乳房にかぶせた。  
 
「翼…?」  
「零幻様…私は…………」  
 御主人様の手は、乳を揉むことも捏ねることもなく、ただもったりと重たい肉を手の平で覆っている。  
しっとりとした肌が零幻の手に吸いつき、やわらかかった乳首が主の手に反応して少しだけ硬くなった。  
「…私を……捨てないでください…」  
 唇を割って出たのは、意図したものとは違う言葉。  
『私は最後まで零幻様の御側にいます』  
 そう言いたかったはずなのだ。  
 なのに。  
「アホか」  
 
 …鼻で笑われた。  
 
 じわわわっ…と涙が浮かぶ。その翼の唇に零幻は慌てて口付けして、鋭い肉切り歯を“ねろっ”と嘗め  
た。翼はすぐにその舌へむしゃぶりつき、送り込まれる唾液を“こくこく”と飲む。  
 それは甘露であり、蜜であった。  
「オマエはオレのものだ。だからこのオレが、天に必ず還(かえ)してやる。それまでは、逃げたくなっ  
ても逃がさねーよ」  
 唇を離して、間近から瞳を覗き込む彼の言葉を、翼は「信じたい」と思った。  
 
 …「信じよう」と、思った。  
 
『私にはもう、この人しかいないのだから』  
 
 
    ■■終■■  

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