「私がここにいる理由」  
 
 
■■【プロローグ】■■  
 
 爆炎。  
 
 “ごどんっ”と、一抱えほどもある大岩が地に落ちたとしても立てぬだろう硬質な音を響かせ、圧倒的  
な熱量と共に紅蓮(ぐれん)が押し寄せる。睡蓮(すいれん)の群生に身を隠すようにしていた巨大な黒  
岩が、脅(おび)えたように水面に身を沈めると、高らかな嘲笑(ちょうしょう)をもって打ち出された  
不可視の力が水を文字通り“割った”。  
 すっぱりと庖丁(ほうちょう)を立て切ったかのような水断面が“ざあああっ”と音を立てて左右に割  
れ引き、のそのそと蠢(うごめ)く牛ほどもある黒岩を、ようやく晴れかけた雲間の陽光に晒(さら)し  
出す。  
 なぜ、岩が蠢くのか。  
「ふはははははっ!」  
 侮蔑(ぶべつ)にまみれた嘲笑は、捲(まく)れあがった赤い唇の間から、鋭く尖った肉切り歯を覗か  
せる一人の少女から発せられたものだ。ひらめく裾(すそ)は長衣(ながころも)のものであり、水面よ  
り子供の丈ほどの高さで風も無いのに舞い踊っている。“それ”が、水を割った不可視の力の余波によっ  
てのものだ…と知るのは、宙に足場も無く立つ少女以外には、たった一人しかいなかった。  
 その一人は男であり、歳も30に届くかと思われる黒髪の旅人。旅人と呼称するのは、その者の装束  
(しょうぞく)に、この地方の村村では決して無いであろう豪奢(ごうしゃ)な刺繍(ししゅう)が縫い  
込められていたためである。その刺繍は一見ただの糸で在るように見えるものの、表面をチリチリと走る  
細かな紫電(しでん)に応える如くぼんやりと薄赤い輝きを見せれば、誰の目にもそれがただの刺繍では  
ないと理解(わか)るものだ。  
「よおし!今だ!」  
 少女はその声の主に視線をくれることも無く、ただ眼前の黒岩を見やる。  
 少女とは言っても人の子の歳で言えば17・8の年頃の娘。既に「女」と呼称して良い歳に見える。不  
可視の力にたなびく髪は腰まで美しく流れ、色は藍と銀を熔かし込んだかのような光を弾く鮮やかな色彩。  
肌の色はどこまでも白くなめらかで、黒の長衣との対比が素晴らしい。また、体躯は成熟した人の娘のそ  
れであり、豊かに張り出した乳房は今にも長衣を内側から破いて飛び出してしまいそうなほどだ。  
 
 その少女の藍銀の髪が風に煽(あお)られ、可愛らしい耳が日の光を浴びた。  
 その耳は人の子のものではなく、先端が尖った魔性の印。見れば、その耳のすぐ上よりねじくれた大鹿  
のような硬角が覗いている。  
 少女はその可愛らしい唇をうっすらと開き、“すうう”と息を深く吸い込むと、大音声(だいおんじょ  
う)で叫んだ。  
「我の目を誤魔化せると思ったか!甘いわっ!我、青海南方!海神(わだつみ)三神の一柱、雷鳴と針雨  
の剛王!天界ニ印大ル・パルトの一子!カルパダル=ド=ダルー…」  
「なげーっつーの!はよやれっ!!」  
 “すかぽーーーんっ!”と少女の頭に何がぶち当たり、跳ねてすぐさま湖面に落ちた。  
 ぷかりと水面に浮いたのは、泥のついたクツが片方。  
 見れば、先ほどの男の右足が裸足だった。  
「……今、いいところなのにぃ〜…」  
 少女はせっかくの見せ場をいきなり断ち切られ、ぶちぶちと呟きながら軽く頭を振った。藍銀の美しい  
絹髪についた泥が、たちまち乾燥し、風に吹き拭われ、跡形も無く消える。  
「はよやれ。逃げられたら何のためにこんな時間まで待ってたかわかんねーだろーが」  
「はぁい…」  
 しょんぼりと肩を落とし、恨みがましい目で男を見やった少女が視線を戻せば、黒岩がのそのそと湖の  
より深い処へと移動してゆくところだった。  
 見れば、四肢が在る。尾が在る。ギョロリと怨嗟(えんさ)に濁(にご)る赤い目を光らせた、巨大な  
顎(あぎと)の頭が在った。  
 黒岩は、歳経た大亀であった。  
 ゴツゴツとした甲羅には苔が生え水草が絡み、その水草に埋もれるように、所々に黄色く変色した、も  
とは白かったのであろうものが見えた。  
 それは骨であり骸(むくろ)。この妖亀に生きたまま湖に引き擦り込まれ、食われた人々の亡骸(なき  
がら)だった。  
 少女はそれをつまらなそうに見て、“ふう”と溜息を吐(つ)き、たった一言、  
「落ちろ」  
 と言った。  
 その途端、雲が割れ青空が広がりつつある天空より、一条の光が気を裂き空を震わせ、妖亀の上に轟  
(とどろ)き落ちた。  
 
 
■■【1】■■  
 旅の道すがら、通りかかった村で化け亀退治を請け負ったのは、今朝の事だ。  
 人であって人にあらず、ただ人の形(かた)に似て在る者。  
 人に次ぐ者。  
 亜(あ)なる者(もの)。  
 
『亜人』  
 
 そう呼ばれる使役魔を連れた旅人が、中央より遥かに離れた辺境の地を訪れる事は滅多に無い。街道が  
近く、隣国からの行商が立ち寄る町が麓(ふもと)に無ければ、誰も立ち寄らないような山奥の村だった。  
 路銀が底を尽きかけてはいたが、元より報酬をもらうつもりは無かった。  
 だが、それでは命永らえさせてもらった義が立たぬ…という理由で、男は村長(むらおさ)から少々困っ  
た『報酬』を受け取ることとなった。  
「なぁ〜〜〜〜にが、困った報酬、ですかっ!」  
 村長が用意した一軒家で、ほっぺたをふくらませて目の前の男を睨み付けているのは、先ほど傲岸不遜  
(ごうがんふそん)な態度で大音声を響かせ、泥付きのクツを頭にぶつけられた挙句、せっかくの決め台  
詞を「長い」の一言で止めさせられたあの少女だった。  
 少女は身体にぴったりと張りつくような黒い長衣の裾を翻(ひるがえ)し、左手を“ばしん”と机に叩  
き付ける。ほっそりとした長い指には真珠のような光沢の長い爪があり、その薬指には精緻な細工を施さ  
れた金の指輪が光っていた。  
「だがなぁ翼(タスク)、せっかくの申し出を受け取らないわけにはいかねーだろ?」  
 夕闇が空を染め始め、残照が背後の山を照らしている。その様子を横目で見ながら、少女に憮然とした  
顔で睨まれた男はボリボリと頭を掻いた。  
「断ればいいんです!だいたい、こんな処でじっとしていられる御立場ですか!?王都からの追っ手は、  
もうすぐそこまで来ているのですよ?」  
「まだいーじゃねーか。あいつらも狂王の言う事なんか、まともに聞く気なんてねーさ」  
「それが甘いと言うんです!」  
 “ばん!ばん!ばん!”と机を両手で叩き、顔を顰(しか)める男を少女―翼(タスク)は真っ赤な顔  
で睨んだ。机を叩くたびに目を見張るほど突出した、実に重たそうな胸がゆさゆさと揺れる。  
 
「零幻(りょうげん)様は、王のあの御乱心を、身をもって体験なされたのに、まだそんな事をおっしゃっ  
てるのですか?!少しは自覚して下さい!今、この国随一の呪人(まじないびと)である御主人様が、再  
び王に捕縛(ほばく)なされるような事があれば、この国は終わってしまうのですよ?滅んでしまうので  
すよ!?しかも滅びはこの国だけではなく、今まで見てきた、数々の国々で幸せに慎(つつ)ましやかに  
暮らす、様々な人々にまで及ぶのです!」  
「…わーってるって…」  
「いーえ!わかってません!御主人様は、この私と狂王の手の届かぬ最果ての国を目指して下さるのでは  
無かったのですか?この私を目覚めさせた御主人様が、万一捕まるような事にでもなれば、私はその者の  
言うなりになってしまうのですよ?それでも平気なんですか?!」  
「勝手に目覚めたんじゃねーか…」  
 男――零幻が余所(よそ)を見ながらボソリと言うと、翼は“ギロリ”と、それこそ野鹿でも一瞬でぶっ  
殺してしまいそうな目で彼を睨みつけた。  
「…っと、時間だなぁ〜…っと」  
 それでも、そ知らぬ風をして零幻は立ち上がり、入り口に向かう。  
 その前を、いったいいつ移動したかわからないほどの素早さで、翼が立ち塞がった。  
「おめーもしつけーなぁ…」  
 うんざりした顔で、零幻は不精髭の生えた顎を“ぞろり”と右手で撫でた。少し長い髪の毛を後で乱暴  
に一まとめに縛り、ゆったりとした腰までの着物とズボンを履いているため、一見、どこかの剣人(けん  
と)のように見える。戦(いくさ)を生業(なりわい)とする剣人とは比べるべくも無いが、零幻も、着  
物に隠れてはいるものの、それなりに良い体つきをしていた。  
「いい加減にして下さい!今はこのような場所にぐずぐずしているような時ではありません!」  
 背の高さは、零幻と翼では頭1個分ほども違う。翼の、左右に2本づつある硬角を含めて、ようやく零  
幻と同じくらいの高さかもしれなかった。  
「どけよ」  
「いいえ!今日こそは言わせて頂きます!」  
 
 ずいっと前に一歩踏み出し、翼は気丈に己の主人を見上げた。いつも見慣れた細長い顔が、なぜかひど  
く恐く感じる。炎の術を得意とする零幻と、水と雷を操る翼では、はっきり言って翼の方が遥かに分があ  
る。本気でやりあえば、きっとそれほど時を経ずして主人を組みする事は容易いに違いない。  
 けれど、それは左手の薬指に指輪がはまっている限り、無理だった。  
 いや、もし仮に指輪を外しても、翼に零幻を攻撃する事など………  
「だいたい、報酬と言って、生贄になりかかった娘を差し出すという村長の真意からして疑わしい。これ  
は狂王の手の者による罠かもしれないのですよ?零幻様が女性(にょしょう)にだらしないという事を知っ  
ている宰相が、このような罠をしかけたのかもしれないのです!」  
 “ふんっ”と鼻息も荒くそう言うと、翼はゆさりと重たげに揺れる胸を主人の腹に押しつけて、「ここ  
は通しません」とばかりに両手を広げてみせた。  
 …と、不意に零幻の顔が“にやり”と歪み、翼の頭から足の先までをじろじろと無遠慮に眺める。  
「…ははーん…おめぇ、ヤキモチ焼いてんな?」  
 途端、翼の顔が“かあああっ!”と赤く染まった。  
「なっ…何を…」  
 “ふんっ”と鼻で笑い、目を逸らす。本人はそれで誤魔化したつもりだろうが、明かに動揺していた。  
「そうかそうか…ヤキモチか…へー…ほー…」  
「なっ…なななな…なにを…そんな…」  
 顔を覗き込もうとする零幻の目から逃げるように、翼は顔をあっちこっちへと背ける。  
「わっ…私はべつに…零幻様が、何しようと、一向に構いません」  
「つれないねぇ…。昨日だってあんなに熱く愛し合ったのに…つめてーなぁ」  
「なっなななななななななななな…あ、あれはっあれは天仙昇華の術式を練るために仕方なく……そ、そ  
う、そうです!仕方なく、です!そうしないと私は天界に昇れませんから、だから、仕方なく、です!」  
「仕方なく…ねぇ…」  
 真っ赤な顔でしどろもどろに口紡(くちつむ)ぐ様は、どこからどう見てもウソを言っているようにし  
か見えなかった。  
 零幻は“ふふん”…と余裕を浮かべると、  
「それにしちゃ、随分と善がってたじゃねーか」  
 と言った。  
 
「よが…」  
「『ああんっ!零幻さまぁ〜〜〜』ってな」  
「なっ!なっ!なっ!なっ!」  
 今度こそ決定的だった。  
 翼の顔が色付いた「ほおずき」のように真っ赤になり、気が立ったせいか硬角の表面を青い  
電光が“パリパリ”と走る。  
「いっ…いいいいくら零幻さまでも言って良いことと悪いことがありますっ!!」  
「ほお〜」  
「そんなだから、いつも大事な人を護れないんですよ!」  
 瞬間、時が止まった。  
 翼は、自分が何を口走ったのか、自分でもわからなかった。一瞬だけ、頭が真っ白になった。  
「…ぁ……」  
 時が、動く。  
 開き戸の開いた窓枠に、小鳥が止まり、ひと啼きして、再び飛び去って行った。  
「…ったく」  
 ガリガリと零幻が頭を掻いた。  
 “ふう”と溜息を吐いた。  
 それだけで翼はもう身を縮み上がらせ、首を竦め、自分の主人の胸の内を思って恐れ戦(お  
のの)いた。  
「なあ、おめーは、オレの何だ?」  
「え?…い、いきなりなにを…」  
「何だ?と聞いてる」  
 怒っている。  
 わざわざ確認しなくても、声音だけでわかった。  
 自分はこの主人と、もう8ヶ月近くも一緒に旅をしているのだ。  
「そ…それは………使役魔…です」  
「そうだ。そしてオレはお前の、なんだ?」  
「……御主人様です」  
「そうだ。なあ、その使役魔のお前が、なんで主人であるオレに立てつくわけ?」  
 冷たい、言葉だった。  
 今まで、零幻が自分と翼の立場をこれほど明確にした事は、ここ2ヶ月の間無かったはずだ。  
 
 翼にはわかっていた。  
 これは、自分が招いた事だ。決して触れてはいけない、御主人様の傷を抉ってしまったのだ。  
「わ…私は別に……」  
「イヤなら、その指輪を外せ」  
「…えっ!?」  
 一瞬、翼は何を言われたのか、わからなかった。  
 零幻が練って念刻した指輪を外す。  
 それは、主従の契約を解消するという事だ。  
「外せ。そーすればお前は自由だ。オレを食うも殺すも自由だ。だが、そうすれば日が3度昇る前にお前  
はまた石になる」  
「…っ……」  
「石になって、また何千年もたった一人で、一人ぼっちで、誰にも知られず、誰にも気付かれず、誰にも  
顧(かえり)みられる事も無く、ただの石として暗闇に沈む。それでもいいなら、その指輪を外せ」  
「……りょ…零幻さ…ま…」  
 冷たく暗い王都の、宝物殿地下壕に打ち捨てられるように転がっていた石。  
 それが、数千年前、龍神の娘でありながら神に連なる王の肉を食らった罪で姿を変えられ封印された翼  
だった。その翼を、偶然とはいえ、再びこの世界に解き放ってくれた恩人。それが零幻だった。  
 王が反天し、天意に背いて狂王となり、翼は彼の身を護って王都を脱した。  
 それから、様々な事があった。  
 呪人は亜人を使役魔とする際、その精気を分け陰気を練り、力とする。陰気を受け『刻魂』するたびに、  
亜人は強くなってゆく。  
 また、龍人である翼が父神である龍神のおわす天界に昇るためには、それはどうしても必要な事だった。  
 
 だから、精を通じ零幻から陰気を受けた。  
 肌を…合わせた。  
 
 数千年生きて、初めての体験だった。  
 零幻の精を身体の奥深くに受け、そして零幻の魂の空洞を知った。飄々(ひょうひょう)とした面影か  
らは想像も出来ないほど、哀しい体験を経てきたのだと知った。  
 
 何度も……何度も何度も、肌を、合わせた。  
 肌を合わせ、  
 貴方には私が必要です。  
 私には貴方が必要です。  
 そう、言葉に出来ない言葉を伝え続けてきた。  
 つもりだった。  
 
 けれど。  
 
「もう一度聞くぜ?お前はオレのなんだ?」  
 御主人様の…愛しい人の言葉が、冷たく心を裂いてゆく。  
 俯いた翼の目から、ぽたぽたと涙がこぼれた。  
「……使役魔……です…」  
 翼は、そう呟いて、そして、閉まる扉の音を……聞いた。  
 

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