昼前に降り出した雨は、講義が終わっても止む気配は無く
雷音こそ遥か彼方に退いたものの、肝心の雨脚は、以前強いままだった。
「あー、これは“お迎え”を優先しないと、不味いな」
いかにも人が良い……と言うか、ちょっと頼りなげにも見える顔つきと
長めの手足を自分でも、あまり上手く捌けてない風の身のこなしを除けば
別に、コレといった特徴が無い青年は、傘をしっかり持ち直すと、無造作に
水たまりを踏み壊しながら、足を速める。
幼い頃から、母親顔負けにあれこれ世話を焼いてくれて、大学を卒業するまでは
自宅マンションに居候する事も許してくれている姉が、いきなり倒れたのが、3日前。
まぁ、ソレは“おめでた”の所為だってすぐに判ったものの、一応大事を取って
しばらく入院する事になって。
多分、明日には“現実逃避”をしている義兄が、こっち側に帰ってくるはずなので
それまでは幼い姪の“面倒”は、すべて自分が見るのは当然、と思っているのだが
それでも友人が誘ってくれた“お食事会”を断らざるを得なかったのは、少し……
いや本当は、かなり惜しい気がする。
「“クレール・ド・リュンヌ”か、行きたかったなぁ……」
もっとも彼の場合、“会場”の『今、予約がなかなか取れない事で有名な
フレンチ・レストラン』の方に未練たらたらで、肝心の“お相手”の方々には
とんと興味が無い。
友人たちは『聖・白百合女学園高等部の、本物のお嬢様方がいらっしゃる』
と言う事だけで、異様に大盛り上がりしてたのだけれど。
「今日の合コン上手くいって、次の会場も“クレ・リュン”に……、なる訳ないか」
そんな埒もない事をつらつら考えていたら、いつのまにか足が勝手に
目的地である“幼稚園”じゃなくて“居候先”を目指していた。
「っと、ここからなら公園を突っ切って……ん?」
傘をばらばらと叩く雨音の中にかすかに混じる、甲高い『ニー、ニー』という声に
導かれるように、公園一大きな木の方に歩を進めると、その根元になにやら
見覚えのある小さな黄色いレインコートが二つ。
しきりと、木の上の方を気にしている様に見える。
(アレは、ひょっとして?)と思いながら彼が近づくと、その足音に気付いたらしく
黄色の固まりが振り向いて……。
「おにーちゃん!」
「エリカ!」
やはり一人は姪っ子、もう一人は確か同じ階の……。
「どうしたの、こんな所で。僕が迎えに行くまで、ちゃんと待って……」
「おねがい、おにーちゃん! おねーちゃんとアンズをたすけて!」
「え?」
姪と姪の友人のトオル君とやらが、いきなり両脇からしがみ付いて来たので危うく
バランスを崩しかけたものの、なんとか踏みとどまる。
「あのね『あめふってきたから、ママのくるまでいっしょにかえろう』って、それで
『おにーちゃんがかえってくるまで、ぼくんちでアンズといっしょにあそぼう』
って、トールちゃんがいってくれたの。だけど、かみなりにおどろいたアンズが
にげだしちゃって、さがしてたら、このきのうえに……」
姪が指差す先を見上げようと、彼が頭を動かしたのと
その声が降ってきたのは、ほぼ同時。
「こっち見たら、殺す」
「え?」
頭上3m、一番太く張り出している枝の先には子猫が、一匹。更に、その中ほどに
ずぶ濡れの少女が、一人。真っ青な顔で歯の根が合わないくらいがたがた震えながら
それでもなんとかしがみついていた。
「え?え?え?」
「でね、エリカとトールちゃんがこまっていたら、おねーちゃんが
きにのぼってくれたの。
でも、アンズどんどんはしっこにいっちゃって、うごけなくなって……。
だから、おにーちゃん、おねーちゃんとアンズをたすけてあげて!」
「……あぁ、解った、解ったから」
結構長時間雨に打たれていたらしく、子猫の方はなんだか『ぞうきん』に
なりかけてるし、女の子の方も、あまり長持ちしそうに見えない。
「えーと、トオル君の家には、今誰か居るの?」
「ううん、ママおかいものにいっちゃった」
「そうか……。エリカ、新しいタオルのある場所判る?」
「わかる! おっきいの? ちっちゃいの?」
「小さい方を5枚くらい持って来てくれるかな、トオル君と一緒に。
急がなくて良いから、転ばないようにね。鍵は、携帯のこのボタンを押して」
「はーい」
黄色い固まりが手を取り合って、マンションの方にてちてち走っていくのを
見送ってから青年が改めて頭上を見上げると、今度は間髪入れずに携帯電話が
飛んできた。
「見たら、殺す!!! って言ったでしょ?!」
「うん、そうだったね。でも、その為にはまずここに降りてこないと……」
逆手で受け止めた携帯電話を濡らさない様、自分の上着で包み、その上に
木の根元に脱ぎ捨てられていた彼女の靴を乗せたものを、傘の下に収めながら
さてどうしたものかと考える。
手元に携帯電話が有るのに、何処にも助けを求めなかったと言う事は、この救出劇を
あまり大事にしたくないのが彼女の意向と思われるので、自力でなんとかするしかないし
何処かに梯子を借りに行こうにも……。
「ねぇ、君。もう30cmほど後ろに動けない?」
「……アンタ、莫迦? 今、あたしが動いたら、あのコが落っこちゃうじゃない!」
打てば響く様な、だけど自分の心の一番奥深い場所にすとんと収まる
とても綺麗な声をずっと聞いていたい、と思いながらも青年は決断した。
「ごめん、もうしばらくしっかりつかまってて」
「え?! 何するつも……」
高く、高く、誰よりも早く掴み取るために、もっとも高く飛び上がる。
リバウンドを取りに行くあの瞬間を思い出しながら、彼は力一杯ジャンプした。
そして目論見通り、枝を揺らすことなく子猫の体だけを軽く突っついて
それが、必死にもがきながらもなんとか自分の胸元に落ちて来る様、上手く誘導する。
「痛てて……、こら引っかくな」
手の中でじたばた暴れる子猫を壊さないように、軽くホールドしながら
着地して、三度少女の方を見上げた時、青年は信じられないものを見た。
少女が、飛び降りた。
『バランスを崩して』とか『自重に耐え切れなくなって』ではなく。
瞳も閉じず、口元には微笑みを浮かべて、彼女は真っ直ぐ地面に向かって身を投げる。
重い砂袋を勢い良く地面に叩きつけるような音と、破裂音にも似た短い悲鳴。
華奢な骨格と柔らかな肉体でも、3mの高さと変な姿勢で受け止めた場合には
立派に凶悪な殺傷武器になりうる事を、ダイレクトに体感させられて
(あぁ、もっと体鍛えなきゃ、不味いな)とか思いながら、彼はあっさり意識を手放した。
『キティズ モノローグ』
(……こんなところで、何やってるんだろう、あたし)
結構広めの浴槽で、小っちゃくてすごく可愛い女の子と肩を並べて
たっぷりとしたお湯に浸かりながら、少女はぼんやりと考えていた。
生まれて初めて嘘ついて、迎えの車をそのまま帰らせて
生まれて初めて木に登って、子猫を助けようとしたけど失敗して
生まれて初めて飛び降りたけど、それは全然知らない男の人の上に……で。
てっきり(あたし、この人、殺しちゃった!)とか思ったけど
男の人の体ってあたしが思ってたより随分、頑丈に出来ているらしくて
しばらくして彼が目を覚ました時は、心の底から本当に安心した。
だけど、あたしの事をすごく真剣な顔でじーっと見つめて
『イズラーイールかと思ったら、ガブリエルか……』って
呟いたのには、なんだか総て見透かされてるような気がして、とてもドキドキした。
でも、その後は別に何にも言わずに、自分の上着をあたしに着せて
子猫をあたしに渡すと、自分が濡れるのも構わずに、黙ってずーっと
傘を差しかけてくれてた。
胸元の子猫が甘えてゴロゴロ喉を鳴らしているのと、絶え間無い雨の音を
聞いてたらなんだか急に泣きたくなったけど、その前にタオルを持った女の子と
男の子がやって来たから、多分……ううん絶対、気づかれてない。
で、男の子と子猫を彼らの家に送って行ってから、別に何でもない事の様に
『濡れた服を乾かさないと、風邪引くよ』って今、彼と女の子しかいないらしい
居候先に誘われて、彼の服を借りて着替えたら、なんだかすごく自然な流れで
『晩御飯、食べてく?』って事になって、あまつさえ『お風呂、沸いてるから』なんて
極めて無造作に勧められたに到ってやっと(あぁ、この人から見たあたしって
ちょっと変わったジョシコーセーじゃなくて、拾ってきた子猫みたいなモノなんだ)
って事に、少々世間知らずなあたしもようやく気付かされて、そしたら
なんだかすごく悔しくなって、その後一言も口をきかずに、露骨に彼を無視し続けた。
(……だって今、あたしの隣でふにふに言ってるエリカちゃんは、ほんと可愛いし)
妹が欲しかったなぁ……って思ってた、何時も。
お父さんが、何人もの愛人作って、全然家に帰ってこなくても
お母さんにとって、お父さんやあたしは透明人間みたいな存在だとしても
誰かが、あたしの事を好きでさえいてくれたら、それだけで平気!
って、思いたかった、ずっと。
なんだか又、目の前がぼやけてきたので、慌てて立ち上がろうとして……。
「おにーちゃーん!」
「何、エリカ? もう上がるの?」
「ううんー。あのねー、おねーちゃんがおぼれてるー」
「え?」
『ドッグズ モノローグ』
……はい、正直に告白します。
『女の子を泣かすヤツは、人間のクズ!』
それが、僕の姉の幼い頃からの持論でした。
そして、その件について反論どころか、ちょっとでも反感の兆し的反応を
彼女が認識した途端、場所も相手も一切構わず、悪し様に罵られつつフルボッコ。
当然、今まで一度も勝てた例は、有りません……。
だからどんなに、小っちゃくて、柔らかくって、可愛くて、いい匂いがして
物凄く、自分的ストライクゾーンど真ん中の人だったとしても
女の子ってのは、丁寧に扱わなきゃいけないコワレモノな訳で……。
『キティ アタック ドッグ』
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。
見てません、全然見てません。
……正直、ちょっと触ってしまった事は、認めます。
けど不可抗……いや、コレは卑怯な言い訳です。
本当に、すいません」
「……」
莫迦みたいに必死に謝っている青年にとって、少女の沈黙は
ウラン238より遥かに重い。
しかも、今やその存在自体が、取り扱い注意! な、スーパー特異点化してるだけに
姪が眠そうに目をこすりだして、それに気がついてくれた少女が無言のまま
顎をしゃくって『出てけ』の意思表示をしてくれた時にはかなり、ほっとして。
「おにーちゃん、おねーちゃんおこってないかなぁ」
「……うん、多分……」
「エリカのこと、きらいになってない?」
「大丈夫、嫌われているのは僕だけだから」
「おにーちゃん、ちょーどんかーん」
「……もう、寝なさい」
どんどん一人前な口を利いてくるようになった姪をやっと寝かしつけた彼が、静かに
子供部屋のドアを閉めて廊下に出た時、居間のソファで横になっているはずの少女が
目前にぽつんと佇んでて、彼女が羽織ってる自分のドレスシャツのボタンが、全開状態。
しかもその下には、何も着けてないのに気付いた瞬間、回れ右してしまった事を
軽率に、意気地無しと決め付けるのは、少々酷な事なのかもしれない。
「ごっ、ごめん。全然気がつかなかった。で、かなり遅いけど、今からでも君の家……」
「……アンタの部屋、何処?」
「え?」
「何度も同じ事言わせないで。アンタの部屋は、何処?!」
「……右手の奥、です」
「そう」
少女は、その小さい白い手で、青年の右手首をしっかり掴むと
先に立って、ずんずん歩き出だした。
半分引き摺るようにして、生贄を目的地に連れ込むと
彼女はくるりと鮮やかなターンを踏み、素早く二人の位置を入れ替えて
体当たりを喰らせるように、彼をベッドの上に押し倒し、圧し掛かる。
そして、その勢いを殺さぬ為に、噛み付くようなキスをした。
下品なくらい歯がガチガチ鳴っているのを決して気取られない様、彼女なりに
精一杯もったいぶりながら唇を離し、態と見せつける為にゆっくり舌なめずりする。
突然何が起こったのか、イマイチ飲み込めていない様子の青年の表情は
忠実な番犬が愛するご主人様の無謀な指示を、それでも力の限り実行しようと
一生懸命考えてる風にも見える。
ならばそれに相応しく、残酷な支配者は、最大限の威厳を持って
次の段階に進まなければならない。
十分手馴れた女に見える様、細心の注意を払って、彼の広い胸に頬をすりよせる。
同い年の無邪気な友人たちが彼女に語る、目も眩むような男女間の御伽噺を
頭の中で何度も反芻して(こんなの、あたしに取っては全然なんでも無い事だから)
と必死に言い聞かせながら、言葉を繋ぐ。
「……アンタだって、最初からコレが目的だったんでしょ?
だったら、さっさと済ませてしまいましょうよ。
あたし、もうとても眠いの。
でも、途中で寝てしまうようなみっともないマネしたくないし……」
黙ったままの青年は、少女のしなやかな髪の感触を唯、愛でる。
その手の動きは、自分の身も心もとろとろに溶かし、あたしをまったく違う
あたしに変えてしまう……。そんな予感めいた思いを即座に切り捨てて
彼女は、喘ぐような息遣いで矢継ぎ早に畳み掛けた。
「……アンタって、ほんとイジワルね。
女の子に、なにもかも言わせるようなプレイがお好みなの?
それならそうと早く言ってよ。
あぁ、それならアンタの服もあたしが脱がせて上げた方が良いのかな?」
「……やめなさい」
静かに響くやさしい声。
なのに、なんでこんなに切なくなるのだろう?
「……お金なら、今回はイラナイ。
食事と、お風呂と、今晩一晩泊めてくれれば、それでチャラ。
もっとも『朝まで寝かせない』って言うんなら、それはそれで」
「もう、いいから、やめなさい」
変な気持ち。
すごく、変な気持ち。
「ビョーキは持ってないから、安心してね。
ピルだって、忘れずきちんと飲んでる。
アンタが望むなら、お口でも、あっちの穴でも。
……んもぅ、なんて外しにくいボタンなの!」
「それは、君の手が震えているからだよ。
本当に、や・め・な・さ・い」
けれど少女は、自分が自分自身であり続ける事に、固執する。
「あたしに指図しないで!」
「じゃあ『お願いします、やめて下さい』……これなら、良いの?」
「ふん! アンタのお願いなんて、あたし聞く耳持ってないから。
……駄目だわ、やっぱり外せない。
ねぇアンタ、コレ引きちぎられたくなかったら、自分で……」
自分の心の中で荒れ狂う後悔という感情を、決して認める訳にはいかない
少女は、理不尽な怒りの力で己を精一杯鼓舞しつつ、この空気の読めない莫迦な
生贄をせせら笑い、出過ぎた真似を叱責すべく奮然と頭を上げ、思わず声を失った。
軽蔑でも、嘲りでも、哀れみでも、無い。
果てしない信頼のみを宿した真っ直ぐな眼差しが、彼女にじっと注がれていた。
彼は彼女ごと上体を起し、その胸元で未だ震えの止らぬ無垢な手を子猫を抱く時の様に
柔らかく握り締めながら、囁いた。
「君にも大好きな人がいるでしょう?」
「そんな人、いない!」
(……違う、違う。本当はこんなコト言いたいんじゃない)
「今はいなくても、その内、きっと出来る」
「ううん、絶対に出来ない!」
(『ありがとう』って、『うれしかった』って、『ごめんなさい』って)
「必ず何処かに、いる。何時かきっと、訪れる」
「要らない。そんなモノ、永遠に要らない!」
(言わなきゃ、今すぐ言わなきゃ)
「それはまだ、君が知らないだけだ」
「じゃあ、アンタがあたしの何を知っているって言うの!?」
(コレだけは、莫迦なあたしにさえ解かる)
だけど、ほら、もう一押し。
そうすれば、絶対変わらないモノを、少女は又一つ手に入れる。
「あたしの事、なんにも知らないくせに、偉そうなコト言わないでよ!」
(この気持ちは、一生続く!)
最初っから信じなければ、裏切られても悲しくなんかない。
最初っから欲しがらなければ、無くしまっても悔しくなんかない。
最初っから一人なら、誰も愛してくれなくても寂しくなんかない。
あたしを、惑わせないで。優しく、壊さないで。
脆く儚い夢を、一緒に見たいなんて思わせないで!
しばらくの沈黙の後、青年は少女の体の下からゆっくり這い出すと
ドアに向かって歩き出した。
「……ごめん、言い過ぎた」
なんでそこで彼が自分に謝ってくるのか、少女にはとても理解出来ないけれど
それでも自分自身の見っとも無さを、莫迦みたいにぼろぼろ泣くしかない愚かさを
そして、その行為が彼に余計な負い目を強いている事を自覚しながらも止められぬ
自分の矮小さだけは、はっきりと思い知らされる。
「本当に、ごめん。
……会った時から、君を怖がらせてばっかりで……」
『あたし、アンタのことなんか、全然怖くない!』そう言い返そうにも
喉の奥底から勝手に搾り出されてくる嗚咽を、飲み下し続ける事が
ひどく苦しくて、いっそこのまま死んでしまいたい。
「ごめん、本当にごめんね。
……うん、君の好きにするといい、君の気のすむように……。
僕は、エリカと一緒に寝るから、君はココを使うといい。
幸い、シーツは替えたばっかりだし、枕や毛布は裏返して使えば
少しはマシかもしれない」
あたしの耳元で、あたしの名前だけを、ずっと囁いていて欲しい声が
あたしから遠ざかっていくのに、体が動かない。
「…おやすみ、悪い夢を見ないように。
明日の朝まで、ぐっすりおやすみ……」
静かにドアの閉まる音。
それは、少女の胸の中で最後の審判の始まりを告げる
トランペットの音にも、等しく響いた。
『ドッグ アンド キティ』
確かに、開廷を告げられたはずの最後の審判。
しかし、彼の人以外の誰が、少女を弁護してその重荷を軽減出来るのか?
だから彼女は、自分自身で己の魂を天秤にかけ、断罪し、罰を与えるしかなかった。
「おねーちゃん、おはようございます」
雨上がりの朝日が照らす食卓の向こう側から満面の笑みを浮かべ
椅子を蹴倒す様な勢いで駆け寄って来た女の子が、戸惑う少女の手を引いて
自分の隣の席に誘導する。
「おはよう、良く眠れた? 朝ごはん、もうすぐ食べられるから」
なにも変わらぬ優しい声が、早くもこの場から逃げ出したくなっている
彼女の心に、鞭を打つ。
昨晩、ほとんど眠れずに、ずっと考え続けていたのは、一体何のためなのか。
何度も何度も頭の中で繰り返し選びに選び抜いたはずの、でも結局は堂々巡りになって
ちっとも上手く伝えられそうに無い、自分の本当の思いを告げるのは今、この時のはず。
「……あっ、あの……」
「ん? ちょっと、顔が赤いね?……風邪かな?」
「え? ……あ、きゃっ!」
いきなり額に当てられた大きな手が、寝不足で火照った体にひやりと心地良い。
だけど、青年が少女の顔を間近に覗き込んだ瞬間、彼女の体の奥深くで起こった
反応は断じて、風邪の所為なのではなく。
(……アレは、親友の作り話のはずじゃ……)
それを意識した途端、目が潤み、頬は燃え、耳元で早鐘が
そして膝頭では無く、太ももが勝手に……。
更に、掬い上げられた金魚みたいに真っ赤になって
口をぱくぱくさせるだけの無防備な少女に向かって情容赦無く放たれる、止めの一撃。
「おねーちゃん、びょーき?
それともエリカのママみたいに、あかちゃんできたの?」
「!」
「……エリカ。それは、エリカが今日帰ってくる
エリカのパパに、直接伝えるコトでしょう?」
「これは、よこーれんしゅーだから、いーの!」
「あ、あの……」
「あっ、ごめん。……どうしたの? 眩暈?」
慌てて引き剥がされた手の動きを追って、勝手に体が泳いでいくけれど
もう昨晩みたいにみっともない真似は、到底出来ない。
肩で息をしながらも、少女は必死の思いで踏みとどまった
「……今、エリカ、ちゃんの、お父さんが、今日、帰ってくる、って言った」
「いや、気にしないで。今すぐ、君を病院に送っていってからでも、十分間に合うから」
「あたし、低体温症なの。具合良くなったら、ちゃんと一人で帰る。
だから、もう放っといて」
「それは、駄目だ。君を無理矢理、見知らぬ男の部屋に一晩泊めた事を
君の家族に、きちんと説明して謝らなくては……」
「あたしが今住んでいる所に来ても、そこにあたしの家族なんて、誰もいない。
お父さんはずーっと、何処かあたしやお母さんとは違う誰かの傍にいて
一緒の空間にいるはずのお母さんにとって、あたしは置物以下の“透明人間”……」
自分では十分理解していたつもりなのに、在りのままの気持ちを素直に認め
それを他人に正直に告白する事は、こんなに辛いものなのだと、少女は初めて気付く。
「……おねーちゃん、どっかいたいの? おにーちゃん! おねーちゃんに
いますぐ『いたいのがどっかにとんでくおまじない』をしてあげて!」
だけど、自分が流している涙を拭き取ろうとして、その小さな手を
おずおずと伸ばしてくる女の子を心配させまいと、少女はにっこり笑ってみせる。
「ありがとう、エリカちゃん。でも、コレは目の中にちょっとゴミが入っただけ。
何処も痛くないの、本当に。でも、ありがとう。エリカちゃん、大好き。
エリカちゃんならきっと素敵なお姉さんになれると思う」
「ありがと、おねーちゃん。エリカね、おねーちゃんみたいにきれいで
やさしくて、じぶんのこころにすなおな、かわいいおんなのこに、なるんだもん。
ねっ、おにーちゃんもきのうのばん、そういって……、ふにゃっ!」
真っ赤になってる青年は、嬉しそうに喋り続ける姪の口を、人差し指で塞ぎ
目を丸くして自分を見つめる少女に向けて、何も無かったかのように問いかけた。
「まっ、まず朝ごはんを、食べてしまおう。『お腹が減ってる人の所には
元気も良い知恵も訪れない』って言うし。……勿論、食べていくよね?」
少女が返事をする前に、そのウェストあたりから『クゥ』と言う、可愛らしい回答が。
「はい、大変良いお返事です」
「……アンタって、ほんっとイジワル!」
先ほどよりもなお赤く染まった頬を膨らませて抗議する少女の顔にうっとり
見とれていた事を気付かれぬ様、余裕の笑顔で受け流して、青年は台所に向かう。
……もっとも彼はその後、食事中の少女と姪と間で交わされた他愛も無い
女の子の秘密的内緒話の中で、変な取引が勝手に成立してる事を知らされて
危うく窒息死しそうになってみたり
地球の真裏から渋々帰国してきた義兄の空港お出向かえに同行した少女に
紹介したのが、少女の学校の変人数学教師(筋金入りの考古学オタク)で
しかも、彼女の担任と言う事を最初から知っていながら黙ってた事があっさりバレて
衆人環視の真ん中で、頬にくっきりと引っかき傷を刻まれてみたり
少女と姉一家と彼とのお食事会(某・フレンチレストランにて)で、妊婦に
『私が居ない時に、私の娘の眼前で、私の後輩を口説くなんぞ、100万年早い!』
と、優雅に微笑まれながらあっさり締め落とされたりしたのだが、それもこれも
このとても莫迦な話の蛇足部分じゃん……とか思っていただければ、真に幸いです。