6 子猫の涙  
 
煮込みハンバーグ、ポテトサラダ、わけぎのぬた、大根の浅漬け、  
あじの南蛮漬け、五目ちらし、あさりの酒蒸し、、  
ひじき煮、天ぷら、澄まし汁、大根サラダ、鳥わさ、豚角煮、  
豆ご飯、鰻ざく、揚げ出し豆腐。  
 
7月に入ったばかりの土曜日、  
薄暗い市役所の資料室の中で、リストアップされたファイルを探しながら、  
雪子は、今までに鉄仮面と二人で作ったメニューを心の中で数えていた。  
毎週休みの日に二人で会うなんて、  
普通に考えれば付き合っているとしか思えないのだが、  
実際、中嶋と雪子の間には何もないのだから仕方がない。  
料理を作り、それを昼食にして、次回のメニューを決めて、車で送られる。  
毎回毎回、その繰り返しである。  
今日もその予定だったのだが、中嶋が休日出勤することになり、  
それならばと雪子は作業の手伝いを買って出た。  
二人でやればそれほど手間のかかる仕事ではない。終わり次第、  
中嶋宅で料理教室をするということになったのだった。  
(…ようやくここまで終わったなぁ…疲れた)  
雪子は、足元に積み上げられたファイルを見やり、溜息をつく。  
資料室はそれなりに広いのだが、いかんせん膨大な過去の資料が収まっているため、  
天井まである巨大なラックが何十個も等間隔で並べられ、  
まるで図書館のような眺めである。  
中嶋も隣の書架で、持ち出したファイルを戻しているはずだが、  
その姿はラックと積み上げられたダンボールに隠れて見えない。  
ただ、微かな気配がするだけである。  
(もう少しだし………がんばろう)  
気合を入れなおしたその時、資料室の扉が開き、誰かが入ってくる気配がした。  
「も〜土曜なのに出勤ってうざいし」  
「ホント〜!土日くらい休ませろって感じだよね」  
聞き覚えのある声。闖入者は、雪子が昨年度まで所属していた市民課の女性二人だった。  
窓を開ける音に続いて、ライターの着火音らしきものが聞こえ、雪子は事情を把握した。  
市役所窓口は、昨年度から土曜日も開いているようになっている。  
彼女達はその休日出勤組で、館内は禁煙であるから、上司の目を盗んで  
人目につきにくい資料室で煙草を吸おうというのだ。  
雪子と中嶋がいることなど、全く気づいていないようだ。  
(なんか出づらいなぁ…どうしよう)  
少し離れた場所で雪子が戸惑っていることなど露知らず、  
二人は無遠慮な大声で、上司の悪口など喋っている。  
「あ、そういえばさぁ、橘さんっていたじゃん?」  
「あぁ、鉄仮面のとこに異動になった子だっけ?」  
突然自分のことが話題になり、雪子は思わずびくりと固まった。  
「この間合コンで一緒だった子がさ、なんか橘さんと小学校の同級生だったんだって」  
「へ〜偶然だね」  
「でさぁ、橘さんて中学高校と聖稜女子なんだって」  
「え!超お嬢様学校じゃん?なんで市役所なんか勤めてんの?」  
「それがさぁ、なんかあの子のお父さんが、不注意で事故起こして死んじゃって〜、  
そんで事故った相手もすごい大怪我させちゃったんだって」  
「え、かわいそ〜」  
「だから大学とか行けなかったんじゃない?お金なくて」  
「それで高卒で公務員?聖稜ってほとんど皆、付属の大学行くんでしょ?うわ最悪」  
 
全身から、血の気がひいていくのがはっきりとわかった。  
つま先からどんどん体温が奪われ、冷たくなっていく感覚。  
雪子は二人の闖入者の顔を思い出す。噂好きで口さがないことで有名で、  
あの二人に知られたら、それはもう役所全体にアナウンスされたことと変わりない。  
指先が震え、目の前が暗くなる。  
父のことは事実だけれど、できれば職場の誰にも知られたくはなかった。  
どうしていいか解らずに、今にも倒れこみそうになる雪子の肩を、  
力強い手が掴み、支えた。  
「………ぁ」  
課長、と口から出そうになるのを、雪子はようやく抑えた。  
いつの間にか雪子の背後にいた中嶋は、黙っていろ、と目だけで雪子に合図をし、  
すたすたと入り口のほうへ向かい歩いて行ってしまった。  
「ここは全館禁煙だが?」  
中嶋のよく通る声が響く。ひゃ、とかうわ、とか驚く声が聞こえる。  
「しかも資料室は特に火気厳禁だ。火事になったら責任を取れるのか?」  
氷のような声音は、陰で聞いている雪子さえ思わず背筋が寒くなるほどだ。  
「す、すみませんでした」  
役所内で知らぬものはない鉄仮面の突然の登場に、  
二人は肝を潰しているに違いない。声が裏返っている。  
そそくさと出て行こうとする二人に、中嶋が更に追い討ちをかける。  
「坂崎君と林君。窓口職員は名札を着けるように通達が出てるはずだが?」  
(名札無くても解ってるし…っていうか課長、職員全員の名前覚えてるの?)  
喫煙現場を押さえられ、名前まで知られているとあっては、  
日ごろふてぶてしい二人も、さすがに顔色を失くしている。  
「すみません、気をつけます!」  
「し、失礼しまーす」  
ばたばたと二人が出て行く音。後には、煙草の煙ときつい香水の匂いだけが漂っていた。  
閉じられた扉を、まるで眼光で鋳溶かそうとするかのように睨み付けると、  
中嶋は雪子のいる書棚の前へ踵を返し、足元に僅かに残っていたファイルを、  
目にも留まらぬほどの速さで片付けた。  
「………………あの、課長」  
「作業は終了だ。荷物は持っていくから駐車場で待て」  
有無を言わせぬ口調でそう告げると、中嶋は足早に資料室を出て行ってしまった。  
(知られちゃった………課長にも)  
雪子は、背後から何かひどく重いものがのしかかってくるような錯覚を覚え、  
少しの間、壁にもたれかからないと立っていられなかった。  
 
土曜の道路は空いていて、中嶋の車も、いつもよりもすいすいと気持ちよく走る。  
一方、車内には気まずい沈黙が満ちていた。  
「………あれ?」  
いつも左折する交差点を右折したので、雪子は中嶋に怪訝な顔を向けた。  
車は雪子の家の方角へと向かっているようだ。  
「今日は帰ったほうがいい」  
「え?いえ、大丈夫です」  
「顔色が悪い」  
「そ、そんなこと…」  
否定はしたももの、自分の顔から血の気がひいているのは雪子も自覚していた。  
再び、重い沈黙が車内を支配する。  
二人とも無言のまま、車が雪子の家の庭先にさしかかった時。  
塀の向こうで、何やら楽しそうに庭仕事をしている、中年夫婦の姿が見えた。  
 
車を停めようとすると、雪子が突然、隠れるように上半身をがばっと伏せたので、  
中嶋はやや面食らった。  
「…橘?」  
「このまま行って下さい!お願いしますっ!」  
「………」  
今まで聞いたことのない、切羽詰った雪子の声。  
中嶋は、緩めていたアクセルを再び踏み込み、目的地を素通りした。  
家の前を通り過ぎてもずっと、雪子はうずくまるように顔を伏せたままだ。  
その肩が微かに震えているのを見て、中嶋は思案に暮れた。  
 
「………着いたぞ」  
雪子がおずおずと顔を上げると、そこは中嶋宅の駐車場だった。  
「他にどこに連れていけばいいのか解らなかったからな」  
中嶋は珍しく弁解めいたことを呟き、すたすたと家の中へ入っていってしまった。  
 
殺風景な部屋の中、コーヒーの香りだけが漂っている。  
相変わらず、ソファの端と端という不自然な位置に座って、  
寒いはずもないのに、雪子は身体の震えが止まらなかった。  
 
ことり、とカップをテーブルに置く音が響く。  
そんな僅かな物音にすら、怯えたようにびくっと反応する雪子を見て、  
中嶋は眉をひそめた。  
「…橘が悪いわけではないだろう。気にすることは無い」  
「………え?」  
さっきの噂話のことを言われているのだ、と雪子が気づくまで、少しの時間がかかった。  
「………そうですね、でも」  
「でも…何だ?」  
「私には大事な父でも、他人から見たら、無責任な加害者ですから………」  
どれだけ自分を励ましても、父のことを喋るときは声が震えるのを抑えられない。  
「さっきの話、全部本当なんです。父が、居眠り運転で対向車にぶつかったんです。  
相手の方、まだ若くて………後遺症が残って、今もリハビリされてるんです。  
お仕事も続けられなくなっちゃって……だから、だから…」  
限界まで水の入ったコップのように、感情がゆらゆらと揺らいでいる。  
零れてしまわないように、雪子はきつく唇を噛み締めた。  
「橘のせいじゃない」  
「わかってます!………わかってる、ん、です、けど……でも、私」  
両手で自分の身体を抱きしめる。そうしていないと崩れ落ちてしまいそうだった。  
(泣いちゃいけない。私は被害者じゃないんだから。  
泣いていいのは怪我をしたあの人と、あの人の家族。)  
何度も心の中で繰り返してきた台詞を、また自分に言い聞かせる。  
「………優しい、父だったんです」  
ぽつりぽつりと、雪子は話しはじめた。  
 
「父は小さな設計事務所をやっていました。社員も父を入れて3人だけの。  
でも父は腕が良かったみたいで、不自由な思いをしたことはありませんでした。  
それでも、聖稜女子なんて、ほんとは経済的には無理してたんですけど、  
父がどうしても私を聖稜に入れたいって………母の母校なんです。  
父は隣にある高校に通ってて、高校生の母に一目惚れしたそうなんです」  
「………そうか」  
聖稜女子学園は私立の中高一貫校で、県内、いやこの地方でも随一の、  
いわゆるお嬢様学校として有名だ。  
「入学式の時、父はすごく嬉しそうで…  
『お母さんの若いときにそっくりだ』ってはしゃいで。私と母は全然似てないのに」  
雪子は、父の面影を懐かしく思い出す。  
雪子は母よりもむしろ父親に似ていると言われることが多かった。  
声を荒げることなど滅多に無く、目元がいつも笑っているようだった父。  
雪子が高校一年生の秋に、その父は事故を起こし亡くなった。  
事務所を拡大しようと必死で働いており、過労のための居眠り運転と思われた。  
保険には当然入っていたので、賠償金などは賄えたものの、  
小さな設計事務所は、父がいなくなっては結局立ち行かずに事務所を畳み、  
母の名義で親戚から借りていた資金を返済し、長年勤めた社員二人に退職金を払ったら、  
残った保険金は、雪子の学費さえままならぬ金額だった。  
悪いことは重なるもので、資産家だった母の実家も、不景気のあおりを喰らって  
経済的に逼迫しており、援助を望むどころの話ではなかった。  
「公立校に転入するから、って言ったんですけど、母がどうしても、それはダメだって。  
『あの学校に雪子を入れるのはお父さんの夢だったんだから』って。それで、  
どうしようもなくなって、家を売って古いアパートに引っ越したんです」  
 
母と二人、二人三脚の生活が始まった。  
お嬢様育ちで、それまで働いた経験もなかった母は、それでも勝気な性格を活かして、  
朝から晩まで保険の営業をして必死に食い扶持を稼いでくれた。  
雪子も母を助けるため、家事の一切を引き受けた。  
母と二人で戦っているのだと、ずっと思ってきた。  
 
忘れられない光景がある。  
父が亡くなって何日かして、母が出かける支度をしていた。  
「お父さんが怪我させちゃった人のところに、謝りに行ってくるね」  
そう言って母は、鏡に向かい、やつれた顔に久しぶりの化粧をしていた。  
「お母さんが何で謝るの?!お父さんもう、いないのに!お母さんが謝るなら、  
私も一緒に行く!一緒に謝るから連れてって!!」  
そう母にすがったが、母は今まで見たこともないような厳しい表情で雪子を突き放し、  
1人で出て行ってしまった。  
その時ほど、自分が子供で悔しかったことはない。  
母を支えたい、大人になりたい、と、あの時の母の後姿を思い出すたびにそう思った。  
 
中嶋は、いつもと違う雪子の様子に、どう接していいのか戸惑いを感じていた。  
戸惑うなどという感情は、久しく忘れていたものだ。  
(…どうも、今日は調子が狂う)  
「………それで公務員試験を受けたわけか」  
「はい。同級生は殆ど付属の大学に行ったり留学しちゃったりして、  
就職希望だったのって学年で私1人だったんですよ。  
でも先生方もすごく親身になって協力してくれて、何とか合格できました」  
本当に、その時は安心した。  
ようやく母に負担をかけずに済む。家にお金を入れられる。  
贅沢を望むわけではないけど、お金の心配をせずに済むようになるのは嬉しかった。  
相変わらず忙しい毎日だったけど、充実しているんだと思っていた。  
あの日までは。  
 
「……それなら、自分を責めることはないだろう。橘は親孝行だ」  
「親孝行…」  
「そうだろう。お父さんもきっと喜んでいると思うが」  
「課長…なんか棒読みなんですけど」  
「仕方ないだろう。こういうことを言いなれていない」  
ようやく、雪子がくすりと笑ったので、中嶋は柄にもなく安堵した。  
慣れない慰めが、雪子の傷を更に広げたのだと気づくまでの僅かな間だったが。  
 
「親孝行なんかじゃないです」  
口元に笑みを浮かべながら雪子が言う。  
それはいつもの、蕾が花開くような微笑ではなく、自嘲の入り混じった苦い笑みだった。  
「いい娘さんだとか、素直で優しい子だねとか言ってくれる人は沢山いましたけど、  
でも違うんです。ほんとに素直なら………ほんとにいい子なら、  
母の幸せを喜べるはずだと思いませんか?」  
そう問われて、中嶋は思い出す。  
大きく立派な家の庭で、楽しそうに笑いあっていた中年の夫婦。  
「3月になったばかりの頃に、母がアパートに、いきなり男の人を連れてきたんです。  
『お母さんこの人と再婚するから』って。  
そんなの無いです!何の前触れもなかったんですよ?  
付き合ってる人がいることさえ、私全然知らなかったんです。  
それに………それに………」  
喋れば喋るほど、雪子は自分自身の言葉によって更に逆上していく。  
声を荒げることなんて、父が亡くなった時以来かもしれない。  
自分の心臓の音がうるさいほど耳に響く。  
「お父さんが死んじゃって、まだ5年なのに!!!!」  
 
ずっと言いたかったのに、口に出せなかった。  
せっかく幸せそうにしている母を傷つけるのが怖くて。そして何よりも、  
もし母が、本当に父を忘れて幸せになろうとしていると認めたらどうしよう、  
そう思うと、確かめるのがあまりに怖くて。  
涙が、堰を切って流れ、頬を伝う。  
今まで、自分できつく押さえ込んでいた感情は、一度流れ出すととめどもない。  
だだをこねる幼い子供のように、かぶりを振りながら声を上げて泣いた。  
「新しい、相手のひとだって、お父さんとは…ふえっ、全然っ、似てないし…  
おじさんだしっ、お腹も出てるしぃっ………良い人ですよ?私のこと、  
すごく、可愛がってくれるし……ひぐっ…すっごく、いい人なんですけどっ…でもっ」  
「………そうか」  
中嶋は子供をあやすように、雪子の頭を優しく撫でた。  
髪を撫でる手の感触がひどく心地よくて。  
重荷を吐き出した雪子は、ようやく暴走する感情の手綱を取り戻した。  
「…あんなに仕事頑張ってた母が、結婚決まった途端に、あっさり退職しちゃって…  
それで父が生きてた頃みたいに、専業主婦になっちゃって…  
私、料理も掃除も、何にもすることなくって。  
新しい家で、自分の部屋まで用意してもらって、義理の父も弟もすごく優しくて……  
それなのに、どうして素直に喜べないんだろうって思うと、苦しくて」  
母が再婚相手を連れてきたときから、ずっと苦しかった。  
でも言えなかった。再婚に反対すらできなかった。  
母が、幸せそうだったから。  
 
「………当たり前だ」  
「……え?」  
「母親の再婚を素直に喜べないのは当たり前だ」  
鉄仮面が、いつもの無表情で事もなげに断言したので、雪子は驚いた。  
「………でもっ」  
「義理の父親が気に入らないのも当たり前だ。それがどんなに善良な人間でもだ」  
「だって………母が、せっかく幸せになろうと………っ」  
「だから、人間の中身はそんなに綺麗事だけじゃないだろう」  
「綺麗事……言ってますか、私?」  
「自覚がないのか?」  
中嶋にそう真顔で問われて、雪子はぽかんとしてしまった。  
(母親の幸せを願いたいって……綺麗事なの?)  
くっくっくっ、と押し殺したような声が聞こえて、その声の発生源を目で辿り、  
雪子は信じられないものを目の当たりにした。  
あの、完全無欠に冷酷無比の、ロボット顔負けの無表情の、  
鉄仮面・中嶋貴巳氏が、  
 
実に可笑しそうに笑っていたのだ。  
 
 
「橘は、本当に素直だな」  
「……へ?」  
余りにも衝撃的な眺めを前にして、雪子の思考は完全に停止している。  
中嶋は、尚も楽しそうに微笑している。  
但しあくまで眼光は鋭いので、何やら悪巧みしているような凶悪な笑顔である。  
「少しは親に甘えてもいいだろう。母親に、義理の父親になる人がこんな  
デブでハゲのしょぼくれたオヤジじゃ嫌だと言えば良かったんじゃないか」  
「ハゲとは言ってません!」  
「事実だろう」  
「…一瞬なのにそこまで見てたんですか…」  
ようやく、雪子の肩から力が抜け、くすくすと自然に笑い声が漏れた。  
ささくれだっていた心が、いつの間にか、不思議なほど穏やかに落ち着いている。  
「課長の笑った顔、はじめて見ました」  
「面白い時に笑うのは当たり前だ」  
「え……面白かったですか、私」  
「ああ。ついでに今の顔も面白い」  
「え」  
「洗面所で顔を洗ってきなさい」  
言われて雪子は、自分の顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているとようやく気づいた。  
「すみませんっ、お借りします」  
雪子は恥ずかしさの余り、慌てて両手で顔を覆い、立ち上がった。  
「目隠ししたまま歩くと転ぶぞ」  
「うわわっ」  
「あと洗面所は反対側だ」  
「もっと早く教えて下さい!」  
 
反応が面白すぎる部下を洗面所に案内し、タオルを傍らに用意してやると、  
中嶋は、洗面台にかがみこむ雪子の真っ白いうなじに、ふと目を奪われた。  
日頃は長い髪で隠されているが、  
今、その真っ黒な髪は、顔を洗うため高い位置でまとめられている。  
中嶋は、見るからに肌理の細かい、柔らかそうな肌に手を伸ばしかけ、  
ふと我に返ってその手を引っ込めた。  
「………?課長、どうかしましたか?」  
タオルで顔をぬぐっている雪子が怪訝な顔をしている。  
「いや、何でもない。明日は日曜だな」  
言ってから、しまったと思った。  
今日が土曜である以上、明日が日曜なのは当たり前だ。実に間の抜けた誤魔化し方だ。  
しかし雪子は、そんなことに気づいた様子もない。  
「課長は、日曜はいつも何をしてるんですか?」  
「……これといって特別なことはしないな」  
「……そうですか……あの」  
「何だ?」  
「いえ……何でもないです」  
「明日も来るか?」  
 
自分の口から出た台詞に、一番驚いたのは中嶋自身だった。  
雪子をからかうつもりだったのか、それとも半ば本気だったのか、  
自分でもよくわからない。  
目の前の部下も、さぞかし面食らっているだろうと思ったのだが、  
雪子の反応は、中嶋の予想に反したものだった。  
「…はい、来ます」  
「……そうか」  
(本当に………今日は調子が狂う)  
 
雪子を家の前まで送り届け、車内で一人になった中嶋は溜息をつく。  
さっきから、雪子の泣き顔や驚いた顔、笑顔や細い肩などが、  
かわるがわる目の前にちらついて離れない。  
振り払おうと目をつぶり頭を振ってみたが、瞼の裏に白いうなじの幻影が見える。  
(………………これは、何だ?)  
 
 
7 恋愛指南  
 
「それは恋ね」  
 
「こ、こここ、ここっ恋?」  
「何こっここっこ言ってるの。鶏じゃないんだから」  
「だ、だって恋って!!そんな!」  
隣に座る女の子の、真っ白い頬が朱に染まる。バーの雰囲気にはどうも不似合いな子だ。  
私は目の前のグラスをマドラーでかき混ぜ、残り半分ほどを一息に飲み干した。  
この店のジントニックはちょっと薄い気がする。  
「だからぁ、週一回ペースで会ってて、そんで相手が自分をどう思ってるか  
気になってしょうがないんでしょ?それが恋でなくて何なのよ?  
っていうかもう、付き合ってるっていうんじゃないの、それは。  
あ、すいません焼酎ロックで」  
相談がある、と土曜の夜に突然呼び出されて来たはいいものの、  
聞かされたのは、相談というほどの問題ではなく、しかもジントニックは薄い。  
これが可愛い可愛い雪子ちゃんの頼みでなかったら、とっくにあほらしくなって  
家に帰って飲みなおすところだ。  
「あやさん、付き合ってるわけじゃないんです、絶対」  
「週一回、休みの日に男女が会ってるわけでしょ?んで明日も会う約束したんでしょ?  
それ付き合ってるよ絶対」  
「いや、だって……何にもないんですよ?」  
「………は?」  
「だからその………お付き合いしてる男女にあるべき事っていうんですか?  
そういうのが、全然無いんですっ」  
「え?何それ?ヤッてないってこと?」  
「や、や………」  
雪子ちゃんの顔が、これ以上ないくらい真っ赤に染まる。  
この子はこれだから面白い。  
「そっそのっ、例えば、キスとかっ………そういうのも無いんです。  
っていうかそういう雰囲気がそもそも無いっていいますか…」  
冗談だろう。この可憐な女の子と二人きりで、しかも週一ペースで会っておきながら、  
手を出さない男なんているのか本当に。  
初めて、相談される内容に興味がわいてきたぞ私は。  
「………んじゃ、何やってるの?会ってる間は」  
「お料理教室です」  
「………………………は?」  
「お料理教えて欲しいって頼まれて、毎週メニュー決めて一緒に料理してるんです」  
「………はぁ。何だそれ………」  
普通なら、料理を教えて欲しいなんて、どう考えたって男の口実だろう。  
二人きりになって、あわよくば…ってやつだ。  
でも話を聞いてる限り、一ヶ月以上も手すら握らないとか…あり得ないだろうそれは。  
「そいつゲイなんじゃないの?」  
「………え?」  
びきっ、と雪子ちゃんが固まる。まずい、失言だ。  
「いや、だからそいつが何考えてるのか全然わかんないな〜っとね」  
「………はい、私も全然わかりません………」  
「だから、雪子ちゃんはどうしたいわけ?これからそいつと」  
「………わかんないんですけど、でもその人のこと、もっと知りたいなって………」  
消え入りそうな声で言う雪子ちゃんは、めっさ可愛い。  
女の私でも思わず押し倒したくなるくらい可愛い。  
つか、誰か知らんがお料理野郎、ぐずぐずしてると私がもらうぞほんとに。  
「じゃあさ、デートにでも誘ってみればいいんじゃない?」  
「………え?」  
 
「だからぁ、そいつが雪子ちゃんのことどう思ってるか、  
家でお料理教室してるだけじゃわかんないんでしょ?  
なら他の場所に誘ってみれば。それで乗ってくれば脈あるんじゃない?」  
「で、でもデートって、どこに誘えばいいんですかっ?」  
「いや、色々あるでしょ定番が。映画とか遊園地とか。  
いっそディズニーにでも誘ってみれば?」  
「映画………遊園地………ディズニーランド………ですか」  
なんだか雪子ちゃんの顔が、急に暗くなったような。  
「勇気が出ないんなら酒の勢いでも借りてみれば?」  
「ええ?私全然飲めないんですけど…」  
「あぁ、そういやそっか。歓迎会でも飲んでなかったもんね」  
今日も雪子ちゃんの前にはウーロン茶のグラスがある。  
酒の無い人生なんて、私には想像もつかないんだけど。  
「ま、明日会うなら頑張って誘ってみなよ」  
「そ、そうですね………」  
「で、だ」  
「…はい?」  
「相手が誰かは、やっぱり教えてくれないわけね?」  
「………は、はい…こっちから相談しといて、ごめんなさい………」  
「いいけどね〜。内緒にするってことは役所内の同僚ってことよね?」  
「いや…えっと………はい」  
「そんな心配しないでも、無理に詮索したりしないって。  
まぁ妻子持ちとかじゃないんなら、いいんじゃない?」  
「はぁ………それは心配ないです」  
ほんとに、そのラッキーな奴はどこのどいつだ。  
年代とか接点を考えると、総務課の紺野とか山口あたりか。  
それとも雪子ちゃんが前にいた、市民課の誰かだろうか。  
態度を見るに、うちの沢木ってことは100%無いな。可哀想な沢木。  
「ま、頑張りなさいな純情少女!」  
ばしん、と雪子ちゃんの背中を叩いて、私は最後の焼酎を飲み干した。  
 
 
雪子は、帰りのタクシーの中で、先程のあやのアドバイスを反芻し、溜息をついた。  
鉄仮面とのデートなど、どこに誘えばいいのか見当もつかない。  
(課長が気に入るような映画なんてわかんないよ…とりあえずラブストーリーとかは  
絶対見ないだろうな………遊園地も、ジェットコースターに乗ってる課長とか…  
想像すると面白いけど、絶対行かないって言うだろうし。  
ましてディズニーランドで遊ぶ課長なんて想像もつかない…うわぁダメだぁぁ)  
煩悶し、懊悩し、その日雪子が眠りについたのは、  
東の空が白々と明るくなってきたころのことだった。  
 
 
7 胡乱な日曜日  
 
そして無情にも時間は流れ、次の日は日曜。  
 
雪子と中嶋は、昨日作りそびれたメニュー、ミートソーススパゲティと  
サラダ、コンソメ野菜スープの夕食を囲んでいた。  
今日に限って夕食なのは、雪子がばっちり寝坊をしたからである。  
これまでの時間、雪子は何度も何度も、中嶋を誘うタイミングを計っていたのだが、  
残念ながらそんな都合のいいタイミングは訪れず、いつものように料理教室が  
始まり、終わり、そしてこの食事が終わればもう帰らなければならない。  
「………あのっ!」  
「何だ?」  
「…………スープしょっぱくないですか?」  
「その質問は3度目だな」  
「そっそうでしたっけ?あははははは」  
「………橘、今日は何だか様子がおかしくないか?」  
「そんなことないですってばっっ!!!」  
「そんなに力いっぱい否定する必要は無いと思うが」  
「………はい………」(無理だ………私には無理だよう、あやさん………)  
既に、まともに中嶋の顔を見る気力すらなく、雪子はうなだれて、  
手元の野菜スープを見つめていた。  
中嶋が、何やら液体をコップに注いでいるらしい音がする。  
「橘も飲むか?」  
「はい………頂きます」  
何なのか確認もせず、半ば無意識にそう答えて、雪子は茶色い液体の入ったグラスを  
受け取り、喉に流し込んだ。  
途端に喉が焼け付くような感覚に襲われる。  
「けほっ……げほげほっっうわあっ」  
「大丈夫か?」  
「これ……お酒ですか?」  
「見れば解ると思うが」  
確かに中嶋の目の前に置かれているのは酒瓶であった。  
急に目の前がくらくらとして、雪子はテーブルに突っ伏してしまう。  
「橘、もしかして酒が飲めないのか?」  
(そっか……課長、飲み会とか絶対来ないから…知らなかったんだ)  
頭の芯が霞んだようになり、思考回路がうまくつながらない。  
 
気がつくと、中嶋の真面目くさった顔が目の前にあった。  
「橘、水だ。気分は悪くないか?」  
中嶋の腕に抱きかかえられ、仰向けで水の入ったグラスを口元に近づけられているのだ、  
とわかるまで、少し時間がかかった。  
喉を流れる冷たい水の感触は心地よかったが、ぼおっとした頭はその位では覚めない。  
かつてないほど近くにある中嶋の顔。いつもの無表情が、心なしか、  
心配そうな色を帯びているような気がする。  
気がつくと、雪子は自分を抱く男の頬に指を伸ばし、くすぐるように撫ぜていた。  
「………橘?」  
と、その指が、鉄仮面のトレードマークとも言える銀縁の眼鏡を奪い取った。  
「…返しなさい」  
「いやです」  
「………橘、なんか目が据わってないか………?」  
じっと中嶋を見つめる雪子の眼差しは、日ごろのおっとりした様子とは打って変わって、  
鉄仮面でさえたじろぐほどに、妙な迫力と色気がある。  
「返して欲しかったら、私のお願いを聞いてくださいっ」  
「………何だ」  
「一緒にディズニーに行きましょう」  
「………………何だそれは」  
「東京ディズニーランドというでっかい遊園地のようなものですっ」  
「そのくらいは知っている」  
「じゃあなんですかっ!?お願いきいてくれないと、眼鏡の命はありませんよ?!」  
「………勘弁してくれ」  
「行くんですか?行かないんですかっっ?」  
(………こういうのも絡み酒というんだろうか………)  
中嶋は深い深い溜息をつくと、  
「わかった、行こう」  
と、決闘の申し出を受ける武士のような悲壮な面持ちで答えた。  
 
とりあえずソファに雪子を寝かせると、  
「………橘、本気なんだろうな?」  
最後の駄目押しのつもりで声をかけたが、雪子は既に、  
実に気持ち良さそうな寝息をたてていた。  
ほんのりと上気した頬が妙に色っぽい。  
(全く無防備すぎるな………襲うぞ)  
そんな衝動を、類まれなる理性の力技で抑えつけた中嶋は、  
「橘、送っていくから起きなさい」  
と、雪子の柔らかな頬を、むにっと抓みあげたのだった。  
 
 

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