9 夢の国へ
七月某日。
東京行きの新幹線の車内は、夏休み前ということもあってか、
思ったほど混んではいなかった。
天気は快晴。窓の外には長閑な田園風景が広がっている。
行楽客らしき姿が目立ち、乗客達の雰囲気は心なしか浮き立っている。
ごく一部、やけに緊張感溢れる一角を除いては。
(ど、どどどどどどーしよう………ほんとに行くんだよね?
っていうかもう、向かってるんだよね…夢じゃないよね?)
この一週間というもの、何度も繰り返してきた独り言をまた心の中で呟き、
雪子はそっと隣の席に座る男の様子を伺った。
親類縁者と隣近所と可愛がっていたペットが一度に亡くなったかのような仏頂面で
新聞を読んでいるのはもちろん、鉄仮面・中嶋貴巳氏である。
彼がわき目もふらず紙面を凝視しているのをいいことに、雪子はそっと様子を伺うが、
やはりその鉄壁の無表情からは、この思わぬ小旅行のことをどう思っているのか、
全く伺い知ることはできない。
その中嶋氏が、顔も視線も全く動かさないまま出し抜けに「何だ?」と声を掛けてきて、
雪子は危うく椅子から飛び上がるところだった。
「いえっ、あのっ………お天気になってよかったですね」
「そうだな」
ふう、と溜息をついて、雪子はこの珍道中に至る経緯を思い出していた。
先週の日曜日の夜、雪子は気がつくと自宅の、母の寝室に寝かされていた。
慌てて飛び起きると、同じダブルベッドで寝ていた母が「ん〜?何よぉ」と目を覚ます。
「おっお母さん?!何で私ここで寝てるのっ?」
「覚えてないの?あんた酔っ払って、中嶋さんにタクシーで送られてきたんだから」
「………え?えええええ???」
「いくら雪子が軽くても二階までは運べないでしょ。義之さん出張だし、
圭ちゃんも合宿でいないし。仕方ないからこっちに寝かせたの」
「ご、ごめんね………えっと、お母さん、課長と話したの………?」
恐る恐る雪子が聞くと、母は意味深な笑みを浮かべ言った。
「まあね。ちょっと面白そうな人じゃない?なかなかいい男だし」
「えっ……いやっ、えーと」
「雪子はああいう変わった人が好きだったのね。道理で浮いた話の一つも無いと思った」
「おっ、お母さん違うのっっそういうわけじゃ」
「楽しみねぇ……ディズニーランド」
「………え?」
途端に、先程の中嶋宅での自分の振る舞いが、フラッシュバックするように一気に
思い出されて、雪子は声にならない声を上げ、じたばたと悶えた。
「………っっっっ!!!!」
「何よ、ホコリたつから暴れないでよ」
「お母さんっっ!!!そのっ、課長に聞いたの?デ、ディズニー行くって…」
「雪子が帰ってきたときに言ってたんじゃない。
課長とディズニーランド行ってきます!いえーい!って妙なテンションで。
あんた誰に似たんだか酒癖悪いわね。明日仕事なんだから早く寝なさいよ」
「うわぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
余りの恥ずかしさにじたばたと暴れる雪子だったが、
どうしても一つだけ確認しておきたいことがあった。
「………お母さん…課長と、何話したの…?」
心臓が口から飛び出しそうなほど緊張して答えを待っていたが、
雪子の耳に届いたのは、母の穏やかな寝息だけであった。
翌月曜日、当然のように雪子の体調は最悪だった。
ガンガンと痛む頭を抱えながら、それでも何とか就業時間まで持ちこたえた。
気がつけば職員は皆帰っており、只1人残っていた鉄仮面も帰り支度を始めている。
慌てて彼を呼び止め、周りに誰もいないのを念入りに確かめた後、
雪子はあらん限りの勇気を振り絞って尋ねた。
「課長、昨日は色々すみませんでしたっ!
それでその…昨日話してたことなんですけど…」
(酔った勢いで誘ったなんて…絶対断られるよなぁ…私の馬鹿っ)
「あれから調べたんだが、ランドとシーの二種類あるらしいな。どちらがいいんだ?」
「………へ?…えっと、あの…一緒に行って頂けるんですか…?」
余りにも意外な展開に雪子は戸惑った。嬉しいのは当然嬉しいのだが、
てっきり断られると思っていたので、どうも頭がついていかない。
加えて、ランドだのシーだのという単語が鉄仮面の口から出ると、
自分から誘っておいてなんだが、ものすごい違和感があるのである。
「質問を質問で返すんじゃない。俺は約束は必ず守ることにしている」
「は、はいっ!じゃあえっと…ランドがいいです!………でも課長、ホントに…?」
「くどいな。但し、行くからにはきっちり下調べをして、計画を立てさせてもらう。
園内は飲食物の持ち込み禁止らしいが、前に言った通り、俺は外食が好きではない」
(課長…昨日わざわざ調べたんだ…さすが)
ただ感心するばかりの雪子の顔に、中嶋の何か物言いたげな視線が突き刺さる。
(………な、なんか見られてる………?)
「ちなみに一旦園内から出ると、持ち込みの物でも食べられるスペースがあるそうだ。
再入園ももちろん可能だ」
中嶋の視線はますます強く、雪子を射抜かんとするばかりである。
「………………………………お弁当、作ってこいということでしょうか?」
おずおずとそう言うと、中嶋は満足気に深く頷いた。
「夏場だし、当日の昼の分だけだな。夕食や翌日の朝食は諦めることにしよう」
(そうだよね、夜の分は作っても腐っちゃうもんね、って……
今、なんか不思議な単語を聞いた気が………えっと…)
「………翌日?」
不思議そうに聞き返した雪子に、
「移動時間を考えると、日帰りは厳しいだろう」
鉄仮面は、当然のことのように無表情で答えた。
「………………………え???」
「考えてなかったのか?嫌ならやめるが」
「いっ嫌じゃない!嫌じゃないですけどっっ!!!」
(でも泊まりって!!!泊まりってつまり、そ、そういうことですかっっ???)
「泊まる場所と新幹線の切符は適当に手配する。決まったらまた連絡する」
出張の打ち合わせをするかのような事務的な口調でそう告げると、
鉄仮面はさっさと踵を返し去っていった。
残された雪子は、余りの衝撃に言葉も出ず、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(嫌じゃないって、言っちゃった………どうしようっっ?)
それからの一週間、雪子は正に上の空だった。
何とか仕事はこなしていたものの、気を抜くとすぐに週末の予定のことで
心は一杯になってしまう。特に「泊まり」という一点において。
悩んだ挙句、雪子は再びあやに相談を持ちかけることにした。
しばらく酒の匂いのする場所には近づきたくなかったせいもあって、
仕事が終わった後、食事がてらに自室に招いた。
いざその時を迎えるにあたり、女性としての心構えを教えてもらう…というより、
単に誰かに話を聞いて欲しかったというのが本音ではある。
「まあねぇ、いいんじゃないのお幸せそうで」
「あやさん、そんな事言わないで、話聞いて下さいよ」
「聞いてるってば。で、何が不安なの?雪子ちゃんもしかして処女?」
「しょ、しょ………」
「あぁ、わかったってば。そんな赤くならなくていいから。
多分そうだろうとは思ってたんだけどさ。大丈夫だよ、いざそういう事になったら、
男に任せとけばいいんだって。年上なんでしょ?
まさか経験無いってことないでしょ、男のほうは」
「えーっと………それは大丈夫、と思いますけどっ、なんか想像つかないっていうか…」
「そんな心配しなくても、皆通る道なんだから大丈夫だって」
「や、やっぱり痛いんですか………?」
「う〜ん…人によると思うけどねぇ。私はそんな痛くなかったけど、
友達はもう二度としたくないって位痛かったって言ってたな」
「………………そんなにですか…」
「やる前から心配したって仕方ないでしょうが。それより下着とかどうすんの?」
「へ」
「勝負下着」
「勝負………やっぱり勝負しなきゃいけないんでしょうか」
雪子の脳裏に、黒だの紫だのアダルトな感じの下着が浮かぶ。
「いや、そんな握りこぶし固めて気合入れなくても。雪子ちゃんのキャラだったら、
セクシー下着系は却って引かれるかもよ?普通のでいいと思うけど」
「普通…ってどんなのでしょう?」
「今どんなのしてんの?」
「ひゃぁっ!!あやさんっやめて下さい!恥ずかしいっ」
あやが出し抜けにTシャツを捲り上げたので、雪子は思わず悲鳴を上げた。
「ピンクのレースねぇ。いいんじゃないの、そういうので」
「そ、そうですか………」涙目になりながら雪子が恨めしそうに言う。
「あと、服はどうしようかなって…」
「服ねぇ。どんなの持ってるか見せてよ」
そう言ってあやは、雪子が止める間もなくクローゼットの扉を開いて、しばし絶句した。
そこには、フリルやらレースやらリボンやら、
考え付く限りの、ごてごてした少女趣味な装飾が施されたワンピースが、
何着も吊るされていたのだ。
そういった方面にまるで興味のないあやでさえ、何故か知っているそのブランドの名は。
「………これが有名なピンクハウスってやつですか………」
「ちっ違うんですあやさん!!これ、私が買ったんじゃないんです!お義父さんが…」
「は?」
「義父が、母と結婚が決まってから、すごく私のこと可愛がってくれて…
男の子しかいなかったから、ずっと娘が欲しかったって。
で、娘がいたら是非こういうのを着せたかったって、いっぱい買ってきてくれて…」
「はぁ…随分な趣味のおじさんだねぇ。確かに雪子ちゃんなら似合うか。
着せたくなる気持ちもわからんでもないわ」
あやは、先程雪子の部屋に入る前に挨拶だけ交わした、
やたらと愛想のいい、気の良さそうな中年男性の顔を思い出して言った。
「いや…私は、正直あんまり好きじゃないんですけど…せっかくだから夕食の時とか、
なるべく着るようにはしてます」
「家でご飯食べる時にこれ着んの?!」
「…こぼさないようにするのが大変なんです、クリーニング代高いし」
僅か数ヶ月前に雪子の義父となったばかりの、坂井義之(46歳・会社経営)は、
寂しい頭頂部とメタボな体型に似合わず、実にロマンチストな中年である。
『いやぁ、娘ってこんなに可愛いものだって知らなかったよ!
圭一は全然まったくちっとも可愛げがないしねぇ。美紀子さんと結婚できた上、
こんな可愛い娘までできて、僕ほんとに嬉しいよ!』
そう言って満面の笑顔で手渡された服や、ぬいぐるみやその他こまごました小物類は、
既に雪子の私室から溢れんばかりである。
どれもこれも少女趣味の、過度に可愛らしい物ばかりだ。
実の娘でないにも関わらず、それはもう猫可愛がりに可愛がってくれる義父の好意を
むげに断ることもできず、雪子は内心困り果てているのである。
「ねぇ、ちょっと着て見せてよ」沢山のワンピースの中でも、ことさら乙女な印象の
一着を取り出し、あやが言う。
「いやですっ」
「お人形さんみたいで可愛いって絶対!ほらほらジーンズなんて脱いで」
「あやさんっやめて下さいっっ!脱がせないで〜!!」
「いっそディズニーにこれ着てけば?」
「絶っっっ対イヤですっ」
そんなこんなで着ていく服はなかなか決まらずに、時間だけが過ぎていった。
結局あやの「普段会ってる時ジーンズなら、スカートにするだけでも違うんじゃない?」
というごく適当なアドバイスのもと、義父の買ってくれた服の中で唯一シンプルな
デザインの、淡い水色のワンピースを着ていくことに決まったのだった。
(………なんかこの一週間、色々考えすぎて疲れた…結局、私の服の違いなんて
課長は全然気づいてないみたいだし………悩んで損したかも)
雪子は、上の空でただひたすら中嶋の後をついていったのだが、
いつの間にか宿泊予定のホテルのロビーに到着していることに気づき、
やおら心拍数が上がるのを感じた。
(こ、ここに二人で泊まるんだ…ほんとに…うわぁどうしようっ!
私達、ちゃんとそういう関係に見えてるんだろうか…うわぁぁぁ)
雪子は1人で悶えているが、もちろん回りの人間は、それほど他人に注目している
はずもないのだから、それは勘違いというものである。
フロントでチェックインの手続きを終えたらしい中嶋が、
ベルボーイを伴って、すたすたとエレベーターへ向かってしまったのに気づき、
雪子は慌てて後を追った。
部屋の前に辿りついた時、雪子の緊張はピークに達していた。
ベルボーイが部屋の説明を終えて戻っていったのにも全く気づかずに、
「………橘。おい橘」
という中嶋の声に、ようやく自分がまだホテルの廊下に突っ立っているということを
認識したのだった。
(い、いよいよお部屋に入るのかぁ…うわぁ変な汗かいてきたっ)
が、
「これが橘の分だ。30分後に出発しよう」
いつもの事務的な口調でそう言い残し、鉄仮面がさっさと目の前のドアの中に
消えてしまったので、雪子の頭は一瞬、真っ白になった。
手渡されたものは、どうやらカードキーである。
(部屋番号………2885)
中嶋が消えた部屋のドアのプレートを見ると、そこには『2886』の文字が。
(………………………………部屋、別なんだーーーー!!!!)
激しく予想外の事態に、膝の力が抜け、雪子はへなへなとその場に座りこんでしまった。
(………甘かった…私、鉄仮面を甘く見すぎてた…さすが課長。
今まで悩んだの、全部無駄だったってことですか、そうですか………)
いつまでも廊下に座り込んでいるわけにいかないので、雪子は自分の部屋のドアを開け、
ベッドに仰向けに倒れこむと、思い切り背伸びをした。
落胆したような、それでいてどこか安堵したような、妙な脱力感が雪子を襲う。
空回りしていた自分と、必要以上に生真面目な中嶋が、なんだか滑稽で。
雪子はようやく、肩の力を抜いて笑えた気がした。
(………余計なことで悩む必要無くなったし、
これはもう、開き直って思いっきり楽しむしかないなっ!)
週末のディズニーランドは、人波でごったがえし、普通の人間ならまっすぐ歩くことさえ
ままらなない状況だった。
が、夢の国にはあまりにも不似合いな、眼光鋭い鉄仮面の前には、
十戒のモーセのように自然と人波が分かれて道ができ、
二人が歩くのに苦労はいらないのだった。
色々心配したり脱力したりしたものの、やはり園内に入ると、
雪子は自然と気分が浮き立つのを感じていた。
「ディズニーランドなんて中学生の時以来ですよ!課長は来たことあるんですか?」
「いや、初めてだ」
「そうなんですか。来てみてどうですか?ちょっとは面白いですか?」
それが雪子は一番心配だったのだ。どう考えても、鉄仮面とディズニーランドは
異質な組み合わせである。
「うん、なかなか興味深い」
「…興味深い、ですか…?」
「ああ、年間通じてこれだけ集客力があるというのは何故か、ということを
考えていくと、自分達の仕事にも通じる部分がある」
「………はぁ………」(なんか…観光っていうより視察?視察なの…?)
「それにあの耳」「みみ?」
「子供はともかく、いい年をした大人まであの耳をつけているだろう。
此処以外の場所では考えづらい現象だ」
中嶋の指差す先には、様々なキャラクターの耳がついた帽子やヘアバンドを着けている
中年の団体ツアー客がいる。
確かに、一歩このテーマパークを出れば、彼らは決してそんなものは被らないだろう。
「う〜ん、…ここはきっと特別なんですよ。一歩入ればここは夢の国なんだから、
大人も子供に返って楽しんでいいですよっていう…」
「暗黙の了解があるわけか」「ですねぇ」
「成る程な…これだけ園内の細部に亘って、予算をかけて作りこんであるのは、
或いはその不文律をより強固なものにするための仕掛けなのかもしれないな。
現実世界との区別を明確にすることで、園内にしかないルールを自然と演出するという」
「………はぁ、私にはよくわかりませんが………」
(…ディズニーに来てそんな事考えてるのって、今、園内に課長1人だけだ絶対…)
呆れたり感心したりしていると、前を歩く中嶋がふと立ち止まったので、
危うくその背中にぶつかりそうになった雪子は慌てた。
中嶋はというと、グッズ販売をしているワゴンの前で、何やらじっと商品を眺めている。
「課長、どうしたんですか?」そう声をかけると、
中嶋は怖いほど真剣な表情で、雪子の顔と、ワゴンの中身を交互に見つめた。
と、おもむろにワゴンの棚から、白い猫の耳のついたヘアバンドを手に取り、
雪子の頭に素早く装着したのだった。
「ななな何ですかっっ」
「試着だ」
「………へ?」
猫耳をつけたままぽかんとしている部下を見て、鉄仮面は無表情で満足げに頷き、
雪子の頭からヘアバンドを取ると、会計を済ませた。
再び頭に白い猫の耳をつけられた雪子が慌てる。
「えっと………これは………買っていただけたんですか?」
「そうだ」
「あ、ありがとうございます………でも、あの、結構恥ずかしいんですが…」
「心配することはない。似合っている」
「……はぁ…」
「むしろ耳が無いほうが不自然なくらいだ」
「そ、それは………」
褒められたのかそうでないのかさっぱりわからない。
「でもやっぱり1人じゃ恥ずかしいですし…じゃあ、お返しに課長に」「断る」
雪子がみなまで言う前に、鉄仮面はさっさと歩いて行ってしまった。
(考えてみたら、初めてのプレゼントだ…でも、よりによって猫耳って…)
嬉しいような悲しいような複雑な思いを抱きながらも、雪子は結局一日中、
ヘアバンドを着けたまま過ごしたのだった。
小柄で少女のような風貌の雪子が、水色のワンピースを着て猫耳を着けている姿は、
まるでメルヘンの世界の住人のようで、嫌でも周りの客達の注目を浴びることになる。
(…不思議の国のアリスがいる…)
(……猫耳アリス萌え!!!)
熱い視線があちこちから送られていたが、極めて鈍い性質の雪子は気づく由もなかった。
それからの半日はあっという間に過ぎた。
パークの外の広場で、雪子が気合を入れて作ってきた弁当を食べ、
アトラクションに並び、パレードを見て、道端のベンチで並んで休憩する。
(私達、なんか普通のカップルみたい…うわぁ奇跡的だぁっ)
雪子が心の中でガッツポーズをした刹那、ベンチのすぐ後ろにある扉から、
世界一有名な、耳の大きな黒いネズミが、係員を伴って姿を現した。
いち早く気づいた客達から歓声が上がる。
「うわぁっ、課長、ミッキーですよ!!!本物ですよ!!」
「本物というのは何をもってそう言うんだ」
「いいから行きましょう!!」
興奮して駆け寄る雪子の後ろに、中嶋は溜息をついて続いた。
サービス精神溢れる巨大なネズミが、愛嬌を振りまきながら振り返った先に、
無表情と無愛想の見本のような眼光鋭い鉄仮面がいたのは、
実に不幸な事故だったと言わざるを得ない。
二人の異質な存在の視線がかち合った瞬間、雪子は、
世界一有名なネズミが、凍りついた笑顔のまま、びくりと身体を引いたのを見た。
(………………今、ミッキー怯えてた………………………)
あってはならぬものを見てしまい、雪子は先程の「自分達は普通のカップル」という
幸福な勘違いを、自ら速攻で否定することになったのであった。
それでも二人の時間は、比較的穏やかに過ぎた。
あっという間に夕暮れが迫り、レストランで夕食を摂りながら、
中嶋は雪子の表情を飽かず観察していた。
デザートのシャーベットが運ばれてきて、雪子はそれはもう幸せそうな笑顔である。
その顔が見られただけでも、苦手な外食に耐える甲斐はあったかもしれない。
そう中嶋に思わせるほどに、彼女の笑顔は破壊的に可愛らしい。
これだけ本音が解り易いと、日常生活に支障が出るのではないかと心配になるほど
表情豊かな雪子だが、それでいて若い女性にありがちなキャンキャンと煩い所は無い。
彼女の周りにはいつも、常春の陽気のような穏やかさが満ちている。
「………?何ですか?やっぱり課長もデザート欲しかったですか?」
「いや、いい」
「食べ終わったら最後のパレードですね…あっという間だったなぁ」
月曜からの仕事のことを考え、明日はどこにも寄らずに帰る予定である。
名残惜しそうに外を眺めている、雪子の横顔は心なしか寂しげだ。
窓の外には、色とりどりに光る玩具を持った子供たちが、疲れも知らず走り回っている。
夕闇の中で明滅する赤や青の光は、綺麗だがどこか物悲しい。
「………お祭りみたいですね」
ぽつりと雪子が呟く。
「…夏祭りか」
「子供のころに、父がよく連れていってくれました。賑やかですごく楽しいんですけど、
ちょっとだけ怖くて、何となく寂しい感じもして。特別ですよね、お祭りの雰囲気って」
中嶋は、遠い記憶を手繰り寄せる。可愛げのない子供だった自分だが、
それでも祖父に手を引かれ、祭りに行ったことはあった。
屋台の裸電球の明かりや、大人たちのどこか猥雑な雰囲気。絡みつくような熱気。
そんなものを断片的に思い出す。
人込みは大嫌いなのだが、雪子とならもう一度、祭りに行ってもいいかもしれない。
そんなことを思う自分に驚き、中嶋は、胸の裡で決意していたあることを、
改めて確認し直したのだった。
10 鉄仮面の決意
ホテルに戻り、シャワーを浴びて、バスローブ姿で濡れた髪を拭きながら、
雪子は今日一日の出来事を反芻していた。
中嶋の反応はいちいち独特で、驚いたり戸惑ったりもしたけれど、
家族や友人達と遊びに来るよりも、ずっと楽しかった気がする。
(でも私ばっかり楽しんでたような……課長はつまんなかったかもしれないな…)
ベッドに座り、もたれかかった壁の向こうは中嶋の部屋である。
耳を澄ましても、隣の部屋からは物音一つ聞こえない。
(課長、何してるんだろう………もう寝ちゃったのかな)
ふと、ベッドサイドテーブルに置かれた電話が雪子の目に入った。
(これって、部屋番号押したらそこにかかるのかな?)
深く考えもせず、隣の部屋番号をプッシュすると、呼び出し音が鳴った。
そこで初めて雪子は慌てた。何を話そうか全く考えていなかったからだ。
呼び出し音が三回ほど鳴った後、受話器からいつもの不機嫌そうな声が響いた。
「はい」
「………あ、あの、課長ですか?」
「橘?どうしたんだ?」
「いえ、あの、特に用事はないんですけど…」
「…そうか」
用事が無いなら切るぞ、などと言われるかと思ったが、
中嶋はそのまま沈黙を続けているので、雪子は少し安心した。
「………あの、課長、今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「そうだな、俺も楽しかった」
「…え?…本当ですか?」
予想外の答えに、雪子は目を丸くした。
「ああ。色々と珍しいものが見られたし、それに橘を見ていると面白かったしな」
「またですか?課長はそればっかり…」
むくれてみせたが、本当に腹を立てているわけではない。
むしろ、中嶋が今日という日を楽しめたらしいことが、雪子にはとても嬉しかった。
暫しの沈黙が流れ、微かな息遣いだけが受話器から聞こえる。
出会った当初は気重なだけだった沈黙が、今はちっとも苦にならず、
却って穏やかな安心感さえ感じている自分に、雪子は気づいた。
「………お弁当美味しかったですか?」
「ああ」
「…良かった」
他愛のないやり取りが、不思議なほど心を暖かくする。
ぽつりぽつりと、断続的に続く会話だが、それが何故かとても居心地が良かった。
くすくす、と雪子の唇から笑い声が漏れる。
「………何だ?」
「いえ、なんか、可笑しいなぁって………隣の部屋にいるのに、電話で話してるなんて」
「そういえばそうだな」
もたれかかった壁の向こう側に、中嶋の体温を感じるような錯覚を覚えて、
雪子はそっと目を閉じた。
「………会いたいです」
ふと、思ったことがそのまま、唇からぽろりと零れた。
「…橘」
名を呼ばれ、我に返る。
「え、えっとその………ち、ちょっと待って下さいっ」
咄嗟にがちゃり、と電話を切り、狼狽のあまり、
意味も無く部屋の中をうろうろと歩き回った。
(私………なんてこと言ったんだろう…どうしよう、とりあえず着替えて…)
慌ててバスローブを脱いで洋服に着替え、
濡れた髪もそのままに部屋を出て、雪子は隣の部屋のドアの前に立った。
やたらに騒ぐ心臓を何とかなだめ、意を決してノックしようとした刹那。
ドアは内側から開き、中嶋がそこに立っていた。
「………あ、あの」
戸惑いを言葉にする前に、雪子は中嶋に腕をとられ、
部屋の中へと引き込まれた。背後でドアが閉まる音がする。
そして思いがけず強い力で引き寄せられ、中嶋の胸の中に抱きしめられた。
骨ばった大きな手が雪子の頬をくすぐり、冷たく濡れた髪を気遣わしげに撫でる。
これ以上ないほどに緊張しながらも、シャツ越しに感じる中嶋の体温が心地よくて、
雪子は思わず、うっとりと目を閉じた。
その細い顎が、男の長い指でくいっと持ち上げられたかと思うと、
真面目腐った無表情の顔が、これまでにないほど接近してきて視界を奪う。
「………ぁ」
雪子が驚きの声を上げる間もなく、二人の唇がそっと重ねられた。
(………しちゃった…キス…うそみたい)
触れ合っているだけのキスだが、
中嶋に聞こえるのではないかと心配になるほどに、心臓の音が耳に響く。
唇をそっとついばまれると、頬が熱く火照り、身体の力が抜けてしまう。
重なった唇の隙間から、熱い吐息が漏れる。
立っていられなくなりそうで、中嶋の胸に必死でしがみつくと、
唇の間から、何か熱くぬめるものが入り込んできた。
(うそっ………舌…やぁっ恥ずかしい………)
緊張の余り強張る雪子の咥内を、優しく解きほぐそうとするかのように、
中嶋の舌があちこちを擽る。歯列をくすぐり、深く差し込まれたかと思うと、
ふいに離れて唇を舐められる。
(ひゃっ恥ずかしい………キスって、こんなにすごいんだ………)
少しずつ緊張がほぐれた雪子が、おずおずと自らの舌を伸ばす。
その途端に中嶋の舌に絡め取られ、きつく吸われて息もできなくなる。
めまいのような陶酔が、頭の芯を痺れさせている。
お互いの舌が激しく絡みあい、混じりあった唾液が顎を伝った。
雪子の膝はがくがくとして力が入らず、いつの間にか、ドアに押し付けられるような
体勢になって、必死で中嶋の背に手を回していた。
中嶋の舌の動きが激しさを増し、まるで貪られるように咥内を犯される。
あまりの刺激の強さに、ついに雪子が音をあげた。
「か、課長…っ………待って……」
ぺたりと床に座り込んでしまった雪子を、中嶋は軽々と抱き上げ、ベッドに座らせた。
雪子はただ、潤んだ瞳で目の前の男を見つめている。
見慣れた無表情なのだが、鉄仮面らしくもなく瞳にはどこか不安定な色が浮かんでいる。
と、中嶋がやおら、居住まいを正した。
「橘、話がある」
「………はい?」
「これまで、俺と橘の関係をはっきりさせずにきて、悪かった」
「は、はい」
「これからの二人の関係について、成り行き任せにするのではなく、
きちんと橘の了解を得たいと思う」
(って………もしかして、これって告白?なんかものすごく事務的な口調だけど、
でもそうだよね多分…どっどうしよう)
確かに、一緒に旅行にまで来ておきながら、二人の関係を口に出して確認したことは
一度も無いのだ。
(…付き合ってくれ、とか好きだ、とか言われるのかなぁ。…課長の口から?!
ぜんっぜん想像つかない…沈黙が怖いよぉっ)
しかし中嶋の口から出た台詞は、雪子の想像の遥か斜め上をいくものであった。
「俺と結婚してくれないか」
「……………………………………………………………え?………ええええええ???」
「返事は急がないから、ゆっくり考えてくれて構わない。話はそれだけだ。
明日の朝食は7時だから遅刻しないように」
プロポーズされたのだ、と雪子がようやく冷静に考えられるようになったのは、
いつの間にか自分の部屋に戻って、床に座り込んだまま暫く経ってからのことだった。
頭が真っ白になる。思考が停止する。一つのフレーズだけが、
壊れたように頭の中をぐるぐると回る。
(………結婚。結婚って…結婚って………大体、付き合ってさえいなかったのに?
しかも出会ってまだ4ヶ月なのに!!そんな簡単に決められることっ?)
夜明け近くなっても眠れずに、雪子はベッドの中で数十回目の寝返りをうった。
大体、さっきのキスだって、まるで無かったかのように流されてしまったが、
雪子にとっては一大事だったのである。
そっと唇を指でなぞり、先程の感触を思い出す。
(………ファーストキスだったのにな…結局言えなかったし)
こうして、生まれて初めてのキスとプロポーズを同時にされるという、
橘雪子の激動の一日は幕を閉じたのだった。
11 停滞
「もしもし、雪子ちゃん?」
「………あやさん?」
あやから電話がかかってきたのは、ディズニーランドから帰ってきて、
二週間が経った土曜日の夜のことだった。
自室に閉じこもり、一日中考え事をしていた雪子は、
随分久しぶりに人と話すような錯覚を覚えていた。
「どうしたんですか?あやさんから電話くれるなんて珍しいですね」
「ん〜、いや、最近雪子ちゃん元気ないから、どうしたかなっとね」
あやには、例の相手とディズニーランドに行って来た、とだけしか伝えていない。
色々と聞きたそうな様子だったが、雪子の顔色が冴えないのを見て、
詮索したい気持ちを抑えていたらしい。
振る舞いはがさつだが、何だかんだ言って後輩から慕われるのはこういう所である。
「………ありがとうございます、心配かけてすみません」
「…ディズニーで何かあったの?言いたくなかったら無理には聞かないけど」
「ううん…大丈夫です。ちょっと予想外のことがあって、混乱しちゃってて」
「混乱…?何か、相手に嫌なことでもされたの?」
「いやっ、そういうわけではなくてですね………あの…うまく言えないんですが」
どうにも説明しづらくて、口ごもってしまう。
「いいから、とにかく話してみなって。ちょっとは楽になるかもよ?」
「ありがとうございます………えっと、あの、つまりその………
………プロポーズされました」
「………………………………………………………………はぁぁぁぁぁ?!」
あやの声があまりに大きくて、雪子は思わず受話器から耳を離した。
「それは告白されたってことじゃなくて?!」
「付き合ってくれとか好きだとかは一切無かったです…」
「………何だそれ…」
「私、びっくりして…どうしていいのかわかんなくて。その人のこと、
………好きなんですけど、でも、結婚ってそんなにすぐ決められないんです」
「そりゃそうだ」
「でも、これでプロポーズ断ったら、もう二人で会えなくなるのかなって…」
この二週間、雪子がずっと悩んできたことだった。
職場でも、どんな顔をして話せばいいのかわからない。
先週末は久しぶりで1人きりの週末だった。
何をしても手につかない。中嶋と過ごすようになる前に、
自分が週末に何をして過ごしていたのか思い出せなかった。
たった2週間空いただけなのに、中嶋宅の静かで殺風景なリビングが、
不思議なほど懐かしくてたまらないのだ。
結婚したくないわけではない。本音では、プロポーズされて嬉しかった。
今では、あの家が自分の唯一の居場所のように感じてもいる。
中嶋が、無表情の奥に深い優しさを秘めていることも、今では疑う余地もない。
それなのに、何故か決断できない自分がわからない。
唐突すぎるということも、もちろんあるだろう。だがそれ以外に、
雪子の心の中で、何か得体の知れない不安が渦巻いているのだ。
「その後、電話とかメールとかしてみた?」
「………………………」
「…雪子ちゃん?どうしたの?」
「………知らないんです、電話番号も、メールアドレスも」
そうなのだ。自分でも信じられないことに、
雪子は中嶋の個人的な連絡先を、一切知らないのだった。
今までは職場での伝言で事足りたし、鉄仮面たる中嶋は、待ち合わせの時間に
遅れて来ることなど一度も無かったため、特に不自由を感じたことはなかった。
職場で中嶋と話せなくなる日が来ることなど、想像もしていなかったのだ。
職場で鉄仮面と恐れられる男の、他人は知りえない色々な顔を見ているつもりだったが、それまで錯覚だったような気がして、雪子の瞳から涙が零れる。
声が震えてしまうのを抑えられない。
「ゆ、雪子ちゃん、泣かないでよ」
電話の向こうで雪子が涙を流しているらしい気配を察して、あやは慌てた。
と同時に、ひどく嫌な予感が胸にきざす。
雪子の語る”相手”の人物像はどうも理解不能なのだが、
あやは1人だけ、そういう行動をとりそうな人物に思い当たってしまったのだ。
(うわぁぁっぁあっ!!!やめろ私!!その想像は危険だぁぁぁ!!!)
自らの想像が余りにも恐ろしくて、あやは気を落ち着けるため、
何度も深呼吸しなければならなかった。
しかし、自らの心の平穏のためにも、ここはやはり確かめねばなるまい。
幸いにも相手は、人を疑うことを知らないような純真な女の子である。
カマをかけるのも造作はない。
「あのさ…結婚は、やっぱりすぐには考えられないってことだよね?」
「すぐにはっていうか…嫌じゃないんですけど、自分の中で、何かひっかかってて………
それが何なのか、ずっとわからなくて」
「まぁ確かにね。雪子ちゃんまだ若いし、職場恋愛となると色々難しいし。
………それに、同じ課内で結婚するとどっちかが異動しなきゃいけないしね」
「やっぱり異動することになるんですか?」
ビンゴ。
自分の想像がただの妄想であって欲しいという、あやの切なる願いはあえなく散った。
企画課の男性職員は4名。
五十代で妻子持ちの富岡係長は論外として、
新人の高田は、大学時代から付き合ってる彼女がいると聞いたし、
人物像から察するに、どう考えても沢木ではないと断言できる。
残る1人。
可愛い女の子と二人きりになっても手すら握らず、
いざデートとなっても、深い関係になろうとはしない。どころか、
告白代わりにプロポーズをするような、一種異常なほど理性的で生真面目な人物。
(嘘だ………誰か嘘だと言ってえぇぇぇ!!!!)
「………あやさん?どうしたんですか?」
不審げな雪子の声に、あやは我に返り、適当にごまかしたり慰めたりして
ようやく電話を切り、深い苦悩の溜息をついた。
(………………………よりによって鉄仮面…どうすればいいんだ、この事態…)
そして翌月曜日。
終業後の、他に誰もいない企画課ブースで、橋本あやは鉄仮面と対峙していた。
「…橋本、話とは何だ」
「私の可愛いかわいい雪子ちゃんが、最近元気がないのはどうしてかな〜と思いまして」
「……何故俺に聞く?知るはずがないだろう」
さすがに鉄仮面。そのくらいの揺さぶりでは、鉄壁の無表情はぴくりともしない。
だが、あやは何としても中嶋の口から事実を聞き出すつもりだった。
「ディズニーランドは楽しかったですか?」
鉄仮面の眉がぴくりと動く。凶悪に鋭い目線で睨み付けられるが、
あやは一歩も退かなかった。ここで怯んだら負けである。
暫くの間、まるで水墨画の竜虎の睨み合いのような緊張感が続く。
先に根負けしたのは、中嶋のほうだった。
「………どこまで知っている」
「課長が据え膳食わずにしかも告白さえせずに雪子ちゃんにプロポー」
「もういい」
「………どういうつもりですか?いきなり結婚しろとか言われて、
雪子ちゃんがどんだけ戸惑ってると思ってるんですか」
「…九割九分、断られるだろうとは思っている」
「そんな事聞いてないです」
あやは、目の前の無表情な男に対して、ふつふつと怒りが湧いてくるのを感じていた。
「自分がどんだけ残酷なことしてるのか解ってます?
………雪子ちゃん、泣いてましたよ」
「……………」
「大体、何でいきなり結婚なんて………」
あやは溜息をついて髪をかき上げ、デスクに腰掛けた。
「………仕事に私情を持ち込むわけにはいかない。
同じ課内で部下と恋愛関係になるというのは好ましくない。それに、橘はまだ若い。」
「まぁ、確かに建前は、職場恋愛禁止なんでしょうけど。
そんなの今時誰も守ってませんって。どんだけ生真面目なんですか課長は…
それに、雪子ちゃんが若いからどうだっていうんですか?」
「……いつまでも、30過ぎの男にかかずらうよりも、もっと他に相手もいるだろう。
ずるずると関係を続けるのは…橘には良くない」
はぁ、とあやは何度目かの深い溜息をついた。
この男にしろ雪子ちゃんにしろ、どうしてこう不器用なんだか。
特に鉄仮面の場合、思考回路が常人とかけ離れている上に、
雪子に妙な気の遣いかたをしているものだから、その結果として行動が
ものすごく不可思議なものになってしまっていたというわけだ。
ようやく納得することができて、あやはにやりと口元で笑った。
「………でも課長、やっぱり好きなんでしょ、雪子ちゃんのこと」
「ノーコメントだ」
「駄目ですよ、顔に書いてありますから」
そういい捨てると、あやはさっさとブースを後にした。
後に残された鉄仮面は、憮然として自分の顔をさすっているのだった。
(………他にどうしろと言うんだ)
中嶋貴巳は、胸のうちでひとりごちた。
幼いころから、論理的でないことや、非合理的なことが大嫌いだった。
目の前に未解決の問題があることが我慢できないのだ。
その性分のせいで、学校での成績は常にトップクラスだったが、
別に教師に褒められたからといって嬉しくもなかった。
地方公務員として就職してからは、役所内にはびこる無駄の多さに呆れかえり、
手当たり次第に効率のアップを図っていった。
別に仕事が好きなわけではないが、市役所であるから、経費も給料も税金である。
税金泥棒と言われるのは我慢がならなかっただけだ。
結果として、いつの間にか同期の出世頭などと呼ばれる立場になっていたが、
それについて、別に何の感想も持てなかった。
このまま仕事ばかりして1人で老いていくのだと、当然のように思っていた。
そんなつまらない人生の設計図に、突如として予測不可能な事件が訪れた。
理性と集中力にだけは自信があった自分が、あろうことか仕事中にも、
雪子の白い頬や、豊かな表情、優しい声音と可愛らしい仕草がちらついて集中できない。
学生の頃から、自分に近づいてくる物好きな女性は幾人かいた。だがどの女性とも、
お互いに割り切ったドライな間柄だったし、関係を持つことにも、やめることにも、
罪悪感を感じたことなどなかった。
なのに、今回の自分は、情けないほどにうろたえている。
雪子に触れたい、その身体を抱きたいと、思わないはずはない。
だが、恐らくまだ純潔なのであろう彼女にとって、
自分との関係が汚点になってしまうことだけは、どうしても避けたかった。
職場で噂にでもなったら、雪子のこれからにとって取り返しのつかないことになる。
深みにはまる前に、この関係を無かったことにするつもりだった。
が、それだけならば、何も結婚を申し込むことはなかったのだ。
未練がある。もし雪子を自分だけのものにできたら、と考えたからこそ、
そんな悪あがきのようなことをして、結果、雪子のことを苦しめてしまっている。
(………………何をしているんだ、俺は)
今日の雪子の、明るく振舞ってはいるが陰のある表情を思い浮かべ、、
ここ数週間自分を苛んでいる自己嫌悪に、再び襲われる鉄仮面であった。
12 開放
事態が進展を見せることなく、更に数日が過ぎた。
金曜の朝、出勤してきた雪子に、朝からハイテンションな沢木が話しかけてきた。
「雪子さん、なんか最近元気なくないっすか?良かったら明日、
みんなでカラオケでも行きませんか?」
「………明日ですか」
「あ、何か用事ありました?」
「………いえ、無いです、土日は何にも」
「良かった!んじゃ明日の夜6時から大丈夫ですか?」
雪子は無理やり笑顔を浮かべて頷いた。
「んじゃ、あや先輩と高田と一緒に…」
「………あれ?課長どうしたんでしょう?」
ブースを見渡すと、いつも誰よりも早く出勤している中嶋の姿がない。
出勤時刻が過ぎても彼は姿を見せず、部下たちは騒ぎ始めた。
(………課長…何かあったのかな…)
雪子の顔が、不安に暗くくもる。と、あやのデスクの電話が鳴り響いた。
「はい企画課、橋本です………あ、課長どうしたんですか?!」
部下たちがどよめく。あやは、電話の向こうの鉄仮面と二言三言話し、電話を切った。
「………はい。はいわかりました。それでは」
「あやさん、課長どうしたんですか?」
勢い込んで聞く雪子の顔を、一瞬物言いたげに見つめ、あやが言う。
「………課長がさ、珍しいことに体調悪くて休みだって」
「「「「えええええ!!!」」」」
部下達は一斉にどよめく。何せ、就職して以来10年以上というもの、
無遅刻無欠勤を誇る鉄仮面のことである。
「課長も病気することあるんすねぇ………」
「中嶋君に限って、病欠なんてあり得ないと思ってたけどね。大丈夫かな」
「課長が休むなんてよっぽどのことじゃないですか。救急車呼んだほうがいいんじゃ」
「え………き、救急車って」
顔面蒼白になってうろたえる雪子の背中を、あやはなだめるようにぽんぽんと叩いた。
「あ〜そんなひどくは無さそうだったから大丈夫よ。さぁ仕事仕事」
そう言ってあやが手を叩き、職員達がそれぞれ自分のデスクに散る。
「んじゃ雪子さん、明日よろしく!」
雪子の隣にいた沢木が、浮かれた様子で自分の席に戻る。
雪子も不承不承仕事を始めたが、何をしても、とてもじゃないが手につかない。
じりじりするほどの焦燥感に何とか耐えながら、雪子はその日一日中、上の空だった。
時計の針は苛苛するほどゆっくりと進み、昼休みが過ぎ、真夏の陽が翳りはじめる。
そしてようやく、終業時間を告げるベルが鳴った。
(………どうしよう…様子見に行きたいけど、勝手に行っちゃ迷惑かな。
まだ仕事あるし…それに、課長に何て話したらいいんだろう………どうしよう)
「雪子ちゃん、雪子ちゃん」
悩むあまり憔悴しきった様子の雪子を、あやが物陰から手招きして呼んだ。
「はい、あやさん何ですか?」
あやは雪子の耳元に、唇を寄せて言う。
「あのさ、今日もう帰っていいから、課長のとこ行ってあげなよ」
「え、でも………」
「朝はああ言ったけどさ、結構具合悪そうだったし。家で1人だし、
もういい年だから体力落ちてるし。心配でしょ?」
鉄仮面と同年代のはずの自分のことは棚にあげ、あやはしれっと言い放つ。
「………はい、ありがとうございます!!」
「…あれ?雪子さんもう帰ったんすか?いつの間に?」
小動物のように一目散に走っていった雪子の後姿を見送ってから、
あやは沢木に気の毒そうな、哀れみの目線を送った。
「………あや先輩、何すか」
「沢木、雪子ちゃんきっと明日、カラオケ来ないよ」
「………え?何でですかっ?!」
タクシーがなかなか捕まらず、市役所から少し離れたバス停まで全力疾走した雪子は、
20分待ってようやく来たバスの座席にすわり、きつく拳を握り締めていた。
目的のバス停はそれほど遠くないはずなのに、
もう一時間も乗っているかのような錯覚を覚え、逸る気持ちを抑えきれない。
ようやく目的地に到着したバスから飛び降りるようにして、
雪子は中嶋宅を目指して走りはじめた。
この数週間というもの抱き続けた、えたいの知れない不安が、
胸のうちではっきりと形となっていく。
あえぐように息をつき、必死で走りながら、
雪子は今にも叫びだしそうになる自分の口を押さえた。
病気。歳の差。自分を置いていってしまった父。平均寿命。
駆けつけた病室の、白い布をかけられた父の姿。
断片的な記憶が、頭の中をぐるぐると回る。
ようやく中嶋宅に着いた雪子は、突然の訪問に驚いた様子の鉄仮面を見て、
安堵のあまり膝から崩れ落ちたのだった。
「橘…大丈夫か?どうしたんだ?」
「はぁっ…あのっ………バス停から、走って………きたのでっ………」
荒い息を整えるまでに少しの時間が必要だった。
「それより………課長、大丈夫ですか」
「何がだ?」「………え?」
見れば、中嶋は今帰ってきたばかりのように、いつものスーツ姿である。
「………だって、あの…課長、今日体調が悪くて休むって…」
「体調不良なのは部長だ。○○市で、3市合同会議に出席する予定だったんだが、
急遽俺が代わりに出席してきたんだ。直帰すると橋本に電話で伝えたはずだが」
「………あやさん!!!!」
「………………橋本か………」
してやったり、とほくそえむ女傑の顔を思い浮かべて、雪子と中嶋は脱力した。
「………橘?」
玄関の上がり框に手をついたまま、雪子がうなだれている。
その肩が、細く震えていた。
「橘?大丈夫か?」
気遣って差し出された中嶋の手が、雪子の肩に触れる。
その手が、雪子の小さな白い両手で、強く握り返された。
雪子が顔を上げ、中嶋の顔を見つめる。
今まで見たことのないほどに真剣な、思いつめたような表情だ。
「………………課長、約束してください」
「………え?」
「私より、先に死んだりしないって、約束して下さい!」
雪子はずっと、それが怖かったのだ。
12歳という歳の差。加えて男と女では平均寿命も違う。
亡くなった父と、残された母のことを思った。
自分だけが残されるのは、絶対に耐えられない。
中嶋は、ただ、雪子に見蕩れていた。
今にも涙がこぼれそうな瞳は、まっすぐに自分を見つめている。
自分の手を必死で握り締めている、ちいさな掌。
普段の自分なら、できない約束はしない、と言うだろう。
無責任に請け負えるようなことではない。
どれだけ守るつもりでも、結果として嘘をつくことになるかもしれない。
だが。
目の前で、真っ白な子猫が、自分の腕にしがみついている。
甘い唇。優しい眉。誰よりも愛しい、自分だけの。
「………わかった、約束しよう」
今までの自分を全て否定してでも。
それを聞いて、雪子が、まるで泣き顔のような笑顔を浮かべて中嶋に抱きついてきた。
「……………ありがとうございます。………私を、課長のお嫁さんにして下さい」