プロローグ  
 
「料理を教えてくれないか」  
「………………へ?」  
思わず自分の耳を疑って、目の前の、これ以上無表情にも無愛想にもなれないであろう顔を見つめた。  
仮にこの人に、「結婚してくれ」とか言われても、こんなに驚かないかもしれない。  
いや、それは物の例えで。付き合ってもいないどころか、恋愛対象として考えたこともないのだから、プロポーズとかされたらそりゃ、やっぱり驚くのだろうけど。  
でもでも。よりによって料理って。  
「駄目か?」  
「い、いえ、駄目ってことは…ないんですけど…」  
「じゃあ頼む。都合のいい日はあるか?」  
「えっと…土日でしたら、いつでも」  
「なら、今週の土曜、朝10時に迎えに行こう。それでいいか?」  
「……………………はい」  
こうして私は、さっぱり事情が飲み込めないまま、  
週末に、課長の家で料理教室をすることになってしまったのでした。  
 
 
1 橋本あや  
 
忙しい。  
忙しいったら忙しい。  
市役所職員なんてもっとのんびりした仕事だと思ったのに、  
特に今年度に入ってからの忙しさといったらない。  
前市長が汚職にからんで失職し、大混乱の選挙戦の末当選したのが、  
旧弊を排して市政一新・実力主義の人材登用を公約とした、  
おめーどこのアメリカ人だよ?ってくらいわざとらしく爽やかなキャラクターの  
まだ若い新市長。そやつのふるった大ナタは、  
私、橋本あや(30)が転職してまだ一年の市役所の隅々にまで及び、  
年功序列のぬるま湯に首まで漬かっていた職員達の横面を張り飛ばした。  
その大胆な人事の代表格として、職員の誰もが思い浮かべるであろう人物。  
私の所属する企画部企画課の課長として、33歳という若さで大抜擢されたのは、  
今私の目の前のデスクに座り、黙々とキーボードを叩いている、  
鉄仮面だった。  
 
鉄仮面、というアダ名がいつから付けられているものか私は知らない。  
が、その二つ名は、これ以上無いほど彼自身をうまく表現している。  
企画課課長、中嶋貴巳(なかじまたかみ)氏33歳は、  
 
無表情選手権日本代表に召集され、  
無愛想オリンピックでメダルを獲り、  
オスカー無口部門で最優秀男優賞受賞ぐらいのことは軽く狙える人物だ。  
無いけどな、そんな賞。  
しかし冗談抜きに、「世界一笑顔を見せる回数が少ない男」なんて項目で、  
ギネスに申請したら通るんじゃないか?ってくらいの鉄仮面っぷり。  
しかも謹厳実直で曖昧なことは大嫌い。仕事はめちゃくちゃ速いし正確で、  
効率の悪い仕事をしている同僚を見ると、上司でも歯に衣着せずに意見する。  
そんな仕事っぷりが新市長の目に留まり、前例のない若い課長が誕生したのが先々月。  
 
結果、部下からは恐れられ、同期からは煙たがられ、  
先輩職員たちからは妬まれているのだ。  
あおりを食らうことになる部下…つまり私達はたまったもんじゃないけど、  
そんな四面楚歌な状況もどこ吹く風で、今日も鉄仮面は無表情で仕事をこなしている。  
 
だけど、この新しい上司と職場は、私自身、結構気に入っていたりする。  
中嶋貴巳氏は確かに無愛想でとっつきにくいんだけど、  
部下に自分の責任を押し付けたりすることは絶対ない。  
仕事についても厳しいけど、理不尽に怒ったりはしない。  
人の私生活に口出しすることも、  
新人だからって理由だけで部下の提案を軽んじることもない。  
別に友達として付き合うわけじゃなし、無愛想すぎてムカつくことを除けば、  
私が以前勤めていた民間企業のくそオヤジ達と比べても、よっぽどいい上司だと思う。  
まぁそれにしても、もうちょっとだけでも愛想がよければ、  
こんなに敵を作ることもないのに…と、  
溜息のひとつもつきたくなる現在の状況なんだこれが。  
 
今春、職員わずか4名の小さな部署だった企画課に、  
不足人員補充の名目で2人が増員されることになった。  
それは本来なら大歓迎すべきことだったんだけど。  
配属された2人というのが、1人は採用されたてほやほやの社会人一年生。  
もう1人は、今私の隣のデスクに座って、  
涙目でエクセルのマニュアル本とにらめっこしている、  
事務経験ほぼゼロの可憐な女の子。  
ちなみに二人とも、さっきから全くと言って良いほど仕事は進んでいない。  
 
只でさえ組織改変で仕事量が増えて、クソ忙しい我が課に配属された新人二人。  
これが嫌がらせ人事でなくて何だろうか。  
鉄仮面を快く思っていないものは、人事課にも多いということだな。  
 
私だって、こんなに自分の仕事が立て込んでなければ、  
もっといろいろ丁寧に仕事を教えてやりたい。  
でも、何せ余裕がなさ過ぎる。質問されても、ついつい場当たり的な教え方になり、  
結果的に新人二人の実力はなかなかつかず、イライラしてつい口調がきつくなる。  
そして教えられる側は萎縮し、益々質問しづらい雰囲気になっていく。  
あぁ…悪循環だ。基本的にポジティブな自分だが、こう何もかもうまくいかないと、  
自己嫌悪に陥ってしまう。  
「………最悪だ…」  
つい口から零れた愚痴。声になるかならないかの音量のはずなのに、  
向かいの鉄仮面が、僅かに眉だけ動かして反応する。地獄耳だなぁ。  
 
「橋本」名を呼ばれたので椅子ごと課長のデスクににじりよる。  
「新人の研修のことなんだが提案がある」  
「何ですか?」  
「現状では効率が悪すぎる。橋本は、これから2ヶ月、  
高田の研修係としての仕事に重点を置いてくれないか。  
今橋本が抱えてる仕事は俺に回してかまわない」  
「え…私はいいですけど、課長、この上まだ仕事増やす気ですか?」  
「その通りだ。あいにく他に頼りにできそうな者もいないしな」  
凍りつくような声音に、頼りにならない二人――沢木・富田両氏がビクリと固まった。  
確かに、あの二人は気はいいのだけど、人並み以上の仕事を期待しちゃいかんのだ。  
「―で、高田はいいとして、雪子ちゃんはどうするんですか?」  
橘雪子(たちばなゆきこ)。  
長いストレートの黒髪と、真っ白い肌が日本人形のような、可憐な女の子だ。  
見た目はまるで高校生のようだが、これでも21歳、社会人3年目。  
採用されてからは庶務課で窓口業務を担当していたので、  
事務仕事の経験は少ない。っていうか、ほぼ無い。  
それに、おっとりした性格が災いしてか、仕事の飲み込みも良いとは言えない。  
でも本人はこれ以上無いほど一生懸命で、子猫のように思わずぐりぐりと頭撫でてあげた  
くなるような可愛らしさなのだ。  
特に今のように、自分の名前が出たことに気づき、緊張で強張っている横顔なんて、  
思わずもっと苛めたくなるくらい可愛い…って私はSでもレズでもないんだけど。  
レズではないんだけど、雪子ちゃんなら嫁にもらってもいい。っていうか是非欲しい。  
地味な制服と控えめな性格があいまって、目立つことはないものの、  
密かに狙っている男性職員も多いし。その雪子ちゃんの研修なんて、  
頼めばいくらでもやりたがる輩は多いだろうに。うちの課の沢木とか。  
 
「橘の指導も俺が担当する。俺の残業のアシスタントを兼ねて研修してもらう」  
………うわぁ。それって、鉄仮面と二人きりで、残業しながら特訓ってことか。  
これ以上過酷な新人研修のシチュエーションって、とても思いつかないんですけど。  
雪子ちゃんの、只でさえ色白の頬から、  
さーっと血の気がひいていくのが目に見えてわかった。  
涙目の横顔が、祭壇に捧げられた生贄のそれに見える。  
「…わかりました。じゃあそういうことで頑張って、雪子ちゃん」  
…頼むからそんな、市場へ売られていく子牛のような目で見るのをやめてくれ。  
 
 
2  沢木勇治  
 
「…………雪子さんっっっ!!!」  
ふぅ、と溜息をついて、自ら慰めた残骸をティッシュで処理し、ゴミ箱へ放りこむと、  
沢木勇治はいつものように、自己嫌悪に襲われるのだった。  
 
「まーたやっちまった…ありえねぇ」  
少し前までの自分なら、ろくなオカズもなく達することなんてできなかったが、  
いつごろからだろう。  
脳裏に写る、同僚の笑顔(と、もちろん見たことのない下着姿だの裸だの)を思い浮かべ  
 
ながら、夜毎自分を慰めるようになったのは。  
 
笑顔が可愛い。声が優しい。くるくると変わる表情も、きょとんと目を丸くした顔や、  
俺やあや先輩にからかわれて、少しむくれている顔さえ可愛い。  
何事も一生懸命なのがいい。料理上手で家庭的なところも。  
サラサラした黒くて長い髪も、真っ白で透き通るみたいな肌も。  
 
要するに全部だ。全部いい。  
 
恋愛に関しては、自分は積極派だと思っていた。  
事実、今までの恋愛は全て、ちょっといいな、と思った時点で相手に接近し、  
押しに押したりたまに引いてみたりして、結構な確率でモノにしていた。  
合コンでお持ち帰りしたりも何度かはあったし、それなりに経験を積んでいる、  
つもりだった。  
 
なのに今の、この惨状。  
アプローチしたくとも、雪子さんはあまりにも、鈍い。  
最初は気づかないふりをしてるのか?なんて勘ぐったこともあったけど、  
どうやら本気で、俺の気持ちに気づいていないみたいだ。  
断られるのが怖くて、いつも冗談で誤魔化してしまう、  
ヘタレな俺にも原因があるのかもしれないが。  
何だか今までの恋愛とは勝手が違う。  
告白しようかどうしようか…なんて、うじうじ悩むのは中学生の時以来だ。  
 
すっかりぬるくなった缶ビールの残りをあおって、テレビの上の時計に目をやると、  
21時を過ぎていた。  
今頃はまだ、鉄仮面と二人で残業してるんだろうか。  
鉄仮面と二人で。  
鉄仮面と二人で。  
 
「………くっそぉぉぉぉぉぉ!!!!!」  
思わず悪態が口をつく。  
自分がもう少し仕事が出来さえすれば、雪子さんの研修係を任されて、  
手取り足取り仕事を教えてあげられたかもしれないのに!!  
今のところ、社会人三年目の自分はまだまだひよっ子で、  
仕事では課長の足元にも及ばないのが我ながら情け無い。  
それにしたって、鉄仮面と二人きりなんて、  
今頃雪子さんは恐怖に怯えながら研修してるに違いない。  
大体あの上司は誰に対しても容赦がなさすぎる。  
仕事上必要なことしか喋らないし、笑顔一つ見せないもんだから、  
雪子さんや新人の高田なんてすっかり萎縮している。  
まぁ課長は恋愛なんか絶っっっ対に縁がないだろう性格だから、  
同僚に手を出すような心配はないのだけが救いだけど、  
か弱い女性に対してもう少し、ものの言いようがあるんじゃないか?  
でもまぁ、研修が始まってもう一月以上になるのに、  
雪子さんはよく耐えている。見かけによらず芯が強いのかもしれない。  
そんなところもいい。  
照れるとすぐ顔が真っ赤になるところも。  
化粧をほとんどしないところも。  
昼休みに中庭で日向ぼっこしてるときの幸せそうな顔も。  
細そうに見えて適度に胸があるところもいい。  
真っ白なうなじとか、胸とかフトモモとか耳たぶとかお尻とかほっぺとか!!  
 
とにかく、今俺は。  
「触りたい!あの柔らかそうなほっぺたをプニプニ触りたいんだぁぁぁぁぁ!!!!」  
 
絶叫がワンルームのマンションに響き渡り、  
沢木勇治の不毛な夜は、いつものように更けていくのだった。  
 
 
3 橘雪子  
 
どくどくどくどく、と自分の心臓の音が聞こえてくる。  
口から心臓が飛び出そう、ってこういうことなのかもしれない。  
何度目でも慣れない、この瞬間は。  
 
「………できました。チェックお願いします」  
課長が近づいてくる。背後から、じっと私の前のディスプレイを眺めている気配がする。  
気配が、っていうのは怖くて振り向けないからだ。  
後ろからにゅっと手が伸びてきて、マウスで画面をスクロールする。  
沈黙。汗が背中を流れる。まだそんなに暑い季節じゃないのに。  
「…いいだろう」  
「えっ、大丈夫ですか?」ようやく振り向いて課長の顔を見ることができた。  
「大丈夫だと思ったから俺に報告したんだろう」  
相変わらずにべもない答え。だけど、研修が始まって1ヶ月半、  
私は少しだけ、この個性的な課長に慣れてきている。  
 
最初は怖かった。ううん、今でも怖い。特に仕上がりのチェックをお願いするときは。  
でも課長は、褒めることもないかわりに、理不尽に怒ることもない。  
窓口業務しか経験が無い、企画課ではほんとに何もできない私にもだ。  
課長は誰にでも同じように接するんだ、ってわかってからは、  
むやみに怖がることもなく、たまには私から話しかけたりもできるようになっていた。  
答えはいつも味もそっけもないけど、気にしないことにしている。  
「資料室に行ってくる」  
そう言って課長がブースを出て行き、  
緊張が解けた私はほっと溜息をついた。  
(もうすぐ研修も終わりかぁ…随分たくさん書類作ったな)  
何気なく、今までの残業中に作ったデータファイルを開いて眺める。  
(……ん?)  
何かがひっかかり、もう一度丁寧に、最初からファイルを開いて読んでいく。  
と、あることに気がついた。  
この一ヶ月半の間、課長に頼まれて作った書類を順に見ていくと、  
まるで資格試験のテキストのように、ゆっくりとレベルが上がっている。  
作業している最中は夢中で全然気づかなかったし、  
課長もいつもの無表情で、そんなに気を遣っていることを全然感じさせなかったけど。  
殆ど知識のない私にも、自然にスキルが付くように、  
山積みの仕事の中から私のために選んでくれた、  
それは計算し尽された順序だったんだ。  
 
(………すごい、課長って)  
仕事はただでさえ山積みなところに、あやさんの分の仕事まで引き受けて、  
ものすごく大変なのに。  
それで私の研修のことまで、こんなにしっかりと考えてくれていたんだ。  
何だか涙が出そうになるくらい感激してしまった。  
 
「橘、どうした?」  
ブースに戻ってきた課長が、手で口を押さえて涙目になっている私を見て聞く。  
「…課長、ありがとうございます」  
「………何がだ?」  
「私、ただでさえ忙しいのに研修なんて余計なお手間かけちゃって、  
それに、課長がこんなにしっかり、研修のこと考えて下さってるなんて、  
全然気が付かなくて…ありがとうございます」  
「上司が部下の指導をするのは当たり前だ」  
返ってきたのは味も素っ気も無い答。でも何とかして、感謝の気持ちを伝えたかった。  
「あの、何か…お礼をさせて下さい」  
「必要ないだろう。業務上必要なことをしただけだ」  
「でもあの…」  
「大体、お礼って何をするんだ?俺の仕事を代わりにやってくれるのか?」  
「…いえ、絶対無理です…ごめんなさい」  
そういえばそうだ。私が課長にしてあげられることなんて、無いに等しい。  
私が課長より優っていることなんて、どう考えても思いつかない。  
何だか落ち込んでしまって、がっくりとうなだれていると、課長が言う。  
「不用意に男性にそういう事を言うと、肉体関係を要求されかねないぞ」  
「…へ?に、にく…」  
何を言われたか理解するまで、数秒かかってしまった。  
かぁっ、と自分の頬が熱くなるのを感じる。鉄仮面の口から出たとは思えない単語。  
その鉄仮面はというと、これ以上ないくらいの真顔でじっと私を見ている。  
えっと、それって、まさか。  
「…冗談に決まっているだろう」  
「…あ…そうですよね当然ですよねあはははは」  
(課長って冗談言うんだ…なんかものすごい珍しいものを見たかも)  
わざとらしい笑いでごまかしたけど、心臓はドキドキと音を立てていて。  
鉄仮面の珍しい一面を見られた気がして、何だか気分は浮き足立っていた。  
 
「橘、休憩にしよう」  
時計を見ると、20時を回っている。  
緊張が解けると、急にお腹がすいてきた。  
毎日22時ごろまで残業するようになってから、食事を買いにいく時間もないし、  
昼食と夕食の二食分のお弁当を、自分で作って持ってくることにしている。  
今日のメニューは手作りコロッケと、ほうれんそうの胡麻あえに、玉子焼き。  
冷凍食品などはほとんど使わず手作りである。  
雪子が料理上手なのには訳がある。もともと料理好きというのもあるが、  
父を亡くし、働きに出た母に代わって、  
高校生のころから、そしてこの市役所に勤めはじめてからも、  
一手に家事を引き受けてきたのだ。  
ずっと、自分と母の二人三脚で助け合ってきたのだ、という自負があった。  
だが。  
 
ちょうど今頃家族が囲んでいるであろう食卓を想像し、雪子はそっと溜息をついた。  
残業は確かに体力的にはきついが、正直言って都合よくもあった。  
家に帰っても、居たたまれないのである。  
 
現在雪子が住んでいる家は、もともと彼女の実家ではない。母親の再婚相手の家である。  
母の再婚と同時に、広く立派なその家に移り住んで、もうすぐ3ヶ月になる。  
義父とその連れ子の義弟は、雪子にとても優しく、気さくに接してくれるが、  
やっぱりどうしても、自分の家という実感は持てなかった。  
掃除洗濯食事の支度、と今までどおり忙しくしていれば却って気も休まるのだが、  
母は再婚して、あれだけ頑張っていた勤めをすっぱりと辞め、  
新しい家で家事に専念するようになった。  
古いアパートの一室で、ずっと気を張って続けてきた食事の支度。  
それはもう雪子の仕事ではないのだ。  
 
(………いいことのはずなのに。楽になったはずなのに)  
そんなことを考えながら、一階にある自販機で飲み物を買って帰ってくると、  
課長の座る椅子の後ろをすり抜けて、自分のデスクに向かう。  
企画課のブースは只でさえ狭いのに、キャビネットが壁一面に据え付けられていて、  
身体を横にしないと、椅子と棚の間さえ通り抜けられない。  
後ろを通る時に課長の手元を覗き込むと、  
彼は器用にも、おにぎり片手にキーボードを叩いている。  
研修を始めたばかりのころは、片手でもタイピングできるって凄いなぁと驚いたけど、  
今ではすっかり見慣れた光景だ。  
(でも課長、毎日おにぎりだけだなぁ…手作りっぽいけど誰が作ってるんだろう?  
独身のはずだから…お母さん?でも、少しくらいおかず付けてあげてもいいのに。  
片手で食べられないからいらない、とかかなぁ)  
 
背後からなのをいいことに、遠慮なく課長の手元を観察しながら通り過ぎようとすると、  
 
うっかり椅子のキャスターに足をとられてしまった。  
「わ、うわわわわっ」  
とっさに課長の机に積んであるファイルの上に手をついたけど、  
それも雪崩を起こしてどさどさと滑り落ち、結局バランスを崩した私は、  
どたーん、と派手に転んでしまった。  
「大丈夫か?」  
「……だ、大丈夫です………あーーーーっっっっ!!」  
「何だ、怪我したのか」  
「いえっ、ああ…すみません課長!」  
床に崩れ落ちたファイルをのけると、  
ぺしゃんこに潰れたおにぎりが哀れな姿をさらしている。  
「ご、ごめんなさい、晩ご飯を…」  
「別に構わない」  
「そんなわけにいきませんっっ!」  
(どうしよう…代わりのご飯、買いに行ってたら時間かかっちゃうし…そうだ)  
「あのっ、課長、良かったら代わりにこれ、どうぞっ」  
軽くパニックになった私は、よく考えもせず、自分のお弁当の蓋を開いて差し出した。  
 
「……………………」  
申し訳なくて顔を伏せていたけど、何だか長い沈黙が続くので不安になってしまった。  
よく考えたら、他人が作ったお弁当なんて食べたくないかもしれない。  
課長、潔癖そうだし。  
恐る恐る顔を上げると、課長がもの凄い真剣な顔で見ている。  
私を、ではなく、私の差し出しているお弁当を。  
「…あ、あの、課長………?」  
沈黙に耐え切れなくて声をかけたが、反応はない。  
と、おもむろに、私の手からお弁当箱が奪われ、  
鉄仮面は、無駄のない流れるような動きで、デスクの引き出しから割り箸を取り出し、  
袋から出して、割って。  
 
(………食べてる!!!………)  
 
黙々とお弁当を食べ始めたのだった。  
 
(ど、どうしよう…何だろうこの状況…)  
良く考えれば、勧めたのは自分なのだから、別に困ることはないはずなんだけど。  
でも課長が余りにも真剣に食べているので、何だかどうしていいのかわからない。  
 
身のやり場に困って立ち尽くしていると、  
「…橘」と呼ばれた。  
「はっはい…何ですか?」  
「これは…誰が作ったんだ?」  
「え?あの、私ですけど」  
課長は私のほうを見ようともせずに、箸でつまんだコロッケを凝視している。  
「あの…課長?」  
「橘、前言撤回する」  
「…は?」  
「礼をしたいと言っていただろう。一つ頼みたいことがある」  
「は、はい、あの、どうぞ」  
急に何だろう。課長が前言撤回するって、並大抵のことじゃない気がする。  
というか、さっきから頭が真っ白で、状況が全然把握できてない。  
あぁ課長、その沈黙が怖いんですけど。  
 
「料理を教えてくれないか」  
「………………へ?」  
 
神様、私は今日、中嶋貴巳氏33歳、完全無欠の鉄仮面に、  
はじめて頼みごとをされました。  
 
そんな事を頭の片隅で呟きながら、、私は完全に、考えることを放棄したのでした。  
 
 
4 戸惑う土曜日  
 
6月某日、土曜日。  
窓の外は雨が音も無く降り続き、空はどんよりと曇っている。  
事情がさっぱり飲み込めないまま、橘雪子は物珍しげに、まだ新しい一戸建ての玄関を眺めていた。  
「課長のおうちって、一戸建てだったんですね」  
「ああ」  
「まだ新しいんですね」  
「建てたのは一昨年だ」車を駐車場に停めてきた課長が、傘を閉じながら言う。  
「は〜…凄いですね」  
中嶋は、何が凄いのかよくわからないというような顔をして玄関の鍵を開け、  
雪子を招き入れた。  
30歳そこそこで独身なのに、一戸建てを買うという決断力が凄い、  
という意味だったのだが、それを言葉に出す前に、室内の様子に雪子は目を奪われた。  
さぞかし整理整頓の行き届いた部屋なんだろうと想像はしていたが、  
中嶋貴巳氏の自宅の様子は、雪子の想像を軽く上回るものだったのだ。  
 
お邪魔しまーす、と呟きながら足を踏み入れたリビングルームには、  
普通の家庭に当然あるべき細々とした生活用品が、全くと言っていいほど無かった。  
広いフローリングの部屋にあるのは、ごくシンプルなソファとテーブルのみ。  
驚いたことに、テレビすらない。広いリビングだけに、どうにも寒々しい。  
ビジネスホテルのほうが、よっぽど飾り気があるくらいである。  
(………うわぁ、生活感ゼロだなぁ)  
「とりあえず座ってくれ」と言われ、雪子は荷物を床に置き、ソファに腰を下ろした。  
黒い皮張りのソファは、ほどよくスプリングがきいて座り心地がいい。  
(大体…思わず引き受けちゃったけど、上司と二人っきりで料理教えるって、  
いいんだろうか…しかも独身だし、家にまで上がりこんで、実はかなり問題なんじゃ)  
ここに来てようやく実感がわいてきた。鉄仮面の願いがあまりにも唐突すぎて、  
当然考えるべきそのことまで、雪子は今まで思いもしなかったのだった。  
大体、仕事中の中嶋は、休みの予定なんかで声をかけるのは憚られる雰囲気だし、  
同僚にも聞かれたくはなかった。  
今朝迎えに来た車の中でも、会話らしい会話もなく、  
新たに雪子が得た情報といったら、中嶋が1人暮らしだということと、  
私服もスーツ姿と同じく、隙が無くそれでいて味も素っ気もないシンプルなものだ、  
ということくらいだった。  
諾々とここまで付いてきてしまったことを少しだけ雪子が後悔しはじめたころ、  
キッチンから、課長がマグカップを二つ持って出てきた。  
「あ、ありがとうございます」  
無言で自分の前に差し出されたコーヒーを受け取る。  
「わぁいい匂いですね」  
カップから立ち上る湯気はとても芳しく、それが上等なコーヒー豆を使って  
丁寧に淹れられたものであることを示していた。  
少しの間うっとりとその香りを楽しんでから横に目をやると、  
中嶋が、自分の分のカップを持ったままソファの横に立ち尽くしている。  
「…?課長座らないんですか?」  
言ってから気づいた。  
ソファには雪子が座っているし、そのほかに座れるようなものは部屋に見当たらない。  
フローリングの床に直接座るというのも妙だ。  
ソファは3人は座れそうな大きさなのだが、二人並んでソファに座るというのは、  
ただの上司と部下としては、どうも距離が近すぎるんじゃないだろうか。  
そしてどうやら同じことを、横に立つ仏頂面の男性も考えていたらしい。  
雪子は慌てて、自分のお尻をソファの目一杯端っこにずらした。  
「あのっ、課長、良かったらどうぞ…ってここ課長のおうちだし、  
私が言うのも変ですよね。すみませんっ」  
 
「いや…俺が悪かった」  
「え?」  
「よく考えもせず橘に頼んでしまったが、軽率だったな。済まない」  
あまりにも真剣に謝られて、雪子は慌てた。  
「いやっ…そんなことないです!そもそもお礼がしたいって言い出したの私ですし、  
料理教えるくらいお安い御用です!…でも、なんでお料理なんですか?」  
気まずい空気を何とか打破するため、話題を変えようとしたのだが、  
中嶋はそれには答えず、雪子が座っているのと反対側の、  
ソファの肘掛の部分に腰を下ろした。  
それがぎりぎり許容できる距離感だということだろうか。  
しばらく二人とも無言でコーヒーを飲んだ。  
かぐわしい香りだけが殺風景な部屋に漂っていた。  
(なんか…面白い。課長も良く考えずに行動したりするんだ。  
全部計算済みなのかと思ってた)  
自宅に招きいれられるまで、それがただの上司と部下の関係としては行きすぎだ、と  
気づかなかった自分も自分だが、それは中嶋も同じことだったのだと思うと、  
鉄仮面の思いがけず人間らしい部分を垣間見たような気がして、  
雪子の口の端が自然にほころぶ。  
そんな雪子の顔を、珍しいものでも見るかのように眺めて、中嶋がぼそっと呟く。  
「この家に他人が入ったのは、初めてだ」  
「そうなんですか?」  
「違うものだな」  
「…え?何がですか?」  
聞き返したが、鉄仮面はそれ以上説明する気は無いらしい。  
(もう…結局、何考えてるのかよくわかんない人だなぁ。  
なんで料理なんて習いたいのかも解んないままだし。でも、課長の頭の中なんて、  
想像したって絶対解りそうにないし。…まぁ、いいか)  
随分と緊張がほぐれ、空になったカップをテーブルに置くと、  
雪子は勢い良く立ち上がった。  
「さて、始めましょうか!お料理教室!」  
 
 
5 鉄仮面の煩悶  
 
おそろしく綺麗に整頓されているキッチンだった。  
およそ料理に必要と思われるものは、きっちりと並べられ、整頓され、磨きこまれて  
キッチンの収納スペースに整然と収納されていた。  
食材も、冷蔵庫の中に万全に揃っている。  
「何か足りないものはあるか?」  
奥の部屋に何やら取りに行っていたらしい中嶋が戻ってきた。  
「大丈夫です、全部そろって………」  
振り向きざまに中嶋の姿を見た雪子は絶句した。  
「どうかしたか?」  
「………いえ、あの…エプロン…なんでもないです」  
(エプロン!!!エプロンって!!!課長のエプロン姿って!!!)  
戻ってきた鉄仮面は、当然のようにエプロンを身に付けていた。  
それも、その辺の衣料スーパーで売っていそうな、何の変哲もないチェック柄の。  
余りにも衝撃的な眺めに、雪子は笑いを必死で堪え、小刻みに震えている。  
「どうした?」  
「か…いえ、あの、似合いますね意外と」  
(か、かわいいとか思っちゃった…)  
「似合うも似合わないもないだろう。まずは何から始める?」  
鉄仮面があまりにも平然としているので、雪子も笑うに笑えず、  
腹筋が痙攣しそうになるのを必死で堪えた。  
「あ、そうですよねっ。じゃあ野菜の皮をむいて切っていきます」  
ちなみに本日の献立は、中嶋の希望により、肉じゃがと、きゅうりとわかめの酢の物だ。  
といっても別に二人で相談したわけではなく、  
残業が終わって帰り際に、希望のメニューと、材料は中嶋が揃える旨を  
一方的に伝えられただけだったが。  
中嶋は手際よく、ジャガイモの皮をむき、一口大に切っていく。  
「課長、上手じゃないですか!料理教わる必要なんてないみたいですけど…」  
「切るところまでは特に問題ないんだ」  
「はぁ…じゃあ味付けがうまくいかないとかですか?」  
「そんなところだ」  
「そこまでできたら簡単だと思いますけどねぇ」  
腑に落ちないながらも作業は順調に進み、いよいよ問題であるらしい味付けだ。  
 
「えーとじゃあ、みりんとお酒・お砂糖とおしょうゆで味付けしていきますね」  
(な、なんかものすごい真剣に見られてる気がする…)  
調味料を注ぎいれようとする自分の手元に、これまでになく真剣な、  
突き刺さらんばかりの中嶋の視線を感じてどうもやりにくいが、  
プレッシャーを振り払うように、鍋に砂糖を入れようとすると、  
「待て」  
「へ」途端に切羽詰ったような声で止められ、  
思わず鍋のほうにつんのめりそうになってしまう。  
 
「砂糖は何グラムだ?」  
「え?作る量にもよりますけど、適当です。ざばざば〜っと、わりと多めに」  
「…………適当?」  
「で、みりんとお酒ですね。どば〜っと入れてください。このくらい」  
「どばーっと………量ったりはしないのか」  
「しません。面倒ですし、今まで量ったことってないですよきっと」  
「味が毎回変わらないか」  
「そんなに変わらないと思いますけど…薄かったら煮詰めればいいし」  
「…………」  
「あ、おしょうゆは後で味調えられるように、最初は薄めにしといたほうがいいですよ。  
だばだばっと、このくらい」  
調味料のボトルから豪快に醤油を鍋に流し込むと、雪子はほっと一息ついた。  
「…で、このまま火が通るまで落し蓋して、しばらくおきますね。  
その間に、酢の物の合わせ酢を作ります。お酢をだーっ、とこのくらい。  
それにお塩とお砂糖と………って、課長?どうしたんですか?!」  
 
後ろを見やると、目を疑うような光景であった。  
完全無欠の必殺仕事人、正確無比の鉄仮面が、  
無表情のまま、シンクの縁に手をつき、うなだれていたのだ。  
「か、課長…?」  
「…………俺には無理だ」  
「へ?いや、そんなことないですって。私ができるくらいなんだから…」  
「ざばっとだの、だばだばだの、どばっとだの。  
何グラムで何ミリリットルで何分煮ればいいんだ?  
せめて大さじとか小さじとか言ってくれないか?それだって正確には量れないだろう。  
全てにおいて、料理というのは曖昧すぎる」  
「そ、そう言われましても……量ったことないし、すみません」  
どう考えても雪子が悪いわけではないのだが、とりあえず謝っておいた。  
自信喪失した鉄仮面など、職場の誰一人として見たことがないに違いない。  
驚天動地の事態というべきである。  
同僚の橋本あやあたりが見たら喜んで写メでもとりかねないが、  
雪子は、余りにも気落ちしている様子の鉄仮面が、何だか可哀想になってしまった。  
なんとか慰めてあげたいと思うのだが、うまく言葉が見つからない。  
 
「…………俺には向いていないんだろうな、料理が」  
「そんなこと…ない、と…思いますよ、たぶん…」  
言いながら自信が無くなってくる。  
確かに、料理はある程度大ざっぱでないとやってられないだろう。  
何事もきっちり正確でなくては気がすまないという中嶋の性格は、  
料理に向いているか向いてないかといえば、それは。  
しかし今の中嶋に「向いてないですね」などと言えるほど、  
雪子は勇気も無いし残酷でもない。  
暫くの間、雪子が胡瓜を薄切りにする包丁の音だけが、広いキッチンに響いていた。  
 
(………課長、そんなにショックだったのか…でもなんでそんなに料理したいんだろ)  
相変わらず気落ちしている様子の中嶋は、食器棚にもたれて自分の足元を見ている。  
気まずい沈黙に耐え切れなくなった雪子が、胡瓜の薄切りの入ったザルを持ち上げ、  
ぎゅっと水気をしぼった。  
二人で落ち込んでいても陰気なだけである。  
「とにかく、今はご飯作っちゃいましょう!食べればやる気が出てきます!多分!」  
 
 
そして約30分後、二人はソファのぎりぎり両端という不自然な位置に座り、  
出来立ての肉じゃがと酢の物、ご飯とみそ汁を前にしていた。  
みそ汁の具はアサリ。肉じゃがには色よくゆでられた絹さやが彩りを添えている。  
湯気と、ジャガイモの煮える甘い匂いが、6月の湿度の高い室内にたちこめる。  
 
いただきます、と呟いて、暫くは無言のまま二人は食事を続けた。  
いい加減沈黙には慣れたつもりの雪子だったが、  
やはり打ち沈んだ様子の中嶋が気になって仕方が無い。  
「お昼ご飯にしては豪華なメニューですねぇ」  
「………………」  
「酢の物のお酢加減どうですか?私はこのくらい酸っぱいほうが好きなんですけど」  
「………………」  
「雨やみませんね」  
「………………」  
「肉じゃが甘すぎませんでした?」  
「………………」  
雪子は、ふぅ、と思わず溜息をついた。信じられないことだが、  
鉄仮面に対して、僅かだが腹を立てている自分がいる。  
今までの雪子なら、とても畏れ多くてそんな感情は抱き得なかっただろう。  
雪子は中嶋のほうへ向き直り、やや強い口調で尋ねた。  
「課長、お味はどうですか?」  
「美味い」  
「え?…そ、それは良かったです」  
余りにもあっさりと答えられてしまい、却って気勢を削がれてしまった。  
「…俺はそもそも、方向性を間違っていたのかもしれない」  
「…ほ、方向性?」  
「ずっと、記憶に残っている味を再現しようとしてきたんだ。  
色々なレシピを参考にして試作を続けたが、納得のいくものにはならなかった」  
「…はぁ」  
「だが今回橘の作った料理は美味い」  
「あ、ありがとうございます。課長のその、記憶に残ってる味と似てましたか?」  
「似ていない」  
「へ?」  
「似ていないが美味い。俺はずっと、味を似せることだけに拘泥してきたが、  
それが間違いだったのかもしれない」  
「似せるって…昔一度だけ食べた絶品の肉じゃがとかにですか?」  
「いや」  
「じゃあ…お母さんの味付けですか」  
「いや…まぁ似たようなものか。祖母のだ」  
「おばあ様?」  
「ああ」  
「おばあ様が毎日お料理されてたんですか?」  
何だか会話が思わぬ方向に向いてきた。  
鉄仮面の生い立ちなんて、職場の誰も知らないに違いない。  
好奇心をくすぐられるというのももちろんあるが、  
仕事中に中嶋に対して抱いていた怖れは、今や嘘のように消え去り、  
雪子はこの一筋縄ではいかない、常識では計り知れない鉄仮面の素顔を見てみたい、  
という衝動にかられはじめていた。  
が、その安易な好奇心は、中嶋の重すぎる過去の前に、  
すぐに後悔に変わることになる。  
 
「母親は俺が6歳の時に亡くなってるからな」  
「え…じゃあ、お父様と、おじい様おばあ様と暮らされてたんですか?」  
「父と母は俺が生まれる前に離婚している。父親とは会ったこともない。  
俺は祖父母に育てられたんだ」  
何でもないことのように、いつもの無表情で語ってはいるが、  
その内容はとても「そうですか」の一言で済ませられるものではない。  
「すみません…私、余計なこと聞いちゃって…」  
「なぜ謝る?別に隠していることじゃない」  
「だって…じゃあその、お料理のことだって」  
「ああ。祖母は料理だけはマメだったからな。俺は実家を出るまで、  
ほとんど外食だの売ってる弁当だのを食べたことがなかったんだ。  
お陰で今でも、惣菜だのコンビニ弁当だのは全く食べる気がしない」  
「だから…自分で料理を?」  
「ああ。だがどんなに料理の本を読んでその通り作ってみても納得できない。  
慣れ親しんだ祖母の味にはならないんだ。  
どうにか米を炊くことだけは満足いくようになったんだが。  
それ以上はどうしても、自己流では無理なのかと思っていたんだ」  
「それで毎日、おにぎりだったんですね…」  
雪子は、職場での中嶋の食事風景を思い出していた。  
つやつやとしたお米に、海苔を巻いたおにぎりだけのシンプルすぎる食事。  
 
「ワンパターンで、いい加減に嫌気がさしていたんだが…橘の作った弁当を貰った時、  
祖母の料理以外で美味いと思ったのは初めてだったからな。  
教えて貰おうと思いついたんだ」  
「でも、おばあ様の味には似てないって…」  
「だが美味かった。…恐らく、祖母の味も橘の料理も、  
俺が小手先で真似しようと思うこと自体が、間違っていたんだな」  
語っている内容と、いつもと同じ事務的な口調が似合っていないが、  
雪子はようやく、本当にようやく、  
不可思議だった鉄仮面の行動のわけが理解できる気がした。  
「課長…おばあ様に愛されてたんですね」  
そう言うと、中嶋の無表情が少しだけ崩れた。  
今までなら見過ごしていたに違いない、中嶋のほんの僅かな表情の変化が、  
今の雪子には敏感に感じられる。  
それは多分、懐かしい人のことを想っている表情だ。  
「口を開けば愚痴と小言ばかりで、陰険な婆だったがな」  
「………だった」  
「俺が大学に入って、家を出た後すぐガンで亡くなった。あっけなかったよ。  
爺はまだ元気なんだが、いい歳のくせに、頑固にも未だに古い家で1人暮らしだ。  
………どうした、橘?」  
中嶋は雪子の顔を見て、―鉄仮面には珍しいことに―驚いた。  
 
雪子は、目を見開いたまま、大粒の涙をぽろぽろと流していたのだった。  
「橘…どうかしたのか?」  
雪子は無言でふるふる、と首を横に振った。  
涙はとめどなく流れ、漆黒の睫毛を濡らし、白い頬へと流れ落ちている。  
予想もしなかった展開に戸惑いを感じながらも、  
中嶋は雪子の真珠のようなその涙に、瞬間、見蕩れていた。  
潤み溢れる大きな瞳は、それでもまっすぐに、中嶋を見つめている。  
桜色の、花の蕾のような唇がわななき、言葉を紡ぐ。  
「………………さみしかったでしょう?………」  
中嶋が言葉の意味を理解するのに、少しの時間が必要だった。  
寂しいなんて、考えたこともなかった。そんな感情が自分にあるということすら、  
今まで想像したこともなかった。  
同情だろうか。だとしたらそれは、普段の自分ならば屈辱と取るだろう。だが。  
目の前の少女のような部下の涙は、屈辱を感じるには余りにもまっすぐで純粋だった。  
(真っ白な子猫が涙を流して泣いたら、こんなふうかもしれないな)  
中嶋は柄にもなく、そんなことを思った。  
 
雪子は、自分でも何故泣いているのか解らなかった。  
ただ、家族を亡くした喪失感が、自分のことのように感じられて。  
雪子の家族。いなくなってしまった人。変わってしまった人。  
1人取り残されて、迷子の子供のような寂しさ。  
無意識に、子供のころの中嶋と、自分を重ね合わせていた。  
 
ふと、中嶋の手が動く。  
伸ばされた手は、まるで子供をあやすように、雪子の頭をぐりぐりと撫ではじめた。  
それが何とも言えず心地よくて、  
雪子は、不思議なほど安心してされるがままになっていた。  
 
中嶋は、ようやく泣き止んだ雪子の、さらさらした髪を指で梳きながら、  
力任せにしたら壊れてしまいそうだ―と頭の片隅で思った。  
 
どれくらいの時間そうしていただろうか。  
庭の植木から、カラスか鳩か、大きな鳥が飛び立つ音がして、  
雪子はようやく我に返り、慌てて中嶋から離れた。  
「あ、あのっ、すみませんでしたっ」  
恥ずかしさのあまり、意味もなく両手をばたばたと顔の前で振り回す。  
(何やってるんだろう…私)恥ずかしくて頬が赤くなるのが自分でもよく解った。  
中嶋は、そんな雪子を興味深そうに眺めて言う。  
「橘は面白い生き物だな」  
「え?い、生き物ってなんですかっ」  
中嶋はそれには答えず、ただじっと雪子の顔を凝視している。  
(な、なんか私、観察されてる……?生き物って……わたし動物扱いなの?)  
余りにも繁々と見られ、いたたまれなくなった雪子は、慌ててソファから立ち上がった。  
「…あの、私、帰ります、ね」  
「…ああ、それじゃ送ろう」  
「はい…すみません、お願いします」  
雪子はそそくさと身支度をすると、中嶋と目を合わせることもできずに家を出て、  
車に乗り込んだ。  
先程の自分が恥ずかしくて仕方が無い。  
車内でも、どちらも言葉を発することなく、ほどなく車は雪子の家の前に停められた。  
 
「ありがとうございます」  
「ああ、今日はありがとう」  
「………あの」  
「何だ?」  
車を降りると思っていた雪子は、そのまま助手席に座って、何か言いたそうに言葉を  
選んでいる。  
「課長………その、来週からは」  
「ああ………さっきも言ったが、俺は料理には」  
向いていない、と言おうとしたが、その言葉は慌てたように雪子に遮られた。  
「いえ、来週のメニューは、何にしますか?」  
「いや…しかし」  
「ダメですよ、諦めちゃ。カンがつかめるまで頑張りましょう!」  
(ここで放り出したら、後味悪いし、課長が可哀想だし!)  
そう思いつめた雪子は、こぶしを握り締めて中嶋に詰め寄る。  
思わぬ雪子の勢いに気おされてか、中嶋もつい、答えた。  
「…そうだな、じゃあ来週は…ハンバーグだな」  
「焼きますか?煮込みますか?」  
「………煮込みだ」  
「わかりました!それじゃまた月曜に」  
何やら吹っ切ったような微笑みを浮かべて、  
雪子はドアを開け、中嶋に手を振ってさっさと歩いていってしまった。  
(あれは本当に…ずいぶん面白い生物だな)  
自分が珍種中の珍種である鉄仮面であることなど棚に上げ、  
中嶋貴巳氏は、感慨深げに雪子の後姿を見送ったのだった。  
 
家に帰った雪子を、母が出迎えた。  
上司に料理を教えるのだということは伝えてあるが、帰ってきた雪子の顔を見た途端、  
母は意味深な表情を浮かべた。  
「今日会った上司って、いくつ?」  
「え?確か33歳だけど?」  
「少し年が離れすぎてない?」  
「やだ、別にお付き合いするわけじゃないんだよ?何言ってるのお母さん」  
「ふうん…本当に?」  
「本当に、研修のお礼に料理教えるだけだってば」  
(そう…今日はちょっと思わぬ展開だったけど、よく考えたら課長と私が恋愛とか、  
どう考えてもあり得ないし!  
でもちょっとびっくりした……まだ心臓ドキドキいってる)  
心拍数が無闇に上がっているのは、決して驚いたためだけではないのだが、  
純情かつ鈍感な橘雪子は、まだそれに気づかない。  
 
一方そのころ鉄仮面は、自宅に戻りリビングの扉を開けて考えていた。  
彼が大変気に入っている、余計なものなど何一つ無いリビングであるが、  
今日は何故か、いつもよりもひどく寒々しく感じる。  
(おかしいな…気温がいつもより低いのか?  
やはり保温のためには絨毯くらい敷いたほうがいいだろうか…しかし埃が気になるな)  
その「寒さ」が、一般的には「寂しさ」と呼ばれる感情であることに、  
鉄仮面たる中嶋貴巳氏は当然、気づかない。  
 
 

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