操の姿を認めた時の、男性二人の表情は、ちょっと形容しがたいものであった。
まず先に部屋に入ってきた貴巳が、凍りついたように固まった。
「何?どうしたの?」と、貴巳の背後から室内の様子を覗いた武内は、「げっ……」と目をむいて、
操と貴巳、雪子の三人を恐る恐る交互に見つめている。
凍った空気の中に、操の「あっお邪魔してまーす。二人ともお久しぶり」というあっけらかんとした声が、やけに響いた。
雪子だけは、場の空気が何故こんなに緊迫しているのか、全く理解できない。
「えっと……あの、皆さん、お知り合いなんですよね……?」
おずおずと口を開くが、男性二人は固まったまま、操はただニコニコと笑っているだけで、一向に答えが返ってこない。
「あの、貴巳さん?さっきね、偶然操さんがこっちにいらして、それで武内さんともお友達だって聞いたから、
良かったら夕食ご一緒にってお誘いしたんだけど……」
そう説明すると、貴巳の片眉が、僅かにひくり、と痙攣した。
常に無表情の夫だが、今はどうやら必死で内心の動揺を押し隠しているようである。
いくら来客嫌いとはいえ、この反応は少し異常ではないだろうか……
雪子がそこはかとない不安を感じたとき、貴巳がようやく口を開いた。
「……鈴木、何のつもりだ?」
問われた操は、向けられた冷たい口調と視線を気にする様子もなく、けろりとして言う。
「やあね、そんな怖い顔しないでよ。雪子ちゃんが言った通り、たまたま近くまで来たから寄ってみただけだってば」
「そうか。じゃあ帰れ」
「相変わらずねぇ……でもせっかく雪子ちゃんと仲良くなれたんだし、悪いけど今日は帰らない」
語尾にハートマークでもついているかのような調子で、にっこり笑った操が言い放つ。
「……雪子。怪しい人間を家に上げるなと言っただろう」
苦虫を噛み潰したような表情の夫から、突然会話の矛先を向けられ、雪子は焦った。
「え?で、でも、知り合いなのは間違いないんだよね?」
答えずにむっつりと押し黙った貴巳を見て、操が大げさに溜息をついた。
「まったく、冷たいわよね〜中嶋くんは。私は君が帰ってくるまでは、フェアじゃないと思って、
雪子ちゃんにちゃんとした名乗りもあげないでいたっていうのにさ」
「え?名乗りって……」名刺ならさっき貰ったのに、と雪子が言いかけたが、操の口が開くほうが一瞬早かった。
「どうも、改めまして。鈴木操、AB型の獅子座。中嶋くんの昔の女です。よろしくね、今の奥さん」
「……へ?」
(むかしの……おんな?)
晴れ晴れとした笑顔で、面と向かってそう言いきられて、雪子の思考回路は完全にストップした。
口をぱくぱくさせながら、先程からだんまりを続けている夫の顔を見やるが、貴巳は決して雪子と視線を合せようとしない。
ほんの数瞬の沈黙が、永遠のように長く感じられた時、武内が恐る恐る口を開いた。
「えーと……俺、帰ったほうがいいかな……?」
「何言ってるのよ武内くん、久しぶりに会えたのに!相変わらずでっかいわね」
「……君も相変わらずだね、って挨拶はともかく、この凍った空気の責任取ってよ操ちゃん」
向かい合って彫刻のように固まっている中嶋夫妻を見やり、操は首をかしげた。
「下手に隠してて、後でバレるほうがまずいと思ったんだけど」
「いや、どう考えてもこれ以上まずくはならないと思うんだけど」
「そう?そうかな……んじゃ、ねぇねぇ雪子ちゃん、びっくりさせてごめんね?」
二人の間に割り込んできた操が、ごく軽い調子で両手を合わせる。
「……はぁ、あの……何ていうか」
「でも安心してね?中嶋くんとは身体だけの関係だったし、大学卒業してからは一度もヤッてないから」
「……え?え??身体だけ、ってあのその、えええええ?」
雪子の混乱は極地に達し、男性二人は揃って頭を抱えた。
操一人が、雪子に向かって熱の入った口調でまくしたてる。
「だからね、別に恋人同士だったってわけじゃないの。何ていうかな、お互いの利害が一致したっていうか……
性欲処理するのに丁度いい相手だったのよ。懐かしいなぁ……だって、あの冷血動物みたいな中嶋くんがどんなセックスするのかって、
ものすごく気になってしょうがなかったんだもん。そうなると私我慢できなくって。
で、契約したの。二人のどちらかに好きな人ができるか、飽きたら関係は終了。後腐れなく楽しみましょうって。
元々私、一人の人に縛られずに、できるだけ色んな人と試してみたいほうだし。
あ、でも不倫とか彼女持ちの男性には手出ししないことにしてるし、当然、避妊と病気の予防は完璧にしてたし、
それに何より、今の中嶋くんには全く興味ないから安心してね?」
「……鈴木、頼むからちょっと黙れ」
いよいよ操の話を受け入れられずに、今や完全に石像と化している雪子をソファに座らせ、貴巳がうんざりした調子で操を遮る。
「いいじゃないの、昔の話なんだし。それとも中嶋くん、もしかしてまだ私のこと……」
「無い。絶対に無い」0.01秒の間も空けずに断言する貴巳。
「でしょ?じゃあ何もやましいことなんてないじゃない?雪子ちゃんごめんね、びっくりしただろうけど、
本当に今はただの友達同士なのよ」
「は、はぁ……」
「友達になった覚えはない。大体、どうしてわざわざうちに来たんだ?偶然近くまで、とか言っていたが、どうせ嘘だろう」
お見通しか、とばかりにぺろりと舌を出し、いたずらっぽい表情で操が言う。
「だって気になるじゃない?あの中嶋貴巳が、なんと結婚したっていうんだもの!!
相手はどんな人なのかなーって色々想像したけど、どうしたって想像つかないわけ。
で、実物見たくてしょうがなくって、つい」
「……雪子ちゃんは見世物じゃないんだからさ……確かに貴巳と結婚するなんて珍種だとは思うけど」
「何か言ったか、武内」
「いや……えーと、とりあえずちょっと皆、落ち着こうよ。
雪子ちゃん、操ちゃんて非常識でインモラルで聞いての通りの性豪だけど、
悪気だけはないから何とか許してあげてくれない?大丈夫?」
「ちょっと武内くん、それはあんまりなんじゃない?」
大丈夫なわけはないのだが、雪子はようやく少しずつ、自分を取り戻しつつあった。
過去の二人の関係は、ショックといえば確かにそうなのだが、不思議と納得できる話ではあった。
少なくとも、貴巳が過去に大恋愛していた、とかいう話よりは、よっぽど貴巳らしいと思う。
それに、操がわざわざここまでやってきた理由というのが、雪子にも納得できるような気がする。
受け入れられるかどうかはともかくとして、とりあえず今はこの場を何とかしなくてはならない。
「えーと…とりあえず、今は二人とも、そういう関係じゃない、ってことだよね?」
「当たり前だ」「当たり前よ」
同時に即答した貴巳と操を見やり、雪子はぶるぶると頭を振って立ち上がった。
「……じゃ、とりあえず、ご飯食べましょうか……あ、武内さんお久しぶりです、こんにちは」
ひどく間の抜けたタイミングで、雪子から頭を下げられて、武内が苦笑した。
「雪子ちゃんも、貴巳なんかのお嫁さんになったばっかりに、理不尽な苦労するね」
貴巳はちょっと顔をしかめたが、特に反論しようとはしなかったのだった。
4
「っはー!!美味しかった!最高!……あれ?皆全然食べてなくない?」
「……お前に比べたら、何も食べてないに等しいだろうな」
「だ、大丈夫、みんなちゃんと食べてますよ」
「……武内くん、その細い体のどこにそんなに入るのよ……見てて気持ち悪くなりそう」
凍った空気が解けきらないうちに、とりあえずと食べ始めた夕食だったが、
テーブルの上に所狭しと並べられた大量の料理がきれいになくなるのに、
一時間ほどしかかからなかったのは驚くべきことだった。
大鍋二つに一杯にあったはずのおでんに、大皿に山盛りにされていたサラダとチーズなどのオードブル、
それに作った当人の雪子が(……これ、鶏何羽分あるんだろう)とあきれ返ったボリュームの、若鶏の唐揚げ。
更に、中嶋宅の炊飯器の容量一杯、五合半のご飯で作ったちらし寿司と、魚屋に仕出しを頼んだ、これまた大量の刺身。
それらが、まるで掃除機か何かに吸い込まれるように武内の腹の中へ消えていくのを、
他の三人は半ば呆れ、半ば感動しながら眺めていたのだった。
「はー。雪子ちゃんてホント料理上手だよね。唐揚げはすっごくジューシーだし、ちらし寿司のすし飯とか、
具の煮加減とか絶妙だしさ。何で貴巳にはこんなにいい奥さんがいて、俺には一向に嫁さんの来手が無いんだろう……」
「日ごろの行いの差だろうな」貴巳が呟く。
「……俺ほど謹厳実直な男もいないと思うんだけどなぁ」
「武内くんて結婚願望あったんだ?そういうの無縁かと思ってたけど」
操が、何故か目をらんらんと光らせながら言う。
「そりゃあるよ。雪子ちゃんのお友達で、まだ独身の可愛い子とかいない?」
「ちょっと武内くん、自分が幾つだと思ってるの?厚かましいにも程があるわよ」
「えー、だって貴巳だって同い年だけど雪子ちゃんと結婚してるじゃない?」
ニコニコしながらやり取りを聞いていた雪子が、ちょっと首をかしげて考え込んだ。
「……ね、貴巳さん、あやさんとかは?歳もちょうど釣り合うし」
「武内にか?」貴巳はちょっと考え、顔をしかめた。
「え、何なに?誰か心当たりあるの?」勢い込んで聞く武内に、雪子はうなずいた。
「貴巳さんの部下で、私のお友達なんですけど、面倒見がよくって、美人で、スタイルもよくって、仕事ができて……」
うんうんうん、と期待に満ちた目で頷く武内を、渋い顔で見やって貴巳が続ける。
「……仕事ができて、豪快な酒豪だ」
「え……なんか、最後の二つがすごく気になるから……やめとく」
「ねぇねぇ、じゃあさ、私なんかどう?」
操が、勢い込んで武内に迫った。
「……は?」
「いや、だから武内くん、そろそろ私と結婚しない?」
「……おー、わたしにほんごわからないねー」
「いや、本気だってば」
「何でいきなりそういう話になるの?大体、操ちゃんだって結婚願望ないでしょ?
色んな人と乳繰り合って好きなように生きてくんだって言ってたじゃない?」
操の目が本気なのを見て、武内の額に冷や汗が浮かぶ。
「んー、でも親がいい加減うるさいしね。もう孫なんて諦めろって言ってるのに、
ジャガー横田を見習えとか、訳わかんない事言って泣かれるしさぁ、一回くらい結婚しとくのも悪くないかなぁと思って」
「そんな適当な理由で……っていうか何で相手が俺なの?」
今や武内は完全に操に怯えている。じりじりと後ずさろうとするが、いつの間にか操に両手を握られていて離れることができない。
「だって、武内くんって、昔っから私が誘っても絶対してくれなかったじゃない?そこまで拒まれると、逆に燃えるのよね」
「ちょっ……いや!ええと……二人も黙ってないで操ちゃん止めてよ!」
涙目で懇願され、貴巳と雪子が目を見合わせる。
「……鈴木の実家は、確か千葉の大きな寺だろう?頭を丸めて婿入りするのも悪くないんじゃないか」
「……貴巳、何か俺に恨みでもある?」
これに懲りて武内がしばらく家に来なければいい、という本音はおくびにも出さず、
貴巳は恨めしそうな視線を送る武内を黙殺した。
「……大体、学生の頃からさ、操ちゃんに関わると色々怖いんだよ……情報網が広くて」
「人聞き悪いわね……私はちょっと聞いただけなのに、相手が勝手に色々喋ってくれるだけよ」
会話の意味がわからずに、雪子が首をかしげると、武内が説明してくれた。
「いや、だからね……操ちゃんて、学生のころからものすごい数の人と、その、関係があるんだよね。
で、操ちゃんと別れた後に結婚したり、彼女ができた人も多いわけでしょ?つまりさ、その人の弱みを握ってることになるってこと」
「はぁ……なるほど」
「でも雪子ちゃん、勘違いしないでね?私、彼女や奥さんがいる男に手を出したことって一度もないし、
万が一でも取り返しの付かないことにならないように、絶対に避妊はしたし、
それに定期的に検査も受けて、病気にも気をつけてたのよ?人に迷惑かけちゃいけない、っていうのが私のモットーだもの」
「……は、はぁ……」
操の話は、時々外国語のように理解するのに苦労するのだが、雪子は不思議と、この異常な状況に慣れはじめていた。
「……それはいいんだけどさ、操ちゃん、手、離してくれない……?」
「い・や♪」操は艶やかな笑みを浮かべ、より一層、武内の手を握る指に力を込める。
「あのさ……もしかして、とは思うけど、操ちゃん……今日、俺が貴巳の家に来ること、知ってたわけじゃないよね?」
「やーねぇ、偶然よぉ。……あ、忘れてた、お土産持ってきたんだった……はい、これ雪子ちゃんと、これは中嶋くん。
あとこれ武内くんね」
「……いや、俺のお土産まで用意してる時点でおかしいじゃないか!!」
「いらないの?本場北欧美女のえげつなーい無修正DVDなんだけど」
「……鈴木、妙なものをうちに持ち込むな」
「あ、中嶋くんのは四十八手の指南DVDで、雪子ちゃんのは革製の手錠ね」
「て、てじょう?」
「さっさと持って帰れ」貴巳の声はもはや、凄みどころか殺気を帯びている。
「えー、日本に持ち込むの結構大変だったのに。じゃあ武内くんにみんなあげるね。お楽しみにね♪」
「……ええええ?お楽しみって何のだよ!?」
「……と、とりあえず、食卓片付けて、日本酒でも出しますね?」
何時の間にかこの異常な状況に慣れてきた雪子は、何とか武内に助け舟を出そうと、そそくさと食卓を片付けはじめた。
操は相変わらず、妙に色気溢れる目線を武内に投げかける。
操の標的はてっきり雪子と貴巳だと思っていた武内は、ここにきてようやく、
自分の身の安全が脅かされていることを実感し、滝のような冷や汗をかいたのだった。
5
お酒っていうのは、不思議なものだなぁ……
酒が飲めない雪子がつくづくそう思うのは、飲み会で、いい加減酔っ払った人たちが、
それまでのよそよそしかった態度をがらりと変えて、急に数十年来の親友のように振る舞いだす様子を見たときだ。
今や中嶋宅のリビングは、床にだらしなく寝そべった武内と、ほんのり頬を染めて徳利を傾ける操が奇妙に意気投合し、
不機嫌の絶頂の貴巳と、何となく状況に適応してしまった雪子を挟んで、昔話に花を咲かせているのだった。
「そういえば、もうすぐクリスマスだね〜。中嶋くんたちは、クリスマスは家で過ごすの?」
操にそう聞かれ、雪子は苦笑いする。
「毎年、特別なことはしないんですよ。普通に、普段どおりのご飯食べるだけで」
「え?クリスマスディナーとか作らないの?雪子ちゃんなら、気合入れて豪華なの作るのかと思ってたのに」
武内が驚いた声で言う。
「私も、クリスマスっぽいもの作りたいんですけどね……貴巳さんが、そういうの嫌いなんですよ」
「……キリスト教徒でもないのに、クリスマスを祝う理由がないだろう」
無表情でそう言い放つ貴巳に、操と武内は非難の目線を向けた。
「うわー、最悪、堅物!お祭りなんだから、深く考えることないじゃん」
「女心がわかってないわねぇ……雪子ちゃんも、旦那を甘やかすと良い事ないわよ?」
「えっ?いや、そんな、甘やかしてるわけじゃ……」
ぽりぽりと頭をかく雪子に、操がたたみかける。
「そーやってはいはい言うこと聞いてたら、この男付け上がる一方よ?
今年のクリスマスは、問答無用でローストチキンとかケンタッキーチキンバーレルとか買ってくりゃいいのよ」
「あはは……一回くらいそういうのもいいかもですね」
「いい加減にしろ鈴木。うちがクリスマスに何を食べようと自由だろう」
「やあねー中嶋くんは。どうせクリスマスプレゼントも無しなんでしょ?面白みのない夫だなぁ」
「あ、あの、クリスマスじゃないけど、プレゼントはちゃんと貰ってますよ。毎年年末になると」
雪子は慌てて貴巳をフォローしたのだが、操と武内は首をかしげている。
「……それは、クリスマスプレゼントじゃないの?」
「いえ、絶対クリスマス当日にはくれないんですけど……」
「「ただの意地っぱりじゃん!!」」
二人の声が完全にユニゾンし、貴巳はじろり、と氷のような目線で友人達を睨んだ。
「でも気になるな。貴巳ってどんなプレゼントくれるの?」
「あー気になるわね。下着とか?コスプレ衣装とかマニアックな感じ?
中嶋くんムッツリスケベだから、意外とそういうの好きよね?」
背中に注がれる、貴巳の氷のような視線を痛いほど感じながら、雪子は冷や汗をかいて、何とか話題を逸らそうとする。
「いや、下着はもらったことないですよ?水着なら今年もらいましたけど。あ、貴巳さんにじゃなくって、お友達にですけど」
「……水着?誰にだ?」貴巳が、初耳だと不機嫌そうに眉をひそめた。
「あれ?言ってなかったっけ?この間買い物に行ったとき、あやさんが買ってくれたの」
「え?どんなの?見せて見せて〜」
はしゃぐ操に、雪子は隣の部屋に置いてあった紙袋を持ってきて、中身を見せた。
「わぁ可愛いじゃない!雪子ちゃんに似合いそう。ちょっと着て見せてよ」
「あ、俺も見たい見たい!!」
「……ダメだ」
はしゃぐ武内をものすごい眼力で震え上がらせ、貴巳がドスの効いた声で言う。
「何よ、いいじゃないのちょっとくらい。ヤキモチ焼きな男っていやね〜?
冬に水着なんてちょっとお洒落なプレゼントじゃないの。どうせ自分はろくなプレゼントも選べないくせに」
あからさまな嫌味に、貴巳は眉をひくつかせた。
「……自分の妻の欲しがるものくらい、ちゃんとわかっている」
「そんな事言って、どうせまだ準備もしてないんでしょ?」
ぎろり、と音がしそうな視線を操に送り、貴巳は無言で席を立ってリビングから出て行き、
隣の部屋から、何やら包装紙に包まれた菓子箱ほどの大きさの箱を、あっけにとられている雪子に手渡した。
「え……貴巳さん、えっと……これ、貰っていいの?」
「いやいや貴巳……挑発に乗るなって。このタイミングで貰うほうの身にもなれ」
「だから、とっといてクリスマスにあげたらいいじゃないのよ」
うるさい外野を完全に無視し、貴巳は雪子に、包みを開けるように促す。
(な、なんか思いがけないタイミングだけど……とにかく用意しててくれたんだよね。何だろう……結構重たいなぁ)
戸惑いつつも、滅多にない夫のプレゼントだけに、結構単純に喜んでしまう雪子であった。
包み紙をそっと開いて、箱の蓋を開けると、中身は更に白い柔紙に包まれている。
背後から好奇心に満ちた二人の目線を注がれながら、雪子はそっと、今年のプレゼントを取り出した。
「……え?」
「……え?」
「……貴巳さん、これ……」
中身が取り出された瞬間、武内と操は絶句した。
夫から若くて可愛い妻へのクリスマスプレゼント(本人は認めないが)の中身は、
ずっしりとした重量の、将棋の駒のような形をした、銀色に鈍く光る。
古式ゆかしき形の、堂々たる「おろし金」であった。
(……無いだろ!これは無いだろ!!)
(……雪子ちゃん、可哀想に……)
気まずさのあまり沈黙する二人の耳に届いたのは、思いがけない雪子の言葉だった。
「……貴巳さん!どうして私の欲しいもの知ってたの!?」
それはまぎれもなく、感動すら滲んだ、驚きと喜びの声であった。
貴巳は答えないが、その横顔にはそこはかとなく、勝利の悦びが滲んでいる気配がする。
「いやいや!!雪子ちゃん、ホントにそれでいいの?」
「何でクリスマスプレゼントにおろし金なのよ?普段買いなさいよそんなもん!」
二人の非難が思いがけなかったらしく、きょとんとして雪子が言う。
「だって、これ銅製でいいお値段しますし……ずっとプラスチックのを使ってたので、
こういう本格的なのに憧れてたんですよ。すっごく嬉しい!貴巳さん、ありがとう」
ほのかに頬を染めて、本気で嬉しがっている様子の雪子を見て、武内ががっくりとうなだれた。
「……ねぇ、何で俺にはこういうお嫁さんがいないのかなぁ?」
「元気出して武内くん。雪子ちゃんがいなくても私がいるじゃない?」
「……何、その『パンが無ければ野獣を狩って食べればいいのに』みたいな発言」
「わかりづらい例えだけど、何か馬鹿にされた気がするわ……雪子ちゃん、そんなに嬉しい?」
「はい!去年のも嬉しかったですけど、今年もすごく気に入りました」
「……聞きたくないような気もするけど、去年は何貰ったの?」
恐る恐る、武内が聞く。
「はい、去年はホームスモーカーをもらいました」
「……何それ」
「肉とか魚とかソーセージとかを、自宅で燻製にできる器具です」
にこにこと、誇らしげなまでに嬉しそうに話す雪子の顔を眺めて、武内は再び床に突っ伏した。
「……ダメだよ操ちゃん、俺もう再起不能だよ……今まで俺が女の子に買った、
コーチのバッグだのプラダの財布だの何だったんだよ……マニュアルじゃ人生勝てねぇよ……」
「武内くん、気を落とさないで。私が慰めてあ・げ・る♪」
「……胸押し付けるのやめてくんない?」
「そろそろお風呂に入らないと、遅くなっちゃいますね……あ、お部屋なんですけど、
武内さんは前に泊まって頂いたお部屋で、操さんはその隣の和室でも大丈夫ですか?」
時計を見た雪子が、客用の布団を敷こうと立ち上がる。
「私はどこでも大丈夫だけど、お布団足りる?何なら武内くんと一緒でもいいんだけど」
「えええ!雪子ちゃん、俺ソファでもいいよ?」
雪子が苦笑して答える。
「大丈夫です、お客様用のお布団が二組ありますから。じゃ、用意してきますから、
お風呂沸いてるので順番に入っちゃって下さいね」
雪子が用意に立つと、武内が貴巳にすがるような目線を向けた。
「……貴巳、俺の寝る部屋って、鍵かかる?」
野獣に魅入られたような哀れな友人を、冷たい目で見下ろすと、鉄仮面は冷酷にも言い放った。
「残念だが、うちには鍵の掛かる部屋はない。トイレででも寝るんだな」
「……貴巳、俺達友達だと思ってたんだけど……」
無駄な抵抗を続ける友人をさっさと見限って、貴巳もまた客間の用意をするために立ったのだった。
和室に客用の布団を運び、シーツと布団カバーをかけている間、貴巳は、今日一日の出来事を反芻し、
つくづくと溜息をついた。
余りにも非常識な操に対する怒りはもちろんあるものの、それ以上に納得いかないのは、
(……何故、この状況でこんなに和やかに過ごしているんだ?)
ということである。雪子も当然ショックは受けているようだが、いつの間にかすっかり操と武内のペースにはまり、
和やかに談笑していさえする。
少しは嫉妬したり、操に対して敵意を表したり、そういうそぶりがあるのが当たり前ではないだろうか。
それが雪子ときたら、操と二人できゃっきゃとはしゃいだりさえしているのだ。
本来なら、夫である自分を泣きながら非難しつつ、実家に帰られても仕方ない事態であるはずだ。
いや、もちろんそういう事態になれば更に困ったことになるのは解っているのだが、しかし。
我が妻ながら、お人よしにも程があるだろう、と貴巳は思うのだ。
本日幾度目になるのかもわからない溜息をつきつつ、貴巳は学生時代の自分と操に思いを馳せた。
今となっては疫病神にしか思えない操だが、少なくとも当時は、操のことをそんな風に思ったことはなかったのだ。
「中嶋くん、私とセックスフレンドになろうよ。お互いに絶対迷惑かけないって条件で」
そう切り出してきた操の、生意気そうに光る瞳を、まだはっきりと覚えている。
性欲は人並みにあるものの、同年代の女性と付き合うことなど馬鹿らしくて全く考えられなかった当時の貴巳にとって、
あまりにも割り切ってさっぱりとした考え方の操の存在は実に新鮮で、そして見も蓋も無い言い方をするならば、
大変都合が良かったのである。最もそう思っていたのは操も同様だろうから、後ろめたさなど微塵も感じたことはない。
操のおかげで、女性の身体やその感覚の複雑さ、そしてそれまでは想像もしなかった多種多様な性愛の形があることを知り、
持ち前の探求心も手伝って、一時は馬鹿みたいにその身体にのめり込んだ。が、それだけだ。
大学卒業と同時に、当たり前のように連絡を取らなくなり、そして忘れた。
未練に思ったこともない代わり、一度たりとも、操との関係を後悔したこともなかった。
雪子に出会うまでは。
(……妙なものだな、今になって後悔するなんて)
非現実的な仮定は嫌いだが、もしタイムマシーンがあるなら学生時代に戻って、操との関係を意地でも止めさせたいものだ。
だが、もし雪子に出会っていなかったら、自分は今でも後悔なんてしなかっただろう。
そうして操に再会することがあれば、再び関係を持つことだって充分にありうるだろう。
自分は本来そういう無機質で非人情的な人間だったし、将来もずっとそうだろうと思っていたのだ。
当時の自分が、今の自分を見たら、何と言う体たらくかと絶望するかもしれない。
雪子の白い頬や、長い睫毛や、くすぐるような声音。達する瞬間にしがみついてくる時の指の力。
笑う目元、泣いた唇。思い出すと、身のうちが震えるような感覚に襲われた。
どうやら、自分は変わった。そして操は変わらない。多分それだけのことなのだろう。
らちもない物思いを断ち切って、貴巳は三人のいるリビングへと向かった。
6
「……ふぅ」
ドライヤーのスイッチを切り、乾いた髪をブラシでとかしながら、雪子はほっと一息をついた。
先に風呂に入った三人は、もう寝る準備をしてそれぞれの部屋にいるはずだ。
操のことについて色々と考えこんでいるうちに、すっかり長湯になってしまった。
(もう、皆寝ちゃってるかもしれないな)
のぼせ気味の頭を一振りすると、雪子はそっと洗面所のドアを開け、廊下に出た。
冷え込んできた空気にぶるりと震えたとき、雪子の耳に、妙な物音がかすかに響いた。
(……何の音?っていうか……誰の声?)
リビングへと続く扉の向こうから、微かに響いてくる声に耳をすませ、その正体を悟った雪子は、
瞬間、耳まで真っ赤になった。
「……っあん……あう……あっあっあっ」
漏れ聞こえてくる声は、紛れもなく、女性の艶かしいその時の声だったのだ。
(……ま、まさか……操さん?えええ!た、武内さんと……?)
物音を立てないように細心の注意を払いながら、雪子は逃げるように、二階の寝室へと向かった。
寝室のドアをそっと開け、中に滑り込む。常夜灯の僅かな灯りの中で、
貴巳はどうやら既にぐっすりと寝入っているようだ。
起こさないように注意しながらベッドに入り、ゆっくりと身体を横たえる。
安堵の溜息をつくと、激しい心臓の動悸が、改めて意識された。
(……冗談かなと思ってたのに……操さん、本気だったんだ……なんか、本当に、自由な人だなぁ)
自分の家を情事の場所にされて、腹を立てても良いはずの状況なのだが、
操の態度が余りにもあっさりしているからか、不思議なほど怒りは沸いてこない。
風呂に入っているときからずっと考えていたことだが、今日の出来事はどれもこれも非常識かつショッキングで、
普通に考えれば、貴巳を交えて阿鼻叫喚の修羅場が展開されてもおかしくはないはずだったのだ。
それが何故か、知らず知らずのうちに操の存在を受け入れ、その上に会話を楽しんでさえいる自分に気づいて、
雪子は自分のことながら不思議な気持ちになるのだった。
きっと、操が悪びれることなく、あっさりと自分の道を突っ走っている様が、爽快ですらあるからだろう。
普通ならば今頃、雪子は嫉妬の鬼と化していてもいいはずだ。
ただ。
操に対する悪感情はないものの、一つの事のみが、雪子の心にひっかかっている。
(……貴巳さんと操さんって、どんなふうに……してたんだろう)
そのことを考えると、胸の片隅がちくちくと痛むのを止められない。
昨日までは、全く想像がつかない故に嫉妬のしようもなかったが、
今日、操という、いろいろな意味で自分とは正反対な、美しい女性が現れたことで、
貴巳の過去のことが具体的なイメージを持って想像できるようになってしまったのだ。
(私にするみたいに……貴巳さん、操さんに触ってたのかな)
考えないようにしようとすればするほど、日ごろの貴巳の指や舌の動きが、肌の上に蘇ってくるようで。
そしてまた、先程漏れ聞こえてきた操の嬌声が、耳の奥で鳴り響く。
いつしか雪子の指は、貴巳の動きをなぞるように、パジャマの胸のボタンを外し、
柔らかな胸の辺りを這い回りはじめた。
(……ダメ、何やってるの私……やめなきゃ)
理性は必死で止めるのに、雪子の身体に灯りはじめた熱は、ますます温度を上げ、
震える手指は自分の意思では止められなくなっていく。
(やだ……嫉妬しながら、自分でしちゃうなんて……変だよ。私、どんどんヘンになっちゃうよ……)
両手の指が、自らの二つの頂点をきゅっと摘んだ瞬間、思わず声が漏れそうになり、
雪子は慌てて口を押さえた。そっと隣の夫の様子を伺うが、幸いぐっすり眠っているらしく、微動だにしない。
指は段々と大胆さを増し、雪子はまるで、夫に悪戯をされているような気分になってきた。
隣に眠る貴巳に背をむけて、横を向いて寝そべりながら、雪子のひそやかな悪戯は歯止めをなくしていく。
くすぐるような動きだった指も、今ははっきりと意志を持って、快感を与えるために動いている。
(貴巳さん……たかみ、さん)
目をきつく閉じ、頭の中で夫の名を呼びながら、雪子は我を忘れて没頭しはじめた。
胸だけでは飽き足らなくなった指が、そっとパジャマのウエストから、身体の中心を目指す。
下着の上からそっとなぞると、熱い湿り気が中指にまつわりついた。
(……うそ……もう、こんなに……)
夢中でまさぐると、いつも夫が執拗に攻める、敏感な肉芽に、爪の先がひっかかった。
(……っっ!!)
瞬間、まるで電流のような快感が背筋を走りぬけ、漏れそうな声を、唇を噛み締めて耐える。
そのまま、爪の先でこりこりと塊を刺激すると、いつもとは違う悦びがどんどん湧き上がってきた。
直にされると痛いのだろうが、下着の上からだと丁度よい強さの刺激となり、そのすぐ下の入り口が
快感の余りきゅうっと収縮するのが、自分でもよくわかる。
(あ……やっ、いっちゃう、かも……あ、ダメ……もう……!!いくぅっ!!)
雪子が、今まさに、最初の絶頂に上り詰めようとした、その時だった。
「…………っっっ!?」
背後から、がばっと人が起き上がる気配がしたかと思うと、雪子は後ろから羽交い絞めにされていた。
咄嗟に大きな手のひらで口をふさがれていなかったら、きっと叫び声を上げていたに違いない。
「た、貴巳さんっっ!起きて…?」
驚きと恥ずかしさの余り、雪子の身体が震える。
「……声が大きい」ぼそりとそう指摘されたが、雪子は耳どころか胸元まで真っ赤になりながら、
両手で顔を隠し、いやいやと首を振った。
「……一人で何をしていたんだ?」
穏やかな、それでいて妙に迫力のある声音でそう問われても、雪子には返事をする余裕はない。
「……い、い、いつから起きてたの……?」
夫の顔を直視することができずに、顔を隠したまま雪子が、辛うじて小声でそう訊く。
「そうだな……雪子が風呂から上がってベッドに入ってきた時からだ」
「い、嫌ぁぁぁっっ!」
はしたない行為にふけっていたことを、最初から気づかれていたなんて…と、雪子は気も狂わんばかりに悶えた。
うずくまるように固まってしまった雪子を後ろから抱きしめたまま、貴巳が耳元で囁く。
「どうした?続きをしないのか?」
「し、しないってば!馬鹿っ!」既に涙声になっている雪子が、ぶんぶんと首を振る。
「そうか……じゃあ代わりに俺がしてもいいな?」
そう囁くが早いか、貴巳の手が素肌を求め、パジャマの裾から潜り込んでくる。
柔らかな乳房をそっと手のひらで包まれた瞬間、雪子は、先程までの物思いのことを思い出した。
「やだ!……やだやだ!離して!!」
必死で貴巳の手から逃れようともがく雪子を、貴巳は力ずくで押さえつけ、更に手を伸ばそうとする。
しかしその手は雪子の渾身の力で振り払われた。
いつものように、どこか媚を帯びた形ばかりの拒否ではなく、雪子が本気で拒絶したがっているのを感じ取り、
貴巳ははっとして手を止めた。
「……雪子?どうした?」
声をかけても、雪子は暫くの間、そっぽを向いたまま自分の身体を抱きしめるようにして固まっている。
途方に暮れた貴巳が、更に声をかけようかと迷っていると、暫しの間が空いて、ようやく雪子が口を開いた。
「……操さんとも、おんなじように、したの……?」
震える唇から発せられた言葉。
貴巳は自分のうかつさに、舌打ちをしたい気分になった。
いくら打ち解けたといっても、雪子にとって操との出会いは、ひどくショックなものだったのだろう。
「……雪子、今日は本当に悪かった」
背後からそう謝ると、雪子がゆっくりと貴巳に向き直った。
その瞳は、不安定な色を映して揺れている。
「……貴巳さんが悪いわけじゃないの。ただちょっと、気持ちの整理がつかないだけっていうか」
「いや、雪子がショックなのは当たり前だし、過去の俺がうかつだったのも事実だ」
珍しく気落ちしているらしい貴巳の声音に、雪子はふと表情を和らげ、首を振った。
「済んだことはしょうがないし、それに私、操さん嫌いじゃないよ?むしろ好きだし、
それにね、ちょっとだけ、憧れるかなぁって……」
雪子の言葉に、貴巳は自分の耳を疑った。
「……あのな雪子、鈴木のどこに憧れる要素があるっていうんだ?」
雪子はきょとんとして言い返す。
「だって、綺麗だし、色っぽいし、お仕事できそうな自立した感じで……あやさんもそうだけど。
私、あやさんとか操さんみたいな、大人の女の人になりたいなーと思ってるの」
理解の範疇を超えた雪子の答えに、貴巳は内心、頭を抱えた。
(……どうしてよりによって、あの二人に憧れるという発想が出るんだ?性欲の権化の鈴木に、
ガサツが服を着て歩いてるような橋本だ?確かに自立はしてるかもしれないが……)
「雪子、その必要はない。鈴木や橋本を見習うことはないし、雪子は今のままで充分だ。
変わる必要は全く無いから、恐ろしい考えは捨てなさい」
怖いほど真剣な面持ちでそう言われても、雪子は納得のいかない様子で首を振る。
「だって……せっかく、修行しようって言ってたのに……」
「……修行?何のだ?」
「あのね、あやさんに、私も大人の女の人になりたいな、って相談したの。
そしたら、色気を出す修行のために、年が明けたら、一緒に水着を着て室内プールに行こうって。
それで水着選んで、買ってもらっちゃったの」
雪子の説明はまるで要領を得ないし、どうして水着を着ることが修行になるのかまるで不明だが、
貴巳は脊髄反射的に、険しい表情で答えていた。
「……駄目だ」
「え?どうして?室内だから陽にも焼けないし、溺れないようにあやさんが見張ってくれるから大丈夫だよ?」
無邪気にそういい募る雪子に、貴巳は理不尽と知りながら、僅かに苛立ちを感じていた。
雪子は、どうしてこう鈍いのだ?
「とにかく駄目だ。色気なぞ出す必要はないし、雪子は今のままでいい」
冷たく言い放つと、雪子の表情が、にわかに曇った。
唇を噛み締めてうつむき、ぽつり、ぽつりと言葉をつむぐ。
「……やっぱり、貴巳さんは、私が変わるのが嫌なんだ……ずっと、今のままで、何にも知らないで、
子供っぽいままの私のほうがいいんだ……」
今にも泣き出しそうな雪子の声音に、貴巳は慌てた。
「そういう訳じゃないが……わざわざプールで水着姿になる必要もないだろう。
たちの悪い男に目をつけられでもしたらどうするんだ」
貴巳の言葉に、雪子はきょとんとして、次の瞬間、可笑しそうに笑った。
「やだなぁ貴巳さん、心配しすぎだよ。あやさんならともかく、私の子供っぽい水着姿なんて誰も見ないよぅ」
余りにも無邪気な雪子の笑顔に、貴巳の理不尽な苛立ちは、瞬間、頂点に達した。
「……自分が男からどんな目で見られてるか、考えたこともないだろう」
怒りの篭った声でそう言われて、雪子の笑顔が凍る。
貴巳はおもむろにベッドから立ち上がり、寝室の隅の壁に立てかけてあった大きな姿見を持ち上げ、
ベッドのすぐ横の壁にもたせかけた。
何をするのか全く理解できていない様子の妻に頓着せず、貴巳は、いきなり雪子のパジャマを捲り上げた。
「きゃ、や、貴巳さんっ何するのっ?!」
驚いて抵抗する雪子に、「……静かにしないと下の二人が気づくぞ」と囁いて黙らせ、
貴巳は無表情に雪子のパジャマと下着を全て剥ぎ取った。
白い裸体が震えている。寒さと、これから何をされるのかという不安に。
エアコンのスイッチを入れると、貴巳は自らもパジャマを脱ぎ捨て、雪子の身体を軽々と抱き上げた。
「……た、貴巳さん……?何?こわい……」
貴巳は、雪子を抱えたままベッドサイドに腰掛け、自分の膝の上に雪子を座らせる。
前を向いて、鏡に自分の姿がよく映って見える位置に。
「……自分でよく見てみろ。この身体を、他の男に見せるのか?」
貴巳の意図にようやく気づいた雪子は、身をよじって逃れようとするが、
がっちりと腰を抑えられてそれも叶わない。
鏡の中では、大きく脚を広げ、あられもない姿の自分の身体が大写しにされていて、
余りの恥ずかしさに顔を背けようとしても、夫の手が顎をつかみ、前を向くことを強制される。
「やだ……貴巳さんっ……は、恥ずかしい……よ」
「よく目を開けて見てみろよ……本当に、人前で、この身体を見せ付けるつもりか?」
「だって……水着、着るんだもん……裸とはちがうもんっ……」
恥ずかしさに全身真っ赤にしながら、それでも涙目で抗議する雪子に、
もう不毛な会話は無用だとばかりに、貴巳の指と舌が襲い掛かった。
柔らかな乳房が、指の間からはみ出しそうなほど強く握られる。
乳首を指の間に挟まれて、こりこりと刺激されると、雪子の身体が跳ねる。
あくまで拒絶しようと力を込めると、不意に首筋に歯を立てられ、次の瞬間にはなだめるように舐め上げられる。
突っ張っていた雪子の身体から、徐々に力が抜けてきた。執拗に乳首をこねくり回し、耳たぶや首筋を舐めしゃぶられるうちに、
雪子はもうすっかり貴巳に身体をもたせかけ、頭はのけぞるように貴巳の肩にあずける体勢になっていた。
半開きになった唇から、熱い吐息が漏れる。それでもまだ理性は残っていて、大声をあげるのだけは必死に耐えているようだ。
与えられる快感を何とかやり過ごそうと、目をかたく閉じる雪子に、貴巳の容赦のない言葉が浴びせられる。
「……目を開けて、自分が今どんなふうになっているか、見てみろよ」
最初のうちは首を横に振って拒絶していた雪子だったが、ふと、尻に当たる、熱い貴巳自身の感触に気づいた。
(……貴巳さんも、興奮、してるの……?)
思わず目を開けて、鏡越しに夫の表情を覗きみようとした。が、そこに写っていたのは、
頬を上気させて、だらしなく口を半開きにした、かつて見たことのないほどいやらしい自分の表情だった。
「……や!あああ!いや!こんなのやだぁぁ!!見ないでっっもうやめてぇぇ」
涙声でかぶりを振るが、貴巳の指は容赦なく、露になっている茂みの奥へ這わされる。
雪子のそこは、先程自分で、下着の上から触っていただけにもかかわらず、滴り落ちそうなほど潤っていた。
貴巳が触れた瞬間、ぬるり、と指が滑り、雫がぽたぽたと、糸を引いて貴巳の膝の上へ落ちる。
尋常ではない濡れ方に、雪子の羞恥心はいよいよ頂点に達した。
「だめ、や、みないで、だめえぇ!」
「……静かに」
耳元で囁かれ、雪子は慌てて、半ば手放した理性を引き戻す。
派手に声を漏らさないように、ときつく唇を結んだ瞬間、腰が軽々と持ち上げられ、
猛る貴巳自身の上に照準を合わせて、雪子の腰がずぶり、と沈められた。
「………………っっっ!!!」
咄嗟に、貴巳の手が雪子の口を塞ぐ。
いきなり奥まで、しかも全体重をかけて貫かれた雪子は、半ば気絶したように痙攣し、
狭い膣は貴巳が痛みを感じるほどに締め付けてくる。
「………あ……あ……お……んっ……」
言葉にならないうめき声をあげ、それでも無意識に、のけぞった雪子が貴巳の首にしがみつく。
しばらくそのままで落ち着くのを待って、貴巳が雪子に囁いた。
「……目を開けるんだ」
快感に蕩かされ、最奥を貫かれた雪子には、もう抗う気力もない。
物憂げにゆっくりと瞼を開き、何一つ隠すもののない、露な自分の裸体を見つめた。
全身が真っ赤に染まっている。太股がふるふると震え、時折腹筋がびくん、と痙攣する。
荒い息に合わせて上下する肋骨に、揺れる白い胸。つんと尖った乳首。
そして、今にも蕩けてしまいそうに緩んだ、いやらしい表情。
淡い茂みのすぐ下に、猛り狂う貴巳のものが埋め込まれているのが、はっきりと写っている。
強すぎる快感に霞んだ頭に、それは一枚の絵のように、奇妙に非現実的に映った。
(すごい……もっと、みたい……)
無意識のうちに、雪子は自分で腰を持ち上げる。
自分の内部からずるり、と現れる、そそり立つ肉棒。真っ白い本気汁がまつわりついて、
妖しい香りを漂わせている。先端の段差のところまで抜けかけたが、雪子の締め付けが余りにきつく、
先端だけがなかなか抜けない。喰い締められ、引きずられるような感触に、貴巳も思わず吐息を漏らした。
いよいよ抜ける瞬間、雪子が再び達した。局部から、ぐぽっ、と音がしたのは錯覚だったろうか。
「…………っっ」
もう、声も出ない。
口の端から涎さえ垂らして、雪子の腰が自ら、ゆっくりと落とされる。
内部のひだを一枚一枚とかきわけていく感触さえ、今の二人には数えられるほどにはっきりと感じられた。
どちらのものかわからない愛液が、怒張し血管の浮き出た肉棒を伝って滴り落ちる。
二人は、何か神聖なものでも見るように、目の前に映る自分達の痴態に見とれていた。
貴巳の先端に、鈍い痛みを伴って、硬い塊の感触がある。
雪子の子宮が、貪欲に精液を飲み込もうと降りてきているのだろう。
無我夢中で貴巳の首にしがみつき、仰け反って腰を振りたてている雪子の喉が白い。
激しい水音が、繋がった部分から静かな部屋に響き渡る。
もう我慢の限界を迎えているはずなのに、不思議と声は漏れず、雪子は只一心に、
貴巳の怒張を子宮の中まで飲み込もうとしているかのように身体をくねらせている。
鏡に映った雪子の顔が、幾度目かの絶頂に歪む。半開きの口から紅い舌がのぞき、
わななき、声にならずに唇が動く……それが自分の名前を呼ぶ動きだと悟った瞬間、
貴巳もまた、睾丸が収縮し、せり上がる感触に襲われ、耐える間もなく雪子の中で弾けていた。
暫くの間、雪子は、荒い息を整えるので精一杯な様子だった。
ぐったりと目を閉じて、貴巳に背中を預けている。
貴巳が気遣わしげに、汗で張り付いた前髪を掻き分けてやると、雪子はゆっくりと目を開き、
貴巳の顔を見上げて、掠れる声で囁いた。
「……きらいに、ならない……?」
意味がわからずに、貴巳が目顔で聞き返すと、雪子の声が切実な不安で震えた。
「……わたし、こんな、いやらしくなっちゃって……どんどん、変わっていって……
それでも、貴巳さん、きらいにならないでくれる……?」
思いがけない雪子の言葉に、貴巳は咄嗟には言葉が出てこず、代わりにきつく雪子を抱きしめた。
「当たり前だ。なる訳がない」
「……ほんとに?」
まだ半信半疑の様子の雪子に、貴巳は思わず苦笑した。
「……俺のほうこそ、操のこと知られて、嫌われるかと」
「……貴巳さんの笑った顔、半年ぶりくらいに見たかも」
おかしそうに笑う白い頬を指でなぞると、雪子は満腹した赤ん坊のような顔で目を閉じた。
「嫌ったりしないよ……でも、ほんとはね、ちょっとだけ悔しかったの」
「悔しい?何がだ?」
「当たり前なんだけど、操さんに聞いた話って、私が知らないことばっかりで……。
ほんとはね、私が、貴巳さんの、はじめての人になりたかったなぁ、って……」
照れながら言う雪子が余りに愛しくて、貴巳にはどうしていいのかわからない。
結局いつものように、そっけない言葉を返すことにする。
「……過去に遡って嫉妬しても仕方ないだろう。例えば、雪子の初めての相手に嫉妬したって仕方ない」
「え?私、貴巳さんがはじめてだよ?」
「……セックスに関してはそうだろうが、例えばファーストキスだとか、初恋だとか、言い出したらきりがない」
もっともらしい言葉でごまかしたつもりだったが、貴巳の予想に反して、
雪子はおかしそうに笑い声をあげた。
「……何がおかしい」
「……あのね、はじめてだよ、貴巳さんが」
言葉の意味がわからず、貴巳は眉をひそめた。
「あのね、ディズニーランド行ったときに、キスされたでしょ?……あれ、私のファーストキスだったんだよ」
「……何だって?」
「あ、びっくりした顔も半年振りくらいに見た」
おかしそうに笑われたのは不本意な貴巳だが、今はなりふり構ってはいられない。
「そんなことは初耳だ」
「……だって、貴巳さんが聞かなかったじゃない」
(そうだっただろうか……確かに、まさかキスまで初めてとは考えてもみなかった)
嬉しいような、勿体無いことをしたような複雑な気持ちでいる貴巳のほうに、
もたれかかっていた雪子がよいしょ、と上半身をねじった。
「……何だ?」
じっと貴巳を見つめる雪子の目線が何か訴えている。
「あのね……今日、まだ、キスしてないよ?」
かなり苦しい姿勢で、それでも深く深く、二人は唇を重ねて吸った。
舌をからめあっていると、雪子がぴくり、と震えた。
「……あ、うそ、また…」
雪子の内部に納められたままだった塊が、再び熱を帯び、硬さを取り戻しつつあった。
「……や、だめ、今日はもう無理だってばっ……」
涙目でかぶりを振る雪子に、貴巳はいつもの無表情で、
「……雪子が悪い」と言うが早いか律動を開始した。
「あんっ、ほんとに、駄目だってば!明日、早く起きて、武内さんの朝ご飯作らなきゃ、
って……もうっ、貴巳さんの馬鹿ーーーっっ!!!」
7
次の日の朝。
雪子が朝早く起きて朝食を作れたのは、奇跡と言っていいかもしれない。
来客が無ければ、間違いなく昼近くまでベッドの中で起き上がれずにいたはずだ。
あちこちきしむ身体をかばいながら、それでも大量の朝食を、ほとんど武内のために用意した。
朝から全開の食べっぷりを見せる武内を三人で呆れつつ眺めながら、
雪子は何ともいえない気まずさを感じていた。
(……昨日の、聞いちゃったの、まさか気づかれてないよね……?)
「ごちそうさま。あー、ご飯食べてやっと目が覚めたわ」
あくび交じりに操が言うと、武内も眠そうに目をこする。
「参ったよなぁ……操ちゃん宵っ張りなんだから」
(……え?そんなこと言っちゃっていいんですかっっ???)
雪子が目を丸くして赤面したが、操の口から出たのは予想外な言葉だった。
「そもそもDVD見たいって言ったのは武内くんじゃない?」
「俺が見たかったのは一本だけだって。四十八手裏表のやつまで見ることなかったじゃん」
「研究よ研究」
「えええ!DVDだったんですか?」
思わず大声を上げた雪子に、二人は不思議そうな顔をする。
「……え?何?どうしたの雪子ちゃん」
「い、いえ、何でもないですっっ!」
慌ててごまかしたが、赤面した顔を見て操が何やらニヤニヤ笑っているのが気になる。
「あ、そういえばね、新幹線の時間がわかるものって、何かないかな?」
武内にそう聞かれ、食器を片付ける手を止めて、雪子はちょっと考えた。
「……あ、二階の本棚に時刻表があったかも」
「俺が取ってこよう」
雪子が動くより早く、貴巳が二階に向かう。その背中を見送って、操がつくづくと溜息をついた。
「……しかし、中嶋くん、変わったね」
「だよねぇ。別人だよね」
武内も同意するのを聞いて、雪子は目を見開いた。
「……え?貴巳さん、学生のころから、そんなに変わったんですか?」
問われた二人は目を見合わせて、うんうんと頷いた。
「なんか、絡みやすくなったよね?」
「そうね、人間らしくなったしね」
「……あれで?」
思わず敬語も忘れて聞き返した雪子に、二人は爆笑しつつ答えた。
「だって、中嶋くん怖かったもん。下手に軽口たたいたら殺されそうな感じでさぁ」
「そうそう、あの冷たい目線向けられると、マジで心臓発作起こしそうになったよね」
「うん、まるっきり機械仕掛けみたいな男だったもんね。
それを冷血動物とはいえ、生き物らしくした雪子ちゃんは偉い」
「うんうん」
自分の功績かどうかはともかく、貴巳が変わったことだけは間違いないらしい。
「……じゃあ、どうしてお二人は当時、貴巳さんと付き合ってたんですか?」
「「便利だったから」」
あっさりきっぱり、完全なユニゾンで返された答えに、雪子は一瞬言葉を失った。
「……便利?」
「そうそう。貴巳さえいれば、授業のノートとか取らなくてもテストは楽勝だったし」
「うん。あと面倒な課題とか、バイト代わりに引き受けてもらえたし」
二人が余りにも悪びれていないので、雪子も釣り込まれてつい、笑う。
「何の話だ?」
いつの間にか戻ってきた貴巳に、背後から声をかけられ、二人の表情が凍った。
「……いやー、あはは。貴巳、時刻表ありがとね?」
「午前中のうちに出発するつもりなら、すぐに出ないと間に合わないぞ」
言われて、慌てて武内と操が出発の準備をはじめる。
(たぶん、貴巳さんは、この二人のよくも悪くも正直なところが、嫌いじゃないんだろうな)
ばたばたする二人を微笑ましく眺めながら、
「また、遊びに来て下さいね」と、雪子は心から言ったのだった。
おまけ
数日後、クリスマスの夜の中嶋家。
「ただいま……雪子?」
「貴巳さん、メリークリスマース(ぱーん)」
「……何だそれは」
「え?クラッカーだよ?大丈夫、ちゃんとゴミが散らからないタイプだから」
「そうじゃなくてその格好のことだが」
「あっ、これ?操さんが、私達へのクリスマスプレゼントにって、
宅配便で送ってくれたの。クリスマスの日に、これ着けて、水着着て貴巳さんを出迎えたら
喜ぶよって。でも私達二人へって言ってるのに、サンタの帽子も手袋も靴下も一人分だけだよ?
あと、このすごくおっきいリボン、何に使うんだろうね?」
「……鈴木……あの馬鹿」
「ね、早くご飯食べよ?冷めちゃうよ?」
「……今日のメニューは何だ」
「……」
「まさか」
「……えーっとね、ローストチキンとー、シャンパンと、ケーキと……って、きゃぁぁ!!
貴巳さんっ、何するの?何でお姫様抱っこなの?そんで、なんで二階に向かってるのぉぉ?」
「そんなにクリスマスらしいことがしたいなら、期待に応えようと思ってな」
「いやーっっ!!ローストチキンが冷めるー!!!」
メリークリスマス。