身体じゅうが、熱い。  
大きな骨ばった手が、裸の皮膚をなぞるたびに、甘い痺れが背筋を走る。  
愛しい人の唇や舌が、耳たぶやうなじ、鎖骨をなぞり、焦らすような動きで胸の先をくすぐる。  
欲しい。欲しい。もっと、ほしい。  
もう、バカみたいに一つのことしか考えられない。  
 
「……雪子」  
耳元で、よく響く低い声が囁く。こんな時でさえ、夫の口数は極端に少ない。  
けれど、いつもの素っ気無い声色とは少しだけ違って、僅かに掠れ、熱を帯びた響きが、  
耳から頭の中まで染み渡り、ますます身体を熱くさせていく。  
「あ……あっ……やあっ」  
それが入ってくる瞬間だけは、結婚してもう2年以上になるのに、まだ慣れない。  
硬くて熱い塊が入り口に触れ、ひだを掻き分け、押し入ってくるときの圧迫感。  
息苦しいような、それでいて身体の力が抜けていくような不思議な感触。  
だけどそのちょっとした違和感は、すぐにとろけて熱の塊になり、私の身体を内側からくすぐりはじめる。  
 
自分の口から漏れているなんて信じられないような、甘く鼻にかかった声が響く。  
「……あ……やぁっ、んぅ……」  
耳を塞ぎたくなるほど恥ずかしい、あまったるい、声。  
長く伸ばしている髪が乱れて、汗ばんだ顔に張り付いているのがわかる。  
今の私はきっと、ひどくいやらしくて、だらしのない表情を浮かべているんだろう。  
 
時に深く、時に焦らすように私の内部を抉っていた塊が、ふと動きを止めた。  
もどかしくて、たまらなくって、私は思わず、きつく瞑っていた瞼を開けてしまった。  
身体にのしかかる黒い影だったものが、目が暗さに慣れるにつれて像を結ぶ。  
最愛のひとが、いつものような無表情で、私の顔をまるで観察でもするかのようにじっと見つめていた。  
 
「いやぁ、っ!!」  
少しの間忘れていた恥ずかしさが、瞬間、津波のように襲ってきた。  
ずっと、この眼で見られていたんだろうか?さっきまでのはしたなく緩んだ顔を。  
いやらしく求める動作を……そして、まるで動物みたいな喘ぎ声を、聞かれていた……  
今更だけれど、自分の腕を顔の前で交差して、容赦のない視線から逃れようとする。  
無駄な努力だとわかってはいても、そうせずにはいられない。  
「……顔を見せてくれないか」  
何でもないことのようにそう言われて、益々恥ずかしさが募る。  
「……や、やなの……」  
必死で首を振って拒絶すると、いきなり、  
身体の中心を貫いていたものが、ごりっという音を立てて、最奥に突き入れられた。  
「あ、ああああ!!きゃ、ああっんっ」  
僅かな痛みと、それの何十倍、何百倍もの快感。  
弛緩しかけていた感覚が再び燃え上がり、強引に高みへと押し上げられる。  
自分の声さえ、もう聞こえない。繋がった部分から湧き上がる感触だけが私の全部を支配する。  
朦朧とする意識のなかで、はやく頂点に登りつめたい、もうそれだけしか考えられない。  
もう少し、あと少し、はやく、はやく楽にして……!!  
 
ふいに、夫の動きが止まった。  
「や、やだっ……貴巳さん、何でっ」  
思わず責めるような口調になって、愛しい人の顔を見つめると、いつもの無表情の中に、ほんの少し楽しそうな色を浮かべて、私のことをじっと見つめている。  
意地悪、意地悪、意地悪!!!!  
こういう時の貴巳さんは、ほんとに意地が悪い。  
どうしよう。身体があつい。せっかくあと少しというところまで登りつめたのに。  
このまま冷めるのなんて、絶対にいや。  
咄嗟にそこまで考えたかどうかは自分でもわからない。けど、気がつくと、私の身体は私の意志に反して、勝手に動きはじめていた。  
物欲しそうな動きで、腰が跳ねる。いやらしい動きかたで夫のそれを飲み込み、気持ちよくなろうとしている。  
肌が密着するたびに、びちゅ、ぴちゅ、と派手な水音が起こる。  
そんなに溢れさせていたことが、自分でも信じられない。  
こんなこと、恥ずかしすぎるのに、やめたいのに、どうしても止まらない。  
前は、こんなふうじゃなかった。恥ずかしいと思えばやめたし、自分の身体が言うことをきかない、なんてことなかった。  
私の身体が、今までとは全く違うものになっていく。  
声が漏れる。甘いような、気の遠くなるような、獣じみた声。  
腰が跳ねるのが止められない。身体の一番奥のところが、貴巳さんのそれを抱きしめて離さないようにしているみたいに、勝手にぎゅうっと収縮する。  
貴巳さんの視線が容赦なく、私の身体を貫いている。  
見ないで……そんな眼で見ないで、お願い……!!  
どうしよう……どうしよう。とまらないよ。欲しい。貴巳さんが、ほしい。  
私が丸ごと変わってしまう。身体がまるごと、作り変えられてしまう。  
食い締めていた熱い塊が、一層大きく、硬くなる。待ちわびていたものが、爆発するように身体の奥ではぜる。  
ゆっくり白くなる視界に、楽しそうに口の端をゆがめる夫の顔が霞む。  
 
知らない……こんな私、しらないよ……  
 
 
1  
「……ちゃん、雪子ちゃん、おーい!?」  
呼ばれて、ぼんやりと窓の外を眺めていた雪子は、はっと物思いから引き戻された。  
目の前には、飲み物を乗せたトレイを持った橋本あやが、呆れ顔で雪子を見つめている。  
「あ……ごめんねあやさん」  
慌てて、あやが飲み物を置けるように、テーブルの上に乗っていた紙袋を床に下ろした。  
「どうしたの?もう疲れちゃった?」  
「ううん、ちょっとボーっとしてただけ」  
「なんか顔赤いよ?どうせ、やらしいことでも考えてたんでしょ」  
「な、ななななんで?そんなことない!ないってば!」  
「……そんなに力いっぱい否定しなくてもいいけどさ。はいこれ、雪子ちゃんのキャラメルマキアート」  
「あ、ありがとう」  
雪子は赤い顔を少しでも隠そうと、両手でマグカップを持ってすすった。  
そんな雪子の様子には頓着せず、あやはカフェの窓の外を眺めながら、自分の注文したエスプレッソを口に運ぶ。  
「しかし、どんどん人が増えてくね。早めに来て正解だったわ」  
窓の外は、連れ立って歩くカップルや家族連れでごった返している。  
二人がいるカフェも、席が空くのに15分も待たなければならなかったほどだ。  
二人は今、住んでいる街から少し離れた、郊外の大型ショッピングモールに来ているのだ。年末商戦の真っ只中とはいえ、ここまでの混雑は雪子もあやも予想していなかった。  
「あとは、あやさんの水着だけでいいんだっけ?」  
「うん、この調子だとコインロッカーも空いてないだろうし、この大荷物抱えて、  
あんまりうろうろしたくないしね。さっさと済ませちゃおう」  
雪子は、テーブルの足元に所狭しと置かれた紙袋を見て苦笑した。  
雪子が買ったものといえば、夫の手袋と、夫婦二人用の室内履きだけ。あとは全てあやの買い物だ。ちなみに彼女の夫であり、橋本あやの上司である「鉄仮面」中嶋貴巳氏は、現在、金曜土曜にかけ、一泊二日の出張中である。  
わざわざ車で一時間もかけてこのショッピングモールまで買い物に来たのは、そもそも、正月休みにハワイに行くというあやが、水着を買うので付き合って欲しいと言い出したからだ。  
普段来客に良い顔をしない、というよりあからさまに来客嫌いの鉄仮面が留守なのをいいことに、あやは金曜に仕事が終わってから中嶋宅に泊まりこみ、雪子の手料理をさんざん飲み食いし、そして今朝、開店時間に合わせて、あやの運転する車でここまでやってきたのだ。  
そもそもの目当ては水着だけだったはずなのに、ずらりと並んだ年末バーゲン中の服や靴、化粧品のショップにあれこれと立ち寄りながら、あやは見ていて気持ちがいいほどに買いまくり、  
お目当ての水着売り場へ到着するまでに、二人ではとても持ちきれないほどの荷物を抱えて、年末土曜のこの人込みを歩き回る羽目になってしまったのだった。  
「でも、いいなぁハワイ。……ね、あやさん、誰と一緒に行くの?もしかして彼氏?」  
「……雪子ちゃんは喧嘩売ってるのかな?」  
口の端をゆがめながら、あやが両手の拳で、雪子の頭をぐりぐりと挟む。  
「いたっ痛い痛い……ご、ごめんなさい……」  
「こちとら彼氏いない暦もうすぐ5年だぁぁ!!ええ悪いか若奥様!!」  
「ご、ごめんってばあやさんっっ」  
ようやく開放された雪子が、涙目で頭をさすりながら言う。  
「でも、あやさん、綺麗だしスタイルいいし、作ろうと思えば彼氏なんてすぐできそうだけど……」  
「全くよね?何してんの男ども?って感じよね?ホントわかんないわ男心って」  
そこまで言い切るのもどうかと思うが、男心がわからないのは同感なので雪子は黙っていた。  
「もう日本人はアテになんないし、ハワイでちょっくらいい男拾ってこよっかな!さ、悩殺水着買いにいくよっっ!!」  
本気なのか冗談なのか、妙なテンションのあやにひきずられるように、雪子は慌てて紙袋を抱えてカフェを後にした。  
 
「んじゃ試着してみるから、ちょっと待っててね?」  
試着室のカーテンが引かれ、手持ち無沙汰になった雪子は周りを見回した。  
色とりどりの水着がで溢れる一角は、若い女性やカップルでかなり混雑している。  
真冬に水着を買おうという人がこんなにいるなんて、雪子は想像もしなかった。  
(そういえば、水着売り場なんてもう何年も来てないなぁ……)  
吊るしてある水着を眺めて、雪子はあることに気づいた。ワンピースタイプの水着が、ほとんどないのである。あやが試着室に持って入った数着の水着も、漏れなくビキニタイプであった。  
(今は、水着っていえばビキニなのかなぁ。お腹隠れたほうが、恥ずかしくなくていいと思うけど……)  
取りとめもない物思いにふけっていると、「着れたよー、ちょっと見てくれる?」という声が聞こえた。  
雪子は試着室のカーテンの隙間から首だけ入れて覗きこみ、息を呑んだ。  
「……わぁ」  
「……何?なんか変?」腰に手を当てて仁王立ちになっているあやが、身をよじって自分の背中を見る。  
「……ううん、変じゃないよ、すごく似合う!」  
「そう?ちょっと地味じゃない?」オレンジと水色と黄緑のストライプ模様は決して地味ではありえないが、雪子はその問いに答えるのも忘れて、あやの水着姿に見とれていた。  
「……雪子ちゃん?おーい、どしたの?」  
「……あやさんは、いいなぁ……」  
溜息とともに吐き出された雪子の台詞に、あやは意味がわからず首をかしげた。  
雪子の視線は、同性でも見とれるような大きな胸から、きゅっとくびれた腰、そしてたっぷりとした量感のあるお尻から、色気溢れる脚のラインに注がれている。  
「なんか、大人の女性っていう感じでうらやましい。あやさんって着やせするんだねぇ……」  
「どうせ細くはありませんよーだ」  
「いや、そうじゃなくって!なんか……不二子ちゃーん、って感じ?私もそういうふうになりたいなぁ、と思って」  
お世辞ではなく、雪子が本気で羨ましがっているのを感じて、あやは不思議な顔をした。  
「無いものねだりってやつじゃない?私は雪子ちゃんみたく細いのがいいと思うけどな」  
「でも、なんていうか、その……ないじゃない?」  
「え?何が?」  
「……い……色気?」  
赤面しながらおずおずと言う雪子に、あやは思わず噴き出した。  
「わ、笑わないでよあやさん!真剣なんだから」  
「ごめんごめん、いやぁ雪子ちゃんも、ようやく色気づいたか〜と思うと面白くて」  
「面白い?」雪子がやや傷ついた表情をしたので、あやは慌てて両手を振った。  
「いや、その、何ていうか。……色気欲しいんだ?」  
「そ、そりゃ、私ももう24だし、見た目も子供っぽいし……」  
 
うつむいてしまった雪子を眺めやり、あやはふむ、と頷いた。  
「雪子ちゃんは、水着とか着ないの?」  
「え?持ってないけど……なんで?」  
「いや、人前で肌を露出すんのも、修行になるかな〜と思ってさ」  
「修行って……えーと、何の?」  
「色気を出す修行?」  
首をかしげながら言うあやに、適当に言ってるんじゃないだろうかと疑問に思いながらも、雪子は別のことを口にした。  
「だって、水着買っても、着る機会がないもん。貴巳さん、人込み大嫌いだし、今年の夏も海に行きたいって言ったら、ものすごい勢いで拒否されたし……」  
「課長が?」  
雪子の12歳年上の夫であり、市役所職員である中嶋貴巳氏は、その徹底した無表情・無愛想・無口なたたずまいから、『鉄仮面』の異名も轟きわたる、若き企画課課長である。  
「うん、夏休みに海かプールに行きたいって言ったら、絶対駄目だって言われたもん。日焼けするし溺れると危ないって」  
「……ふーん……あのエロ親父」  
「え?何?」  
小声の呟きを雪子に聞き返されて、あやは慌てた。  
「あ、いやいや何でもない……じゃあさ、年が明けたら私と一緒に行こうよ。H駅の近くに温水プールあるの知ってる?結構大規模で楽しいみたいよ?ウォータースライダーとかあって。  
溺れないように見張ってあげるから大丈夫」  
「ほんと?嬉しい!」雪子の顔がぱっと輝くのを見て、あやもにっこり笑う。  
「じゃ、着替えるからちょっと待ってて。雪子ちゃんも水着選ばなきゃね。お姉さんが買ってあげよう」  
「え?いいよ、そんな、自分で買うってば」  
「いいのいいの。いつも色々ご馳走になっちゃって、何かお礼したいなと思ってたし」  
雪子は更に激しく遠慮したのだが、あやは聞く耳も持たずにさっさと服に着替え、自分の水着選びもそっちのけに、熱心に雪子の水着を選びはじめた。  
「雪子ちゃん色白だからなぁ。淡い色も映えていいかもね……これとかこれは?」  
「えっと……ちょっと派手じゃない?」  
「全然。ここで見ると派手に見えても、いざ海とかプールに行くと皆結構すごいの着てるから、頑張らないと目立たないよ?」  
「いや、目立たなくていいんだけど……っていうかあやさん、上下つながったやつじゃダメ?」  
「へ?ワンピースってこと?何で?」  
「何でって……その、恥ずかしくない?」  
「またそんなこと言って!修行はどうした修行は?百歩譲って、柄は地味なのでいいからさ……あ、これアリかも。これ着てみて」  
問答無用で試着室に押し込まれて、雪子は渋々と手渡された水着に着替えた。  
ブラの背中と、ショーツのわきの部分が紐で結ぶタイプになっていて、普通の下着よりも更に、着ていて頼りないような感じがする。  
「……あやさーん……」  
「着れた?どれ見せてごらん」  
あやが試着室を覗き込むと、恥ずかしそうにしゃがみ込んだ雪子が顔を赤らめていた。  
「やっぱり、これ、布が少なすぎるよ……腰のとことか、ただの紐だし」  
「何言ってるの、みんなそんなもんだって。ちゃんと立ってみてよ」  
おずおずとこちらを向いた雪子の、白いビキニ姿を見て、あやは内心、感嘆の溜息をついた。  
純白の水着に負けないほどに真っ白で、絹のようにきめ細かい肌。すんなりと伸びた手足。身体のラインは、どこもかしこもやわらかな曲線を描いている。  
痩せてはいてもごつごつと貧相な感じがしないのは、骨格から華奢なせいだろうか。それなりにボリュームがある柔らかそうな胸と、長いストレートの黒髪が奇妙にアンバランスで。  
小柄なせいでもあるだろうが、まるで少女のヌードを見ているような、見てはいけないものを覗き見ているような罪悪感さえ感じさせる。  
化粧っ気がない、赤ん坊のような頬に、長い睫毛が影をおとして、恥ずかしそうにうつむいている表情は、どうにも人の嗜虐心を煽るというのか  
……手っ取り早く言えば、苛めたくなる。いたずらして泣かせてみたくなる。同性のあやでさえ、だ。  
(……確かに、これは犯罪呼ぶかも。……恨むなよ、鉄仮面)  
「……ね?やっぱり、変だよね?」  
あやが黙っている理由を取り違えた雪子が言うが、あやはきっぱりと言い放った。  
「いや、いいよソレ。決定!」  
「えええ?だって、まだ一着目だよ?」  
「いいから、お会計するから脱いで脱いで!」「だってあやさんのは?」  
「もうさっきのでいいよ。さぁ早く!」「えええ?!」  
こうして、雪子の人生初のビキニは、彼女のものとなったのであった。  
 
 
2  
 
時間は少し前後して、数日前の夜。  
仕事を終えて帰宅した鉄仮面こと中嶋貴巳氏が、自宅の玄関を開けたときのことである。  
 
「……雪子?」  
いつもなら、帰宅する彼を出迎えるはずの雪子が、その日に限って玄関に出てこない。  
理由はすぐに知れた。リビングから、雪子の話し声が微かに響いている。どうやら電話がかかってきたらしい。  
コートをハンガーにかけながら、談笑している雪子の声を聞くともなく聞いていた貴巳は、そこはかとなく嫌な予感を感じてリビングの扉を開けた。  
 
「……ええ?じゃあ是非うちに遊びに来て下さいよ!週末だからいっそ泊まって、ゆっくりしてもらっても……あ、貴巳さんお帰りなさい!……ええ、今帰ってきたので代わりますね」  
怪訝な顔で見つめる貴巳に、保留にした受話器を差し出して雪子が笑う。  
「誰だと思う?珍しい人……ふふ、武内さんから」  
武内浩(たけうちひろし)は、ほとんど唯一と言ってよい、貴巳の友人である。  
東京の某国立大学の同級生として出会った二人は、武内が東京で就職し、貴巳は公務員として地元に帰ってからも、細く長く付き合いを続けている。  
貴巳曰く「腐れ縁」ということだが、雪子たちの、身内とごく親しい人しか招待しなかった結婚式に、貴巳の友人としてただ1人だけ呼ばれた人物でもある。  
現在は、病院食や学校給食など、給食センターの運営を請け負う中堅どころの会社に勤めている。中嶋宅にも何度か遊びに来たことがあり、雪子とも打ち解けた仲である。  
 
雪子から差し出された受話器を睨みつけるようにしながら、貴巳は渋々受け取った。  
「……武内か。何の用だ」  
「貴巳、相変わらずみたいで安心したよ」  
数ヶ月ぶりに会話する友人に対して、随分な応対のしかたであるが、武内は気にする様子もなく、持ち前の飄々とした調子で受け答えする。  
「雪子ちゃんも元気そうだね。相変わらず可愛いんだろうね」  
「……だから何の用だと聞いている」  
「久しぶりに電話した親友に対して、それはないんじゃないの?」  
「親友?何語だそれは」  
「……まぁ、いいけどさ。あのね、今雪子ちゃんにも話したんだけど、今度貴巳のとこで、市立病院の改築があるでしょ?」  
O市、つまり貴巳たちが現在住んでいる地方都市で、老朽化した市立病院の改築計画があることは、市役所勤務である貴巳は当然了解している。  
「でね、うちの会社が、病院食と食堂の運営、任されることになったんだよね」  
「そうか、入札に参加するとか言っていたな。それで?」  
「いや、おめでとうの一言くらいさ……いいんだけど、それでさ、年末にそっちにちょっと出張することになっちゃってさ。水曜から金曜。  
で、雪子ちゃんにそう言ったら、是非週末にウチに遊びに来て下さいよ〜、なんて言われちゃってさ」  
「断る」  
「……いや、誘われたのこっちなんだけど……」  
「どうせ誘われなくても来るつもりだったんだろう」  
「あ、その言い方嫌だなあ」  
武内が雪子の料理目当てにやって来るのはわかりきっているが、貴巳としては、夫婦水入らずの静かな生活に乱入されるのは我慢ならない。  
「とにかく断る。大体、年も押し迫って色々忙しいんだ」  
「どうせ、大掃除なんてしなくても家中ピッカピカなくせに……いいけどね、別に。耳寄り情報があるんだけどな〜。いらないんだ?」  
聞きとがめて、貴巳の声が更に険しくなる。  
「何だ、それは」  
「絶対知っておいて損はないと思うんだけどな〜」  
「だから何だと聞いているんだ」  
「泊めてくれるって約束しなきゃ教えない」  
こいつは小学生か、と貴巳はうんざりして溜息をついた。  
「……本当に、俺が知らない、かつ有用な情報なんだろうな?」  
「しつこいなぁ。損はしない、って言ってるじゃん」  
「……わかった。一泊だけだぞ」  
「サンキュー。雪子ちゃんに、どうかなーんにもお構いなくって言っといて?」  
「お前の言伝てはわざとらしいな……で、情報っていうのは何だ」  
受話器の向こうで、武内が息をつく気配がする。  
 
 
「……操ちゃんが、日本に帰ってきてるよ」  
 
 
「……何だって?」  
「知らなかったでしょ?」不意を付かれた様子の貴巳の反応に気をよくして、武内が得意げに言う。  
「……こっちの住所までは知らないはずだ」  
「いやーわかんないよ?」  
「武内、まさかお前」  
瞬間、殺気を帯びた鉄仮面の声色。怯えた武内は慌てて言葉を継ぐ。  
「いやいや、俺はまさか、そんなことしないって。ただ、操ちゃんのことだからね……」  
ひどく意味深な沈黙が二人を包んだ。  
「……ま、どうか夫婦円満にね。少なくとも俺がお邪魔するまではね?じゃ、よろしく」  
一瞬、武内が黒い三角の尻尾を生やしてほくそえんでいる幻影を見た気がして、貴巳は眉間の皺を深く、深く刻んだのだった。  
 
「武内さん、どうしたの?なんか途中から違う話になってたみたいだったけど……泊まりに来られるんだよね?」  
「……ああ」  
何だか深刻な様子の夫を気遣って、雪子が貴巳の顔を覗き込む。  
「どうしたの?何か悪いニュースでもあった?」  
「いや、何でもない」  
「ふーん……武内さんが来るなら、お料理頑張って作らないとね、ふふ」  
「何もおかまいなく、と言っていたぞ。冷や飯でも食わせておけばいいんだ」  
「またそんな事言って。ちゃんと沢山用意しておくから大丈夫。何がいいかな」  
雪子は早くも、武内が来る日の夕食のメニューを考えはじめていた。  
何せ、武内は並外れた大食漢なのである。結婚披露宴の準備をしている時、貴巳が、武内の分の料理は三人前用意するように手配しているのを聞いて、  
まだ本人に会ったことの無かった雪子は、何かの冗談かと思ったものだ。それが当日武内は、用意された大量の料理を残さず平らげ、しかも二次会で余ったオードブルやつまみまでも、各テーブルからかき集めて食べつくしたのである。  
背は高いものの、痩せてひょろりとした体型からは想像もつかない食欲である。貴巳が「お前が来ると家中の食料が底をつくから来るな」というのも、満更誇張した表現ではないのだ。  
それでも雪子は、武内が遊びにやってくるのを面倒に思ったことは一度もない。  
雪子の知る限り、貴巳の祖父以外に、彼のことを名前で呼び捨てにするのは武内1人だけである。  
どれだけ冷たくあしらわれても気にもせず、貴巳の前で軽口をたたく武内と、苦虫を噛み潰したような顔で応対する貴巳を見ているだけで、何となく嬉しくなってくるのだ。  
 
「冷めちゃうからご飯にしよっか。今日は太刀魚の塩焼きだよ」  
にこにこと笑う妻のあどけない顔に何も言えず、貴巳は無言で食卓についた。  
いつものように静かな二人の食卓だが、今日に限ってはどうにも沈黙が重苦しくて、貴巳は無意識のうちにテレビのリモコンに手を伸ばす。  
ニュース番組では、ここ数日というもの騒がれている、宅配便の配達員になりすました殺人犯の特集が組まれていた。  
「あれ、テレビつけるんだ?珍しいね」  
「ああ、いや……ちょっと気になっていたんだ」  
言い訳めいた言い方になっていないかと気になったが、雪子はそんな貴巳の様子には無頓着で、画面を見つめている。  
「怖いね……宅配業者さんたちも、やたら不審がられて迷惑だよね。かわいそう」  
「……雪子、最近家のまわりを、怪しげな人間がうろついてたりしないか?」  
「なに?急に」  
妙に真剣な様子でそう訊かれ、怪訝な顔で雪子が答える。  
「いや……最近物騒だからな」  
「そうだね。このへんではあんまり、変な人を見かけたりはしないけど……」  
「もし俺が留守にしている時に、俺の知り合いだとか言って妙な奴が尋ねてきても、絶対家に上げたりするなよ。何されるかわからないからな」  
「そんなに心配しなくても、もう子供じゃないんだから大丈夫だよ。誰が来ても、ちゃんとドア開ける前に確認してるし、チェーンだってかけてるし。……でも貴巳さん、そんなに心配性だっけ?」  
「……いや、気をつけてるならいいんだ」  
いつもと違う夫の様子に違和感を覚えながらも、夫婦はとりあえず夕食を終え、何事も無かったかのように床についた。  
雪子が、貴巳が一体何を心配していたか、ということに思い当たるのは、あやとの買い物を済ませ、更に次の週末、武内が尋ねてくる日を迎えてからのことであった。  
 
 
3  
 
あっという間に師走も押し迫り、約束の日の午後がやってきた。  
貴巳が最寄の駅まで、車で武内を迎えに行ったので、雪子は玄関先に散らばった落ち葉を掃き集め、来客を迎える準備を整えていた。  
(……おでんは、あと練り物を入れるだけだし、ちらし寿司とサラダとおつまみ……それに飲み物も準備オッケー。揚げ物は下ごしらえ済んでるし、  
貴巳さんがお刺身を受け取ってきてくれるし……よし、大丈夫)  
庭ほうきをもった手を休め、胸のうちで今夜のメニューと段取りを再確認していた雪子は、ふと、  
表通りから家の玄関まで続く細い道を、1人の女性がまっすぐに歩いてくるのに気付いた。  
(誰だろう?セールスの人……にしては、ちょっと感じが違う気が……)  
いかにもキャリアウーマン風の、上等なスーツを自然に着こなしたその女性は、背筋がすっと伸びていて、歩く姿がきびきびと美しい。  
カールした黒い髪を思い切ってショートカットにしていて、それがまた活動的な雰囲気の顔立ちによく似合っている。  
真っ直ぐに中嶋宅の玄関に向かって歩いてきた女性は、突っ立っている雪子の顔をじっと見つめ、得心したように二、三度頷いた。  
「……あの、何かうちに御用でしょうか?」  
戸惑いながらそう雪子が聞くと、女性はにっこり、と極上の笑顔を浮かべた。  
「ここ、中嶋君のお宅で良かったかしら?」  
(……なかじまくん?)不審に思いながらも、雪子が頷くと、  
「やっぱり!……じゃあ、もしかして貴方、中嶋君の奥様?」  
と、畳み掛けるような勢いで、更に詰め寄ってくる。  
さすがにちょっと不信感を抱いて、雪子が曖昧に頷くと、  
謎の女性は眼をきらきら輝かせて雪子の手を取り、うっとりした目で見つめてきた。  
「……可愛いわ……」  
「……え?あ、あの?」  
展開についていけない雪子が、思わず後ずさる。  
「あら、急にごめんなさい。ずっとお会いしたかったの……私、中嶋君の大学時代の同級生の鈴木といいます」  
「大学の同級生…ですか」  
 
咄嗟に、数日前に貴巳に注意されたことを思い出し、雪子は警戒心を強めて、鈴木と名乗る女性の顔を見つめた。  
不審がる視線に気付いているはずなのに、女性は慌てた様子もなく、悠々とカードケースから名刺を取り出して雪子に手渡した。  
「突然でびっくりされたでしょうけど、怪しい人じゃないのよ。こういうものです」  
渡された名刺には、化粧をまったくしない雪子でさえよく知っている、大手の化粧品メーカーの社名が刻まれていた。  
(海外マーケティング事業部、ヨーロッパ担当室……鈴木操……)  
名刺と女性の顔を交互に眺めながら、それでもまだ半信半疑でいる雪子の様子に、操は苦笑した。  
「ごめんなさい。このご時世に、名刺一枚で信用しろって言っても無理よね……  
中嶋君が家を建てて、結婚したとは聞いてたから、近くまで来たついでに寄ってみただけなの。中嶋君、今日はお留守なのね?」  
すぐにも帰ってしまいそうなそぶりを見せる操を見て、雪子は本当に貴巳の知り合いだったら……と慌てた。  
「あの……今ちょっといないんですが、すぐに戻りますから。偶然なんですけど、  
今日これから、やっぱり大学の時のお友達がいらっしゃるんで、迎えに出てるんです」  
「お友達って、もしかして武内くん?」  
「そうです!ご存知なんですか?」  
「家にまで遊びにくるような友達なんて、他に思いつかないもの。あの人、相変わらずよく食べるの?」  
この受け答えで、雪子の操に対する疑いはすっかり晴れた。武内の名前に加え、彼が大食漢であることまで知っているなんて、知人でなくてはあり得ない。  
「そうですね、結婚披露宴にご招待したんですけど、お料理を1人で三人前平らげてました」  
ようやく打ち解けた調子で雪子が逸話を披露すると、操はなにやら感慨深げに頷いた。  
「そうなの……私、仕事の都合でずっとヨーロッパ辺りを転々としてたものだから、結婚のお祝いもできなくってごめんなさいね」  
「いえ、そんな……あの、立ち話じゃなんですし、良かったら家へどうぞ」  
雪子が促すと、操は少々大げさすぎるほど遠慮するそぶりを見せた。  
「いいえ、そんなつもりじゃなかったのよ本当に……これからお客様が来るんだし」  
「いえ、武内さんともお知り合いなんですよね?だったら二人とも、きっと喜びますから。お時間があったら、是非どうぞ」  
「でも……急にお客が1人増えるなんて、本当にご迷惑だわ」  
「いいえ、こんなこと言っちゃいけないですけど、お客さんが武内さんですから。夕食も、多すぎるくらいに沢山用意してあるんです。  
鈴木さんが1人増えたからって、全然困ることありませんからご遠慮なく。二人ともきっとびっくりしますよ」  
「そう……でも、本当に大丈夫?中嶋くんが怒るんじゃないかな」  
それについては正直、雪子も不安を感じないではなかった。何せ、只でさえ来客嫌いの貴巳である。  
武内に加え、更にもうひとり客が増えるとなると、恐らく嫌な顔をするに違いない。  
ただ、操が貴巳の大学時代からの知り合いならば、彼の無愛想なことはよく知っているだろうし、それほど気にすることもないだろう。  
何よりもこの成り行き上、操を誘わないほうがよっぽど不自然だし失礼な気がする。そう自分に言い聞かせて、雪子は操に笑いかけた。  
「中嶋はご存知の通りの人ですけど……きっと本音では嬉しいと思います。さ、どうぞ」  
「そう……そうかな。じゃあ、お言葉に甘えて、お邪魔しますね」  
そうして、雪子はそれと知らぬままに、平和なマイホームへ、核爆弾級の破壊兵器を導きいれたのであった。  
 
「中嶋くんと武内くんとは、ゼミで一緒だったのよね。二人とも当時からあんな調子で、腐れ縁ていうのかしら……  
中嶋くん、優秀だし、それでいて可愛げが全然無いしで、あの無表情が廊下から歩いてくると、  
教授まで顔を引きつらせて思わず道を譲るんだから、見てて面白かったわよ」  
貴巳たちが帰ってくるまでの間、リビングでお茶を飲みながら、二人の女性はすっかり打ち解けてしまった。  
貴巳は自分の過去のことなどほとんど話したことがないので、操の学生時代の話は雪子にとって実に興味深い。  
「へぇ〜。それで、就職してからは、全然会ってなかったんですか?」  
「そう、3人とも、全然別のとこに就職したしね。武内くんだけはそのまま東京だったけど、  
私はまず仙台で、それからフランスでしょう。でも中嶋くんがこっちに戻って市役所の職員やるって聞いたときはびっくりしたわよ」  
「え?どうしてですか?」  
「だって彼、優秀だったもの……公務員試験受けるって聞いて、てっきり国家一種だと思ってたのよ。ああ官僚ね、お似合いかもねって。  
それがまさかの地方公務員だっていうでしょう。もう、彼を知ってる人は皆愕然としたもの」  
雪子は、自分もかつて貴巳の同僚で地方公務員であったことは伏せて、曖昧に苦笑した。  
貴巳たちの卒業した大学は、その名を聞けば10人中9人は感心し驚くほどの、偏差値高めの国立大学である。  
操は貴巳と同い年だと言っていたから、それはつまり貴巳同様に、難関大学を浪人も留年もせず最短距離で卒業したということで、  
そんな優秀な彼女からすれば、市役所の職員など「まさかの地方公務員」と言われてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。  
操の言葉の端々から、彼女が自分とは違う世界に住んでいるのだな、ということを実感しながらも、雪子は不思議と、操に対する反感を感じることはなかった。  
それは操の話ぶりがごく砕けた調子で気取ったところがなく、また、人を惹きつける生き生きとした表情のせいかもしれなかった。  
雪子は、ソファに座る操の様子を、こっそりと観察した。  
(……きれいなひとだなぁ)  
スーツ姿がよく似合っていて、いかにも仕事ができそうな印象は橋本あやにも通じるところがあるが、  
操の印象を深くしているのは、何よりもその大きな黒い瞳だ。くるくるとよく動き、ときに熱っぽく光るその目は、彼女の尋常でない魂の表れだろう。  
すらっと伸びた長い足に姿勢のよい背中から腰は、スポーツでもしているのかよく引き締まって、  
きびきびとした動作とあいまって、とても活発な印象を与える。最近の流行ではないのかもしれないが、ベリーショートにした癖のある黒髪も、  
まるで往時のオードリーヘップバーンのようで、強い意思ある顔立ちを引き立てている。  
ぼんやりと見つめていると、操もまた、雪子の顔をにこにこと見かえしてきた。  
「……結婚したとは聞いてたけど、まさかこんなに若くて可愛いお嫁さんだとは思わなかった。中嶋くんは幸せ者ね」  
「え?いや、そんな、私なんか子供っぽいし、鈴木さんみたいに綺麗じゃないですし」  
雪子が慌ててそう言うと、操は両手で雪子の手を握りしめ、熱っぽい口調で言った。  
「ね、鈴木さん、なんて他人行儀な呼び方やめて、操って呼んでくれない?私も、雪子ちゃん、って呼んでいい?」  
「え、ええどうぞ、皆そう呼びますし……あの、み、操さん?」  
不自然なほど近づいてくる操の顔に戸惑った雪子が身を引こうとした瞬間、玄関のドアが開いた音がした。  
「あ、二人が帰ってきましたね」  
何となくほっとした雪子が、慌てて玄関に向かおうとしたが、操がその手を取って引き止める。  
「……操さん?」何をするのか、と雪子が目顔で聞くと、操はいたずらっぽく笑って、人差し指を唇に当てた。  
リビングのドアが、開いた。  
 

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