「足首が痛むということですが」  
目の前に腰掛けた、老年の医師に問いかけられ、  
雪子はこっくりと頷いた。  
背後では夫が、まるで重病の告知を受ける患者の家族のように、  
難しい顔をして直立している。  
いや、鉄仮面と異名をとる彼が難しい顔をしているのはいつものことであるのだが。  
(子どもじゃないんだし、付き添いなんていらないって言ったのになぁ  
……っていうか、ちょっと足が痛いくらいで、病院なんて大げさなのに……)  
どうにも気恥ずかしくて、雪子はそっとため息を漏らした。  
窓ガラスも溶かすかと思うほどの日差しが照り付けているが、  
診察室の中はひんやりと涼しい。  
老医師が、指紋のついた眼鏡を指で押し上げながら、  
目の前の台に貼り付けられたレントゲン写真を指し示す。  
「骨に異常はありませんが、関節の周りがやや炎症を起こしているようですな。  
何か、激しいスポーツをなさってますか」  
「いえ、何も」  
とんでもない、という風に雪子が頭を振る。彼女は超がつくほどの運動音痴である。  
 
「では、特に足に負担がかかるようなことをした覚えは」  
「……毎日、お買い物で歩き回るくらいですけど……うーん」  
首をかしげる雪子に、貴巳が後ろから声をかける。  
「商店街までなら結構、距離があるだろう。万歩計を持ってるんじゃなかったか」  
言われて雪子は、ベルトに着けた小さな機械のことを思い出した。  
貴巳の職場である市役所の職員全員に、健康増進という名目で配られたものである。  
必要ないと貴巳が捨てようとしたのを、勿体無いからと雪子が着けていたのだ。  
「これ、どうやって見ればいいんだっけ?」  
毎日律儀に身に着けているくせに、歩数の表示の仕方すら知らない妻に呆れつつ、  
貴巳は小さなボタンをいくつか押し、過去の歩数のデータを一日分ずつ呼び出す。  
表示された数字に、貴巳と、覗き込んでいた老医師は同時に声を上げた。  
「……1万8000歩?」  
「……2万3000歩?」  
「……この日も2万歩……奥さんずいぶん頑張って歩いておられるみたいですなあ」  
 
「待て、どうしてこんなに歩く必要がある?商店街までは片道せいぜい1kmだろう」  
夫の詰問口調に驚いた雪子が、小首をかしげ、当たり前のように言う。  
「だって……えっと、この日は確か、増田屋さんまでお醤油買いにいって、  
それからいつものパン屋さんに食パン買いにいったら、まだ焼きあがってなくて、  
だから先に兼よしさんでお味噌買って、もう一回パン屋さんに行って、  
それから最後に魚ときさんでお魚買って帰ったの。だから……」  
雪子が買い物に行くのは、縦に1km以上も延びる、老舗の多く並ぶ商店街である。  
そのちょうど真ん中ほどの交差点まで、二人の自宅からは1km余り。  
ちなみに増田屋は商店街の南端、パン屋は反対側の北端、  
兼よしは増田屋の2軒隣、、魚ときは増田屋より更に南の商店街のはずれにある。  
「どうしてそんなに効率の悪い回り方をしてるんだ?」  
「だって……貴巳さん菓子パンは嫌いだし、それにお魚は最後にしないと、  
鮮度が落ちちゃうし」  
「そもそも……商店街にはスーパーがあるし、そこなら一度に用が済むじゃないか」  
眉を顰める夫に、雪子はさも当たり前のように言う。  
「だって、貴巳さん、スーパーで買った材料で料理しても何も言わないけど、  
増田屋さんや魚ときさんで買ったのを料理したら、美味しいって言ってくれたから」  
 
「……え?」  
「他のお店のも色々買って試してみたんだよ?それで、貴巳さんが一番、  
おいしそうに食べてくれるから、最近はずっと決まったお店で……」  
言われて、貴巳は今更ながらに気づいた。  
そういえば結婚当初、雪子の作る味噌汁や煮物の味付けが、  
比較的短いスパンでころころ変わったことがあった。  
料理上手な雪子の作るものだから、不味いと思ったことなどないが、  
暫く経つとそれが申し分のないほど貴巳好みの味付けになり、  
それ以来はずっと安定していることに。  
家庭料理とはそういうものなのだろうと、特に疑問にも感じていなかったが、  
その陰に雪子のこれほどの気遣いと労力が掛かっていたことに、  
貴巳は今更ながらに気づいたのであった。  
「えー、それで、奥さんはいつもその靴で歩いてらしたのかな」  
「はい、そうです」  
医師の質問に頷く雪子の足元は、長距離を歩くにはいかにも不向きな、  
踵が高めのパンプスである。  
「その靴で2万歩も歩いてたのか?スニーカーはどうしたんだ?」  
 
ついきつくなる貴巳の口調に、雪子は叱られる子供のように首をすくめる。  
「んっと……先月、靴底が磨り減って捨てちゃったの」  
「新しいのを買えばいいだろう」  
「だって、この前、夏のパジャマ買っちゃったばかりだし……」  
犬も喰わない夫婦の会話を遮るように、老医師がわざとらしく咳払いをする。  
「ごほん、あー、お二人の仲がよろしいのはよく解りましたがね、  
足の話に戻させてもらいましょうか。  
薬を塗って2〜3日もおとなしくしとれば、痛みは取れるでしょう。  
それで奥さん、今後は新しい、歩きよい靴を履いたらよろしい。妙な遠慮をせんで」  
「……はい」と雪子が恥ずかしそうに頷く。  
「それで旦那さんはね、話を聞いたら、今時珍しいいい奥さんなんだからね、  
もう少し気をつけて可愛がってあげるとよろしい」  
「……」  
老医師に思わぬ説教をされて、常にも増して憮然とした顔の鉄仮面であった。  
 
 
2  
 
それからちょうど2週間後の土曜。  
風はほどよく、日差しはまだ強くなく、爽やかな盛夏の朝。  
愛しい年下の妻と、静かで穏やかな休日を過ごすのだと決めていたというのに、  
玄関のドアスコープの向こうには、見慣れた、しかし休日にまで見たくはない顔が、  
白々しい笑顔でこちらを覗きこんで手を振っている。  
 
貴巳は、溜息をつきながらドアを少しだけ開けた。  
「……橋本、土曜の朝に何の用だ?」  
職場で鉄仮面と異名を取る男の、背筋も凍る冷酷な声音と凶悪な無表情を前にしても、  
突然の訪問者はひるむそぶりもなく、くっきりした目鼻立ちを歪めて、  
大げさにしなをつくる。  
「やだ課長、部下が訪ねてきたっていうのに、  
ドアチェーンかけたまま応対するってひどーい」  
彼の有能なる部下、酒豪にして女傑、橋本あや。口元がにやついているのは、  
突然の訪問をあからさまに迷惑がる鉄仮面の様子を見て、楽しんでいるのに他ならない。  
 
「あれ?あやさんだ!どうしたの?」  
「雪子ちゃん、おはよー。朝ご飯食べた?」  
奥のリビングから顔を出したのは、貴巳の12歳年下の妻、雪子である。  
姉妹のように仲のよい二人は、憮然とする鉄仮面をそっちのけで、  
のんきにお喋りに興じている。それを遮って貴巳が言う。  
「……だから何の用だと聞いてるんだ」  
ドスの効いた低音の、同僚曰く「氷の声音」でそう問われて、  
平然としていられる人間はごく少ない。職場ではこの、橋本あやくらいのものだろう。  
しれっとした顔で、とんでもないことを提案する。  
「雪子ちゃん、プール行くよ」  
「え?これから?」  
「うん。前から約束してたじゃない?せっかく水着も買ったのに」  
雪子が満面の笑みで「行きたーい!」と言うのと、  
貴巳がこれ以上無いほど不機嫌な顔で「駄目だ」と却下するのはほとんど同時だった。  
「え……やっぱり、ダメ?」  
「決まってるだろう」  
「課長、何で雪子ちゃんがプールに行っちゃいけないんですか?  
夫だからって、そこまで妻の自由を束縛する権利はないと思いまーす」  
学級会でやんちゃな男子を責める女子小学生のような口調で、あやが言う。  
 
「……女二人でプールなんて、悪い虫がついたらどうする」  
「あら、私のことも女だと思ってくれてたんですね?」  
「生物学的に分類するならの話だが、蓼食う虫も好き好きというしな」  
「言ってくれますね。悪いけど、頭の軽い男の子にひっかかるほど  
人生経験浅くないですから。もちろん雪子ちゃんもしっかりガードしますし」  
「当てにならんな」  
「それなら課長も一緒に来ればいいじゃないですか。課長が背後で睨みきかせてたら、  
どんな男の子だって恐れをなして雪子ちゃんに近づいてきませんよ?」  
「俺がそこまでしなきゃならない理由は無い」  
「無いとは言わせませんよ?、ゴールデンウィークだってこの前の連休だって、  
雪子ちゃんに聞いたら買い物と実家以外どこにも出かけてないって言うじゃないですか?  
あんまりにも可哀想だから、せめて私が連れだしてあげようかな〜としただけですよ」  
痛いところをつかれて、貴巳は一瞬言葉に詰まった。  
人混みの大嫌いな貴巳の意向で、中嶋家では外出が極端に少ないのは事実である。  
「……うちが休日をどう過ごそうと勝手だ」  
「でも、さっき雪子ちゃんは行きたいって言ってましたよ?  
夫に遠慮して行きたいところにも行けないなんて……可愛そうな雪子ちゃん」  
 
どうも、形勢は貴巳に不利なようである。あやの頭の回転の早さと弁の立つことは、  
部下としては申し分ないのだが、こういう場合ひたすら忌々しい。  
「だからといって当日突然誘いに来るというのは非常識だろう」  
「前もって誘ったりしたら、課長は何かと理由付けて断るに決まってるじゃないですか」  
「雪子は今、足首を痛めてるから無理だな」  
「えっと……先週、病院行ってきたら、もう完治したって言われたよ?」  
おずおずと口を挟む雪子を、鋭い視線で黙らせて、鉄仮面は更に言い募る。  
「日頃ろくに運動もしていないのに、溺れたりしたら危険だ」  
「今日行くK市のプールには、用心深すぎるくらい  
監視員だのライフセーバーだのが沢山いるんです。もちろんAEDも完備です」  
「……たかがプールに誘うだけのことで理論武装して恥ずかしくないか?」  
「ぜーんぜん?可愛い雪子ちゃんの喜ぶ顔を見るためですもん」  
そして本音はもちろん、鉄壁の無表情の上司の嫌がる様を見て楽しむためである。  
ようやく黙った貴巳を前に、あやは勝ち誇った笑みをうかべた。  
歴代最年少で課長職に昇進したこの上司は、完璧主義で仕事に対してやたらと厳しい。  
理不尽な要求なら反論しようもあるのだが、  
言うことがいちいち的を射ているので従うほかない。  
 
あやも仕事に対しては少々のプライドを持っているから、  
意地でも求められる以上の仕事をしようと奮闘しているのだが、  
その分ストレスのたまり具合もかなりのものだ。  
こうしてたまに中嶋宅に押し掛け、素直でからかい甲斐のある雪子を愛でつつ、  
絶品の手料理に舌鼓を打つ。そして、来客に心底うんざりしながらも、  
妻可愛さに我慢している鉄仮面の様子を鑑賞することが、  
あやの何よりのストレス解消なのである。  
 
「さっ、じゃあ用意して行きましょうか」  
勝利の喜びに浸りながらあやが言う。  
が、眼前の鉄壁の無表情には、まだ敗北の陰りは見られない。  
「残念だが橋本、それは無理だな。車がない」  
「……は?」  
「K市プールなら車がないと無理だろう。だが生憎うちの車は車検で業者に預けてある」  
言われてみれば、中嶋宅横の駐車場にあるはずの面白味のかけらもないセダンが、  
今日は見あたらない。  
目の前に路上駐車しているあやの愛車は2人乗りである。だが。  
 
「……車検なら、代車はどうしたんです?」  
怪訝な様子のあやに雪子が答える。  
「んとね、マニュアルの代車が業者さんのところに無かったんだって」  
「……はあ?」  
眉をひそめているあやに、貴巳が淡々と説明する。  
「オートマは運転していて、シフトチェンジのタイミングが微妙にずれて気分が悪い。  
代車にマニュアル車が無いというから、必要ないと断ったんだ。  
どうせ土日二日で車検は終わるしな」  
「二日くらいその信念を曲げるって選択肢は無かったわけですね……  
っていうか、今時マニュアルの代車なんて置いてある奇特な業者、  
めったに無いでしょうよそりゃ……」  
「ここから徒歩で行けるようなプールは無い。  
というわけで、残念だがプールは無理だな」  
形勢逆転、とばかりに余裕たっぷりな様子の鉄仮面が憎らしくて、  
あやは必死で対応策を考えはじめる。  
ほどなく頭に浮かんだいくつかの選択肢の中から、  
最も手っとり早くて安上がりな方法を採ることにした。  
 
おもむろに携帯を取り出すと、アドレス帳から同僚の名前を探し出し、コールする。  
土曜の朝だからか、なかなか電話に出ないので苛ついたが、  
幸い留守電になる直前、「……ふぁい?」と寝ぼけた声が応答した。  
「もしもし沢木?今すぐプールに行く用意して、課長の家まで車で来て。  
いいから何も聞かずに急いで。そしたら、雪子ちゃんの 水 着 姿 見れるわよ?  
オッケー、じゃ今から15分以内に来てよね。  
無理っス、じゃないうるさい黙れ。はいカウントダウン開始〜」  
一方的に電話を切ったあやは、どす黒いオーラを発しながら睨みつけてくる鉄仮面に、  
今度こそ極上の勝利の笑みを返したのだった。  
 
 
3  
 
「おー、中はすげー広いんだなあ」  
開館直後にも関わらず、沢山の人でにぎわうプールの室内を見渡して、  
沢木勇治は目頭にこびりついていた目やにをこっそり拭った。  
土曜の朝からたたき起こされたせいでぼんやりしていた頭が、  
室内プールのむわっとした熱気と、泳ぐ人々の響き渡る歓声で、否応なしに目覚める。  
「うわぁ広ーい!滑り台まである!あやさん早くはやく」  
「ちょっと雪子ちゃん、何でそんなに着替えるの早いのよ?」  
背後から響く楽しそうな二人の声に振り向いた沢木の時間は、その瞬間凍った。  
真っ白なビキニに、それに負けないくらい色白な、華奢で柔らかそうな肢体。  
雪子ははしゃいだ様子で、小さく飛び跳ねながらあやを手招きしているのだが、  
身体が弾むリズムに合わせて、細身な身体の割にはしっかりボリュームのある胸が、  
ぽよんぽよんと揺れているのである。  
(……ちょっ!これは……やばい!やばいくらい可愛い!むっ胸が胸が谷間がっ!  
夢にまで見た横チチがー!  
そんで腰細っせぇぇぇ!肌真っ白でどんだけ柔らかそうなんだよ!  
ああああ白いビキニ!ナイスビキニ!清楚!エロ清楚!  
つかやべぇ、これ勃ったらシャレになんねぇ!ああああでも目が離せねぇー!!)  
 
「……きさん?さわきさーん?どうしたんですか?」  
目の前の雪子が、怪訝そうに自分の目の前で手のひらを振っているのに気づき、  
沢木は慌てて飛びのいた。「うわっいやっなななな何でもないっすよ?」  
「そうですか?何か顔が赤いみたいですけど、体調悪いんじゃないですか?」  
そう言って雪子は、熱を計ろうと沢木の額に手を伸ばす。  
その拍子に長いストレートの黒髪がさらり、と胸元に落ち、  
少女のようにあどけない顔が、沢木の目の前30センチまで近づいてくる。  
(やばい、水着姿でそれは反則だって!!  
こんなとこでおっ勃てたら、俺マジ変態じゃねーかっ)  
必死で理性を保とうとする沢木の肩が、おもむろに凄い力で後ろに引っ張られ、  
あやうく沢木は尻餅をつきそうになった。何とか踏みとどまり、恐る恐る横を見やると、  
鉄仮面の異名を取る彼の上司が、それは恐ろしい形相で睨みつけてきているのだった。  
「……熱があるのか?ならもう帰ったほうがいいな」  
「い、いや、無いっす全然、超元気っす」  
自分の顔から血の気がひいていくのがよくわかる。  
「本当ですか?……あれ、さっきまで顔赤かったのに、ちょっと青ざめてませんか?」  
「雪子ちゃん、大丈夫だから放っときなさい……それより課長、何ですかその格好」  
 
つかつかと貴巳の前に歩み寄ってきたあやが、  
唖然として目の前に立つ男の頭からつま先までに視線を走らせる。  
いつも通り憮然とした表情の鉄仮面は、全く飾り気のないカッターシャツに  
パンツという出で立ちで、つまりは水着に着替えていないということだ。  
およそプールサイドにふさわしい格好ではない。  
「貴巳さん、入り口のスポーツショップで水着買ってくればって言ったのに」  
「今後一切使う予定のないものを買っても仕方ないだろう」  
「えー、でもせっかく来たのに」  
「そうですよ、大体TPOわきまえてないっすよ……いや、えっと、何でもありません」  
沢木を一睨みで黙らせた鉄仮面は、鋭いままの目線であやに向きなおった。  
ここまで来る車中、貴巳の水着がないことを心配する雪子に、わざとらしく親切そうに  
「スポーツショップがあるから、そこで買えばいいのよ。あー楽しみ。ねぇ課長?」  
とご機嫌だったあやである。  
「……嫌がらせの種が一つ減って残念だったな」  
「何のことですか?課長の水着なんて見ても嬉しくないですし、  
自意識過剰なんじゃありません?……やだ、そんなに睨まれると照れるじゃないですか。  
もしかして私のセクシー水着姿に見とれちゃいました?」  
 
「……そのゴーギャンが発狂したような色合いが最近の流行なのか?世も末だな」  
ちなみにあやの豊かな胸とグラマラスな腰回りを覆っている水着は、  
赤と水色とオレンジと黄緑の、滲んだストライプ模様という恐ろしく派手な代物である。  
「あら課長ゴーギャンがお好きですか?」  
「そんな事は言っていない」  
「ゴーギャンってロリコンですよね。しかも幼な妻を別の男に寝取られたりしてたし」  
「……橋本、言いたいことがあるならはっきり言ったほうがいいぞ」  
「いえ別に」  
最大の障害である鉄仮面があやと対峙しているのをいいことに、  
沢木は再び雪子の真っ白で柔らかそうな肢体を盗み見ていた。  
軽い近視のせいで、細部まではっきりくっきりと見えないのが非常に残念である。  
(くそっ、こんな事ならコンタクトしとくんだった……しかし可愛いよ反則だよこれは。  
あー、おっぱい超やわらかそー、横からがしっと鷲掴みにして、  
ゆさゆさ揺らしたりとかさぁ……体中べろべろ嘗め回して味わいたい!  
ていうかいっそ、あの尻の割れ目に顔を埋めて窒息してえ……  
……ん?何だあれ、腕のとこと膝と……あz)  
沢木の幸福かつ変態的な思考は突然体を襲った衝撃に断ち切られた。  
「ごぼっぐへっがばぁぁぁっ!ちょっあやさん何するんすか?!」  
 
突然プールの中に突き落とされた沢木は、鼻から流れ込む塩素臭い水にむせながら、  
必死で水面から顔を出した。  
片足を軽く上げた女傑の姿から、突き落とされたのではなくけり落とされたのだと理解する。  
「沢木があんまり鼻の下延ばしすぎで気持ち悪いから、つい。  
嬉しいのはわかるけどさ、そもそも誰のおかげで今日ここに来れたんだっけ?  
感謝しなさいよ感謝」  
「いや、運転手にされて感謝しろって、俺どんだけ奴隷的な立場っすか……」  
「……何よ?」  
プールのふちに手をかけて上がろうとする沢木が、  
自分を見上げたままぴたりと止まったので、あやは不審な顔をした。  
プールの中の沢木からは、プールサイドに立つあやの姿を、  
ほとんど真下から見上げる形になっていた。  
ビキニの小さな布に吊り上げられている、いわゆるロケット型の巨乳は、  
下から見ると更に大迫力である。加えてぷっくりとした三角地帯を包む布のラインは  
実にきわどく、見てはいけないものまで危うく見えそうである。  
「……あやさんGJっす。ゴチになりまsぐごふっげふっ」  
白い歯を見せて爽やかに親指を立てた沢木は、  
陸に上がりかけた肩口を思いっきり蹴られ、再び水中に没した。  
 
痛む肩を押さえながらようやく浮上すると、あやがプールの監視員から、  
人を水に落とさないようにと注意を受け恐縮(した演技を)しているところだった。  
「あやさん、いいトシして管理員に叱られるって恥ずかしくないっすか?」  
調子にのった沢木を三たび水中に蹴り落とし、その頭をぐりぐりと踏みつけにしたあやは、  
「すみませぇん、ちょっと汚物の消毒を」と、艶やかに笑って係員に会釈した。  
 
「あやさん、流れるプールってこれだよね?」  
いくつかある大型のプールのうちの一つを指差し、  
雪子が目をきらきらさせてあやに言う。  
「そうだけど、ここ結構流れ早いよ?雪子ちゃん泳げるんだっけ?」  
「ううん、でも浮き輪があるから大丈夫!」  
そう言うと雪子は、あやと貴巳が止める間もなく水に入った。  
「わー冷たい!気持ちいい!……あれ?足がつかない」  
小柄な雪子にはプールは深すぎ、そして泳げない雪子にプールの流れは速すぎた。  
浮き輪につかまりながら、一生懸命に手で水をかいて戻ろうとするのだが、  
水の流れはどんどん反対の方向へ雪子を押し流していく。  
「あやさーん、たかみさーん、どうしようー」  
心細げに流されていく雪子は、  
さながらダンボール箱に入れられ川に流される捨てられた子猫のようである。  
余りにも予想通りの展開に、貴巳とあやは、溜息をつきながら目を見合わせた。  
 
「……ここで服のまま飛び込んで助けたら格好いいですよ、課長」  
「そういうのはここに誘った人間の仕事だな。俺は今忙しい」  
プールに入場した直後から、雪子とあやの周りにうろちょろとまとわり付く、  
およそ10代から30代まで幅広い年齢層の男たちの視線を、凍てつく視線で退散させ、  
空気を読めず声をかけようと近づいてくる男に至っては、  
進路を塞いで雪子を防御しなければならない貴巳である。  
下心満載の男達が、顔をひきつらせてUターンしていく中、  
一人だけ「ああ?何だオメーはよぅ」と突っかかってきた命知らずな男がいたが、  
貴巳が至近距離で眉間に皺を寄せ、凶悪に不機嫌な顔で睨みつけると、  
途端に顔面蒼白になり、あとずさりながら逃げていった。  
「うわぁ課長がいると便利」  
「……いいから早く雪子を連れ戻してこい」  
「いやホラ、沢木が鼻の穴ふくらまして助けに行ったから大丈夫ですよ」  
「……この間うちで空にしていった20年もののボウモアを返してもらおうか」  
「あー、あのケムリみたいな匂いのするウイスキーですか?  
カラにしたなんて人聞きの悪い。ちゃんと課長の分、残しておきましたよ?」  
「底から一センチほどな。大体あれはがぶ飲みする酒じゃない」  
「へいへい、行きますよーだ」  
 
会話の雲行きが怪しくなったのをしおに、あやはさっさと水に飛び込み、  
綺麗なフォームで抜き手をきって、みるみるうちに沢木を抜き去って、  
雪子の浮き輪をつかまえた。  
「わぁ、あやさん泳ぐの上手なんだね」  
泳げない雪子が、あやに尊敬の眼差しを注ぐ。  
「実家が海の近くだからね。連れ戻せって仰せなんで、戻ろうか」  
「えー、ここ楽しいのに。もうちょっとだけ、ね?あそこの広くなってるとこまで」  
「別にいいけど、大丈夫?足つかないんでしょ?」  
「っていうか、雪子さんって身長何センチすか?」  
ようやく追いついた沢木が、耳に入った水を気にしながら聞く。  
「沢木さんっ、じ、女性にそういうこと聞くのはマナー違反ですっ!……あ、あれ?」  
雪子は途端に真っ赤にして、沢木の胸を手で軽く押す。  
しかしその反動で、再び浮き輪ごとくるくる回りながら流れていってしまった。  
「……雪子ちゃん、背が低いのそんなに気にしてたんだ……可愛いのにねぇ」  
「ほんとっすね……で、あの、俺は別の事がすげえ気になってるんすけど、あの……」  
「……ん〜?」  
何やら言いにくそうなことを言いかけた沢木が、思い直したように軽い口調で言う。  
 
「あの、首のとこで結んであるビキニの紐、なんかの拍子にほどけないっすかねぇ」  
「沢木、それ思っても口に出すとかなり変態的だから。  
……ちなみに仮定の話として、その”なんかの拍子”にいくら出す?」  
「マジすか?!……えーっと……っっ、夏のボーナス……3分の2くらいならっ」  
「何、その中途半端な割合」  
「冷蔵庫と洗濯機壊れたんでボーナス払いで……っていうか、なんか背後から殺気が」  
「……だわね、こんだけ離れて、声が聞こえるはず無いのに、なんでわかるのかしら」  
数十メートル隔たっても尚どす黒いプレッシャーを発する鉄仮面の視線に、  
二人はいっそう声を潜める。  
「……で、あやさん、どうっすかさっきの件は」  
「前言撤回。命かけるには安すぎるし」  
「えええ、頼みますよあやさぁぁん!」  
「いやねぇ、私がお金で可愛い雪子ちゃんを売るような女に見えて?  
さっきのは冗談よ冗談」  
「嘘だ……さっき一瞬、金額次第では本気って目だったのに……」  
涙目になった沢木を尻目に、あやはさっさと雪子を連れ戻しに泳ぎ去っていった。  
 
―――――  
 
「今日はありがとうございました!ほんとにご飯食べてってくれないんですか……?  
そうですか、あやさんも沢木さんも気をつけて帰ってくださいね」  
中島宅の玄関先でにこやかに手をふる雪子と憮然とした鉄仮面に見送られ、  
あやと沢木は夕焼けに染まる道を駐車場まで歩いた。  
いつもの二人なら、誘われずとも中島宅に上がり込み、絶品の手料理を貪るのであるが、  
今日はどちらからともなく雪子の誘いを断った。  
横から送られる、凍てつくような鉄仮面の視線に怖じ気付いたからだけではない。  
それぞれの車の前に着いても、二人は乗り込もうとはしなかった。  
中島宅の玄関のドアが閉じられる音を確認してから、  
沢木があやに向かい、今日一日じゅう気になって仕方なかったことについて、  
耐え切れず口を開いた。  
「あやさん、雪子さんのあの傷、なんですか?」  
「やっぱり気になってたのってそれか……。私もさ、水着に着替えるときに聞いたけど、  
散歩して転んだとか何とか」  
「ちょっと転んだくらいじゃあんなにならないすよね……なんだろう、あの傷」  
眩しい水着姿に見とれる余り、沢木は気づくのが遅れたが、  
雪子の全身には無数の痛々しいアザや、かさぶたになった傷がついていたのである。  
 
沢木が色々と想像をめぐらせて悶々としていると、あやがぼそりと言う。  
「あ、気になったのってそれだけ?」  
「……は?もっと何かありました?」  
「いや、傷のほうもなんだけど……帰りの車の中でさ、雪子ちゃんノーブラだった」  
「…………は?はあぁぁぁ?!」  
「見間違いかと思ったけど、あれだけばっちり見えてたらねぇ。  
なんだ、そっちは気づいてなかったの?」  
「いやいやいや!そこは全然ノーチェックでしたよ!  
確かに、帰り道で雪子さんが何か、もじもじしてるなぁとは思ってたけど。  
何で教えてくんないんすかあっ?」  
「運転中にそんなこと教えて、  
わき見して事故られたら困るからに決まってるでしょうが」  
「ノオォォォっっ!なんか今日はもう色々と……ノオォォォォ!!!」  
沢木の雄叫びが、日差しの傾きはじめた夏の夕方に木霊した……  
 
 
4  
 
「あれ?なんか、今誰かの叫び声が聞こえなかった?」  
玄関で靴を脱ぎながら、ドアの方を振り返って雪子が首をかしげる。  
「野良犬の遠吠えだろう……それより雪子、ちょっと話がある」  
改まった口調でそう言われて雪子が振り返ると、  
思いがけないほど近くに、険しい顔つきの夫が立っていた。  
「た、貴巳さん……どしたの?」  
「どうした、はこっちの台詞だ。……雪子、どうして下着を着けてないんだ?」  
「えっ……えっと、やっぱり、気づいちゃった……?」  
夫の容赦ない視線が、Tシャツの薄い布越しに見える突起に注がれているのを意識して、  
雪子の真っ白い頬が、途端に紅く染まる。  
もしかして誰にも気づかれずに家まで帰れたかと思っていたのだが、  
あらゆる事を正確に観察する貴巳の目はごまかせなかったようである。  
ちなみに橋本あやにもあっという間にバレていたのだが、雪子は知る由も無い。  
無言で説明を促す夫の目線はあくまで鋭く、  
雪子はおどおどしながら必死で説明を試みた。  
「あのね、別に、わざと下着つけなかったわけじゃなくって……  
プールに行く準備してる時にね、小学生のころとか、  
プール授業のある日は服の下に水着を着ていったなぁって思い出して、  
早く着替えできるし、と思って、それで……」  
 
顔を真っ赤にしてうつむく妻に、話の結末を正確に予想した鉄仮面は、ため息を漏らした。  
「……それで、帰り道で着る下着を忘れた、ということか」  
恥ずかしさのあまり、雪子はただでさえ小柄な体をよりいっそう縮ませた。  
(お、怒られる……よね?)  
暫しの間があって、雪子は恐る恐る視線を上げた。  
目の前には、眉間に深いしわを寄せた鉄仮面が、じっと自分のことを見つめている。  
「……貴巳さん、怒ってる……?」  
「どうして怒る必要がある?……まあ呆れてはいるが」  
「うぅ……ごめんなさい」  
「謝らなくていい。別に怒ってはいないと言ってるだろう」  
これは本心からの台詞で、何故ならば、妻の際どい姿は、  
一番見せたくない相手には全く気づかれていなかったようだからである。  
助手席のあやが、バックミラー越しにちらちらと、  
意味深な目線を投げかけていたのは気に食わないが。  
そういうわけで、特にきつく問い糺したつもりもないのだが、  
目の前の少女のようにあどけない妻は、肉食獣に追いつめられた小動物さながらに、  
身を縮めぷるぷると震えている。  
Tシャツの上に浮かび上がる突起のシルエットのいやらしさも相まって、  
どうにも嗜虐心をそそられる眺めである。  
 
小柄な身体を玄関のドアに押し付けて、布地越しに浮かび上がる突起を指で弄くる。  
「……っ、ん、や、っ……だめ……だめだよぅ……」  
布に隠れていても、知り尽くした身体である。  
乳輪のきわを、触れるか触れないかの力加減で何度もなぞる。  
顔を赤くして頭を振る仕草とは裏腹に、突起は生き物のように、  
ゆっくりと堅さを増して、その存在を主張しだした。  
適度な弾力のある粒をつまみ上げ、指先で摘んでねじる。  
そしてそれを、軽く弾くように離す。  
からかう様な動きを繰り返していると、妻の吐息が細かく、熱を帯びていくのがわかる。  
例えようもないほど柔らかな乳房ごと掌で持ち上げるように掴み、やわやわと揉む。  
半開きになった雪子の唇からのぞく濡れた舌先が、貴巳を誘っている。  
ゆっくりと口付けると、刺激を待ちわびた雪子の舌が、熱くぬめって、  
貴巳の舌と絡み合おうとする。  
しかし、舌先どうしをほんの少し触れただけで、貴巳の唇はあっさりと離れる。  
「ん、や……」  
名残惜しげな雪子の唇に、貴巳は左手の人差し指と中指をねじ込んだ。  
驚いて目を見開いた雪子だが、指先で舌を挟んで嬲ってやると、  
すぐにとろりと蕩けた表情で舌を絡ませてきた。  
空いた貴巳の唇は、雪子の折れそうなほど細い首筋をなぞり、ゆっくりと下に移動する。  
 
プールの名残の塩素の匂いに混じって、甘い汗の香りが、  
上気した雪子の身体からほのかに立ち上る。  
布の上から、胸の頂点を唇にそっと含むと、  
雪子は耐え切れず仰け反り、結果として二つのふくらみは、  
捕食者たる夫の目の前に差し出された。  
「……ん、ふぅ……っっ!」  
右手で押さえつけた細い腰が、一瞬だが、貴巳の足に擦り付けるように動く。  
最近の雪子は、今までにも増して感度が良好である。  
ほんの少し、例えば貴巳が出勤する際に、気まぐれでした口付けひとつで、  
雪子は立っていられないほどに蕩けるのだ。  
雪子自身、そんな自分に戸惑っているらしく、  
困惑と快感の狭間で涙目になっている妻の姿は実に艶かしい。  
布の上から、更に執拗に突起を嘗め回す。  
貴巳の唾液を吸って、シャツのその部分だけに淫らな目印ができる。  
「あっ……あー!!あ、も、もう……っっ!」  
歯を食いしばって耐えてはいるが、雪子がその部分に直に触れて欲しがっているのは  
一目瞭然であった。  
その求めには応じずに、貴巳は前触れなく、  
濡れそぼった突起に、布越しに歯を立てた。  
「……っっっっ!!!!」  
びくびくと魚のように跳ねる雪子を、身体ごと強引にドアに押し付ける。  
 
突起を噛む歯の力を、それとは解らないほどにゆっくりと、徐々に強くしていくが、  
苦痛を訴えるどころか、雪子は明らかに、絶頂へ向かって駆け上り始めていた。  
「……きゃ、あああああ!!あ……も、もおっ……いき、そ……  
あっあっあっあっ……あ、そんな、つよい……く、かんじゃ……ああああ!  
い、や、いく、っいっ……ちゃ……ううう、っ……」  
あとほんの一押しで高みに上り詰める、  
そのタイミングを見計らったかのように、貴巳はあっけなく、突起を口から離した。  
「……や、だ……なんでぇ……?」  
恨みがましく見上げる妻に、今までの行為が無かったかのような無表情で言い放つ。  
「今日の予定を、一つ忘れるところだった……すぐ着替えてきなさい、外で待っている」  
「え?……って、まさか……ほんとに、今日もするの……?疲れてるんだけど……」  
心底いやそうな顔の雪子に、「当たり前だ」と言い放ち、  
貴巳は玄関を後にした。  
 
 
―――――  
 
 
「……だってあんな怪我してるのにほっとけないっすよ!」  
「どうせ心配するだけ損だって……ま、擦り傷とはいえ気にはなるけど」  
中島家の駐車場の陰で、あやと沢木は議論を交わしている。  
別に後ろ暗いことはないはずなのだが、何故か小声になる二人である。  
 
「怪我して、その理由は言えないとか……やっぱりアレなんじゃないすか」  
「でも課長に限ってDVは無いと思うけど?」  
DV、ドメスティック・バイオレンス、いわゆる家庭内暴力である。  
「……うーん、ま、確かに暴力とかは絶対しなさそうっすけど」  
「それだったら、まだSMプレイで雪子ちゃんが怪我してる、って方が信憑性あるわね」  
「あーそれならアリっすね」  
部下からの信頼が厚いのか薄いのかよくわからない鉄仮面である。  
首を傾げた二人の耳に、中嶋宅の玄関ドアが再び開く音が飛び込んできた。  
あやと沢木は反射的に身をすくめ、駐車場の塀の影に身を隠す。  
「……ちょっと、何で隠れるのよ?」  
「いや、何となくっつーか……あ、課長出てきましたよ?」  
「もーやだ……帰るわよ、私」  
「今出ていったらマズイですって……何してんだろ?」  
玄関から出てきた貴巳は、玄関脇の物置を開け、何やらがちゃがちゃ物音を立てている。  
少しして、足取りの重い様子の雪子も外にやってきた。  
歩き出した二人は、あやと沢木の隠れる塀の向こうを通り、  
家の前から続く下り坂を、並んで歩いてゆく。  
 
気づかれないように充分の間を取って、あやと沢木の二人は、恐る恐る顔を上げた。  
不自然に腰をかがめた沢木が、夫妻の後を追っていこうとするのを見て、  
あやは慌ててその後を追い、小声でなじる。  
「ちょっと、なんで後つけてんのよ?」  
「だって、雪子さんすげえ嫌そうについてくじゃないっすか!  
やっぱり、なんか嫌なことされてるんですよ!放っとけないすよ!」  
「だから私らが首突っ込むことじゃないって……  
後ろから見たら普通の仲良し夫婦じゃない。自転車なんて押しちゃってさー。  
チャーミーグリーン状態ってやつ」  
「何すかそれ、俺、若いからわかんないんで……ん?自転車?」  
「……そっか、自転車……一台だけ?なんで?」  
 
―――――  
 
足首の痛みの原因がはっきりし、病院からの帰り道である。  
立ち寄った大型ショッピングセンターの靴屋で、  
早速買ったスニーカーを履いた雪子は、  
必要以上にゆっくりと歩く貴巳に苦笑した。  
 
「大したことないって解ったんだから、そんなに気を遣わなくていいってば。  
……あれ?貴巳さん、どこ行くの?駐車場そっちだっけ?」  
「自転車屋だ」  
「え?……なんで?」  
「靴を買い換えたぐらいでは再発しないとも限らないしな。  
自転車なら買い物もずっと楽だろう。雪子は免許が無いんだから、  
今まで自転車無しで済んでいたのが不思議なくらいだ。  
妙な遠慮はやめて、これからは欲しいものや必要なものはちゃんと俺に言え」  
「……いや、えっと……でもほら、  
うちの周り、坂が多いし、自転車はかえって辛いかなぁって……」  
「電動アシスト付きのにすればいいだろう」  
「うん……でも、ほら、えーっと……」  
「何だ」  
これ以上何を迷うことがあるのかと言わんばかりの夫に、雪子はおずおずと切り出した。  
「……えっとね……貴巳さんは、自転車に乗れる……?」  
「……何だって?」  
 
―――――  
 
「やああーこわいいぃ!!!手、離してないよね?絶対はなしてないよねええ?」  
中嶋家に程近い河川敷に、雪子の甲高い悲鳴が響き渡る。  
茜色の夕焼けに染まる一本道で、よたよたと走る自転車と、それを見送る鉄仮面の影。  
ほどなくして自転車は、派手な音を立てて雪子ごと路上にひっくり返った。  
草むらに隠れてそれを盗み見ていたあやと沢木は、深く深くため息をついた。  
「……すげー幸せそうっすね……チャーミーグリーン状態?」  
「いやそれ違うんだけど……だから心配するだけ損だって……」  
「帰りますか……蚊がすごいし」  
物音を立てないように立ち上がった二人は、  
背後に不穏な影がきざしているのに、うかつにも全く気づかなかった。  
 
「帰ったんじゃなかったのか、二人揃ってこんなところで何の用だ?」  
今、二人が一番聞きたくなかった氷の声音。  
「……え?いや、えっと……さ、散歩?っすよ?」  
「さっき雪子ちゃんの傍にいたのに……課長もしかして忍者の末裔とかですか?」  
「忍者の真似事をしてるのはお前達のほうだろう」  
「人聞き悪いですね、後をつけてたわけじゃないですよ?  
涼しくなってきたから、二人で散歩でもしようかなって。ねえ沢木?」  
「そ、そうっす」  
あからさまな言い訳には耳も貸さず、  
鉄仮面は二人に、最凶に不機嫌な視線を注ぐ。  
 
「橋本と沢木がそんなに仲がよかったとは初耳だな」  
「あら、まさか職場内恋愛禁止とか言うんですか?どの口が?」  
ちなみに雪子はかつて、貴巳たちと同じ、某市市役所の企画課職員であった。  
「いや、ちょっ、あやさん、課長、その会話おかしいっす」  
焦る沢木をしげしげと見つめ、何故か確信に満ちた様子で鉄仮面が頷く。  
「な、何すか、課長」  
「嘘から出た誠という諺もあるし、まぁ精精、蓼食う虫を大事にしたらどうだ?」  
「ちょっと課長、それ私と沢木のどっちに言ってるんです?」  
あやの怒声を背に、貴巳はすでに雪子の転んだほうへと歩きだしていた。  
「……な、何でこういう流れになってるんすかね?」  
「……誰のせいだと思ってんだああ!!!行くわよ!」  
「え?ど、何処に?」  
「飲みに行くに決まってんでしょうが!当然アンタが運転手だからね!」  
「マジっすかーーー!!」  
怒りに震える橋本あやに襟首をつかまれて、  
夕日の沈みかける河川敷に、沢木勇治の情けない声がこだましていた。  
 
 
5  
 
ごちそうさま、と夕餉の箸を置いて、雪子は軽いため息をついた。  
食卓の上にあったメニューは、金目鯛の切り身の酒粕漬けをこんがりと焼いたのと、  
朝のうちに焼いて冷蔵庫でよく冷やしておいた焼きなすに、  
薄味のだしを張ったとろろとオクラの和え物。  
魚の骨だけを残してきれいに食べつくされた食器のむこうに、  
いつもの仏頂面の夫が、ビールグラスを傾けている。  
自転車の練習を終えて家に帰ってすぐに雪子は、  
転んで泥だらけの身体をシャワーで流し、休むまもなく大急ぎで夕食の支度をした。  
朝から仕込んでおいたメニューだったからまだ手間がなかったものの、  
さすがに疲労を覚えて、雪子は食卓についたまま、ぼうっと夫の顔を見つめていた。  
 
「今日はいろんな事して疲れたねぇ……」  
貴巳が、ふと顔をあげ、雪子に言う。  
「……そういえばまだ一つ、今日の予定が終わっていなかったな」  
「え?何かあったっけ?プール行って、自転車の練習して、  
シャワー浴びて、ご飯作って……」  
「一つ抜けたな。まだ途中だった」  
言うなり貴巳が、だしぬけに雪子の身体を、床の敷物の上に押し倒す。  
「えっ?!いやっ嘘でしょ?無理!今日はもう絶対無理!」  
「週末で一番大事な予定を途中で忘れるとはな……」  
「な、なに一人で反省してるのっ!ぜったいやだ!……あっ、あ……んっ」  
一度たりとも欠かしたことのない週末恒例の予定を遂行するため、  
中嶋家の長い夜は更けてゆくのであった。  
 
 
 

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