「……今日は2月15日だ」  
いつもの夕食を囲んで、ダイニングテーブルについている鉄仮面が呟く。  
「え?うん、そうだね?」  
向かいあって座った、まるで少女のような若妻が、不思議そうに首をかしげる。  
「つまり昨日は2月14日だったわけだが」  
「うん」  
「……2月14日というのは、俗っぽい行事が……いや、女性にとって大事な行事があるという」  
「ああ、バレンタインデーのことね?」  
いつもの不機嫌そうな無表情でそう言う貴巳の顔を不思議そうに眺めて雪子が言う。  
「……気づいていたのか」  
「当たり前でしょ?お買い物行けばスーパーにはチョコが山積みだし、  
テレビでもバレンタインスイーツ特集とかやってるし」  
「そうか。てっきり雪子は気づいていないのかと思っていた」  
そして食卓に流れる、妙に気まずい沈黙。  
小鉢に入ったひじきの煮物の最後の一口を飲み下してから、雪子がおずおずと問う。  
「貴巳さん……もしかして、チョコ、欲しかった……?」  
「そういう訳じゃない。断じて違う」  
「だって貴巳さん、私が普段チョコのお菓子買ってきても食べないから、嫌いなのかと思って」  
「俺はただ、雪子がクリスマスには執着するのに何故同じようなイベントであるバレンタインには興味を示さないのか、  
常々疑問だっただけだ」  
「んー……ずっと女子校だったから、お父さん以外の人にバレンタインチョコあげる習慣が無かっただけなんだけど……」  
「そうか。了解した。これからも我が家にはそういった浮ついた行事は必要ない。実に喜ばしいことだ」  
全く喜ばしくない雰囲気の表情の鉄仮面がそう言い放ち、再び食卓を沈黙が支配する。  
食事を終えた雪子が、ふと何か思いついたような顔になり、探るような目つきで貴巳を見上げた。  
「貴巳さんって……もしかして、今までバレンタインチョコ、貰ったことない、とか……?ま、まさかね……?」  
「……」  
「……」  
「……」  
「……え?」  
「何か問題でもあるのか」  
「嘘でしょおぉぉぉ!?義理チョコは?家族からは?操さんからは?」  
「何故そこで鈴木が出てくるんだ。義理で物を貰うなどという卑しい真似は俺は一切しない。職場でも虚礼廃止の通達が出ている。  
大体製菓メーカーの陰謀に踊らされるのは馬鹿らしいというのが中嶋の家での不文律だ」  
ちなみに鈴木操とは、貴巳の学生時代の友人にして初体験の相手、しかし恋愛感情は一切無く身体の関係だけ、  
という、妻が把握しているにしては余りにもひどい間柄の女性である。  
しかも、何故か操と雪子との間には友情めいた交友が持たれているのである。  
「そっか……操さんからも貰ってないんだ……」  
「だからどうして鈴木が関係あるんだ」  
「ってことは、今私が貴巳さんにチョコあげれば……  
それは貴巳さんにとっての初めてのチョコになるってことだよね?!」  
雪子が俄然、目を輝かせて貴巳に詰め寄る。  
「……まぁ、そうだな」  
「あげる!今すぐ買ってくる!あ、買ってきたのは嫌い?やっぱり初めてのチョコだから手作りじゃなくちゃね?  
あーでも材料あるかなぁ?あ!持ち出し袋に非常食の板チョコがいっぱい入ってる!ココアパウダーもあるし!  
あーでも生クリームが無い!ねぇ貴巳さん生クリーム買って来て!」  
興奮してマシンガンのごとく喋りながらごそごそと台所をかき回す雪子にやや圧倒される貴巳である。  
「……別に今日でなくてもいいんだが……いや、そうではなく別にチョコレートが欲しいわけではないと」  
「いいから早く!あと30分でスーパー閉まっちゃう!」  
雪子に財布と車のキーを押し付けられ、貴巳は半ば放り出されるようにして玄関から出たのであった。  
 
「……雪子、これは……?」  
言いつけ通り、小さな紙パックに入った生クリームを買って帰ってきた貴巳は、  
湯煎されたチョコレートの甘い香りの漂うキッチンに、  
琥珀色の液体が僅かに残った小瓶が置かれているのを見て眉を顰めた。  
「あ、生クリームありがとう!あーこれね?生チョコにブランデー使うんだけど、お酒の瓶が置いてある棚見たら、  
これしかブランデーって書いてあるのが無かったから使ったの。ちょっとしか入ってないから量もちょうどいいし!」  
「……」  
キラキラと輝くブランデーの小瓶はバカラグラス製。雪子が惜しげもなくチョコ作りに使ったのは、  
貴巳の友人である武内から、二人の結婚祝いに贈られたものである。  
レミーマルタンのルイ13世。  
小瓶の底から1センチほど残っているぶんだけでも数千円はする高級ブランデーだと、  
倹約家の雪子が知ったら気絶しかねない。  
「もうちょっとでできるから待っててねっ」  
にっこりと天使の微笑みを浮かべる愛しい妻へ、貴巳は喉元まで出た言葉を無理やり飲み込んだ。  
 
リビングのソファで待つ貴巳の元へ、雪子がチョコレートを乗せた皿を仰々しく差し出したのは、さらにそれから30分ほど経ってからのことだった。  
横に座った雪子が、やけに身体を密着させてしなだれかかってくるのも気になるが、  
貴巳はとにかく雪子に礼を言って小さな四角いチョコレートを口に運ぼうとした。しかしその手は、雪子によって阻止される。  
「だめ!」  
「……貰ったものを食べてはいけないのか」  
「そうじゃなくってぇ……せっかく貴巳さんの、はじめて、貰うんだもん……食べさせてあ・げ・る」  
普段のぽやんとした雰囲気とはうって変わって、妙に色気の漂う雪子の様子に、貴巳は嫌な予感を覚えた。  
「……気色の悪い表現をするな……雪子、まさか酔ってるのか……?」  
「酔ってなんかいましぇんよー、だ。ちょっと味見しただけらもん……おいしかったよ?」  
チョコレートと、ブランデーの香る甘い息を吐きながら、雪子は貴巳に身体を押し付ける。  
貴巳の唇に、ココアパウダーの塗された黒い塊が押し込まれた。  
口の中ですぐにとろける、芳醇な香りと風味。  
「……美味しい?」  
「ああ、美味い」  
「わたしにも……ちょうだい?」  
口移しでチョコレートをねだる、いつもより数倍色っぽい妻の様子に理性をゆすぶられながら、貴巳はしかし、慌てて身を引く。  
雪子はアルコールにごく弱い体質。その上、絡み酒である。酒乱といってもいい域にあるかもしれない。  
これ以上ブランデーのたっぷり入ったチョコレートを食べさせたら、貴巳自身どういう目にあうかわからない。  
とりあえず非常に危険なのである。  
「なんでくれないのぉ……」  
涙目になる雪子の表情が、貴巳の鉄壁の理性をまたもぐらつかせる。しかし貴巳もここで負けるわけにはいかない。  
「……これは俺が貰ったものだから俺が食う。その代わりホワイトデーとやらには俺が雪子に好きな菓子をやるから今日は我慢しなさい」  
「……ほんとに?お菓子なら何でもいいの?」  
「ああ、何でも好きなものでいい」  
「じゃあ、貴巳さんクッキー焼いて」  
「……何だと?」  
「私が手作りのチョコあげたんだから、お返しに貴巳さんは私にクッキー作って!」  
あんまりな要求に頭痛を覚えながら貴巳が反論する。  
「……俺が作るより、どこか有名な店で買ってきた方が数段美味いに決まっている」  
「おいしくなくてもいいの!貴巳さんの手作りのお菓子が食べたいの!」  
子供のようにだだをこねる雪子に貴巳はため息をついた。  
「俺は菓子なぞ作れない。諦めろ」  
冷たく言い放つ夫に、雪子は恨みがましい目線を送って、最終手段に出た。  
「作ってくれないなら、貴巳さんがバレンタインにチョコ貰ったこと無いって、あやさんと操さんにばらしちゃうからねっっ!!」  
「……」  
構わない、と言おうとしたが、それを知った時の橋本あやと鈴木操の表情、  
さらにその後に続く台詞の鬱陶しさを正確に予測して非常に嫌な気分になり、貴巳は言葉を飲み込んだ。  
傍らに目をやると、雪子が拗ねたような目で自分を見上げている。  
今夜は絶対に夜が明けるまで泣かせる、と復讐心にと煩悩に燃えながら、貴巳は天使のような子悪魔のような妻の身体を引き寄せた。  
 
 

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