鉄仮面と子猫8話「Let's make something sweet」 
 
 
 
1 
 
「こんにちはー、雪子です」 
まだ寒いとはいえ、そろそろ春の気配を感じる昼下がりの空気の中、自転車を停めると、 
古い日本家屋のガラス扉をがらりと開け、雪子は玄関の奥に声をかけた。 
家主の返事を待つことなく、自転車のカゴに入っていた大ぶりなバッグを上がり框に運び込む。 
バッグの中身の、タッパーに入った豚汁がたぷん、と音を立てた。 
 
「ああ、いらっしゃい」 
玄関から真っ直ぐ続く廊下を歩いてきたのは、厳しい顔つきのかくしゃくたる白髪の老人である。 
豊かな銀髪にはきれいに櫛が通り整えられ、シャツにベスト、スラックスという姿も、不意な来客にもうろたえる必要がない程度にきちんとした服装であった。 
80代も半ばを過ぎたとは思えないほどに背筋がぴんと伸び、男性としては小柄であるのに、実際以上に大きく見える迫力のある風貌だ。 
「豚汁作りすぎちゃったので持ってきたんですけど、召し上がります?」 
「いつも有難う。寒いから早く上がりなさい」 
そう雪子を促したのは中嶋総二郎(86)、貴巳の母方の祖父であった。 
 
居間と続きになっている仏間で、雪子はいつものように仏壇に線香を上げ、手を合わせる。 
古くはあるがよく磨きこまれた、黒光りする仏壇の中には、厳しい顔つきの老婦人が映った写真と、 
それよりも古びた、まだ若い女性がこちらを見て微笑んでいる写真が飾られている。 
(おばあ様、お義母様、今日はおじい様に豚汁を持ってきました。おじい様は変わらずお元気そうです……貴巳さんも元気です。安心してください) 
「何をぶつぶつ言ってるのかね?」 
総二郎に声をかけられ、雪子はさっと顔を赤らめた。胸のうちで呟いているつもりだったが、知らずに声が出ていたらしい。 
「あ、いえ、何でも……あの、何かお手伝いすることありませんか?」 
「いや、今のところ何もないよ。ゆっくりしていておくれ……そういえば今日は日曜だな。貴巳は出張にでも行っているのかい?」 
雪子が同じ市内にある、この貴巳の実家を訪ねるのは平日が主なのだが、月に一度ほどは週末に貴巳と一緒にやってくるのが習慣となっている。 
怪訝な顔をした義理の祖父に、雪子はしどろもどろになりながら応えた。 
「えっとですね……貴巳さん、お休みなんですけど……ちょっと家で作業するので、私が外にいたほうがいいということなのでですね……」 
「何だ、奥さんを週末に放り出して、持ち帰り仕事とはけしからんな」 
「いえ、お仕事じゃなくて……えーと、えーと……お菓子を」 
「ん?」 
「……ホワイトデーのお菓子を作ってくれてるので……私がいると邪魔なので……それで」 
「貴巳がかね?」目を剥いて驚く総二郎に、雪子が慌てて言葉を継ぐ。 
「あの、私がお願いしたんです……みたいなんです」 
「みたい?」 
「あ、あの……はっきり覚えてないんですけど」 
どもりながら赤面する雪子の言葉に、要領を得ない総二郎は首を傾げる。 
「あいつが菓子とは柄にもないことをするものだ。まぁ、そういうことならのんびりしておいで」 
「せっかく来たんですし、何でも言いつけてくださいね?お庭のお掃除とか……電球が切れてたりしませんか?」 
目の前の、子供のように小柄な孫嫁がそんなことを言うのに、総二郎は思わず頬を緩めた。 
「本当に大丈夫だよ。こうやってちょくちょく夕飯を持ってきてもらって、それでお茶でも飲んでいってくれるだけで私には充分過ぎるくらい有り難い」 
 
総二郎が豚汁を鍋に空け、雪子がポットから急須に湯を注ぎ、茶を淹れる。 
週に一、二度はこうして尋ねてくるのでお互いに慣れたものだ。 
しばらくの間、二人が茶をすする音だけが居間に響いた。 
居間に面した縁側が、西日を受けて白茶けて輝いている。 
よく手入れされているとはいうものの、築60年という年月の蓄積は柱や床のあちこちを歪ませ、ささくれを立てていた。 
縁側の向こうの庭では、白梅の古木が花の名残を残して若芽を萌やしはじめ、桜の大木は枝だけの寒々しい姿を晒している。 
甘夏の木に鈴生りになった、大ぶりな実の黄色だけが、景色に彩りを添えていた。 
「お庭の木は、このおうちが出来たときから植わっているんですか?」 
雪子がそう聞くと、総二郎は頷いた。 
「甘夏はまだ20年ほどだが、桜も梅も還暦だ。日当たりもそれほど良くないのに、ほんの小さな苗木があんなに大きくなるとは予想していなかったよ。そういえば古い写真があったな……アルバムを見せたことはあったかな?」 
「アルバム……もしかして、貴巳さんの子供の頃の写真なんかもありますか?」 
「あるとも。なんだ、一度も見たことなかったのかい?」 
「見せて欲しいって言ったんですけど、貴巳さんが、何かと理由をつけて見せてくれないんですよ」 
口を尖らせる雪子に、総二郎は鷹揚に笑う。普段の厳格な印象が、笑うと口元に柔和な皺を刻んで、いつも雪子をほっとさせる。貴巳が年齢を重ねたら、きっとよく似た顔立ちになることだろう。 
「あれも仕方のないやつだな。ちょっと持ってきてあげよう」 
よいしょ、と小さく呟いて腰を上げた総二郎が、きっちり整理整頓された仏間の押入れから、黄ばんだ布表紙のアルバムを取り出して座卓の上に広げる。 
最初のページは白黒の、この家の新築当時の記念と思しき写真。 
幼い女の子を抱いた夫婦が、誇らしげな顔で門前に立っている。若き日の総二郎とその妻キミだろう。 
「この女の子、もしかして貴巳さんのお母様ですか……?」 
貴巳の母、碧(みどり)は、貴巳が6歳の時、まだ30代という若さで亡くなり、貴巳はこの母の実家で祖父母に育てられた。総二郎の気持ちを思いやって切なくなり、雪子は沈んだ声で問いかける。 
しかし総二郎は、そんな雪子の心配をそっと振り払うように笑顔で頷いた。 
「ああ。どうだい、貴巳に似ているかな?」 
言われて雪子は首をかしげる。白黒の小さな写真では、幼子の顔立ちまでははっきりとわからない。 
「次のページからは娘の子供のころの写真もあるよ。少ないが貴巳の小さい頃のものもある。好きに見ておいで」 
そう言い置いて、総二郎は席を立ち台所のほうへ姿を消した。 
一人居間に残された雪子は、初めて見る写真の数々にすっかり夢中になってページを繰った。 
時折、親戚の集まりや、高校の古文の教師であったという総二郎の現役時代の風景などを交えながら、きりっとした顔立ちの利発そうな女の子は、写真の中でどんどん成長していく。 
アップの写真を見ると、涼しげな、しかし意思の強そうな目元が貴巳に似ている、と雪子は感じた。 
セーラー服を着た女学生の姿。勤めはじめたらしいスーツ姿。成人式の振袖姿。 
白黒写真なので色合いはわからないが、すらりとした立ち姿の彼女に、落ち着いた柄のその振袖がとてもよく似合っていて、雪子は思わず感嘆のため息をついた。 
 
(……そろそろ、貴巳さんのお父さんが登場するころかな) 
そう予感して、雪子は自分がにわかに緊張するのを感じた。 
貴巳の両親は、貴巳が生まれる前に(つまりは彼の母が貴巳を妊娠中に)離婚し、それ以降一切、没交渉であると貴巳から聞いている。 
何かの折に父親のことについて聞こうとしても、貴巳はいつもの無表情に輪を掛けた鋭い眼光で「俺は一度も会ったことがないし、今では何の関わりも、興味もない」と言い捨てるものだから、二の句が継げなかった雪子である。 
僅かに震える指先でページをめくる。が、次のページは白紙だった。 
写真を貼っていたような形跡はあるのだが、次のページも、その次のページも、新年に親戚が集まったような写真など幾枚かを除いては、やはり同じように白紙なのであった。 
(……もしかして、貴巳さんのお父さんが写ってた写真……全部、剥がしてあるのかな……) 
暗い気持ちでめくった数ページの後、それまで白黒だった写真が、にわかにカラーに変わった。 
それは、産院らしきベッドの上で、女性が産まれたての赤ん坊を抱いている写真だった。 
長く伸ばした黒髪を結わえた母親の表情は、出産の疲れを感じさせつつも、とても柔らかく幸せそうだ。 
思わずこちらも頬がゆるむような―それは、当たり前の幸せな風景であった。 
それから暫くは、赤ん坊を囲んでの幸せな風景が続く。顔をくしゃくしゃにして喜ぶ総二郎とキミの笑顔に、知らず知らずのうちに雪子の頬も緩んだ。 
ページを追うごとに、しわくちゃの顔をした赤ん坊が、はっきりと現在の貴巳の面差しを感じさせる顔立ちになっていく。 
大人になってからは無表情・無愛想・無口の鉄仮面と呼ばれる夫が、子ども時代から既に全く変わらぬ無表情で無愛想な様子であるのに、雪子は思わず噴出してしまった。 
わずか1歳ほどの赤ん坊が、カメラのファインダー越しに、不機嫌そうな面持ちでこちらを睨んでいるのだから。 
写真を剥がした後は相変わらずあるものの、その頻度は不審を覚えさせない程度に、随分少なくなっている。 
貴巳は写真の中で、無愛想ながら順調に成長していく。くすくす笑いながらページをめくる雪子の指が、ふと止まった。 
少年と呼んで差し支えないほど成長した貴巳が、相変わらずの真面目腐った無表情で、母と二人で並んでいる写真。 
貴巳の母は病院着を着て、病室らしい白いパイプベッドに腰掛けている。 
面差しははっきりとわかるほどにやつれ、眼窩が落ち窪んでいる。優しげに微笑んで、隣に立つ貴巳の肩に手をかけているが、その手もまるで老婆のように痩せ衰えている。 
その指先には力が篭り、まるですがりつくような強さで、小さな貴巳を抱いていた。 
震える手でページをめくると、アルバムの中の時間は数年を飛び越えて、貴巳の中学の入学式に校門で撮ったらしい詰襟の学生服姿が現れた。 
そして、それが中嶋家のアルバムの最後の一枚だった。 
 
雪子は、母と息子の最後の写真を見つめ、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。 
穏やかな表情とは裏腹に、夫と別れ、幼い息子を置いて逝かねばならない母の無念が、力の篭った指先に溢れていた。 
(どんなに……どんなに、心残りだったんでしょうね……) 
仏壇の、まだやつれる前の美しい微笑の遺影に潤んだ目をやって、雪子は会うことのできなかった義母に心の中で語りかけた。 
 
廊下から、総二郎の足音が居間に向かってくるのが聞こえて、雪子は慌ててページを適当なところに戻し、滲んだ涙を指先でぬぐった。 
「昨日、庭の甘夏をもいだんだ。あまり甘くはないが香りはいいよ。帰りに少し持っていきなさい」 
そう言って皮をむいた甘夏が盛られたガラスの器をテーブルに置いた総二郎は、雪子の赤い目もとにちらりと視線をやったが、気づかないふりをしてアルバムを覗き込んだ。 
「ああ、これは娘の成人式だな」 
「とってもお綺麗ですね……すらっとして、モデルさんみたい」 
「あいつは、あの時代にしては背が高かったからなあ。顔もなんとなく男顔なもんで、呉服屋に行っても赤だの朱色だのの振袖が似合わなくてね。白黒写真だからよくわからないが、深緑色なんだよ。私の安月給から、随分無理して張りこんだもんだ」 
「すごく素敵です。お義母様の雰囲気にぴったりで……いいなぁ」 
「雪子さんは、振袖は持ってないのかね?」 
雪子がうらやましそうな様子であるのを訝しんで、総二郎は聞く。 
「はい。父が亡くなってからは余りそういう余裕も無くなってしまって……レンタルの着物で写真だけでも撮ろうと思ってたんですけど、母も私も仕事が忙しくて、つい伸ばし伸ばしにしてるうちに、いつの間にか忘れちゃいました」 
照れたように笑う雪子に、総二郎は何やら考え込んでいる。 
余計な心配をかけたかと慌てて、雪子はアルバムの最後のページを開き、あえて明るい声を出した。 
「これ、貴巳さんの中学校の入学式ですよね?高校とか、大学の頃のはないんですか?」 
「ああ、男の子というのはつまらんな。素直に写真を撮らせるのは小学校に上がるくらいまでで、後は何だかんだと屁理屈をこねてカメラから逃げるんだ。まぁ、代わり映えのしない無愛想な顔だからな。こっちも早々に諦めたよ」 
「だから小学生のころの写真がないんですね」 
くすくすと笑いながら雪子が頷く。 
「中学のはようやく説得して一枚だけ撮ったんだ。大学生になったら一人暮らしを始めて、こっちに就職して戻ってくるかと思ったら勝手にアパートを借りるし、いつの間にか家なぞ建てるし、まぁ可愛げのない孫だ」 
ぶつぶつと言う総二郎のぼやきは冗談半分で、不満の色は見られない。 
雪子からすれば、学生時代はともかく、せっかく就職で故郷に戻ってきたのだから、なぜ一緒に住まなかったのかという疑問を今でも抱いているのだが、総二郎は孫の自立を腹立たしくは思っていないようである。 
伴侶であるキミを貴巳が大学生のころに亡くして以来、身の回りの一切をきちんと一人で取り仕切り、かくしゃくとして病気一つしないというのが自慢の総二郎であるから、貴巳に心配されたりするのは却って居心地が悪いのかもしれない。 
そこまで考えた雪子は、ならば自分がこうやってしばしば訪問するのも迷惑なのでは、という考えに至り心配になった。 
しかし総二郎に迷惑がる様子はなく、毎回、お世辞とは思えない嬉しそうな様子を見せて歓迎してくれるので、素直に受け取ろうと考え直す。 
何より、いくら持病もなく元気とはいっても総二郎は86歳という高齢の独居老人である。定年まで必死で働いて娘と妻を看取り、貴巳を育て上げた偉大な祖父だ。粗末に扱うことなど考えたこともなく、雪子自身、3日に一度はこの家を訪れないと心配で落ち着かないのだ。 
同じ市内なのだから、いっそ家に総二郎を招いて同居することにしたら……と貴巳に持ちかけたこともあったが、 
「爺さんが、自分で何でもできるから口出しをするなと言っているんだ。余計なことは考えなくていい」ととりつくしまもなく断言されては、嫁の立場である雪子からはそれ以上強く言うことはできないのであった。 
「どうしたね?」 
物思いから我に返って、雪子は心配そうに自分を見やる総二郎に慌てて応える。 
「いえ、すみませんちょっとボーっとしちゃって」 
「疲れてるんじゃないのかね。あいつの相手は一筋縄ではいかないだろう」 
あいつ、とは勿論鉄仮面たる孫息子のことである。 
「あはは、確かに毎日驚いてばっかりですけどね。でも楽しいです」 
苦笑して雪子は、目の前のガラス鉢に入った甘夏をひとふさ口に運んだ。 
粒が弾けて、かすかな苦味に、さわやかな酸味と香りが舌の上に広がった。 
 
 
 
 
2 
 
総二郎と二人、中嶋家の昔話に花が咲き、雪子が自宅へと帰ってきたのは、日の落ちかかり薄暗くなってからのことだった。 
うきうきした気分で玄関を開けた雪子の鼻に、バニラエッセンスの甘い香りが漂ってくる。 
リビングへ入ると、香りの源である焼き立てのクッキーが、皿に載せられてダイニングテーブルの上に鎮座していた。 
「わぁ……ほんとに作ってくれたんだ!」 
「約束だから仕方ない。美味いかは保障しかねる」 
小さく飛び跳ねながらはしゃぐ雪子に、貴巳はぶっきらぼうに言う。 
ありがとう、と礼を言いかけて、雪子は振り返った先にいる夫の姿に、思わず噴出しそうになる口を押さえた。 
「……何だ」 
「う、ううん……えっと……貴巳さんのエプロン姿が懐かしくて……」 
そこらのスーパーで売っていそうな、所帯じみたチェック柄のエプロン姿が、鉄仮面の異名をとる冷徹な表情の夫とあまりにアンバランスである。 
二人がまだ結婚する前のこと、雪子が貴巳に料理を教えていた時期があったが、その時も同じエプロンを着け、真顔で黙々と作業する貴巳の姿に、雪子は笑いを堪えるのに苦労したものだった。 
「じゃあ、早速、いただきまーす!……えと、貴巳さん……?」 
「何だ」 
「そんなにじーっと見つめられてると……食べづらいんですが……」 
バニラとココアの市松模様になっている四角いクッキーを口に運ぼうとする妻の姿を、貴巳はまるで射殺そうとでもするかのような鋭い目線で注視している。 
「気にするな」 
「……気になるよぉ……で、でも、いただきます」 
おずおずと最初の一口をほおばって、雪子は驚きのあまり目を見張った。 
上等のココアのほろ苦さと、バニラとバターの芳醇な香り。歯ざわりはさっくりとしていて、口の中でほろりと崩れ、上品な甘さが後味になる。 
「……か、完璧……」 
感動に打ち震える妻の姿に、目の奥にほんの少し勝ち誇ったような色を浮かべ、貴巳が頷く。 
「す、凄いよ貴巳さん!すっごくおいしい!完璧!お店で売ってるのよりおいしいよ?」 
「それは言いすぎだろうが……今回初めて気が付いたんだが、洋菓子というのは分量がはっきりしていて、オーブンの温度や焼き時間がきちんと決まっているんだな。実に作りやすかった」 
図書館から借りてきたらしい「基本のお菓子〜はじめてさんから上級者まで」という分厚い料理本をめくりながらいう貴巳に、なるほど、と雪子が頷く。夫は、何にせよきっちりと手順どおりにやらなければ気がすまない性格の鉄仮面である。 
以前、料理を教えていたころには、「じゃあお醤油を大体このくらいと……お砂糖をざばっと入れてくださいね」などと言うと貴巳は眉をしかめて苦悩していたものである。 
大さじ小さじどころか計量カップでさえ滅多に使わない目分量の雪子と、分量をグラム単位で量りたい貴巳の料理センスの間には、深くて広い溝が横たわっている。 
と同時に、料理の得意なほうである自分が、今まで洋菓子に関してだけは苦手としてきた理由についても、改めて思い至った雪子であった。 
「私、いままでシュークリームとかスポンジケーキとか作ってもあんまり綺麗に膨らまなかったんだけど……きっと、分量しっかり計らなかったからなんだねぇ……」 
「……シュークリームもあるぞ」 
テーブルの上に、ごとんと音を立ててもう一枚大皿が乗せられる。 
見事にぷっくりと膨らみ、バニラビーンズたっぷりのカスタードクリームが溢れるほどに詰められたシュークリームが一ダースほど、皿の上に並んでいた。 
「え?シュークリームも作ってくれたの?それにこんなに沢山」 
「失敗したときの為に材料を多めに買っておいたんだが、思いの外上手くいったので余った。時間もあるし試しに作ってみたんだが」 
「ためしって……凄いよ!私こんなに上手に作れたことないよ?」 
「手順どおりに作っただけなんだがな。逆に何故失敗できるんだ?」 
夫の眼には、今や隠しようもないほどに勝ち誇った色が浮かんでいる。 
「……く、悔しい……」 
主婦としてのプライドが少なからず傷つけられ、わなわなと震えながらも、雪子の手は思わずシュークリームに伸ばされる。 
まぶしつけられたザラメ糖が香ばしい焦げ目をつけた皮は、さくさくとほどよい歯ごたえ。クリームは甘さを控えつつも、合成香料でない本物のバニラビーンズが惜しげもなく入っているせいでうっとりするような甘い香りを鼻腔に伝え、舌触りは絹のような完璧な滑らかさである。 
「……美味しい……すっごく、すっごく美味しい……」 
感動の余りなのか、無駄に手足をじたばたさせて悶絶する雪子を満足げに見やった貴巳の手には、更に大皿が乗せられていた。 
どかどかと並べられた皿を見て、雪子が絶句する。 
「貴巳さん……えっと、これも……?」 
粉砂糖が雪のように振り掛けられたガトーショコラ、くるみの入った焼き色の美しいパウンドケーキ、チョコチップやアーモンドなどの入った様々な種類のクッキー、生クリームの乗った苺のババロア。 
テーブルからはみ出しそうなほどの大量の菓子を前に、鉄仮面は腕を組んで頷いた。 
「あ、ありがとう……っていうか、貴巳さん……もしかして、お菓子作り、大好き?」 
「断じてそんなことはない」 
「……きっちり計量して作れるから楽しかったんでしょ?」 
「雪子に強引にねだられたから作っただけだ」 
「クッキーの材料の余りで、ババロアとか作れない気が……」 
「ごちゃごちゃ言わずに食べろ」 
妻の疑問を半ば力ずくで押さえつけ、貴巳は菓子の満載された皿を雪子のほうへ押しやる。 
「もちろん食べるよぉ、美味しそうだし!……けどこれ、二人じゃ食べきれなくない……?」 
「甘いものが好きなんじゃなかったのか」 
「好きだけど!嬉しいけど!貴巳さんあんまりお菓子食べないし、私一人で食べたら太る……」 
と言いつつも、既に一通りの菓子を取り皿に移し、幸せそうにもぐもぐと口を動かしている雪子である。 
「雪子は体型的に少しくらい太っても構わん。というか、もう少し太ったほうがいいくらいだ」 
真白な、か細い手首を掴んで貴巳は言い放つ。雪子は小柄なうえ、もともとの骨格からして華奢なのだ。 
「どうせ私は細くて色気ありませんよーだ……あ、明日職場に持っていったら?」 
「断る」 
鉄仮面の職場である市役所の企画部企画課の職員達は、好奇心旺盛で野次馬根性の豊かな賑やかメンバーである。 
貴巳が作った作った菓子など、彼らの格好の話題の源だろう。 
「あ、じゃあ、おじい様のところに持っていこうか?」 
「それも駄目だな。俺が菓子なぞ作ったと知れたら爺さんに何を言われるかわからん」 
「え?さっきお邪魔した時は、特に何も言ってなかったよ?」 
「……余計なことは言うなと口止めしたはずだが」 
「え?お菓子作ってるのって余計なことだったの?なんで?」 
全く悪気のない雪子に、貴巳は怒るのも馬鹿らしくなる。 
貴巳が子供の頃から、一緒に暮らしてはいても余計な会話など何一つ無かった、互いに無愛想な祖父と孫である。 
およそ今までのイメージとは程遠い姿に、祖父は一体何を思ったであろうとため息をつく孫息子である。 
クッキーや口いっぱいにババロアをほおばった雪子が、唇の端に生クリームをつけたままにっこりと笑う。 
「持って行ってあげたら、きっと喜ぶよ。……あ、おじい様といえば……貴巳さんに大事な話があるんだった」 
「……何だ?」 
改まった様子できちんと座り直し、自分に正面から向き合う雪子の様子に、ただならぬものを感じた貴巳は怪訝そうに聞き返す。 
「あのね、私たち、子ども作らなきゃ!」 
「……何だって?」 
 
 
 
 
 
一瞬、自分の耳が混線でも起こしたのかとありえない想像をして、貴巳はあっけにとられて聞き返した。 
「貴巳さん、赤ちゃん作ろうよ!って言ったの」 
俄かに眩暈を感じた貴巳が、それでも類稀なる理性の働きにより、テーブルの上の菓子類にラップをかけ冷蔵庫にしまいはじめる。 
この後に来る予想不可能な話し合いが、恐らくは長引くことを見越しての的確な行動である。 
貴巳が台所から戻ってくるのを待って、雪子が改めて説明を始めた。 
「今日ね、おじい様のところに伺って、昔のアルバム見せてもらったの」 
「……そうか」 
貴巳としては、昔の自分、そして順風満帆だったとは言えない家族の姿を雪子に見せるのは抵抗があったのだが、いつまでも妻に隠しておけるはずもないと、半ば覚悟していたことだった。 
貴巳が怒っていないことを確認するように様子を伺って、雪子が言葉を継ぐ。 
「それで、私がこんなこと言うのも失礼かもしれないんだけど……お母様は、きっと、すごく心残りだったと思ったの……それに、残されたおじい様もおばあ様も、その後すごく悲しくて……それに、貴巳さんを育てるのも、きっと大変だったんじゃないかな……と、思って」 
「ああ、それは俺も感謝している。子育てするような年齢じゃなかったからな。だが、それとこれとは別問題だ。雪子は子供を作らなければ恩返しができないとでも?」 
厳しい口調で言い返す貴巳に、雪子はやや怯んだ様子を見せながらも、きっぱりと首を振った。 
「ううん、もちろんそんな事言ってないよ。でも……」 
「でも、何だ」 
「……貴巳さんが産まれたときの写真……中嶋家の皆さんが、すっごく嬉しそうな笑顔で……写真見てる私まで幸せな気分になるくらい。こんなに嬉しいことって、きっと一生に何度もないんじゃないかなって……それで、お母様もおばあ様も間に合わなかったけど、ひ孫が生まれたらきっとおじい様、すごく喜んでくれると思ったら……」 
目尻に涙をためてそういい募る雪子に愛しさと苛立ちが入り混じり、貴巳は顔を背け、そっとため息をついた。 
「子供を作る、といっても……今までだって避妊はしていないだろう」 
「うん。前に、貴巳さんに言ったことあったよね?私、身体もちっちゃいし、すごく生理が不順だし、結婚して2年も経ってるのに赤ちゃんできないのはおかしいから、病院で検査してもらいたいって」 
今から半年ほど前に交わされたそのやりとりを、貴巳もはっきりと覚えていた。 
「ああ……でも」 
「うん。貴巳さん言ったよね。自然にまかせてできないものは、無理に治療をすることはないって。結果として子供ができなくても、自分は何一つ不足に思わないって、言ってくれたよね」 
貴巳の言葉を先取りした雪子が言い募る。 
「その時は、ちょっと残念な気もしたけど……でも嬉しかったの。赤ちゃんできない原因は多分私のほうにあると思うし、貴巳さん、きっと私のこと気遣って言ってくれてるんだと思った」 
いつものふんわりとした雰囲気とはうって変わって、まっすぐに強い視線を向けて喋る雪子の様子に、貴巳はあることに気づく。 
(自分が思っているより遥かに、雪子はこの問題について深刻に考えていた……?) 
 
「その時はね、貴巳さんだって本当は子供欲しくないわけじゃないと思ってたの。もし本当に欲しくなかったら、貴巳さんのことだもの、絶対に避妊してるはずだもん……でも……でも、もし……」 
揺れる感情をぎりぎりまで張りつめさせて、それでも穏やかに問う。震える声を無理に押さえ込んで。 
「もしかして……貴巳さんは、避妊する必要もないって……私のこと、子供産めない身体だと思ってるのかな、って……」 
「それは……そんなことは」 
無い、とは言い切れなかった。 
貴巳の頭の中に、いくつものもっともらしい言い訳が浮かぶ。 
しかし、目の前の幼い印象すら受ける妻の、真摯でまっすぐな眼差しを受け止めて、貴巳は覚悟を決めた。 
雪子は今まで隠していた不安を余さず曝け出し、自分の本音だけを待っているに違いない。 
それでも貴巳には、自分の本心を曝け出すことが屈辱であると感じずにはいられなかった。 
物心ついてから今まで、理性と理論の壁を自分の周囲に打ち立てて、ちっぽけな自分の世界を守ってきたのだ。 
しかし雪子と結婚して以来、いくつかの大きなすれ違いや諍い、なにげない日常のやりとりを経て、二人の間にあった見えない壁は、少しずつ薄く柔らかくなってきている。 
ひとえに、雪子の絶え間ない働きかけのおかげであることは、貴巳自身よくわかっている。 
いつも素直にまっすぐに、貴巳だけを見て太陽のように愛情を降り注いでくれた―例え、多少暴走気味の愛情であるとしても。 
 
話すしかない。 
 
―それは、今まで誰にも話したことなどなく、自分自身でさえあえて考えないようにしてきた、貴巳の最大といっていい矛盾であった。 
何かに怯えるかのようにそっと大きく息を吐いて、貴巳は語りだす。 
「俺は、ずっと雪子からこの事について深く追求されるのを恐れてきたんだと思う。 
初めて雪子を抱いた時、覚悟をしたつもりだった。今までの自分では家族を作ることなんて考えられなかったが、雪子が望むなら、これまでの自分の価値観を全て捨てても構わない、と思った」 
いつもの明晰できっぱりとした口調ではなく、低く、うろたえるように時折途切れる言葉。 
組んだ両手の指が、無意識のうちにいらいらと痙攣している。 
「だが……雪子と暮らすうち、段々と、自信が無くなってきた。 
俺は父親を知らん。身重の俺の母を置いて……いや、妊娠自体を知らずに離婚したということらしいが、それでも離婚するつもりの女を計画性もなく妊娠させるような輩の……その後の母や中嶋の家の苦労も知らずにのうのうと暮らしている奴の遺伝子を引いていることが我慢できないし、もし行方がわかったとしても顔も見たくないと、今でもそう思っている」 
「……貴巳さん」 
普段は口数が少ない夫の、こんなに長い独白を聞いたのは初めてのことであった。 
今まで貴巳がひた隠しにしてきた父への憎悪に触れ、言葉が見つからない雪子は、ただ、彼の名前を呼んだ。 
限りなく貴巳の核心に近づいている気がすると同時に、夫がどこか遠くへ行ってしまうようで― 
自分はここにいるよ、と、せめて伝えたかった。 
「たかみさん……」 
真綿のように柔らかい声音で呼びかける雪子に視線を返すこともなく、貴巳は、自分の心の澱の最後のひとしずくを搾り出し吐き出す。 
「子供のことも……以前は、嫌いというより、興味が無かった。手間はかかるし、理屈も通じんだろうしな。だが、雪子が望むなら父親としての義務はきちんと果たそうと思っていたし、できるつもりだった。 
しかし……雪子と暮らすうち、どんどん俺は変わった。 
不合理だと切り捨てて今まで省みもしなかった色々なことが……例えば、一緒に過ごす時間や、毎日の会話が……家族との一生を暮らすうちでどれほど大事なのかと、ようやく気づき始めたところだ。36にもなってだ。身体だけが大きな餓鬼みたいなもんだ。 
こんな俺が……人の親になんて、なれるわけがない。 
正直に言うと、俺は、心のどこかで、雪子が妊娠したと告げる日が来るのを……恐れていたんだと思う。 
だから、雪子が生理不順で、子供ができにくいらしいと分かった時……ほっとした。病院に行こうというのも止めた。自然にまかせるなんてもっともらしい言い訳をして、俺は逃げたんだ。卑怯だった」 
「……」 
 
重い、のしかかるような静寂。 
時計の針の動く音さえ響くように感じられる沈黙の中、うつむいた貴巳の頬を、小さな冷たい両手が包んだ。 
こんな情けない告白をして、雪子はさぞ呆れかえっているだろう。 
重い気持ちで目線を上げた貴巳の前に、その予想とはあまりにかけ離れた、ふんわりとした微笑を浮かべた雪子がいた。 
桜の花弁のような薄い唇をほころばせて、 
「うれしい」 
確かに、そう言ったのだった。 
 
「……嬉しい?何故だ」 
心底不思議そうに訊く貴巳に、雪子は小首をかしげながら言葉を探す。 
「んっとね……いろんな理由があるんだけどね、まず一つ目。 
貴巳さんが、私に、正直な気持ちを話してくれたことが嬉しいの。 
私なんて適当に煙に巻くのは簡単だろうけど、そうしないで、言いづらいこともちゃんと話してくれた。それがすごくうれしい。 
それで二つ目はね、貴巳さんが子供欲しくないのは、子供が嫌いだからじゃなくて、いいお父さんになる自信が無いからだってわかったのが、嬉しい」 
幼な子のように小さな、白い指を折って数える。 
「三つ目は……貴巳さんが、わたしに、よ、わい……よわい、とこ……見せて、くれたっ……あれ、ごめん……なんで私、泣いてるんだろうね……ふえっ、うぇぇぇぇぇ」 
言葉を紡ぎながら、雪子の両の瞳から零れ落ちる、真珠のような幾粒もの涙。 
子供のように泣きじゃくりながら、雪子は貴巳の胸に飛び込み、しっかりとその背中に手を回して抱きしめた。 
「ありがと……たかみさん、ありがとうね……」 
礼を言うのは自分の方だ、という言葉は、貴巳の喉の奥のほうで灼けるように熱くこびりつき、口にすることができなかった。 
代わりに貴巳は、力いっぱいに腕の中の華奢な身体を抱きしめた。 
 
暫くそのままの姿勢で抱き合っていた二人だったが、この夫婦には奇跡といってよいロマンチックな雰囲気がぶち壊されるのに時間はかからなかった。 
雪子がふいに身体を離し、流れる鼻水を手で必死に隠しながら慌ててティッシュの箱を探し出したからである。 
「な、なに笑ってるのっっ」 
溢れる涙や鼻水を拭った雪子が、顔を真っ赤にして貴巳をなじる。 
鉄仮面の異名をとる夫には稀な……しかし、最近目だって見せる頻度が上がっている凶悪な笑顔を浮かべた貴巳は、あろうことかくくく、と忍び笑いまで漏らしているのだった。 
「雪子は面白いな……」 
「またそういう事言う!貴巳さんの方が私より何百倍も面白いんだからね!」 
「……心外だな」 
「事実だもん!だから貴巳さんはすごくいいお父さんになれると思う!」 
「……なに?」 
高い敬遠球がいきなり凄い変化で内角低めを抉ってきたような、あまりの論理の飛躍に貴巳は面食らった。 
「あのね、さっきの話聞いてて思ったんだけど、貴巳さん、もしかして自分が、絵に書いたようなマイホームパパになれないだろうからって悩んでるんでしょ。子煩悩で、子供の写真を携帯の待ちうけにして、お休みの日には公園でキャッチボールして遊んであげるみたいな」 
「……」 
思いがけず核心を抉られて、貴巳が言葉に詰まる。確かに、彼の貧困なイメージの中の「良き父親」とはまさにそういう像である。 
「あ、図星だ。……あのね、一つ言わせて頂きますけどっ、貴巳さんがそんな風にいいパパになったら気持ち悪い」 
「……き……」 
あまりといえばあまりな言い分に頭痛を覚え、貴巳は頭を抱え込んだ。 
「今までは無表情だし目つきは悪いし何考えてるのかよくわかんなかった人が、子供産まれた途端にそんなふうになったら私は嫌だよ?そんな人と結婚した覚えはありませんので!」 
「じゃあどうすればいいと言うんだ」 
「簡単だよ。わからない?」 
にこにこと屈託のない笑顔で、雪子が愛しい夫を見つめている。 
「そのままでいいの。貴巳さんは、そのまんまで、すごく面白くて、優しくて、頼もしいひとなの」 
「……そんな事、あるはずが無い」 
呆れ顔で言う貴巳に、雪子はいたずらっぽい目を向ける。 
「だって……例えばの話だけど、もし将来おばあさんになった私が病気で寝たきりになって、食事も身の回りのこともおトイレだって自分でできなくなったら、貴巳さんどうする?」 
「……もちろん俺が世話するに決まってるだろう。仕事がある時間は他人に頼むかもしれんが、家にいる間は当然俺がやる」 
何を当たり前のことを、と怪訝そうに言う貴巳に、雪子はこれ以上ないほど嬉しそうな笑顔をはじけさせた。 
「だから、大丈夫だって!」 
「だから何がだ」 
「自分の手が汚れるのを嫌がらない人が、いいお父さんになれないわけないと思う!赤ちゃんて何もできないし、家の中は汚すよ?」 
「雪子の世話に限定しての話だ。赤の他人の世話は俺だって嫌だ」 
「だから他人じゃないでしょ?そこに赤ちゃんも入れて!お願い!」 
拝むように両手を合わせる雪子に、貴巳は呆れる。 
「お願いされてもだな……」 
「それに私達の赤ちゃんってことは、半分は私で、もう半分は貴巳さんでできてるんだよ?私と自分のお世話するのと同じようなものじゃない?」 
なんという飛躍した理論だ、とため息をついた貴巳だが、今まで感じたことのなかった浮き立つような気持ちが心の奥に芽生えているのもまた事実である。 
「私、見てみたいんだ……面白いよ?私と貴巳さんが混ざり合って新しい人が生まれるんだよ?それでどんどん大きくなって、おしゃべりして学校行ってお友だち作って大人になって、それでもしかして結婚してお父さんかお母さんになったりして!どんな子なんだろうねっ」 
「雪子、まさかそれが見たいだけじゃないだろうな……?」 
疑わしげな目で言う貴巳に、いたずらがばれた子供のような顔で雪子が肩をすくめる。 
「まさか本当に好奇心で……?」 
「ち、違うってば!いや好奇心ももちろんあるけど!顔はどっち似だろうなーとか、性格はどうなるのかなぁとか」 
実に楽しそうに空想をめぐらす雪子である。 
「……そういうのを取らぬ狸の皮算用というんだ」 
「こどもはタヌキじゃありません!」 
ぷうっ、とふくらませた雪子の白い頬を、貴巳は親指と人差し指で挟んで空気を抜いた。ぷすっ、と間抜けな音に雪子が噴きだす。 
何のツボに嵌ったのか、しばらくころころと笑い転げていた雪子が、ようやく起き上がって貴巳に向き直る。 
「と、いうわけでっっ」 
「何だ」 
「近いうちに病院に行ってきます!」 
「……」 
高らかに宣言した雪子に、貴巳は渋面を作った。 
「えっ、何?まだ何か気にしてるの?」 
「……病院というのは、産婦人科だな?」 
「うん、もちろん」 
「以前何かの本で見たんだが……婦人科の診察台というのは、なかなか凄い格好をさせられるらしい」 
「へえ、そうなんだ……まぁ……確かに、お医者さんって言っても、見せるのは恥ずかしい、けどね……」 
診察といえば当然、夫にしか見せたことのない秘部を医師にさらけ出すことになる。 
改めてそのことを想像し、顔を赤らめる雪子である。 
「やっぱり病院は駄目だな」 
「貴巳さん……?まさか、病院行かせたくない原因って、本当はそれ……?」 
「……」 
今まで自分が独占してきた雪子の身体を、医師とはいえ他人に見せてたまるか、という台詞は当然口には出さず、無言で威圧する貴巳に雪子が食い下がる。 
「じ、じゃあ、女のお医者さん!女医さんならいいでしょ?そういう病院探すから!」 
「……女医か……」 
(……女性ならいいのか、という問題だが……相手は医師だし、男性よりは遥かに……いや、しかし) 
「あ、いいこと考えた!」 
暫し熟考する貴巳の沈黙を破って、雪子は素っ頓狂な声を上げた。 
「何だ?」 
「病院行かなくてもいい方法が一つだけあるよ?……それは、今、作っちゃうことです!」 
「だから論理が飛躍していると何度も……」 
言いさしたが、目をキラキラさせて見つめてくる雪子の無邪気な表情に反論を諦めた貴巳が、雪子の身体を抱き上げてカーペットに押し倒す。 
首筋に唇を這わせると、暑くもないのにそこはほの赤く上気して汗ばんでいた。 
雪子の瞳はとろりと熱っぽく潤んで、貴巳を真っ直ぐに見つめている。 
雪子が囁いた。 
「貴巳さん……赤ちゃん、つくろ?」 
 
 
 
 
3 
 
重ねた唇が銀の糸をひいて離れる。口づけだけで体温の上がった雪子の、目尻に残る涙の跡を舐め取った貴巳が思い出したように訊く。 
「さっき……何故、泣いたんだ?」 
「なんでって……言ったじゃない、嬉しかったから!……たかみさんっ、が、……いつもより、いっぱい、お話ししてくれて……すごく、うれしかった、のっ……」 
「俺は日ごろそんなに喋らないか?」 
舌での愛撫に加え、ずり下げられた下着から淡い色の乳首をこね回されて、既に息が上がっている雪子が必死で応える。 
「うんっ……特に、えっちするとき、とか……全然っ、しゃべってくれなくって……わ、わたしばっかりっ……恥ずかしいんだからっっ」 
限界まで乱れさせられている最中、ふいに夫が冷静な目で自分の狂態をつぶさに観察していることに気づいて、死んでしまいたいほどの羞恥にさいなまれることもしばしばある雪子である。 
「もっと……いっぱい、しゃべって……たかみ、さんがっ、おもったこと、もっと……」 
「……そうか。わかった、善処しよう」 
あっさり頷いて、貴巳は雪子の胸元へ唇を這わせる。 
頂点にはあえて触れず、両手の指を駆使し、双乳をしぼりこむようにすると、雪子の背中がきつく反り返る。 
「雪子の胸は敏感だな。直接触らなくても、いつも下着を外すと既に乳首が尖っている」 
「……!!な、やっ、そんなっっ!」 
「最近は乳首だけで何度もいけるようになってきたな……気をやると、雪子の身体がさあっと赤くなるのが面白い。いきそうになるとそうやって顔を背けて、眉間に皺を寄せるんだ。普段は見せないいやらしい表情だ」 
両乳を、絶妙な力加減でこねくり回しながら言う貴巳の言葉に雪子は慌てた。 
「ち、違うよぉっ、実況してとかそういうことじゃなくってっっ」 
「思ったことを喋っているだけだが?ああ、乳首が更にしこってきたな。足にも力が入って震えている。そろそろいくんだろう」 
冷静な声音で淡々と自分の痴態を伝えられ、羞恥のあまり雪子はじたばたともがいた。 
当然、腰は貴巳にしっかりと固定されていて、逃げることはかなわない。 
「は、恥ずかしっ……これ、いつもより、はずかしいっ……よぉっ、だめぇぇぇ」 
「そうは言ってもいつも恥ずかしがりながら感じているからな……そうか、雪子は俺が喋ったほうが感じるのか。いいことを知った」 
一人納得する夫に、雪子は恨みがましい視線を向ける。 
「ば、ばかぁっ……んっ、あんっ……い、や、もう……あっあっあっあ……!!!」 
満を持してとばかりにぐりぐりとこね回されはじめた乳首から電流のような快感が全身に走る。雪子はあっさりと軽い絶頂に達してしまった。 
全身に汗が噴出して、乱れた前髪が額にはりついている様が非常に扇情的である。 
「……!!や、もうっ……駄目、そこばっかり……ああああ!」 
再び乳首を唇に含まれ、甘噛みされて、背筋をしびれさせるような快感に打ち震える。 
雪子は自分の中の女の器官が、どろり、と濃い液体を膣道へたっぷり送り出したのを感じて、無意識のうちに腰を貴巳に擦り付けた。 
もうとっくに溢れているそこに、早く触れて欲しい……もっと言えば、貫いて欲しい。 
雪子自身気づかぬ間に、子供を作ろうと彼女が決心したときから、子を宿す小部屋はうるみ膨れ、子種汁を流し込まれる準備を始めていたのだった。 
知らぬ間に準備の出来上がっていた身体は、些細な刺激にも過敏に反応し、きゅうっ、と膣奥をよじれさせる。 
「あっ……は、やくぅっ……もうっ、いいから……じゅんび、できてるからぁっ……」 
相変わらずねちっこく乳首を責め続ける夫に焦れて、雪子はついに自らねだった。 
「まだ駄目だ」 
しかし、その切ない懇願は貴巳にあっさりと却下される。 
「なんでぇっ……なんでしてくれないのっ……?」 
「雪子の膣は、はじめはこりこりして硬い感触なんだが、数回いかせてからだと吸い付くように柔らかくなってとても具合がいい。だからもう一度いかせるまでは入れない」 
膣。吸い付く。具合がいい。 
生真面目な夫の口から出たとも思えない淫語の数々。低く響く声は、雪子の耳から直接脳細胞をしびれさせた。 
「……っっっあああああ!!!」 
びくびく、と白い腹を波打たせ痙攣する雪子に、貴巳は僅かに眉をしかめて驚いた表情を見せた。 
「まさか、今のでいったのか?……言葉だけで?」 
「やっ、あっあっ、うそ、やぁ……だめ……」 
強い刺激を受けたわけでもないのに、自分の耳から入ってきた言葉だけで極みに押し上げられた。 
そんな自分が信じられない雪子だが、しかし身体のうずきは一向に収まってくれない。 
「もう一度いかせると言ったが、こんなに早いとはな」 
半ば呆れたような夫の口調に羞恥心を更に煽られ、はしたなく痙攣を繰り返してしまう。 
「やだぁ……言わな、でっ……そんなっ……」 
いやいやをするように首をふる雪子の足を、貴巳は大きく割り開いた。スカートを腰まで捲り上げると、白いショーツのクロッチの部分がべっとりと濡れ、色を濃くしている。 
そっと指でなぞっただけで、じゅわりと汁気が染み出した。 
貴巳の頭がそこに沈んだかと思うと、布越しに吸い上げられるような感覚に、雪子は悲鳴のような嬌声を上げた。 
「あっひゃぅっらめ、そんなっ、そんなのっきたないからっっだめっおねがいいやあああああ!!」 
「雪子の汁は、はじめのうち殆ど匂いが無くて透明だな。ぬるぬるしてローションみたいだ。それが中で何度もいくと、真白いべたべたする粘度の高い愛液が出てくる。これは凄くいやらしい匂いがして、指で掬って舐めさせると雪子の奥がもっとよく締まる。自分のを舐めて感じるのか」 
音を立てて蜜を啜りながら、器用にも喋り続ける貴巳の台詞そのものが雪子を犯す。 
ショーツの染みはどんどん拡がり、既に下着全体がぐっしょりと濡れそぼっている有様である。 
身をよじるたび、ほどよい大きさの、形のよい両乳が揺さぶられ、波打つ。 
きつくのけぞらせた顎から走る首筋、それに肩甲骨にかけてのラインが、激しい快楽に張りつめて美しい。 
「俺はリクエスト通り喋っているんだが……雪子もちゃんと、どうして欲しいのか言いなさい」 
そう冷酷に言い放つ貴巳の額にも、うっすらと汗が浮かび、瞳は情欲の色でぎらついてただならぬ興奮の証をしるしていた。 
既に洋服も下着も脱ぎ捨て、血管が浮き上がるほど猛る怒張が激しく自己主張をしている。 
時折太腿や腹を掠るその熱いたぎりの感触に身もだえして、耐え切れなくなった雪子が懇願した。 
「もっ……もう、ください、お……おちんちん……から、せ、せいえき……いっぱい……」 
涙目で、自分の両足を抱えてねだる雪子の媚態に、貴巳は満足げに頷いた。 
雪子の下着は剥ぎ取ることなく、クロッチの部分だけを横にぐいっとずらして、肉棒の先端を、既に充血して濡れながら花開いている淫裂に押し込んだ。 
 
入り口の輪状の筋肉が亀頭を締め付け、侵入を拒むかのようにきつく収縮する。 
しかし、ぬるんと音を立てて一番太い部分を飲み込んでしまえば、後は柔らかい幾重もの襞がぞわぞわと貴巳のものを舐めしゃぶるように蠢いて、奥へ奥へ、秘められた小部屋の入り口へといざなう。 
こつん、と先端が少し硬い肉の感触を伝えた。 
雪子がひときわ高い声を上げ、貴巳の胸にすがりつく。 
「凄いな……全部の方向から吸い付かれて引きずりこまれそうだ……この動きはわざとやっているのか?」 
「そんな……わけっ、ない……かってにぃ……あああ……っっっ!!」 
汗みどろの胸をあえがせて、雪子が首を振りたてながら幾度目かの極みを迎える。 
「あっ……あっ……あっ……」 
弱弱しくも艶めいた、途切れ途切れの喘ぎに合わせ、びくびくと規則的に肉筒が収縮を繰り返す。 
まるで赤子が母親の乳に夢中で吸い付くように、柔らかくほぐされた子宮口が物欲しげに鈴口を吸い上げた。 
身体を重ねるごとに成熟度を増し貴巳を楽しませる進化を遂げているような雪子のそこの感触に、軽く息を乱しながら、貴巳は小刻みに最奥を突き上げた。 
どろどろと止めどなく子宮汁を垂れ流し続けるそこを、トントントントン……と軽くリズミカルに、しかし執拗にノックしつづける。 
子宮ごと揺さぶられ続ける感覚に、神経が灼かれ、全身を掻き毟りたくなるほどの深い絶頂と、溢れるほどの多幸感が雪子を襲う。 
「いああああああ!!!きもちいい!!……っ、あああ……ど、どうしよぉ……、きもちいい、くる……すごいの、きちゃう……あー!あー!あああああああ!!!」 
理性を放棄して叫び、のたうち、唇の端から涎が糸をひいて流れる。 
雪子は既に一匹の発情期の獣でしかなかった。 
白いしなやかな身体の、淫らなけもの。 
まるで子宮の中まで肉棒を飲み込もうとするかのように腰を振りたくり、雄の精液を搾り取ろうと、膣壁ごとぞわりぞわりと蠢かして締め上げる。 
貴巳の肉槍も既に限界の太さ大きさへと張りつめて、最奥から入り口の襞の合わせ目までを激しくピストンした。 
カリの段差が雪子の真白で粘度の高い淫蜜を掻き出しては、繋がった二人の腹に火花のように飛び散らせ淫臭を振り撒く。 
鈴口に、ぱくぱくと物欲しげに口を開け閉めしている子宮口を自ら押し当て、ちゅうちゅうと吸い上げる雪子の淫肉。 
か細い両腕はしっかりと貴巳の背中に回され、二人の身体の境界までも溶け合わせようとするかのように、全身を貴巳に密着させる。乳首のしこり、暴れる鼓動、肉体のざわめきの全てを余すところなく伝える体勢である。 
既に連続絶頂に陥っている肉の器は、間断なくぷちゅぷちゅと襞を蠢かして雄肉をもてなす。 
度を過ぎた快楽に思考をとろかされ、熱にうかされたように焦点の合わない瞳。それが、胎内をかき回す貴巳自身が限界に近づき、ひときわ大きく硬くふくれあがったのを感じた途端、ふいに切実な色を浮かべ、はっきりと貴巳の顔を映した。 
「あああ!もう、もう……ほんとに……っあああ!!」 
最後の極みに上り詰めようとする雪子の耳元で、荒い息を必死に押し殺して、貴巳が囁く。 
「言えよ……どうして欲しいか。言ってくれ、雪子」 
快楽に翻弄され、散り散りになる思考のなかで、雪子はそれでもはっきりと頷いて唇を開いた。 
「ほ、しい……の、ちょうだい、せーえき……あっあああ……赤ちゃんのもと、いっぱい、ごくごくしたいよぉ……っ!!!あああ!!たかみさんっ、たかみさん、の、……あかちゃんっ、ほしいよおぉっっ!!!」 
「……っくぅっ……!!」 
ほとんど叫び声のような雪子の言葉の意味を理解すると同時に、貴巳も爆ぜた。 
 
子宮に直接、ポンプで勢いよく精液を流し込まれているような錯覚に陥り、雪子の子宮は喜びわなないて更に熱く痙攣を繰り返す。 
尿道に残る精液まで吸いだそうとするかのような動きで亀頭へまとわりつくと同時に、入り口のきつい輪状の締め付けもまた、射精を終えて尚硬さを失わない棒を咀嚼するかのように、くちゃくちゃと甘噛みを繰り返す。 
「うあっ……ひ、いあっ……あ……なに、これぇ……っ」 
まるで別の生き物のように雪子の意思とは関係なく蠢く秘部に、雪子が戸惑いの声を上げる。 
「あっ、うそっ……おわった、のにぃっ……うそ、うそでしょぉっっ……いくぅ、っ……!」 
名残の絶頂をきわめた秘口の、激しく淫棒をしゃぶりたくる動きのせいで、貴巳のものが胎内からにゅるん、と圧し出された。 
「あああ!!ああっ……あ……」 
苦しそうに大きく胸を上下させた雪子の身体が、ようやく安寧を取り戻し、ぜいぜいと荒い息をつきながらくたりとカーペットに沈む。 
クロッチの部分だけをずらされて行為に及んだため、下着は愛液と汗でぐっしょりと重く湿り、貴巳のものを抜き去られてなおその形のまま、ぽっかりと口を開けた雪子の秘裂をあらわにしている。 
貴巳が、暫しの間その感動的なほどに猥雑な光景を観察していると、雪子が切なげに声を上げた。 
「……あっ……」 
「どうした?」 
「……で、でちゃう……」 
顔を真っ赤にして、雪子が聞こえるか聞こえないかの声で囁く。 
何が出るのかと貴巳が訊く間もなく、雪子は慌てて両手の指で自らの陰唇を押さえた。 
「あっ……あっ、だめ……せっかく……せっかく出してもらったのにいっ」 
しっかりと押さえつけた指の間から、先ほど貴巳が射出した白い粘液が僅かに溢れ出す。 
「やぁっ……だめぇ……っ」 
涙目で自分の精液を胎内に留めようとする雪子の仕草に、少し柔らかくなっていた貴巳のものが、瞬く間に硬度を取り戻した。 
問答無用で濡れた下着を雪子の臀部から剥ぎ取ると、貴巳は妻の細い腰を掴んで身体をひっくり返し、痙攣して言う事をきかない雪子の四肢を支えながら四つんばいの姿勢をさせた。 
「……流れ出るのが嫌なら栓をしてやる」 
ぶちゅぅぅぅぅ、と前触れなく侵入してきた猛りが、うねる膣肉を掻き分けて再び子宮に押し付けられた。 
弾けるような水音をさせて、雪子の双肉と貴巳の下腹がぴったりとくっつく。 
「あ、あああ!!あああ!!!……きゃうっ……」 
限界まで押し込まれたまま、円を描くように亀頭で膣壁ごしに子宮をこじられる感触。 
太腿をがくがくと震わせて、雪子がひとたまりもなく極まった。 
ぬめりの多い雪子の分泌液とはまた違う感触の粘液が、膣内に塗り拡げられる。 
「っ……ああっ……わかる、わかるよぉ……たかみさん、の、せーえき……いっぱい……押し込まれてるよぉぉ」 
少しは体外へと圧し出されたが、まだ子宮口付近の膨らみに留まっていた残りの子種汁が、張りつめた亀頭でぐいぐいと子宮口へ塗りたくられ、捻じ込まれる。 
一番深く繋がる獣の体位で、本能を剥きだしにした雄肉に犯しぬかれている。 
理性のたがを外されて女としての悦びに恍惚とし、だらしなく開きっぱなしになった雪子の口から、ためらいもなくはしたない言葉が吐き出される。 
「あっ、いっぱい、いっぱいちょうらい……そこ、そこ好きぃ……っっ!!ああいく、もう、いくの……おわんない、いっちゃった、いっちゃったぁっ……すごっ、すごい、……しあわ、せぇっ……!!」 
思い通りにならない四肢を、それでも必死に動かして、貴巳のものを更に深く貪ろうと尻を突き出す。 
派手な水音が広いリビングに響き渡り、漂う淫臭をますます濃くしてゆく。 
「もっとちょうだい……あかちゃんの、もとっ……いっぱい、いっぱい……のむからぁっ……押しつけて、先っぽくっつけて……ぴゅっぴゅっってしてぇぇ!!」 
壊れたように卑猥な言葉を叫び続ける妻の痴態に、貴巳の限界もまた思いがけず早くやってきた。 
「っ、いくぞ……やらしい下の口、開けて全部飲め……!」 
パンパンパンパン、と雪子の身体全体が揺れるほど激しい突き上げの後、細腰を両手で掴んで限界まで自分の根元に押し付けながら二度目とは思えない量の精液がほとばしる。 
密着し逃げ場のない白濁液が、狭い子宮口をこじ開けてその先の臓器へと流れ込むのを、雪子ははっきりと感じられた。 
「あああ……っ、くふぅっ……あ、あかちゃん……できた、かなぁ……?」 
目尻を紅く染めて貴巳を振り返り、心配そうに問う雪子の頭を、貴巳は何も言わずによしよしと撫でた。 
その感触に安心したのか、雪子の意識もまた白く染められ途切れる。 
がくり、とうつぶせに崩れ落ちた妻の身体を仰向かせて、気のせいかやや膨らんでいるかに見える雪子の下腹部を、貴巳は愛しげにそっと撫でた。 
 
 
 
 
4 
 
翌朝。 
空気はまだ冷たいが、日差しは春の明るさを感じさせる良い天気であった。 
 
「あーーーーっっっ!!」 
寝坊をした雪子の代わりに朝食として手際よくスコーンを焼きあげ、会心の出来に一人頷く貴巳の耳に、悲痛な叫び声が届く。 
何事かと貴巳が声のした廊下のほうへ視線をやると、トイレのドアが開き、がっくりとうなだれた雪子が出てくるところだった。 
 
「……うう……」 
「……どうした?」 
理由はなんとなく予想がついたものの、一応貴巳は雪子に訊いた。涙目の雪子から返ってきた答えは、まったく予想通りのものだった。 
「……生理がきちゃった……」 
今にも涙を零しそうになっている雪子を脇に抱えこむようにして、肩をぽんぽんと叩きながら、貴巳は慰める言葉を捜す。 
「まぁ、気長にするしかないだろう」 
「……決めた」 
「……何をだ?」 
「貴巳さんが何と言おうと、私、病院行くからねっっ!!!」 
握りこぶしを固めて宣言する雪子の眼は完全に据わっている。 
もはや止めることも叶わないと悟った貴巳は、「……女医のいる病院を探さないとな」と頷いた。 
「その前に、昨日いっぱい作ってくれたお菓子を消費しないとね?朝ごはんの代わりにあれ食べようっと」 
甘いもののことを思い出して機嫌を直したらしい雪子が、貴巳に笑いかけた丁度そのとき、リビングの電話が鳴った。近くにいた雪子が「はい中嶋です」と受話器を取る。 
「はい……あっ武内さん、お久しぶりです!」 
武内とは貴巳の数少ない自称友人の一人で、鉄仮面の冷酷な扱いにもめげることのない図太い神経の持ち主だ。ちなみに並外れた大食漢でもある。 
彼の受け持っている現場の一つに貴巳たちの住んでいる市の施設があるため、以前よりちょくちょくこの家に顔を出すようになったのが貴巳には非常にうっとおしい問題である。 
「えー本当ですか!こっちにいらしてるんですね?大丈夫ですよ〜今からでも。あっお菓子がいっぱいあるんですよ、貴巳さんが作ってく」 
雪子と武内の会話は、貴巳の指が受話器のフックを押し下げたことによって断絶させられた。 
「もしもし……?もう!貴巳さんなんで切っちゃうのっっ!」 
「なんでと訊くまでもないだろう」 
眉をしかめる貴巳と、非難がましい目で見つめる雪子の耳に、今度は電話ではなくインターホンのチャイムの音が響く。 
電話のすぐ近くにある来客モニターに目をやると、そこにはひょろりと背の高い男性が、にこにこと手を振っている。 
「……来ちゃった(はあと)」 
武内である。 
 
「……モニターホンをつけていて正解だったな」 
応答せずに表示された画像をオフにすると、貴巳は満足げに頷いた。 
ちなみに、応答する前に来客の様子を観察できるこのモニターホンは、以前、貴巳の自称元愛人である鈴木操が雪子を丸め込んで自宅に上がりこんできたのをきっかけに貴巳が設置したものである。 
自らの判断の的確さをかみ締める貴巳の耳に、再びチャイムが鳴り響き、玄関前の画像が表示される。 
しつこいな、とうんざりした目と耳に飛び込んできたのは、 
「やっほー操ちゃんでーす!」 
カメラに向かって手を振る、かつてのセックスフレンドの姿であった。 
 
「……」 
「……まぁ、お菓子もいっぱいあるし、ね?」 
頭を抱える貴巳の横で、雪子がぽんぽんと夫の肩を叩いた。 
中島家のホワイトデーはまだ終わらない。 
 
 
 
 
 
 
 
 

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