2 疑惑 
 
 
 
「倦怠期じゃないんですか」 
あっさりとそう言い切った部下に、鉄仮面は焼き殺さんばかりに凶悪な視線をじろり、と送った。 
「確かに最近、雪子ちゃん何だか元気無いなぁと思ってはいましたけどね。特に悩みがあるとかは聞いてませんし、雪子ちゃんが私にも言えないことっていうと……まさか他の男とふりn、やだ、これ以上はちょっと課長の前では」 
わざとらしく言葉を切って口を押さえる、どう考えても状況を楽しんでいるようにしか見えないのは、貴巳の有能な部下であり、雪子の親しい友人でもある橋本あや女史である。黙っていればグラマラスな美女であるのに、口を開けば敬語で糖衣された毒舌のオンパレードだ。特に上司である鉄仮面に対しては、日ごろの仕事上のうっぷんを晴らす機会を常に虎視眈々と狙っており、今回のように貴巳から相談を持ちかけられるなどというのは絶好のチャンスだというわけだ。 
そうとわかってはいても、貴巳にはあやを頼るくらいしかもう手段が残されていなかった。 
 
どうもここのところ妻の様子がおかしい。雪子が病院から帰ってきて、食事も摂らず寝んだ日から、貴巳は内心、今までにない焦りを感じていた。当然、外面は今までと何ら変わりない無表情・無愛想・無口の鉄仮面のままであったのだが。 
今までならば雪子が何か隠し事をしていても自分にはすぐにわかったし、その隠し事自体も他愛も無いことばかりだった。しかし今度は少々勝手が違う。明らかに雪子は何か隠していて後ろめたい様子であるのに、原因が何かということが貴巳には全くわからないのだ。こんなことは結婚して以来、いや二人が出会って以来初めてのことである。 
貴巳は自分でも独占欲が強い方だと自覚してはいるが、だからといって流石に、妻のことならば何もかも知っている必要があると思っているわけではない。 
ただ、当の雪子が、日に日に悩み、なんとなくやつれていく様子であるのがどうしても気にかかる。 
かといって正面きって雪子に問いただしても、日ごろの素直さが嘘のように頑として、なんでもない、何の心配もないと言い張るのだ。 
認めたくはないが途方に暮れて、ついに橋本あやの知恵を借りる、というできるなら取りたくなかった手段に出た鉄仮面であった。 
 
「論外だな。雪子に限ってそれはない」 
言外に他の男の存在を匂わせる、明らかに貴巳をからかうのを楽しんでいる様子のあやに、きっぱりと貴巳は応えた。無論本心である。 
妻の性格、日ごろの言動などを考慮しても、夫を欺いて不倫に走るなどという芸当ができるわけもない。根っから素直で、小動物のように喜怒哀楽のわかりやすい雪子である。 
「私もそう思いますけど、でもこればっかりはわかりませんからね……雪子ちゃんお人よしで騙され易いし、押しに弱いし……それに昼間一人で家事ばっかりで寂しいんじゃないですか?優しく、かつ強引に言い寄られたら、ついぐらっと心が傾く、なんてことも絶対無いとは言い切れないなぁ」 
 
あやは、二人の出会いから結婚して今に至るまでの過程を一番良く知っている人物である。何だかんだと文句をいいつつも、二人の結婚を後押ししたキューピッドでもある。 
しかしあやは、雪子のことを少々同性愛の気があるのではと疑うほどに可愛がっており(実際に、雪子ちゃんみたいなお嫁さんが欲しい、というのが彼女の口癖だ)、的を射たアドバイスをするのと同じくらいの頻度で、二人の関係にわざと揺さぶりをかける悪癖がある。「可愛い可愛い雪子ちゃん」が生涯の相棒として選んだのが、いけ好かない鉄仮面だというのがいまだに気に喰わないらしい。 
「……絶対に無い。その点に置いて、俺は雪子を信頼している」 
「まぁ、私も雪子ちゃんが不倫に走ってるとは思いたくないですけどね……あと考えられるとしたら……最近、雪子ちゃん病院通ってるんですよね?それが精神的に負担になってるとか……あとはあれですよ、捨て犬を拾ってこっそり空き地に餌あげに行ってるとか」 
「与太話はいい」 
雪子ならありえなくはない、と内心思いながらも、部下の戯言を言下に斬り捨てる。 
「あ、そういえばこの間、雪子ちゃん窓口に来てたみたいですね。下まで来たんなら、ついでにここまで顔出してってくれれば良かったのに」 
「……雪子が?」 
「あれ?知らなかったですか?市民課の小野さんに聞いたんですけど。なんか申請に来てたって」 
「……」 
眉をひそめてなにやら考え込む貴巳を見やり、あやは小首をかしげた。 
「気になるなら、こっそりあとをつけてみればいいんじゃないですか?探偵みたいに。丁度いいから貯まってる有給消化したらどうです?」 
「俺はそんな姑息な真似はしない。どこかの誰かと違ってな」 
じろり、と鋭い目線を向けられて、あやが内心たじろぐ。 
成り行き上とはいえ、同僚の沢木と二人、こっそり貴巳と雪子のあとをつけた経験があるあやとしては、指摘されるのが痛いポイントである。。 
「まぁ、信頼してるなら暫く様子見てみたらどうですか?じゃ、私ジムに行く時間なんでこれで」 
珍しくあっさりと戦線放棄して部屋を出て行くあやの背中を睨みつけながら、貴巳は妻への疑惑がぼんやりと、少しずつ濃くなっていくのを感じていた。 
 
 
 
 
3 偽り 
 
 
 
「あれ?中嶋さん久しぶり!」 
背後から声をかけられて、雪子はびくっ、と飛び上がった。 
ばくばくいう心臓をなだめながら振り向くと、そこには雪子のかつての同僚である中年女性が微笑んで立っていた。 
平日午前中の市役所のカウンターは、それほど混雑してはいない。 
それにここは雪子が、貴巳と同じ企画課に配属される前に働いていた市民課である。 
知人に会う可能性の方が高いし、それを覚悟してきたにも関わらず、雪子の胸は早鐘のように鳴り、手のひらには汗がじっとりと滲んだ。 
「あっ小野さん、お久しぶりです。お昼休みですか」 
「うん、今日はちょっと早めにね。中嶋さんはどうしたの?」 
「ちょっと色々、謄本とか取りにきました」 
「え〜わざわざ来たの?同じ建物なんだからご主人に昼休みに取ってもらえばよかったのに」 
貴巳の勤務する企画部企画課は、ここ第一庁舎の7階である。 
二人の関係を知っている職員ならば至極当然の小野の反応に、雪子は内心、冷や汗をかきながら無理に笑顔を作った。 
「最近、忙しいみたいで……昼休みくらいゆっくりしてほしいですし」 
「偉いわねぇ、いい奥さんしてるじゃない。それじゃまたね」 
「はい、行ってらっしゃい」 
制服姿に「休憩中」の名札を付けた小野を見送ると、雪子はそっとため息をつき、記入途中だった書類へと再び目を落とした。 
一つ一つ、項目に不備がないか入念にチェックをする。市民課に配属されていたおかげで、こういった申請については一般人よりは詳しいが、それでも不安がないではなかった。 
番号札を取ると、ほどなくしていくつもある窓口のうち一つに、雪子の番号が呼び出される。 
窓口の担当が、自分の知らない若い女性職員だったことにほっとして、雪子はカウンターの椅子に腰を下ろした。 
「申請書を拝見します。戸籍謄本の附票を遡ってご申請ですね。本日こちらに申請にこられた方は……奥様ですか。何か身分を証明するものは……拝見します。……ありがとうございました。委任状と……捺印も抜けは無いですね。申請理由の欄は……相続関係の調査。謄本はご主人とお父様が筆頭者で……はい結構です。ご用意できましたらあちらの15番窓口で番号でお呼び出ししますので、手数料はそちらでお支払い下さい。ありがとうございました」 
事務的に手際よく必要書類を確認すると、その職員は雪子の顔もろくに見ずに頭を下げた。 
(ええっ、そんなに簡単に通しちゃっていいの……?父方っていっても苗字も違うし、もうちょっと色々質問しないといけないんじゃ……) 
つい現役時代の癖でそんなことを考える雪子だったが、とにかくも拍子抜けするほどあっさり申請が通ったことに安堵のため息をついた。 
職員の中には本当に必要なのか疑わしいほどに執拗に申請理由を聞くタイプの人間もいて、そういう職員に担当されたらどうしようと、雪子はびくびくしながらやってきたのだ。 
できれば自分の元職場で後ろめたい思いをしてまで申請したくはないのだが、本籍地でしか謄本は申請できない。父方とはいえ三十数年前に離婚した相手まで遡るには数度の申請が必要であり、郵送では時間がかかりすぎる。 
今回はたまたま、全ての関係者がこのO市に本籍を置いていたので、それほど手間取ることもなくスムーズに全てを取得することができたのは幸運だった。 
料金を支払って封筒を受け取る。実際よりもずしりと重く感じるその書類を、すぐに取り出して確認したいような、見ずにおきたいような、複雑な気持ちだった。 
これ以上知人に会うことのないように、雪子は逃げるように市役所を後にした。 
 
 
家に帰るまでのバスに揺られながら、雪子はまるでバッグの中に爆弾を抱えているような気分だった。 
ようやく自宅の鍵を開け、脱いだ靴も揃えずにリビングまで上の空で足を運ぶと、役所の封筒から恐る恐る数枚綴じの書類を取り出して胸に抱える。目をつぶったまま幾度か深呼吸をして、思い切って瞼を開いた雪子は、そこに見知った名前があることを認め、目の前が暗くなるような感覚に囚われた。 
 
貴巳の父の名は、瀬尾由貴(よしたか)。 
現在の配偶者は、千鶴。 
 
半ば確信していたこととはいえ、やはり戸籍という圧倒的現実を突きつけられると動揺せずにはいられない。 
幾度か深呼吸を繰り返し、震える手でそっとページをめくると、雪子の目は謄本の一点に留まった。 
瀬尾が、貴巳の母である碧と離婚した年月日。ほどなくして千鶴と再婚している。 
何度計算してみても、彼らが離婚したのは、貴巳が産まれて1歳半ころのことであるらしいのだ。 
貴巳の説明―彼の父母は、彼が生まれる前に離婚した―とは、どう考えても食い違う。 
 
何故だろう……雪子は首をかしげ、ふと一枚の写真のことを思い出す。 
貴巳が産まれたばかりの産院での写真。母である碧の手首に巻かれていた名札には、確かに瀬尾、と書いてあった。 
間違いなく、そのころにはまだ二人は離婚していなかったのだ。 
 
何故、彼の母は、そして恐らく祖父の総二郎も一緒に、貴巳にそんな嘘をついていたのだろう。 
混乱の余り眩暈を覚えて、雪子はソファに崩れるように座りこんだ。背もたれに頭を預け、目を閉じる。 
あまりに色々なことが一度に襲い掛かってきて、ぐるぐると頭の中でうねりを上げている。 
(貴巳さん……お父さんのこと、憎んでる、よね……) 
数ヶ月前、いつもは無口な夫が、実の父親への気持ちを余すところなく吐露したことがあった。 
―無責任で、離婚後の中嶋家の苦労も、病気で若くして亡くなった碧の無念も知らず、のうのうと暮らしているような男。 
そんな輩の遺伝子を継いでいることが我慢ならない―と。 
そして、父を知らない自分が、雪子との間に子供をもうけることへの不安。 
瀬尾と貴巳の関係に気づいてから、幾度となく思い返す、夫のその言葉。 
雪子はここ数日繰り返した問いを、また自らに問い直す。 
(調べようとすればすぐに調べられるお父さんのことを、今まで貴巳さんは知らない……知らないのは嘘じゃない、と思う……何となく。 
きっと、本当に知りたくないんだ。だから私と婚姻届出すときも、自分の謄本を見ようともしなかったんだ。 
そんなに頑なに知りたくないと思ってることを……私がこんなふうに、勝手に穿り返していいのかな……いいわけないよね。でもこのままじゃ……どうしたらいいんだろう) 
 
このまま何も知らない振りをして忘れてしまった方がいいんだろうか…… 
もう病院でも二人に会わないように、通院の予定をずらして。 
その方が、夫は幸せなのだろうか。 
 
 
「みいちゃん」 
耳の奥に、千鶴の声が蘇る。 
あどけない口調で、にこにこと雪子の手を握って離さない、67歳の幼女。 
そして徐々に記憶の消え行く彼女を、時折自分の顔さえ忘れられてもなお、支え、献身的に世話をする由貴。 
先行きの見えない二人の間に、流れる穏やかな空気。 
 
 
そして思い返す。病床にあった貴巳の母の最後の写真。 
やせ細った手で幼い貴巳の肩を、すがるように抱いて、それでも微笑みを絶やさなかった碧。 
 
 
雪子はソファの上で自分の両膝をかかえ、膝頭に目をこすりつけた。 
理由は自分でもわからぬまま、ただ涙が溢れて止まらなかった。 
 
 
 
 
4 転機 
 
 
どんなに考えても結論は出ない。 
 
見慣れた病院のロビーで、雪子はうつむいたまま、千鶴の手を握っていた。 
貴巳とその父の問題に、もう一歩踏み込む勇気も、何もかも忘れて二人にもう会わない決意もできぬまま、次の通院の予約の日を迎えてしまった。 
自分一人の胸にしまっておくには重過ぎる荷物だったが、誰かに相談したいと思ってもそれはできない。 
いつもならば、何か悩みがあれば自分の母親や、頼れる友人である橋本あやに真っ先に相談する雪子であっても、貴巳のプライバシーに関わる事をそう易々と同僚に明かすこともためらわれたし、母親の美紀子はそもそも貴巳と相性が悪く、会えば鋭い目線と刺々しい会話を交わしている有様であるから、的確なアドバイスは期待できない。 
そうなると貴巳の親族だが、唯一の家族といえる祖父の総二郎に相談することも、やはり雪子にはできなかった。 
総二郎からすれば瀬尾は、可愛い一人娘と孫を捨て、さっさと他の女性と再婚した憎い男のはずである。 
赤ん坊だった貴巳と違い、記憶がはっきりと残っている分、もしかしたら貴巳よりも強く瀬尾を憎悪していることも充分に考えられた。 
そんなわけで誰にも重荷を分かち合ってもらえずに、雪子の気分はまるでロードローラーに轢かれたようにぺしゃんこだった。 
 
気の重い診察も、今日は上の空だ。足取りも重くロビーに向かった雪子だったが、いつもの場所に瀬尾夫妻の姿が見えず、今日はもしかしたら通院を取りやめたのかと半ば安堵する。 
ほっと息をついたのもつかの間、聞きなれたか細い声が近づいてきた。 
「みいちゃん」 
その、鼓膜の内側をくすぐるような響きに、雪子は刹那、目を瞑って震えた。 
呼吸を整え、ゆっくりと振り返ると、そこにはいつものように一人で車椅子をこいできたらしい千鶴が、少しやつれたような顔でそれでもにっこりと笑っていた。 
今にも上ずりそうになる声を必死で平静なトーンに取り繕って、雪子は千鶴に語りかける。 
「千鶴さん、こんにちは。……あれ、そのパンどうしたの?」 
千鶴の膝の上には、メロンパンが一つ、袋に入ったまま置かれている。 
自分で袋を開けようとしてうまくいかなかったのか、中身は潰れてもみくちゃになっていた。 
「パン……」 
開けてくれという意味らしく、千鶴は雪子に袋を差し出す。 
しかし千鶴の認知症について瀬尾から聞いている雪子は、素直に食べさせてよいものか逡巡した。 
放っておけば、千鶴は満腹感も忘れ、いくらでも食べてしまうらしいのだ。 
「千鶴さん、このパンどうしたの?ご主人が食べていいって言った?」 
ゆっくりとそう尋ねても、千鶴は聞こえていないかのように早く開けろとせがむ。 
困った雪子が首を傾げていると、背後から、貴巳によく似た、しかし口調は別人のように穏やかな声が聞こえた。 
「ああ、千鶴さんまたご迷惑をかけて。どうもすみません」 
その声を聞いた途端、雪子の心臓が跳ねる。 
ばくばくという鼓動を深呼吸して収めようと努力しながら、雪子は振り返り……そして驚きの声を上げた。 
「瀬尾さん!どうなさったんですか?!」 
両手に松葉杖をつき、更に片手にビニールの袋を下げた瀬尾は、一瞬面食らったような顔をしたが、自分の足元に目線をやって頷き、口を開いた。 
「いや、お恥ずかしい話なんですがね、この間、自宅の階段を踏み外してしまいまして……ほんの数段なんですが、寄る年波には敵いませんね、靭帯が傷ついてしまったんですよ」 
見ると確かに、右足に痛々しくギプスが巻かれている。 
「ええっ、大変じゃないですか!……ここまでどうやっていらしたんですか?」 
瀬尾の手の荷物を受け取り、ロビーの椅子に腰掛けるのに手を貸しながら雪子は、ここ数日の戸惑いもつかの間忘れて尋ねた。 
「介護タクシーというのがあるので、それを頼んで何とか。薬がないとこの人が夜、眠れないもので」 
説明しながら瀬尾は、千鶴の持っていたパンの袋を開け、中身を手渡してやる。 
ぐずっていた千鶴は、まったく幼児のような夢中さでメロンパンにかじりついた。 
「……でも、杖をつきながらじゃ車椅子も押せないでしょうし……お食事とか、お買い物なんかはどうされてるんですか?」 
「まぁ……ほら、この病院の売店で色々と買えましたからね。それで何とかなるでしょう。ヘルパーさんに家に来てもらうことも考えたんですが、色々と介護保険のややこしい手続きがあって、すぐにという訳にもいかないみたいですしね」 
言われて雪子は瀬尾の下げてきた重そうなビニール袋に目をやった。ペットボトルのお茶やおにぎり、菓子パンなど、あまり栄養があるとは言い難い食品が詰まっている。 
家政婦派遣所に頼めばすぐに来てくれますよ……そう言いかけて、雪子は口をつぐむ。瀬尾と千鶴の身なりを改めて見れば、洋服も車椅子も古びていて、お世辞にも生活に余裕があるとは見えない。保険を使わずに自費で家政婦を頼むとどのくらいの費用になるのか、雪子には見当もつかないが、二人がそう気軽に払える金額ではなさそうだった。 
「あの……よろしかったら、私、お手伝いします。お買い物とか食事の支度とか」 
自分でも意識しないうちに、雪子の口からその言葉が零れ出ていた。 
「えっ?……いや、そんなわけには。大丈夫、お気持ちだけで充分有り難いですよ」 
「でも、失礼ですけど、ご自分で杖で歩くだけでもお辛そうじゃないですか……お宅はこのお近くなんですよね?すぐ済みますから、お手伝いさせて下さい」 
「いやいやそんなご迷惑はかけられませんよ。よくお会いするとはいえ名前も知らないお嬢さんに……」 
言われて雪子ははっと息をのむ。 
「そういえば私の名前をよくご存知でしたね?家の場所も?……ああ、そういえば車椅子に書いてあるんでした」 
一瞬どきりとした雪子に気づかず、瀬尾は一人合点して頷く。 
「ええ、そうなんです、すみません勝手に拝見しまして……あの、申し遅れました、私、な……いえ、橘、雪子といいます」 
中嶋、と名乗りそうになる寸前で気づいた雪子は、咄嗟に旧姓を名乗る。 
「橘さんか。いや、もう本当にそんなお世話になるわけにいきません」 
「いいえ、これも何かのご縁ですから……それに、いつも千鶴さんに声をかけて頂いて、何だかずっと前から知り合いだったような気がしてるんです」 
慣れない嘘を重ね、鼓動は早鐘を打ち、火が出そうになるほど頬を火照らせていても、その部分だけは雪子の本音であった。顔と膝の上をパンくずだらけにして一心不乱に食べている千鶴を見ると、言いようのない切なさに胸を締め付けられる。 
「このままお別れしたんじゃ、私の方が心配で仕方ありません。どうかお手伝いさせて下さい」 
千鶴の肩に手を置いて、雪子は瀬尾に頭を下げた。 
 
 
 
5 発覚 
 
 
それからというもの、雪子の逡巡をよそに、一週間があっという間に過ぎた。 
貴巳が出勤してから、二日に一度、大急ぎで家事を済ませた雪子は瀬尾家に向かう。 
前回訪問した際に聞いておいた、食料やこまごまとした日用品の買い物を済ませ、瀬尾家で調理と下ごしらえをする。時間が限られているので簡単な料理ばかりだったが、瀬尾は家庭の味だと言って悦び、千鶴も、瀬尾の言うことには普段よりよく食べるとのことだった。 
材料費を受け取るのを最初は遠慮した雪子だったが、瀬尾はそこだけはと頑として譲らなかった。瀬尾の心情を思えばそれも当然かと、雪子も受け入れることにした。 
そうして老夫婦の生活を垣間見てみると、二人の暮らしぶりは、やはりお世辞にも豊かと言えるものではなかった。 
 
雪子はお嬢様育ちとはいえ、高校生のころからは父を亡くし、母と二人で質素な暮らしをした経験もあり、ごく庶民的な金銭感覚を持ち合わせている。しかしそんな雪子から見ても、瀬尾家の家計にゆとりがあるようには見えない。 
家屋は貴巳の実家にも劣らぬ古い建物で、屋根は錆び、壁のペンキは半ば剥がれ落ち、歩けば床が軋んで沈みこむという、住むにはかなり不便な傷みようだ。 
聞けばここは、もとは千鶴の実家であったのだという。千鶴の両親が亡くなった後、長く空き家になっていたところに、今年になって二人が戻ってきたということだ。 
どういう訳でわざわざこの古い家に戻ったのか、そこまでの事情は雪子には聞けるはずもなかったが、恐らくは千鶴のためであろう、ということは瀬尾の様子から窺い知ることができた。 
 
千鶴は、昔自分の部屋だったという座敷で足を投げ出して座り、古い人形を相手に、ままごと遊びでもしているつもりなのか独り言をつぶやいている。周りなんて気にしていない様子であるのに、ほんの僅かの間でも瀬尾の姿が見えなくなると「どこ?お父さんどこ?」と不安そうに声を上げる。「お父さん」というのが、瀬尾を伴侶として認識してのことなのか、それとも自分の父親だと思っているのか、瀬尾にもよくわからないらしい。 
瀬尾が戻ってくると、決まって今度は「おかあさんはどこ?おねえちゃんは?」と、自分の家族の居場所を彼に尋ねる。既に故人であるが、そう言っても千鶴は納得しない。瀬尾は穏やかに「今出かけているけど、もうすぐ帰ってくるよ」と言い聞かせるのだ。このやりとりを、一日に何十回も繰り返す。 
旧式の台所で料理した数々の惣菜を保存容器に移しながら、雪子は改めて、瀬尾の千鶴に対する献身に感銘を受けずにはいられなかった。瀬尾自身、怪我は別としても、顔色もあまり良くないし、たまに息切れがするらしく肩で息をしていることがある。自分の身体のことを構う暇もないほどの日常なのだと、彼ら夫婦を見ていればよくわかった。 
精神年齢が幼児にまで退行している千鶴は、自分の言うことを否定されれば、枯れ枝のような身体のどこからと呆れるほどの力でだだをこね暴れる。それを瀬尾は決して叱らず、たとえ殴られても穏やかに語りかけ、頭を撫でて、諭すように時間をかけて落ち着かせる。 
幾度となくそんな光景を目にして、雪子には本当に彼が、その来歴からイメージされる「妻と幼い息子を捨てて他の女性に走った無責任な男」などというものなのだろうかと、落ちつかない思いにとらわれるのであった。 
 
 
 
 
その日は、唐突にやってきた。 
いつものように貴巳を送り出し、家事もそこそこに瀬尾家にやってきた雪子はインターホンを押した。 
「こんにちは、雪子です」 
そう告げると、玄関の奥で物音が近づき、鍵が開く音がして、瀬尾が穏やかな笑顔を覗かせる。 
目を合わせた二人が口を開く寸前、力強い掌が、雪子の肩を後ろから掴んだ。 
「何をしてる、雪子」 
射るように鋭い眼光の鉄仮面がそう尋ねるのと、 
「橘さん、いつもありがとう」 
瀬尾がそう呼びかけるのが殆ど同時だった。 
「……橘?」 
眉をひそめた貴巳が、雪子の顔と、玄関から覗く男性の顔、そして「瀬尾」と書かれた表札に素早く視線をめぐらせる。 
「……どうして……仕事、じゃ……」 
手の平で口を押さえた雪子は、血の気の引いた顔で、今まで見たこともないほど厳しい顔つきをした夫を見上げた。 
「橘さん……どうしたんですか?そちらは……」 
異変を察して玄関から、片足を引きずりながら出てきた瀬尾は、自分を睨みつけている人物の顔を凝視する。はじめ訝しげだったその表情は、ゆっくりと、確実に、驚愕の色を深めていく。 
永遠にも思える、しかしほんの数秒の沈黙の後、搾り出すような声で、瀬尾が尋ねた。 
「君は……中嶋、貴巳くん、か」 
「……だとしたら、何だというんです。……帰るぞ、雪子」 
「貴巳さんっ……ま、待って……瀬尾さん、ごめんなさい!ごめんなさい……私、わたし」 
強引に手を引く貴巳に必死で抗って、雪子は悲痛な声を上げる。 
手に持っていたスーパーの袋を、目一杯腕を伸ばしてようやく、困惑し言葉の出ない様子の瀬尾に手渡した。 
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」 
もはや自分が瀬尾に謝っているのか、貴巳に謝っているのか、雪子にはわからなかった。 
強い力で車に押し込まれてからも、雪子は顔を覆ってすすり泣きながら謝り続ける。 
 
貴巳が車のドアを閉める刹那、瀬尾の家の中から微かに、千鶴が呼ぶ声が聞こえたような気がした。 
 
 
 
 
「説明してもらおうか」 
家に帰る間、一言も口をきかなかった貴巳が、ダイニングテーブルで雪子と向かい合わせに座り、重々しく口を開いた。 
今まで、雪子には一度たりとも向けられたことのないほどに冷たい、抑揚の無い声だ。 
「……ごめんなさい……本当に……」 
「謝っているだけではわからない。どうして雪子が、俺に何の相談もなくあの家に通っているのかと聞いている」 
貴巳にこれほどの怒りを向けられたことなど一度もなかった雪子は、その冷酷さに身を縮ませた。 
「貴巳さん……瀬尾さんのこと、知ってたの……?」 
「知りたくもないが、名前だけはな。だが雪子に教えたことはないはずだ。なぜ知っている」 
「さ、最初は……偶然だったの……病院で、千鶴さんに声をかけられて……」 
「千鶴?」 
「……瀬尾さんの、奥さん。若年性の認知症なの」 
その返事で、貴巳の身体から発せられる威圧感が更に増したのを感じて、雪子はとても目を合わせることなどできず、うつむいたまま震える声を紡いだ。 
「それで……病院に行くときはいつも会うようになって……親しくなって……」 
「何故、気づいた」 
主語を省略した問いではあったが、その意図するところは当然雪子にも理解できる。 
貴巳と瀬尾の親子関係に気づいたきっかけは何かということだ。 
「……名前がね……昔の、おじい様に見せてもらったアルバムの、貴巳さんが生まれたときの……そのとき、お義母様の手首に巻かれてた名札に、瀬尾って……」 
「……まさか、それだけで気づいたわけじゃないな?」 
いささかも追求の手を緩めることなく貴巳が詰問する。 
その声音の重さに、雪子の身体はいちいちびくりと反応した。 
「……こえ、が」 
「声?」 
「似てたの……声が。貴巳さんと……瀬尾さんの」 
「……」 
うつむいていても、自分の前髪のあたりを鋳溶かさんばかりの厳しい視線を感じ、雪子は一層身を縮ませた。 
「それで、もしかしたら、って……」 
「俺に内緒で謄本まで申請して確認したわけか」 
言われて初めて雪子は、弾かれたように顔を上げた。 
「……知ってたの……」 
「最近雪子が悩んでる様子なのは当然気がついた。何か隠しているだろうというのもわかっていた。 
原因については見当もつかなかったが、気になる話をたまたま耳にしたからな。まさかと思って後をつけてみれば……」 
「ごめんなさい……勝手なこと、して」 
「勝手にもほどがある。家にまで入り浸って、これからどうするつもりだったんだ?」 
「ごめんなさい……そんなつもりじゃなかったの、本当に……もう、会わない方がいいのかもって思ってた……でも、瀬尾さんが怪我されて、千鶴さんの介護が本当に大変そうで」 
「……同情したっていうのか。お人よしにも程があるな」 
冷たい声音でそう斬り捨てられて、雪子は涙を滲ませながら首を横に振った。 
「それもあるけど……やっぱり、このままにしちゃいけないと思ったの……貴巳さんと、お父さんのことが」 
「俺に父親はいない」 
雪子の言葉を断ち切って、貴巳がそう吐き捨てる。 
「それは……今まではそう思ってたかもしれないけど……」 
「今までも、これからも変わりない」 
「貴巳さん……お願い、一度だけでいいの、ちゃんと瀬尾さんとお話しして」 
勇気を振り絞って雪子がそう懇願する。貴巳が目の奥をぎらりと光らせて立ち上がり、テーブルに両手をついて雪子のほうへ上半身を乗り出した。かつて雪子が見たこともないほどに、鋭い怒りをこめた視線が彼女を射抜く。 
「話すことは何もない……これ以上この話を続けるのか?」 
「……っ……だ、だって……瀬尾さんと、お義母様のことで、貴巳さんが知らないこと、いっぱいあると思う……それを知ったら、もしかして瀬尾さんのこと」 
「ふざけるな……俺はそんな事情は知りたくない、と言ってるんだ。あいつの名前を思い出しただけで虫唾が走る。今まで俺たちのことを知らん振りをしてきたんだから、お望みどおり死ぬまで一切関わらずにいてやるさ。母が妊娠したことすら知らないと聞いていたが、しっかり俺の存在は知っていたようだったしな」 
「……黙っててほんとにごめんなさい……あのね、戸籍で見たんだけど、お二人が離婚したのって、本当は……貴巳さんがまだ赤ちゃんのころだったみたい。だから、貴巳さんのことがわかったんだと思う」 
雪子がおずおずと、申請した謄本の綴りを貴巳に手渡す。 
その一部分を穴があくほどに凝視した貴巳は、ぐしゃり、と紙束を握りつぶした。 
「……子供がいると知らずに離婚したなら、ただ無責任でおめでたい男で済んだのにな。赤ん坊と妻を捨てて、しかも離婚してすぐに別の女と再婚してるだと?屑過ぎて反吐が出る」 
「……」 
これほど貴巳が怒りを露にしたのを見るのは初めての雪子は余りの剣幕に黙った。 
貴巳の怒りももっともだ、と思うけれども、しかしあの老夫婦の生活を見てしまっては、貴巳の意見にすんなり同調することもできなかった。 
「雪子はまさか、これを見ても、俺とあの男がちょっと話をすれば和解してめでたしめでたしになるなんて本気で思ってるのか?」 
「そんな……そんな単純なことじゃない、っていうのは解ってるけど……」 
 
不気味な静寂。そして次の瞬間。 
 
「……解る?何をだ?俺の母が……あの陰気な病室で、どれだけ絶望して死んでいったかわかるのか?残された中嶋の祖父母がその後どれだけ苦労したのかわかるのか……?」 
「……っ」 
決して、理性を手放した怒声などではない。 
低く低く、身体全体を打ち据えるような質量を持った言葉。 
雪子の心臓は早鐘をうち、全身が震えて言葉が出ない。 
それきり二人は押し黙り、息苦しいと錯覚するほどに重たい空気がリビングを支配する。 
膝の上で硬く握られた雪子の手の甲に、ぽたり、ぽたりと雫が音をたてて落ちた。 
「……っご、ごめっ……ごめ、ん、なさ……」 
嗚咽混じりに言う雪子から目線を逸らし、貴巳は黙って部屋から立ち去った。 
残された雪子はただ、誰の為かももう解らない涙を溢れさせることしかできなかった。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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