6 夫婦喧嘩 
 
 
 
こんなに長いこと、貴巳と目を合わせないのは初めてだと、雪子は暗澹とした気分でため息をつく。 
 
瀬尾のことで言い争いをしたあの日から一週間が過ぎようとしている。 
あえて二人ともそのことに触れないようにしているのだが、ぎくしゃくとした空気はいかんともしがたく、ろくに会話も、目を合わせることすら殆どない日々である。 
雪子は何度も、あまりの重苦しさに耐えかねて再び話し合いをしようとしたのだが、その度に貴巳の、今まで一度も聞いたことのない重暗い声音を思い出し、問題を口にするのをためらっていたのだ。 
このままではいけないと、恐らくは貴巳も思っているはずだ。 
わかってはいても、問題の決着をどうつけたら良いのか、二人には糸口さえつかめていなかった。 
 
 
雪子は、冷ました煮物をつめたタッパーの蓋を閉めて、保冷材と一緒にバッグに入れた。今は二人に関わってはいけないと思いながらも、どうしても二人のことが心配でたまらず、瀬尾家の玄関先に置いてくることにしたのだ。 
夕方、どうなったかとそっと覗きに行くと、弁当は持っていったバッグごと、手付かずで置かれていた。 
中に入っていた瀬尾の「本当に申し訳ない。どうかもう私達のことは忘れて下さい」というメモを握りしめ、雪子はうなだれて家路についた。 
とぼとぼとバス停まで歩く雪子の背後で、クラクションが鳴らされる。 
 
驚いて飛びのくと、人のよさそうなえびす顔が車の窓から雪子に向かって手招きしていた。 
「雪子ちゃん、どうしたの」 
それは彼女の母親、美紀子の再婚相手で、つまりは雪子の義父である、坂井義之であった。 
 
 
「遠慮せずにどんどん食べてね」 
連れられてきた喫茶店で、目の前に置かれた巨大なフルーツパフェに圧倒されながら、雪子は引きつった顔で頷いた。 
コーヒーだけで良いと言ったのに、この顔に似合わず少女趣味な義父は、「だめだめ、女の子にはやっぱり甘いものが似合うからね」と、勝手にウェイトレスを呼び「ブレンド二つと、このスーパーメガ盛り乙女パフェ一つね!」と元気よく注文してしまったのだ。 
果たして食べきれるのだろうか、と危惧しながらスプーンを手にする雪子を、坂井はこれ以上ないほど幸せそうな目で眺めてニコニコしている。その表情を崩さぬまま、 
「雪子ちゃん、何かあった?」 
前触れ無く坂井にそう聞かれて、雪子は危うくむせて生クリームを噴出すところだった。 
「……えっ?な、何がですか?」 
「いや、雪子ちゃんが元気なさそうだからね。何か悩みでもある?坂井パパに話してみない?」 
「な、悩みは……正直言って、あります。でも……」 
「どうしたの?大丈夫、美紀子さんには内緒にするからね?安心と信頼の坂井パパです」 
久しぶりに耳にする妙な一人称に、雪子は思わず頬をゆるめる。 
この義父は、雪子に、自分のことをお父さんと無理に呼ばせようとしたことは一度もない。ただ、苗字で呼ぶのもあまりに他人行儀だということで、彼が勝手に編み出し、そして家族で彼以外誰も使っていない呼び名なのであった。 
「んっと……例えば、たとえばですよ?……坂井さんが、母と喧嘩したとしますよね?」 
「うんうん」 
身を乗り出して熱心に耳を傾ける坂井の様子に励まされて、雪子は言葉を捜す。 
「普段だったらすぐ仲直りできるのに、今回はちょっと、相手の絶対触れてほしくないところに踏み入っちゃって、ものすごく喧嘩がこじれちゃったとします」 
「うんうん」 
「それで、お互い気まずくなって……謝って済むような次元を超えちゃったとしたら……どうします?」 
「例えばの話かぁ」 
「例えばの話です」 
うつむいて赤面した雪子の顔をいとおしそうに眺めて、坂井はうんうんと頷いた。 
「そうだねぇ、去年なんだけど、同じような喧嘩したんだよね、美紀子さんと」 
「えっ?」 
「今更言うまでもないけど、僕は美紀子さんにベタ惚れなわけ。初めて会ったときからゾッコンで、押して押して押して押して、拝み倒してようやく結婚してもらったわけなんだよね」 
これほど朗らかに堂々と、妻への愛を語る中年男性というのも珍しいわけで、雪子はただ圧倒されて頷くしかない。 
「前の旦那さん……雪子ちゃんのお父さんね、事故で亡くなってるっていうのも最初から聞いてたんだけど、どうしても不安になっちゃうわけ。男のくせに情けないけどね。嫌いで別れたんならまだ気にならないんだけど、突然の事故でっていうと……まだ美紀子さんは、前の旦那さんのことが好きなんだろうって……亡くなってなければ今でも仲良く暮らしてたんだろうって思うとね。うーん、こうやって口に出すとやっぱり僕、女々しいやつだなぁ」 
恥ずかしそうに頭をかく坂井に、雪子はそんなことない、気になるのは当たり前です、と首を振った。 
「うん。でもそれは、例え気になっててもさ、絶対、美紀子さんには言っちゃいけないことだった訳。わかってたんだけど僕は弱いからね。言っちゃったんだよ。それでさ、もうものすごい喧嘩。美紀子さん泣いちゃってさ、「そんな事言われても私はどうしたらいいの」って。そりゃそうだよね。僕は最低だったよ。自分の不安を消したいがために、彼女が一番触れられたくないところに触れちゃったんだ」 
「そんなことがあったんですか……」 
雪子は、そういえば去年、母がやたら苛々して情緒不安定になっていた時期があったな、と思い出した。 
「うん。それでしばらくは冷戦状態だったんだけど……僕、美紀子さんに言ったんだよ。 
美紀子さんの中には色んな思いがあって、必ずしも僕にとって嬉しい気持ちばっかりじゃないけど……でも、それが美紀子さんだからね。そのまま寄り添って、それでなるべく僕に頼ってもらえるように頑張りますって。これから一生ね。……その時、初めてお互い、何にも隠さずに本音が言えた気がする。喧嘩して良かったと今は思ってるよ」 
恥ずかしそうな坂井の言葉に、雪子は胸を打たれて涙ぐんだ。 
「えっ、雪子ちゃん、どうしたの?」 
「……ありがとうございます。坂井さんみたいな方に母と一緒になってもらえて、天国の父も……きっと、喜んでると思いますっ」 
「えっ、いや、そんな僕なんか雪子ちゃんのお父さんに比べて背も低いし太ってるし髪も少ないし外見は断然ひどいよ?」 
「だけど愛情は同じくらいあると思います!」 
「否定してくれないんだ……?」 
「あっ、ごごごごごめんなさい」 
慌てる雪子に、鷹揚に手を振って坂井は笑う。 
「うそうそ、冗談。……まぁ僕が、人生のほんのちょっと先輩として言えることはさ……踏み込んじゃいけないことは確かにあるんだけど、でも一生一緒にいる人だからね。無理やりは良くないけど……勝手にいろんなことタブーにしないで、喧嘩もいっぱいして、色々話せるきっかけになるといいね、っていう……なんだか全然、雪子ちゃんの悩みの答えになってなかったなぁ。役に立たなくてごめんね」 
「そんなことないです!……すぐにどうにかできる気はしないですけど、ちょっと、勇気がわいてきたような気がします」 
「照れるなぁ。そういえばこの前可愛いワンピース見つけたから雪子ちゃんにと思って買っちゃったんだ。宅配便で送るから、それ着て今度、みんな一緒に食事でもどう?」 
「……あ、ありがとうございます」 
引きつった笑みで雪子が応える。独身の頃に彼が「娘がいたら是非こういうのを着せたかったんだよ!」と嬉々として雪子に買ってきた過度に少女趣味な洋服たちは、結婚後一度も着ないままクローゼットの中でリボンやフリルやレースの乙女な世界を展開している。義父孝行のためにも少しは着てあげないと、と思いつつ、どうしても着る勇気が出ないドレス群に、また一枚在庫が増えることになりそうだ。 
そっとため息を押し殺した雪子は、目の前の巨大なパフェが九割がた残っており、それが既に溶けかけているのに気づいて今度こそ深いため息をついたのであった。 
 
 
 
 
 
7  35年間 
 
 
 
土曜の朝。黙々と朝食を済ませた二人が、会話の糸口をつかめないままに気まずい沈黙を続けていたときのことだ。 
チャイムの音が、静かなリビングに鳴り響く。来客モニターを覗いた雪子は驚きの声を上げた。 
貴巳の祖父、中嶋総二郎がそこに立っていたからである。 
雪子が知る限り、総二郎がこの貴巳の家を訪れたことは一度もない。幾度か誘ってみたのだが、歳をとると外出が億劫になる、と言ってやんわりと拒否されてばかりだった。 
その総二郎が、口元を引き結んだ威厳のある表情で、モニターホンのカメラの前で佇んでいる。 
 
「爺さん……何をしに来たんです」 
「おじい様、どうされたんですか?」 
「少し、話がある。二人ともうちまで来なさい」 
驚いて玄関のドアをあけた貴巳と雪子に、総二郎は厳かな口調で言い、顎をしゃくって玄関前の道路を見ろと促した。 
そこには、総二郎が乗ってきたと思しき一台のタクシーが停まっている。 
その後部座席に座っているのは落ち着かない様子の千鶴と、なんとも言えず複雑な表情でこちらを見つめ、深く頭を下げた瀬尾であった。 
 
汚いものでも見たかのように目を逸らした貴巳が、 
「何故、俺がいかなきゃいけないんです」 
あくまで頑なにそう言うと、総二郎は首を横に振った。 
「お前に話しておかなきゃいけないことがあるんだよ。年寄りには時間が無い。タクシーにはあと二人は乗れないから、お前の車で二人で一緒に、今すぐうちまで来るんだ。貴巳、雪子さん、いいね」 
暫しの間、祖父を睨みつけるように黙っていた貴巳だったが、有無を言わさぬ総二郎の強い目線に、渋々踵を返して車の鍵を取りに行く。 
「あの……今回は、私のせいで……本当に、ご迷惑を」 
取り残された雪子が頭を下げるのを押し留めて総二郎が優しく言う。 
「雪子さんのせいじゃない。むしろ私は感謝しとるんだよ」 
「……えっ?」 
聞き返した雪子には応えずに、総二郎は「じゃあ待っているからね」と言い置いて、タクシーへと戻っていった。 
 
 
築年数六十余年を過ぎた、古びた日本家屋。 
仏壇に飾られた遺影の前で、瀬尾は立ち尽くしていた。 
視線の先には、三十数年前に亡くなった、まだ若々しいかつての妻、碧の笑顔がある。崩れるように座りこんで、暫し遺影と見つめあった後、瀬尾は線香をあげ、震える手を合わせる。 
その背中が、小刻みに、しゃくりあげるように揺れていた。 
瀬尾の背中を見つめながら、一同は仏間と続きになっている居間の座卓についていた。 
千鶴だけは、両足を投げ出して仏間に座り、不思議そうな顔であたりを見回している。 
 
 
重苦しい沈黙を破ったのは、総二郎だった。 
「……何から話したらいいのかな」 
総二郎の声に、瀬尾も一同へと振り向き、席につく。 
彼の目は真っ赤に充血していた。 
「……まず、何故、彼らがここにいるんです」 
貴巳が、険しい顔で瀬尾を睨みつける。 
「由貴君が、電話をくれてな……三十五年ぶりか。驚いたよ……偶然、雪子さんと知り合ったとは」 
「よく母の仏壇に顔向けできたものですね」 
「貴巳!」 
総二郎が厳しい声で嗜めるが、瀬尾はそんな総二郎を首を振って止めた。 
「いえ……いいんです。本当にその通りです……僕は、三十年も、碧が死んだことさえ知らずに……本当に、申し訳ないことを……」 
声は徐々に掠れ、最後は振り絞るように、瀬尾は総二郎と貴巳に頭を下げた。 
「由貴君、頭を上げてくれ。知らせないでいたのは碧の遺志だ。私のほうこそ、すまなかった」 
「どういうことです……母が亡くなったことを、貴方は知らなかったんですか。爺さん、母の遺志とは何のことです」 
「貴巳。私が順を追って話すから待ちなさい。こうなったからにはお前に全て説明しなきゃなるまい」 
日ごろ無口な総二郎が、重い口を開いた。 
「まず、お前の最大の誤解を解いておこう。……由貴君との離婚を言い出したのは、碧のほうだ」 
貴巳が、弾かれたように顔を上げる。 
「それにはまず、千鶴さんのことを説明しておかなきゃならん」 
総二郎はそう切り出した。 
「碧と、千鶴さんは幼馴染だった……小さいころからそれは仲が良くてな。碧は人見知りが激しいほうで、大人になってからもあまり友だちといえるような人はいなかった。その少ない友人の中で一番に心を許していたのが千鶴さんだったよ。お互いの家にもよく行き来していたものだ。私も、まだ小学校に上がる前の二人のことを今でも覚えているよ。 
……碧はどちらかというと無口で物静かなほうだったが、千鶴さんはおっとりしていて明るくて、まさに天真爛漫といった風情でな……彼女が来ると、家の中がいっぺんに明るくなった気がしたよ」 
一同は、隣の座敷に座る千鶴を見やった。当人はそれにも気づかぬ様子で、座敷の隅に向かって何やら独り言を呟いている。 
「大人になって勤めはじめてからも、二人の仲は変わらなかった。ただ千鶴さんが就職の関係でこの街を離れてな。暫くは会えなかったんだ。そうしてその間に、由貴君と碧が結婚をした。見合い結婚だが、お互いを気に入って話はすぐにまとまった。そうして暫くして……お前が産まれた」 
「どういうことです。俺はずっと、父親は俺の存在を知らないまま、産まれる前に離婚したと聞いてきた」 
貴巳が鋭い口調で総二郎に突っかかる。 
「それは追々、話が進めばわかることだ……黙って聞きなさい。由貴君は、庇うわけではないが、舅の私から見ても、申し分のない愛妻家で、子煩悩な夫だった……ここからは、本人に聞いたほうがいいな。……話してくれるかい?」 
総二郎に促されて、瀬尾が辛そうに口を開く。 
「今更、僕が何を言っても言い訳にしか聞こえないというのはよくわかっています。本来なら、お義父さんと、貴巳君の前で話せるようなことではないですが……、懺悔と思って聞いて頂けますか」 
総二郎と雪子は頷いたが、貴巳はそっぽを向いている。 
貴巳の沈黙をしっかりと受け止めるようにもう一度頭を下げ、、瀬尾が語りはじめた。 
「僕が千鶴と出会ったのは……彼女がこの街に戻ってきたときのことでした。父親の具合が悪くなって、介抱するために仕事を辞めてきたのです。そして久しぶりに碧に会いに来た。僕たちの結婚式には来ていたらしいのですが、僕と話をしたのはそれがはじめてです。 
……それまでは、僕と碧の関係は、自分で言うのもなんですが、順風満帆でした……碧は物静かで、それでいてしっかりとした自分を持っていた。異性としてだけでなく人間としても尊敬できる。 
……こんな事を言うと白々しいんですが、これ以上ない人生の伴侶を得たと思っていました。子供も産まれ、仕事も忙しくはありましたが、日常に何の不満を持ってもいませんでした……それが……何故でしょう……」 
ひどく言いづらそうに、瀬尾が顔をゆがめる。 
「あんなことがあるなんて……信じられませんでした。……千鶴と初めて言葉を交わした途端……何というか、光り輝いて見えたんです……千鶴自身が。馬鹿げたことを言ってるとお思いになるでしょう。こんなに歳を取った今でも、不思議でたまらないんです。平凡で、およそ大恋愛なんてものに縁が無かった自分に、あんな感情が沸き起こるなんて」 
「一目惚れ……ですか」 
おずおずと雪子がそう言うと、瀬尾ははにかみと苦々しさを半々に混ぜたような表情で頷いた。 
「もちろん、自分は夫であり、父親です。そんな一時の感情に流されて、家庭を壊すような真似をするつもりは無かった。言い訳じみていますが、これだけは神に誓っても、本当の気持ちです……それに碧のことが嫌いになったわけでは決して無い。彼女のことは本当に、素晴らしい妻だと思っていました。 
……だから、自分の気持ちを押し殺して、毎日平和に過ごしていれば……いつかはこんな馬鹿げた気持ちも薄れていくだろう、その時はそう思っていたんです……僕の、一方的な片思いだとばかり思っていましたから。……でも、残酷なものですね……千鶴も、僕に会った時、同じように感じたというんです」 
一同は千鶴に目をやった。白髪をもつれさせた幼女は、いつの間にか縁側へ腰掛け、庭を眺めて、古い歌を調子外れに口ずさんでいる。 
「幾度か顔を合わせるにつれ、僕たち二人はお互いの気持ちに確信を抱くようになりました。もちろん、一言だって言葉に出したりはしません……それでも、目が合うだけで、気持ちが通じてしまった。 
千鶴も、あるいは僕以上に、碧のことを大切に思っていました……だから、ひどく混乱した。親友の夫にそんな気持ちを抱く自分が信じられなかったんでしょう……自然、千鶴の足はこの家から遠のきました。僕も、辛いけれどもそれでいいと思った。お互い、碧と貴巳を不幸にしてまで自分の気持ちを貫くつもりは全く無かったのです。 
……これは後になって千鶴の家族から聞いたことですが、そのころ千鶴は、発作的に自殺未遂をしています……家族がどれだけ聞いても、理由については一言も言わなかったそうです」 
瀬尾が語る、三十数年前の、あまりに辛い運命的な出会い。 
雪子がそっと貴巳の様子を伺うが、彼は相変わらずそっぽを向いて口を引き結んでいるだけだった。 
「千鶴の足がこの家から遠のいて、僕は正直ほっとしていました。千鶴の苦しみも知らず……僕は本当に最低です。碧に何も気づかせずにいる自信もありました。本当に、そぶりにも出していなかったつもりでした。今まで通り、穏やかに過ごしていれば……それなのに……気づいていたんです、碧は……僕達の気持ちに」 
うつむいた瀬尾の言葉を受けて、総二郎が口を開く。 
「あいつは……周りの人間の気持ちには、子供のころから妙に聡くてな……私やキミは全く気づかなかった。本当に由貴君は、今まで通りにしか見えなかったのだがな……碧だけは気づいていたんだな」 
「離婚してくれ、と言われました。あまりに唐突だったので、何を言われているかわからなかった。千鶴と幸せになって、と言われた時は全身から血の気がひきました。どうして気づかれたのかと……もちろん最初は断りました。何を馬鹿げたことを言ってるのかと……でもそんな事では碧の目はごまかせなかった。 
それでも何度も頭を下げて頼みました。どうか離婚しないで欲しい、碧への気持ちが冷めたわけではない、僕が悪かった、考え直してくれと……しかし、どうしても碧は折れませんでした。半年近くも話し合いを続けて……僕は、とうとう、彼女の申し出を受け入れるしかなくなりました」 
 
そのときの碧の気持ちを想像し、雪子は胸を締め付けられるように切なくなった。 
一番大切な親友と夫が、運命的な出会いをする……もし自分がそんな立場になったらどうするだろう。 
「あいつは頑固で、言い出したらきかないんだ……私もキミも、必死で碧を説得したさ。由貴君も離婚したくないと言っている。貴巳のことはどうする、とな……でも無駄だった」 
総二郎の言葉に瀬尾が頷く。 
「碧の気持ちを思うと、今でもやりきれません……離婚するにあたって、碧から、一つだけ条件を出されました。……貴巳君はその時まだ赤ん坊だったけれど、物心ついてからは、僕と碧が離婚したのは子供が生まれる前だったと教えると……父親は、最初からいないと言い聞かせて育てると……」 
「……何故です。何故そんな面倒な嘘を、爺さんたちまでグルになって」 
貴巳が、低い声でうめくように呟く。 
瀬尾が、総二郎と辛そうに目を見交わし、口を開いた。 
「……君が、父親から、捨てられたのだと思うことのないように、と……いなくなった父親の影を追って、辛い思いをすることのないようにと……碧が」 
「……」 
「結婚してからの写真も、君が赤ん坊のころの写真も、僕が一緒に写っていたものは全て捨てました。痕跡を消して、最初からいなかったかのように、この家から出て行ってくれと……そして今後一切の関わりを持たず、どこか他の街で暮らしてくれと。 
……僕はその条件を飲みました。僕ができることは、もうそのくらいしかなかった。……貴巳くん、騙すことになって、本当に申し訳ない」 
深々と頭を下げる由貴を制して、総二郎が言う。 
「碧も、まさかそんな嘘が、お前が大人になってもばれないと思ったわけではないだろう。いずれ機を見て話すつもりだったんだろう。 
……貴巳、由貴君が碧の死を知ったのは、昨日のことだよ。昨日、うちに電話をしてきた時に初めて、私が話した。二人には絶対に自分の死を知らせないように、というのが碧の遺言だったんだがな……こうなってしまっては隠してはおけん」 
「……遺言、ですか」貴巳がつぶやく。 
「碧が亡くなる……二週間ほど前だったかな。病室で二人になった時、謝られてな……親より先に逝くことになって済まない、と。それから、自分が死んでも由貴君たちには知らせずにいてくれ、貴巳は瀬尾家に渡さず、中嶋の家で育ててくれと。大変なことをお願いするが、娘の最後のわがままだと思って聞いて欲しいと言って…… 
その時は何を馬鹿なことを、と叱りつけた。必ず良くなるから弱気なことを言うなと……でも本当は気づいていたよ、私も……別れる日が、そう遠くないことを」 
遠い目をしてぽつりぽつりと語る総二郎に、瀬尾が搾り出すような声で言う。 
「当然です……僕たちは、一番信頼してくれていた碧を裏切った……そんな相手に、大切な息子を育てさせるのは忍びなかったのでしょう」 
「由貴君、それは違う」 
総二郎が、よく通る声できっぱりとそう言う。 
「……碧はね、本当に、最期まで、君たちのことを恨んでなんていなかったと思うんだ……親馬鹿と思われるかもしれないが、あいつはそういう奴だった。 
……もし、二人に貴巳を託したら……きっと、責任感を持って立派に育ててくれると信じていたと思う。 
だが碧は、もしそうなれば……自分が死んだことで、君たちに、罪の意識を一生涯背負わせることになると思ったんじゃないか。貴巳も、歳よりも随分大人びた考え方をする子だった。引き取られるとしたら由貴君たちとの衝突は避けられなかっただろう。貴巳のためにも、君たちの幸せのためにも……碧は、そう願ったんだと私は思う。だからこそ私とキミは、娘の最後のわがままを、全力で叶えてやろうと決めたんだ」 
膝の上で握られた瀬尾の拳が、ぶるぶると震えている。その上に透明な雫がぽたり、ぽたりと、とめどなく落ちた。 
静かな居間に、押し殺すような瀬尾の嗚咽だけが響く。 
「……母がそんなにお人よしだったとは……貧乏くじを引いたものですね」 
静寂を破ったのは、貴巳が吐き捨てた言葉だった。 
「貴巳さん!」 
雪子が悲鳴のような声で貴巳をたしなめる。 
「おかしな話でしょう。自分を捨てた二人のために、何故母は最期まで一人で苦しむ必要があったんです?……爺さんは悔しくないんですか?この人たちは何も知らずのうのうと今まで生きてきた」 
怒りを露にした貴巳の片袖を掴んで、雪子は首を振ってなだめようとする。 
しかし貴巳はそんな雪子には目もくれず、火を噴くような眼差しで瀬尾を見つめていた。 
「……貴巳……見せたいものがある。ちょっと待ちなさい」 
落ち着いた声音でそう言った総二郎は、仏壇の下の引き出しを開け、奥から何やら紙袋を持って戻ってきた。 
座卓の上に空けられた中身は、貴巳の名義の、古ぼけた一冊の預金通帳だった。 
総二郎に促され、貴巳がその通帳を開き、ページを繰ってはそのいちいちを凝視する。 
横から覗き込んだ雪子は、驚きに目を見張った。 
その通帳には、由貴と碧が離婚したと思しき時期から、毎月欠かすことなく、決して少なくない金額が送金されていた。最後の行は、計算してみるとちょうど貴巳が大学を卒業した年の四月だった。 
「……これは」 
「全て、由貴君が送ってくれたものだ。律儀に約束を守り、自分の名前も出さずに、欠かさず毎月毎月。進学の節目や、正月だの貴巳の誕生日の月には少し多い金額を。 
……碧がガンだとわかった時、初期ではなかったものの、まだ治療の効果が期待できる状態だと医者に言われてな。試せる治療は、何でも試した。碧はまだ三十歳になったばかりだったからな。どれだけ金がかかってもいい、何とかして治してやりたいと、その一心だ。 
今のように情報も薬も充分じゃなかったが、日本で認可されていない海外の新薬があると聞けば可能な限り取り寄せて使ったんだ。保険がきかず、一回治療するごとに何十万という金が必要だった。それも一度では治療は終わらない。何度か周期的に治療をして、がん細胞がようやく減って退院できたと思ったら、何ヶ月もしないうちにまたガンのやつが再発だ。辛い副作用に耐えて、今度こそ完治したと思ったらまた裏切られ……そんなことを何度も繰り返した。貴巳にも随分、寂しい思いをさせただろうと思う」 
総二郎の独白を、席についた誰もが歯を食いしばり、うつむいて聞いた。 
千鶴のか細い歌声が、沈黙の中を途切れ途切れにたゆたうように響く。 
かつて姉妹のように仲の良かった親友の死を、既に認識することもできない夢現の世界から発せられる、場違いに明るい、しかしどこか物悲しい調子外れの歌声だ。 
「当然、私の、教師の安月給では充分に治療を受けさせてやることはできなかった。そりゃもう見境なく借金をしたよ。ローン会社に親戚に知人にとな……恥ずかしい話だが、将来のことなんて考えられなかった。碧が元気になってくれれば、全ては何とかなると……私も、キミも、本気でそう思っていたんだよ……だが、治療の甲斐はなかった。医者からは、これだけ生きられたのは治療の成果ですと言われたがな。私は、わが子可愛さに、かえって碧を副作用で苦しめて体力を奪ったような気がしてならないよ」 
涙をぼろぼろ流しながら首を横にふる雪子に、そっと笑いかけて、総二郎は言葉を継ぐ。 
「だから、碧が亡くなった後の我が家の家計は火の車だった。十年以上かかって、どうにかこうにか返済の目処がついたと思ったら、今度はキミの癌が見つかって……ほんの二ヶ月ほどでぽっくり逝ってしまった。治療費のことを心配して早く逝ったような気がしていじらしくてな。 
……しかし、曲がりなりにも食うに困ることはなく貴巳を育て、キミの葬式も出してやれたのは、由貴君が一度も途切れずに養育費の送金を続けてくれたおかげだ。 
……貴巳、お前が大学に行けたのは、もちろんお前自身がアルバイトで生活費を稼いでくれたこともあるが……由貴君の力添え無しにはやはり難しかった。もっと早く教えるべきだったのかもしれないな……済まなかった」 
頭を下げる総二郎に、貴巳はこの席について初めて、狼狽の色を目に浮かべた。 
口を開きかけ、思い直したようにまたつぐんで、総二郎と由貴から目を背ける。 
隣に座る雪子は、卓の下でそっと貴巳の手を握ろうとしたが、それもすげなく振り払われた。 
「……貴巳さん……」 
「……話というのはそれだけですか」 
心配げに小さく声をかける雪子の方を見ようともしないまま、貴巳は努めて平静を装った声を出す。 
そんな貴巳を、複雑な色を滲ませた表情で眺めながら、瀬尾は鞄から一冊の通帳を取り出した。 
「……今日は、僕の方からはこれを渡せたらと思ってお邪魔したんです」 
座卓の上に置かれた2冊の通帳を、怪訝な顔で眺めながら手に取ろうともしない貴巳を見やり、雪子は困った視線を総二郎に向けた。すると総二郎もまた、険しい顔で卓上を見やり、瀬尾が差し出したほうの通帳を開いて、更に眉間の皺を深めた。 
「……由貴君、これは……」 
「以前送金していた口座が、貴巳君が大学を卒業した頃から送金ができなくなりました……これはきっと、お義父さんのご配慮だったんですよね?……もう養育費の必要が無い、と。もちろん、そのお気遣いにはすぐに気づきましたが……でも、僕達が碧と、貴巳君にできることはお金を残す以外に無いのです。送金できなくなってからも、少しずつですが毎月積み立ててきました。僕が死んだら、貴巳君を探して相続してもらえるように手続きをしてあります。 
……まさか、会える日が来るなんて思ってもいなかった……僕と千鶴からの、碧と、貴巳君に対する気持ちです。どうか受け取って下さい」 
数瞬の沈黙の後に、ごとり、という音が響く。 
貴巳の手元に置かれていた湯のみが倒れ、慌てて布巾で零れた茶を拭こうとした雪子が、卓上に置かれた貴巳の握りこぶしがひどく震えているのに気づく。 
そのせいで湯のみを倒したのだ。 
貴巳の視線が、落ち着き無く、瀬尾と千鶴の間を行き来する。瀬尾の古びてほつれかかった上着や革の擦り切れた鞄、千鶴のぼさぼさになった白髪や乾いて皮のむけた唇を。 
「……貰えません。貰える訳がないでしょう……何を考えてあなたたちは!!」 
震えた呟きは、最後まで押し殺すことも叶わずに、徐々にボリュームを上げて部屋に響き渡る怒声となった。 
雪子が弾かれたように顔を上げる。貴巳が声を荒げるのを見たのは初めてだった。 
膝立ちになり、身を乗り出した貴巳は、日ごろの無表情が嘘のようだ。歯を食いしばり、自分の父親を凝視するその表情は、怒りというよりはむしろ怯えているかのようである。 
「馬鹿なことをしているのはわかっています。でも私たちにはこれ以外に、償いをする方法が無いんです」 
静かに、きっぱりとそう言う瀬尾は、悟りきったかのような目の色で佇んでいる。 
「償い……そんなもの……そんなもの、母が望んでいたとでも思うんですか?!……母は、貴方達に幸せになってもらいたかった!だから一人で……黙って死んでいったんだ!!」 
「碧が償いを求めていないのはわかっています。でも僕には、父親としての責任がある」 
「馬鹿にしないでくれ!俺は今更、親の金をあてにするほど落ちぶれてない!」 
「貴巳さん!!」 
家中に響き渡るほどの声で怒鳴り、今にも瀬尾に掴みかかりそうになっている貴巳の肩を、雪子が掴んで必死で止める。 
貴巳の激しい視線と、瀬尾の静かな視線が交じり合った沈黙の一瞬、 
「……めんねぇ……ごめんねぇ……!」 
縁側から、幼女のような泣き声が響いた。 
はっと我に返った一同が、仏間に視線を送る。 
畳の上にうずくまった千鶴が、身もだえしながら泣き叫んでいた。 
「ごめんね……みいちゃん、みいちゃん、ごめんねぇ……!」 
慌てて千鶴の傍へ寄った瀬尾が、なだめるように肩を優しく叩く。 
それにも気づいていない様子で、千鶴はただひたすらに、許しを請う言葉を呟き続けていた。 
 
「……みいちゃん、というのは……母のことですか」 
貴巳が、搾り出すような声で問う。 
瀬尾は曖昧に頷いて、とりなすように言った。 
「……確かに、みいちゃんというのは碧のことです。でも、千鶴のこれは、話の内容をわかって泣いているわけではないんです。喧嘩するような大きな声がすると、自分が叱られているような気分になるのか、決まってこうして泣くんですよ」 
雪子が千鶴に寄り添ってそっと手を握り、大丈夫だよと慰めても、千鶴はその手にすがったまま、みいちゃん、ごめんねと繰り返している。 
記憶も判断力も失ってなお、最後に残ったのは碧への罪悪感なのだろうか。 
 
「ああ、確かに……千鶴さんは、碧のことをそう呼んでいたよ……ほんの小さなころから、ずっと……そうか、雪子さんのことを碧だと思っていると言ったね……そうしていると、本当にあの頃に戻ったようだ。……よく、この街に戻ってきてくれたね」 
そう呟く総二郎の身体は、急に小さく、年を取ったように見えた。 
痛ましそうに、そして愛おしそうにうっすらと涙を浮かべて千鶴を見やる総二郎の表情は、実の娘を見るかのように複雑に暖かかった。 
「お義父さん……本当に、申し訳ありません……O市に戻ってくるなんて考えもしませんでしたが……千鶴の認知症が進んで……それまで住んでいた家を、頻繁に飛び出して徘徊するようになりまして。わけを聞けば、家に帰るんだ、と。ここが僕達の家なんだとどれだけ言い聞かせても、何度連れ戻しても同じことでした。それで……実家に戻れば、もしかしたら徘徊が収まるかと。 
……皮肉なことに、ここに来て急に千鶴は足が弱って、車椅子に乗らなくてはほとんど動けなくなりましたが、やはり実家に戻ってからは、家に帰りたいと訴えはしなくなりました。広い市ですし、静かに暮らしていれば中嶋家の皆さんに会うようなこともないだろうと思っていましたが……やはり、運命というものはあるんでしょうかね」 
うつむいて千鶴の背を撫でながら、瀬尾はそう独白を結んだ。 
千鶴の枯れ枝のような細い手を握っていた雪子は、居間で立ち尽くす貴巳に目をやり、はっとした。 
彼の鉄壁の無表情はもはや崩れ落ち、戸惑い、途方にくれたような……初めて見る表情で、千鶴と雪子を見つめている。 
雪子はそっと千鶴の手を離し、貴巳の目の前に立った。 
「帰ろう。貴巳さん」 
「……え?」 
きっぱりとそう言う雪子に貴巳が聞き返す。 
「今日は、もう無理だと思う。おうちに帰ろう」 
何が無理なのか、と聞く隙も与えず、雪子は振り返って総二郎と瀬尾に宣言する。 
「申し訳ありませんが、今日はこれで失礼します。……瀬尾さん、本当に色々と失礼しました。この通帳は受け取れません。……でも、絶対に、これきりにはしません。またお会いしてお話しさせて下さい。それに……瀬尾さん、お顔の色があまり良くないです。それに息切れも。どうかご自分を大事にして下さい。……またお手伝いに伺います」 
「……そうですね。ありがとう。確かに今日は、少し疲れました……家に帰って休みます。僕は、千鶴を置いて先に死ぬわけにはいきませんからね」 
貴巳が、ふいをつかれたように、父親へ向き直る。何か言いたげに口を開いたが、結局言葉にならず、再び唇を引き結んだ。 
雪子はゆっくりと頷いて、総二郎へ向き直った。 
「おじい様、失礼なのは承知ですが、今日はこれでお暇します。……また、ゆっくりと」 
幼い顔立ちに不似合いに、きりりと口元を引き締めてそう宣言する雪子を、眩しいような表情で見上げて、総二郎と瀬尾は頷いた。 
 
 
 
8  繋がる 
 
 
 
「どうして……あんなに急に、帰ると」 
自宅の玄関に入り、鍵をかけると振り返った貴巳は、帰り道の車内から続いてきた沈黙を破った。 
既に靴を脱いでいる雪子は、無言で貴巳の手を引き家に上げる。 
「……雪子?」 
貴巳が声をかけても、厳しい顔で口を引き結んだ雪子は、有無を言わさぬ強引さで、二階の寝室へと貴巳を引っ張っていった。 
これではまるでいつもの自分達と逆ではないか……呆れたようにそう思う貴巳の肩を押し、ベッドのふちに座らせて、雪子もその隣へと腰掛けた。 
そうして貴巳の頭に、作り物のように真白な両腕をそっと伸ばして、自分の胸へと抱き寄せた。 
「……雪子、何を……」 
妻の意図が読めず、抗う貴巳を、雪子は腕に力を込めてしっかりと抱いた。 
「貴巳さんが、限界だったから」 
「……限界?俺が……?」 
「うん……あれ以上お話ししてたら、貴巳さんが、壊れちゃいそうだったから……」 
「……馬鹿にするな……誰が、そんなヤワな」 
「気づいてないんだよね……貴巳さんは、自分が辛いの、いつも気づいてないんだよ……」 
気づけば雪子は、貴巳に頬刷りをしながら、ぽろぽろと涙を流していた。 
熱い雫が自分のこめかみの辺りに零れてくるのを感じながら、貴巳はつとめて冷静に応える。 
「……別に、辛くなんてない……ただ、呆れただけだ……結局、誰も幸せになってないじゃないか」 
吐き捨てるようにそう言う貴巳に、抱きしめる腕をゆるめて向き合った雪子は頷いた。 
「うん……でもね、一つだけ、すごく良かったことがあると思う」 
「……何だ」 
怪訝そうに言う貴巳の目を見つめて、雪子がまばたきで瞼から涙を払いながら、そっと応える。 
「誰も……悪くなかったんだよ。貴巳さん」 
かみ締めるようにそう言う雪子の視線を受け止めて、貴巳は顔をゆがめた。 
「……馬鹿だ。誰もかれも……どうしてそう……馬鹿なんだ」 
「……そうだね……みんな、不器用で……でも嬉しいの……みんな、優しい人だったんだ」 
身体の力を抜いた貴巳を、支えるように再び抱きしめて雪子は囁く。 
「貴巳さん……泣きたい時は、泣いてもいいんだよ?」 
雪子の小さな身体は、貴巳の重さに耐えかねて、自然に仰向けになり、貴巳にのしかかられているような体勢になる。 
「……誰が泣くか」 
貴巳の耳に、押し付けられた雪子の胸から、とくんとくんと穏やかな鼓動が響く。 
柔らかな感触にすがるように、雪子の背中に手を回してきつく抱きしめた。 
「……母親は、俺が物心ついた頃から入退院を繰り返してた。……子供心に、そう長く一緒にはいられないんじゃないかと気づいてたよ」 
貴巳の口から、三十年間ずっとしまいこまれてきた言葉が、ようやく紡がれる。雪子の鼓動を聞きながら、自分らしくない問わず語りは不思議に自然と口をついて出た。 
「母親が最後の、長い入院をしているとき、見舞いに通っていると、同室の患者が菓子をくれたりした。自分でも無愛想で可愛げのない子供だったと思うが、それでも必ず、行くと声をかけられた。4人部屋で、おばさんだったり婆さんだったり、母親より若い女までいた……それが、何週間もしないうちに、人がいたはずのベッドが空いていたり、代わりに違う病人がいたりする。母からは退院したと聞かされたが、いくら子供でもわかるさ。あの病棟は末期の患者ばかりだったんだ。臨終が近づくと、隣の個室に移される。それで何日もしないうちにみんな死ぬんだ」 
雪子の指が、髪をまさぐり、目のふちをそっと撫でる。泣いてなどないと言っているのに。 
「母より若い、たぶんまだ高校生ぐらいだったろうな……その人が、俺に言ったんだ。死ぬ前には神様が、一つだけ願い事をかなえてくれる、だから怖くないんだって。何だったかな、絵本を持っていて、それに書いてあるんだって……タイトルはもう忘れたが」 
「……それで、6歳の貴巳さんは何て答えたの?」 
「神様なんていないが、いると仮定するなら、死ぬ前の最後の願いに病気を治してくれと頼めば、ずっと死なずに生きられるじゃないか、と」 
あくまで真面目に答えたのだが、雪子はくすくすと笑う。 
「……その人にも笑われたな。当時の俺はからかわれているみたいで面白くなかった。母親も、その会話を楽しそうに笑って聞いていた。そうして何週間もしないうちに、その人のベッドも空になった」 
今でも思い出す、あの陰気なリノリウムの、ヒビの入った床と、消毒薬と病院食が交じり合った胸の悪くなるような匂い。母のベッドは窓際で日当たりが良かった。窓の外は中庭で、梅の木がすぐ傍に植えられていた。あれは、まだ春とも言えぬ寒い2月の終わりだった。 
「そのうちに母は個室に移った。いつもなら短時間で病室を追い出されるのに、学校を休んで、何時間でもいていいと言われた。 
……することもなくて、ずっと母親の手を握っていたんだ……母の手は、子供の俺より細いくらいだった。長いこと病気をしていたんだ、当たり前か。 
……最後に一度だけ、目が開いた。しばらく俺のことをじっと見つめて……微笑んで、窓を開けてと言った。寒い時期だったが、その時には母の希望はもう何でも聞いてやれと思っていた。俺は手を離して、窓枠の鍵をねじって、窓を開けた。冷たい空気が入ってきて……それで、振り返った母はもう目を閉じていた。それが最後だった」 
 
頭に回された雪子の腕に力が篭る。 
そのまま寝返りをうつようにしてのしかかられたかと思うと、額に雪子の唇が触れた。 
今にも泣きそうに顔をゆがめている雪子と、貴巳はからみあうように抱き合った。 
「ずっと思っていた……どうして、あの時……母は、手を離したのかと……どうして俺は、手を離たんだろうかと……」 
唇から搾り出した苦い後悔を、残さず吸い取ろうかとするように雪子が口付ける。 
まるで傷のありかを探すように、顔中に、そして徐々に体中に降り注ぐように、やわらかな唇があちこちに押し当てられた。 
身体のうちにうずまく熱い、どす黒いもののはけ口が、なぞられた傷跡から噴出すようだった。 
 
「いいんだよ……全部、わたしに、吐き出して」 
いつしか全身汗でどろどろになりながら、それでも雪子は貴巳の身体を隅々まで慈しんだ。 
もつれあい、寄りかかるように、時に挑みかかるように。 
肌をすり寄せ、全ての滓を吐き出させようといつしか二人は繋がった。 
それはいつものような、官能を高める動きではなく、ただ一箇所でも多くお互いの熱を伝え合うための、がむしゃらに抱擁をせがむ幼子のようなつながりだった。 
それでもめちゃくちゃに奥を穿たれ、幾度も雪子は切なく極まった。髪を振り乱し、流れるお互いの汗の雫を舐め取りながら。 
二人が一つになったままうとうとと浅く短い眠りに落ち、目覚めるとまたひたすら絡み合った。お互いの身体が蕩けるかと思われるほどに密着し、唇から、触れ合う皮膚から、そして繋がった部分から体液を、体温を交換しあう。二人の境目が曖昧になってゆく。。 
窓の外が白みはじめるころ、ようやく貴巳の澱の最後の一滴が雪子の胎内に吸い出された。 
 
そうしてようやく赦されたかのように貴巳は、雪子にのしかかったまま、深い眠りに落ちた。 
 
雪子は、今にも手放しそうな意識を必死に繋ぎとめて、自分の胸につっぷして眠る貴巳の顔を指でなぞった。 
いつも雪子よりほんの少し遅く寝て、ほんの少し早く起きる貴巳は、無防備な寝顔をたとえ妻といえど見せたことなどなかった。 
(……貴巳さんの寝顔……見たの、初めてだなぁ……) 
常に眉間に寄せている皺が、眠っている間はほどけて、幾分幼い顔立ちになっている気がした。 
 
「……貴巳さん……寝てるよね……?あのね……私、決めたんだ……貴巳さんとの約束、破ってもいいよ……私より先に死んじゃだめなんて、わがまま言ってごめんね……?残されるほうが、寂しくて辛いに決まってるよね……貴巳さん、もっと甘えていいからね。私頑張るからね……だから、先に死んじゃっても、私怒らないよ。 
……でも、絶対、長生きしてよね。私もおばあちゃんになるまで頑張るからね」 
聞こえていないのを承知で、小声で囁いていた雪子の耳に、 
「……ああ」 
と貴巳の声が届く。驚いて様子を伺うが、やはり眠っているのは間違いないようだ。 
「……寝言なの?」 
恐る恐るそう聞くが、それ以上返事はない。 
(重いけど……今は、このままでいいや) 
のしかかる重みを幸福に感じながら、雪子もまた、穏やかに目を閉じた。 
 
 
 
 
 
 
9  春 
 
 
 
 
目がさめると、両親が枕元の椅子に座って、顔をのぞきこんでいる。 
目線を下にやると、貴巳がいつものように、真面目な顔でわたしの手を握っている。 
 
近頃のわたしは、切れかけの蛍光灯みたいだ。いつの間にか眠っていて、目を開けるたびに家族や看護婦さんや先生や、色んな人がベッドの横にいる。何日経ったのか、それとも何時間しか経っていないのか、それもよくわからない。 
「……貴巳」 
声がかすれてうまく出ない。たんがからんでいるけれど、もう咳でたんを切る力がないから、ごろごろいって気分が悪いけれど我慢する。 
 
「起きたか。どうだ、気分は」 
「少しでも何か食べるかい」 
何でもないように言うけど、父と母の目の下にはくまができていて、はっきり疲れが見て取れる。 
「だいじょうぶ。ありがと……貴巳、ごはん、たべた?」 
聞くと、貴巳はこっくりと頷く。いつからこうして手を握っていてくれたんだろう。 
そういえば、前に見たときから髪が短くなってさっぱりしている。すこし幼く見えてとってもかわいい。親ばかなんだろうけれど。……自分は何日も眠っていたんだろうか。時間の感覚がわからない。 
 
やわらかで、小さな手があたたかい。 
わたしより先にいってしまった同室のあの子の手も、こんなふうにまだやわらかかった。 
「死ぬ前には、神様が必ず、一つ願い事をかなえてくれるんですよ」 
嬉しそうにそう言っていたあの子。もうすぐ会えるんだろうと思うと、少しだけ心強い。 
病室に二人でいたとき、父親にその話をしたことがあった。私のお願いは何にしよう、と言うと、馬鹿なことを言うな、治るさと、いつもと同じなんでもないことみたいに言う。 
会いたいな、二人に……そう言いかけてやっと我慢した。 
このごろよく夢を見る。貴巳の夢。子供のころの夢。由貴さんと千鶴の夢。 
どうしてこんなことになっちゃったんだろう、と思う。でもやっぱりこれでいいんだ、と思いなおす。 
もう会わない。私が死んでも、知らせない。 
覚悟を決めたんだ。もう、みっともなく未練を持ち続けたくない。それなのに、夢には何度も出てくる。前と変わらない、優しい笑顔で。 
由貴さんの、穏やかで優しい声。貴巳を抱き上げてあやすおどけた声。 
千鶴の笑顔。ひまわりみたいに、いくつになっても小さな女の子みたいに、顔をくしゃくしゃにして笑う千鶴。 
今はただ、ふたりに会いたい。 
 
「ああ、駄目。これは最後のお願いじゃないですからね」 
「何だ、寝言かね」 
呆れたように言う父。 
「ううん……お父さん、私、ちょっとカッコつけすぎちゃったかなぁ」 
苦笑いしながら言うと、父もやっぱりちょっと苦笑い。 
父が笑うと、いつの間にかできていた、目尻のしわがもっと深くなる。 
「……ごめんね。よろしくね」 
そういうと、父は私から顔を背けて、頷いた。 
あれは、何日前のことだっただろう。 
 
 
窓の外に目をやると、梅の木に白いものが見える。 
花が咲いたんだろうか。もうすぐ春がくるんだ。 
貴巳の手を握り返したいのに、ちっとも力が入らない。 
この小さな、柔らかい手が、きっと大きく硬くなって、頼もしい大人になっていくのを、私は見ることができない。 
つないだこの手を離さなきゃいけない。 
ああ、神様、今度こそ最後のお願いです。 
どうかこの手が大きくなって、今のまま、人よりも頑固で誤解されやすい子に育ったとしても。 
友達でも恋人でも、誰でもいい。 
一生をこの子と分かち合って、傍に寄り添ってくれるひとができますように。 
私の手が離れても、祖父母と別れるときがきても、ひとりぼっちになりませんように。 
 
 
いくら息を吸っても、ちっとも空気が身体に入ってこないみたい。 
本当に、もう、手を離すときが来たのかな。 
「……たか、み、……まど、あけて……」 
ようやく声がでた。貴巳はちょっと困ったみたいな顔をして、それでも手を離して、窓にかけていった。 
気のせいだろうか、ほんの少し、梅の香りがした気がした。 
なんて冷たい、おいしい空気。 
 
 
貴巳の背中が、窓からの光に照らされて、まるで大人みたいに大きく見える。 
だいじょうぶ、もうすぐ、春が― 
 

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