「みいちゃん」
上着の裾をつんつん、と引っ張られる感触に、雪子は振り返り、微笑んだ。
背後には、車椅子に乗った白髪の老婦人が、まるで童女のようなあどけない笑みを浮かべている。
「みいちゃん、みいちゃん」
婦人は、夢見るような瞳で、目の前の雪子にそう呼びかける。
彼女に見えているのは現実の世界ではない。彼女は恐らくはぼんやりした、夢の中に住んでいるのだ。
「みいちゃん」と親しげに呼ばれるのに、雪子はもうすっかり慣れてしまった。
初めて彼女にそう呼びかけられたとき、雪子はたいそう面食らった。
定期的に通院している総合病院で、婦人科の診察を済ませ、広いロビーで会計に呼ばれるのを待っていたときのことだ。
会計カウンターで自分の受付番号が呼ばれ、椅子から立ち上がろうとした刹那、やおらスカートの裾を何かに掴まれて後ろにのめり、あやうく倒れるところを何とか踏みとどまった。
何事かと振り返るとそこには、車椅子に乗った、耳の下で切り揃えた白髪の老婦人が、どこか底の見えない瞳で雪子をじっと見つめていたのである。
「……みいちゃん」
「えっ?……何か、ご用でしょうか?」
驚いた雪子がそう訊くと、彼女は年齢に不似合いにあどけない表情でにっこりと笑い返した。
「失礼ですが、人違いではありませんか?……ご家族の方はどちらに?」
なんとなく事情を察した雪子が、穏やかにそう語りかけても、夢幻の住人である彼女は全く気にかけない様子で、雪子のスカートを掴んだままにこにこと笑っているばかりである。
困り果てた雪子が周りを見回すと、丁度、慌てた様子の男性がこちらに小走りでやってくる姿が目に入った。
軽く肩で息をつきながら、老婦人よりは少し年下に見える柔和な印象の男性が、雪子に頭を下げた。
「どうも申し訳ありません。ちょっと目を離したすきに一人で車椅子をこいでいってしまうんですよ……さあ、千鶴さん行くよ。手を離して。お嬢さんが困ってらっしゃる」
男性の言葉が聞こえているのかいないのか、千鶴と呼ばれた老婦人は、相変わらずにこにこして「みいちゃん、みーいーちゃん」と節をつけて歌うように雪子に呼びかける。
その声を聞いて、はっと男性が息を?む気配がした。
「千鶴さん、そのお嬢さんはみいちゃんじゃないよ。さあ、ご迷惑だ。もう行かないと」
男性の言葉に千鶴は、だだをこねる子供のように首を振って拒否をする。
その様子が余りにも年齢と不釣合いに無垢で、なんとなしに切ない気分になった雪子は、彼女の手をとってしゃがみ込み、目線を合わせてゆっくりと語りかけた。
「今日はもう行かないといけないけど、また会いましょうね」
千鶴は、雪子の言葉にこっくりと頷くと、「みいちゃん、また、あそぼう」とたどたどしい口調で呟く。雪子はその様子に、微笑みを返して頷いた。
その場では再会を確信していたわけではないが、しかし雪子はこの夫婦とも親戚とも見える二人に、不思議なほどに親近感を感じていた。その予感の正体、その重大さに雪子が気づくまで、それほどの時間はかからなかったのである。
「みいちゃん、みいちゃん」
「やあ、またお会いしましたね」
病院のロビーで、男性の押す車椅子に乗せられて、千鶴がやってくる。
出会うのはこれで4回目。お互い違う科を受診しているものの、予約をとっている曜日と時間帯が一緒らしく、受診する日には大抵、ロビーで顔を合わせることになる。
子供ができにくい体質の雪子は、月に数度は自宅から少し離れたこの病院の産婦人科に投薬と経過観察のため通っている。
夫である中嶋貴巳と二人、よく話し合って決めたこととはいえ、やはり検査は身体にも精神面にも少なからず負担であったし、気の重い病院通いのなかで、この老夫婦とのたわいない会話が、雪子には唯一の楽しみになりつつあった。
これまでの会話の中で雪子が知ったのは、二人が夫婦であることと、今まで他県に住んでいたが、最近、この市内の千鶴の実家に戻ってきたということくらいである。
それと、千鶴の呼ぶ「みいちゃん」という名前――誰のことなのかと彼女の夫に聞くと、返ってきた答えはこうだった。
「みいちゃんというのは、千鶴の幼馴染の名前なんですよ。どうも、千鶴の心は自分が小学校低学年くらいのころに戻ってしまってるみたいでしてね。どうしてか、貴方のことをその幼馴染だと思い込んでしまったようです」
「そうだったんですか……不思議ですね。似ているんでしょうかね、私、その、みいちゃんに」
特に答えを期待して発した言葉ではなかったが、男性は曖昧に頷いて、言葉を濁した。
その様子に、雪子の胸に、ほんの微かな影が差す。不安、というわけでもなく、強いて言えば違和感、だろうか。
思えば、二人に初めて会ったときから、雪子は親しみと同時に妙な違和感を感じていたのだった。
その正体をつきとめようとしても、結論は考えるそばからするりと雪子の思考の網を逃れてゆく。
今回もまた、その微かな違和感は、穏やかな時間の通奏低音のように、雪子の胸の奥で小さく鳴り続けていた。
お互い、改めて名前を聞くきっかけもなかったし、奇妙に他人行儀で、それでいて不思議に穏やかな時間は、午後の陽だまりの中で、これからいつまでも続くかに見える。
「……あめ。あーめ」
千鶴がふと、雪子の抱えていた鞄から、キャンディの袋が覗いているのを目ざとく見つけ、手を伸ばす。
「ああ、千鶴さん、飴食べますか?」と雪子が袋を差し出そうとするのと、千鶴の夫が「駄目だよ。また具合が悪くなるからね」と制止するのがほぼ同時だった。
思い通りにさせて貰えずぐずる千鶴に、頭を撫でてやってなだめながら、夫が雪子にすまなそうに言う。
「せっかくですが、駄目なんですよ。喉につまるといけないし、それでなくてもこの人はおやつを食べ始めると見境なく食べてしまって、その上に食事も何度でも食べたがるんですよ。そういう病気だから仕方ないんですけどね」
頷いて、千鶴から見えないようにキャンディの袋を鞄の奥に仕舞った雪子は、千鶴の病気というものについて考えをめぐらせた。
詳しいことは聞けるはずもないが、彼女の病気は若年性アルツハイマーで、認知症の症状がかなり進んでいる状態ということだ。会話らしい会話は殆ど成立せず、千鶴自身の意思表示も、体調が悪いときはほとんどできなくなっているような状態だ。
夫に頭を撫でてもらって機嫌を直したらしい千鶴の、その無邪気さと枯れ枝のような身体のギャップが雪子には余りにも痛々しい。
どうやら子供のいないらしい老夫婦の生活ぶりが気になって、雪子はつい口を出す。
「お食事とか、毎日、ご主人が作ってらっしゃるんですか?」
「大抵は僕が作っているけど、まぁ得意なほうじゃないし簡単なものばかりで。あとは結局スーパーの惣菜や菓子パンを買ってきて済ませてしまいますよ……あ、今うちの番号が呼ばれましたね。会計に行ってきますので、少し千鶴を見ていてもらえますか?」
頷いて彼を見送った雪子は、夫を追おうというそぶりを見せる千鶴に応えて、彼女の車椅子を押そうと後ろに回る。何の気なしに背もたれに目をやった雪子は、そこに初めて、彼女の名前と住所、電話番号がマジックで書かれているのに気がついた。勝手に一人で車椅子をこいで行ってしまうことがあるというから、迷子札のような目的で彼女の夫が書いたのだろう。
「瀬尾千鶴 O市××町5−20−4」
それを見た瞬間、雪子の脳裏にまたあの奇妙な違和感がぴりっと電気を走らせる。
(この名前……どこかで……どうして、こんなに気になるんだろう)
もやもやする気持ちの理由が分からないまま、雪子は彼らと別れ、家路へ向かうバスに乗った。
夕飯の最後の仕上げをしながら、雪子はずっと自分の記憶を辿り続けていた。
なぜ、あんなにも瀬尾夫妻のことが気になるのか。
自分の記憶のどこに引っかかりがあるのか……頭から煙が出るのではないかと思うほどに考えつくしても、結論は出なかった。
気分を変えようと、雪子は重い頭を振って、夕飯のメニューをテーブルに並べる。
今日の主菜、歯ごたえのあるレンコンのあらみじん切りを混ぜ込んだハンバーグは、こんがりと香ばしく焼き色がついている。
その上に大葉と大根おろしを乗せ、食べる直前に掛けられるようにポン酢醤油を用意する。
副菜の小鉢にはジャガイモとインゲンの甘しょっぱい煮物と、滑らかな舌触りの白和え。
箸と箸置き、飯椀と汁椀を食卓に並べ終わったその瞬間に、玄関の扉が開く音が雪子の耳に届いた。
いつも通り、予告した時間を一分とたがわずに、まるで機械仕掛けのような雪子の夫、中嶋貴巳の帰宅である。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
笑顔で出迎えた雪子の顔を、夫はいつもの鉄壁の無表情でまじまじと見つめる。
「……な、なに?」
「何かあったのか?」
もともと異常に観察力の優れた貴巳と、思っていることがすぐに顔に出る雪子のコンビでは、隠し事などできるわけもない。
ただ、今回の悩みというのが余りにも漠然としていて、自分でも説明するのが難しいと雪子は思う。
「ううん、何でもないの。早くご飯食べよ?今日はハンバーグだよ」
笑顔で答える雪子の頭に、貴巳はおもむろに手を伸ばし、ぽんぽんとあやすように撫でた。
その刹那、今までもやがかかっていた雪子の記憶が、まるで光が差したかのようにある一点に収束していった。
(……瀬尾……そうだ、あの時、……見たんだ、私。
でも……まさか。そんなわけない……でも、でも。
それに……そうだ、どうして今まで気づかなかったの……)
「……雪子?本当にどうしたんだ?」
気遣わしげな夫の声が、雪子の耳の中で鳴り響く。
(……声が、似てる……!)
「……雪子。何があった?」
雪子が目を上げると、そこには真剣な夫の目線が彼女を捕らえていた。
全てを見透かすような、強い、強い視線。
「……ほんとに、なんでもないの。今日、病院行って注射してきて……ちょっと気分が悪くなっちゃって。あんまり食欲もないし、少し休んでもいい?」
自分は今、上手に嘘をつけているだろうか。
雪子は今まで、本気で貴巳に隠し事をしようと思ったことなど一度も無かった。
でもこれだけは。このことだけは、絶対に隠し通さなければならない。
「そうか……なら、もう横になった方がいいな。……何度も言うが、無理をしてまで病院通いを続ける必要は」
「わかってる。大丈夫だよ……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて今日はもう寝るね」
夫の言葉を途中で遮って、雪子は二階の寝室へ足を運ぶ。背中に夫の視線を感じたが、逃げるような気分で振り返らずに階段を登り、寝室に入ると、ベッドへ身体を投げ出した。
両手で自分の身体を抱きしめて、胎児のように手足を丸め、震えが止まるのを待つ。
(そうだよ……口調が違うから気づかなかったけど、声がそっくりだもの……だから、最初からあんなに瀬尾さんたちのことが気になったんだ。頭ではわかってなくても。それに、名前が……)
雪子の記憶の扉は完全に開かれた。それは数ヶ月前、雪子が貴巳の幼い頃のアルバムを初めて手にしたときのことだ。
一枚の写真。三十数年を経て色褪せた小さな一葉の、ほんの片隅に写っていた名前。
産まれたばかりの乳飲み子の貴巳を胸に抱いて、産院のベッドの上で微笑む彼の母。
長い黒髪は、ちょうど今の雪子と同じくらいの長さだろうか。
その手首に、患者の識別用と思しきテープ状の名札が、ブレスレットのように巻かれていた。
ほんの小さな、目をこらしても読めるかどうか、というほどの文字だったが、瀬尾、とマジックで書かれたその名前は、全く無意識のうちに、雪子の脳裏に焼きついていたらしかった。
中嶋、という苗字は、彼の母方の実家の姓である。
貴巳の父親は、まだ貴巳が生まれる前、彼の母親が妊娠中に離婚し、以後行方知れずであると聞いている。
そこまで考えて、雪子は一つの矛盾に気づく。
(出産前に離婚しているなら、どうして産後も瀬尾の苗字を名乗っていたの……?)
もちろん、色々と理由は考えられた。離婚後も、様々な理由から夫の苗字を名乗る女性は少なくない。それ以前に、全てが雪子の考えすぎ、邪推であり、雪子が病院で出会った瀬尾氏と貴巳は、全くの他人ということも充分に考えられる。
むしろその方が良いのに、と雪子は唇を噛んだ。そんな偶然があるものだろうか。
ある訳がない。きっと自分の思い過ごしに違いない……
「みいちゃん」
耳元で、千鶴の声がしたような気がして、雪子の肌が絶望的な予感に粟立った。
瀬尾 碧(みどり)
貴巳の母の名札には、そう書かれていたのだった。