1 
 
 
「あ、陽が射してきた……よかった」 
そうひとりごちえ、雪子はリビングから庭に続く大きな窓を開けた。 
途端に流れ込んできた冷気に一瞬首をすくめるが、頭上から降り注ぐ温かい日差しに、ほっと頬を緩める。 
サンダルを履き、洗濯物の入った籠を抱えて庭に出た。 
今年も残すところあと数日、暮れもいよいよ押し迫り、雪子は毎日を慌ただしく過ごしていた。 
歳暮の手配から大掃除、おせち料理の準備に加え、貴巳の実家で一人暮らしをする祖父の総二郎に、同じく一人暮らしの、雪子の祖母徳子、そして長らく生き別れとなっていた貴巳の父、瀬尾由貴とその妻千鶴の三所帯の手助けにまで、慌ただしく駆け回っていたのだった。 
その目の回るような忙しさも、昨日までに何とか落ち着いて、久しぶりにゆったりとした気持ちで、雪子は洗濯物を干し始めた。 
 
籠の中から取り出した、貴巳のワイシャツの皺を伸ばし、ハンガーにかけて物干しざおに吊るす。 
てきぱきと洗濯物を干す合間に、いつもの癖で、雪子の視線は自然と庭のフェンスの向こうに注がれた。 
高台にある中嶋家の庭からは、彼らの住むO市がほぼ一望できる。 
その眺めの中に、ほんの豆粒ほどに見えるのが、貴巳の実家である。 
貴巳の祖父、総二郎が一人で暮らしているその古い日本家屋の、勝手口のあたりを目をこらして眺め、物干しに昨日とは違う洗濯物が干されているのを確認して安堵する、というのが、晴れた日の雪子の日課であった。 
 
今日も、無意識のうちに視線は、総二郎の洗濯物を探している。 
眼下の眺めに注がれた雪子の視線が、見慣れぬ光景をとらえた。 
 
「……えっ?」 
手にしていた洗濯物を籠に投げ込むと、フェンスへと駆け寄って行って身を乗り出し、凝視する。 
「……うそ、でしょ……」 
 
 
 
 
2 
 
「お電話代わりました、企画部企画課橋本です……えっ、雪子ちゃん?課長は今ちょっと席を外してて……どうしたの、落ち着いて……あっ課長帰ってきた。今代わるからね」 
会議を終え自席に戻ってきた貴巳を出迎えたのは、受話器を片手に強張った表情の橋本あやであった。 
「課長、雪子ちゃんからです」 
受話器を受け取ると、今まで聞いたことのない、雪子のひどく取り乱した声が響いた。 
「貴巳さんっ、大変……たいへんっ」 
「どうした、落ち着け」 
「煙が……おじい様の家のほうから、すごい煙と、炎が」 
「……火事か。実家が燃えてるのが見えたのか」 
「煙がすごくて、はっきりとはわからないんだけど……でもすぐ近くなのは間違いないと思う。ああどうしよう」 
「消防に通報はしたのか」 
「私が見つけてからすぐにサイレンの音がして、さっき消防車が到着したみたい、赤いランプが……」 
「わかった。雪子は今、家にいるんだな?」 
「うん……でも」 
「いいか、俺が確認して連絡するまで家で待っていろ。絶対に現場に行くんじゃないぞ、わかったか」 
返事を待たずに電話を切り、振り返ると、企画課の職員たちが緊張した面持ちで貴巳を見つめていた。 
「橋本、午後のミーティングの件だが」 
「来年に延期でも全然問題ありませんね。出席者の調整しておきます。早く行って下さい」 
きっぱりと言い切ったあやが素早く貴巳のコートと鞄を手渡す。 
「気を付けてね」 
「タイムカード押しときますから」 
口ぐちに言う部下に、ぼそりと「済まない」と礼を言うと、貴巳は携帯を片手に庁舎を飛び出した。 
 
 
 
雪子は、必死に自転車をこいでいた。 
夫には現場に行くなと言われたが、黙って待っていると気が狂いそうだった。 
携帯さえ持っていれば、貴巳とも連絡がつく。 
とにかく黙っていられずに家を飛び出した。 
冷たい風が、容赦なく頬を切り裂く。指先はかじかんでもう感覚もなく、喉の奥は干からびてひゅうひゅうと呼吸音が高くなる。 
貴巳の実家に近づくにつれ、家から出て様子を見ている野次馬が増えていく。 
(……やっぱり、おじい様のお家なの……?) 
激しく息をあえがせて、いよいよ貴巳の実家の前の通りに出る。 
そのとたんに数十人の人間が人垣を作っていて、前の様子は全くわからない。自転車を道の脇に放り出すようにして、雪子は人ごみを掻き分け、ようやく最前列に出た。 
 
 
「……あ……」 
その光景を目の当たりにして、雪子は言葉を失った。 
貴巳と結婚してから三日とあけずに通った、見慣れた古い日本家屋。 
その勝手口から台所の周辺が、黒焦げの柱だけを残して無残にも焼け落ちている。 
そこからのぞく家の内部も真っ黒になっていて、家の奥からはまだ灰色の煙がくすぶり、消防隊員が放水を続けていた。 
 
「おっと、大丈夫ですか」 
思わず膝から崩れ落ちそうになった雪子を、隣に立っていた中年の男性が支えた。 
「あの、この家に住んでいた方は、無事でしょうか」 
すがりつくように聞く雪子に、その男性ではなく、近くにいた老婦人の集団が答えた。 
「あんた、中嶋さんの親戚かい?」 
「ああ、お孫さんのお嫁さんでしょう、ここへよく来てた」 
そう言って雪子の肩を気遣わしげに叩いたのは、雪子もたびたび顔を合わせて挨拶していた隣家の夫人であった。 
「あの、あの……おじい様は」 
まだ収まらない荒い息のまま訊く雪子に、夫人は表情を曇らせる。 
「さっき救急車で運ばれて行ったのよ……煙が出て一旦は外に避難されたんだけど、何か思い出したようにもう一度家に戻っていかれてね、危ないからやめろって皆言ったんだけど。 
それから少しして消防が到着して、家の中から抱えられて出てきてね……そのまま救急車に乗せられて行っちゃったのよ」 
「意識は……意識はありましたか。怪我の様子はどうでしたか」 
「担架で運ばれていくときにちらっと見えただけだからねぇ……目は閉じていたみたいだけれど。あと何か、箱を大事そうに抱えて……あれを取りに行ったのかしらね」 
「……そうですか……どこの病院に運ばれたかご存知ありませんか」 
「そこまでは……ごめんなさいね」 
「いえ、ありがとうございます」 
申し訳なさそうに言う夫人に頭を下げて、雪子は再び建物へと目を向けた。 
燃え方の激しさから見て、火元は台所で間違いなさそうだ。 
建物の奥からくすぶっていた煙はいつの間にか収まり、散水ホースの片づけが始まっている。 
ふらふらと建物へ歩み寄る雪子の行く手を、厳しい顔の消防隊員が遮った。 
「危険ですので下がって下さい」 
「あの、私、家族のものなんです」 
「……そうですか……ご家族でも、まだ危険ですので、許可が出るまで立ち入りはできないんです。申し訳ありませんが」 
憔悴した雪子の様子を見て、幾分優しげな口調に改めた隊員が言う。 
途方に暮れて立ち尽くす雪子の手の中で、握りしめていた携帯の着信音が鳴った。 
「貴巳さん」 
「雪子、家にいなかったな?危ないから現場には行くなと言っただろう」 
先に家の固定電話へかけて雪子の不在を知ったのだろう、貴巳の叱責の声も意に介さずに雪子は勢いこんで尋ねた。 
「貴巳さん今どこにいるの?おじい様は大丈夫なの?」 
「落ち着け。爺さんが運ばれたのは市立病院だ。今処置を受けている。心配はいらない」 
「処置って……意識はあるの?怪我はひどいの?」 
「落ち着けと言ってるだろう。俺も病院に着いたばかりで、まだ顔を見ていないんだ。意識はあるそうだが……家の方は鎮火したのか?」 
「うん、今消防隊の方が帰るところ。市立病院ね……私もすぐ行く」 
「気が動転してる時に自転車は危ない。財布は持っているか?ならタクシーで来るんだ、その方が早い。わかったな」 
「うん」 
雪子は頷いて、震える手で電話を切った。 
 
 
 
3 
 
「1650円です……はい2000円お預かりで、おつりは……いいんですか?ああ気を付けて下さいね、はいはいどうも」 
タクシーを飛び下りた雪子は、小走りで病院に駆け込んだ。 
いつも婦人科で通っている慣れた病院だが、外科病棟に立ち入るのは8年ぶり――以前、雪子の父親が交通事故でこの病院に搬送され、治療の甲斐なく亡くなって以来のことだった。 
エレベーターを待つ、その場で足踏みをしそうになるくらい焦れて、ようやく開いた扉に駈け込む。目的の階までがひどく遠く思えた。 
ナースステーションで手続きをして面会者用のバッジを受け取る。それを胸につけて、看護師に教えられた病室へと向かう。父が亡くなった時も同じ手順で病室に向かったのだった。一歩ごとに消毒液の匂いが強くなるような錯覚にとらわれ、急いでいるはずの足が重くなる。雪子は目指す病室の前で立ち止まったまま、足がすくんで動けなくなってしまった。 
ドアノブを掴もうとする手が震える。 
八年前、ドアを開けると、そこには紙のように白い顔色の父が、白衣の医師たちに囲まれて懸命の蘇生処置を施されながら横たわっていたのだった。 
「……っ……」 
ぎゅっと目を瞑り、首を左右に振って回想を頭から振り払う。 
深呼吸をし、覚悟を決めて引き戸に手をかけたその瞬間、内側からがらりと扉が開かれ、見慣れた仏頂面が雪子を見下ろしていた。 
「……貴巳さん」 
「どうした、入らないのか」 
「ううん……」 
おずおずと室内に歩み入ると、白いパイプベッドに横たわった総二郎が、 
「おや、雪子さん。心配かけて悪かったね」 
と、はっきりした声でそう言った。 
雪子は驚いて自分の耳を疑った。 
「どうしたね、豆鉄砲食らったような顔をして……思ったより元気だったので吃驚したんだろう」 
いつもよりも随分しわがれてはいるが、日ごろと変わらぬしっかりとした口調であった。 
見ると、総二郎の上半身にはところどころ包帯や絆創膏が貼られ、顔や手はぞんざいに拭かれただけなのか、あちこちが煤けて薄黒く汚れている。 
「火傷はそれほどひどくないそうだ。煙を吸ったので喉がやられているが、後は特に問題無いらしい」 
貴巳の言葉が耳に入ってくると同時に、ここ数時間張りつめていた雪子の緊張の糸がぷつりと切れた。 
「……雪子?大丈夫か」 
冷たいリノリウムの床にへたりこんだ雪子を見て、貴巳と総二郎が慌てる。 
両手で顔を覆いながら、雪子が大きく息を吐きながら、震える声で言う。 
「……良かった……ほんとに……よかったです……」 
 
「済まなかったね、本当に……」 
安堵のあまりぽろぽろと涙を零す雪子を見て、総二郎が噛みしめるようにつぶやいた。 
雪子を抱え、ベッドサイドの椅子に座らせた貴巳が、そんな祖父を見て溜息をつく。 
「全く……年寄りの一人暮らしだから、火の元には十分気を付けていると自信満々に言っていたはずでしょう。天ぷら油の火を付けっぱなしにするなんて、耄碌したんじゃないですか」 
「貴巳さん!そんな……」 
「いや、本当にそうなんだよ……私としたことがまったくうっかりしていた。ちょっと荷物が届いたもんだから、そちらに気をとられているうちに……家の方は鎮火したんだね?ご近所に類焼は……そうか。それは良かった。しかし皆さんにご迷惑かけてしまったね」 
「類焼しなかったのは幸運だが、これから問題は山積みです。とにかく爺さんは医者の言うとおり、二、三日おとなしく入院していて下さい。その間に俺が何とかカタをつけます」 
「済まんな、貴巳。雪子さんも……暮れの慌ただしい時にこんな事になって本当に申し訳ない」 
「そんなことはいいんです、おじい様の怪我がひどくなかったんですから……」 
まだ涙目の雪子が首を振ると同時に、背後の扉が開いて看護士が顔をのぞかせた。 
「中嶋さん、ご気分はいかがですか。消防署の方が見えてるんですが、お通ししてよろしいでしょうか」 
その声に頷いて、貴巳は、これから降りかかってくる様々な雑事と、そして近々迫られるに違いない大きな決断を思って、内心眉をひそめた。 
 
 
 
 
「……ここを見てください。土台がぼろぼろになっています。シロアリですね……柱が殆どスカスカです。火事にならなくても、これではどの道、近いうちに住めない状態になっていたでしょう」 
焼け残った家の床下を覗き込んで、作業服姿の男性が貴巳に言う。 
示された部分を見ると、確かに土台の柱が白い粉をふいて、指で触ると少し力を入れただけでぱきぱきと崩れた。 
無言で考え込む貴巳に、この辺りでは腕が良く良心的だと評判の工務店の大工がおずおずと声をかける。 
「なにぶん古いお宅ですからね……申し上げにくいんですが……この状態では、また住めるように改修するというのは……」 
「難しいでしょうね」 
頷いて、古びて苔むした石塀を、貴巳はしげしげと眺める。中嶋家のアルバムの中、若いころの祖父母と、まだ幼い母が、真新しいこの石塀の前で幸せそうに笑っている写真があった。 
古いアルバムは焼失は免れたものの、放水のせいで水浸しのひどい有様だった。 
貴巳は屋根を見上げる。 
自分の生まれるはるか前、若い総二郎とその妻キミが建てたこの家は、貴巳の母、碧が産まれ育った歴史でもあった。その母が若くして亡くなってからも残された父母と息子を守り、六十年の歳月を背負った古い実家は、ついにその歳月の重みに耐えかねて、今にも崩れそうに傾いで見えた。 
 
 
 
4 
 
「あれ、お母さん来てたの?」 
ベッドサイドの花瓶の水を替え、総二郎の病室に戻ってきた雪子は、枕元に座る自分の母、美紀子の姿を見て声を上げた。 
「ええ。雪子、悪いんだけどこれも活けてちょうだい。花瓶は足りる?」 
母の差し出した見舞いの花束を受け取って、雪子は頷いた。 
「雪子さん、貴巳は今日はこちらに来ると言っていたかな?」 
そう聞く総二郎に、雪子はちょっと考えてから答える。 
「ええ、朝、保険の手続きをしてくると言ってましたから、そろそろ来るころだと思いますよ」 
「そうか……」 
何やら考え込んだ総二郎に、美紀子が声をかける。 
「それじゃ、私はこれで失礼致します。お大事になさって下さいね」 
「坂井さん、お気遣い頂いて申し訳ありませんでした。ありがとうございます」 
起き上がって頭を下げる総二郎を押しとどめると、美紀子は病室の外に出かけて、雪子に向かって意味ありげな表情で手招きをする。 
小首をかしげた雪子が、「ちょっと失礼します」と総二郎に声をかけ、空いた花瓶と花束を持ったまま美紀子に従った。 
「お母さん、なぁに?私お花を活けてこなきゃ」 
「ちょっと話があるの。談話室ってあったわよね」 
「うん、この先に……あ、貴巳さん」 
廊下をつかつかと進む美紀子が足を止めた先に、相変わらずの無表情、無愛想の娘婿がこちらに向かって歩いてくるところであった。 
「お見舞いにいらしたんですか。有難うございます」 
ちっとも有難くなさそうな平坦な口調の貴巳の顔を見上げ、美紀子は挑みかかるような調子で 
「ちょうどよかったわ。貴巳さんにも話があります。ちょっとお時間いいかしら?」 
と、談話室の方向を指し示した。 
 
 
 
 
日当たりのよい、明るい談話室には、向かい合って座れるソファが何脚かセットされている。平日の午後早い時間ということもあり、人はまばらだった。 
貴巳と雪子が並んで座り、小さなテーブルを挟んで向かい側のソファに美紀子が座る。 
伏し目がちに考え込んでいた美紀子が、不意に貴巳を見据えた。 
「ご実家の方、様子はいかがでした」 
「地元の工務店に立ち会って貰ったんですが、駄目ですね。老朽化が進んでいて、改修はできないそうです。予想してはいましたが」 
それを聞いて、雪子が上ずった声を上げる。 
「やっぱりそうなの?……じゃあ、貴巳さん、やっぱりおじい様、これからうちに一緒に」 
「……雪子、それは」 
貴巳が言葉を濁すのと、 
「そのことですよ、話というのは」 
と美紀子が口を開くのが同時だった。 
「雪子のことだから、きっとそう言うと思ってたわよ……雪子、あなたね、自宅でお年寄りのお世話をするのがどんなに大変かわかっていないでしょう」 
母の口から出た言葉に驚いて、雪子が口ごもる。 
「お、お母さん、いきなりそんな……貴巳さんに、おじい様にも、失礼でしょっ」 
「はっきり言わなければあなたはわからないのよ。貴巳さん、失礼は承知の上で、雪子の母親として言わせてもらいます。このままこの子のお人よしに甘えて、お身内の世話を全部任せきりにさせるのはやめて頂きたいの」 
「お母さんっ?!」 
きっぱりとそう言い切った美紀子の目を正面から見つめて、貴巳は暫し黙った後に頷いた。 
「自分も、その事については申し訳ないと思っています。これ以上雪子の負担を増やすつもりはありません。祖父との同居は考えていませんので、ご心配なく」 
「貴巳さんまで……どうしてそんな事言うの?私なら全然大丈夫だよ?」 
「どこが大丈夫なの?雪子、あなた最近いつも疲れた顔してるわよ。それに少し痩せたんじゃないの」 
「……それは、ちょっとは疲れてるけど……でも私、専業主婦だもの、子供もまだいないし、その分頑張らないと」 
「そのことよ」 
雪子の言葉尻をとらえて、美紀子が言い募る。 
「あなたたち、子供が欲しいんでしょう。もしお爺様を引き取ることになって、失礼だけれどお年もお年だし、介護が必要な状態になることもそう遠いことではないわ。そうなったら子供なんて望めると思う?雪子、女性は何歳になっても子供が産めるわけじゃないのよ。ましてやあなた、体質的にも……」 
言葉を濁した美紀子が、手を伸ばして雪子の両手をしっかりと握る。 
「ひどい事言うと思うでしょう。でもね、私は母親として、あなたと貴巳さんに、自分の人生をしっかり生きてほしいのよ。せっかくの若い貴重な時間を、自分たちのために使ってほしいの」 
「お母さん……でも……でも、おじい様、住むところだって無いのに」 
「お話は承りました。祖父のこれからの住処については老人ホームなども色々と検討しています。当人も入居できる所があればそこに入ると言っています。退院してからそこに入居が決まるまでの間は、他に行くところも無いですし、うちで寝泊まりすることになるかと思いますが、それはあくまで短期間のことです。これ以上雪子の負担を増やさないとお約束します」 
「貴巳さん!老人ホームって……おじい様とそんなお話したの?いつの間に?私聞いてない!」 
非難の声を上げる雪子に、貴巳は向き直って口を開く。 
「昨日、夕方に一人で病室に寄った時に、爺さんから言われたんだ。もうあの家はきっと駄目だろうから、死ぬまで入っていられる施設を探してくれないかと」 
「そんな……そんなことって」 
「わかってくれて嬉しいわ。失礼なことばかり言ってごめんなさい。主人も、今回の事ではできる限りの手助けをさせて頂きたいと言っているの。知人に福祉関係の仕事をしている人もいるから、ご相談に乗れることもあるかと思います。また改めてご連絡するわ」 
「お母さん!待って……お母さん!」 
 
雪子を振り切るように踵を返して、美紀子の姿がエレベーターホールへと消えていく。 
戸惑ったままにそれを見送って、雪子は隣の貴巳を、非難の目つきで見上げた。 
「……貴巳さん、本気で言ってるの……?」 
「もちろん本気だ。俺も、爺さんも」 
「ねえ……私なら、ほんとに大丈夫だよ、だから」 
「この話は終わりだ」 
取りつくしまもなく立ち上がる夫の、相変わらずの無表情が歯がゆくて、雪子は唇をかみしめた。 
 
 
 
 
5 
 
大晦日。 
街を行きかう人々も足早で、気ぜわしい雰囲気の中、総二郎は何とか年内ぎりぎりに退院の日を迎えることができた。 
「ええと、他に必要なものは、貴巳さんがおじい様のおうちから取ってきてくれるそうですから、とりあえずはまっすぐ、うちの方へ」 
病室で荷物をまとめ始めた雪子に、総二郎が声をかける。 
「済まないね。落ち着き先が見つかるまで世話になるよ。貴巳とも話したが、手頃な老人ホームが見つかったんだ。間もなく空きがでるというから、それまでお世話になるよ」 
「……あの、おじい様……そのことなんですが」 
言いさして、雪子が部屋のドアの方を振り返る。 
人の気配がしたのは気のせいではなかった。会計の手続きをしていた貴巳と、その背後から美紀子が、連れだって部屋に入ってきたのだ。 
「あれ、お母さん……来てたの」 
「うん、荷物持ちでもお手伝いしようかと思ったけど、貴巳さんがお休み取れたなら大丈夫だったわね」 
先日の口論から気まずい関係のままの母と娘は、なんとなくぎこちない挨拶を交わす。 
いたたまれなくなって貴巳の方を見やると、こちらはこちらでなんと、ベッドの上の祖父を険しい目で睨み付けていたのだった。 
「た、貴巳さん……?」 
「爺さん、さっき近所の人に聞いたんですが……火事のあった日、一旦は避難したのにまた家に戻ったというのは本当ですか」 
「……ああ」 
雪子ははっと息を呑んだ。あの日、近所の人から聞いた総二郎の不可解な行動。 
なんとなく理由を聞きそびれて、また貴巳に話すのも憚られたため、ずっと自分の胸にしまっておいたのだった。 
「なぜそんな事をしたんです。ちゃんと逃げていれば怪我をすることもなかったし、もっと早く火を消し止められたはずです。アル……家財道具だって無事で済んだはずだ」 
何か言いさして、何気ない風を装って言い直した孫息子を、総二郎は痛ましそうに見つめた。 
「……済まない。バカなことをしたと、自分でも思っているよ」 
「一体何を取りに戻ったんです」 
あくまで問い詰める姿勢を崩さない孫息子に、覚悟したように溜息をついて、総二郎は雪子の方を向いた。 
「雪子さん、すまんが、ベッドの下にある箱を取ってくれんかね……ああ、そう、それだ」 
まるで隠すようにベッドの奥へ押し込まれていた、四角い、大きく平たい形の箱を手渡しながら雪子は、昨日までそんなものがあっただろうかと訝しんだ。 
その疑問の目線に応えるように、総二郎が言う。 
「実は、これを取りに、燃える家に戻ったんだ。居間に置いてあって、取りに行ってまた逃げようと思ったら煙に巻かれて動けなくなってな。消防の人が助けに来てくれた時も離さなかったもんで、呆れて一緒に運び出してくれたんだな。家の外まで出て、近所の人に預かってもらった。それを昨日の夕方に持ってきてもらったんだよ」 
「……中身は、何なんです」 
貴巳の言葉に、総二郎は一瞬、厳めしい顔つきに不似合な、まるで少年のようなはにかんだ笑みを浮かべた。 
「……迷惑かもしれんが……これは、雪子さんに差し上げようと思ってな」 
「えっ、私に……ですか」 
「開けてみてくれるかい」 
促されて、雪子がおずおずと箱の蓋を取ると、その目に飛び込んできたのは深緑色の絹地に、金糸銀糸の刺繍の美しい布であった。 
「……あっ、これ、もしかして……貴巳さんのお母様の着物ですか……アルバムに写ってた、成人式の」 
気付いた雪子が声を上げる。それはまさしく、中嶋家の古いアルバムで、貴巳の母、碧が着ていた、深い上品な緑色の振袖であった。 
「よけいなことだとは思ったんだが……知人の、和裁をやっている人に頼んでな、雪子さんに合うように仕立て直して、既婚者でも着られるように袖も少し詰めてもらったんだ。大体の身長しか伝えていないから、細かい部分まで合うかわからないが」 
「……もしかして、この前、私の身長をお聞きになったのって……」 
「ああ、目安になればと思ったんだが、ぶしつけな質問をして悪かったね」 
「そんな……頂けません、こんな大切なもの」 
「いや、爺の我儘だと思ってもらってくれんかね。雪子さん、成人式で振袖を着ていないと言っていたじゃないか。碧だってきっと、雪子さんに着てもらえば喜ぶだろうさ」 
この振袖は、中嶋家の一番良き時代――まだ碧に病魔の影も見えず、前途が洋々としていた時代の、たった一つ残った痕跡なのだった。 
なめらかな絹地を指先でそっと撫で、雪子は背後に立つ母を振り返った。 
美紀子は、食い入るようにその振袖を見つめている。 
「……お母さん」 
「……そうだったわね……あのころ、私、ちっとも気持ちに余裕がなくて……レンタルの着物で写真を撮ってあげるくらい出来たはずなのに、それも結局しないでしまって……ごめんね、雪子、良かったわね……あなた色が白いから、きっとこの色がよく似合うわよ……中嶋のお爺様、本当にありがとうございます」 
そう言って美紀子は、総二郎に深々と頭を下げた。 
その母の姿を見て、雪子ははっと息を呑んだ。 
母の横顔、閉じた瞼には、今にもこぼれそうな涙の滴が湛えられていたのだった。 
雪子の胸のうちで、ことり、と何かが動くような、スイッチの入るような音がした。 
震えそうになる声をはげまして、雪子は口を開いた。 
「……お母さん、貴巳さんも……聞いて。 
おじい様、ありがとうございます。遠慮なく頂きます……だから……だから、このお着物と一緒に、おじい様も、うちに来てください」 
その場にいる一同が、弾かれたように雪子の顔を凝視した。 
 
「いやぁ、もちろんそのつもりだが」 
あえて場を和ませようと、鷹揚とそう言う総二郎に向かって首をふり、雪子は言う。 
「どこか余所に移られるまでの仮住まいじゃなく……ずっと、うちにいて下さい、ということです」 
「雪子、その話は終わったはずだ」 
たしなめる貴巳にきっぱりと首を横に振り、雪子はまっすぐに総二郎を見つめて言葉を継いだ。 
「……わたし、まだ結婚する前、初めて貴巳さんのおうちにお邪魔した時から、ずっと不思議だったことがあるんです。 
貴巳さんは無駄なことが大嫌いな合理主義者なのに、どうしてこんな、一人暮らしには広すぎる一軒家なんて建てたのだろうって…… 
おじい様は、貴巳さんのおうちにいらしたことがないから、ご存じないと思いますが……あの家には、一階に和室が二間もあるんです。仏壇を置く場所も、庭の見える大きな窓も……お風呂もトイレも、普通の家よりも広く作ってあります。家の中には段差もありません。もしおじい様が介護が必要になっても、困らない作りになっているんです」 
「……雪子、俺は別に」 
うろたえる貴巳の言葉をさえぎって、雪子は更に一生懸命に言い募る。 
「それに、私、気づいたんです……貴巳さんはどうして、ちょっと不便な高台に、わざわざ家を建てたのかって……うちの庭から、おじい様のお宅が見えるんです。私も、実は毎日、おじい様は元気かって庭から洗濯物を眺めていました。 
私と暮らし始める前は、貴巳さんが、きっと同じことをしていたんだと思います……それに、それに、庭からの、眺めが」 
いつの間にかぽろぽろと涙を零しながら、雪子が震える声で続ける。 
「眺めが、殆ど同じなんです。お山が遠くに見えて、夕焼けも、朝焼けも、おんなじように綺麗に見えます。 
……あの家は、今は私の家でもあります。でも、もともとは違います。 
あの家は、貴巳さんと、おじい様のための家なんです。 
……貴巳さん、きっと、実家が古くなってもう長持ちしないってわかっていて、それで自分で家を建てたんだと思います。今、こういう事が起こった時のために建てた家なんです。 
……でも、貴巳さん、言えないんです。おじい様に来てほしいって。……私がいるから、私のことも気遣ってくれているから……」 
ぼろぼろと零れる涙をぬぐおうともせず、雪子はしっかりと総二郎と、そして貴巳を見つめて言葉を紡ぐ。 
「だから私が言います。貴巳さんのために……あの家で、ずっと一緒にいて下さい。あの家に、帰ってきて下さい」 
 
「……雪子」 
絞り出すように、貴巳が呟く。 
「貴巳さん、ごめんね……私のせいで辛い思いさせちゃったよね……ありがとう。でももう、迷わなくていいんだよ……私、決めたから。それに」 
言葉を切って、雪子は母の方へ向き直る。 
「お母さん……私のこと、心配してくれてありがとう。 
あれから、考えたの……お母さん、私には弱音吐いたり、泣いた顔見せたり、絶対にしなかったよね……お父さんが亡くなった後、事故の被害者の方にお詫びに行く時も……私も一緒に行って謝るんだって言ったのに、絶対に連れて行ってくれなかった。仕事でも、お父さんがいなくなった事でも、坂井さんとの事も……辛いこと、悩むこといっぱいあったと思うのに、お母さん、私には全然そんなそぶり見せなかった。……私ね、ずっとそれが、悔しかったの」 
「……くやしかった……どうして……?」 
戸惑う母の目を見つめて、雪子は今まで胸の内に秘めてきた母への感情を、初めて言葉にする。 
「私、お母さんの支えになりたかったよ……でも、お母さんは、私のこと頼りにしてくれなかった……確かに子供だったけど、私はお母さんと二人で、一緒に戦ってるつもりだったよ……だから、だから……坂井さんとの結婚も、私に相談もせずに決めちゃったことが、すごく……すごく、悔しかった、のっ……」 
「……雪子……あなたがそんな風に思ってたなんて、私……」 
しゃくりあげながら言う娘の肩を強く抱き寄せて、美紀子が目をぎゅっと瞑る。 
「ごめんね……お母さんはね、ずっと雪子の重荷になりたくないと思ってたの……私がずっと雪子にくっついていたら、恋愛だって結婚だって気兼ねしてできないでしょうと思って……」 
「うん。今ならわかるよ……お母さん、今まで、私のこと、ずっと笑顔で守ってくれてたんだよね……ありがとう」 
涙で顔をくしゃくしゃにして、母と娘が頬を寄せる。 
そっと雪子が顔を離して、同じように涙に濡れた母に向き合って、穏やかに、きっぱりと言い切った。 
「私、もう大人だもの……守られるのはうれしいけど、それだけじゃなくて、自分の力で誰かを守りたい。自分の家族を作りたい。大変なことがあっても笑顔でいられるようになりたいの。だからね、心配してくれて嬉しいけど、これは私が決めたことなの。間違ってない、と思う……きっと。……ね、貴巳さん」 
微笑んで振り返った先で、最近少しずつ表情豊かになってきた、それでも人よりは随分無愛想な相棒が、口をへの字に曲げて頷き、そして美紀子に向かて深く頭を下げた。 
 
「そう……あなた達がそこまで考えてるなら、もう私は何も言えないわ。……でも心配だけはさせて頂戴。子供が産まれたりしたら、今より何倍も大変になるわよ」 
不安を拭いきれない様子の美紀子に、雪子は悪戯っぽく微笑んで言い返した。 
「だったら、お母さん手伝ってくれるでしょ?もし赤ちゃんが産まれたら」 
「……もう、当たり前じゃない」 
ようやく屈託なく笑った美紀子が、ずっと黙って聞いていた総二郎に向き直り、改まって詫びた。 
「中嶋のお爺様、娘可愛さに失礼なことを色々と申しました。……ですが、私の見当違いだったようですね……こんなに娘を大切にして頂いて、有難くて言葉もありません……雪子も、私が思っているよりも随分大人になっていたようです。 
私からもお願いです。どうか私の失礼な言葉は水に流して、二人の思うとおりにして頂けませんか」 
総二郎の、固く引き結ばれた口元が震えている。 
固く拳を握りしめ、三人に向かって深く頭を下げ、ようやく聞き取れるかという声で「……ありがとう、本当に」とつぶやいたのだった。 
 
 
 
6 
 
 
きりっとした陽の光が窓越しに降り注ぐ。 
両手に力を込めて、帯締めをぎゅっと締める。 
絞りの帯揚げを端正に結んで、控えめに帯の上から覗かせた。 
姿見の前でゆっくりと回って、おかしな所が無いか確認する。 
「あの……できました」 
和室の襖を開けてリビングの方へ、おずおずと声をかける。 
お節料理を広げたテーブルを囲んだ二人から、感嘆の溜息が微かに漏れた。 
 
 
艶やかな髪を結いあげて、白いうなじがのぞく。 
深い緑の絹地には、振袖としては控えめな、上品な御所車の刺繍が施されている。 
名の通り、雪のような白い肌に、その着物はあつらえたようにしっくりと似合っていた。 
「やあ……驚いた。本当によく似合う。いや、めでたいな……こんなめでたい正月は久しぶりだ」 
目じりを赤く染めた総二郎が手放しで褒めそやす。 
「貴巳さん……どうかな?」 
目を細めてじっと見つめる夫に微笑みかけると、貴巳はぼそりと 
「動きづらそうだな」 
と感想を漏らした。 
「全くお前は……もっと気の利いたことが言えないのかね。雪子さん、ちょっとあの堅物をつねってやりなさい」 
総二郎の言葉にくすくすと笑いを漏らす雪子が、着付けで散らかった小物を片付けようと和室へ戻る。細々とした紐や着付け用のクリップなどを片付けて振り返ると、気配もさせずに貴巳がいつもの仏頂面で立っていた。 
「わっびっくりしたぁ……どうしたの?」 
まじまじと雪子を見つめる貴巳が、いつものひどく不機嫌そうな無表情で一言、 
「綺麗だ」 
と呟いた。 
「……え?……えっ……えええっっっ!?」 
自分の耳が混線でも起こしたのかと驚愕する雪子だが、目の前の夫はあくまで真剣な無表情だ。 
「えっと……も、もう一回言って?」 
「一度しか言わん」 
すげなく断ると、貴巳はさっさとリビングへ戻って行ってしまった。 
暫く呆然と立ち尽くしていた雪子が、はっと我に返り、慌てて後を追う。 
どぎまぎしながらテーブルの上の三つのお猪口に屠蘇を注ぐと、総二郎が 
「雪子さん、顔が真っ赤だが大丈夫かね?屠蘇でもこっそり飲んだかね、乾杯はこれからだが」 
と悪戯っぽく口元をゆるませ、お猪口を手に取ると改まって二人に掲げた。 
「明けましておめでとう」 
「明けましておめでとうございます」 
「お、おめでとうございますっ」 
 
 
窓の外では、この市に生まれ育ったものなら誰もが畏敬と親しみを覚える山が、今年初めての太陽の陽を浴びて、きらきらと緑色を輝かせ、変わらぬ姿で聳えていた。 
 
 
 
 
 
 

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