2 余命 
 
 
 
 
 
次の日、やはり朝起きられなかった雪子の代わりに、貴巳が朝食を作ることになった。 
総二郎の意味ありげな含み笑いを見なかったことにして、三人は揃って、トーストとゆで卵の簡単な朝食を摂った。 
コーヒーの香りが、朝の柔らかな光の差し込むリビングに漂う。 
貴巳が出勤してゆき、雪子が洗濯物を干し、総二郎は庭に置かれたプランターの花の手入れをする。 
貴巳と雪子はごく自然に総二郎を毎日の生活に受け入れて、いつの間にか日常になった 
三人の風景はいつまでも続くかのように思われた。 
 
 
 
ずいぶん時間が経ってから、雪子は思い返す。あの日々は、奇跡のように穏やかな時間だったと。 
それは、ほんの数か月のことだった。 
 
 
 
 
総二郎の顔色が悪いと、最初に気づいたのは貴巳だった。 
青白いというよりは黄色っぽくくすんだ顔色。 
体調は何も変わらない、痛いところもなければ倦怠感などもない。実家の火事からこっち、入院に転居にと色々なことがあった疲れが出てきたのだろう、そう言う総二郎の説明に一度は納得した。 
しかし日を追うごとに顔色はますます悪くなっていく。 
貴巳から少し遅れて雪子もそのことに気づき、二人から揃って強く受診を勧められた総二郎は、渋々といった体で検査を受けにいったのだった。 
 
 
1週間後、検査の結果が出た。 
小太りでもじゃもじゃ頭の主治医は、目の前の椅子に座る総二郎と、その後ろに付き添う若い二人の家族に目をやり、眼鏡の奥の目をしょぼしょぼと瞬かせた。 
「……申し上げにくいんですが、中嶋さんの胆管に、悪性の腫瘍が見つかりました」 
 
診察室が静まり返る。 
 
ほんの数秒、しかし永遠とも思える沈黙。 
張りつめた空気を破ったのは、雪子の震え声だった。 
「腫瘍……悪性、ってもしかして……がんのことですか」 
祈るように見つめる雪子の視線を受けて、主治医は困った表情を浮かべてカルテに目線を落とした。ゆっくりと頷く。 
言葉を選ぶように、医師はおずおずと口を開き、状況の説明を始めた。 
総二郎の顔色が悪い原因は黄疸で、腫瘍により狭まった胆管に胆汁が詰まったせいであること。 
胆管がんは、がんの中でも特に予後が悪く、症状が出て受診した時にはかなり進行している場合が多いこと。 
総二郎の場合も例に漏れず、検査の結果、手術は難しい段階まで進行していること。 
完治は望めそうにないこと。 
老齢の総二郎にも理解できるようにか、ゆっくりとした口調と噛み砕いた表現でそこまで説明すると、医師は、 
「非常に難しい選択を、皆さんにはしていただかなければなりません」 
そう重々しく口を開いた。 
抗がん剤治療をするか。その場合は根治は期待できず、あくまで延命を目標にすること。かなり辛い治療になること。それとも、積極的な治療はせず痛みなど不快症状を抑え、残された時間を可能な限り苦痛なく過ごす方針にするか、家族でよく話し合って欲しい。 
主旨をまとめると、そういうことだった。 
「……なるほど、よくわかりました」 
その場にいる全員にのしかかるような沈黙を破って、場違いなほどにあっけらかんとした声音で応えたのは総二郎だった。 
「ちっとも痛くも苦しくもないもので、まさかそんな事になっているとは思いませんでしたが……しかし、なってしまったものは仕方ない。悪あがきせずに、癌のやつと一緒に冥途の旅に出るとしますよ」 
「おじい様、そんな」 
「まだ治療の手が無いと決まったわけじゃない」 
同時に反論した孫夫婦を、たった今不治の病の告知を受けたとは思えないほどに穏やかに、笑みさえ浮かべて見やり、総二郎は首を横に振る。 
「いいんだよ。仮に辛い治療をして、それで何か月か寿命が延びたってどんな意味があるというんだ。わたしはこの通り、もうすぐ九十の年寄りだ。いつ死んだっておかしくはないんだよ。どのくらい生きられるか、期限がわかるならありがたいというものだ。それで先生、どうですか、わたしはあとどの位生きられそうですかな」 
面喰ったような顔で、主治医はぽりぽりと頭を掻いた。 
「いや、こんなに落ち着いて告知を受けられる患者さんは滅多にいらっしゃらないもので……失礼しました。……余命の告知というのは一応の目安でしかありませんが、……抗がん剤を使わず、痛みなどの緩和ケアを受けられた場合、恐らくは、三か月から六か月ほどと思われます」 
 
夫婦の耳に、その言葉が耳鳴りのように響いた。 
穏やかに頷いた総二郎が、主治医が指し示した資料をのぞき、頷いている。 
 
ふらついた雪子の肩を貴巳が支えた。その手は、小刻みに震えていた。 
 
 
 
 
 
 
 
雪子は、どうやって家に帰ってきたのかわからなかった。 
気が付くと自宅のキッチンに呆然と突っ立っていた。 
流しの向こうのダイニングテーブルには総二郎と貴巳が向かい合って座り、貴巳はタブレット端末を覗き込み、しきりに指先を動かしている。告知された病気のことを調べているのだろう。総二郎は医師に渡された資料を手にしているが、目線は一心不乱に調べものをする孫息子へと注がれていた。 
「……貴巳」 
落ち着いた声で語りかける祖父を、遮るように貴巳は口を開いた。 
「胆管がんの症例を多く手掛けている病院が、県内に3つあります。それほど遠くない。なるべく早く受診してセカンドオピニオンを」 
「貴巳、いいんだ」 
険しい目線を投げかける貴巳に、総二郎はゆっくりと首を振ってみせた。 
「良くありません。確かにあの医師は専門医かもしれないが、他の医師の意見を聞くことは無駄じゃないはずです」 
「治らんよ」 
「なぜそんなに早く諦めるんです」 
「そうですよ、貴巳さんの言うとおりです、おじい様」 
たまらなくなって雪子も、キッチンを回り込んで貴巳の横に並び、口を挟んだ。 
「せっかく、貴巳さんとおじい様が一緒に住めるようになって……これから、ずっと……っっ」 
唇を噛みしめる雪子を見て、総二郎は慌てて両手を振った。 
「いや、雪子さん、頼むから泣かんでくれ。雪子さんに泣かれるのが一番堪えるんだ」 
言われた雪子が必死でこみ上げる涙を堪えるのを困ったように見やり、総二郎は眉尻を下げた。 
「雪子さん、貴巳も聞いてくれ……なあ、諦めると言ったが……そうじゃない、そうじゃあないんだ」 
ゆっくりと、何かを噛みしめるように、総二郎は首を横に振った。 
「……私は正直、ほっとしているんだよ……ようやく私の番が来たんだ」 
その言葉に、二人が揃って顔を上げる。 
「生まれた順に、年取った順に死んでいければいいんだがな……そういう訳にはいかないだろう。わかってはいても、自分より若い人を見送るのは辛いものだよ。90年も生きるうちに、娘に先立たれ、8つも年下だった婆さんも、まさかと思っていたが先に逝ってしまった。友人も同僚も、もうほとんどいない。皆、向こう岸で楽しくやってるさ」 
その言葉に、雪子ははっと息を呑んだ。 
総二郎の一人娘であり貴巳の母、碧は、三十代という若さで幼い貴巳を遺し亡くなっている。伴侶のキミは、貴巳が大学に入ったのを見届けたかのように、病気の発覚からほとんど間を置かず亡くなったと聞いている。 
「今度こそ私の番だよ。もう誰も見送らずに済む。唯一気がかりだった堅物の孫には優しい嫁さんが来て、一緒に住もうなんて言ってくれる。おまけに、死ぬ時期もわかっていて、痛みも和らげて安らかに死ねる。人生を諦めているなんてとんでもない。こんな幸せなことはないさ」 
噛みしめるようにそう言う総二郎に、若い二人にはもう反論する言葉は無かった。 
「さあ、もうこんな時間か。雪子さん、今日は疲れただろう。夕飯は何か店屋物でも奢ろうか」 
あくまで快活な声音でそう言う総二郎に、雪子は慌てて首を振ってキッチンへ戻った。 
「いえ大丈夫です、材料も何かしらありますしご飯も炊けてます。急いで作りますから……」 
タオルで涙をごしごし拭いて、エプロンを付ける。 
冷蔵庫の扉を開け、少しの間ぼんやりしてから、ようやく下ごしらえをしておいた鶏肉の存在を思い出した。 
タッパーを取り出し蓋を開ける。生姜の香りが鼻をついた。 
から揚げにしようと、朝のうちに下味をつけておいたのだ。 
いつもなら快く感じるその香りも、今の雪子には胸が悪くなるような鋭い香りにしか感じられない。 
顔をそむけて深呼吸する。不快感を無理やりに押さえつけ、コンロで油を熱しようとして、雪子の手がはたと止まった。 
(そういえば……おじい様の病気に、良くない食べ物とか、ないのかな……お医者さんに聞いて来ればよかった) 
身体がむくんでいるということは、塩分は控えた方が良いのだろうか。ならば油は、カロリーは……と思いをめぐらすうちに、雪子はふと、あることに気づく。 
(……三か月から、半年……三か月……) 
 
「雪子、どうした」 
台所に立ったまま、手も動かさずにじっとうつむいている雪子を貴巳が案じる。 
呼びかけても反応がない雪子の肩を揺さぶると、唇から微かな声が漏れた。 
「……れない」 
「え?」 
「ごめんなさい……私……ごはん、つくれない」 
「……雪子?」 
「ああやっぱり、こんな話を聞いたばかりでショックなんだろう。食事はいいから座って休みなさい」 
肩を抱く総二郎の言葉に激しく首を振って、雪子の喉から、か細い、押し殺した嗚咽が漏れた。 
今まで、食事を作ることを苦に思ったことは殆どなかった雪子である。 
料理をすること自体が好きだし、喜んで食べてくれる人がいれば尚、楽しかった。 
なるべく旬のものを使い、野菜をたっぷりと。味付けは食べる人の好みに合わせて。 
それだけを考え、高校生の頃から毎日、献立を考え、包丁を握ってきたのだった。 
行きつけの商店街に並ぶ、季節ごとの野菜や魚。 
これから暑くなるごと、旬を迎える魚は減るが、総二郎が好きだという鮎はもうすぐ出回りだすだろう。夏野菜が美味しくなり、大葉やみょうがなど、薬味をふんだんに使ったさっぱりとしたメニューが喜ばれるはずだ。夏が終われば、秋の味覚が我先にと旬を迎え、魚屋も八百屋も店先がにぎやかになる。暑さに疲れた身体も一息つき、献立を考えるのも楽しい季節だ。 
(……でも、もしかして) 
その季節に、総二郎はいないかもしれない。 
早くて三か月。その具体的な日数が雪子に重くのしかかる。 
九十日。毎日三食作ったとして……そもそも、最期まで総二郎が元気で食事を摂れる保証などどこにもない。 
秋を一緒に迎えられるだろうか。冬、焼失する前の家によく届けて喜ばれたふろふき大根も、今年の正月、晴れやかな気持ちで一緒に囲んだおせち料理も、もう二度と一緒に囲むことはないかもしれない……いや、恐らく無い。一日一日と、最後の日は近づく。一緒に食卓を囲むごとに、その時は確実に迫ってくる。日に三度の食事は、どんどん流れ続ける時間のチェックポイントのようだ。長い人生の終わりの日々に、総二郎は一体何が食べたいと思うのだろう。何を作れば喜んでもらえるのだろう。雪子には見当もつかない。 
途方に暮れて、唇を噛みしめた。 
「……どう、したらいいの……わたし、おじい様に……何を、食べてもらえば……いいのか……わからない、です……」 
 
絞り出すような雪子の台詞に、傍らに立った総二郎が、雪子の背中を優しくさすった。 
「……ありがとう。いいんだよ、そんなに難しく考えることはないさ。雪子さんの料理なら、私は何でも美味しく頂くとも」 
慰められてもまだ泣きじゃくる雪子と、声をかけかねて押し黙る貴巳を交互に見て、総二郎はふむ、と頷いた。 
「……門松や冥途の旅の一里塚、というが、確かに三度の飯もそんなものだなぁ。随分間隔の短い一里塚だがね。……よし、それじゃ今日は記念すべき、私の冥途の旅すごろくのふりだしだ。どれ、飯は炊けているんだな。ここはひとつ、皆で握り飯でも作ろうじゃないか」 
「……え?」 
「……握り飯?」 
ぽかんとした顔を上げた若夫婦に、総二郎はにやりと笑って頷いてみせた。 
「……本来なら一番落ち込むべき人が、なぜそんなに元気なんです」 
貴巳が、ややげんなりとした様子で呟く。 
「だから、むしろ私にはめでたい事だとさっきも言っただろう。さあ、皆手を洗いなさい。雪子さんは顔もだ」 
貴巳と目を見合わせた雪子が、涙でぐしゃぐしゃになった顔をわずかにほころばせた。 
 
 
「貴巳さんの、ちょっと大きくない?」 
「雪子のが小さすぎるんだろう」 
「手が小さいから仕方ないもん」 
台所に三人が並んで立つという、中嶋家にはかつてなかった光景である。 
炊き立ての白飯を茶碗によそい、真ん中をくぼませて具を入れる。 
手に塩水をつけ、雪子はリズミカルに、貴巳と総二郎はややぎこちなく握ってゆく。 
「見分けがつくように、梅干しは三角おにぎりで、焼鮭は丸くしてくださいね」 
「参ったな、雪子さん、三角というのはどうやったらできるんだ」 
「爺さんがこんなに不器用だったとは知りませんでした」 
「失敬な。握り飯なんて作ったことが無いんだから仕方ないだろう……しかし何だ、確かに難しいなこれは」 
「爺さん、力を込めすぎですよ。それじゃ固すぎる」 
「食べごたえがあっていいだろう」 
「海苔、足りるかなぁ……足りなかったらおぼろ昆布でもまぶしましょうか」 
「ああ、それも美味そうだ。梅に昆布か」 
常になく賑やかな台所から、大皿に乗せられた握り飯がテーブルへと運ばれた。 
大小さまざま、かなりいびつな形も混じって並んだ様子を見て、雪子が口元をゆるませる。熱いほうじ茶を淹れ、湯呑みを三つ盆に載せる。 
三人は揃って席に着き、いただきます、と手を合わせた。 
「これはおじい様が作ったのですね」 
「一目でわかるだろう。雪子さんのは可愛くて一口で食べられそうだな。どれ」 
「喉に詰まりますよ。余命宣告された日に死んだら洒落にもならない」 
「貴巳さんっ!」 
それぞれの口が握り飯をほおばるたび、海苔がぱりっと小気味よい音を立てた。 
「……美味しいですねぇ」 
ぽつりと雪子が呟く。 
「お米と、海苔と、具と……あと塩だけなのに」 
「美味いだろう。食事を美味いと思って食べられることほど幸せなことはないよ」 
頷いて総二郎が言う。 
「雪子さん、何も悩むことはないんだよ。今まで通り、心を籠めて作ってくれた食事が何よりのご馳走だ。明日も明後日も、いつも通りの食事を作ってくれれば、それで十分なんだ。重荷ならさぼったって、買ってきた惣菜だって出前だって全然かまわないさ。皆で食べる食事が一番美味い。そう思わないか」 
言われて雪子は、手に持った食べかけのおにぎりに目をやる。 
米はつやつやとしていて、海苔の香りが良い。まだほのかに温かい。 
総二郎の言葉がすとんと腑に落ちて、こっくりと素直に頷いた。 
「だから言っておきたいんだが、もし私が衰えて、ものを食べられなくなったからといって、チューブを通して流動食を流し込まれたりするのはごめんだよ。私の身体が食事を必要としなくなったら、そのまま枯れるように逝かせてくれないか。いよいよ悪くなってきたら入院しなきゃならんだろうが、病院の人たちにもそう伝えてくれ」 
「……わかりました」 
目に覚悟の色を浮かべて頷く雪子の横で、貴巳は押し黙ったまま、手元の握り飯を見つめていた。 
 
 
 
 
 
 
寝室のドアが、音を立てずにそっと開いた。 
差し込む廊下の灯りに、雪子が身を起こす。 
「……済まない、起こしたか」 
「ううん、眠れなかったから……」 
風呂を済ませ、片付けを終えてもまだリビングで調べものを続けている貴巳を、そっとしておこうと先にベッドに入ったものの、さまざまな物思いに眠れずにいた雪子だった。 
時計を見ると、午前2時を過ぎていた。 
階下には人の気配はない。総二郎は眠れているのだろうか。 
雪子はふと、ベッドに入ってきた貴巳を見やる。いつもと変わりなく無表情で、無愛想な鉄仮面であるが。 
「……貴巳さん、なに?」 
「……なに、とは」 
「何か、私に話があるんでしょ?」 
「……よくわかったな」 
貴巳は微かに片眉を上げる。 
「私も鋭くなったでしょ?お見通しですよーだ。……おじい様のことでしょ?」 
「今日はもう遅い。朝起きてからにしよう」 
「いいよ、どうせ眠れないもの」 
枕を抱えてベッドの上に座った雪子に、そうか、と貴巳は向き直る。 
「……今更、こんな事を言えた義理ではないんだが」 
「うん?」 
「その……爺さんをこの家に引き取ることに、俺は最初反対していただろう」 
「うん、そうだね」 
同じ市内の貴巳の実家が昨年末に失火で焼失し、総二郎は焼け出された形となった。 
一緒にこの家に住もうという雪子に、雪子の負担が重過ぎる、老人ホームを探すべきだと反対したのは、他でもない貴巳である。 
「それが……いや、やっぱりこの話はやめだ」 
「……たーかーみ、さん?」 
柄にもなく言いよどんだ貴巳に、目の前の雪子が、かつて聞いたことのない低いトーンでにじり寄る。 
目の前に迫った雪子の、じとりと座った両目に不覚にも圧倒されて、貴巳はわずかに身を引いた。 
「言い出して途中でやめるのは無しだよ?」 
「……」 
目を伏せ、押し黙ってしまった貴巳に、雪子は溜息をついて両手を伸ばした。 
貴巳のまだ少し湿った髪をわしゃわしゃと手櫛でといて、そのまま自分の胸に抱き寄せる。 
珍しくされるがままになっている夫の耳に唇を寄せて囁いた。 
「何、怖がってるの……?大丈夫だよ」 
「……怖がってるわけじゃない。ただ……俺は、卑怯だと」 
「ひきょう?」 
「雪子が、断らないと知ってて、言い出すのは卑怯だ」 
「……ん?ちょっと何言ってるのかわかんないけど……あのね、貴巳さんが卑怯なのは今に始まったことじゃないから大丈夫だよ?」 
「……ひどい言われようだ」 
「えっ、だっていつも貴巳さん、私のこと、手も足も出ないくらい言いくるめるじゃない?やだー、とかだめー、とか言ってもお構いなしだし。だから今更どんなに卑怯でも大丈夫!」 
胸を張って言う幼な妻の顔をつくづくと眺め、貴巳は覚悟を決めて溜息をついた。 
「……爺さんを、うちで看取れないかと」 
「……えっ?うちで、って、この家で、その……最後まで、っていうこと?」 
申し訳なさそうに頷いた貴巳の視界に入ってきたのは、明らかに喜色を帯びて光る、妻の優しげな瞳だった。 
「そんなこと、できるの……?」 
「色々調べてみたんだが、市内に在宅医療センターというのがあって、必要に応じて医師や看護師が自宅まで往診してくれる制度がある。高度な治療はもちろん無理だが、自宅で苦痛なく最期を迎えるためのケアはできるそうだ。爺さんは、チューブで栄養を補給するのは嫌だと言っていただろう。病院に入れば、なかなか患者ごとのペースに合わせてはもらえないらしい。人手も足りないし、どうしても手軽に栄養補給できる点滴や流動食を与えられることになる。……爺さんの願いを叶えるには、自宅で看取るのが一番じゃないかと……」 
「そうなんだ!私、家でそんな事できるって知らなかったから……」 
「もちろん、最終的には寝たきりになるだろうから、家族の介護の負担は重い。入院の比じゃない。雪子さえ良ければ……介護申請をすれば、保険を使ってヘルパーに来てもらえる。最大限そういう制度を利用して、なるべく雪子の負担を減らすようにしたい。もちろん、家にいる時は俺が介護する。だが昼間はどうしても」 
その言葉を遮るように、雪子が貴巳の胸に勢いよく抱きついた。 
「……私が、嫌だって言うと思った?」 
いたずらっぽく見上げる、少女のようなあどけない瞳。 
「……思っていない」 
苦虫を噛み潰したような表情で答える貴巳に、雪子はくすくすと笑って、夫の胸元に鼻先を擦りつけた。 
「……だいすきだよー」 
「……」 
「だいすき。家族以外の人が家に入るのすごく嫌なのに、おじい様のために我慢しちゃう貴巳さんがだいすきだよ」 
「……やめなさい」 
「えっ……照れてる?貴巳さん照れてる?」 
初めて見たかも、とはしゃぐ雪子の頭を無理やり枕に押し付けて寝かし、貴巳はダブルの布団を二人の頭の上まで被せた。 
暗闇の中で、隣の雪子の身体がもぞもぞと動き、手探りで貴巳の腕をつたい、手を繋いだ。 
「握手」 
「……ああ」 
「がんばろうね、三人で」 
返事の代わりに、貴巳は雪子のか細い小さな手を、強く握った。 
 
 
 
 
 
 
 

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