3  喪失 
 
 
 
 
 
訃報は、予想外の所から飛んでくる矢のようだ。 
 
 
総二郎の余命宣告から2週間。 
体調は落ち着いていた。病院に通って薬をもらい、体力が衰えた場合に訪問してくれる医師やヘルパーの手配も少しずつ進んでいる。そんなある日のことである。 
 
 
午前7時を少し過ぎたころ、中嶋家の電話が鳴り響いた。 
食卓について食事を摂ろうとしていた三人は目を見合わせる。 
他人の家に電話をするには早すぎて憚られる時刻である。 
不吉な予感を抱いて電話機へ歩み寄った貴巳が、ディスプレイに表示された名前を見て更に眉をひそめる。 
 
「はい中嶋です……ええ。……いえ。……え?」 
誰からの電話かもわからず、総二郎と雪子は不安そうに貴巳の背中を見つめた。 
貴巳の無愛想な対応からは、会話の内容は全くわからない。 
 
「……そうですか……わかりました。……ええ。……いえ、伺います……はい。では後程」 
受話器を置いた貴巳が、固唾をのんで見守っていた二人に振り向く。 
「貴巳さんどうしたの?誰からの電話?」 
「何か良くない知らせかね」 
いつもの無表情な瞳の中に、何とも形容しがたい複雑な色を浮かべて、貴巳が雪子と総二郎の顔を交互に見つめた。 
 
 
 
 
 
 
その家の門扉は錆びつき、開くと鉄の軋む音が響いた。 
両脇に雑草の茂る敷石を踏みしめ、貴巳は総二郎の後につき、うつむいた雪子の手をひいて玄関の前に立った。 
訪いの声をかけるとややしばらくして、建てつけの悪いドアが、ばちんと音を立てて内側から開いた。 
顔を出したのは、目の下に青黒いクマをつくった、一晩で十も老け込んだかに見える瀬尾だった。 
 
 
「……ちづる、さん……」 
日当たりのよくない、薄暗い座敷の奥に敷かれた古びた布団。 
雪子がふらふらと近づき、崩れるように枕元に座り込むと、傍らにいた瀬尾が、顔にかけられた白い布をそっとめくった。 
 
白髪のおかっぱ頭。かさついた唇。血の気のない頬。貴巳の実父、瀬尾由貴(せおよしたか)の後妻、千鶴が、夢を見ているようなあどけない表情で、二度と覚めぬ眠りについていた。 
 
「……ぃやあ……ちづる、さんっ……やだぁぁ」 
冷たくなった千鶴の手を握り、雪子が子供のようにうずくまって号泣し始める。 
その光景を絶句して見つめる総二郎と貴巳。 
うつむいたまま立ち上がった瀬尾は、雪子をそのままにして、かつての舅と、血のつながった息子を、隣の居間へと促した。 
 
 
 
貴巳は、初めて敷居をまたいだ瀬尾の家の天井を見上げた。 
古い、ひどく傷んだ家だった。 
焼失した貴巳の実家も、築60年という時代がかった代物だったが、この家は年代以上に古びているようだ。歩くたび床はきしみ、天井板には大きな染みができている。 
千鶴の両親が亡くなって幾年もの間無人だったというからそのせいだろう。 
瀬尾は、中嶋家とは、30年以上もの間音信不通だった。 
総二郎の一人娘、碧との間に貴巳をもうけた瀬尾は、しかし、碧の親友、千鶴と運命的な恋に落ち、それを看破した碧によって、二人の幸せのために、と一方的に離婚を突き付けられた。 
貴巳が、父に捨てられたと思うことのないように――碧のその想いから、瀬尾の存在は中嶋家の記録から消し去られ、貴巳は、父親はいないものとして言い聞かせて育てられたのだった。 
生まれ育った地を離れ、一緒になった瀬尾と千鶴は、三十年以上もの間、質素な暮らしを続け、貴巳の養育費の送金を途切れずにずっと続けていた。 
そんなことを知る由もなく、父親を軽蔑しきり、存在さえ認めなかった貴巳。 
親子の縁を再び繋いだのは、雪子と、そしてアルツハイマー型認知症を発症し、碧と仲睦まじくしていた少女の頃に記憶の戻ってしまった、年老いた千鶴だった。 
 
偶然出会った二人。雪子の長い黒髪に面影を見出したのか、千鶴は雪子をみいちゃん、と呼んだ。貴巳の母、碧の子供の頃の愛称だった。 
 
 
「……由貴君、突然のことで、何と言ったらいいのか」 
瀬尾が目の前に茶の入った湯呑みを置くのを待って、総二郎が口を開いた。 
「……昨日の夜、11時を過ぎていたでしょうか……いつも千鶴が何度もトイレだと言って起こすのに、昨夜は一度も僕に声をかけなかった。おかしいと思って様子を見ると、呼吸が……いつもよりも浅く早い感じがして、呼びかけても反応しなかったんです。慌てて救急車を呼んだんですが……着くころにはもう息が弱まっていました。救急隊員さんが蘇生の処置をしてくださって、少しの間はもっていたんですが、病院に向かう車内で完全に心停止しまして……そのまま……目を開けることはありませんでした。調べたところ、どうも生まれつき心臓の近くの血管が細くなっていたらしく、そこに血栓が詰まったのだろうと……」 
うつむいたまま、瀬尾は震えそうになる声をはげましながらそう語った。 
「あっという間のことだったんだね」 
「ええ。医師が言うには、ほとんど苦しむ間も無かっただろうと……」 
「そうか……それがせめてもの救いだね……穏やかな顔だったものなぁ」 
総二郎の言葉に頷いた瀬尾が、膝の上でぐっと握りこぶしに力を込めた。 
嗚咽を堪える実父から目を逸らし、貴巳は壁や畳を見るともなく眺める。 
電話台の前には、かかりつけ医の番号が張り出され、ダイニングテーブルの上には、一日毎に仕分けされた幾種類もの薬が、壁掛けカレンダー型のピルケースに収められていた。食品の宅配カタログが広げたままになっている。老人用紙おむつの名前が印刷された段ボール箱が、部屋の隅にまだ未開封で置かれている。 
二人の生活の痕跡があまりに濃く残ったままの部屋から、やはり貴巳は目を逸らして自分の膝の上だけを見つめる。 
隣の部屋からは雪子の、悲鳴のような嗚咽がずっと聞こえていた。 
 
 
葬儀、と言えるほど仰々しいものではなかった。 
葬祭場などは使わずに、祭壇も、遺影と線香台、それに僅かな造花があるだけという簡素なものだ。 
遺体を、葬儀社が誂えた簡素な棺に入れ、自宅に安置する。 
次の日に僧侶が一人でやってきて経を上げる。 
そうなれば後は火葬場へ運んで、骨壺に収めて全てお終いということだった。 
「遺影、ですか」 
「ええ、できるだけ大きくはっきり写っている写真があれば引き伸ばした時に綺麗なんですが」 
貴巳たちがやってきてからほどなくして瀬尾家を訪れた葬儀社の男性社員は、儲からない仕事だと割り切っているのか、冷たいとは言えないまでも事務的な物腰だった。 
貴巳のことを喪主の息子だと聞いて、端から親族だと決めつけているらしい。 
貴巳にはわざわざ瀬尾家と中嶋家の込み入った事情を説明する気は無いから別にかまわないのだが、葬儀に関する相談を貴巳にされるのはお門違いである。 
わざわざ有給を取って葬儀の準備に参加しているのも、気落ちしている雪子と総二郎が心配だからである――そう自ら言い聞かせた。 
「喪主に確認してきます」 
瀬尾が見当たらないので、貴巳はそう言い置いて探しに出た。 
家のどこにも見当たらず、思いついて勝手口から狭い裏庭を覗く。 
はたして、土壁に寄り掛かるようにして、遠い目をした由貴が煙草をふかしていた。 
声をかけようとして、貴巳が躊躇う。 
今まで一度も、瀬尾のことを呼んだことがなかった。苗字で呼ぶのか。まさか名前では呼べない。貴巳は暫しの逡巡ののち、ふさわしい呼び名を探すことを諦めた。 
「……煙草、吸うんですか」 
ふいに声を掛けられて振り向いた瀬尾が、貴巳の姿を見ると一瞬、戸惑いの表情を浮かべ、それを打ち消すかのように微笑んだ。 
「……医者に止められて、ずっと禁煙していたんだけど。一本だけ、線香代わりに」 
煙草の先の灰を地面に落として、再び吸い付ける。 
空に向かって紫煙をふうっ、と吐き出す。薄いもやのような煙がたなびいて、消えてゆくまで、瀬尾は黙って空を見つめていた。 
「……葬儀社の方が、遺影にする写真を探してくれと」 
「ああ、そうだった……もうどれにするかは決めてあるんだけどね。どこにいったかな、あの写真は」 
 
言いながら煙草を靴底でもみ消して、瀬尾は家に入った。貴巳も仕方なく後に続く。 
瀬尾は、座敷に置いてある古い箪笥を開け、暫くごそごそと中身を探ると、一枚の古いカラー写真を引っ張り出した。 
 
50代半ばほどに見える千鶴が、ひまわり畑を背にしているポートレートだった。 
真夏の日差しに照らされた、たくさんのひまわりが鮮やかである。 
その前で、古めかしいワンピース姿の千鶴が微笑んでいる。 
中年の域に差し掛かっているはずの千鶴はどこかあどけない少女のようで、しかしその笑顔は何となく寂しく、はかなげな印象であった。 
印画紙の向こうから見つめる視線に居心地の悪さを感じ、貴巳は写真から目を逸らす。この家は見たくないものばかりだ、と内心で呟いた。 
 
 
ようやく少し落ち着いた雪子が、生花の一輪もないのは寂し過ぎると、近所の花屋から両手にやっと抱えられるほどの菊の花を買ってきて活けた。棺の、千鶴の身体の回りにも白と黄色の見事な菊を入れると、暗くくすんだ部屋ににわかに明かりが射したようだった。 
不幸の報せを受けてから2日間というもの、雪子は目が溶けるのではないかと思うほどに泣いた。いい加減に泣きつくして涙も枯れたと思ったが、火葬が終わり、小柄な千鶴の白い、箸で持ち上げようとしただけでもろく崩れる骨を骨壺に収めていると、また新たにとめどない涙の粒が溢れるのだった。 
参列者は誰もいなかった。 
総二郎と雪子、貴巳の三人以外に、誰一人として。 
若い頃、まるで逃げるようにこの地を離れ、以来数十年、地元の友人たちにも一切連絡を絶っていたため、今更連絡を取ろうとしても難しいのだろう、また由貴にその気も無いようであった。 
「いいんです。皆さんが来て下さっただけで十分すぎるほど幸せです。雪子さん、まさか、千鶴のために泣いてくれる人ができるなんて思わなかった……それに、貴巳君……ありがとう。千鶴もきっと喜んでいます。ありがとうございます」 
火葬は朝一番の時間だった。まだ太陽は真上にある。五月の日差しは容赦なく四人の頭の上に降り注ぐ。 
膝の上に抱えた、妻の身体のなれの果ての小さな骨壺を愛しそうに撫でて、由貴は三人に深々と頭を下げた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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