4  予感 
 
 
 
 
 
全てが終わり、喪服から線香の残り香を漂わせたまま、三人は家に帰りついた。 
葬儀の後特有の、脱力感とやるせない疲労。 
重く沈んだ三人の心とは裏腹に、力強さを増した五月の日差しが、昼下がりのリビングに差し込んでいた。 
 
着替えを終え、ぐったりとソファに座り込んだ総二郎と雪子に、貴巳は目をやる。 
二人ともそれぞれに憔悴していた。 
二日とあけず瀬尾家に通い、かいがいしく千鶴の世話をしていた雪子。 
幼い頃から、実の娘の碧と一緒に、まるで姉妹であるかのように千鶴を可愛がっていたという総二郎。 
言葉に出さずとも、総二郎が気落ちしているのはよくわかったし、雪子に至ってはことあるごとに涙ぐみ、少し姿が見えないと思ったら部屋の隅でしゃがみ込んで泣いていたりする。 
火葬が終わり、瀬尾を一人にするのは心配だからこの家に残ると言い張る雪子を、男性三人が、雪子の方がよっぽど取り乱していると言い聞かせ、半ば無理やりに自宅に連れ帰ってきたのだ。 
普段はぱっちりとして優しげな目元は、泣き続けたために腫れぼったく、顔色も良くない。 
ソファに沈むように座り、リビングの窓の外を遠い目をして見つめている。 
 
 
とにかく二人の気を静めようと、貴巳は台所に立ちコーヒーを淹れた。 
少し考えて、普段は入れないミルクと砂糖を少し大目に加えた。 
神経が高ぶっている雪子にも、身体の悪い総二郎にも、少しでも胃に優しい方がよいだろうと思ったのだ。 
「爺さん……雪子……雪子。飲むか」 
二度呼ばれ、ようやく目を上げた雪子が、差し出されたマグカップを両手で受け取る。 
そっとカップに唇をつけた雪子は、しかし一口飲もうとした途端にカップを遠ざけ、テーブルに置いてそのままよろめくように居間を後にした。 
「雪子!?」 
「どうした、雪子さん」 
雪子が駆け込んだ洗面所からは、せき込むような、苦しそうな嘔吐の声が聞こえてくる。 
慌てて追ってゆき、背中をさする貴巳に、 
「けほっ……うん、もう、だいじょうぶ……ごめんね、なんか急に……気持ち悪くなっちゃって。吐いちゃうかと思ったけど大丈夫だった」 
タオルで口元をぬぐった雪子が、涙目で答える。 
遠慮がちに後ろから様子を伺っていた総二郎が安心したように頷いた。 
「疲れて胃腸をやられたんだな……無理もないさ。私の病気のことも辛かったろうし……何より千鶴さんのことは突然だったからなぁ。今日は胃薬を飲んで、もう横になってゆっくり休みなさい」 
「おじい様は、お体大丈夫なんですか」 
「私は何ともないさ。少し疲れてはいるがね……貴巳、雪子さんを上まで連れていってやりなさい……貴巳、……貴巳?」 
総二郎は、さっきから一言も発しない孫息子に怪訝そうに呼びかけた。 
貴巳が人から呼びかけられても気づかないなど、かつて無かったことだ。 
肩をとんとんと叩かれても尚、貴巳は明後日の方向を向いている。 
その視線の先にあるものは、洗面所の扉の向こう。廊下の壁に貼られているカレンダーだった。 
 
「貴巳……どうしたっていうんだ?」 
「……雪子……最後に病院に行ったのはいつだ?」 
「……え?」 
 
少しの間、雪子は意味をとらえかねて考えた。 
総二郎の病院なら、千鶴が亡くなる前の日に行ったばかりだ。 
(んっと……あ、そうか、産婦人科だ) 
不妊治療のため定期的に通っていた産婦人科だが、昨年末の火事以来、雪子は多忙を極めていた。 
「ここの所色々忙しかったから……えーっと最後はいつだっけ、もしかして、今年に入ってから一回も行ってないかも」 
「……」 
それを聞いて、貴巳は眉間に深く皺をきざみ、穴があくほどカレンダーを凝視した。 
何があるのかと夫の視線を追った雪子が、ぽかんとして夫とカレンダーを幾度か見比べる。 
雪子がその意味に気づくのと、貴巳が雪子の方に向き直るのが同時だった。 
「……」 
「……あ!!」 
「……あ?」 
要領を得ない総二郎が首を傾げる。 
 
 
「あかちゃん!!」 
 
 
「な、なんだって?本当かね」 
素っ頓狂な声を上げる雪子と、驚愕の表情の総二郎。二人の間に貴巳が分け入る。 
「いや、待ってください、まだ決まったわけじゃない……というかそうじゃない可能性の方が高い」 
「でも……うん、計算は合ってるかも……病院行ってないからてっきり……」 
ひいふうみい、と指折り数えて何やら計算している雪子が、興奮気味に頷く。 
「とにかく、病院で検査してみないことにはわからないだろう」 
「そうだね……すぐ行ってくる!」 
「待て、今日は休診日だ」 
今にも駆け出しそうな雪子を貴巳が押しとどめる。 
「嫁さんの病院の休診日までよく覚えているなあお前は」 
妙なところに感心する総二郎である。 
「えーっ!じゃあ明日までわかんないのかぁ……待てないよ……あっ!」 
「何だ」 
「簡易検査薬があるよ!ほら、家で検査できるっていう」 
「……そうだな」 
貴巳は頷いた。以前にも一度、雪子の生理が遅れた時に使ったことがある。尿をかけると一分ほどで妊娠しているか否かを判定する、スティック状の検査薬だ。 
「しかし、わざわざ薬局に買いに行くなら明日まで待って病院に行ったほうが」 
「買い置きがあるから!ちょ、ちょっと待ってて!」 
「雪子さん!走っちゃいかん!階段を踏み外したら……」 
階段を駆け上る雪子の背中に、総二郎が慌てて声をかける。 
 
脱衣所を兼ねた広い洗面所に残された男性二人の間に、何とも言えず気恥ずかしい沈黙が漂った。 
黙々と洗面所の片づけをする貴巳の背中に向かって、総二郎が一つ、咳払いをした。 
「あー……うん。何だ、その……まだわからんがな。そうだったらいいなぁ。もちろん今回妊娠していなくても、二人ともまだ若いんだからがっかりすることはないがな」 
半ば自分に言い聞かせるような調子であった。 
「……」 
「しかし、ここの所の我が家はジェットコースターに乗ってるようだなぁ。これでもし本当に子供ができてたとしたら、産まれるのは何月くらいになるんだ?」 
「……まだわかりません、体調を崩さない方がおかしい位の状況ですし、さっきも言いましたが妊娠していない可能性の方が高い」 
「まあ、そうだな……あまり期待して、雪子さんを余計落胆させちゃいかんな」 
「……」 
「何だね、お前ちょっとは嬉しそうにしたらどうだね。まだわからんにしても……」 
背を向けたままこちらを見ようともしない孫息子に、総二郎は呆れ声を出した。 
その背後で、そっとドアが開かれ、おずおずと雪子が顔を出す。 
その目の輝きを見れば、結果は聞かずとも明らかだった。 
「おお、もう検査できたのかい?」 
喜色を抑えきれない様子で、雪子は頷き、貴巳の目の前に白いペンのような物を突き付けた。 
「じゃーん!」 
壊れ物でも渡されたかのように恐る恐る受け取った貴巳が、検査薬をまじまじと見つめる。 
「ここ!ここに線が一本出てるでしょ?……陽性だって!」 
「……本当に確実なのか。簡易検査と言うからには確定できないんじゃないか」 
「この箱に、99.9%って書いてあるよ」 
雪子が手にした検査薬の箱には、確かに『精度99.9%!』という文字がでかでかと印刷されている。 
「雪子さん、じゃあ、子供ができたのは殆ど間違いないんだね」 
「はい、そうだと思います。説明書読んだら、正常に妊娠できているかは病院に行かなきゃわからないんですけど、でもとりあえずは間違いないみたいです」 
「いやぁ、そうか!何はともあれ、めでたいなぁ。おめでとう」 
総二郎が、顔をくしゃくしゃにして雪子の手を握った。 
「ありがとうございます!……何だか、ここのところ色々ありすぎて、自分でも何が何だかわからないですけど……」 
興奮で頬を真っ赤に染めた雪子が、ふと眉尻を落として涙ぐむ。 
ほんの一瞬忘れていた、総二郎の病気のこと、そして千鶴のことを思い出したのだった。 
ぽろぽろと涙を落とす雪子の肩を、総二郎が優しく叩いた。 
「いやあ、とにかくめでたいことには変わりないよ。私もこんなに嬉しいことはない。そうか、貴巳もいよいよ父親か。おめでとう……ん?」 
孫息子に声をかけようと振り向いた総二郎が、妙な声を出す。 
「……あれ?貴巳さん?」 
雪子も思い出したように、洗面所を見渡す。 
脱衣所を兼ね、比較的広い場所とはいえ、隠れる場所などない。 
先ほどまでそこにいたはずの貴巳は、いつの間にか忽然と姿を消していた。 
「……どこに行ったんだ、あいつは」 
「さっきまで……ほんのちょっと前まで居ましたよね」 
困惑して目を見合わせた二人の耳に、駐車場から走り去る、車のエンジンの音が微かに響いた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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