5  写真 
 
 
 
 
 
「まったく、何を考えているんだあいつは!!」 
夕日の茜色がガラス越しに映るリビングに、総二郎の苛立った声が響いた。 
日ごろの穏やかな口調とは違うその大声に、台所に立つ雪子がちょっと肩をすくめる。 
総二郎はリビングの中をいらいらと腕組みをしたまま歩き回っていた。 
「無愛想なやつだとは分かっていたが、今回ばかりは呆れかえる。念願の妊娠がわかった奥さんを置いて、だまって家を出ていく奴があるかね。すぐ帰るかと思えば……それに携帯も置いて行ったなんて……まったく、本当に……」 
曖昧に頷いて、雪子は味噌汁を椀によそった。 
食事の支度ができるかと心配したが、昼間にコーヒーの香りを嗅いだ時のような強い吐き気はなかった。まだ妊娠初期なので、つわりも軽いのかもしれない。 
「体調は大丈夫かね。大事な時期なんだ、本当に無理をしないでおくれよ」 
「いえ、匂いを嗅いだら気分が悪くなるかと思ったら、意外と大丈夫でした。辛かったら遠慮なく休ませていただきますから、心配しないでくださいね」 
微笑んで答える雪子に、総二郎がうなだれてぽつりと、 
「……済まないね、本当に」 
そう詫びた。 
「どうしておじい様が謝るんです?……大丈夫、貴巳さんが帰ってきたらいっぱい謝ってもらいますから」 
夫が、しかもよりによって鉄仮面たるあの中嶋貴巳が行方知れずだというのに、雪子のまるで頓着していない様子に、総二郎は首を傾げた。 
「そういえば、私も家を飛び出したことがあるんですよ……貴巳さんと喧嘩して」 
テーブルについて両手を合わせ、いただきます、と挨拶をしてから、雪子ははにかんだ口調で言う。 
「ほう、そりゃ初耳だ。……いや、そういえばしばらく前に、貴巳が夜遅くに電話をかけてきた事があったなあ。雪子さんがうちに来てないかと」 
「ああ、きっとその時ですね」 
可笑しそうにくすくすと笑うと雪子は、今思えばたわいもない、初めての喧嘩のことを思い出していた。 
「どうやって仲直りしたんだね」 
「……貴巳さんが、迎えにきてくれました。それで……えへへ」 
貴巳の頬を思いっきり平手打ちして仲直りした、と総二郎に話すのはさすがに憚られて、雪子は笑ってごまかす。 
「しかし、今回はなあ……迎えに行こうにもどこに行ったんだか、あいつは」 
再び盛大な溜息をつく総二郎に、雪子は大丈夫ですよ、と頷く。 
「戻ってくると思います……私、実はそんなに心配してません」 
貴巳が何も告げずに去ったことは驚いたけれど。 
でもきっと、この時間は貴巳にとって切実に必要なんだろう、と雪子は思う。 
貴巳の行方にも、心当たりが無いといえば嘘になる。 
心当たりというよりは、雪子のほんのりとした希望、と言った方がいいかもしれない。 
そこへ行ってくれていればいいな、と思う。 
そして、どの位時間が必要かわからないけど―― 
納得して、そして帰ってきてほしい。絶対に帰ってきてくれる。確信があるから、不安は無い。 
ただ―― 
雪子は、総二郎に悟られぬようそっと、自分の下腹部のあたりを掌で撫でた。 
まだ実感は無いけれど、確かに芽吹きはじめた、小さな命。 
(……やっぱり、ちょっとだけ、寂しいかな……早く帰ってきてね、貴巳さん) 
雪子はもうすっかり暮れて藍色になっている窓の外を眺め呟いた。 
「貴巳さん、ちゃんとご飯、食べてますかねぇ……」 
 
 
 
 
 
 
インターホンを押そうと伸ばした指が、ボタンに触れる寸前で止まる。 
もう何度、こうして躊躇っただろう。 
自分の思わぬ弱気な一面を突き付けられた気がして、貴巳は苦々しく舌打ちをした。 
やはり、柄にもないことはやめようと、門扉に背を向けた刹那、 
玄関のドアが開き、中から出てきた逆光気味のシルエットが、驚きの声を上げた。 
「……貴巳君?」 
瀬尾が、一杯になったごみ袋を片手に、いつもの柔和な笑みを浮かべた。 
「どうしたんだい」 
そう訊かれ、狼狽えた表情を一瞬で押し隠した貴巳が、手にしていたコンビニの袋を差し出す。 
「……夕飯です」 
 
 
 
「来てくれるとは思わなかったから驚いたよ」 
居間の座卓につき、茶を淹れる瀬尾が言う。 
あぐらをかいて座った貴巳は、ええ、とくぐもった声で答えた。 
向かい合って席についた瀬尾は、目の前に並んだ二つのコンビニ弁当を眺め、物言いたげに貴巳の表情を伺う。 
いつも、人の内心まで見透かすような鋭い目線でまっすぐに見つめてくる青年が、今日はずっと目線を合わさない。ちらちらと室内のあちこちに視線をやり、何となく落ち着かない様子である。 
喉元まで出てきた質問を飲み込んで、瀬尾は黙って手を合わせ、割り箸を割って弁当の蓋を開けた。 
瀬尾が食べ始めたのを見て、貴巳も箸をとる。 
事務作業のような素早さで、あっという間にほとんど食べつくした貴巳を見て、瀬尾は笑いをこらえきれずに噴きだした。 
「……何ですか」 
ぎろり、と音のしそうな凄みのある目線で睨まれても、瀬尾はくっくっ、と苦しそうに喉を鳴らしている。 
「いや……不味そうに食べるなぁ、と思ってね……雪子さんのご飯は美味しいからね」 
「……」 
「何かあったんですか、雪子さんと」 
「いえ別に」 
即答する様子は、あくまで冷徹な鉄仮面そのものである。 
ふんふん、と頷いて、瀬尾は再び自分の弁当に取り掛かった。 
暫くは、瀬尾のほんの微かな咀嚼の音だけが古い居間に響いていた。 
貴巳は、ぐるりと室内を見渡す。 
今日の午前中までこの部屋にいたのだが、その時よりもずっとがらんとして、何となく寒々しく感じられた。 
男二人が顔を突き合わせて黙々と食事をしているだけなのだから、それも無理もないことなのかもしれない。 
座敷との続きの襖は開けたままで、薄暗い祭壇に蝋燭の明かりだけが灯り、寂しげな微笑を浮かべる千鶴の遺影を、ぼんやりと照らし出していた。 
ほんの3日前まで寝食を共にしていた妻が、今は両手で抱えられるほどの小さな包みになって、もう二度と喋ることもない。 
もし自分だったら……葬儀の間じゅう何度もした想像をもう一度繰り返して、貴巳は身の内がぞっと粟立つような恐怖に襲われる。 
雪子より先に死なない、と固く誓った。いつかやってくるその日のことを、繰り返し自分に言い聞かせ覚悟してきたつもりだった。 
それでも、この二日間で目にした光景は、想像よりもずっと……残酷なまでに事務的で、あっけなく、儚いものだった。 
貴巳はそっと、瀬尾を見やる。 
髪の毛は黒髪よりも白髪の方が多くなり、黙って咀嚼する口元の皺に年齢が感じられた。 
この二日間、号泣することも、取り乱すこともなかった瀬尾の気持ちを量りかねて、貴巳はそっと溜息を洩らした。 
 
「貴巳くん、二日も休ませてしまって申し訳なかったですね。明日の仕事は?」 
変わらず穏やかな口調で、瀬尾が尋ねる。 
「いえ、有給も貯まっていて、上からも消化するように言われていましたから。明日は土曜です」 
「ああ……そうか。土曜か……忘れていた。市役所だったね」 
「ええ」 
「就職した時は、お義父さん喜ばれただろう」 
思いがけぬことを聞かれ、貴巳は怪訝そうに眉を上げる。 
「……いえ、むしろ驚かれましたが……なぜ東京で就職しないと言って」 
「ああ……雪子さんから聞いたんですが、同級生からは官僚になるだろうと思われてたほど成績が良かったんでしょう?」 
雪子はそんな事まで話しているのか、と貴巳は眉間に皺を寄せる。 
「……周りが勝手にそう思っていただけです。公務員になると言っただけで」 
「どうして公務員に?」 
「この性格では民間では務まらないだろうと」 
無表情のまま応えた貴巳の言葉に、瀬尾は思わず噴き出した。 
「……そうか。なるほど……いや、認めちゃいけないね」 
「構いません。自分の性格くらいわかっています」 
憮然として言う貴巳に、瀬尾が首を傾げる。 
「国家公務員の方が向いていそうだけどなあ」 
「……そんな事はありません」 
「それか、警察とか……消防とか」 
「それも考えましたが」 
「が?」 
「……祖母の遺言で」 
「お義母さんの?」 
貴巳の祖母であり、総二郎の妻キミは、貴巳が大学に入って間もなく亡くなっている。病気の発覚から亡くなるまで僅か数か月という、あっという間のことだった。 
「危ない仕事はよせと。見守っていてもゆっくりあの世で休めないからと」 
「……なるほど……そうか」 
「鳥ガラみたいな婆さんに見守って貰わなくとも結構だと言ったんですがね」 
「お義母さんは面倒見がよかったからね」 
「あれは執念深いと言うんですよ」 
溜息混じりにそう言って、貴巳は祖母の臨終のことを思い起こす。 
最後まで弱音を吐かず、口うるさく貴巳のことを注意し続けた。 
曰く、そんな無愛想では女性も寄ってこない、愛想良くしろ、食事は三度摂っているか、寝るときはちゃんと布団をかけろ、シャワーばかりでなく風呂につかれ、野菜を食べろ、友達を作れ…… 
その小言のいちいちにうんざりしながらも頷きつづけた。あんなに早く小言が聞けなくなるとは思ってもいなかった。 
 
「だから転勤のない、今の仕事についたんだね」 
瀬尾の言葉に、貴巳は衝かれたように顔を上げた。 
「遺されたお義父さんのそばにいるためには、公務員で、転勤がなくて、危険がない……消去法で今の、地方公務員の行政職が残ったということだね」 
見透かされた、という、ほとんど怒りのような恥ずかしさが貴巳を襲う。 
叱られて意地をはる子供のように、きつく口を引き結んでななめ下に顔を逸らした。 
そんな貴巳を、瀬尾は目を細めて見つめる。 
「碧が亡くなって、本当は、僕がその責任を負わなきゃいけなかったんだ。知らなかったとはいえ、君には本当に色々なものを背負わせてしまったね……申し訳ない」 
頭を下げる瀬尾に、貴巳は首を振った。 
「いえ、自分は……何も」 
「何もしていない事はないさ」 
「本当に……爺さんの世話だって、結局雪子に任せきりです」 
自分の言葉が胸をえぐる。 
年を取ってゆく祖父の傍にいようと思っても、結局は妙な意地を張ってお互いに遠ざけあった。 
同じ市内に就職が決まっても、わざわざ別の部屋を借りた。それでもこのままではいけないという焦燥感から、嫌いなローンを組んで家を建てた。 
介護することになっても困らないように間取りは考えつくした。風呂やトイレは広く、段差もないように。 
出来上がった家に、それでも、どうしても、一緒に住もうとは言い出せなかった。 
雪子が、二人の関係に風穴を開けてくれるまで。 
 
自分は雪子に甘えてばかりだ。 
改めてそのことが身に染みて、貴巳は奥歯を噛みしめた。 
総二郎のことだけではない。曲がりなりにもこうして瀬尾と話ができるようになったのも、雪子がいたからに他ならない。 
万が一この街で再会することがあっても、貴巳一人だったら、きっと積年の瀬尾への憎しみも、誤解も、解けることはなかっただろう。 
いつも雪子が、自分の代わりに笑い、泣き、考え、周りの人間の心を解きほぐしてくれた。 
そして今もまた、自分は雪子に甘えている。 
こんな状況で、何も言わず家を飛び出し―― 
 
 
 
 
 
「……雪子が、妊娠しました」 
暫しの沈黙。 
「……そうか……うん、そうだったんだ」 
それきり黙ってしまった瀬尾に、貴巳は目線を上げた。 
瀬尾の視線は、千鶴の遺影へと注がれていた。 
それを認めた瞬間、激しい後悔が貴巳を襲う。 
妻を亡くしたばかりの瀬尾に、あまりに気遣いのない報告をしてしまった。 
葬儀を終えたばかりだというのに、自分勝手な暴走で転がり込むような真似をしているという自責の念に駆られ、腰を浮かしかけた。 
「……すみませんでした、こんな時にお話することじゃなかった」 
「ああ、いや、いいんだよそんな事は気にしなくて。千鶴だってそれを聞いたら喜ぶさ……ああ、良かった……雪子さんがずっと病院に通っていたのは不妊治療だったんでしょう?」 
「……ええ。詳しいことは明日、病院で検査するまでわかりませんが……妊娠自体は99.9%間違いない、と」 
上げかけた腰を再び下ろした貴巳が、努めて平坦な声で言う。 
「99.9%か。……それは……何と言うか、ちょっと追いつめられるね」 
ぽつりと呟いた瀬尾の言葉に、貴巳ははっと顔を上げた。 
「ああ、ごめんね、こんな時はおめでとう、って最初に言うべきだよね」 
「……そう言われると思いました。……が」 
「が?」 
「言われずに……ほっとした面もあります」 
いつになく素直な様子の貴巳を、複雑な色の混じった目で見つめ、瀬尾は頷いた。 
「……こういう時、男は、だらしないよなぁ……実は僕も同じような感じだったよ。……その、碧が、妊娠したと告げられた時にね……周りからはおめでとう、いよいよ一家の大黒柱だな、なんて言われて、僕も口ではありがとうございます、頑張ります、なんて言うんだけどね……なんていうか、実感がわかないのに、状況だけがどんどん先に進んでいって……正直に言うとね、碧のお腹がどんどん大きくなっていくのが、少しだけ怖かった……女性は、自分と赤ちゃんが一心同体だからね、どんどん母親の顔になっていくんだけど……何となく、取り残されるみたいで……情けない話だけどね」 
「……実感は、確かに、まだありません」 
「そりゃそうだよ。僕なんか、君がオギャーと元気に産まれてきた顔を見ても、まだボンヤリしていたからね……いや、自慢できることじゃあないけど」 
話の内容が、二人の親子としての関係をいやがおうにも突き付ける内容になっていることに気づいて、貴巳はうろたえた。 
三十数年ぶりの再会を果たしてからも、その話題については頑なに避け、雪子にそれとなく誘われても、瀬尾家に入ることすら頑として拒んでいた貴巳である。 
今こうして、線香の残り香の漂う古い家に、瀬尾と二人向き合って座っているのが信じられないほどだ。 
「……千鶴さんとは、子供はできなかったのですか」 
無理やりにでも居心地の悪い話題から矛先を逸らそうとした貴巳が、自分の唇から滑り出た言葉の不味さに気づくのに時間はかからなかった。 
瀬尾は、黙り込んで遺影を見つめる。 
重苦しい沈黙の中で、時計の針の音だけがやけに大きく響いた。 
「すみませんでした、失礼な質問を」 
「いや……いいんだ。子供か……そうだね、作ろうと思えばできたのかもしれない。でも千鶴が……」 
言いさして、瀬尾は心なしか苦しそうな表情で目を瞑る。 
「……この話はやめよう。そうだ、君に渡さなきゃいけないものがあるんだった。千鶴の葬儀で忙しくてすっかり忘れていたんだけど」 
半ば強引に話の続きを止め、立ち上がって座敷の奥へと歩いていく。 
奥の部屋で何やらごそごそと物音がして、戻ってきた瀬尾が何やら冊子のようなものを手にしている。 
渡されたのは一冊の真新しいアルバムだった。促された貴巳が怪訝な顔でページを開く。 
一ページ目に貼られていた白黒の写真を見て、貴巳が驚きに目を見張った。 
「……これは……いつの間に」 
「お義父さんに……総二郎さんに頼んで、預けてもらってたんだ。ちょっとひどい状態だったけど、写真自体はいい印画紙を使って焼いていたからね、何とか見られる状態にまで復元できたよ。特に白黒写真は、普通の人が想像するよりタフなんだ」 
瀬尾の手から渡されたのは、貴巳の実家が火事で焼失した際、消火活動のせいで水浸しになった、中嶋家のたった一冊のアルバムだった。 
恐る恐るページを開いた貴巳は、びしょ濡れでもう打つ手がないと思われた写真たちが、見事にほとんど元通りの状態になっていることに驚いた。 
「捨てたものだと思っていました……どうしてこんな」 
「ああ、貴巳君は知らなかったのか……僕は昔から、写真技師をしてたんだ。昔この街に住んでいたころは知り合いの写真館で働いていたんだよ」 
「ずっと写真の仕事を?」 
「うん。碧と別れてから、あちこち転々としたけど……結局ずっと、写真にかかわる仕事だったな」 
「このアルバムの写真も……その、自分で撮ったんですか」 
呼びかけづらそうに言う貴巳に微笑んで頷いた瀬尾は、碧が産まれたての貴巳を抱いた写真を開き、愛しそうに撫でた。 
「今思えば、もっと沢山撮っておけばよかったね。当時は忙しさにかまけて、家ではろくにカメラを手にすることも無かったんだ」 
アルバムは、あちこち空白がある。復元できなかったものではなく、碧と瀬尾が離婚する際、碧が条件として出した「すべての痕跡を消して中嶋家から去ること」という約束を守るため、瀬尾が写っていた写真は全て棄てたのだという。ページ構成を元通りにすることを優先したのだろう、新しいアルバムの台紙にぽっかりと空いた空間は、しかし最早、以前そこにあった写真の存在を感じさせるものではなかった。 
「そうだ、作業していて気付いたんだけど……これ」 
瀬尾は、アルバムの最初のほうのページをめくり、一枚の写真を指差した。 
幼い少女が二人並んで、ランドセルを背負い、揃いのベレー帽を被ってかしこまって写っている。 
「これ、碧と、千鶴じゃないかと思うんだ」 
「……ええ、そうですね」 
覗き込んだ貴巳も頷いた。 
恐らくは小学校入学の記念に写したものだろう。緊張からか、やや表情がこわばって見えるおさげ髪の碧と、屈託なく笑うおかっぱ頭の千鶴。 
小さな手を繋いでこちらを見つめる二人の少女。 
「お願いがあるんだ……もし、中嶋の皆さんさえ良ければ……この写真を貰えないかな。もちろん、複製してもよければコピーの方を」 
貴巳はそっと、瀬尾の様子を伺った。 
表情は、うつむいた前髪に隠れて見えない。 
「……構いません。祖父も嫌とは言わないでしょうし」 
そう言ってアルバムの透明なフィルムを剥がし、古い写真を注意深く取り外すと、瀬尾へ差し出した。 
「……ありがとう。……ああ、二人とも可愛いなあ」 
微笑んで写真を見つめる瀬尾の目が真っ赤に充血しているのを、貴巳は見ないふりをして目を逸らした。 
「本当にありがとう。少し時間はかかるかもしれないけど、コピーができたらお……渡しますよ」 
礼を言って写真を手に、瀬尾が立ち上がる。 
瀬尾のその口調が、貴巳の張りつめた神経を奇妙に響かせた。 
 
「どこへ行くんです」 
やおら、貴巳が厳しく、切羽詰まった声で呼びとめた。 
 
「……え?どこって、座敷の箪笥にこれを」 
「どこへ行くつもりなんです、と聞いています」 
 
 
 
微かな違和感。 
それは貴巳が、先ほどこの家に上がった時から……いや、玄関先に立った時から感じていたものだった。 
その、静電気がぴりっと走るような感覚の正体について、貴巳はようやく確信を得た。 
 
 
「……荷造りをしていますね」 
真正面から鋭い視線に囚われて、瀬尾はふい、と目を逸らす。 
「葬儀の直後から比べても、家の中ががらんとしている。さっき玄関に持って出たごみ袋の中身も、急いで捨てなくても良いようなものばかりでした」 
「……千鶴の遺品の整理だよ。残しておくと色々と思い出すばかりだから」 
「遺品の整理にしては急ぎ過ぎています……それにさっきの音、スーツケースを開けるような音に聞こえました」 
「……」 
「どこに行くんですか、皆に黙ったままで」 
立ち上がって目の前に立った貴巳に真正面から問い詰められて、瀬尾はふっ、と苦笑を漏らした。 
「ほんとに、目ざといんだね……そういう所は碧に本当によく似ている。碧にも、隠し事なんて一切できなかったよ」 
「茶化さないでください」 
ゆっくりと踵を返した瀬尾が、ぼんやりと蝋燭の灯る千鶴の祭壇に向かい腰を下ろす。 
燃え尽きていた線香の灰を均して、新しいものに火をつけ、灰に刺した。 
「……この家から、出ていくつもりなんですね」 
背後からの貴巳の声に、瀬尾はゆっくりと頷いた。 
「どのみち、この家にずっとは住めないんだ。千鶴の実家とはいえ、相続した弟さんの好意で住まわせてもらっているに過ぎないからね。その弟だってほとんど没交渉で……千鶴の認知症が悪化しているから、この家を使わせてほしいと数十年ぶりに連絡を取った時、もし千鶴が死んでも連絡は要らないと言われたよ。 
……いや、彼を恨むのはお門違いだよ。僕が千鶴と結婚したせいで、当時近所ではひどい噂が立って、幼心にいたたまれなかったと言われたよ。僕のせいだ。 
それにこの家はひどい傷みようだし……だまって一人で住んでいれば、中嶋家の皆さんに、きっといらぬ心配をかけるだろうとね。特に雪子さんなんか優しいから黙っていられないだろう。以前千鶴と二人で住んでいた街にでも戻って、小さい部屋を借りて暮らすよ。それとも全く知らない場所に住んでみるのもいいな……だから、心配はいらない」 
 
口元に微笑みさえ浮かべて話す瀬尾の言葉。一人で去る覚悟が決まっているからこんなに穏やかでいられるのだと、貴巳は改めて瀬尾の落ち着いた様子に得心がいった。震える喉から、ようやく声を絞り出す。 
 
「……雪子が、また泣きます」 
寂しそうに目線を落とし、瀬尾が首を横に振る。 
「……手紙を書くよ。写真のコピーも送る。落ち着いたら電話も」 
「祖父は……祖父はもう長くありません。癌で、余命3か月からもって半年だと」 
「……」 
長い沈黙の後で、瀬尾は口を開く。 
「お義父さんは、それについて何と?」 
「……」 
他愛もない嘘を追及された子供のように黙り込む。しかし瀬尾の目線はあくまで優しく、貴巳は渋々口を開いた。 
「……むしろ、ほっとした、と……ようやく自分の番が来たと。千鶴さんのことは予想外でショックだったようですが、それでももうすぐ同じ所へ行く、と落ち着いています」 
「そうか……うん。そうだよね。いずれ皆同じ所に行くんだ。僕だってそう遠くない」 
頷いて、瀬尾はゆっくり立ち上がり、貴巳に背を向けて隣の座敷へ向かう。 
 
止められない、と思った。 
 
雪子の悲しみも、総二郎の病気も、瀬尾の決意を止められない。 
 
いや……貴巳は内心で頭を振った。 
また、自分は甘えている。 
自分のちっぽけなプライドを守るために、雪子を、総二郎を口実にしている卑怯者だ。 
本音はいつだって雪子が代弁してくれていた。 
自分の言葉はどこにある。 
 
 
「……ネガを持っているんでしょう、家族の、写真の」 
貴巳の口からこぼれた言葉に、瀬尾は驚いて振り向いた。 
「……どうして、それを」 
震える声。瀬尾が、今日初めて見せる動揺だった。 
「昔から思っていました。実家にはアルバムはあるのにネガフィルムが無いのはどうしてかと……それに先ほどのアルバム、白黒写真は確かに古いものですが、カラーの写真は、いくらうまく復元したと言っても、印画紙が綺麗すぎる。……あなたが、ネガを持っていて、それで新しくプリントし直したのではないかと」 
瀬尾は、苦く笑った。その唇が微かに震えている。 
「……本当に、君には隠し事はできないね……」 
踵を返して、隣の座敷の古い箪笥の引き出しを開けた。 
錆びついた、大きなクッキーの空き缶を引っ張り出すと、貴巳の前で蓋を開く。 
そこにはぎっしりと、細長い紙袋に入ったネガフィルムが収められていた。 
貴巳が、恐る恐る手を伸ばしてネガを開く。黒く影になっていて、誰が写っているのかもわからないものばかりだった。 
指で紙袋を掻き分けていくと、缶の底に、一枚の写真があった。 
「……これは……」 
貴巳がそっと持ち上げる。 
「……約束違反だね。全部捨てると言ったのに……千鶴に、どうしてもとせがまれて……一枚だけ残しておいたんだ。千鶴が、あんな病気になる前まで、ずっと大事に……肌身離さず持っていたんだ、その写真は……」 
 
まるで往年の妻の体温をさぐるように、瀬尾がゆっくりと写真を指でなぞる。 
そこには、笑顔で並んでいる若い瀬尾と碧、そして、まだ赤ん坊の貴巳を、少し危なっかしい手つきで、愛しげに抱いている千鶴が写っていた。 
 
「貴巳君が、気を悪くしないでくれると嬉しいんだが……千鶴はね、自分の子供は要らない、と。一生懸命働いて、そのお金が貴巳君の役に立つと嬉しいと……自分の子供のように想っていたんだと思う……独りよがりだけれど……」 
苦しそうに顔をゆがめる瀬尾に、貴巳は喉から漏れそうになる音を必死で押し殺した。 
瀬尾と千鶴が、子供も作らず質素な暮らしを続け、大学卒業まで一度も途切れることなく養育費を送ってくれていたのは、最近になって知ったことだった。 
 
「……捨てる気にはならなかったんですか」 
我ながら主語が明確でない問いだ、と貴巳は胸のうちでひとりごちる。 
何を捨てるのか。ネガか。写真か。碧と自分への責任か。 
「……うん。実を言うとね、たまに現像室で、ネガを持ち込んで眺めていたんだ……ライトを当てるとね、浮かび上がるんだ。赤ん坊のころの君や、碧や、お義父さんお義母さんが」 
瀬尾は、ネガのことだと受け取ったらしい。 
 
貴巳は、ひとりきりの現像室で、今よりも若い瀬尾がライトにネガフィルムを透かしている姿を思い浮かべる。 
その想像の中の瀬尾の背中は、小刻みに震えていた。 
 
「……もし、貴巳君が欲しいというなら、そのネガも持って行ってくれ。……僕はさっきの二人の小さなころの写真と……この、千鶴の持っていたのを貰っていくよ」 
想像より幾分小さくなった瀬尾の背中が、思い出の最後のひとひらだけを持って、ゆっくりと貴巳の前から歩き出そうとする。 
 
どうしたらいい。 
どうしたら、 
 
 
 
「……とう、さ、ん」 
 
ようやく聞き取れるほどの、微かな声だった。 
瀬尾の歩みがぴたりと止まる。 
貴巳が生まれて初めて発するその言葉。 
そして瀬尾が、初めて息子から投げかけられた呼び名だった。 
三十数年間の時間は巻き戻せない。それは、古い劣化したネガフィルムをプリントしても、当時の色合いと同じ写真にはならないのと似ている。 
変えられるならこれからだ。自分の言葉で、少しでも、変えられるなら―― 
 
 
 
「もう、どこにも、行かないでください」 
 
じっ、と音を立てて、蝋燭の炎が揺れた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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