6 日々
自宅の玄関を、まるで泥棒のように、そっと開く。
中を覗き込むと、リビングから賑やかな話し声が微かに漏れ聞こえてきた。
玄関の三和土を見ると、見慣れぬ靴が二足、それに草履が一組並べてある。
物音を立てぬように靴を脱いで、恐る恐る扉の方へ向かった。
時刻は既に正午を過ぎている。
夜通し言葉少なに語り合った瀬尾と貴巳は、明け方になっていつの間にか居間の畳の上で眠っていた。
目を覚ました時は既に日は高く昇っており、慌てて自宅へ戻ってきたというわけだった。
どれほど心配をかけただろうか。
これは雪子から平手打ちの2、3発は喰らっても仕方ない。何なら土下座くらいはする所存である。
悲壮な覚悟を決め、ゆっくりとドアを開けた貴巳を出迎えたのは、
「あ、貴巳さんおかえりー」
固い決意を見事に肩透かしにする、ごく気軽な調子の雪子の声だった。
その向こうで総二郎が、何か言いたげに口をもごもごさせたが、結局口をへの字にして押し黙った。雪子から何やら言い含められているのかもしれない。
それに加え、
「あ、貴巳くんおかえりなさい!このたびはおめでとうパパ!」
「あらお帰り。お邪魔してるわよ」
「貴巳さん、お久しぶりですね」
雪子の母、美紀子に、その夫である坂井義之、それに祖母の橘徳子が出迎える。
坂井は興奮に頬を染め、孫の誕生がすでに待ちきれない様子である。
「ちゃんとごはん食べた?お母さんが作ってくれたチャーハンの残りがあるよ」
にこにこと、まるでちょっと買い物に行った夫を出迎えるような調子の雪子に、戸口に立ったままの貴巳が、深呼吸して頭を下げた。
「……雪子、心配かけた。本当に悪かった」
「ちゃんとお話できた?瀬尾さんと」
雪子の台詞に、貴巳は目を見開く。
「お見通しというわけか」
「あ、やっぱり。そうだったらいいなあって」
いたずらっぽく笑う雪子に、貴巳は勇気を振り絞り、口を開いた。
「甘えてばかりで……自分でも情けないんだが、一つ、頼みたいことが」
少し離れたところから、何事かと様子を伺う総二郎と雪子の家族。
小首を傾げて微笑む雪子を、貴巳はじっと見つめた。
「もう一人……増やしてもいいだろうか、家族を」
「え?」
「ああ、その……これから子供が増えるだろう?更にもう一人……増やしても……」
常になく口ごもる貴巳の背後から、申し訳なさそうに顔をのぞかせるシルエット。
その正体を認めて、雪子がはじけるように笑って貴巳に抱きついた。
「ダメって言うと思った?」
「……思っていない」
仏頂面でされるがままになっている貴巳と、その胸に頭をこすりつけ、とろけるような笑みを浮かべる雪子。
背後から見守る四人が、呆れたように肩をすくめて、しかし嬉しそうな笑みを湛えて頷きあう。
貴巳の胸から離れた雪子が、背後の瀬尾をリビングに招き入れた。
「嬉しいです……おかえりなさい、お義父さん」
驚いた瀬尾が、次の瞬間に顔をくしゃくしゃにして、それぞれに深く会釈する。
ただいま、という言葉は、嗚咽に紛れて言葉にならなかった。
「いやあ、でも考えてみたらお目出度いよね、いっぺんに二人も家族が増えるなんて」
えびす顔の坂井の言葉に、瀬尾以外の一同が頷くのを見て、
「……あっ!!」
雪子が素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたね雪子さん」
「……雪子?」
一同の居並ぶ怪訝な表情をぐるりと見回して、雪子が恐る恐る口を開いた。
「二人じゃないんです……」
「は?」
見事なユニゾンで六人が聞き返す。
「えっと……今日の午前中に病院行ってきて、エコー診断というのをしてもらったんですけど」
「えっ雪子ちゃんまさか」
正常に妊娠できていなかったのか、と最悪の想像をして眉を曇らせる一同に、雪子は慌てて首を振る。
「さんにん……」
「え?」
「あの、増える家族……三人なんです、瀬尾さんを入れて」
「……え?」
「えっと……その……だから……いっぺんに二人産まれるって……」
「……双子?」
「はい!」
六人の完璧なユニゾンはそこまでで、後は上へ下への大騒ぎだった。
「どうしてそういう大事な事を先に言わないのです、あなたは」
「だっておばあちゃま、貴巳さん帰ってきてから言おうと思って……」
「えっ双子って、双子って雪子ちゃん!すごいよ!おめでとう!!」
「大変じゃないの!雪子、身体大事にしなきゃダメよ」
「予定日はいつごろなのかね」
総二郎の問いかけに、一同ははっと静まり返る。
「……双子は少し早めに産まれることが多いらしいんですが、順調にいけば、10月の中頃になりそうです」
噛みしめるように言う雪子に、総二郎はふんふん、と頷いた。
「……三か月から六か月、か……もしかすると私の命も間に合うかもしれんな……なんだ、いつ死んでもいいと思っていたが……思わぬ欲が出てきたよ」
雪子の瞳に、みるみるうちに涙が溢れる。
「間に合って下さい……赤ちゃん、抱っこしてくださいね」
ぼろぼろ涙をこぼしながら笑う雪子に、総二郎は力強く頷いて見せた。
泣いたり笑ったりしている声が溢れるリビングを、貴巳は少し離れて戸口から眺めた。
そういえば……、と思い出す。
初めてこの部屋に雪子が来た日。他人を招き入れるのさえ初めてで、二人は付き合ってすらおらず、まして将来結婚することになるなど、夢にも思わなかった。
余計なものを何一つ置かないのが信条だった貴巳だが、その日雪子が帰った後のリビングを、この同じ位置から眺め、どうにも寒々しいと首を傾げた。
今ならばわかる、その感情の正体が。
その頃の殺風景なリビングには、今、テレビが増え、ダイニングテーブルが置かれ、敷物が敷かれ、その他さまざまな生活用品が増えた。
そして何よりも、にぎやかな声に満ちている。
これからは瀬尾が住むのに加え、総二郎の訪問看護にも頻繁に人が出入りし、坂井夫妻も手伝いに来てくれるだろう。
子供が生まれれば、更に騒々しくなるに違いない。
まだ見ぬ光景を想像する貴巳を、気づけば雪子が見上げていた。
出会った頃とほとんど変わらぬ、まるで少女のようなあどけない微笑みを浮かべて。
「……双子っていうのは、大変なんじゃないのか」
「うん。病院の先生も、双子には安定期は無いと思えって。どんなに注意してもしすぎること無いんだって……それに産まれてからもね」
「……これから、大変だと思うが……俺にできることは何でもする。掃除も家事も……食事も今までのように我儘を言わないし、至らないところがあったら言ってくれ」
「うん、わかった!どんどんお願いしちゃうから覚悟しててね」
ころころと笑う雪子が、そっと貴巳の頬に左の掌を当てた。
「……頑張ろうね、みんなで。……おかえりなさい、貴巳さん」
「……ただいま」
その手を取り、唇をそっと押し当てる。
二人の薬指に嵌められた銀色の指輪が、触れ合ってかちりと澄んだ音を立てた。
産まれくる新しい命、そして静かに幕を引く豊かな命が
交差し流れ続けるこの日々に、この場所に、
暖かな光がいつも満ちていますように
鉄仮面と子猫 了