・・・・その11  
 
 
「全治二週間」  
と言われて、私は松葉杖としばらくお付き合いすることになった。  
骨に異常はなかったけれど、ねんざとしてはあまり軽くもないようだ。  
一週間と少しの間、仰々しいギブスが足首についてくる。  
結局、今回の模試は受けられず(イトくんはあのあと居残りして受けたそうだけれど)、  
私はしばらく人の助けなしには動けなくなった。  
溜息が出る。  
それに加えて、頭まで混乱しているので授業は全然耳に届かなかった。  
頭に何も入らない。  
勉強が、まったく、ちっとも、できない。  
こんなのは変だ。  
恨もうとしても、思い浮かべただけで何も分からなくなるのでそこまでたどり着きようもない。  
それなのに当の本人は、いつも通りにうちに来る。  
全然平気な顔でいるように見えるのは気のせいだろうか。  
かといって気のせいじゃなくても困るような気もするし、  
考えれば考えるほど分からなくなるので半分諦めた。  
分かることといったら、顔をまともに見られないのは、私の方だけだということくらいだ。  
そんなこと分かったって嬉しくもなんともない。  
ぼんやりと朝の曇り空を見上げ、私は溜息をついた。  
 
「おっはよう、ひーちゃん!待ってて、開けたげる」  
塞がった両手でどうにかドアを開けようとしていると、早朝のざわめきに混じって声がした。  
当たり前のように教室のドアを引いてくれる友だちに感謝する。  
志奈子さんは困ったように細い眉を寄せて、心配そうに首を傾げる。  
「なんか大変だね。三年生1階で良かったよ」  
本当にそうだ。  
もしこれで教室が最上階だったりしたら泣きたい。  
足がこの状態になって2日ほどだけれど、意外にも人が手伝ってくれないことが多くて少しショックを受けている。  
単に気付いてくれないだけなのは分かるのだけれども。  
階段を上るとか、ドアを開けるとか、本当にそれだけのことでなんでこんなに力が要るのだろうと思う。  
予定通りならあと一週間ほどで普通に戻るのだけれど、一週間も待てないくらいだ。  
椅子に座るだけでも簡単にいかないのは、流石に嫌になってくる。  
座る間、持っていてくれた杖を受け取って、机の左端に寝かせた。  
「ひーちゃんどうやって学校来てるの?やっぱ車?」  
「行きはお父さんの車。帰りは時間あんまり合わないから、タクシーとかだけど」  
鞄から辞書を引っ張り出しながら肩を竦める。  
お父さんは学校で待っていられる時間限界よりずっと遅くまで働いていることが多い。  
兄さんが独り暮らしを始めてからお母さんも週3のパートに出た。  
東京の私立大学でしかも一人暮らし、となるといくら奨学金を申請していても  
やっぱり家計的には苦しいものがあるのだろう。  
うちにはまだ弟もいるのに。  
だから私はできるだけ国公立に行きたいと思うし、私なりに頑張っているのだけれど。  
田舎の進学校にとっては国立狙いだけでも充分にハイレベルだ。  
溜息をついて、腕時計に軽く視線を移す。  
 
午前8時近くなってクラスには続々と人が増えはじめている。  
笑い声やざわめきが大きくなりはじめた教室の前のドアから、また一人入ってきた。  
「…ぁ」  
目の端でそれが誰かすぐに分かってしまいそちらを反射的に見る。  
幼馴染はこちらを一瞬見つめた後、小さく笑った。  
いつも通り周囲に挨拶しながら自分の席にさっさと落ち着く。  
なんでそこで笑うのかが分からない。  
どういう顔をしていいのか途方にくれて、なんとなく友だちの名前を呼ぶ。  
「志奈子さん」  
「んー?」  
後ろの席の友だちは、2時限目の予習から顔をあげてにっこりと笑った。  
「何かな。何かあったらなんでも言ってね」  
私は振り返ったままで彼女を見る。  
今日はおろしたままの長髪が、胸元の緋色のリボンにしっとりとかかってとても綺麗だ。  
「ひーちゃん今、ちょっと立つだけでも大変でしょ。遠慮しないでいいからね」  
「…ん、ありがとう」  
もともと何を聞こうかも決めないで話しかけただけだったけれど、  
なんだかとても嬉しかった。  
自然と気分が落ち着いて、ほうっと前を向く。  
掲示板のプリントが外れかけているけれど、今の私ではちょっと立って直すだけのこともできない。  
だからこそ、志奈子さんの言葉は実感を伴って届いた。  
気遣ってくれる人がいるのは貴重だ。  
普段思っているよりも、ずっとずっと貴重なことだ。  
身体が思い通りに動かせないと、そんな当たり前のことが身にしみて嬉しくなる。  
 
―ああ。  
 
開いた教室の窓から、涼しげな風が吹き込んでいた。  
授業開始のベルを遠くに聞きながら、相変わらず茫漠とした頭でふと蘇った言葉がある。  
あの人は。  
窓際寄りの、前の方で外を見ている(授業を聞いていないようだ)幼馴染は、当たり前のように言う。  
"心配をかけてごめん"ではなく、"心配してくれてありがとう"と言う。  
いつの間にか、その声を鮮やかに思い出していた。  
今ならなんとなく分かる。  
イトくんが心の底から、かみしめるようにでもとてもさり気なく、人に向けている言葉と気持ち。  
人より病弱で誰かの手を借りなければ生きていくのが難しい。  
だけどそれは多分、皆同じだ。  
私だって、少し足を違う方向に捻っただけでそうなってしまう。  
白いままのノートをぼんやりと見下ろしながら、時々幼馴染の背中を無意識に眺めた。  
橋田依斗くんはそれでも、いつも通りにうちに来る。  
マンションの階段を登るのに手を貸してくれたりする。  
それは私をとても困らせたけれども、落ち着かなくさせたけれども、  
本当に自然に彼は私を助ける。  
あの人はそういう人だ。  
それが不意に分かり、自由な方の足首で、私は何となく床をけずった。  
だからといって、イトくんのすることまで理解できるわけでもなかった。  
それでも無秩序に波立っていた混乱が、少しだけ穏やかになった。  
シャープペンを持ち直して、数日振りに黒板を見る。  
頬に当たる夏の風が心地よく、私はしばらく最近の困惑を忘れることができた。  
 
 

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