・・・・その13  
 
 
ギブスが外れて松葉杖がいらなくなった。  
まだ走ると痛いので体育を見学しているということの他は、普通通りに生活できている。  
なにより幼馴染に助けを借りなくてもよくなったのに安堵した。  
どういう顔をしていいのか分からなかったときに、逃げることもできるようになったし。  
ネガティブすぎて自分にうんざりする。  
別にイトくんが嫌いなわけではないのに、こちらを見られるたびに  
思わず身体が萎縮してしまうのは相変わらずだ。  
平気な顔で話すなんて私はできない。  
それとも本当にあれは、痛かったせいで感覚がおかしくなっただけの、気のせいだったのだろうか。  
だんだん自信がなくなってきた。  
10月にある文化祭の打ち合わせをぼんやりと聞き流しながら、  
無意識にその人を眺める。  
あの背中は見慣れたはずなのに、なんとなく目が行ってしまう。  
そんな自分に気付いて、意識的に黒板に視線を戻した。  
これでは見ているみたいだ。  
副委員長の佐藤さんが、白チョークで今後の予定を書き出していた。  
もうすぐ、夏休みになる。  
半袖の制服でも充分に暑くて、膝の裏にじっとりと汗が滲んでいるのが分かる。  
そういえばお父さんは8月から一ヶ月ほど、北海道に出張だと言っていた。  
羨ましいなあ、と溜息をついて、気分が悪そうに頬杖をつくイトくんをまた無意識に視界に入れた。  
 
 
お母さんがキッチンから出てくるのを見て、イトくんが  
コマーシャルになったテレビを消した。  
「おばさん。夏休みになったら、ハルのところにちょっと行ってきます」  
夏バテ気味でソファに寄りかかっていた背を、少しまっすぐにして彼が言う。  
お風呂の掃除を終えたばかりの私は、部屋に入ろうとした足を一旦止めて声のした方を見た。  
春張兄さんの家に、私はまだ行ったことがない。  
一体どんなところに住んでいるのだろう、と心の端で考える。  
お母さんはあらあらと嬉しそうに手を口に当てて、目を輝かせた。  
「そう、東京までねえ。いってらっしゃい。  
 あ、あの子絶対部屋汚いから、大変だと思うけど頑張って」  
「慣れてます」  
さらりと返す兄さんの幼友達は、「兄さんの友達」である男の人の顔だった。  
立ち止まったまま、その横顔にぼんやりと目を向ける。  
ああ、イトくんだな、と思う。  
兄さんがイトくんのことを「弱いのは身体だけ」と評したことがあって、  
それが今更しんみりと胸に落ちる。  
兄さんは所謂「ガキ大将」で、イトくんは所謂「優等生」だった。  
でも、二人はどちらが引っ張っていくとかどちらが付いていくとかではなく、  
一対一の仲の良さでずっといたような気がする。  
それが私にとっては自然な姿だった。  
一学年上で、家族以上に優しいけれどあくまで兄さんを挟んだところにいる人で、  
それが私の知っている「イトくん」だった。  
でも兄さんという緩衝地帯がなくなってからも、イトくんはやっぱりイトくんで、  
……だけど、何か違うような気もして。  
私はこの人のことを、知っているようで知らない。  
 
急に、心臓が跳ねて身体がこわばった。  
お母さんと言葉を交わしていた彼が私の視線に気付いてこちらを見ていた。  
―どうしよう。  
今、完全に目が合った。  
イトくんはいつもの顔で、いつもどおりの口調で私に話しかける。  
なのにしばらく、何を言っているのか聞こえなかった。  
肺の奥が手で掴まれたように息苦しくて、顔が熱い。  
最近おかしくて自分がよく分からない。  
堪らなくなって床に視線を落としていると、イトくんの落ち着いた声が切れ切れに聞こえた。  
「…で……うことになったんだよね」  
「え、あ……うん」  
「へえ、昔から緋衣子そういうの得意だものね。  
 それで橋田くんは何?かっこいいから主役でしょう」  
突然戻った聴覚に口ごもっていると、お母さんが図らずも助け舟のようなことを言ってくれた。  
文化祭のことだった。  
多分、私の割り振りが小道具係だという話題なのだろうと思う。  
イトくんが、お母さんの期待した口調に苦笑して手を振った。  
「いやありえないありえない。まだキャストも決まってないですよ。  
 単なる脚本グループの平メンバーで」  
「うわー脚本も自分達で作るの、すごいじゃない緋衣子ちゃん達のクラス」  
「……そんなことないよ」  
私は言って、イトくんをちらりと見た。  
というよりなんで私まで会話に混ざっているんだろう。  
まあ、いいけど。  
「脚本って言っても、確か元の脚本探して削ったりする係でしょう」  
「うん、ひーこの言う通り。まだ元ネタ探しも始まってないです」  
「へええ。大変ねえ、そうかあ舞台かあ……」  
お母さんはそれくらいで飽きたらしく(兄さんにそっくりだ)、  
ふんふんと相槌を打ってそのままテレビをつけた。  
 
特に珍しいことではないので、私はさっさと話を打ち切ったことにして部屋に戻った。  
ドアを閉めて、思わずほっと息をつく。  
ノブにかけたままの手の平が、冷たい金属に触れて気持ちよかった。  
手の力がゆっくりと抜ける。  
それなりに普通に話せるのに、時々、ふとした一瞬、どうやって  
イトくんと接していいのか突然分からなくなることがある。  
以前も困惑はあったけれど。  
こんなに何もかもが真っ白になるのは、ちょっと前まではなかったのに。  
それについて考えると、泣きたいような、なにかに八つ当たりしたいような、  
縋りつきたいような知らない困惑が体中を襲う。  
私は最近のイトくんが苦手だ。  
なのに向こうは平気そうなのが、悔しくてたまらない。  
大体、受験生の癖に夏休みになった途端旅行なんて気楽すぎて嫌になる。  
―いっそ夏休み中帰ってこなければ少しくらい落ち着くのに。  
思いながら床に座り込んだ。  
学校だけならまだしも、家でまでこうだと本当に落ち着かなくて困る。  
幼馴染だなんて、困るばかりで全然嬉しくない。  
勉強しなくちゃと心の隅で言い聞かせながら、私はそっと溜息をついた。  
 
 

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