・・・・その15  
 
 
中学一年生の秋、二年生が修学旅行に出かけた。  
同じクラスだった兄さんと幼馴染を、早朝にお父さんが駅まで  
車に乗せていくのを、朝ごはんを食べながら見送った。  
いないことに特に違和感はなく、かえって家が広くて嬉しかった記憶さえある。  
それが2日目に突然、イトくんが帰されたとお母さんに聞いた。  
運が悪く修学旅行中は橋田のおじさんが出張で、帰ってくるのが難しいようだった。  
それでうちで預かった。  
とはいってもちょうどお母さんも町内会の用事で忙しく、ただ寝かせているだけだったけれども。  
熱が酷くて、うつらないように私が兄さん達の部屋で寝て、イトくんが私の部屋で寝た。  
土曜の午後は、冷たい秋の雨が降り続いていた。  
本当なら兄さん達と遠くにいた筈の幼馴染の傍らで、珍しくお母さんに代わって彼の看病をした。  
どうしてだか忘れたけれど、手を緩く握って傍についていた。  
雨がベランダをぶつ音のうるささと、冷たい湿気の中で、彼の手だけがとても熱く。  
あんなに悲しそうで悔しそうな幼馴染を、私はあの日、初めて見た。  
 
 
どれだけ時間が経ったのか分からない頃、幼馴染が立ち上がって、  
ティッシュの箱を持って戻ってきた。  
差し出された箱から柔らかい紙を引いて、涙を拭って鼻水を拭く。  
どうして泣いていたのか、だんだん自分でも分からなくなっていた。  
その割にまだ思い出したように涙が出てくる。  
ひたすらティッシュを大量消費していると、また幼馴染が立ち上がった。  
声をかける間もなく、部屋から出て行かれてしまった。  
視線の先で、ドアの隙間に姿が消える。  
しばらく私は呆然としていた。  
外の風は少しだけ強さを増し、窓から吹き込んで私の髪を撫でていく。  
腫れた目を拭って、ベッドから足だけ降ろす。  
手も腕も涙の跡が乾いてべたべたしている。  
お母さんに見られるのはいやだけど、顔を洗いに行ったほうがいいかもしれない。  
耳に音が飛び込みふと顔をあげた。  
イトくんが何かを片手に、そこにいた。  
「ほら」  
渡されたのは濡れタオルだった。  
…気が利く。  
黙って受け取って、目元を拭いた。  
泣き続けた顔に、冷たいタオルが気持ちよかった。  
イトくんがすぐ隣に座り、私の頭をぽんぽんと優しくなでる。  
タオルから顔をあげられなくて、なんだか困った。  
とりあえず下を向いたまま、横をちらりと盗み見る。  
すぐに気付かれて、彼は少し困ったように笑った。  
気恥ずかしくてなんとなく視線を外す。  
こういうときは、何を言えば、いいんだろう。  
とりあえず、もう少しだけいてほしかった。  
しばらく、会話も何もなかった。  
それが不思議に楽だった。  
 
口を切ったのはイトくんの方だった。  
名前を呼ばれたので、窺うように横を見上げる。  
「な…に」  
発した声が掠れていて弱った。  
ひとつ上の幼馴染は小さく笑い、ふと真面目な顔になった。  
「誤解があるようだけど。おまえはね」  
イトくんはいったん口を閉じ、言葉を探すように宙を見つめた。  
沈黙の合間に、台所の水音が聞こえる。  
彼は膝の間で指を組み、一言一言をゆっくり話しはじめた。  
「おまえは―眠らないで、飲み物も取らないで、長い道を走っていけると思ってる。  
 それで、早くゴールに着けると信じている、という感じがするよ。  
 しかもその割には全然ゴールを見ないで、なぜか道路の自動車ばっかりを気にする」  
こちらを見下ろした顔を、私は黙って見上げた。  
イトくんが静かに笑って、涙の跡を柔らかに叩く。  
「いくら練習しても、タイムが縮まらないのはそのせい。せっかく足が速いのにね」  
泣き腫らした目が瞬きを忘れた。  
濡れタオルを握る手から、力が抜ける。  
頬に触れた感触がしっとりと残り、穏やかな熱を持った。  
泣いた分の水の重さが、蒸発して夏風の向こうに消えていくような気がした。  
言いたいことが、よく分かった。  
 
「……じゃあ、イトくんは車」  
「おまえそれ、わざと言ってるだろう」  
鼻声で呟く私に、イトくんが苦笑気味に脱力する。  
「もののたとえだよ。単に走る道路は皆違う、ということ」  
「うん。分かる」  
でも、と心中で呟く。  
―この人は、やっぱりすごい。  
「ちゃんと休みなさい。おまえに実力があるのは知ってる。休んでも、大丈夫だよ」  
「…うん」  
言葉の一つ一つを、かみしめる。  
そんな風に言ってもらえるとは、思っていなかった。  
膝上の濡れタオルを持ち直して、目を落とす。  
風鈴が遠くからまたひとつふたつ澄む。  
風鈴の音は、夏風の音だ。  
「イトくん」  
「ん?」  
「向こうに行ったら、兄さんによろしく」  
「ぼくがいなくて寂しくても泣かないようにね」  
私は俯いて、小さく溜息をついた。  
「…何、くだらないこと言ってるの」  
そんな小さな言葉も、今はどこか心地よかった。  
湿ったタオルが、手の中で生温い。  
今夜は寝苦しさなんて関係なく、よく眠れそうだ。  
 
 

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