・・・・その20  
 
 
においがする、と思った。  
私ではない人の。  
 
 
 
温かい風にとけた記憶は、熱と一緒にまじりあって、不明瞭なままだ。  
憶えていることといったら、  
指の間で握り締めた生地の感触と、  
腕が布越しに感じていた体温と。  
頭と肩にそっと置かれた両手が、優しかったことと―  
 
それから、その両腕が静かに、私を抱きしめて、  
息の詰まるような長い、長い時間が過ぎていったことと、  
…ゆっくりとその力が緩まった時の、安堵感と喪失感、と。  
 
その時に囁かれた、少し掠れた声だった。  
「それで」  
イトくんらしくもなく、小さい声だった。  
ぼんやりした頭の隅で、変なの、と思う。  
「いつまでこうしてようか」  
その声で、じわじわと自分の状態に気付き始めた。  
空白だった記憶が、湧き水のように縁まで満ちて溢れ始める。  
次第に血の巡りがはやくなり、全身がゆっくりと熱を上げる。  
目の前に彼の服が見えた。  
 
…今、…何を、私は。  
顔に急激に血が集まるのが自分でも分かった。  
声にならない声で、何かを言おうとしたのだけれど、鼓動のはやさがひどい。  
力の入らない手で、イトくんの胸を押すようにして、弱々しくあとずさる。  
「………ぃ、」  
「積極的でびっくりしたよ」  
イトくんが余計なことを呟くものだから、また体温が上がる。  
月並みな表現だと分かっていても―顔から、火が出そうだ。  
―恥ずかしい。  
何をやっているのだろう私。  
全身が、内部から夏の陽射しよりも強い熱をもち、湯気のかわりに涙が出る。  
目の前に視線を固定しながら、力の入らない足で半歩下がる。  
遠くで車の音がして、数秒間だけあたりがさあっと明るさを増した。  
イトくんが、傍で私を見下ろしているのが分かった。  
心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。  
さっき、自分のしたことが分からない。  
いたたまれなくて指先が震えた。  
何か、言わないと、と思う。  
思うのに、声が出ない。  
膝から力が抜けて、立っているのもやっとで。  
 
「さてと」  
突然声が降って、思わず顔を上げた。  
イトくんが、いつもみたいに、頭に手を置く。  
静かになでてから、優しく二三回、ぽんと叩いた。  
―何も言わなくていい、と言ってくれるみたいに。  
「遅くなるから、帰ろう」  
「……ん」  
当たり前のように続けられた言葉に切なくなった。  
ありがとうと言いたいのに、踵を返した背中にかける声がない。  
イトくんだって、何か言いたいことがあるはずなのに。  
出会い頭にしがみつかれて、嫌だったかもしれないのに。  
…抱き返したあの人の腕を、憶えてはいるけれども。  
複雑に沈む気持ちを抱えながら、落ちていたかばんを拾う。  
埃を払ってから、イトくんの後を追った。  
 
 
時折車や自転車が通る他は、とても静かな帰り道だった。  
ただ時々、前の人がふらついているのが気になる。  
見たまま、大丈夫ではないのだろう。  
長旅帰りで、往復一時間を徒歩なんて無理なのだ。  
いくら昔より丈夫になったといっても、そこまでの体力がないことは分かっている。  
でも、心配して来てくれたんだろうということも、知っているから。  
心臓がひそやかに鳴った。  
まさか本当に来てくれるとは、思わなかったのに。  
なんだかたまらなくなって、夜空を仰ぐ。  
月光がまぶしい。  
自然に開いた唇が、幼馴染を呼んだ。  
「あのね」  
 
「ん?」  
「会いたかった」  
振り返りかけた幼馴染の、足が止まった。  
私もつられて止まる。  
木々はそよ風にさわいで、不思議な沈黙をさらう。  
イトくんが、深く長い溜息とともに、ぽつりと呟いた。  
「すごいこと言うね…」  
気恥ずかしくなったので、そう、とだけ答える。  
夜風が髪を揺らした。  
虫がかすかに鳴いている。  
イトくんは、しばらくしてから視線を戻し、また歩き出した。  
ゆっくりと前を行く幼馴染の、一歩後ろにつけて、足元を見ながら踵を追う。  
もしかしてこの人も。  
兄さんみたいに――東京に行くのだろうか。  
思いついて、ふと立ち止まる。  
…薄い痛みがかすかに滲んだ。  
少しだけ離れて、影の先を踏む。  
でもその距離以上に離れたくなくて、そのまま背中を見上げた。  
背が高い、病弱で年上の幼馴染を。  
肌を掠める夜気はあたたかいのに、目の奥が熱くなって、泣きたいのに嬉しい。  
そう。  
この人が好きだ。  
肩口にあてた手に、薄れ往く余韻を想う。  
抱きしめられたときのことを、霞んだ記憶からすくいとり、眼を伏せた。  
―どういう、意味だったろう、あれは。  
気のせいというにはあまりにも、長く。  
脇の道路をトラックが過ぎさり、ざわりと風が、強まった。  
 
 

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