・・・・その21  
 
 
享に言わせれば、私は淡白な人らしい。  
そうなんだろうか。  
頬杖をついて、模試の解説冊子をめくった。  
昨晩からの雨はやむどころか、いっそう雨足を強めている。  
解説を読んでいたはずが、いつの間にか別のことを想いうかべていた。  
赤ペンを手放して、壁際に転がす。  
ペン軸はころころと滑り、重ねた本に当たって止まった。  
なんとなくそれを見つめて息をつく。  
ゆっくりと腕を崩して顔を伏せた。  
あの後、疲労で寝込んだり熱を出したりと、少しの波乱はあったけれど。  
気のせいでなければ、あの人はいつも通りにしている。  
そのおかげで私も助かっていると、分かっている。  
でも、たゆたう温水の行き場がないみたいな、靄のかかった疼きも、消えない。  
顔をうずめた腕に、額を押し付ける。  
「今まで通り」なんて、もうありえないのに。  
イトくんは違うんだろうか。  
あの日のことは、何もなかったようなものなんだろうか。  
台風が近付いているのか、窓を揺らす風が強くなり、水滴と一緒に耳を攫った。  
 
 
髪を梳かれて、顔をあげた。  
寝てはいなかったけれど、ドアの音にも気付かなかった。  
いつの間にか来ていた人の、気配を不意に知る。  
―イトくんが手を引っ込めて、私を見ていた。  
熱くなる身体を気付かれないよう祈りながら、彼に目を向ける。  
「なに」  
雨音に紛れて、自分の声はなんだか小さく聞こえた。  
イトくんは、しばらく黙っていて、それから言った。  
「辞書貸して」  
「なんで」  
「雨だから家に戻るのが面倒くさい。貸して」  
…やっぱりいつも通りな気がする。  
かすかな溜息で、視線を紛らわした。  
教科書やノートに混じって、机に重ねた辞書を探す。  
「どの辞書?」  
「英和」  
簡潔な答えに頷いて、上にあった単語集を別の山に重ねた。  
それにしても、原書を平気で読むくせに、勉強には辞書がいるのだなと思う。  
そういうものなんだろうか。  
 
黙って差し出すと、幼馴染が目を細めた。  
少し戸惑って、視線を逸らす。  
はやくなった鼓動があたたかい。  
雨音が、なんだかうるさいと思った。  
渡しかけた辞書を、なんとなく引いて、膝元に置く。  
「ひーこ?」  
所在なさげに浮いた手を、私とは違うなあと改めて眺めた。  
いぶかしむ声を聞く前に、重い口を開いた。  
「…イトくん」  
最近ちゃんと勉強を始めたこの人は、学部以外の進路に口を閉ざす。  
志望学部が違うから、詳しいことは分からないのだけれど。  
彼レベルの医学部がある大学は、この辺にはない気がしていた。  
……都会に行けば話は、別で。  
「なにかな」  
「イトくんは、東京の大学に行くの?」  
沈むものをどこかに感じながら、声にした。  
英和辞書を机の端に置いて、期待せずに答えを待つ。  
沈黙に諦めて眼を伏せかけたとき、一言だけが返ってきた。  
「さあね」  
ぽつりと呟かれた言葉を、意外に思った。  
答えをもらえたことだけへの驚きでは、なく。  
不可解な不安と少しの嬉しさが、動脈を巡る。  
見上げると、寂しそうな目が、私の視線を受けた。  
「…迷っているから。どうすればいいか」  
「そう、」  
 
なんだか目が離せないまま、言葉に詰まった。  
こんな目を、初めて見た。  
この人が迷うなんてことも、考えたこともなかった。  
「ひーこは、隣県志望だったっけね」  
「うん」  
「がんばって」  
「うん」  
イトくんは頷いて、瞳の色を深めた。  
「あの県は山がきれいと言われるね。でも、海もいいよ」  
すごくね、と小さく付け加え、彼は懐かしむように窓を見た。  
視線を追って振りかえる。  
閉まったカーテンが、隙間風に揺れていた。  
夏の雨が、緑を濡らして降りしきる。  
…隣県が、どうかしたんだろうか。  
海が。  
目の奥に霞がかかる。  
紙で切ったみたいな、薄い痛みだった。  
今更気付くのが遅すぎるだけだった。  
 
幼馴染はどこまでも他人だ。  
ずっとそう考えていたから、本当にそうなってしまった。  
 
十年以上も、家族みたいに傍にいたのに。  
 
――この人を何も知らない。  
 

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