・・・・その23  
 
 
暑かったので、押入れからクッキーの箱を出した。  
古い金属の箱にはたくさんのうちわが入っている。  
どれも黴臭くて色褪せていて、懐かしかった。  
自分で作ったものもある。  
骨組みに糊付けした薄紙は今見ると皺だらけで、ひどい出来だ。  
扇いでも涼しくないどころか、いっそ破れそうだし。  
役に立たないのは知っていたけれど、それだけ取り出して箱を戻した。  
部屋に持っていって、机の傍に立てかけてみる。  
稚拙な筆遣いで描かれた紅花色の花火が、目に優しくて気が休まるから、これはこれでいい。  
不安定な白い骨組みを指でなぞって、瞬きをする。  
いつかこんな記憶たちも、失くして忘れていくのかもしれない。  
そういえばこれを作っていた時、イトくんに誉めてもらった。  
こんなものをよく誉めてくれたものだと思う。  
何年前の話だったかは憶えていない。  
留守番中の暑い部屋で、その言葉だけを幼心に残して、あとは忘れてしまった。  
ほんの、たった一言で、特に大切な思い出というわけでもない。  
でも幼馴染の記憶を掘り起こすたび、脈が静かに熱を増す。  
むっとする夜気にむきだしの腕が汗ばんで、白熱灯が手首を灼いた。  
 
 
窓から見える空は、相変わらず青くて白い。  
夏休みにも購買部が開いているのは受験生としてありがたい。  
パンを抱えて二階にあがると、見慣れた影を見つけた。  
入試情報の掲示板を眺めている髪の長い横顔が、近付くにつれてはっきりする。  
傍に近付いて、横から彼女を見上げた。  
「志奈子さん」  
「あ、ひーちゃん。おひさしぶり」  
篠尾志奈子さんは柔らかい目で、にこりと笑った。  
志奈子さんは表情が綺麗だ。  
ちらりと掲示板を見ると、学部ごとの偏差値一覧表が  
国公立、私立に分かれて貼ってあった。  
画鋲が太陽に鈍く反射している。  
昨日通ったときは、こんなものはなかった。  
「これ新しいのだね」  
「そうなの?あんま学校来ないからなぁ」  
志奈子さんが右端(看護学部だろうか)の欄を見つめ、悩ましげに眉を寄せる。  
私も理学部の偏差値を眺めて、志望校の位置に溜息をついた。  
まあ、どう足掻いても無理な数値、というわけではないのだけれど。  
夏休みはまだあるから頑張ろう。  
蝉の声を聞きながら、腕の中のパンを抱く。  
影になった校舎の廊下は比較的涼しく、窓からは湿気の篭った空気が  
ゆっくりと屋内の空気と混じりあいながら流れてくる。  
医学部の欄に目を向けた。  
前は見もしなかったのだけれど、今は気になる。  
 
眺めていると、外で太陽が隠れたのか廊下が薄暗くなって、風が吹いた。  
波が寄せて去っていくみたいに、奥のなにかがざわつく。  
ふとした瞬間に想ってしまうと、どうしていいか分からなくて切なかった。  
腕の中のパンを潰さないように、強ばりかけた肩から、意識的に力を抜く。  
もう一度見上げて、表の上から大学名と数値を曖昧に追った。  
医療系は、思っていたよりもずっと難関のようだ。  
イトくんは現役で進学するつもりのようだけど、いくら彼でも簡単にはいかない気がする。  
自分の進路以外のことはあまり調べていなかったので、今更のようにそんなことを考える。  
でも、まあ、どちらにしたって。  
私の志望大学には、もともと医学部はないし。  
ぼんやり模試の広告を見ていると、隣から志奈子さんの落ち着いた声がした。  
「ひーちゃん今日、学校で勉強してくの」  
意識を戻して、隣の子を見上げると、また太陽の光が廊下に満ちた。  
床を照らす明るさになんとなく落ち着いて、ゆううつが薄らぐ。  
それに久し振りに友だちが傍にいるのは、やっぱり安心した。  
「うん、一応そのつもりだけど」  
「今日はやめない?今から駅前でお茶しようよ」  
「いいけど。どうして?」  
「今日一日遊んだら、本格的に受験生するつもりだから。  
 だからひーちゃんも遊ぶの付き合って」  
私は、少し考えて顔を和らげた。  
きっぱりと、遊びをここまで、と決められる彼女をすごいと思う。  
イトくんは、遊びと勉強を、もっと細かに混在させながら  
効率よく生きていて、それもそれですごいけれど。  
 
最近になってやっと、分かってきた。  
皆、それぞれのやり方とペースで、道を歩いていて。  
だから私が一人で焦って他の人と比べるなんて、  
最初から何の意味もなく。  
「花火大会も、今日だよね。志奈子さんは花火大会も行くの」  
「もちろん行くよー。夜になったら浴衣来て、宗太と行くの」  
彼氏の名前を口にして、彼女は嬉しそうに笑った。  
幸せそうだね、と私が呟く。  
蝉の鳴き声が途切れて、吹奏楽部の練習の音が、耳に響いてくる。  
中庭から演劇部の発声練習も聞こえた。  
夏が、あまりにも明るい。  
ふと胸が塞いで志奈子さんにもたれた。  
彼女の制服を掴むと、弱い力で縋りついて腕に顔を埋める。  
「どうかした、ひーちゃん」  
「うん……」  
「お悩みかな?」  
耳元に届く声が柔らかい。  
夏服から伸びた腕は白く細く、以前に触れたあの人の腕とは、なにもかもが全然違った。  
それでまた不意に、泣きたいくらい、胸が熱くなった。  
学校の空気が首筋をなぜて、廊下を流れる。  
8月が終わるのなんて、あっという間かもしれない。  
 

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