・・・・その25  
 
 
近所のお兄さん、はいつも余裕そうで。  
勉強が馬鹿みたいにできて、変に優しくて、よく分からない人だった。  
性格はそのままで、いつしか顔が近所のお兄さんではなくなっていた。  
今年の春、外国から帰って来てからだった。  
それは本当にイトくんが変わったからだったろうか。  
私の彼を見る目が変わったというだけのことだったろうか。  
どちらもありえるのだろう。  
私は彼と同じ学年になって、見る目を確かに、変えていったのだし。  
イトくんだって一年も違う文化に触れて、私のいない場所にいたのなら、そんなの変わって当たり前だ。  
それに。  
…変わっても彼は彼で、私は私だ。  
幼い頃の面影を残したままで、呼び合う名前も変わっていないし、  
今はまだ昔のように、家族みたいに傍にいる。  
 
 
薄暗い部屋は生温く、入り口は明るく。  
そこに立ち尽くして、僅かに顔を上げたまま。  
イトくんを見ながら心臓の音を聞いていた。  
一体どれだけの間、彼を見つめて立っていたのだろう。  
時間が過ぎるにつれて緩々と思考が戻り始め――  
かなり経ってからやっとその不自然さに気付いた。  
焦点以外の視界がはっきりしだして、その恥ずかしさが意識にじわりと切り込む。  
よく見ると幼馴染も、おかしそうな顔で見ているし。  
…急に顔が、朱に染まった気がした。  
言葉を見つけられずに、俯きがちに顔を逸らす。  
花火のささやかな明るさに部屋が照らされて、やがて薄暗さが戻った。  
開いたままのドアから光が差し込み、足元に影を作る。  
「どうしたの」  
いつもの穏やかな笑いを含んで幼馴染が言うので弱った。  
抱きついたときも、こんなだったのを思い出して悔しい。  
私ばかりが自分の気持ちに戸惑って困って。  
なのにイトくんは、いつも平気そうに笑っては、私がついてくるのを待っている。  
かすかな溜息をついて、彼にそっと目を向ける。  
優しい瞳が私を見下ろしていた。  
心の深部がひそやかに疼く。  
 
小さな私の一人部屋は、机までたった二歩で辿りつけるくらいだけれど。  
そんな距離でさえ遠いのか近いのか、分からなかった。  
窓の外からエンジンと、花火と、虫の鳴き声とが雑ざった、夏の音が聞こえる。  
幼馴染はなんとはなしに窓を見て、私の机に寄りかかった。  
風の弱い夜だった。  
網戸から入り込む空気は湿っていて温く、皮膚にしみこんでしっとりと肌を汗ばます。  
イトくんは眼を伏せて、しばらく何も言わなかった。  
私も何も言わずに、立っていた。  
それから、イトくんは息をつき、顔を和らげて私を見た。  
「ひーこ」  
「なに?」  
小さく答える。  
波が静まって、水温があたたかくなった。  
離せない視線を揺らし、瞬きをする。  
はやめの心音が不思議と音量を潜め、でも身体は上気したままかすかな緊張に動けずにいる。  
 
イトくんが静かに目を細めて、もう一度、私の名前を呼んだ。  
 
それだけだった。  
…それだけだったけれど、充分だった。  
その一言が数年分のすべてだった。  
私ではなくて、  
イトくんの。  
 
「……あの、私」  
もともと火照っていた顔が耳まで熱くなり、鼓動が急にはやくなりはじめた。  
指の尖端までが甘く痺れていく。  
どうすればいいだろう。  
こんな風に伝えられてしまうなんてずるいと思った。  
名前を、呼ぶだけなんて。  
喉元に満ちた感情が音もなく溢れて私を押す。  
踏み出した足がふらついて、自分の身体ではないみたいだった。  
「…あのね」  
幼馴染が机から背中を離して、かすかに目元を動かした。  
彼がどんな表情なのか観察する余裕なんて少しもなかった。  
「あの、」  
喉が塞がり、声が震える。  
一歩近付くと、手が届く距離になった。  
見上げたまま、彼の名前を口にする。  
もう一回、呼んで、それからまた、同じように。  
部屋がほんのかすかに明るさをまして、遠い音とともにまた薄暗くなる。  
手を伸ばして、彼の服に触れた。  
搾り出すような声で、言うと、たまらなくなって肩が震えた。  
「好き」  
指先が、彼のシャツを弱く握った。  
掴んだ手を、覆うように包まれるのに気付かないで、もう一度言った。  
「イトくんが好き」  
「知ってる」  
不意に声が返ってきて、感覚と記憶が焼けてこぼれた。  
――いつ、抱きしめられたのか、分からなかった。  
 
シャツに顔を押し付けられていて、彼のにおいが間近にあった。  
慈しむように肩と背に力を込められると息が詰まった。  
以前よりずっと腕の力が強くて、少し苦しい。  
動悸がうるさくて触れられた部分が熱くて、頭がじわじわと白熱して溶けていく。  
電気がついていないので、狭い視界すらも何があるのかよく見えない。  
苦しさに身を捩ると、少しだけ力が緩まったので、身を僅かに離す。  
身体に力が入らなくて弱くしがみついていると、頭を撫でられた。  
ゆっくりと、髪をすくい、また撫でられて、心地よく。  
名前を呼ばれたように思ったけれど、本当に呼ばれたかどうかは憶えていない。  
私も何かを言った気がするけれど憶えていない。  
頭を撫でる手がいつしか頬に下りて、指先はゆっくりと耳の脇から分け入って髪を梳いた。  
その熱に混じって、一瞬だけ唇が触れた。  
手の先が痺れて、息が止まった。  
すぐにまた唇が重なって、引き寄せられたような――気がする。  
私から彼を引き寄せたような気もするけど、どちらでもよかった。  
涙が滲んで離れるたびに縋って求めた。  
自分でも何をしているのか、分からないくらいに意識が飛んでいて、  
ただ熱くて暑くて、何かで身体が蕩けそうだった。  
足から力が抜けて崩れ落ちるのを、追いかけるように抱きとめられて耳の裏を指の腹でなぞられて、  
座り込みながらまだしばらくそれを続けていた。  
 
だんだん酸欠になってきて、苦しさが心地よさに迫り始めたあたりで、イトくんが先にダウンした。  
座り込んだままで私を緩く抱き寄せ、肩に顔を埋める。  
「…ごめん酸欠」  
細い声が耳元で正直に言うものだから、沸騰した頭がそろそろと熱を下げ始めた。  
熱湯が温かいお湯になって、荒い息が落ち着くのと一緒に、理性が少しだけ帰ってくる。  
記憶も弱くだけれど蘇って、別の意味で全身から力が抜けた。  
首に絡めていた腕を少し緩めて、熱い身体を休める。  
彼の肩に顔をつけて、ぼんやりと言葉を捜した。  
知っている、と言ったけれど。  
思い出すとじんとする。  
そうしていると、イトくんが弱く腕に力を込めた。  
「イトくん」  
「……なに?」  
声が掠れてまだ息が上がっているけれど大丈夫なのだろうか。  
心の隅で思いながらも、離れたくなくて少し腕を寄せた。  
薄暗い部屋から、目の端にまた花火が見えた。  
最初に上がったときよりも派手に大きくなって、色も多い。  
ぼうっと見ていると、少し回復したらしく、肩の重みが軽くなった。  
まだ弱々しい声が、耳の傍で届くのに鼓動がはやまる。  
「なにかな」  
「知ってる、ってどうして」  
 
遠くでエンジン音がした。  
時間は今、何時くらいだろう。  
背中の手が、私をそっと叩いてかすかに揺れた。  
「そりゃあね、分かるよ」  
嬉しそうに笑われるのが、なんとも決まり悪い。  
そんなに分かりやすかったろうか。  
「そう?」  
「だてに何年も見てない」  
「…そう」  
今度は恥ずかしかった。  
嬉しかったけど。  
聞きなれた車の音がしたように思った。  
気のせいかと思ったけれど、幼馴染が離れたので、やっぱりうちの車のようだった。  
頭をそっとなでて、イトくんが立ち上がりながら笑った。  
「髪とかした方がいいよ」  
「イトくんがやったんじゃない…」  
かき乱れている髪を指でおさえて、私は溜息をついた。  
こうなるとどうにも恥ずかしくて、決まりが悪い。  
…でも、なんだかあたたかかった。  
夏の風は夜気に沈み込み、火照りが冷めた顔をなでていく。  
それでもまだ脈だけははやくて、血の中にだけ余韻は確かに残存していた。  
 

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