・・・・その26
朝から部屋が蒸し暑い。
気だるい身体を起こして、壁にかかった制服を取った。
ハンガーを降ろしてから、はたと気付いてまた戻す。
お盆前の一週間は学校が閉まっているのだった。
ベッドに座り込み、閉まったカーテンを見上げた。
昨日が遠い夢のような気がして、ぼんやりと記憶をたどる。
熱に浮かされていたあの時のことを思い出すと、おぼろげながら恥ずかしさが渦を巻く。
唇に指の関節を寄せると、湿気に濡れて柔らかかった。
深く息を漏らして、ぼんやりと思いにふける。
白濁した意識が身体を侵食して、芯から蕩けていくみたいなあの感覚を、何と、呼ぶだろう。
思い返して顔が熱くなり、空いた手でシーツを弱く握った。
眼を伏せると、肩から腕までに何かがじわりと満ちる。
初めて、だったのに。
なんであんなことができたのだろう。
自分で自分が信じられなくて、まるでおかしくなってしまったみたいで、少し怖い。
あんな風になるなんて思わなかった。
他の人もこうなのだろうか。
自分が以前男の子を好きになったのは確か小学校低学年だったので参考にもならないし。
イトくんはどうだったろう。
考えても答えは出なくて、とりあえず溜息をつく。
夏服に着替えて、火照る顔を洗いに洗面所に向かった。
居間から見える朝空は色濃く青く、雲がいっそう白く見えている。
そろそろ兄さんが帰ってくるそうだ。
それで、今年は私も受験だし、明後日からのお盆はどこにも行かない。
ただお祖母ちゃんも歳なので今日一日はお母さんが様子を見に行っている。
台所には朝と昼の食事が、ラップがけで置いてあった。
弟はもうすっかり食べ終えて部活のない午前中をゲームに費やしはじめている。
扇風機が気持ちいい。
市の図書館はお盆もやっていただろうか。
それとも家で勉強していようか、とつらつら考えていると、チャイムが鳴った。
「姉ちゃんお客さん」
「ちょっと…」
出る様子のない弟に溜息をついて、チェーンを外してドアを押す。
開けて、そのまま、手が止まった。
言いようのない感覚が空の青さみたいに澄みながら、湧き上がる。
「おはよう…」
こちらを見下ろしていたイトくんが、僅かに目を見開いた。
そしてなにかおかしそうに笑って、頭を撫でて軽く髪を梳いた。
「おはよう、ひーこ。暑いね」
「…うん」
「ハルはまだ?」
玄関に上がって家を見渡す幼馴染の脇で、サンダルを揃える。
なんだかんだで仲はいいくせに、二人とも連絡は適当なのがそれらしい。
「明日か明後日みたい」
ちらりと見上げると、優しい目で見られていたので赤くなった。
やはり夢ではなかったわけで、そう思うと、顔を見るのが恥ずかしい。
というよりも、なんでこの人は平気なのだろう。
「…あと、夜までお母さん出かけてるから」
聞いてるよ、と笑うと、イトくんは荷物も降ろさず居間に向かった。
単にうちに来るにしては大きな荷物だなあと、ふと気付く。
またどこかに行くのだろうか。
背中を眺めていると、幼馴染は弟に声をかけ、文庫本を数冊取り出した。
ゲームを一旦止めて振り返った弟の額をそのうち一冊で、軽く叩く。
「リストにあった本で、書きやすそうなやつはこれくらい」
「おお。ほとんどある」
「ていうかね、感想文以外にも本は読んだ方がいいよ…。
まあこれが書きにくかったら他にもあるから」
荷物を持ち直して、イトくんが肩を竦める。
兄さんも弟も、夏休みの宿題は毎年ほとんど彼頼りなものだから、進歩がない。
少し呆れて扇風機の傍に立ち、風量を調節する。
今日はなんだかいつもより暑い。
後ろから、二人分の声が聞こえている。
「ども。すぐ返さなくてもいい?」
「全部読んだことあるからね。貸しておくけど、その代わり」
「合宿でお金ないからおごるのはやだ」
何を勝手なことを言っているのだろう。
溜息をついて扇風機から離れると、不意に、幼馴染に掴まれて、引き寄せられた。
何が起こったのか分からずによろめいて彼の腕に触れる。
イトくんを見上げると、彼は弟を見下ろしたまましれっと言葉を続けた。
「その代わりアキラの姉さんを少し借りるよ。ひーこ、デートしようデート」
「………なんで?」
混乱した私の耳に、弟の肯定とも否定ともつかない呆れた声が素通りしていく。
イトくんが満足そうに享の頭をかきまわしてお礼を言っている。
"強"に合わせた扇風機の風が、背筋に当たってくすぐったい。
なんで、弟の反応が普通なのだろうというか、それよりも。
なによりもまず困って、高鳴る心音を無視しながら、触れた手を一旦離して、服の裾を引いた。
「あの、イトくん」
「ん?」
帰ってきた声音と、一拍遅れて振り返った目を、見上げた。
…今日は暑くて、風も少し強くて、晴れ渡った夏の盛りで。
こんな日にわざわざ、昼を跨いで出かける人ではなかった。
イトくんの視線にとけている、よく分からないものが目先にしみた。
「もちろん、嫌なら断わっても大丈夫だよ」
「いい。行く」
感覚だけで、何の保証もないけれど、なんとなく何かがあるようだった。
別に遊びに行くわけでもなさそうだし。
「どこまで」
「海まで。電車賃がかかるかも」
イトくんが、そう言って、私が最近まで知らなかったあの目で、静かに笑った。
―やっぱり。
人工の風に吹かれる髪を押さえて、私はかすかな溜息をついた。
「準備するから待って」
「ていうか、海ってここら辺にあったっけ」
弟の呟きが耳に遠い。
そう。
多分"隣の県"に電車で入って乗り換えて、ずっとずっと行かなければ見えないだろう。
部屋の棚から適当なトートバックを引き出して荷物をつめ、
少し考えてから、メモ帳と単語集を入れた。
まあ、勉強はしないだろうけれど。
時間があって大丈夫そうならついでに志望大学も見られるかもしれないし。
「あのさー俺嘘下手だから頼られると困るんだけど」
「いや、ちゃんと夕方までには返すし変な心配はいらないから」
「……何言ってるの」
なんだか不明な会話を交わしていたらしいのを眺め、部屋のドアを閉めた。
バッグを肩に掛けて、二人を見遣る。
弟がなんだかどうでもよさそうに溜息をついて、肩を竦めた。
イトくんが靴を履くのを玄関で見つめて、金属に背をもたれる。
昨日のことをふと思い出して、一瞬、鼓動がとくんとした。
これは、多分普通のお出かけではないんだろうと、知っているけれど。
(そもそもそれだったら家で勉強するし)
でも、傍にいたいと思うのも、声を聞けて嬉しいのも、本当で。
「時間があったら大学見ていい?」
「ああ、うんそれもそのつもり」
当たり前のように答えを返す幼馴染に、安堵する。
気負わなくていいのは嬉しい。
だからこの人が好きだ。
そして知らなかったイトくんを、できるならもう少し知りたい。
「うわ、色気ねえの」
玄関口で見送る弟のぼやきを聞き流し、暑い日差しの外で重い扉を閉めた。
お盆がもうじきで、兄さんが帰る日もすぐ目の前だ。
日除けの帽子を被る幼馴染の後を追い、夏の早朝のマンションを降りていく。