・・・・その28  
 
 
市内に出て、大学を一通り回った時点で体力が切れたのだろう。  
朝はそれなりに余裕そうだったイトくんも、帰りの電車ではずっと寝ていた。  
単語集を持ってきて正解だったと思いながら、ページをめくる。  
途切れなく肩から伝わる体温に落ち着かない気分になりながら、薄れていく電車の外の、空を見る。  
なんで私を、連れてきたのだろうと思った。  
大学を見るだろうからついでに、というだけだったのだろうか。  
考えながら、気が遠慮がちに塞いだ。  
『迷っている』と言っていたから、彼の進路はまだ知らない。  
でも、なんにしてもイトくんと、同じ大学には行けないだろう。  
レベルとか、なんとか言う前に、私が行きたいところに医療系の学部はないという、単純な理由で。  
膝を寄せて、単語集に指を挟んで閉じた。  
横の寝顔を眺めて、そっと小さく息をつく。  
離れているのが気にならない人なのかもしれない。  
何年も前からずっとずっと好きだったと、言葉の端々や視線から、彼は伝えてくるけれど。  
一昨年の彼は、一年間外国に行くことをあっけなく決めて、本当に実行してしまったのだし。  
山の木々に空が隠れ、汽笛の直後、電車がトンネルに入った。  
古い座席が軋んで、揺れる。  
アルファベットの並びに目を落として、唇を弱く噛む。  
幼馴染がどうであれ、私は確実に、薄い痛みに触れるだろう。  
…それでも行こうと思った大学を、変えるほどに私は器用ではないし、それは違う気もするから。  
駅からの帰り道ではもう、彼は何もご両親のことについて言わなかった。  
どうして私を連れてきたのか、私も聞けずじまいで、夕陽に沈むマンションの階段を見上げながら昇った。  
 
 
 
8月は一日一日がゆっくりと、でも見失うように過ぎ去った。  
兄さんは相も変わらずで、賑やかだった。  
台風のように三日間は去ったけれど、でも二年ぶりのその光景は久々で、懐かしかった。  
本物の台風も上空を吹き抜け、大雨の後はまた青空が広がった。  
気がつけば夏休みは後半になり課外授業も始まって、また私は制服で片道三十分を歩くようになり。  
任意参加だから行かない、と堂々とうちに居座って、弟の宿題を手伝いながら自分の勉強をする  
幼馴染も相変わらずで、呆れた反面、前ほど気にはならなかった。  
海から帰ってきて、イトくんの雰囲気は、気のせいでなければ少し変わった。  
相変わらず漫画も本も平気でたくさん読んでいて、弟のゲームにも付き合ってはいる。  
でも勉強に対する真剣さは明らかに増していて、…要するに多分学校の授業は彼のペースに会わないのだろうと思う。  
(一応進学校なのに、となんだか頭が痛くなるけれど。)  
私は私で、自分のペースがやっと掴めてきてなんとなく頑張れる気になってきた。  
 
そうしてどこに辿り着くのかと思うと、風が涼しく吹く。  
 
ふと触れられた瞬間や、少しだけ二人になったときによく、あたたかさに紛れてそんなことを思った。  
お母さんが買い物に行く数十分間とか、帰ると他に誰もいなかった一時間弱の隙間とか、  
そういうものが本当に大事で、だからなおさら。  
深みに嵌らないぎりぎりの波打ち際を歩く関係が心地よいような危ういような、おかしなゆらめきがいつも奥底にあった。  
その感覚に関しては、多分幼馴染も共有していただろうと、なんとなく信じている。  
過ぎる日々に、僅かな寂しさを溶け込ませながら、新学期になってカレンダーが替わった。  
 
文化祭の準備が少しずつ始まり、三年生の教室も授業の傍ら最後の行事にざわつきで満ち始めている。  
小道具係という名目だったのに、なんだか衣装も小物も、まとめて私の仕事になってしまった。  
理系クラスは女子が少ないので、キャストや他の係の人を抜いたら、こういう役目は必然的に回ってくる。  
好きだからいいけれど。  
小さな飾り花を縫う手を止めて、軽く溜息をついた。  
文化祭用にあてられた学級活動の時間に、周囲が忙しく動いているのをぼんやりと眺める。  
橋田依斗くんは、キャストと演出の人たちとなにやら話し合いながら台本に手を入れていた。  
話が上手くて人と人との調整をするのが上手で、知識が豊富だから、適役なのだろう。  
「崎さんこれ、こっちの糸だっけ」  
横から同じ係りの男子に聞かれて頷きながら、指先に巻いた糸を一回転させて、作業に戻る。  
椅子に寄りかかり緋色をたらした針先で布をすくうと、ふと、慣れた視線を感じた。  
顔を上げると、目の端で一瞬、嬉しそうに笑われる。  
困ったので、無視してまた針を見つめた。  
あんまり日常的で変わらなくてあたたかくて、縫い打つこの刺繍みたいにちくりと痛い、9月が沈む。  
長さが途切れた糸を結び、糸切り鋏を滑らせながら、  
それが途切れる瞬間を、予測できずに私はいた。  
 
 

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