・・・・その29  
 
 
名前を呼んだ。  
いつもの呼び名で、まだ幼さを残した声で。  
 
雨上がりで湿度が高かった。  
汗ばんだ指先がかすかに動いて、緩く握りしめる私の手をくすぐった。  
覗き込む先で、目元がぴくりと震える。  
窓の下から遠く聞こえる車の音が、大きくなって、やがて遠ざかった。  
寝ていたその人は僅かにまぶたを持ち上げて、数度瞬きした。  
視線が私をとらえるのを、黙って見返す。  
屈みこんで、手を握っていた片側を離し、額の髪をかきあげた。  
熱い額にそっと押し付ける。  
薬が効いたのだろう。  
これなら、大丈夫そうだ。  
もう一度声をかけ、何か欲しいものはあるか尋ねると、小声で答えた。  
頷いて、額の手を離す。  
―それなら確か、お母さんが冷凍庫に置いていったはずだ。  
立ち上がって彼の手を放し、毛布を掛けなおした。  
私のではない汗が指先に熱を持って、しとりと沁みる。  
窓から差し込む光が頬に淡く、カーテン越しに部屋を照らした。  
一学年上の幼馴染は、熱に浮かされた顔で枕に頭を埋めたまま、  
…ぼんやりと、私を見ていた。  
 
――五年前の秋の土曜日、それが不思議で、私は少し微笑った。  
 
 
「じゃあ今日はここまでにしましょう、明日は―」  
 
先生の言葉にノートを閉じて、筆箱をかばんにしまった。  
五限が終わると同時に帰り支度をする。  
放課後のざわつきが耳に忙しい。  
まだ午後四時前の空は青く、風は弱くて涼しかった。  
校舎を後にして、秋の通学路を辿る。  
季節の変わり目は温度差が激しく、今日は昨日に比べて随分涼しい。  
早く衣替えになってくれないと困ってしまう。  
イトくんじゃなくたって、風邪を引きそうだ。  
今日一日空席だった場所を思いながら、信号を待つ。  
昨日うちに来なかったと思ったら、やっぱり今日は休みだった。  
…熱が高くなければいいのだけれど。  
考えながらぼんやりと中学生が横を通り過ぎるのを眺めて、懐かしく思う。  
あの頃より丈夫になって、頻度は低くなっていると言っても、やっぱりイトくんは、イトくんだ。  
 
 
幼馴染の靴はなかった。  
代わりに玄関で慌しく出かける準備をしている人がいた。  
もうパートに行っていておかしくない時間なのに、何をしているのだろう。  
ドアを開けて驚き、佇む私に、お母さんはすぐに気付いた。  
ものすごく助かったという顔をして私を輝く目で見つめる。  
「緋衣子!ちょうどいいところに」  
おかえり、も言わず、当然のように謎の袋を押し付けて  
靴を履くのを再開するところがお母さんらしい。  
中身を見ると、ポカリスエットの粉や風邪薬や、アイスやタッパーが入っていた。  
林檎に蜜柑にペットボトルまであり、薄い袋はずしりと重い。  
「もう一度これ届けに行こうと思ったんだけど、時間がないのよ。お願い」  
「いいけど…イトくん、どうかしたの」  
お母さんはバッグを肩にかけ、心配そうにそわそわした。  
本当は仕事も休む勢いだったのだろう。  
「ここまで来れないくらい具合悪くって熱高いの。さっきは三十九度だったけどまだ上がりそう」  
「そんなに?」  
僅かに眉を寄せて、袋の紐を握る。  
…それは本当に、数年ぶりだ。  
大丈夫なのだろうか。  
「病院は」  
「明日になっても下がらなかったら連れてくけど、ああもう時間ないわー!」  
お母さんが叫ぶので、ドアを開けて横にどけ、道を作った。  
この調子だと下手をすると私が怒られ始める。  
「もし熱下がってきたら、できればうちに連れてきて。  
 仕事今日は短めにしてもらったから、七時頃には帰るわ」  
「分かった」  
「じゃあね、それ宜しく」  
 
お母さんが去っていくのを無事見届け、ちょっとだけ気が抜けた。  
玄関に学校の荷物だけ置くと、制服のまま外に戻る。  
見舞い袋を足元におろして鍵を回し、手ごたえを感じた状態で引く。  
最近は少なかったとはいえ、そのくらいの高熱は別に、珍しいことではない。  
それは、分かっていた。  
…分かっているけれど。  
鍵を抜き取るのにしばらく手間取りながら、動揺しているなあと自分でも思った。  
ゆっくりと息をはき、喉の棘を意識的に忘れる。  
崩れかけの階段を、制服のままゆっくりと下りながら、片手で髪をさらう。  
一段降りるたびに袋が揺れて、膝をぶつ。  
こんなことはしょっちゅうあることだと、割り切っていたのに。  
意外に私もなんというか、なんだなあ、と呆れて弱った。  
大体それ以前に、幼馴染だというのに問題ではあるのだけれど。  
――正直、家を覚えている自信がない。  
二階の一番奥でよかっただろうか。  
彼の家に行くのは小学校低学年以来だ。  
いつもあの人の方から、うちに来ていたから行く機会もなかった。  
階段に足音が霞む。  
手の平に食い込むビニール紐を握って、階段を下り切る。  
まだ空の高い頭上が青くて、目にしみた。  
ふとお母さんの焦りようを思って、少し不安になる。  
大丈夫なのだろうか。  
うちに来れないということは、歩くのも辛い状態なのだろうと、思うけれど。  
そこまで考えてまた足が止まった。  
風が涼しく、重い袋を揺らしては足にぶつける。  
結局そういうことだ。  
大丈夫だと知っていても、珍しいことじゃないと、分かっているとしても。  
あの人が苦しいのは嫌だ。  
顔の横を蜻蛉が飛び去って、遠くでちり紙交換のテープが単調に鳴っていた。  
 

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