・・・その38
学校に復帰してすぐの調理実習で指を切った。
包帯に滲んだ血が痛々しい。
保健室の戸を閉める。
中校舎沿いに教室へ戻ると先生にすれ違った。
生物の授業は遅刻だ。
溜息をついて、薄い怪我を隠す白い布をつついた。
渡り廊下の風通しは良く、制服の襟が吹かれて浮く。
薄汚れた窓から見上げる、晴れた午後の空が妙に、眩しかった。
五時半でも十分暗い季節だと久し振りに気付いた。
文化祭の衣装はほとんど仕上がりかけていたので、
幾つかの小物だけで良かった。
施錠直前まで残る人達より一足早く、病み上がりに怪我人だからとの親切に甘えて教室を出る。
自分の担当する少し細かい刺繍花とリボンをいくつか、ロッカーから取り出して紙袋に移す。
少しくらいは家で作業が進むだろう。
玄関で声を掛けられたので答えようとする間もなく、抱きつかれてよろけた。
「わ」
ふわりと髪のにおいが掠めて夕闇に去る。
柔らかい女の子だ。
ローファーを掴みかけたまま、少し自分より高い位置の顔を、振り仰ぐ。
「志奈子さん」
「やほ。ひーちゃんはもう帰り?」
とんと離れて、彼女は笑った。
二つに結んだ髪が肩に流れる。
「うん」
「一人で帰るの?橋田君は?」
「進路指導室」
進路変更の件で呼ばれたらしい。
学部変更するだけで偏差値も大分下がるから、そういうことでも話しているのだろうか。
おじさんが海外に居るままなので、願書の問題で何かあるのかもしれないけれど。
…待っていてほしそうな目をしていたけれど一緒に帰るのは決まり悪いので、分からなかったことにしている。
「へー。推薦かな」
「そうかも」
思い至らなかったので、頷く。
あの成績なら、それくらいの余裕はありそうだ。
「橋田君はどこ行くの?」
「隣の県の県立医大」
ローファーを玄関に放り捨ててつまさきだけ履いた。
制服のリボンが下がり、涼しい風に弱くひらめく。
「頑張ってね」
素直な笑顔に励まされて、つられて顔が笑った。
薄い照明の下にいる志奈子さんは、くすくすと笑って、手を振った。
「指、傷が開かないようにね」
「うん。また明日」
結構重要な役どころの彼女はまだしばらく、教室に戻って台詞の合わせをするそうだ。
さよならをして外に出ると、部活の歓声が体育館から木霊のように聴こえていた。
足に任せて三十分の道を辿る。
そうして、風の涼しさに瞬きをして髪を押さえ、
ざわめく木々を通り過ぎて、緩い坂道を一人で上った。
蛍光灯が頼りなく点滅する四階で、鍵を回す音が錆びついた。
この建物があと何年もつのか想像がつきそうな金属音だと思う。
「ただいま」
返事はなかった。
お母さんは帰っていないらしい。
左人差し指の包帯をふと靴を揃えながらまた、意識する。
…手を洗うのが難しそうだ。
ひどい怪我ではないけれど不便といえば不便だなと、溜息が出た。
炊飯器は準備済みだったので、お母さんに感謝して部屋に戻る。
古い家は風通しがよくて寒かった。
ドアノブを後ろ手で押して閉め、制服のリボンをするりと外す。
それを片手に荷物を机に置くと、
幼馴染の写真が落ちた。
拾って、裏返す。
返すのをすっかり忘れていた。
積み重なった辞書の上に伏せておく。
縫いかけの飾り花が入った紙袋を床に置き、ベッド脇のハンガーに手をかけようと、毛布を膝に埋めた。
毛布がひやりと肌に、軟らかかった。
リボンを、ふと、手放しておちるままに任せた。
へなりと座り込んで俯く。
スカートの下に右手が潜り込み、薄布越しに奥をなぞった。
頭よりも身体が先にゆっくりと切り替わる。
息が詰まっては深く、肺の底から漏れ出していく。
手が動きやすいように左手をシーツに押し付けて弱く握りこんだ。
傾ぐ上半身を左腕で支え、右手をスカートの奥に入れたまま、緩々と布越しに刺激を送り込む。
伏せた視界が霞んで、喉が震えだす。
息が熱くなる。
毛布を握る左肘に力が入らなかった。
いつしか前の方の硬い何かを手のひらがとらえて、そこを執拗に押し込んでいる。
「ぅ、ん…」
甘たるいものが、おなかの中を降りて満ちる。
しばらく朦朧としながら、そこを円を描くように撫ぜていた。
そろそろ、やめたほうがいいだろうか。
湿る息を漏らして、手を意識的に止めようとして。
なぜか、
何度も重ねられたあの人の手を、不意に、想い出した。
指が骨っぽくて、大きくて声が穏やかで、体温が心地よく、て。
涼しい部屋の中に火照った肌が、あわだった。
熱が首筋をぞくりと抜けて脳髄を撫ぜた。
背骨を走る痺れごと、神経が皮を剥ぎ取って鋭敏になる。
持ち上げた瞼の隙間は緋色をしていた。
「っ…、あ――、ぁ」
この前引き帰した波打ち際を意識せず飛び越えて底まで沈んだ。
汗ばんだ肌が熱くて熱くて、なのに涙が蒸発しない。
指は意識と無関係に止まらないまま、勝手に一箇所を熱心に掻いて弄る。
湿りの多い部分を薄布越しに指で押すと、声帯が震えて水音に混じれて掠れた。
「はっ、……っ、ゃ」
面影が体温の余韻がよぎるたび、声が呼吸を押し退ける。
睫毛が濡れて、喉がしゃくりあげそうになる。
薄布が布の意味をなくすくらいに濡れていて動かし辛かったけれど構わず指を擦り付けた。
腰が動く間隔が短くなり、涙で視界がぼやけて首が仰け反る。
全然分からなかった。
ここになぜイトくんがいないのか、分からない。
なんで自分で触っているのかも。
もう、うわ言のように呼んでいたように、思うけれど―
―それからの記憶はほとんど、熱くて曖昧なまま、ぼやけている。
肘が崩れていた。
目蓋の裏が融解する。
押し流されるままに指を硬い部分に手のひらごと押し付ける。
背が倒れて反って、声が声にならなくなった。
何かが、身体を覆って包んで走り抜けて、火照った頭の芯までをどろどろに蕩かしていく。
意識を失うかと錯覚するほどすべてが溢れて、長いこと、何も分からないまま、震えていた。
硬直がとけてやっと、全身の力が抜けたように崩れて倒れ込む。
枕が、柔らかかった。
「――…ぁっ、は……あ」
…帰ってきたばかりで何を、やっているのだろう。
枕に顔を押し付け、湿るままに滲んだ涙を擦り付ける。
荒い息をついているうちに、今更のように左手から痛みが腕を血のかわりに上ってきた。
それすら心地がよいような錯覚に、頭が白く霞んでいく。
もう一度、深く深く息をついて、仰向けになった。
額に手の甲を、当てて、目を閉じる。
掠れた喉の空気も震えない囁きが霧になった。
瞼の裏がただ想う。
まだ緩慢な痺れも余韻も、背中から流れ落ちることもなく。
悲しくもないのに涙が滲んだのを指の関節でこすり、昂った心音の薄れていくのを数える。