・・・・その40
キャッチホンだと言われて、掴みかけた糸がどこにいったのか分からなくなった。
肺の中が不意に静まった。
受話器を持つ指が緩む。
そう、と答えて口をつぐんだ。
『掛け直すから。待ってて』
「…うん」
『またね』
ぶつりと耳元の音が失われて、力が抜けた。
幼馴染が悪いわけではない。
変に気持ちが削がれてつまらなかった。
電話じゃなくて、普通に明日言えばよかったような気までした。
子機を膝上に弄んで溜息をつく。
寝間着の裾を弱く握って、お風呂上りで熱いままの頭を俯かせた。
湯冷めしそうな身体に触れて、長いこと子機を見ながらぼんやりしていた。
掛け直すと言われても、
いつまで待てばいいのだろう。
居間から見る空は秋晴れだった。
今週で最後の夏服に袖を通し、髪をとかして、いつもより相当早めに玄関を後にした。
吐息が風に消え、古いコンクリートの階段に掠れる。
一番下に降りると見知った顔がいた。
紺色の上着をワイシャツに羽織って、降りてきた私を待っていた。
目が合うのを、見返して、立ち止まる。
背の高いその人が表情を変えずに、一言だけ言った。
「おはよう」
私は無視した。
自分でも心が狭いと思う。
本当に我侭だと思う。
でも、悲しかったし、悔しかった。
傍を通り過ぎて、黙ってマンションの駐車場を抜ける。
後ろからついてくるのが分かった。
どうせ追いつこうと思えば追いつけるのだと気付いて、すぐに歩調を緩める。
風が僅かに出ていて、坂の脇のすすきが揺れていた。
二人分の足音がやけに不規則に鼓膜を切る。
早めに出てきたせいか、サラリーマンや運動着姿の中学生が時折見えるくらいで、人は少なかった。
坂道を降りて、歩いて曲がって、公園の錆びた柵を抜けた。
鳥が鳴いている。
そこで、追いつかれて、手を取られた。
少しの間、抱きしめられる。
手が驚くほど冷たかったので、思わず足が止まった。
いつからマンションの下にいたのだろう。
放せないで、放してほしくなくて。
怪我をした指が痛くて力も入らない。
――昨日、あれほど求めた体温がじかに伝わるのを否応なしに感じて震えた。
身体も意識も全然いうことを聞いてくれない。
自分のものじゃないみたいだ。
そっと手だけを残して開放され、斜め後ろから小さく呼ばれた。
顔を逸らしたまま振り返れずに俯く。
「ひーこ。怒ってるだろう」
「怒ってる」
声が震えて、言い返しているはずなのに格好が悪い。
「気も立ってる。眠いし」
「―ごめん。悪かった。謝るから」
素直に真剣な声が帰ってきて、手を握る力が強まった。
人差し指の怪我に響いて、僅かに顔が歪む。
足に力が入らない。
何が悔しいのか分からないけれど、悔しかった。
これじゃあ完全に負けている。
腹立ちが収まらなくて、自分の我侭さが嫌になる。
「…別に。大した話じゃなかったから」
「そうなの?」
イトくんが珍しく呆れ気味に呟く。
仕方なさげな溜息のせいか朝風のせいか、髪がふわりと揺れる。
頭のスイッチが音もなく落ちた。
どうやって手をほどいたろう。
憶えていない。
溜息の残響があちこち渡されていた細い糸を熱い鋏で熔かして切る。
紙袋を持っていた手首に力を込めた。
地面に捨てるように落とした。
手の中で千切れて残ったような錯覚を無視し、振り返る。
「ひーこ?」
飾り花や安布で作ったリボンが散るのも見届けないで、初めて人を引っ叩いた。
小気味いい響きが公園に落ちる。
何かを言いかけようとした幼馴染に通学かばんを振り上げ、思い切り殴る。
至近距離で避けられることもなく、鈍い音がして当たった。
ふと、意識が打たれた。
「って…」
幼馴染が低く唸って、庇うのも間に合わなかったのだろう腕で、肩を押さえていた。
目の前で座り込まれるのをぼんやりと眺めた。
なれない行為で息が荒かった。
心臓がどくどくと肌を打っている。
鋭い痛みが熱く左手首を這っていた。
ゆっくりと、力が抜けていく。
頭が白い。
腹立ちすぎて涙が滲んでいたのを、拭って、膝を折る。
朝の鳥が鳴いて、そよかな秋風に、公園の木々が穏やかにざわめく。