・・・・その5  
 
 
私はあまりに早く兄さんがいないのに慣れた。  
同じように去年、幼馴染が家に来なくなった時にもすぐ慣れた。  
そんなものだ。  
だって、別に死に別れるわけじゃなくて、世界のどこかで生きている。  
 
 
イトくんは三日ほどしてやっと回復し、梅雨入りの直後に学校に復帰した。  
薄手のシャツは寒いから、と紺色のジャンパーを羽織って登校している。  
授業中も着ているので、たまに先生に注意されている。  
校則違反ギリギリらしいけれど、イトくんはどうやらそういうことを気にしない人らしい。  
今年になってから、幼馴染の新しい事実をたくさん知るようになった。  
学年の違いというのは大きいものだな、と彼に視線をちらりと向けて思う。  
「ひーちゃんひーちゃん」  
声がしたので、思考を中断して顔をあげた。  
後ろの席から伸ばされた手が袖を引っ張っている。  
私は振り返って、なあに、と言った。  
「予習やった?4番って解けなくない?」  
ポニーテールで顔をしかめる志奈子さんに意識を移して、私はイトくんのことをすぐに忘れた。  
 
 
「橋田君はさぁ」  
幼馴染のことを不意に志奈子さんが呟いたので、傘を持つ手に一瞬力がはいった。  
「…うん?」  
「橋田君てさ」  
私より少し背が高い彼女は、大きめのビニール傘を時計の一時間くらい回して、  
私の顔を見た。  
「しょっちゅう休むよね」  
「身体弱いから」  
「そうなの?あれってさぼってるんじゃないんだ」  
イトくんは基本的に性格がああなので、知らない人は本当に知らない。  
私だって幼馴染でなかったら、あのふらふら遊び歩く自由人が夏には滅法弱いとか、  
猛暑の日には外にも出られずぐったりうつ伏している、とか、きっとそんなこと信じられないだろう。  
傘に落ちる雨音がひっきりなしに響いて、彼女の声に薄くかかる。  
「ひーちゃん見た?4月の模試の上位者。橋田君全教科上の方にいるんだよ。  
さぼってると思ってたからびっくりしたの。あと佐藤さんが1位だった。  
 ひーちゃんもいたよ。49番」  
嫌な数字だ。  
軽く溜息をついて、かばんを身体に密着するように持ち直した。  
雨の日はプリントがぬれるからいやだ。  
「イトくんは頭良いから。風邪で寝ててもしょっちゅう本読んでるし、  
休んでるところのノートはさらっと見て覚える。昔からだよ」  
「ふうん…ちょっと待ってね。あ、あと3分だ。ラッキー」  
道路わきにあるバス停の表面を屈んで見つめる後姿を雨の向こうに眺める。  
彼女はバス通学だ。  
ポニーテールが、振り返りざまに揺れる。  
 
「ていうかひーちゃん、なんでそんなに橋田君のこと知ってるの」  
「うちの兄さん、イトくんと仲よかったからね」  
「ああ、ダブりだからかー。ところでなんで橋田君が"イトくん"なの?」  
私は、バス停の向こう、街中の道路に降る雨をぼんやりと見た。  
傘にあたる水の音を無意識のどこかで聞いた。  
梅雨時は、スカートの下に冷気が入って足が寒い。  
志奈子さんの細い指にはまった金属は、とても冷たそうに見えた。  
それでも好きな人のものなら、温かいものなのだろうか。  
「漢字の読み間違いで、ちょっとね」  
私はそれだけ言って、口をつぐんだ。  
「…志奈子さんの彼氏、元気?」  
そして話題を変えた。  
「えへへ、聞くなよう」  
「幸せそうだね」  
そう言いながらも、受験生なのになぁ、と心の隅で思う私は、どこか冷たい気がする。  
受験のせいで心が狭くなるなんて、なんの正しさもない。  
でも私のある部分は確実に、去年より少しずつ冷えだしている。  
雨みたいだ。  
そんなもの、邪魔にならない人にはならない。  
イトくんが漫画を読んで笑っていても、成績にひびのひとつも入らないように。  
バスが水しぶきをあげて角を曲がってくる。  
友だちにさよならをして、私はぬくもりのある古いマンションへの帰途に着いた。  
水溜りを踏むと、靴に水が跳ねて滲み込んだ。  
多分、今頃紺のジャンパーが玄関のコート掛けにかかっているんだろう。  
それは気が塞ぐようで、暖かい気もするようで、楽しみなようで、滅入るようで。  
ああ。  
 
(まるで雨のようだ)  
 
傘から伝い落ちる水滴に濡れた手の甲が、とてもひやりとした。  
 

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