・・・・その42
秋の天気は変わりやすい。
ちょうどそんな風だった。
とても簡単なことを思い出すまで半日かかった。
要するに混乱していて、すっかり失念していたのだ。
だてに十年以上、気まぐれで怒りっぽい兄さんと喧嘩を繰り返していたわけではなく、
多少の苛立ちとか怒りとかそういうものは彼にとってすぐに忘れていいものだったらしい。
それどころか彼に対して私が初めてあんなに本気で怒ったことが嬉しいとか言い出した。
全然分からない。
そんな調子でいつものように笑って放課後一緒に帰ろう、などと言われたらどう対応していいか困る。
…まったく、すっかり、忘れていた。
私はそういう彼にいつも困惑して距離を上手くつかめないまま十三年近くも、幼稚園の頃から傍にいたのだ。
今更その法則に抗えるわけもない。
怒りが困惑に、困惑はすぐに溜息に変わって、それでいつも通りになる。
喧嘩なんてあっさり終了で、勝負にすらならなかった。
そういえばずっと私達は、そうだったのだ。
―なんだかなぁ、と思う。
思うけど、おかしくもあり、こういうものかもしれなかった。
きっとこれから何度も喧嘩をして仲直りをして泣かされて笑わせて、格好悪いことを繰り返すのだろう。
幼馴染以上の意味で一緒にいるのだから、今まで以上に増えるだろう。
それはなんだかこそばゆかった。
初めてのことばかりで戸惑うけれども、そうやって歩いていくのは悪くないかもしれない。
「こら。待ちなさい。何が気に入らないんだ」
「いいから人前でそういうこと言わないで」
渡り校舎を歩きながら、囁くように言い返す。
非常に恥ずかしい。
翌日になると天気は途端に怪しくなり、風はこれでもかというほどひどくなり、
大雨洪水注意報が出た結果四時前には強制下校が申し付けられた。
窓ガラスが横で風にあおられ揺れている。
志奈子さんはこの中でも塾に行くと言う。
…それで荷物をまとめて一人で帰ろうとしていたら、
幼馴染に見つかってなんでいつもそうなのかと機嫌を損ねてしまった。
それから昨日の今日だというのに大人気なくもちょっとした言い合いに発展し、
こういう変なことになってしまった。
昇降口で何度目かの応酬をひと区切り付けて休戦して、靴を取りに分かれる。
上履きを砂の溜まった靴箱に押し込んで揃えた。
朝より激しい雨音が聞こえる。
台風はやっぱり来てしまった。
昇降口にいても、外の風が流れ込んでスカートがはためいて舞う。
傘立てのビニール傘を引き出して、紺色を羽織る背中を探した。
もうそろそろ私の傘は古くなって寿命だ。
隣に並んで傘に回されたボタンを外していると、横の身体が揺れた。
傘の壊れた骨を高い位置で弄くり、彼が笑うのが雨音に霞む。
「機嫌直った?」
「イトくんこそ」
「さあどうだろうね」
雨の下に出てしまったので次の言葉は届かなかった。
軽く溜息をつき、いい意味だと思うことにする。
私も強雨の下に踏み出し、傘を差した。
湿った風に木々がざわりと吹き流される。
傘から流れ落ちる水流越しに背中を見ながら、一歩後ろをいつもみたいに追った。
とりとめもなく思考を漂わせて、かばんを肩に寄せる。
――そんな余裕のある下校は最初の五分で終わった。
「悪、ちょっと、階段上るの待って…」
「いいけど。大丈夫?」
郵便受けを覗いている私の肩に一度、手が触れたので顔を上げた。
幼馴染が頷いてぐったりと傘を置き、傍の壁に力なくもたれた。
隣に立って髪をハンカチで拭い、一緒に休憩する。
久し振りにここまで疲れた。
やっとたどり着いたマンションの玄関に濡れたかばんを一旦置き、暗い空を仰ぐ。
風が途中から凶暴なほどに荒れ狂い、私のぼろ傘は半分壊れてしまった。
おかげでイトくん以上に制服がびしょびしょで、気持ち悪い。
腕や腰に張り付いて湿気も混ざってべたつくし。
服が身体に重い。
緩く息をついてスカートの裾を持ち上げ、両手で絞った。
ぽたぽたと指の隙間から透明な水が溢れる。
そうしながら、何とはなしに、横を見た。
幼馴染がなんとも言えない瞳でこちらを見ていた。
私はスカートを元に戻した。
身体をずらして距離を取る。
イトくんが半端に目を逸らした。
申し訳程度に腕で隠してみる。
勝手にいろいろと思いおこすので弱った。
彼みたいに濃い色の上着でも着ていればよかった。
また二人とも風邪を引いてしまう。
変な沈黙に、長いことぼんやりしていた。
曲がった雨樋のせいか水滴の音がやけに石壁に響いている。
柔らかく、頭に手が置かれた。
目を上げる前に離れた。
「じゃ今日もお邪魔しようかな。お世話になるよ」
長身が屈んで荷物を取りあげて、階段に向かう。
何かを呟きかけて、口をつぐむ。
階段を上っていった背中が、遠かった。
寒いのに身体の中だけ温度が違う。
この前の台所みたいな気分だ。
足が寒くなくてもっと動きやすければ、外ではなくてうちの中で他に誰もいなければ、あの背中に腕を回すのに。
―私から触れたいと思うのは変だろうか。
濡れ手で半分壊れた傘を拾い上げ、紐を回した。
閉じられる傘と逆だ。
気付かないうちにボタンが取れて開いていく。
からだが熱かった。
風邪のせいだと思っていたのに、治らない。