・・・・その47  
 
 
雲行きが怪しくなってきた。  
昼から出かけるお母さんの代わりにお米をセットしてベランダを覗く。  
もうすぐ正午だ。  
幼馴染は来ていない。  
迎えに来るはずだったのに、電話もない。  
―近くだから会いに言ったほうが早い、  
 ような気も、するのだけれど。  
出かける仕度のお母さんに呼び止められて、  
行くついでに足元の子機を拾った。  
 
 
こんなに怒りっぽかったろうか。  
 
とソファに座り込んで子機を無造作に投げ出す。  
息が上手く出来なくて雨音が腹立たしい。  
昨日あんなにあたたかい気持ちだったのが嘘みたいだ。  
視界がぼやけたので涙だと分かった。  
一旦出てきたら悲しくなって、拭っても出てきて、擦った手首が濡れた。  
怪我の治りかけた左手の包丁傷も八つ当たりしたクッションの  
陰に隠れたベルトで打って、微妙に痛みが再燃している。  
置きっぱなしなのは享の悪い癖だ。  
電話が鳴ったけど留守電にしておいたので無視する。  
今日くらいは、いろいろプレッシャーも忘れて、いろいろ話しておきたかったのだ。  
それは確かに私は、いつもたいして感動的ではないし、気持ちの揺れ幅も人に比べて小さいほうだ。  
でも、私が淡白に予定に組み込んでいただけのことも、  
イトくんにとって大切なら私にとってもそれなりに大事で、  
推薦試験は一月後なのだから息抜きの手伝いくらい出来たらいいと思っていた。  
それを当人がいくら疲れていたからといって寝過ごすことはないし、  
しかも私に言った予定をあっさり変えるのは何回目だろう。  
謝られたって怒るしかないではないか。  
電話がまた鳴った。  
『――はい、もしもし。ただいま留守にしております。ご用件のある方は……』  
呼び出し三回で留守電が二回目の起動をする。  
点滅する留守番電話のランプを眺めながら、また滲んだ涙を擦る。  
出て悪口でも言おうかと思ったけれどどうせ気の利いた悪口を思いつける人格でもないし。  
泣いていたので溜息が掠れる。  
『…ご用件をお話ください』  
 
空白と、短い高い音。  
切れるのを待った。  
切れなかった。  
電話でイトくんの声を聞くのは、三回目だった。  
『ひーこ。聴いてるだろう』  
うん、と向こうには聞こえないのに答えた。  
スイッチの暗いままの子機はテーブルの向こうで音もなく寝転がっていた。  
『何も言わないで切ることないだろう。悪いのは分かってる。本当に謝るから』  
勝手なことを言って、謝っても反省しなくては意味がない。  
声が疲れているのは分かっていた。  
ただ眠そうなだけじゃないくらい。  
そんなの小さい頃から何百ぺんだって耳にしていたし、イトくんは無理を出来る身体ではない。  
だから寝過ごしたのだなんて今更聴いても、今更すぎた。  
昨日心配の言葉もたいしてかけずに「いつも通り明日も起きられる人」だなんて思っていたのは私で、  
だから憎まれ口なんていざとなったら思いつけないのも分かっている。  
イトくんはずるい。  
身体のせいという言い訳を一回もしないから、なのに心配すると嬉しそうにありがとうと言うから、  
私はいつもいつもいつも、どうしていいのか全然分からなくなる。  
もう気持ちを言葉にするのも深すぎて、だから。  
だから、電話なんて無理だ。  
『…ひーこ』  
「切っていいのに」  
呟いて、そうされたら多分私は絶対悲しむだろうと分かった。  
歩いて五分の家なのだから、傘をさして小雨の下を  
会いに行けばいいけれど、そんなことをできるはずもなく。  
私は兄さんに似ている。  
どれだけ人生を彼と共有していたのかも。  
喧嘩になると負かすことばかり考えてしまうところも、実はそっくりだ。  
イトくんだってこんなことは知らなかったろう。  
 
―それとも、知っているだろうか。  
沈黙が長く続いた。  
さあさあと煙る秋雨の音に風で古マンションが軋んだ。  
享でもいい、兄さんが突然でもいいから、誰かが帰ってきてくれないだろうか。  
時計が正午を打った。  
留守電のテープが切れた。  
私は、床を歩いて受話器に手を伸ばした。  
短縮ダイヤルで橋田依斗くんのうちに電話をかけた。  
出てくれなかった。  
呼び出しを二十回聞いて、受話器を元に戻して、目元を拭う。  
そのままとたとたと玄関へ向かった。  
肌寒い服だったけれど短距離だからいい。  
傘を取りがてらチェーンを外して鍵を開けて、重い金属扉を勢いよく押して階段に出る。  
 
扉が何かにぶつかった。  
 
湿った風が、やや強く薄めの服に入り込み温くなる。  
扉の影で、何かが、うずくまる姿が目に入った。  
傘も持っていなくて、引っ掛けただけのジャンパーが濡れていた。  
重い扉を押しやって止めた手が傷に冷たい。  
「イトくん」  
「……相変わらずきついな」  
――前と同じパターンだ。  
深く苦笑気味な溜息をついて、幼馴染が抱えた頭の下でそう呟いたような気がした。  
雨が涼しくて私はでもこの程度じゃ絶対風邪は引かないくらいには丈夫だ。  
拭ったはずのものが溢れたので袖を押し当てた。  
久し振りにはいた私服のスカートが、湿る風でふくらんで流れた。  
 
 

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