・・・・その49  
 
 
 
白いマットに水滴が落ちて、ふと、ボタンを留めるのを中断した。  
どうしてか幼い頃の情景が目に浮かんだのだった。  
なんであんな幼い頃のことを思い出すのかよく分からない。  
 
あの時も玄関で泣いていて、「うちで預かっていた近所のお兄さん」が傍にいた。  
 
 
気分的に下着だけは綺麗なものに変えた。  
お風呂場の隙間から湯気が漂ってくる。  
靴下と下着だけ洗濯機へ放り入れ、服を元通りに着込んだ。  
溜息を沈ませてタオルをすくう。  
聞かれて初めて私も身体は洗っておいたほうがいいとか、そういうことに気づくのだから困ってしまう。  
脱衣所を片付けて、換気扇をつけたまま裸足で玄関を覗いた。  
避妊しなきゃだめだろうと現実的なことを思い出させてくれた幼馴染はさっさと家に引き返してなにやら取りに行った。  
ご両親の話に、反面教師にして気をつける、と付け加えて草の隣で笑っていた影を思い出して、  
鍵と傘だけ貸して玄関で送って、それからシャワーを浴びたのだった。  
スニーカーがあってジャンパーも傘も置いてあった。  
かけ忘れのチェーンを右手でいじる。  
さっきは夢中で気づかなかったけれど左手の怪我は僅かにじんと痛んでいた。  
絆創膏を貼っていくのもどうかと思うので、血が出ていないことだけ確認してタオルを廊下にかけておく。  
雨はいつやむんだろう。  
 
「ひーこ?」  
後ろから呼ばれて玄関と逆を眺めた。  
振り返ったけれど見えなくて、居間の方に向かうと私の部屋の前にいた。  
立ち止まってから、また近寄る。  
見上げると少し心臓がはやまる。  
「…おかえり」  
「うん。いいかい」  
「イトくんも、身体は大丈夫なの」  
社交辞令みたいだなあ、とイトくんが苦笑する。  
風で僅かに建物が軋んだ。  
私はそこまで余裕がないので、なんだか悔しい。  
「あの」  
「ん」  
「あんまり知らないから、私」  
…声が震えているのは隠せているだろうか。  
「うん。嫌になったら言いなさい」  
頭をなでる手が、あたたかくて黙って頷く。  
イトくんの声が聞き逃しそうにささやかだけれど確かに硬いのは、  
安心したいための錯覚ではないように思えた。  
そうだといい。  
小さな部屋に踵をそろりと踏み込んで後ろ手で閉め、薄くカーテンのひらめく小窓を見上げた。  
ガラスの向こうを水滴が伝い、昼だというのにそれだけでも薄暗い。  
イトくんが肩越しに窓際へ歩いていき、カーテンを閉めて鍵を確認した。  
でも、真っ暗というわけにはいかなくて電気がつかなくてもイトくんのことが見えた。  
いつも部屋に邪魔しに来るときみたいに、傍にいるけれど意味が全然違った。  
どうやって毛布を剥いで、シーツに座ったのかは曖昧で、そうしていると気づくまで思い出せなかった。  
狭い部屋だから歩くまでもなかっただけで、ただ二人分の重さで軋んだことだけが記憶の底でさらわれず残った。  
しばらく、触れ合いもせずに、向かい合って座っていた。  
時計の音だけが雨音に邪魔している。  
 
 
それからイトくんが静かに屈んで頬に触れた。  
腰の下で柔らかい枕が僅かに形を変えて、それよりも柔らかい唇の触れ合いで気持ちが緩々とほぐれた。  
さっきまであんなに深くまで食みあっていたのにこれだけなんて、どこか不思議ででもとても自然だと思った。  
手を伸ばして触れる。  
私と違ってシャツの下は何も着ないでいるのか、布の下で男の人の少しかたい肌の感触が  
手にじわりと伝わって、そこからゆっくりとイトくんに満たされていく。  
睫毛を緩く浮かす。  
視線が間近で吸い付いて絡んで、もう一度唇が触れ合う。  
こちらの動きを遮るように私の顔をそっと引き寄せて顔のあちこちにキスをしだした。  
ゆっくりゆっくり、確かめるようにそうするので心地よくなって腕を回して引き寄せる。  
耳に息がかかって試すみたいに濡れた熱いものが一度だけぞろりと触れて、一瞬背中が震えた。  
「あの、それ」  
「分からないから、嫌なら言って。努力する」  
いったんやめてそれだけ囁いて、また耳に顔が埋まった。  
嫌ならやめる、と言わないのはいつもの幼馴染らしくない。  
でも耳元で直接届くのは聞き間違いようのない人の声で、だから、答えも思いつかずに  
私もただ触れ合う体温に手を寄せて、心もち大きくなる息で彼にできるだけ身体を寄せた。  
密着した下の方にそれらしいものが当たるのも恥ずかしいのかよく分からなくて、  
変になっているのが私だけではないのだということくらいしか意識が及ばない。  
しばらく耳を味わっているので、何がいいのだろうとぼんやり思いながら浅い息で膝をずらす。  
この前みたいにそれから首筋にまで丁寧に舌が降りて、髪がくすぐったいのも変わらず、  
だから今度はそのくすぐったい髪の中に私の手を埋めた。  
膝立ちのままだと少し無理な体勢になってきたので腰を落とした。  
 
ベッドがきしりと唸った。  
身体の線にそって丁寧に丁寧に面積のあるものが移動していく。  
布越しなのに自分で足の間に触れたときより何倍も体温の上昇が早くて広い。  
気がつくと喉から感触が消えていた。  
影ができて、顔を無言で覗き込まれたと思うとまた唇が包まれて、軽く吸われた。  
それをやめて欲しくなくて頭に回した手を自分で引き寄せて、  
私からぎこちなく唇を舐めてみて、もう一度、もう一度そうした。  
舌先を触れ合わせて、またしばらくゆっくりと口の中を味わいあう。  
…唾液が甘い。  
途切れたところでイトくんが無意識のように呟いたのはまるで、私の名前ではないみたいだった。  
「イトく…」  
呼び返す私に目を伏せて、また無言で鎖骨の下まで唇が移動する。  
唾液が擦り付けられて襟元が湿っていく。  
それから吸われる。  
手が下のほうへ伸びた。  
スカートの上を撫でられるので自然に視線が泳ぐ。  
意識がとろとろとして、曖昧な痛みだけが左手から脳髄を押し続けていた。  
柔らかい刺激に背が傾いで指をついて体重をかける。  
左手だったので痛みに軽く顔を歪めた。  
右手で縋りついたまま、支える手を交換しようと身じろいで呼ぶ。  
「あの、待って」  
 
「ん」  
あたたかい感触が遠ざかって消えた。  
衣擦れた余韻がふわりと膝にかかる。  
影がかかったので覗き込まれていると分かった。  
「痛そうだったけど、怪我した指かい」  
「うん、ちょっと」  
「見せて」  
取られた手を持ち上げられるので、中途半端だった体勢を起こした。  
医療関係に進みたい身として気になるんだろうか。  
なんとなく気持ちが静まるのでされるままにしておく。  
――と前触れもなく、  
傷口を舐められてひくりと腕が怯えた。  
「……っ、」  
そのまま気遣っているのかなんなのか、口に含まれて舌で遊ばれて意味が分からなくなる。  
でも気持ちよくて空いた右手で縋って、解放されるのを待ちながら目を瞑ってシャツに埋めた。  
イトくんの肌も熱くて、霞んだ視界で喉が脈打っているのも分かるけれど  
そんなのは感覚を和らげるためになんにもならない。  
小さい窓を風がかたかたと揺らしている。  
身体の端からこんなふうに別の存在に浸されて塗り替えられて、熱い意識が朦朧としていく。  
どれだけ経ったのか、解放されたかと思うと、優しくなでられて薄目が開いた。  
風が弱くなって、鼓膜を雨が染めかえる。  
「服脱いでもらっていい?」  
血の上ったままの顔で、ぼんやりと心臓の音を聴く。  
言葉の意味が意識に沈むまではしばらくあった。  
脈がとくとくと聞こえて指の中で彼のシャツが皺を増す。  
頷いて、イトくんを見上げて腕を緩め、どうしようか迷ってからそのままボタンを外した。  
 
いつもなら簡単なことが、着慣れない服だったからというのを差し引いてもありえないくらいの時間がかかった。  
五つめのボタンまでを外すと、前が僅かにはだけた。  
少しだけ肌寒い。  
袖を抜いて、膝の上で小さくたたんだ。  
そこで手が自然と止まった。  
近い視線が動かないで集中しているのを感じる。  
無性に、見られているのが恥ずかしくなった。  
「後ろ向いてて」  
イトくんがあからさまに残念そうな顔をした。  
でももうここは譲らないでとりあえず後ろを向いてついでに彼にも脱いでもらう。  
ちらりと見るとズボンは脱いでくれていなかったので、  
私もとりあえずスカートはそのままにしておいた。  
微妙に格好悪いような気がするけれど、なんだか不公平だし。  
…でも考えてみたら、また脱いでといわれて同じようなことを  
するのだったら、今脱いでいたほうがいいのかもしれない。  
思いなおして後ろのファスナー部分を前に回した。  
スカートの裾を広げてファスナーに指をかける。  
降ろしてから足をそっと抜き、たたんで、ベッドの脇に重ねてそろえた。  
下の薄布が濡れている気がしたけれど彼の傍で確かめることもできず、意味もなく溜息を漏らす。  
こちらを見るのを待ちながら、まだ外していない下着をどうしようかなあと肩紐に指を掛けてみる。  
どれくらいの大きさがいいものなのだろうとか、気にしたことも  
ないことを脈のはやさを誤魔化すように考えてみたりする。  
イトくんの背中は細かった。  
肩も広くなく、兄さんや弟のようにしっかり筋肉がついているわけでもなく、だけど依斗くんだった。  
私から触ったら嫌だろうかと思い、でも、私が触られても嫌ではないし、などとつらつら思う。  
 
振り返らないまま声がやっとかかったので、思考を中断した。  
「もう見ていい?」  
「いいよ」  
幼馴染が肩越しにちらと振り返ってから、身体ごとこちらに屈んだ。  
何も言わなかった。  
指先だけで裸の肩へと静かに触れられた。  
下着の肩紐を指先で弄られて、僅かに胸が擦れる。  
空気を浅く喉が欲して口がからからに渇く。  
遮るものがない肌同士がこんなに熱いとは思わなかった。  
低く掠れた吐息の方も僅かに荒い。  
シーツが心なし膝下で湿り気を帯びている。  
肩の線を確かめていくように撫でて腕まで指が伝っていき、それから私の指に骨ばったそれが重なった。  
どちらともなく震えて指を一本ずつ絡めあい、シーツに押しこむ。  
「あ、これも外してくれると助かる」  
肩紐をもう片方の手で軽く引かれて、僅かにその緊張が緩んだ。  
何秒間か時計の秒針が聴覚に戻る。  
混じれて穏やかな口調が囁いていた。  
「なんで?」  
「外し方分からないし」  
イトくんがこういうことを始めてから初めて、  
薄暗いカーテン越しの昼の雨だけを灯りに、肩を竦めて小さく笑った。  
息が止まった。  
 
そ。  
―そこで、笑うのは、だめだ。  
 
…だめだ。  
私がだめなのだ。  
耳の裏まで熱くて上手く顔が見られない。  
 
 
これだけ暗ければきっと顔色なんて分からないだろうと願って視線をそっと戻し、また逸らした。  
雨はいまだに降り続けていた。  
外からかすかに聞こえる車の水をはねるタイヤ音が、近くなりやがて遠ざかる。  
「そんなに難しくないと思うけど」  
「そうかな」  
「後ろ、外すだけだし」  
暗がりでもより濃い影が、頭上にかかった。  
絡んでいた指が手の甲を撫ぜるようにしてから離れ、両腕ともが紐を手繰る。  
ごそごそと背中でされるのがくすぐったい。  
数秒間弄くった後、指先が少しだけ止まった。  
そして軽い溜息が髪を揺らして、かすかな笑いが間近で響いた。  
「よくつけられるね、こんなの」  
振動が全身にしみこんでじわりと溢れる。  
いいから早く外してほしい。  
また肩甲骨の辺りが擦れ、少しするとやっとかすかな響きでホックが外れた。  
肩紐が緩んで、僅かに薄水色のレースが浮き上がる。  
肩から浮かせて身を捩るだけで静かに両側とも毛布へと落ちた。  
背中の腕が力を強めた。  
髪の横で吐息が、熱くなってそれが伝染して唾が湧いてくる。  
さっきみたいに耳を唇ではさまれてさらに溢れた。  
「…っ、ぃ」  
「いい?」  
頷いて身をそっと離すと、頬に唇が移った。  
胸を温かいなにかが探ってそっと包みこむ。  
大きな手の動くたび目端が滲んで喉が震えた。  
呼吸が大きくて不規則になる。  
 
あちこちにゆっくりと舌が這っていくうちに、視界が傾いでいた。  
いつの間にか枕に頭が押し当てられていてシーツが背中に柔らかくあった。  
ぎしりと軋んでベッドが体重に耐える。  
頬から、唇から歯茎の裏へと移って、湿る呼吸は彼の肉に擦り付けられてそこで別のものに浸されてしまった。  
あまり大きくないのでイトくんの大きい手でほとんど見えなくなってしまうそこが捏ねられて少しだけ痛いのに変な感じがする。  
圧し掛かる体重が心地よい重さで、僅かに立てた脚に押し当たるものに勝手に腰がひくりと動いた。  
そこを無意識にどちらともなく押しつけると舌を吸う動きが自然と深くなる。  
伝った唾液は顎から喉に伝ってシーツを時折濡らした。  
「…は……、ん、っ」  
舌が別の場所に移ったので勝手に喉から空気が漏れる。  
尖端を摘まれたところに舌が触れて顎が僅かに反った。  
漏れる空気が押し殺しきれずどうやっても上擦る呼吸に変わっていく。  
脚の間の下着は擦れ合う腿の間で確かに濡れているのが分かって余計に腰から熱さが増す。  
窓がかたかたと揺れたのも、風のせいなのかこの部屋のせいなのか判然としない。  
気持ちいいのか聞かれたので朦朧と頷いたような気がしたけれどそれも気のせいだったかもしれない。  
片方の手が僅かに浮く背中に回された。  
いつしか当然のように下の方にも私のとは全然違うあの指先が伸びていて、  
薄布越しに湿る場所を探り当てて円を描くように撫でた。  
想像と全然違った。  
自分でするのなんて別のことで、もっとこれは違っていて、名前を呼ぶ声なんて言葉にもならなかった。  
絶対下着をはいている意味がない。  
噛まれる。  
胸の尖端というものはもっと柔らかくなかったろうか。  
強く吸われて思わず喉が詰まった。  
外はもっと涼しくなかったろうか。  
服を着ていないのに汗が伝うし、擦れ合う肩からも汗が時折零れ落ちている。  
手首から肘の裏を撫でて掴むのは私をいつもなでてくれたあの手で、  
脇を舐めるこのざらざらした肉はさっきまで私の舌を食べていた。  
 
――おかしい。  
変になる。  
誰なのかということを意識するだけでもう、声が泣きそうに高くなる。  
少し上のある部分を探り当てられて逃れたくて身を捩った。  
腰が勝手に浮きあがって足先が震えてくる。  
下着の隙間から直接そこに触れられさえしてもうわけが分からなくなる。  
暑すぎて意識なんてどこかに浮いてなくなっていく。  
もう勝手に溢れてシーツが思い出したように落ちる腰の下で濡れて冷たい。  
どこかで浮かされたように私の名が呼ばれるのに気付いたときもうだめだと思った。  
縋りついてさっきとは別の箇所に唇を落としている髪の毛に手を埋めて、脚の奥を探る方に無意識に腰を押し付ける。  
シーツが足指の先でずれてくしゃりとどこかによっていく。  
「あっ、いとく、ん……、」  
来ると思ったのに来ない。  
この前より深く広く満ちているのにまだ来る感覚が押し寄せて溢れても溢れても来る。  
でも来た。  
抱きついて、時折求められる舌を私からも必死で求めて、何度名前を呼んだか分からないころに涙が出た。  
どれだけそうして全身を唇で辿られて、撫でられているのか分からなくなったせいか、やっと満ちて視界が閉じた。  
意識が溶けた。  
やっぱり声が声にならない。  
でも、抱きしめられている腕の硬さと密着するあたたかさが、あることにひどく安心して、流されるままに私はそこにすべてを預けた。  
 
 
 
 
 
 
 
 
シーツのぬくみを、雨を聞きながら知っていた日があった。  
 
 
 
 
あたたかい春雨の降る日だった。  
小学校に入学してすぐだ。  
シューズが取られてしまってそのままで帰ってきた。  
靴下にしみた水がきもちわるかった。  
 
熱をもつ手のひらを憶えている。  
白い濡れタオルの気持ちよさも。  
あの日の玄関も肌寒く、雨音の中、熱を出して預かられていたイトくんと二人でお昼ごはんを食べた。  
たいしたことじゃなかった。  
サンドイッチだった。  
夕暮れにはおじさんが迎えに来たので私の部屋で寝ていた彼は帰っていき、  
幼い私は暇だったので空いた自分のベッドに潜りこみ――  
 
 
視界がうっすら戻ると天井のしみが見えた。  
髪の脇にくすぐったい感触があったのはキスされたのだろう。  
深く静かに耳に届いた言葉に息が震えて、じんと熱くなった。  
「ひーこ。ごめん、大丈夫だったかい」  
薄暗い自分の部屋で、背中にはシーツが湿っていた。  
僅かに顔を横にずらすと幼馴染が覗き込んでいる。  
頬にある手のひらが熱くて気持ちがほわりと温まっていく。  
すまなそうな顔をしているなあとぼんやり観察しながら、無意識に頬の手に重ねた。  
あたたかくて嬉しかった。  
「うん…」  
「なんか、悪い。やりすぎたかな」  
尋ねる言葉に首を振って、黙って脇から覗き込む人に手を取ってもらって、僅かに背を起こした。  
汗ばんだのに涼しく流れる湿った空気が、身体を適度に冷やしてくれて溜息がこぼれた。  
辺りを見回すと毛布が完全に床に落ちていた。  
雨がまだ降っている。  
 
どちらともなく唇を合わせて、ほんの少しだけ舌先で触れて、もう一度長く触れるだけのキスをした。  
さっきの感覚を底が引きずっているのか、身体全体が朦朧とあたたまっている。  
それからもう意味を成さなくなっている下の薄い布をそっと脱がされた。  
かすかに水音がして糸を引く。  
イトくんが黙ったので、余韻で遠のきかけていた羞恥心が微妙に舞い戻ってくる。  
さっきからイトくんが下を脱がないのは苦しそうなのではないかなあとか、  
そういう方に無理矢理思考を戻そうとするけれど上手くいかない。  
たっぷりの沈黙が過ぎてから、聞き取りづらい囁きを添えて、見間違いようのない瞳が穏やかに目を細めた。  
「ん。…綺麗だ」  
「そう」  
細く答えて熱い顔を下げた。  
そんなことを自分で考えることなんてないけれど、イトくんがそんな風に誉めてくれるとそうなのかなと思ってしまう。  
本当はどうかなんて分からなくても、やっぱり嬉しい。  
眺めて、見上げて、私から少しの短いキスをしてみた。  
自然とこちらからも触れたくなって、顔を僅かにずらす。  
指の腹で肩までなぞって、真似ではないけれど、幼馴染の首筋に唇を押し当てた。  
一秒間。  
放すのが惜しくて溜息が出た。  
…この人がしている気持ちがわかるような気がした。  
彼がおかしそうに身じろいで頭を抱え込み引き寄せたので瞬く。  
「貧相なんだから、あんまり確かめられると困るよ」  
その言い方がおかしくて私も少しだけ笑った。  
なぜだろう。  
今までで一番自然にいられるのはとても嬉しいけど。  
肌に直接触れる外気が涼しくてもおかしくないはずなのに、あたたかくて心地が良い。  
「イトくん」  
「ん?」  
 
「昨日も今日も、心配してあげられなくてごめんね」  
幼馴染は何も言わずに、頭に置いた指を僅かだけ動かした。  
そしてうん、となんとはなしに呟いて予想外のものと出会った人のような、溜息をゆっくりと漏らした。  
それからまた僅かに沈黙して天井のしみを仰いだ。  
触れ合う肌から伝わるのは体温だけではないだろう。  
脈が皮膚の裏で血管を通って、身体をめぐって、温めているけれどそれは、私とこの幼馴染と別々の血に他ならない。  
だからこそこうして少しでも肌を触れ合わせると、交わらないものが近くなるように心の膜くらいなら溶け合ってくれるのだろうか。  
―それはとても、不思議な行為だ。  
「緋衣子」  
頭の脇で囁きが髪を撫ぜて視線を浮かす。  
「なに」  
「そういう気負いのない気遣いは、おまえの家族みんなに感謝してた。ずっとする」  
「うん」  
「だから、そうだね。かっこつけても隠しても、見抜かれることくらいは分かっていたんだ」  
そうしてかすかな諦めたような、でも喜んで受け入れるような、笑みを含んだ余韻があった。  
私は睫毛を数回上下させて、聞き慣れすぎた声を聴いていた。  
脈打つ胸元にささやかに触れる肌は確かに細く、きっと生まれた頃から  
頻繁に熱を持って気だるく風邪を受け入れ続けている。  
勿論それを悔しく思っているイトくんだって、いつもどこかにいるだろう。  
雨がまだ降っていた。  
何度も降るように。  
幼い頃の春のように、いつか看病していた秋のように、小さな窓に水滴を伝わせながら降っていた。  
「おまえはいい子だね」  
不意に幼馴染が小さく笑った。  
そして何気なく、でもとても深い声であの一言を耳元で伝えた。  
髪が俯いた頬に、かかって汗ばんでいたので張りつく。  
心臓の鼓動ははやいのに穏やかな音をしていた。  
「うん」  
頷いて、なんとなく笑う。  
「知ってる」  
そう、とおかしそうにイトくんが耳の上で笑って幸せそうに腕を寄せた。  
今度は冗談ではないと分かっているから、きっと忘れないでおこう。  
 
 
そうして、抱きしめられているのは心地がよかった。  
ずっとこうしていてもいい気がする。  
時折撫でられる手があたたかくて優しくて、本当にそう思った。  
…肌も熱かった。  
それでもというのかそれだからというのが正しいのか分からないけれど、  
やっぱりずっとそうしているわけにはいかなくなった。  
お互いのにおい混じった中で呼吸を聴いているとどちらともなく身体が熱くなってくる。  
ゆっくりと心拍数もさっきのようにはやまりだした。  
髪を梳いていたのを移動するままに肩に触れさせておいて、抱き返して、  
どちらともなくうっすらとそういう空気を持て余す。  
幼馴染が先に、腕を緩めて深く息をついた。  
ちょっと待ってて、と言うので身を離し、彼が同じように  
何も着なくなるまでなんとなく俯いて待った。  
鼓動が肌の中から湿り気のある部屋を打っている。  
少しだけ怖くなる。  
正確には始めてから随分経っているのだけれど、  
それでもすぐするとなると心の準備が足りなかった。  
髪がさらりと流れて視界が変わって、触れられていると知った。  
それから、僅かに強張る。  
目が離せなくなって、戸惑った。  
……だって、無理じゃないんだろうか。  
考えながら、でも髪が撫でられるのは心地よかったので、重ねられる唇におそるおそる応えた。  
数分振りに、腿の上を骨ばった感触がなぞりだしたのでまた体温が緩やかに上昇し始めてくる。  
ゆっくりめの動きなので落ち着いてきて、深い息を間近で交わした。  
唇の合間で呼ばれた声が知っている声ではなかった。  
 
触れていた部分が熱くなって脳髄が灼ける。  
睫毛を浮かせる。  
視線を伏せて私から重ねて、舌を差し込む。  
イトくんが薄く開いていた目を閉じて応えてきたので深めに貪りあった。  
抱き寄せられて、今度は直接に硬いものに臍の辺りが触れたので腰が震えた。  
「っ、…ぁ」  
「やめたい?」  
気遣うように、髪を掻き遣られたけれどそんな顔を見てはどうしようもなかった。  
そんなに心配してくれなくてもいい。  
切なくなって首を振った。  
そして唇を求めた。  
しばらくキスされてから、顔を窺われつつ指が直接に脚の間をなぞった。  
背中が勝手に折り曲がって脚が閉じる。  
「あ…は」  
数回往復されるだけなのに、段々溢れる温水が多くなってきて目が潤んできて熱くなりだす。  
伏せて霞んだ視界にうつるものが、どうしても気になって無意識に視線が固定された。  
緩慢な刺激に震えながら、荒い呼吸を飲み込んで肩の手を下げていく。  
怖いのに気になるものを、おそるおそる触った。  
かすかに反応したので手のひらが脇の方へずれる。  
イトくんが動きと呼吸を一泊遅れて止めた。  
私を弄る感触もそれでずれたので声帯が痙攣して喘いだ。  
それ以上動けなくて、しばらく落ち着くまでただ身体を預けて息を殺した。  
時計の針が風にかかった。  
髪が擦れて頭を抱えられる。  
風邪を引いたような掠れ声が耳元で、弱く囁いてきたので呼吸が震えた。  
言われたとおりに手のひらで包んでみると温かい重みを感じた。  
耳の上に彼の鼻先が埋まって、かかる吐息の熱さに急きたてられて伝染する。  
イトくんがこういう風になっているのは、私のせいならどうしても嬉しい。  
「こう?」  
「…ん。そう」  
ぎこちなく指先で覆って、ゆっくり扱くと抱きしめる力が強くなって髪にかかる息が荒くなった。  
 
ゆっくりと彼の手もまた探るのを再開したので埋めた額に汗が滲んだ。  
あまり弄り合いは長くも強くも続けられなかった。  
でも気持ちよくて泣きそうに熱が全身に満ちた。  
呼吸が荒くて水音がする。  
雨の音だけではなかった。  
押し殺した吐息が聴覚を押す力が強くなりだして室温がいつの間にか先程よりも上昇しているのか  
汗でお互いに抱き合いにくくて思い出したように舌を触れ合わせては離した。  
何をしているのか多分良く分かってはいなかった。  
手の中の反応が身のうちを熱く波打たせることだけは分かった。  
耳にかかる息に上擦った声が何度か混じるのが無性に脈を満たしてきた。  
名前を囁いて、少しでも触れたくて身体を寄せて唇を下手だったけれど肌に落としてもう一度呼んだ。  
イトくんが先にやめた。  
脚の奥から手が抜けて、肩にかかる。  
何か止めようとされたのだろうけれど気付くのが遅れた。  
手を離す間がなかった。  
肩と頭に回された長い腕が震えて、無意識のように力がひどく強くなった。  
手の中の熱が脈打って温かいなにかが肌にかかって伝った。  
耳元で深い呼吸がしばらく、髪を浮かせて背の力がぐったりと緩まる。  
謝罪が弱く聞こえたので顔をずらした。  
顔が見えないので諦めて、抱き寄せている汗ばんだ肩に頬を預けた。  
腕を背に回すと自然と溜息が穏やかになる。  
でも少しだけ不安だったので一応聞いた。  
「嫌じゃなかった?」  
「…何を言うかな」  
頭上の重みが、苦笑気味に脱力する。  
掻き乱れた髪を撫でつけられながら、呼ばれる声が優しかった。  
「よかった。ありがとう」  
「どういたしまして…」  
変な会話をしているような気がする。  
背中の腕が緩んでほどけて、身体が離れた。  
傍の机からティッシュを取ってきて拭いてくれたのがあたたかくて、ぼんやりと膝元を見ていた。  
 
タオルを用意しておけばよかったなあと少しずれたことをぼんやりと思っていると、  
あたたかい指先がもう一度肩を引き寄せ、短く唇が触れてきたので目を閉じた。  
手が当たり前のように滑って、彼の背に回った。  
初めてしてからの回数を今日だけで超えているような気もする。  
膝上に緩々と体温が辿って薄目が開いた。  
溜息が彼の肩を湿らせる。  
入り口を探すように温水を掻き分けられる間、喉に伝う舌を感じて肘の先が甘さに蕩けた。  
それから、かすかな異物感に喘いだ。  
指を僅かに差し込まれて、弱く動かされる。  
浅い動きなのででしばらくすると慣れてきたような気がして、縋りつく手を、僅かに緩めた。  
何度か往復されると異物が抜けて、首にかかる息が熱さを増した。  
鎖骨の下から、しばらく胸の周辺に舌が這ってそれから、もっと下まで感触が移った。  
自然と回していた腕が外れて、身体を支える。  
どこか痛いような気もしたけれどそんな感覚がこの甘さとどう違うのかなんて分からなかった。  
さっきあげた分までが還ってくるみたいな緩やかな感覚に意識を浸して目を瞑った。  
時折イトくんが呼んでくれる声は知らない声で、でもそのたびに足指までが鼓膜を通してじんと痺れる。  
ざらつくぬめりが辿るたびに喉が汗ばんで切ない息がこぼれた。  
脚のあたりを吸われると腰が弱々しく震えた。  
首が反ってどうしようもなくて上半身がシーツに埋まった。  
耳の端に枕を感じる。  
身体を撫ぜる手が今は背中の下にあって、視界が暗くて上半身がないみたいな気さえする。  
濡れた熱い場所に、柔らかくてそうでない肉が、不意にきた。  
舐められていると気づくには一瞬で熱くなって飛んだ意識が波打ちすぎていた。  
「っ――」  
強い感覚が足先から背中まで通り抜けてはまた送り込まれ、  
跳ねる脚を抑える手の力が強くなる。  
下半身だけが言うことを聞かないで勝手に浮く。  
まぶたが自然に持ち上がってその光景を見て涙が滲んだ。  
でも溢れるあたたかいのを舌先ですくわれて一箇所に擦り付けられて完全に理性が飛んだ。  
 
繰り返される。  
苦しかった吐息が泣き声になった。  
「あ、あ…っ、や」  
全身がねだるように勝手に動いているのにも気づかなくて、ただ耐え切れなくて枕を引き寄せて抱いた。  
こんな風に動けるなんて知らなかったほどに激しく背中がのたうつ。  
視界が涙で霞んで声が声にならない。  
逃げられないまま繰り返されて自分の吐息が更に変わった。  
僅かに唇が腰より上の方に移動した。  
数度表面だけを往復されてから、また指が入ってくる。  
入ったときの感覚がさっきと違った。  
中と往復されても変な感覚で背中が痺れて腰ががくがくと震える。  
感触が胸の方にもあって、先の方を舐められているので何も言えない。  
天井が見えなかった。  
膝頭にあたるものがまた硬くなっていて熱くて、  
それが入るのかと思うとなぜか心が震えてくる。  
肺の奥から何かが溢れてそれで一気に流された。  
先程よりは小さく、でも充分に体積のある波が脳の芯までを痺れさせてすべてを満たしてすべてを止めた。  
指をそこが勝手に締め付けて、脈打つように時折痙攣する。  
それからゆっくりと、全身から力が抜けて滲んでいた涙が目尻で集まって薄く流れた。  
「………ぁ…あ、は」  
指が抜けて、上にあった体重がなくなった。  
息が苦しいので、酸素を求めて乾いた喉に唾液を無意識に飲みながら張り付く髪を感じ天井を仰いだ。  
今何時だろうと秒針が意識を掠めたのでとりとめもなくそちらに漂う。  
イトくんはどうしたのだろう、と、思い至った頃には、また影ができて頬に優しい大きな手が乗せられた。  
あたたかかった。  
荒い息が僅かにでも落ち着いてくれる。  
イトくんの手のひらがどれだけ大切かなんてきっと自分でも分かってはいない。  
影が頭上に伸びて顔が近付き、前髪が擦れ合う。  
様子が違うのでどうしたのかと視線を浮かせた。  
頬の手が肩に移って眼を伏せられる。  
…それからイトくんらしくなく、  
ぎこちなさを伴って唇を重ねてきたので分かった。  
 
手の下で肩がほんの僅か強張って、睫毛がなにかで滲む。  
でもなぜか私ではないみたいな柔らかさが喉からせりあがって声になった。  
「イトくん」  
「ゆっくりするけど、辛いならやめるから」  
遮るようにしてまた呼んだ。  
最初に誤解したのはいつだったかなんてはっきりと思い出すことはなく、  
一生こう呼んでいるかなんて想像もつかない。  
だけど私にとっては、幼い頃からずっとずっと、  
「イトくん」  
「…ん?」  
三度目の呼びかけに僅かに瞳を和らげて、幼馴染は私の上で促すように応えた。  
ずっとこの人は大切な人だ。  
―どんな意味をもって大切なのかが、少し変わっただけのことでしかないのだろう。  
イトくんがしばらく黙ってから穏やかに頬を撫でて、優しく笑った。  
「いい?」  
「うん」  
伝わっているのかいないのかよく分からない。  
どちらでもよかった。  
もう一度唇を触れ合わせて、何度かやり直しながら、  
吐息を混じり合わせて抱き合ってやっと少しだけ入れられた。  
本当に痛くて、進むにつれて反射作用なのかなんなのか勝手に涙が溢れて流れた。  
汗がその上に落ちるので、背中に回した手のひらを僅かに緩めて見上げると、同じように見られていた。  
視線につられて泣きそうになった。  
もう涙が出ているけれど別の意味で溢れて滲む。  
胸が熱くなってまた腕を寄せた。  
それから続けた。  
時折苦しげに漏れる息が髪にかかって、そこにさっきのような蜜を感じて心が波打つ。  
痛くて苦しくても辛くは全然なかった。  
言われるまで入ったことが分からなかった。  
よく分からない。  
全身が麻痺しているのでどこまででも同じような気がする。  
ただ肺が圧迫されるみたいに呼吸が苦しかった。  
 
朦朧としたまま涙を拭われ唇を重ねられてそのあたたかさだけに意識を沈めた。  
撫でられるのが気持ちいい。  
「ひーこ」  
優しい響きが身体の奥までしみたので薄目を開けた。  
そうして頬に触れた唇が離れて、間近で幼馴染の顔が覗いた。  
「痛い?」  
「うん…」  
「ごめん」  
唇が気遣わしげに何度か顔に触れて、荒い息が湿り気を帯びて前髪を額の脇で揺らした。  
くすぐったかった。  
嬉しいけれど、イトくんは心配性だ。  
異物感の隙間を縫うようにして呟く。  
「一生痛いわけじゃないから大丈夫だよ」  
「……相…変わらず、すごいこと言うなぁ」  
何がおかしいのか耳元で笑われて圧し掛かる重みがかすかに増した。  
それも痛くて腕が強張るけれど、少しするとそれにもなんとか慣れる。  
肩越しに、天井の薄暗いしみを見上げているとささやかな雨が窓を打つのに鼓膜が静まる。  
髪の脇にかかる息の不規則さが変にあたたかくてぼんやりした。  
でもすぐに、動いていいか聞かれて、頷いたので続きがあった。  
正直痛くてよく憶えていない。  
あまり長くもなかった。  
軋んだベッドと、薄く混じり合う声と、  
汗のにおいや滑るのに絡めた指とか、あとはやっぱり痛かった。  
記憶はとても薄くてでも身体の奥にまでその温みは残っている。  
後はイトくんの目を憶えている。  
休みになった平日の午後は、窓の外で雨が降り続いていた。  
秋の風は肌に涼しいはずなのに汗がこぼれてお互いの肌より熱いものを知らなかった。  
 
終わってから、どちらともなくまどろんで、毛布もかけないでうとうとと寝た。  
最低限のことしか始末もしないでそうしたのでシーツは居心地がいいとはいえなかったけれども、  
イトくんがとろとろと謝るか謝らないかのうちに腕を回して先に寝てしまったので、私も眼を閉じてしばらく意識を鎮めた。  
誰かと寝るのは物心ついてから初めてだ。  
それはあたたかくて、浅くても柔らかい眠りだった。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
薄目を開けると細い淡い光が、床に落ちていた。  
間近で寝息を立てる気配が近く、脈拍が僅かにはやまって血液を流す。  
隣を起こさないようにしてそっと肩から腕を外し、起き上がって時計を見た。  
四時前だった。  
髪が乱れていたのでなんとなく撫でつけて深い息をひとつつく。  
裸のままではやっぱり涼しくて寒い。  
とりあえず服だけ着て後でシャワーを浴びよう。  
脇にたたんであった服を持ち上げてのろのろと着て、カーテンに手をかけた。  
上手く立てないので傍の椅子に腰を落とす。  
風邪を引かないか少し心配だったのでかけた毛布の下で、幼馴染が僅かに身じろぐ。  
雨音がしていないことにふと気付いて、もう一度ゆっくりと窓を眺めた。  
…雲が吹き散れて鳥が飛んでいた。  
膝上の指先に何かが触れた。  
―薄目を開けた幼馴染の毛布から出た指先が私のものに緩く絡んでいた。  
汗の名残から脈が伝わり、指を絡めあいながら屈んで覗く。  
私は幼馴染の名前を呼んだ。  
 
ちり紙交換のテープが緩やかにどこかで聞こえている。  
彼が私にゆっくりと焦点を合わせて、穏やかに目を細めてそれから笑った。  
少し気恥ずかしいけれど穏やかな響きが嬉しくて笑み返す。  
「身体、平気かい」  
「…うん。大丈夫」  
手のあたたかさはきっとその時々で多くの意味に変わるだろう。  
イトくんの表情を忘れないだろう。  
私もとても、同じような顔をしている気がして仕方ないのだけれども。  
しばらくそうして手を繋いだままで何も言わずにいると、ぽつりとイトくんが呟いた。  
「…おなかすいたなぁ」  
「すいたね」  
確かにすいていたけれど、いきなりそうくるとは思わなかったので苦笑気味に溜息が出た。  
とにかくシャワーを浴びよう。  
確かお母さんがコンビニで何かを買っておいてくれたはずだからそれから、少し遅めの昼にしよう。  
それから勉強をしようか。  
話でもしようか。  
今から散歩に二人で行くのもいいけれど、正直歩くのは辛いのでそれは困る。  
まあでも。  
どうするかは、二人で考えることにしよう。  
 
 
 
 
 
 
◇  
 
 
――これが十七の時だった。  
もうひとつ、憶えているのは今のような空に澄んだ青と雲。  
雨の上がった受験生の秋の、あたたかくて何にも替えがたい、思い出だ。  
 

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