三年が過ぎた。  
 
 
 
 
 
 
・・・・その50  
 
 
 
帰り道が一緒になってしまった。  
地方国立大のキャンパスを出ると桜並木があって、その途中でばったりと会った。  
背の高いその人は昔と変わらない顔で驚いたみたいに携帯から顔を上げた。  
 
散りかけの桜が昼過ぎの青空に映えている。  
「緋衣子。おまえ講義は?」  
「休講だった」  
呟いて並んで、交差点をなんとも言わずに二人で歩く。  
まだ西にかかる雲は薄くて、日が高い。  
「ふうん。花見でもしようか」  
「なんで?」  
「綺麗だし」  
「うちから充分見えるじゃない」  
私の住んでいるアパートは川沿いで、ちょうど桜が賑わって咲く。  
去年も一昨年も、春は彼がしょっちゅう訪れて本を読みながら窓際にいた。  
邪魔ではないからいいのだけれど。  
「じゃあ緋衣子の家で花見をしよう。スーパーで団子を買っていけば」  
嬉しそうなのでなんとなく肩を竦める。  
相変わらずそういうことが好きな人だ。  
 
そうして青い空を見る。  
線路沿いに通学路はあって、小さな本屋があって幼馴染はそこに毎日寄って行く。  
私は傍のベンチでぼんやりと待ったり、時には参考書を買ってみたり、  
実験のレポートについて考え込んでみたりする。  
陽射しがあたたかくて、海に電車一本で行けるせいだろうか雲の形は実家の方とはまた違っている。  
それから幼馴染が漫画雑誌や文庫本を抱えて出てきて、電車が脇を通る。  
大学は一緒ではないから一緒に帰る機会は多くない。  
だからそれなりに嬉しかった。  
まあ、家は近いけれど別の場所だから、一緒に帰るというのもおかしな話なのだけれども。  
線路の響きが遠くに去って、踏切がどこかで上がる。  
鍵に結んだ古い刺繍リボンはそろそろ寿命だ。  
私は立ち止まって、道路を眺めた。  
車の通りも少なくて地方都市の片隅なんてどこもたいして変わらない。  
傍にいる人だって昔とそうは変わらないのだ。  
ちらりと見上げて、同じく立ち止まった人の視線を受けて呼んだ。  
「依斗くん」  
「ん?」  
「どうしてフランスに行ったの?」  
風が弱く吹いて香りもしないのに海のようなはためきでスカートを揺らした。  
依斗くんが瞬いてから肩を竦めて、歩き出す。  
薄手のシャツは春の色だ。  
斜め前で穏やかに聞きなれた声が笑みを含んで木々に溶ける。  
「憶えてないよ」  
「そうなの」  
「うん。もっと早く聞いてくれないと」  
「ふうん」  
 
まあそういうものなのかもしれない。  
記憶なんて結構、曖昧で薄くて、幼い頃のたくさんの出来事や約束や、  
些細な会話なんてただの塵の様に積もっていく。  
例えば文化祭の思い出だって鍵に結んだ古い刺繍のように褪せて、細かいことなんて忘れている。  
だけれどいくつかのことは同時に、不思議なくらい忘れないものだ。  
依斗くんが引き寄せてくれた腕の温みとか、夏の花火とか、  
初めてが終わったあとの空の青さとか、そういうものを忘れない。  
追いつきながら手を握る。  
…手を握らないで歩く方が楽だったりするので、いつも握るわけではないのだけれど。  
握り返しながら、当たり前のように歩調を緩めてくれるので心が和んで空を仰いだ。  
「まあ、『夜間飛行』の作者がフランス人だったからかな」  
「それは聞いたよもう」  
「あとは好奇心かなあ」  
呟くともう一度幼馴染は肩を竦めた。  
そして懐かしそうに笑った。  
…それも聞いたような気がする。  
軽く溜息をつく。  
それから絡められる指に応えて笑って、風に髪を押えた。  
別方向から電車が通る。  
あれに乗れば海に行けて、彼のお母さんのお墓に挨拶をすることができる。  
 
春の天気は緩々と変化する。  
空がゆっくりと午後から夕暮れになっていく。  
 
いちいち語り合うこともない。  
交わすのは他愛無いことばかりで、傍にいる以上の温みなんてあまりない。  
 
イトくんが昔から好きだった本の作者のように言うなら、  
あげつらう必要はなくて存在していればいいなにかは確かにある。  
 
もっと違う言い方をするなら、例えば擦り切れかけているこのリボンのようなものだ。  
 
十七の夏から秋に私がせっせと縫った模様そのものは大事ではなくて、  
形として残っているのは、今もこの手にあるのは、綺麗なリボンひとつなのだ。  
それがあるならよくて、細かい模様の縫い方なんていちいち憶えていなくてもいい。  
 
だって何かを作るということは作っただけでは終わらなくて、  
糸を結んで切った後はきっちり形が残って使われていくものなのだし。  
 
それでも布が擦り切れくすむように、目に見える形は一生取っておくことが難しいと分かっている。  
 
でも見えない。  
一緒に帰りながら伝わるあたたかさは目には見えない。  
だから残そうと思えば残していけるのだ。  
大事に守れば擦り切れても物質みたいに消えることはない。  
呼び方が変わっても、背の丈がほんの少し伸びても、それは小さな変化でしかない。  
 
桜が吹く。  
線路は春の色になった。  
私は最近二十歳になった。  
幼馴染は相変わらず身体が弱いけれど、前より風邪を引かなくなった。  
 
返し忘れた古い写真は、今でも机の上で欧羅巴にいる。  
写っている人は数年分成長してその隣で窓を眺めて嬉しそうにしている。  
私は団子の包みを開けた。  
窓から見える川はいつか唇を重ねた緑の土手へと桜をのせてくだっていくだろう。  
 
 
 
 
 
終  
 

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