「辞書」
「辞書がなに」
机から顔を上げずに見知った他人の声を聞く。
彼は私の様子に少し困った溜息をついて、半開きだったドアから身体を滑り込ませた。
それをちらりと見上げて、また宿題に戻る。
私は幼馴染の人と違って、そんなに頭がよくないのだから
遊んでばかりで受験を乗り切れるわけではないのだ。
「辞書、貸してほしいんだけど、いいかい」
「弟に借りてよ」
私も溜息をついて、ペンを転がすと彼に向き直った。
「使うって分かってるなら、最初から持って帰ってくればいいじゃない」
「おまえを当てにしてたんだよ」
幼馴染が肩を竦める。
妙に背の高い彼は、その仕草をよくする。
私が溜息をつくのと同じくらいの頻度で、していると思う。
「昔からそうよね」
「うん」
「……」
嫌味というほどでもなかったけれど、誉めたわけでもないのに。
彼は時々、満足そうにあんな目で笑う。
私は困った。
そうして、何千回目かの溜息をついた。
「本棚にあるから持っていって」
「ありがとう。愛してるよ」
私はペンを持ちかけた手を止めた。
今、何か言われた。
気のせいだと思うことにした。
「…明日使うからちゃんと返してね」
「はいはい」
当たり前のように笑って、長身のTシャツ姿がドアの向こうに消えた。
窓の外の暗い若葉が妙に私の思考を鈍くした。
きっと、気のせいだったと思うことにする。
受験生なのだから、宿題を終わらせるほうが先だと思うことにする。
網戸から吹き込む初夏の風はいつもより涼しかった。