寒風吹き荒ぶ参道は、そちらこちらに枯葉を落として単調な墓石群に多少の変化を与えている。
入り口の方で受付の人が暖かい室内でのんびり編み物をしていた他は、誰一人として見えない早朝の山中だ。
……しかし、今日は本当に冷える。家で布団に包まっていてもよかったかもな……。
そんな事を思い、しかしかぶりを振って先へ進む。
連日それの有難みと今の行動とを比較して、今朝方になってようやくこうしている行動の見返りが上回るだろうと判断したからこその現状だ。
流石にここまで来て帰る選択肢などない。それをするなら最初から寝ているべきだったのだから。
まあ、それでもこの寒さはいつもと比べて少し堪える。
ポケットの暖かさが手に嬉しい。このまますっ転んだらあまりにみっともなくはあるが、まあ、その辺りは俺が慎重にしてい、
「……ん?」
気付けば体は前方につんのめっている。
……はて、どうするべきか。こんなときこそ冷静になるべきだ。
まず足を前に踏み出す。体を支える為ではあるが、これだけでは心もとない。
なら必要なのは他の支えだろう。
ポケットに突っ込んだ手を取り出す暇はない。
……なら、体ごと支えられるようにするべきだな。
即座に判断を切り替え、視界の端に捕らえたものを利用することに。
敢えてバランスを右に崩す。倒れる体はその流れの通りに。
自分の右側方にあるのは、当然――――墓石だ。
体を寄りかからせるように墓石に倒れこむ。無論、その程度で傾きはしない。
……罰当たりではあるが。
漸く静止してくれた体。ジャンパーのポケットから手を引っこ抜き、墓石に手をついて体勢を立て直す。
「……見られてはいないな?」
一人ごちて、周囲に目をくばせる。当然誰がいるわけでもない。
……本当は、一人いるはずだ。
俺がここに至る山道の入り口で思い悩んでいた間、躊躇うことなく先へ進んでいた彼女が。
足を進め直し、息をつく。
――――感傷か。
誰も彼もがそれに捕らわれているのか。
それとも俺たちだけなのだろうか。
……後者だろうな。
存外、人間というものは冷淡だ。毎日を生きるのに過去に縛られないのは当然なんだろう。
それでも、彼女はここにいるのだ。
足を止め、前を見据える。
木枯らしの中、林立する灰色の狭間で誰かが一人立ちすくむ、その光景を。
――――最初に気付いたのはいつだったか。
そんな昔の事じゃないはずだ。せいぜいが3、4週間前といった所だったか。
いずれにせよ、俺の申し出を受け入れたあいつがうちで暮らし始めてまだ2ヶ月程しか経っていない。
その間ずっと、おそらくは毎日続けていたと仮定すれば、よほどの鈍感でもない限りは気付くだろうとは思う。
仮定が事実かどうかはまた別にしても、少なくともそれなりの頻度である事は実際に確認している。
別にケチをつけるつもりは無い。
一応は一つ屋根の下で暮らしていても、俺は別にあいつの日常を妨げる必要などないのだから。
一緒に暮らし始める前の習慣に散歩でもあったとしても、咎める必要もないし、な。
あいつの意思は最大限に尊重する。何を強制する事もない。
飾ることのない関係だからこその、俺たちの間柄だったはずだ。
……あの年。彼女の死があり、それをきっかけとして逃げ戻ってから来年の春で4年。
俺たちはそれなりに適当に会ったり飲み食いしているうちに、何となく俺の家に来て食事をしたり、家事を手伝ったりしてもらったりするようになっていた。
……別に、口に出して付き合ったり、逢引したりするような事もなく。色気なんてのは存在しなかった。
恋人、なんて甘い言葉とは縁遠い所帯じみた関係だったのは間違いない。
あえてそんな事をする必要も感じなかったからなのだが、文字通り適当だったことだろう。
気の抜けたという意味でも、丁度良い加減と言う意味でも。
何事もなく日々は過ぎ行き日常は順風満帆、平々凡々。
――――そこに来たのが、1年半前の娘の小学校入学と言うイベントだった。
色々あったが、今から考えてみれば変わり始めたのはあれからなのだろう。
幼稚園では馴染めなかったあの子も、人間関係がリセットされることでようやく友人が出来た。
……そうして、大分明るくなったあの子が発端だったのだ。
結果として、今の俺達は同じ家に暮らしている。三人で。
……まあ、あんな関係をだらだら続けていても良かったかどうか、迷ってはいたのだ。
娘も彼女に最初こそ人見知りしていたものの、それなり……いや、とても懐いている。
世間体も考えれば、あまり浮ついた状態は望ましくなかったろう。
それでも、一歩踏み出そうとする考えはさほど強くはなかったのが実情だ。
理由は、……考えるまでもない。
しこりが残るのも当たり前だ。
俺がこの町へ帰ってきたきっかけは、未だに俺を放してくれていなかった。
それだけの、……それだけの話だ。
…………女々しい、という人間もいるだろう。
別にそれで構わない。少なくとも、さっさと別の人間に乗り換えるよりはマシだ。
余談だが、俺は男と言うのはすべからくロマンチストであると思う。だからこそ男の浪漫という言葉があると俺は考えているのだけれども。
要するに、そんな単純に気持ちの切り替えが出来る程に俺はリアリストではなかったのだ。
女性のほうがよっぽど現実的ではあるという事は、俺の様な人付き合いの悪い人間でもよく分かる。
だからこそ世の中には男女の軋轢が生じる訳だが、時折性別と性質が食い違っている人間が存在する。
……男手一人に育てられた為か、どうやらあいつもその口だったようだ。
割り切りのいいさっぱりした人格かと思っていたが、どうやらその逆でとんでもなくサンチマンタリスムに飲み込まれやすい人間だったらしいことが分かったのはつい先刻の事。
表面は笑っていても、内部にどんどん溜め込むタチ。その取り繕い方が上手すぎたのだろう。
少なくとも、俺も含めてあれだけ付き合いのあった高校時代の同級生の誰もがそこに気付いてすらいない。
家事を手伝ってもらってばかりいた2年ですら片鱗も見せなかった。
どれだけ親しくしても友人には分からない側面がある。
……ようやく。ここに至ってようやく、俺はそれを知ることができた。
尤も、それが核心になったのはここで、この光景を見てやっとの事。
つい先刻まであったのは、多少の違和感に過ぎない。
毎日を過ごす中での、取り繕ったような表情。特定の事柄に対する不自然な言動、食い違った行動。
……微細な噛み合わせの悪さの累積こそが、その正体だ。
具体的に言うならば、……あいつは、極力俺たちに気を使ってばかりいたのだ。
自分の立場に文句も言わず、それでいて死んだ彼女の事を常に意識し続けて。それを見せようともしない。
おそらくは俺が帰ってきてから、今の今まで。
ずっと一緒にいることで、ようやくそれが顕在化してきたのだろう。
逆に言えば、俺達はそれだけ負担をあいつにかけているということでもある。
――――彼女は一人、立ち尽くしている。
拓けた、荘厳な斎場の真中で一人、風に煽られながらも立ち尽くしている。
舞い落ちる葉、赤と黄の紙吹雪。
空の青、墓石の灰。
彼女以外で目に映るのはそれだけだった。
それは、ほんの一月よりなお近い程に前。
まだ夜が白み始める時間。前夜の執筆の為、床に入ったものの中々寝付けずにいた日の事だ。
作家と言うのは因果なもので、寝る時間が不規則になる。アイデア様が降りてきたときは尚更だ。
――――だから、どうにか寝る為にアルコールを摂取しようとして、部屋を出て。
その時はじめて知ったのだ。
隣室、彼女が寝ているはずの部屋に人の気配がなく。彼女の靴もまた、見当たらなかったことを。
気のせいかと思った。
一眠りしてみれば、いつも通り彼女はそこにいた。
それでも、何となく次の日、同じ時間にこの家と外界との狭間を見てみれば、……期待通りなのか期待はずれなのか。
前日と同じ状況が形成されていた。
次の日も、そうだった。
いくら面倒臭がりの俺でも、気にはなった。自分の知らないところで、彼女が何をしているのか。
……普段、真っ昼間なら意識すらしない事。何を気に留める必要がある。
ああ、それは重々承知はしているさ。それなのに、そのことを四六時中考えているのは何故なのだろう。
……だが、問い詰めるのもどうかと思ったのだ。
そう、彼女は何をしているのだろうか。
散歩かもしれない。まあ、良くある話だ。
アルバイトか? 新聞配達なんてベタすぎる。
……人と、会っているのだろうか。
俺以外の、誰かと。
それに思い至った時は、言いようのない圧迫感に襲われた。
……だが、同時に当然かもしれないという考えも浮かんできていた。
何故なら、俺は彼女をある意味とても都合よい存在として扱っていたのだから。
…………今更関係を変えるのが気恥ずかしかったのだろうか。
それとも、……それとも、今はいない彼女に対して、俺達は…………。
……何にせよ、籍だけは入れても、俺もあいつも今までの付き合いを変えようとはしなかった。
部屋も別々の場所を割り振り、いわゆる夫婦の営みをするどころか、それを匂わせることもしない。
だから、彼女の外出に気付かなかったのだろうか。
俺が表面上だけの関係を続けようとしたから、彼女はこんなことを続けているのだろうか。
……考えた。
ああ、それこそ一月近い間考えた。
考え、考え、考え……。
結果として俺は今、ここにいる。
――――どんな光景がそこにあろうと。
それは俺のもたらしたものであるからと、受け入れる覚悟をようやく携えて。
仮に、俺の最も望まない事態であったとしても、俺なんかよりもっと相応な人間がいるのならそいつにあいつを託してもいい。
…………思えば、あまりにもいい加減すぎる付き合いだった。
自らを酒に酔わせ、そんな事を強引に言い聞かせる。
懐に忍ばせたスキットル。ウイスキーフラスコとも呼ばれるそれに頼り、それでもどうにか足を進める。
そうして、自分を納得させて後を追い、辿り着いた場所は……、最も予測しなかった場所でありながら、あいつが行くには最も相応しいと思わせる場所だった。
――――彼女は一人、立ち尽くしている。
拓けた、荘厳な斎場の真中で一人、風に煽られながらも立ち尽くしている。
……俺が避け続けてきた、その場所で。
一人、しっかりと立っていた。
今はいない、かつて俺の側にいた女性。
それ故に、今この時も。……そして死ぬまで俺の中から消えることのないだろう人間。
忘れたくなくても、それ以上にその全てが色濃く残りすぎている。
あえて意識などしなくても、息遣いすら現実の音よりなおはっきりと耳に響く。
……だから、だからこそ。
それが辛くて、法事でもない限りはこんな場所に訪れることはなかった。
後を追う最中、なんとなく分かってきていたのだ。どこに向かっているのか、を。
足が言う事を聞かない。
体が震え、自身を抱きしめる。
それでも。
俺は見届けなくてはいけない、そう思う。
ようやく手が届いたのだ。今まで見ることの叶わなかった、いつもいつも、仮面と厚着で隠し通してきた本心を。
やっと、理解できた。はじめて捉えられた。
俺が、もう一度だけ横に置こうとしている人間の姿形を。
――――ああ、そうか。
あいつは、どこまでも不器用に、全てを受け入れようとしているのか。
……身を隠すことも忘れ、どれくらいの時間が経ったろうか。
気が付けば彼女は全ての所作を終え、帰り路を踏み出そうとしていた。
何もかもの、全ての動作所作が機械じみて感じられる。
現実感の喪失。
しかして、夢心地と言う訳でもない。
強いて言うならば――――虚無感。
どこまでも淡々と、淡々と。
…………そして、邂逅。
当然の帰結。
意味もなくぼうっと突っ立ってたのだから、文字通りに当に然り。
彼女の目に俺が映る。
俺は何もせず、ただ息を吐く。
彼女が口を開く。唐突に、しかし呆然と。
「……なんで、ここにいるの?」
言葉とともにようやく、俺の時間が動き出す。
肌を焼く空気の寒さ。
全身を包む日溜りの心地よさ。
吹きすさぶ木枯らし。
目を貫く日差し。
高く筋雲を抱える朝の青空。
体に張り付く枯葉。
高台に上っただけで激しく打ち付ける動悸。
やけに落ち着いた呼気吸気。
服の隙間の汗の蒸し暑さ。
ありとあらゆるものが――――俺を、今、この場所に引き戻した。
「……えっと、寝てたんじゃ……」
……今ならはっきりと分かる。何故、どうして気付かなかったのだろうか。
今まで、彼女がいつも浮かべていた笑み。彼女は今、どうにかそれを作っている。
いや、違う。それを作り上げようとしていたのだ、彼女は。
その笑顔が完成すれば、きっと何かを思う事はない。いつも通りの事だからだ。
……だけど、突貫工事のそれへの俺の感想は。
――――なんて痛々しい作り笑いなんだろう。
それだけだった。
今、彼女の表情に浮かぶのは、怯えだ。
その顔からは、普段のなんでもさらっと受け流す、面倒見のいい性格は伺えない。
単に俺がここにいるというそのこと自体への驚きによるものか、それとも他の原因か。
……不意を突かれて、自分自身の弱みとでも言うべきものを曝したことか。
……最後、だな。
そう判断する。考えてみれば、彼女のこうした感傷的な行動を見ることがはじめてだ。
今までの、こんな事すらなかったあまりにも表面的すぎる関係を憂うべきか、漸くそこまで踏み込めた事を尊ぶべきか。
それはこの際あまり関係ないだろう。
俺は、どうすべきなのだろうか。
向き合うことを怖れ、成り行きに任せるままだった目の前の二人との関係。
かつて失った人と、今からを共に歩もうとする人。
……また、適当に誤魔化すのか。
「……………………」
彼女は、不安げに黙りこくっている。
墓石は当たり前に喋るはずもない。
誤魔化し、逃避、取り繕い、妥協。
そんな選択肢が頭に浮かぶ。
小説や映画なんかでは、絶対に選ばれない方法ではある。
だけど。
――――それでも、別に構わない。
俺は、本心からそう思う。
誤魔化しも、逃避も、取り繕いも、妥協も。
その全てが、必要だからこそ存在する概念であり……行動だ。
何もかもに対して自分の信念を適用し、ひたすらまっすぐに突き進む。
そんな事をしていれば、自分も周囲も結果としてボロボロになるだけだろう。
誤魔化しは事を荒立てない為に行うもの。
逃避は安心できる居場所を求める為のもの。
取り繕いは自分か相手か、もしくは両方に気を使うこと。
妥協は双方の意見をまとめる為の弁証法。
何一つ、蔑まれる謂れはない。生きる為の英知であり、人の誇るべき財産だ。
さあ、何を告げるべきだろうか。
目の前のこいつは、対人関係では小細工が上手くて丁寧な取り繕いができる。
だけど、もっと上手くやれるくせに生き方はまるで不器用だ。
……もう少し気楽にいこう。
そんな一言がいいかもしれない。
口を開く。
「…………なあ」
びくり、と、彼女の体がわずかに動く。
……全く、そんな警戒する必要はないと思うんだが。一応、早く帰っていつも通りに飯でも食おうと言いたいだけなんだがな。
もう大分寒くなってきたし、こんなことを続けてると風邪を引くだろう。
別に実利はないんだし、こんなことをする時間をもっと有効に使えるんじゃないか?
……はは、なんにせよあの子もそろそろ起きる時間だしなあ……。
いつも俺はこの時間は寝てばっかりだし、たまには三人で朝餉を囲むのもいい趣向だと思うけどな。
「……俺は、実感がなかったんだ。いや、……今でもないんだろう」
「……え?」
……ん? 何を言ったんだ、俺は。
少し待ってくれるか。ちょっと言うべき言葉を整理する。
「……あいつが死んだのは、本当に、……本当にあまりにも急だったのに、何ていうか、自然すぎてな。
別に何か事故があったわけでもない。思いつめていた訳でもない。
殺人なんてショッキングなことに巻き込まれた訳でもない。
……病気といえば病気だったが、それも何日も何週間も入院するような分かりやすいものじゃなかったんだ」
「……どういうこと? 何で、急にそんな事…………」
おいおい、どうした俺。
何でって俺が聞きたいところなんだが。なあ、俺は一体何を話そうとしているんだ?
……そんな他問にも自問にも答えず、俺はとうとうと話し続けている。
生者ではなく物言わぬ墓を見つめて、話し続けている。
「……普段通りだった。
いつもの様にみんなで食事をして、いつもの様に風呂に浸かって、いつもの様にテレビを見て、いつもの様に布団に入って目を閉じた。
……次の日。
目を、覚ますことはなかった。それだけなんだ」
「…………」
彼女達は何も言わない。
喋るのは俺、只一人だ。
「……だから。
だから、俺は正直、今でもあいつが生きているような気がしてやまない。
死んだって言う実感は、ないんだよな……」
「……そう、なんだ」
……涙ぐむ声。
それを必死に隠そうとして、彼女は歯を食いしばっている。
皺が走るのも構わず、服を握り締めてどうにか自分を保っている。
くそ、何を口走ってる。
前の妻の話をして、それも未練があるなんてことをこうも正直に告げられて心労がないはずはないだろうが。
……俺は一体、何をしようとしていやがるんだ、この屑野郎……!
「……ああ。……だから」
だから、何なんだ!
……何なんだよ、……俺は。
俺は……何が、何を、求めている……?
……教えてくれ……。
「もう少し胸を張って構わないんだ、お前は」
「……あ、え?」
…………ああ、そうか。
そういう事だったのか。
要するに、……要するにだ。
「……俺が今ここにこうしているのは、お前のおかげだよ。
お前が、そんな不器用な生き方しているの見てやっとの事、な。
俺も、どうにか向き合えそうな気がしてきたんだ。
……あいつの死と」
目線はさっきからずっと墓石に向いたままだった。
――――そう言えば、こんなにまじまじとこの場所を見たのはこれがはじめてだ。
……三回忌が終わって、漸く、か。
どうしようもない人間だな、俺は。
いや、今は感謝しよう。目の前の人に。ここに連れてきてくれた人間に。
……そうだ。言わなければいけないことがある。
……これを言うというのは、俺は本当に非道な人間であるのかもしれない。
だけど、これは、こればっかりは言っておかないといけない。
……俺にも不器用な生き方が感染したのかね。
口元が歪んだ。
が、すぐにそれを消して、見つめる先を墓石から彼女の方へゆっくりと、しっかりと移動させる。
――――別に、それでいい。
「……そして、だ」
息を吸う。
肺に、冷たい大気を満たしてゆっくり吐き出す。
わずかに目を閉じ、再度吸い込んだ呼気を溜め、真正面から彼女を見据えた。
「……俺は、あいつがまだ生きているような気がしている。
……その上で、だ。……俺は、お前に一緒にいてくれと頼んだんだ。
この意味は、……分かるか?」
「な……そ、れ」
……言ってしまった、か。
正直、俺にも実感はない。
…………だが、論理的に考えればそうなんだ。
……俺は、おそらくこいつの事を、最低でも彼女と同格くらいに大切に思っているのだろう。
俺は、故人は故人と、そこまで割り切れる人間ではないのだから。
「……あいつが今も生きていて、俺の隣でずっと支えてくれていたら違っていたのかもしれない。
今頃はもっとあいつの事を大切に思っていたのかもしれない。
だけど、……それは、叶わなかったんだ」
……なんて、無慈悲な言葉だろう。
改めて確認する。俺は地獄行きだろうな。
「……何よ、それ……」
彼女の言葉が震える。
前髪に隠れて見えない目。……きっと、それは怒りに染まっているに違いない。
当然だ。
自分でもその身勝手さに腹が立つのを通り越して呆れかえっている位なのだから。
「……どうして、忘れられるのよ。
あの子がどれだけあんたを好きだったか、分かってんの!?
あんたの言っているのは裏切りだって自覚してんの?
ふざけんじゃないわよ!」
……ああ、分かってるさ。
凄い気迫だ。その圧に押されながらも、心のどこかで、そのことへ感謝する自分がいる。
……彼女は、そういう人間だと言うことへの安堵。
故人への悼みを忘れない人間と出会えたことの嬉しさ。
そしてもう一つ、あいつへの想い。
……あいつは、俺のような理不尽な人間と結婚して不幸だったかもしれない。
だけど、ここまで怒ってくれる人間がいるのは、喜ばしいことだと、そう思った。
俺も、彼女も何も言わない。
吹き抜ける風を間に挟みながらも、ただ向かい合っている。
俺は彼女を見据え、彼女は下を向いて体を震わせる。
太陽の光は大分強くなっているのに、風の冷たさは変わらない。
どこまでも愚直に、自分の感情に正直に。
……太陽に負けた北風は、その後どうしているのだろう。
北風を救う為の物語があってもいい。それが俺の結論だ。
……結局、旅人にできる事なんてのはコートを脱がないよう意固地になるくらいしかないけれど。
……そんな事を考えて悦に入っていた俺は、どうしようもなく愚かだと思い知ることになる。
不意に、うつむいていた彼女の顔がこちらを睨みつける。
――――その顔、目からは、涙が溢れていた。
ぼろぼろ、ぼろぼろと。
……何故?
その二文字が脳に浮かぶ。
……俺は、憎しみすら篭っているかと思っていたのに。
あまりに、――――あまりに、弱々しい。
「……どうして、そんな事を言うのよ……。
あたしは、あんたの事、見損ないたくないのに。
……まだ、あの子の代わりっていってくれたほうが、気が楽だった……」
…………俺は馬鹿だ。
何が北風だ。手前の勝手な妄想を現実に押し付けるな。
無知であることを棚に上げて、結局は彼女を捉えようとしていない。
彼女は彼女で、……ずっと、気を張っていたのだ。
自分を納得させるための方便を駆使して、それでも俺の隣にいるために。
……こんな俺なんかをよすがにして、自分を保ち。
自分の役割に過剰な期待をしないことで、押し潰されないようにしていた。
この世界にいるのは俺だけじゃない。
自分勝手な行動原理で、相手の事を全く考えていなかったのだ。
……こんなにも、弱々しいとは思わなかった。
今にもくずおれそうになりながら、どうにか立っている。
――――その姿を、どうしようもなく支えたくなった。
今まで支えてもらっていた分を、返すように。
俺は彼女を抱きしめる。
支えるように、支えあうように。
「――――――――え?
ちょ、やめ……っ!」
離さない。離すものか。
……結局俺は自分勝手だ。それは嫌と言うほど思い知った。
……だったら。
いっその事、それを貫いてやろう。不器用に、どこまでも。
「……見損なってくれて構わないさ。それでも俺はお前を選んだんだ。
だから、ついて来てくれ」
一瞬、ほんの一瞬だけ腕の中の動きが止まる。
――――息を呑む音。
それを聞き終える前に、また彼女は動き出す。
逃げる様に、だけどどことなくこちらを抱き返すように。
……告げる。覚悟は出来た。
一緒に行こう。
「別にどう思われようが気にしないさ。俺の自分勝手さにお前が振り回されるだけだ。
……恨む対象があったほうが、気が楽だろう? 少なくともそれを拠り所にはできる」
……腕の中の彼女は、次第に暴れるのを治めていく。
ゆっくり、ゆっくりと。全身運動を少しずつ。
だけど、完全に動きを止めはしない。
肩をいからせて、しゃくりあげるように。
――――泣いている。それを隠そうともしていない。
……家で眠るあの子よりもなお、小さく感じた。
彼女が俺の肩に目を押し当てる。
表情も何も見させないようにするためか。
震える小さな体躯と長い髪。
ようやく気付く。
……昔と何も変わらない、高校生の頃そのままだ。
――――あの頃は、女の子と意識することもなかった。
……ここが、人気のない場所でよかった。
これだけ長い間くっついていても、衆人環視に曝される事はないのだから。
そんな事を考える妙な所で冷静な自分が可笑しくて、ついつい口元が少し綻んでしまう。
「……あんた、馬鹿でしょ。どうしようもない馬鹿」
太陽が一つ分は上にあがった頃。
顔を俺の体に押し当て、表情を隠したまま、はっきりとした声で彼女は呟く。
「まあ……、そうだな」
その通りなので言い返しようもない。
尤も、別に反論の余地があったところでするつもりもないのだが。
……彼女の体が温かくて、それが心地よい。
彼女がここにいて、俺と向かい合っていることを実感する。
「……分かってんならさ、直すつもりは?」
「分かっていて直さないから馬鹿なんだと思うけどな、俺は」
「救えないわね、ほんと」
「直せないじゃなくて直さないという辺りたちが悪い」
「自分で言うんじゃないわよ……、って、人のこと言える訳でもないけどね……」
「ま、お前の言うとおり俺は裏切り者で、ろくでもないだろうさ」
「はあ……、あんたと話してると疲れるわ、正直」
「……はは、それなら見捨てて構わないさ、 お前の人生、お前自身が満足する生き方ができるのならそれが一番ではある」
「…………。分かって言ってるでしょ、あんた」
「分かるものは分かるし分からないものは分からないな。……お前のセンチな一面も知ったばかりだし」
「無視するわよ。……何にせよ、今しがたの言葉はあんた自身にも言えるでしょ」
「ん?」
「あんたの人生、あんたが満足する為にはあたしが側にいた方がいい? ……満足?」
「さっき言ったはずだけどな。お前は3歩歩いて忘れる性格じゃないだろ」
「あのさ、中学以来一度も人を殴ったことのないのが自慢だったんだけど、記録更新停止してもいいかな?」
「気が済むならご自由に。言ってるだろ、お前の好きにしろ。何もかもな」
「…………」
「……どうした?」
「……こっちの台詞よ。あんたはどうしたいの?」
「……そうだな。まあ、とりあえずけじめはつけておきたいな」
「けじめ?」
「ああ。……少し、手伝ってもらえるとありがたい」
「…………。まあ、少しなら」
「……悪いな」
「まったく、もう……。いいわよ、別に。それであたしは何を、」
頭のてっぺんとあごを持っててこの要領で顔を上げさせる。
強引にこちらを向かせた、いまだ潤んでいる赤みがかった目のあるその顔に、
「―――――――――ッ……!」
唇を合わせる。
きっかり3秒、別段工夫もない単なるキス。
……籍まで入れといて今更何だとは思うが、それでもこれが俺とこいつの間でのはじめての男女らしい行動だ。
「な、ななななななな、なぁ……っ!!」
「……悪い、今を逃したらどうにも今後踏ん切りがつかなくなりそうでな……」
手を離し、息苦しくない程度に距離を取る。
俺がそんな事を言う間、あちらさんはぱくぱくと意味もなく口を開いては閉じるの繰り返し。
あっという間に顔が真っ赤になり、目を丸く見開く。
……少し急すぎたか?
けれど、こういうのは存外勢いで動かないとどうにもならなかったりするものだ。
それにしても少しオーバーリアクションじゃないだろうか。
「ちょ、い、いいいいきなし何してくれんのこの……スカタン!
あっ、あああろうことか、キ、キ、キ……」
そこまで言うなり、いきなり俯いて急に口を噤まれる。
唇に手を当て、目をそらした彼女が見ているのはどこでもない虚空だ。
「……いやまあ、突然なのは謝るが。
実際このくらいならとうにしていてもおかしくないというか、むしろ今までの方がかえって不自然じゃないか?」
「そ、そりゃそうだけど! ……い、一応はじめてだったんだからしょうがないでしょーが!!」
…………はて。
……いや待て。今なんて言ったんだ?
疑問を正すべく歩み寄ってみれば、先刻とは別の理由で彼女は俯いている。
どう声をかけたものか。……仮にかけても反応できるかどうかも怪しいな。
……まあ、そういう事もありうるか。正直ここまで絶滅危惧種だとは思わなかったが。
俺と同い年だから三十路手前になっても……、いや、考えないでおくとしよう。
「…………だってしょうがないでしょ。こんなド田舎じゃ高校時代の友達はみんな出て行くし新しい出会いもないしウチの会社は親族経営だから下手に就職難になるより頼った方が安心だったし…………」
……中途半端な音量でブツブツ呟かれてもな。正直対応に困る。
俺に聞かせたいのか聞かせたくないのかどっちなのだろうか。
どちらでも別に構わないけど、まあ、お前もお前でそれなりの人生送ってきてたんだな、当然の事ながら。
「……まあ、とりあえず言いたいことがあるならそのうち聞くさ、ゆっくりな。
……なんにせよ、だ」
「うぇっ!? な、なに? どったの?」
……テンパリすぎだ。いい加減落ち着いてもらいたいものだが。
まあ、声が届いただけでもよしとしようか。
「……いや、流石にそろそろ帰らないとまずくないか? 時間が時間だ」
「あ……」
今の今まで妙にコチコチした動きだったが、急激に動きが滑らかになる。
……こういうところは流石だな。切り替えが早い。
だけど。……だけど、俺はそれだけではないことを知った。
何となくだが、こう思う。
きっと、内側では色々葛藤しているのだろう、と。
羞恥心や焦りだけでなく、本当に色々なものを押し込めて。
……俺の手助けできることは何もない。
結局は各々の心の持ちようでしかないからだ。
そしてそれを否定するつもりもない。
じゃあ、こいつにとっての俺の存在意義は?
「いい加減体も冷える。……温かいものが欲しいな。
コーンフレークとかよりもご飯の方がいいんじゃないか」
「そう……ね。ま、それならお粥とかって手もあるけど」
大分平常心を取り戻したその顔。
口だけの笑いには、力がある。見慣れた普段のこいつだ。
……これでいい。
俺の存在意義なんて、それこそこいつ自身が決めること。
俺がするのはその判断材料を与えるだけ。
……それで十分だ。
「ん、OK。とりあえず今日の所は帰っときましょうか。
まだまだやることもたくさんあるしね」
「……今日の所? まだ、続けるつもりなのか?」
俺たちにできる事なんてのはとりあえず毎日を過ごすことくらいだ。
適当に支え合い、適当に助け合い、適当に騙し合う、適当に喧嘩し合う。
そうしてどうにか生きていこう、一緒に。
「当たり前でしょ。これはあたしなりの清算方法。あんたの言うけじめ、かな。
……それをほっといてのうのうとしてられない程度に神経質なだけなんだけどね」
「……損な性分だ」
「まーね……。ま、分かってても直すつもりはないけど」
「……同類だな」
「同類ね」
互いに顔を見つめ合って、同時に吹き出す。
いつの間にか日溜りはだいぶ大きくなっていて、風向きも変わっていた。
夜の吹き降ろす風から、昼の吹き上げる風へ。
「……そうだ。先、帰っていてくれるか?」
「ん、いいけど。……なんで?」
「……ここまできて挨拶もなしってのは、な」
それだけで十分通じた。
こくりと頷き、彼女の足は躊躇いなく外へと。
帰り際、すれ違う時の一言が耳に届く。
「……お帰りを言うために待ってる。そのあと、みんなで一緒にご飯でいい?」
返事をしようと後ろを向けば、あちらさんは振り返りもしない。
どんな言葉が返ってくるかというのを確信しているかのように。
「……やれやれ」
苦笑とともに踵を返し、数歩進んでみた先はよく知る名の刻まれた石の影。
軽く天を見上げる。
真っ青な空と筋雲。舞い散る紅葉。
「……高い、な
やはりこの季節は寒い。一人になって漸く気付いたが、まあ、冬の寒さに身を引き締ませるのも一興だ。
そんな事を思った折、
びゅう、
と、風が吹き抜けた。
風上は町の方。木々の後ろに隠れて見える市街地は、ここから見てみれば山吹色の山々と比べて大分頼りなく見える。
……山頂からのよりも暖かいだろうにせよ、寒いものは寒い。
厚着をして来れば良かったかもしれないな。
――――そうして、頭の中を空っぽにした上でゆっくりと深呼吸。
体ごと墓に向き直る。
「……何から話したものかな」
……色々言いたい事はある。
けれど、そのどれもが最初にかけるべき言葉とは違う気がする。
……そうだな、まずは言葉じゃなくてもいいか。
懐からスキットルを取り出し、栓を開ける。
内容物は国産のシングルカスクウイスキー、日本という世界で五指に入る名ウイスキー産地の誇る逸品だ。
――――命の水。
そう呼ばれる液体を、水の様に墓石にかける。
……半分飲んだか? 残りは俺の分だ。
……そう言えばお前、案外強かったんだよな。ワイン何本開けてもケロッとしていたのもいい思い出だ。
「いい思い出、か」
……俺の結論は、あいつの言っていた通りにそれを忘れようとする行為なのかもしれない。
忘れたい? そんな筈はないだろう。
……もし忘れたいのなら、とっくにヘラヘラ遊び呆けているだろう、そう信じている。
だけど。
「……なあ」
だけど、それでも俺はこう思ったんだ。
「……恨むならいくらでも恨んでくれていい。それに値するとは分かってる」
もう一人だけ、側に置きたい人間がいる。
「……だけど、それは俺だけにしといてくれ。いつか会うことがあったら、好きなだけ憂さ晴らしに嬲ってくれていい」
向こうは俺をほっとけないみたいでな、どうも頼りなく見えるらしい。
「はは、尤も同じ場所に行けるかどうかは怪しいけどな。キリストやイスラムの教えじゃ姦通罪は重罪だから」
……俺からしてみれば、あっちが危なっかしいんだ。……だから。
「……まあ、それでもそのうち会いに行ってみせるさ。どんな言葉だろうとお前の言葉を聞くために」
こちらではあの子だけじゃなくて、そいつにも付き合ってやりたいんだよ。
「だから、……先に行っててくれ。できるだけ、俺もそっちに行けるようにする」
……俺の寂しさもあるのも否定しないけどな。
「……そうだな。もし許してくれるなら、だが。こうならいいなと思ったんだ」
……できるなら、お前もあいつの事を嫌わないでやってほしい。俺はこう思うんだ。
もしそっちにみんなが行った後。……みんなで仲良くやれたらって、な。
俺と、お前と、あいつと。……あの子が連れてくるだろう未来の家族と。
――――墓石は答えない。答えるはずがない。
都合のいい、自分勝手な考えを、そうであってくれと死者に願っているだけだ。
……それでいい。
自分勝手な妄想の中で、お前は確かに笑って受け入れてくれたんだから。
たとえ実際がどうであったとしても、あちらでどんな目に遭おうと覚悟はある。
口元に自己満足の笑いを浮かべ、墓地を後にする。
どこまでも青い空の下、風に煽られながらも俺は一人進む。
家族のいた場所から、家族のいる場所へ。
どこまでも都合のいい考えに満たされながら、容器半分の命の水を誰かと分かち合いながら。