――――からん。  
透明な印象を残す音が響く。  
「マスター、ギムレットを二つ」  
 
まだ三十歳も達していないであろう女主人は、くすりと笑って  
「かしこまりました」  
と、長い黒髪を翻してタンカレーを手に。ライムジュースはもちろん絞りたて。  
美人というよりも可愛らしい顔立ちだが、彼女の腕は確かだ。  
打ち合わせでいくつものバーに連れ回された俺が保証する。  
シャカシャカ、シャカシャカという音を耳に捉えつつ横を向けば、微妙につり目がちの馴染みだった顔がくっくっと手で口元を押さえている。  
「……まーったく。似合わない事するわね、あんたも。それが東京流?」  
「……別にいいだろうが」  
 
マスターよりは短いが、それでも腰近くまでのびた髪が目に止まる。  
あらためて見ても、長くなったな。素直にそう思う。  
……未だに高校の時のこいつの印象が強いんだろう。なにせ7年も会っていなかったんだ。  
再開からもう2ヶ月は経っているんだがなあ……。  
時の流れを実感しているさなか、心を読んだかのように話しかけられる。  
「――――こっちにはもう慣れた? 田舎だから色々不便でしょ」  
世話焼きな所は変わってないか。  
苦笑。色々なものが変わっても、それでも変わらないものがある。  
「俺は大丈夫さ。確かに最初は開発の波に驚いたけどな。  
……それでも故郷の土地勘はどうにかこうにか残っていたみたいだよ」  
 
くい、と手の中のダイキリをすする。  
確かに俺は何とかなってるし、まあこれからもどうにかできるだろう。  
便利な時代になったもんだ、パソコン一台あれば原稿を送れるんだから。  
……まあ、要するに問題なのは俺じゃなくて、  
 
「しっかり面倒見てあげてるんでしょうね。あの子ぐらいの年が一番甘えたがりなんだから。  
……頼れるのはあんたしかいないのよ? “お父さん”」  
最後の一語を思いっきり強調して、これ見よがしに溜息を疲れる。  
……そんな事は、言われなくても。  
「分かってるさ……」  
 
分からないはずがないだろ? お前も知ってる、あいつの忘れ形見なんだ。  
あいつが俺といたっていうその証なんだよ。  
絶対に見捨てない、見捨てられるわけがない。  
 
顔に出てたのかどうなのか。  
そんな俺を見て、彼女が困ったような眉を下げた表情を向けてくる。  
「ま、それならいいわよ。  
あたしも父子家庭だったからね、あの子の気持ちが分かるから」  
 
――――そういえばそうだったな。  
お前のファザコンっぷりには笑わせてもらったこともあったっけ。  
「……なに笑ってんのよ、もう」  
「いや、別に……な」  
いやいや失敗失敗。表情に出てたか。まだまだ未熟だな。  
少しばかりむっとした表情だったが、結局彼女は溜息一つで呆れ顔のまま話を戻す。  
「とにかく、まだショックなんだろうし、忘れろなんていわないけど……。  
それでもあんたしかいないんだからね、あの子を守れるのは」  
……返事はしない。するまでもない。  
彼女も別に答えは求めてない。  
ただその好意に、甘える。  
昔だったら笑ったらいつまでも突っかかってきたろうに。  
いい女になったっていうのかもしれないな。  
それともあの子に昔の自分を重ねて見てるのか。  
――――分かりはしない。  
 
「……ふたりはいつまでもいつまでも、なかよくしあわせにくらしました。  
それで終わりだと思ってたんだけどな。ままならないものよね」  
「……そうだな」  
本当に、そうだったらよかった。  
……まだ、半年もたっていないのに。信じられないほどそんな生活が遠くに感じられる。  
二人ではなく、三人だったのが違いといえば違いか。  
未だに涙も出てこない。  
ここが逃げ出した先の安住の地だからなのか、それとも迷い続けてそんな余裕もないのか。  
それも、分からないことの一つだ。  
 
不意に隣から声が一つ。  
ハッピーエンドに納得してたから、それでよかったのに。  
そんな言葉が聞こえたあと、  
「……あの時、あたしが気持ちを伝えてたら。どうなってたのかな」  
小さく小さく、そんな事が聞こえた気がした。  
どういう意味だ? ……馬鹿か、俺は。  
そこまで鈍感じゃない。問いただそうとして、俯いていた頭を上げると、  
「あ、マスター! ピスタチオ頂戴」  
こちらの方を見もせずに、彼女は平然と笑顔を浮かべて注文していた。  
「あんたも何か食べる?」  
目線だけを向け、世話焼き風を吹かせたような口元の笑みで問いかける。  
そこには動揺も喜色もなにもない。  
文字通りのいつも通り。  
気のせいだったのか、どうだったのか。  
あいつを失った俺の幻聴で、代用品を求めていたのか。  
分からないことがもう一つ、増えた。  
 
 
 
マスターのギムレットがいつの間にか置かれている。  
女主人は軽く目を閉じて、ラジオから流れるジャズに浸って動かない。  
グラスを傾け、どちらからともなく飲み終える。  
不意に彼女は一言を告げた。  
「……あたしで手伝えることがあればさ、頼ってもらって構わないわよ。  
親子ともども、どうにもほっとけないからね。アフター5は暇だし」  
 
口元だけの微笑。裏表なんかありゃしない。  
……まったく、こいつは。  
どうしようもないほど、いいやつだ。  
「……そうだな。  
いっそのこと、住み込みで飯を作ってもらいたいくらいだよ」  
ああ、そう思う。これは確かなことだ。  
それに、こいつの飯はうまい。  
だけど、  
「……なーに、馬鹿なこと言ってんの。  
そんなことしたらあの子の周りに心を許せる人がいなくなっちゃうでしょうが。  
家族って拠り所にさえ居場所なくなっちゃうんだから。  
第一ね……」  
一息を入れて、曰く。  
「そんなすぐに大切なことの人忘れるような人間、あたしは大嫌いよ。  
……それに、大切な人の心を踏み躙るなんて出来ない。たとえそこにいなくても、ね」  
 
今なら簡単に、心の隙間に入り込むことも出来るだろうに。  
奪い取って自分のものに出来るだろうに。  
 
――――ああ、こいつは。  
どうしようもなくいいやつで。  
どうしようもなく――――  
「不器用なんだな……」  
 
「……あたしもね、そう思うわよ」  
そう漏らした彼女の顔は、今日一番の満面の――――苦笑だった。  
 
 
 
 
 
店を出る最後に、童顔の女主人の一言が耳に届いた。  
よく通るアルトは、こう言っていた様に思う。  
 
「――――いつか、みんなが幸せになれますように――――」  
 
 

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