以下は実際にあったエピソードに題材をとっているが、フィクションである。
特定の個人・部隊をモデルにしたものではない。
―「鬼のナントカ・蛇のカントカ」。
これは旧海軍でよく使われたフレーズで、極端なまでに厳しい隊風をもつ艦艇・部隊の名前が代入される。
たとえば、戦間期の佐世保鎮守府在籍艦でいえば、「鬼の金剛・蛇の霧島」が有名である。
横須賀では「鬼の山城・蛇の長門、いっそ赤城で首括ろうか」というのもあった。
こうした表現は、けっして誇張ではない。
当時の艦隊勤務の過酷さは、現代人の想像を上回るものがあった。
一度訓練が始まれば、入港上陸・休養の機会がほとんどない「月月火水木金金」の艦隊勤務だ。
重労働と劣悪な居住環境そして古兵による容赦ない「整列」。
じっさい厳しいシゴキに耐えかねて自殺した者もいた。
また某戦艦では、広い艦内のなかで気弱な水兵が行方をくらますという「脱走事件」すら発生した。
戦後、帝国海軍の後継者として生まれた海上自衛隊でも、同じようなフレーズが存在した。
「鬼の8隊・蛇の9隊」「鬼のありあけ・蛇のゆうぐれ」などなどである。
そこでは海軍再建の意気込みもすさまじく、旧海軍顔負けの「火の様な練磨」が行われた。
この伝統は、いわゆる「オランダ坂」護衛艦や貸与艦艇などが退役するにしたがって、ほぼ消滅した。
むろん今なお、艦隊勤務は過酷なものといえよう。
しかしテクノロジーの高度化は、海自の姿を大きく変貌させたといえよう。
砲塔は無人化され、機関の遠隔制御は常識となり、艦長の戦闘配置は艦橋から戦闘情報センターへと移った。
現代ハイテク海軍の常として、現代海自は、「鬼」や「蛇」の伝統を、過去のものとせざるを得なかったのである。
だが、かつての剛直な気風はあまりに鮮烈であった。
「鬼・蛇」は一時代の海自の気風を物語る「伝説」として、いまなお部内では語り継がれている。
また一部の術科教育課程には、かつての「鬼・蛇」の伝統の名残りを、見つけることができよう。
ところで旧海軍にせよ海自にせよ「鬼・蛇」の気風は、何も自然に醸成されたものではなかった。
世界の海軍に共通することだが、フネの本当の主は、オフィサーではなくヘイタイである。
「鬼・蛇」の気風は、いかに司令・艦長が代わっても、
曹士の間では何世代にもわたって受け継がれたのだ。
とはいえ、海のうえでは艦長・司令といった水上指揮官が「専制君主」として君臨する海軍のこと。
各艦艇・部隊の気風は、指揮官のパーソナリティーに大きく影響される。
フネに「鬼」と「蛇」の規律を導入したのは、やはり指揮官であった。
--------------------
時代は安保闘争が先鋭化を極めつつあった昭和のあのころ、とだけ言っておこう。
護衛艦「しぐれ」の新任艦長に着任したのは、季節外れの熱帯低気圧で
ひどく天気の悪い日だった。
前任者の急病により、これまた季節外れの着任だった。
それでも「艦乗りの目端きき」で、乗員は幹部・曹士をとわず、着任のだいぶ前から
新任艦長の詳細な経歴を知っていた。
大田新之助。
海軍兵学校出身の2等海佐で終戦時の階級は海軍大尉。
駆逐艦航海士を振り出しに、掃海艇、根拠地隊、短艇(カッター)隊等を歴任し、海防艦艦長で終戦。
いわゆる「ドサまわり」の連続で、「歴任」の文字が空しくなるほどの、さびしい軍歴だった。
―戦争がなければ、少佐あたりで海軍を追い出されていたクチだろう。
口には出さなかったが、「しぐれ」士官室の面々は皆そう思っていた。
しかも海自での経歴もパッとしないのだ。
まず海上警備隊創設時の選抜から漏れている。
あのとき、海兵出身の有望な旧海軍将校には、あらかた声がかけられたのだが、
大田少佐は無視されていた。
海兵でのハンモックナンバー、すなわち成績順位は、海軍時代のみならず、
海自でも直接キャリアに反映されていた。
指揮官名簿にみる序列の低さは隠しようがなく、
また同期の一選抜は、すでに群司令ポストに手が届いていた。
花形ポストにはまるで縁がなく、
指揮官勤務は、廃艦五分前のオンボロPF(パトロール・フリゲート)で一度やったきり。
―こりゃあ、ダメだ。
海兵出身だけがウリの幹部自衛官ではないかと、士官の誰もが予想していた。
コンプレックスのカタマリのような旧時代の遺物が繰るのではないかと、内心恐れていた。
とはいえ士官は士官である。
品位があるから、ということもあるにはあったが、なにより同輩の「ご注進」をおそれる連中だ。
だから誰もそんなことを口にしない。
逆に、どういうわけか新艦長への、じつに薄っぺらな弁護にまわる者がでてくるのだ。
この傾向は、とりわけ若手の海尉連中によくみられた。
おそらくは新任指揮官への不安と好奇心が、彼らを駆り立てるのだろう。
「占領中は、アメちゃんの下請けでLSTの船長をやってたってことですから、海上勤務は大ベテランでしょう。」
「海防艦の艦長ということは、船団護衛の大先輩ということになるでしょう。」
「海大はアレでしたが、いちおうCGS(指揮幕僚課程)はでておられる。
もっとも陸自のCGSですが…」
そう大田2佐は、海自の創設期には立ち会っていないのである。
あの伝説の航路啓開業務にも携わったことがない。
Y委員会の選抜に漏れたあと、採用してくれたのは警察予備隊であった。
彼はいわゆる「陸転組」で、海自に入隊してからまだ数年しかたっていないのだ。
陸では特科幹部としての道を歩んでいたのだが、この道も平坦ではなかった。
大田2佐がCGSに進めたのは、ひとえに陸自の中級幹部不足の結果にほかならなかったのである。
ちなみにCGS時代の図上演習で、10榴を、山中湖湖底に配置したエピソードは、
ひじょうに有名だった。
このネタをダシにして、陸幕が海幕に「大田2佐お引取」を要請した、とも言われている。
ただし、幕云々は後につくられた「神話」であろう。
当時の海自は、将来的拡張に備えていたから、即使える旧海軍士官を陸から何人も引き取っていた。
だから大田2佐だけが、特別出来が悪くて、陸から追い出されたというわけではないだろう。
もっとも陸軍砲兵将校としての大田三等陸佐の将来が暗かったであろうことは、想像に易い。
若手海尉たちの見え透いたお上手話にケリをつけたのは、先任士官の砲雷長だった。
「ともあれ、艦長の意欲は満々のはずだよ。
何といっても、重迫撃砲大隊長の内示を蹴って、PFの艦長になった方だ。
107ミリ砲をすてて、76ミリの豆鉄砲をとったんだ。
よほどの覚悟をきめておられるのだろう。」
何だかごまかされたような言い方だったが、これでとりあえず艦長の話はうちきり。
士官室の話題は他へ移っていった。
これは大田2佐着任の前日の話である。