目の前にはへばりつくような暗闇が広がっていた。  
 ねっとりと粘度を持っているかのような濃密な闇を僅かに切り取るのは一つのランタン。  
 それはこの闇に閉ざされた空間の中にあってただ一つその支配を振り払い、人の心安らげる場所を作り出していた。  
 闇に浮かぶ光の球は、ゆっくりと移動する。  
 移動するに従い、縦長のランタンの上部と下部に設けられた空気取り入れ口の隙間から中へと風が入り込み、中に灯る炎をゆらりと揺らめかせる。  
 不安を掻き立てるようにゆらゆらと揺れ動く、頼り無い灯りに浮かび上がるのは、まっすぐに続く一本の通路だった。  
 通路の幅も高さも、大人二人が手を繋いで横に大きく腕を延ばせば壁に指先が触れる程度。およそ数メートル。  
 無愛想な灰色をした壁や床には継ぎ目一つひび割れ一つ無く、闇の奥へと続いている。  
 色合いはのっぺりとしていて、まるでムラが無い。  
 壁と床面の角度がキッチリ揃えられている精巧な作りや、石ともレンガともつかない壁の素材から明らかに人造物、それも優れた建築技術によって建てられた物と知れる。  
 だが、その主はもういない。  
 出所不明の古文書やら怪しい口伝の書き写しやら何やらと色々と掻き集めて調べた結果によれば、この建物が建てられたのは第二王朝期の末期も末期らしい。  
 その第二王朝期よりもさらに時を遡り、神代と言われる遥かな古代。今では夜空に煌くだけの星々すらも支配して、地に海に空にと栄えたと謳われるのが神権文明。  
 その神権文明が遺した超技術のごく部分的なサルベージと復活に成功した華やかなりし文明が、今で言うハー・アハ・ア第二王朝。そして、彼らもその繁栄を支えた技術を御しきれずに自壊の道をたどった。  
 それが今からおよそ五百年程前。  
 つまり、ここは既に遺跡なのである。  
 ランタンを持つ男が一歩足を進めるごとに、床にうっすらと積もった微細な埃が煙のように音も無く湧き上がる。  
 おそらくは数百年ぶりであろう訪問者によって、この遺跡の静寂と安寧は破られた。  
 ランタンの明かりを受けて、それはきらきらと白く輝くヴェールとなって視界を薄く覆っていく。幻想的な光景だが、その真っ只中にいる人間はとてもそんな感傷を抱いてはいられない。  
 簡単なマスク代わりにと口元を布で覆ってなお、その埃はほんの僅かな隙間から口や鼻へと侵入し、時ならぬ闖入者を咽させた。  
 ここはお前のような不仕付けな人間が来るような場所ではない。  
 まるで男に纏わりつく空気その物が、闖入者である男を拒むかのようだ。  
 光を乱反射し視界をふさぐ白いカーテンと化した埃を辺りの闇と一緒に払おうとするかのように、男は手に持つ年季の入ったランタンを掲げた。  
 その光に浮かび上がるのは、灰色の壁や天井ばかり。  
 男はランタンを持つのとは反対側の、長い棒を持った手の人差し指ですっと壁をなぞった。  
 僅かに冷たく、ざらりとした感触。  
 指先を見やれば、壁と同色をした埃が少しだけ付着している。今では望めないほどの精巧な技術による建造物ではあるけれど、遺跡として見れば金のかかっている訳でも無し。トラップの気配がある訳でも無し。  
「やれやれ、今回は外れかな」  
 ランタンを携えた男、ディーターは一人呟いた。  
 彼の発した言葉には明らかに落胆の色が窺えた。  
 一人ごちた彼は、闇の奥を見透かそうとするように目を眇め、再び慎重に歩を進めた。  
 
 今回、彼のやっている事は遺跡荒し。つまりは盗人である。もっとも、この行為も彼の言葉を借りれば、所有管理者不明の資材の有効活用及びそれらによる経済活動の活性化、となる。  
 所有者が分からぬからと言って、勝手に自分の物にして良いと言うような法はどこにも無い。  
 だが、それはここ辺境に於いては話は別である。法の網は都市部に比べて荒く大雑把で、時にその網の目は容易に形を変える。そしてディーターが今いるような遺跡の中にまで法の番人の目は及ばない。  
 そんな法律すれすれの行為に手を染めて一攫千金を夢見る者達。ディーターのような人間は様々な単語で呼ばれていた。  
 勇者候補、夢追い人、町の便利屋、後腐れの無い荒事屋、傭兵、ゴロツキもどき、チンピラ。  
 町に住む普通の人々が時に眉を顰め、時に瞳を輝かしながら言うそれら様々な称号を一くくりにして呼ぶ単語がある。  
 すなわち探索者、と。  
 それが彼の職業だった。  
 真っ当な職につかず、昼間から探索者の群れる酒場に入り浸り、一攫千金を狙い、あの手この手を駆使し遺跡に侵入しては様々な先人の遺産を漁り、生計を立てる。  
 ディーターは典型的な遺跡漁りを生業とする探索者だった。もっとも彼は食うのに困れば、犯罪的でなければ何でもしたが。  
 
 ディーターが集めた情報をまとめると、ここは第二王朝期に当時の軍隊が作った施設らしかった。  
 慣れない図書館に通い詰めたり学者くずれの研究家に取り入ったりと涙ぐましい努力もあって、今回の仕事ではそれなりに役に立つ情報を集める事が出来た。  
 その情報の中には、そこそこの精度ではあるが目的地の位置や、どんな場所なのかと言う具体的な事も含まれていた。彼の普段の仕事からすると、かなりツイている部類だ。  
 その施設があるのは、海洋サイズの湿原である大湿海にポツンと浮かぶ、大人の足でゆっくりと十五分も歩けば一周出来てしまうような小島。  
 当然ながら島のサイズからして大規模な人数の駐屯する基地である可能性は限り無く低く、監視所か灯台のような航法支援や緊急時の避難などを目的とした施設だったのだろうとディーターは推測した。  
 高値で売れる当時の兵器や陸船<ランドシップ>そのもの、浮遊器のエンジンや純正品の燃料パックが山と発見される確率は非常に低いと見なさざるを得ない。  
 それでも当時の機械とて万能ではなかった。万が一の時の為に補給の備蓄や、突発的な機械の故障に備えて部品のストックが多少なりともされている。その手の事には病的なまでに神経質な軍と言う組織の施設であるならば、なおさら。  
 その筈である。  
 そうであって欲しい。  
 そうでないと、あやふやな資料から頼り無い推論を組み立てて賭けに出たディーターとしてはとても困った事になる。  
 そうして一週間以上を要した航海の末、辿り着いた小島には目立った人工物の痕跡は無かった。  
 にやにやと笑ったり、あるいは囃したてる陸船のクルー達を尻目に、ディーターは小島の地面を這いずり回って半日がかりで入り口を探し当てた。  
 彼の目指した施設は、島の表層には無かったのだ。  
 
 愛用の探索用装備一揃いと、推測される遺跡のサイズから長期には及ばないと判断して最低限の食料と水だけをディーターはバックパックに詰めた。  
 彼のような遺跡に赴く探索者達は待ち受ける危険に応じてチームを組む習慣があるけれど、今回は彼一人で行く気だった。  
 元々、そんなに規模が大きく無いのは分かっていたし、規模が小さいと言う事は往々にして得られる報酬も少なくなる。おそらくは少ないであろうそれを、さらに頭割りしたならば得られる物は雀の涙。  
 ディーターはそれを嫌った。  
 危険度と、得られそうな報酬プラス自分自身の実力プラス自分の欲望プラス経費諸々を、彼の頭の中にある時たま公平さに欠けるあまり精度の良くない秤にかけた。  
 結果、彼が自分一人でこのヤマに挑む事に決めるまでにかかった時間、僅か数秒。  
 一人なので、あまり大量の荷物は邪魔になるだけだ。  
 大湿海のきつい陽射しの下でさえ、ぽっかりと黒く、地の底まで続くかと思わせる遺跡の入り口。  
 その前でディーターを見送る陸船のクルーに、  
「何があっても二日したら一旦戻る。五日経っても俺が戻らなかったら、好きにしてくれ」  
 そんな言葉を残し、彼は遺跡に潜った。  
 
 きゅ、きゅ、と微かな音と共にブーツの底が床を踏みしめる。  
 炎を絞られたランタンの薄明かりに浮かび上がるディーターの姿は、典型的な探索者のそれだった。  
 右手に持つのは二メートルちょっとの長さの木製の棒。先端と石突は薄く叩き伸ばした金属で覆われて補強されている。一見すると武術で使われる棍や杖にも見えるが、戦闘用の長杖ではない。  
 先端からは金属で出来た鉤爪状のフックが横方向に突き出していて、何かを引っ掛けられるような作りになっている。  
 このような探索行でよく用いられる突っつき棒である。  
 歩く数歩先を突ついて落とし穴を探ったり、先端のフックで何かを手繰り寄せたり、徒歩行軍では杖となって負担を和らげたり、もしもの時には応急の武器にもなる。  
 一本あると何かと便利な探索者の友、非常に汎用性に優れた道具である。  
 なんと言っても安いのが最大の魅力だ。  
 気軽にほいほいと投げ捨てられるのは、大きなメリットと言える。  
 探索者というと実態を知らない人間からは、大仰な鎧兜に銃や剣で身を固めて魔物テンコ盛り一番奥底で何故か高笑いするボス付きのダンジョンに殴り込むのがお仕事、と思われがちだが実際は違う。  
 ディーターは、彼からして見ればそんな錘のような装備は身に付けた事すらなかった。  
 唯一、彼の着る服の中で防具と言えそうな物は、表面に牛皮を当てたキルティングジャケット。  
 おそらくは浮遊機械化騎兵か、翔兵か。いかにも横流し品らしく元の持ち主は不明だったが、古着屋から買い叩いた軍の放出品だ。  
 どちらの兵科も軽装を旨とし機動力一本槍。  
 防御力よりも、動きやすさと軽さ、静粛性を重視したディーターには打ってつけの装備である。堅固な鎧は当然ながら重量がかさむ。罠を避けて飛びすさったりする、そう言うほんの一瞬の遅れが生死につながる職業であるだけに、身軽にしておくのは最低条件であった。  
 糧食を始めとして色々と詰まったバックパックにしても、空いたスペースにはボロ布が詰め込まれ、音を殺す工夫がなされている。背負う為のストラップ部分には細工が施されており、何かあれば一挙動で外して投げ捨てられるようにしてあるのだ。  
 その辺は専門家らしく徹底しており、彼のブーツも服も、動き易さと音を立てない事を重視して選ばれていた。  
 
 唯一、腰回りの装備だけが彼の歩みに合わせてカチャカチャと鳴り続ける。もっとも、それだって静かな遺跡の中だからこそ聞こえるような小さい音ではあったが。  
 音を立てているのは、油が染み込み黒ずんだ皮製の幅広ベルト。ズボンを締めるベルトとは別に、それをディーターはズボンの上から腰に巻いていた。  
 腰の後ろには、皮製の蓋が閉まっているので外見からでは中に何が入っているのかは分からないが、どれも膨らんだパウチがずらりと並んでベルトから釣り下げられている。  
 どうやら工員が良く使うタイプの工具入れ用ベルトパウチを改造した物のようだ。  
 パウチが並んだベルトの右腰には、小さなホルスター。  
 中には縦にバレルが二本並んだ小振りの二連発ダーツピストルが収められている。  
 装填されているダーツは大人の手の平を広げたほどの長さで、バレルもそれより少し長い程度のスナブノーズ。ダーツの弾芯には人の赤ん坊ほどもある肉食大蜂の軽くて鋭い針を加工した物が使われている。  
 銃口とは反対側のバレル端からはボルトが突き出ているが、それらは後退しておらず、ダーツを撃ち出す為に内部に仕込まれた強力な発条は巻き上げられていない事を示していた。  
 簡単なリング状のトリガーガードを持つ引金にも安全装置がかかったままで、探索中に万が一にでも暴発する事の無いような注意が払われていた。  
 短いバレルのピストルでは、まともに当たる距離はせいぜい人が投げるよりはマシと言った程度と短いし、威力も銃に比べれば大した事はない。  
 それでも、ディーターはこの小さな相棒が気に入っていた。  
 彼のように手元の作業が多い人間にとって、取り回し辛い長銃は邪魔なだけ。短銃にしたところで点火機構を備えたピストルはずしりと重く、いきなり襲われた時に即座に反応出来ない。前装式ピストルに悠長に弾丸を篭めているのを待っていてくれるほど、魔物達は優しくない。  
 どちらにしても、一発撃つたびにえらくうるさい銃の射撃音は狭い空間では自分の聴覚を麻痺させるだけだし、液体炸薬は大量のガスとなって辺りに撒き散らされて視界を奪う。  
 さらに発砲煙が持つ独特のきな臭ささに鼻がむずむずするのが、ディーターはどうにも好きになれなかった。  
 探索者は遺跡漁り中に限らず、魔物や、時には競合する同業者など様々な相手から襲われる時がある。そんな襲ったり襲われたりの血生臭い商売用としては、一回の装填で撃てる弾数が二発だったり、飛距離も威力も少ない武器は何とも心細く見える。  
 が、ディーターはそんな些細な事は気にしていなかった。  
 彼の仕事は先陣切って戦う事ではないからだ。  
 剣と盾を持ってお行儀良くチャンチャンバラバラやるような正攻法はディーターの流儀ではない。  
 バックパックには安物の小剣が鞘ごと括りつけられているが、それも人ではなく藪を切り開いたりシャベル代わりにするのが目的。  
 仕事は静かにスマートに運ぶのがディーターの信条であり、彼はあまり血を見るのが好きではなかった。  
 ダーツピストルも小剣も出番が無ければ、それに越した事は無い。  
 彼はそう願っていた。  
 
 くきゅぃっと奥歯に嫌な感じの残る音を立てて、灰色の壁面に赤い線が刻まれる。  
 曲がり角ごとに、パウチの一つからチョークを取り出しては印を残していく。  
 赤いチョークをパウチに戻すディーターの心中は暗かった。  
 既にいくつかの部屋を調べ終えたが、どの部屋にも目ぼしい物は存在しなかった。時たまあるとすれば、元は家具だった残骸や散らばる紙切ればかり。  
 それらは抗いきれない時の流れの前に、残らず朽ち果てていた。床にわだかまる屑山と化した棚や、半ば以上までが崩れた机やコンテナなどはトラップの心配などしないで漁れたが、いずれも収穫無し。  
 書類と思しき紙切れ達は、ディーターの身体が動く時に起こす風とも呼べないような空気の流れを受けただけで、彼の目前で砂のような粉となって宙を舞う埃と一緒くたになった。  
 人のいた名残はあれど、獲物のある気配は微塵も無い。  
 最悪の予想が、ちらりと頭を掠める。  
 気が付けば、外でお宝と、ついでにディーターの帰りを待っているであろう船屋への言い訳を考え始めている自分がいた。  
 ディーターは一枚のドアの前で足を止めた。  
 薄い軽合金製らしいドア。  
 今までと同様に、ディーターは用心深くドアを調べ始めた。  
 さっきまでの陰鬱な気分など欠片も無く吹き飛んでいる。その眼は真剣そのもので、ふざけた所など全く無い。探索者にとってこのような作業は、その一回一回が命をかけた勝負なのだ。  
 いきなりドアノブに手をかけるような愚かな真似はしない。  
 ドア越しに中の気配を窺う。中に何かが潜んでいるような気配は無し。  
 ドアの付いている壁回り、ドアノブ周辺、錠前周り、鍵穴、と素早く手馴れた様子で調べていく。  
 トラップは無し。鍵も無し。  
 実に無用心でまことに結構。  
 
 ぎいい、と腐りかけた蝶番が軋んだ音を立て、ディーターの前に新たな闇が口を開けた。  
 
 ダレカキタ。  
 真っ暗闇の中から心が泡みたいにボコリと膨れあがる。  
 ごぼりとカラダを起こす。  
 ココハドコ?  
 ワカラない。  
 アたしはだれ?  
 わからない。  
 でも気にならない。  
 ふわぁぁと長い長い欠伸がでる。  
 自分のやらなきゃいけない事。  
 分かる。  
 どうして、そうしなければいけないんだっけ?  
 分からない。  
 でも気にならない。気にしない。  
 自分のやる事。  
 ダレカをがおーって脅かす事。  
 分かってる。  
 それで十分。  
 がんばるぞぉ。  
 
 開いた戸口から、ひょいとディーターのまだ年若い顔とランタンが覗く。  
 この部屋の主が去ってから、どれほどの年月が立っているのだろうか。  
 室内にある全ての物にうっすらと埃が積もっていた。  
 それは、天から降る雪が地表にある物全てを平等に覆い隠すのに似ていた。もっとも部屋の中にある物全てと言っても、小さな箱が一つきりしかなかったのだが。  
 資材を収めるようなコンテナでは無く、あくまで箱。  
 寸法もさして大きく無い。   
 大きめに見積もっても、横幅がディーターの肘から手首まで程度。縦も同じくらい。高さはそれよりも少し短い程度。全体が上下に分かれた二つのパーツで構成され、上側は蓋になっているようだ。  
 見る見るうちにディーターの表情に陰が差す。その顔は、これっぽっちかよと彼の心情を如実に物語っていた。  
 それでも、朽ちていないだけ他より大分マシだった。  
 最悪、何百年かに渡る時の流れにも耐えた丈夫な箱だけを売り払う手もある。  
 欲しいと言う奇特な御仁がいるかもしれない。いてくれたらいいなぁ。  
(やばいな。こんなので燃料代出るのかよ…)  
 ディーターは腰の後ろに並ぶパウチの一つを開け、その中に無造作に手を突っ込んだ。  
 勝手知ったる何とやら。  
 辺りを油断無く窺う視線は手先に向けられる事なく、指は器用に求める物を探し出す。  
 パウチから出てきた手には小さな楔が数本、握られている。  
 それらを、開けたドアが閉じないように扉と壁の隙間に差し込んで、開きっぱなしにしておく。  
 これで中に入った途端に閉じ込められる心配は無くなった。  
 壁に半身を隠して再び、ひょいと覗き込む。部屋の中で何かあればいつでも逃げられるような体勢にしておくのは忘れない。入った途端に、室内で爆発が起こったりするのは勘弁だ。  
「他にトラップはごっざいませっんか〜っと」  
 自分の言葉に調子はずれのリズムをつけながら呟いて、ディーターは右手に持つ突っつき棒を室内へと差し伸ばした。  
 
 なにか固いので軽くつっつかれた。  
 んっ、と声が出そうになる。  
 いきなりだからちょっと驚いたけど我慢する。  
 と、思ったら押された。  
 ズズッと動いた。  
 びっくりして今度こそ声が出そうになったけど、慌てて手で口を塞いだ。  
 驚かすのは自分の方なのに。  
 驚かされた。  
 何されてるんだろう。  
 カラダに触れる空気は分かる。  
 あたしのカラダはビンカンだから。  
 ダレカが近くにいるのは分かる。  
 カラダの上を流れる空気が教えてくれる。  
 でも、見えない。見たらきっとバレちゃう。  
 こんな時、どうすればいいのかな?  
 知らない。  
 わからない。  
 誰も教えてくれない。  
 上手くやれるのかな。  
 がんばるぞ。  
 でも、まだダメ。  
 ダレカがもっと近くに、自分の前まで来てくれないとダメ。  
 カラダの奥でドキドキが加速する。  
 
「よっと…」  
 トントンと床を強めに叩きながら、ディーターは突っつき棒を引き戻した。  
 箱に触った途端にドカンとくるような罠も無し。  
 床がスイッチになっていて、重量の変化から侵入者を感知するような罠も無し。  
 踏み込んだら床がパカッと開いて、穴の底に一直線は嫌だ。  
(これだけ簡単だと、逆に怖いよなぁ…)  
 どれだけ用心に用心を重ねても、その時置かれた状況の全てが罠に思える時もある。  
 職業病で仕方ないとは言え、偏執狂の域まで届きそうなそんな発想が即座に出てくる自分が可笑しくなる。  
 ディーターは、その人懐っこい顔に困ったような苦笑いを浮かべながら、部屋に踏み込んだ。  
 いきなり獲物に飛びつくような、はしたない真似はしない。  
 一にも二にも用心しながら観察。筋肉や腕っ節がディーターの武器ではない。優れた五感と回転数の早い脳味噌こそが、彼の最大にして唯一の武器だ。  
 箱の正面には、箱のサイズにあった慎ましい錠前と縦長の鍵穴が一つ。  
 それ以外に装飾らしい物はなく、味も素っ気も無い。  
 身を屈めて、視点を低くする。  
 錠前を正面から見ると、円状にスリットが入り、中と外とに別れている。その円の内側パーツに鍵を差し込むスロットがある。  
 ディーターの見た感じ、現在でも広く使われているシリンダー錠である。  
 もう遥かな昔の事ではあるけれど、この錠前を作ったのも、箱を使っていたのも今と同じ人間である。どんなに身の回りに今から見れば超技術が溢れていようが、根本的な思考パターンはさして変わらない。必要とされる箇所に、必要十分な物を使う。  
 大して用もない物置にわざわざ最高級の錠前と罠を施すのはアホだけだ。シンプルで間違いのない構造を持つこの種の錠前は、時代を問わず良く見られた。  
 シリンダー錠は外筒と内筒の二つの筒を組み合わせた形状の錠前だ。外筒はこの場合は箱に固定され、内筒に鍵を差し込んで回し、開錠する。  
 錠の中には内筒が回るのを遮る為のピンがたいていは複数本設置されている。  
 このピンはそれぞれが一定の押し込み具合によって内筒と外筒の接触面まで可動し、全てのピンが接触面まで押し上げられて初めて内筒を回転させられ、そして内筒が回転する事によって錠前は開く構造になっている。  
 このピンの本数によって、シリンダー錠のガードの固さが決まると言える。  
 
「碌なモン入ってそうにねぇけどな……ま、一応開けとくか」  
 ディーターが露骨にがっかりした様子で溜め息を吐く。  
 ピンの本数が増えれば、当然ながら錠前の奥行きも要する。  
 箱のサイズからすると奥行きを取れず、さしてガードの固い錠はついていそうも無かった。これを置いていった人間の思考が正常ならば、それはつまり、中身の価値に比例する。  
 中身は小さくても価値の高い物、例えば宝石の類が厳重な罠と錠前に守られて眠りについている可能性もあったが、そうすると今度は元軍の施設内に宝石を納めた箱が転がっていると言う意味の分からない事態になる。  
 とは言え、そこにある物を回収せずして何が探索者か。  
 見す見す遺物を見過ごすなぞ、探索者としての矜持が許さない。  
 もっとも、価値が大きかろうが小さかろうがディーターには掛かった経費分の金が必要だというとても切羽詰った理由もあったけれども。  
 
 ディーターの指が先ほどとはまた別のパウチに伸ばされた。  
 ガンマンのクイックドローのように閃いて戻ってきた指先には、まるで魔法でも使ったかのように数々の品が握られていた。  
 耳掻きのように先端が折れ曲がった細い金属棒が数本。  
 薄く棒状に引き延ばされた銅の板。  
 小さな棒ヤスリ。  
 それに半ばまで琥珀色の油で満たされた小さなガラス瓶。  
 どれもディーター愛用の開錠道具だ。  
 それらを手の中で回すようにして弄ぶ。ピックと小瓶がカチャカチャと音を立てて、手の内で踊る。  
 ディーターは箱の前に腰を降ろし、床に道具達を整列させた。  
(まずは…)  
 と、頭の中で手順を組み立て、最初にガラスの小瓶とピックに手を伸ばした。  
 
 いいか、坊主。錠前ってのは女と同じだ。  
 ディーターの脳裏に、彼の師匠の言葉が蘇る。何十回、何百回と同じ台詞を聞いた。懐かしいダミ声。  
 身持ちの固いイイ女を前にして抜いていい手なんざ一ツも無ぇんだ。  
 相手の性格を読みに読め。相手がして欲しいと思ってる事に誠心誠意応えて、心の閂を緩ませろ。回りくどくっても一つ一つ手順を踏んでいけ。丁寧に丁寧に、だ。  
 そうすりゃあ錠前も女も、必ず坊主にお宝を拝ませてくれる  
 焦っちゃいけねぇ。がっついてもいけねぇ。  
 鼻息荒くして猪みてぇに突っかかって来る野郎を嬉しがる女なんざいねぇ。横っ面にビンタ喰らって痛え思いをするのがオチさ。  
 安酒を片手に熟柿の臭いをさせながら、師匠は爛れた火傷跡の残る自分の頬を突付いておどけて見せたものだ。  
 それは師匠が若く現役であった頃、焦ったが故に罠の解除に失敗し、強酸を浴びた跡だった。  
 
 彼は毎度毎度脳裏に蘇る師匠の言葉に、今回も従った。  
 まずは相手のガードを緩め、触れても引っぱたかれないようにする。外堀から埋めていくのだ。そして、埋めるにしても下準備がいる。  
 永く使われていない錠前は大抵、硬く固着してしまっている。湿気と細かい埃が手を組むと、どんな隙間にでも入り込む性質の悪い接着剤となるのだ。  
 そうなっていると場所が狭いだけあって歯が立たない。下手を打つと二度と鍵が開けないようにしてしまう場合があるし、道具も傷めてしまう。  
 まずは滑りを良くしておく必要がある。  
 ディーターは狙いを定め、小瓶を傾けた。  
 瓶の中身、澄んだ琥珀色をした潤滑油が沿わされたピックを伝い、彼の狙った場所に向かって進む。  
 とろみを帯びた液体がピックの先端から滴り、鍵穴の上辺りに落ちる。触れば指にこびり付く感じで僅かに粘る液体は、その粘り気でもって箱の表面を伝い流れて錠前の僅かな隙間にも潜り込んで行く。  
「……ぅ…ん…」  
「……」  
 ディーターの動きが止まり、表情が険しくなった。  
 
 箱を開錠する姿勢はそのままに、眉間に皺を寄せ、油断無く辺りの気配を窺う。  
 そろそろと、作業を止めた左手はそのままにして、右腰のホルスターに吊ったダーツピストルへと右手が伸びる。  
 発見し切れなかった何がしかのトラップが発動したのか、隠されたドアから魔物が室内へと雪崩れ込むタイミングを計っているのか。  
 静まり返った室内に、ランタンの燃えるコーッという音が嫌に大きく響く。  
「気のせい……か?」  
 一人呟き、すぅはぁと大きく深呼吸をした。  
 今のは己の緊張が生み出した幻聴かもしれない。  
 深呼吸をしても肺を満たすのは埃っぽい空気であって、とても爽やかとは言い難いがそれでも心を落ち着かせる効果はある。  
 ゆっくりと時間をかけて真綿で首を絞められるような感覚。  
 探索者であるディーターにとって慣れた感覚ではあったが、いつどこからやってくるのか、そもそもいるのかどうかさえあやふやな敵を探ると言うのは神経を参らせ、集中力を削り取る。そうして、散漫になった注意力は容易に探索者を死へと誘う。  
 恐怖とも呼ばれるそれを少しでも柔らげ、コントロールする方法を身につけているかどうかで、探索者の寿命は変わる。  
 やはり、闇の中は人の住む場所ではないのか、とディーターは思った。  
 そんな柄にも無い考えを振り払い、ついでにこんな時にそんな事を考える自分に苦笑した。  
 今は思索に浸る時ではない。そんな事は日がな一日本を読んではブツブツ言っているような学者だか賢者だか言う連中にでも任せておけばいい。そんな事よりも、ここで金になりそうな物を見つけなければ、飯の種が無くなる。そちらの方がよほど重大だ。  
 だいたいにして、この遺跡に来るまでだってタダでは無いのだ。  
 この大湿海の奥地へと無補給で長駆進出できるのは陸船だけで、ディーターは小なりとは言え、それを一隻チャーターしている。  
 顔馴染みの船屋ではあったが、自分が手ぶらで戻った時、彼らがどうやって残る経費を回収しようとするかはあまり考えたくない。  
「さてと…ちゃっちゃと開けますか」  
 考えをわざと声に出して気分を入れ替える。  
 そうして無理矢理に自分に何でもないんだと言い聞かせて、再び作業へと戻った。  
 
 ピックの先を小瓶に浸し、先端の曲がった部分にたっぷりと油を乗せる。  
 錠前の縁を、曲がった部分の腹で軽く撫ぜるようにして探る。  
 錠の周囲に小さな穴があり、そこから毒針が飛んで来ると言うのはよくある類のトラップだ。その手の罠は小さすぎて解除は難しいので、ありそうな場所に振動を与えてさっさと作動させてしまうに限る。  
「やぁん…」  
 気のせいではなかった。  
 が、その声の源にディーターは疑問をもった。ごく間近で聞こえたようだが、同時に妙にくぐもってもいた。  
 その意味する所の率直な可能性に思い至ったが、反面、そんな馬鹿な事があってたまるかと冷笑がそれを否定する。  
 とは言え、ここで首を捻って悩んでもいても仕方が無い。どちらにしろ、こいつを開けなければ中身も拝めない。  
 疑いを晴らすべく、もう一度同じように、今度は円を描いている外筒と内筒の境界線をゆっくりとなぞった。  
「あぁんっ!」  
 今度こそ、疑いようが無かった。  
 この声の主は、どうやら本当に箱の中にいるらしい。  
 しかも、この可愛らしい声はどうだ。  
 鈴を転がすような、と言う形容がぴったり。  
 それも遺跡の中でしょっちゅう聞くような不吉で厄介事をたんまりと携えた音ではない。それとは真逆。  
 若々しさに満ちた、甘く妖しい喘ぎ。  
 ディーターの脳の奥の方から熱い塊がじわじわとせり上がって来る。  
 延髄から目の奥にかけてと下半身のある一箇所が熱くなる感覚に彼は慌てた。それが何であるか、確実に身に覚えがあった。男なら誰だってあるだろう。しかし、こんな訳の分からない状況でソイツに流されるのは幾らなんでもまず過ぎる。  
 だが如何せん、彼は若かった。そして、この特異なシチュエーションも相まって、彼の興奮はぐんぐん加速する。  
 熱い塊を押し止めようと必死の説得工作を試みる冷静さの欠片も、状況に対して警告を発する理性もろともあっさりと押し流された。  
 自然、ディーターの鼻息が荒くなり始める。  
 先ほどまではプロフェッショナルのそれだった目付きもすっかり血走って、もしもここが街中だったらあっという間に衛兵を呼ばれていただろう。  
 まるで牛のように荒く呼吸を繰り返す鼻息に反して、ピックだけはじっくりと這い回り続けた。  
 ピックに絡まる油を塗りつけた後で、くるくると渦を作るようにして回し、馴染ませる。  
「あっ!んっ……やぁ…く…ぅ!ゃんっ!」  
 聞こえてくる声は明らかに快感に塗れていた。  
 たっぷりと潤ったのを見計らって、ディーターの手が動く。狙うのは堅く閉ざされた穴。  
 まだ深くは入れない。ごく浅く。  
 ゆっくりと差し入れる。  
 両のピックが進むに従って中に残っていた空気が押し出さる。トロトロに塗れた液が小さな泡を作り、大きくなり、それも弾けて消えた。  
 ぷちゅっと言う音が、ディーターの鼓膜を震わせる。  
 挿れた速度に倍する時間をかけて、ピックが引き戻される。  
 折れ曲がった先端がカリカリカリカリとシリンダー内壁をゆっくりと引っ掻きながら、外を目指す。  
「ひぃ…やぁっ!あっ!あ!は、あぁぁぁ……」  
 引き出されたばかりのピックを、すぐ側で手元を照らし続けるランタンの光に、ディーターはかざした。  
 ディーター愛用の道具は彼が最初に塗りつけた油以外の何がしかの液体に塗れ、オレンジ色の光を反射してテラテラと淫猥に輝いていた。  
 
 ごくり。  
 響く筈など無いのだけれど、ディーターにはその音が静かな室内にやけに大きく響いた気がした。  
 彼は生唾を飲み込みながら右手のピックを手の中で持ち替える。細い棒を手の平に握りこみ親指でホールドするようにして、指先をフリーにさせた。  
 これは罠だ。  
 罠に違いない。  
 ピックなんかじゃなくって素肌で触ってより詳しく、もっときっちりしっかり調べなければ。  
 だって、そうだろう?こいつは解除しなけりゃいけない危険な罠なんだから。  
 つい、と人差し指が箱の表面をかすめるようにしてなぞる。  
「ひゃう!」  
 箱の中からする声は、先ほどよりかは少し落ち着いた感じになっていた。  
 錠前部分よりかは感度が鈍いのだろう。  
 が、ディーターは箱の主を休ませる事など許さなかった。  
 ストリートを根城としていた少年時代に娼館のお姉様方から仕込まれた指技を振るって、ディーターは愛撫めいた触診を続けていく。  
 つい、つい、と指先が蠢くリズムに従順に反応して、  
「ひゃん!はぁん!」  
 声も艶めかしく踊る。  
 その反応に気を良くしたのか、ディーターの鼻息が更に荒くなる。  
 指が動きを変えた。今までの指の腹でなぞるような動きから、指を立てて爪先で触れるか触れないかの微妙なタッチへ。  
 そのまま指は、未だに左のピックが突っ込まれ放しになっている鍵穴を目指して妖しく移動を開始した。  
 寝台の上で女の柔肌の上を這わせる時と同じくらい慎重に、同じくらいかそれ以上なまでに膨らんだ熱情を持って、指が人肌に熱を持ち始めた箱の表面を撫でまわす。  
 大きく道草を食いながらも指が目指すのは鍵穴。  
 小さな箱に相応しい、小さな口を開けている鍵穴。  
 鍵穴の周りは、花弁を模った彫金を施しただけの薄い金属パーツでシンプルに飾られている。  
 そこへ指が触れた途端、  
「ひゃあぁぁん!!」  
 一際激しい反応と共に鍵穴とシリンダーの継ぎ目からとろりと液体が溢れ出た。  
 ディーターがその指先を小刻みに振動させながら触れて、その粘液を指先全体に纏わせるようにすると、甲高い声と一緒にさらにトロトロと穴奥から液体が零れでる。  
 そこから微かに香るのは、甘酸っぱいような獣臭のような、曰く言いがたい独特の香り。  
 僅かに白く濁り、サラサラしてはいるが粘性を持った不思議な液体が指に絡みつく。  
 それが何であるか、彼には確かに見覚えと嗅ぎ覚えがあった。  
 しかし今も指先に絡みついている暖かい汁が本当にソレであるとするならば、もう一つ記憶のピースと合致させるべき感覚が残っている。  
 すなわち、味覚。  
 そこまでする必要など欠片もないのだが、  
「こりゃ、毒かな?まだ分かんねーなー。もっときちんと調べないとなぁ…」  
 うわ言のようにブツブツと発せられる言葉で、誰を納得させようと言うのか。  
 もう何をしようとしているのか、既に本人にも分かっていない。  
 まるで貴人か聖なる物に対して傅くかのように、ディーターは箱の前に膝まづき、頭を垂れた。  
 
 なんだろう、この感じ。  
 背中がぞわぞわってする。  
 目の奥がチカチカする。  
 なんだろう。  
 知らない感触。  
 また来た。  
 身体が勝手に震えちゃう。  
 身を捩る。逃げられる訳ないのに。あたしの身体とくっついてるから。  
 自分の身体が自分のじゃないみたい。  
 けど、イヤじゃない。  
 口元を手で押さえる。  
 もうそれも形だけ。塞き止めてなんか、いない。  
 あふれちゃう。  
 あふれちゃう。  
 喉の奥から。  
 声があふれちゃう。  
 カラダの奥から。  
 ナニカがあふれちゃう。  
 
 盛り上がった股間が突っ張ってしゃがみ辛いが、もうそんな事すら気にならなかった。一週間以上の船旅の最中に全く発散できずに溜まっていた若い欲望は、あっさりと彼の思考をねじ伏せた。  
 顎が床に触れるくらいまで頭を下がり、ゆっくりと舌が伸ばされる。  
 唾液に塗れた先端が、ぴと、と触れる。  
 声の反応は劇的だった。  
「は!あぁぁぁん!」  
 そして、その嬌声はディーターの頭に上っていた血をさらに沸騰させるくらい可愛らしく艶っぽかった。  
 おずおずと言った感じで差し伸べられた舌は、俄然勢いづき一気に動きを増す。  
「はぁ、んんっ!あぅん…あついよぉ…あついのぉ…」  
 ピチャピチャと唾液と汁の立てる水音。若さを感じさせる嬌声。  
 それに混じる、明らかに人の言葉。  
 異常すぎる。  
 普通ならば有り得ない。もっとも、箱の錠前を一心不乱に舐め続けるディーターの姿も普通ならば有り得ないものではあったが。  
 そんな異常事態も、頭のネジがニ、三本吹っ飛んで抜け落ちた今のディーターには関係なかった。  
 滴る粘液を貪欲に求め、ただただ鍵穴を舐る。  
 熱砂の砂漠を歩む渇した旅人が、オアシスで水を求めるように。ひたすらに貪欲に。  
 ちろちろと舌先で舐めあげる。  
 ちゅぅちゅぅと口先を窄めて吸い上げる。  
 自分で垂らした潤滑油が口に入って嫌な味がするのにも全く構わず、舌での愛撫を続ける。  
 既にディーターは淫声の虜となっていた。  
 ディーターの口からは、はっはっと飢えた野良犬のような荒い息が漏れる。  
 この可愛らしい声をもっと聞きたい。  
 もっと喘がせたい。もっともっと!  
「ひにゃっ!や!あっ…も、だめらよぅ…あちゅいよぉ」  
 たっぷりと唾液を乗せた舌で、もう呂律の回っていない喘ぎ声を引き出す。  
 いつしか、彼の両手には先ほどと同じようにピックが一本ずつ握られていた。  
 カチャカチャと蠢くピックの邪魔にならないように舌先は河岸を変え、鍵穴の上辺りを重点的に責め嬲る。  
「ひぃ…はぁっ…あっ…も、らめ、だめだめだめぇぇ」  
 やはりナカは敏感だからなのか、蓋越しに聞こえる甘い声が一際高く、より切羽詰った感じになる。  
 差し込まれた二本の棒はただの金属棒とは思えないほど繊細に、狭い穴中を縦横無尽に動き回ってナカを探る。  
 ディーターの操る二本の触手と化したピックは、内壁に傷をつけないように隅から隅までを探っていく。  
 彼の推測通り、錠の奥行きは狭い。そして天井にロックピンが二本。  
 唾液やら何やらでベトベトになった口元を軽く舌なめずりして拭う。そろそろフィニッシュだ。  
 二本あるピンをピックが捕らえる。棒の曲がった先をそれぞれのピンにかけて、そろりそろりと下から押し上げる。  
 途端、箱がガタンと、まるで身を捩るかのようにして揺れた。ディーターが揺らしたのではない。彼の不意を突く動きだったが、それでも彼はしっかりと押さえるポイントを押さえて離さなかった。  
「ひにゃっ!やっ!あ…はっ、そ、こは…そこ、だめらのぉ!」  
 ダメと言われて今更はいそうですか、と引き下がれる筈も無し。  
 むしろ、駄目と言われれば言われるほど、難しいければ難しいほど彼は燃え上がる性質だった。色んな意味で。  
「やっあっあっ!は…あぅ!ひやぁ!あ、はっ、もぅ、だめぇ……らめなのぉ!!」  
 ガタガタとさらに激しく箱が揺れ動くのも、熟練したディーターの腕の前では何ら障害とならなかった。本人はすっかり盛りのついた牡犬と化しているが、ボケていても手に染み付いた技術は精密機械のように狂う事がない。  
 ピンを押し上げたままピックを曲げないように適度に力をかけ、一息にクイッと内筒を捻る。  
 カキン。  
 埃っぽい部屋に小気味いい金属音が響くのと。  
「あ!あっ!!ひやああぁぁぁぁぁっ!!」  
 箱の中から、絶叫に近い叫び声が上がるのと。  
 ぷしゃっ。  
 ディーターの顔に生温かい飛沫がかかるのと。  
 全てが同時だった。  
 
 深く、長い溜め息が一つ。  
 開錠し終えたままの姿勢でしばらく固まっていたディーターが、引き剥がすような歪な動きで身を起こした。  
 油。唾液。薄く塩気を帯びた粘液。様々な汁でベトベトに汚れたままの口元を拭おうともせず、箱の蓋に手を掛けた。蓋は存外軽く、さほど力は要しなかった。  
 長い時を経ても錆びついていなかった蝶番が金属同士の擦れる小さな軋みを上げ、長年に渡って伏せて続けていた蓋が頭を上げる。  
 数百年の時を経て、盗人と、如何なる者によってか納められた中身が出逢った。  
 果たして、箱の中にはみっしりと少女が入っていた。  
「ほう…」  
 我知らず、ディーターの口から感嘆の溜め息が漏れ出る。  
 見下ろす彼の目の下、箱の中では文字通りの意味で小さな少女が、熱に浮かされているような浅く速い息を吐きながら横たわっていた。  
「こいつは…ミミックか」  
 獲物が興味を持つ何かに化けて、獲物が近づくのを辛抱強く待つ擬態生物。  
 ミミックが化けているとも知らずにノコノコ近づいた不幸な獲物は、頭からぱっくりと頂かれる事になる。  
 目にする機会はそう多くは無いけれど、それなりに凶悪な力を持つ魔物である。その恐るべき擬態能力は、彼のように真っ先にお宝候補に触る探索者にとって脅威だった。  
 ディーターも探索者。当然、今までにも一度ならず、目にした事はあった。  
 しかし、それだけならば彼の口から感嘆の声が出る理由にはならない。むしろ、その場合はハズレを意味するのだからそれは落胆である筈だ。  
「いや、それにしてもこいつは…」  
 ディーターは言葉に詰まった。  
 額にじっとりと滲み始めた汗を、無意識の内に手の甲で拭う。  
 それも無理は無い。彼の目の前、箱の中で恍惚とした表情を見せている少女は、彼の知識と常識にあるミミックと言う魔物とはあらゆる点でかけ離れ過ぎていた。もっとも彼にした所で、持ち合わせている知識はそれほど多くはないが。  
 
 古今を問わず遺跡や放棄された建物に住み着き、何かに化けて獲物が来るのをジッと待つ狩猟型生物。その程度。  
 ミミックそれ自体の名も凶悪さも知られてはいるが、生態についてはほとんど知られていないからだ。なにせ、探索者と出会った時は殺し合いスタートであったし、探索者が勝てば相手はボロボロの惨殺死体。探索者が負ければ本人がミミックの腹に収まっている寸法だ。  
 どこから来るのかどうやって増えるのか、などと調べている余地など無い。  
 膨れ上がる疑問と驚愕を押し殺して、ディーターは全体に素早く目を走らせて観察する。頭に血が上っていようがしっかりと行う、ほとんど反射行動とも言える一連の反応だが、これは別に彼だけの癖ではなく探索者という人間に共通する言わば職業病だ。  
 少女の身長はおそらくは三十センチ程度だろうか。  
 だろうか、と言うのは彼女の腰から下が、箱の中にみっちりと詰まっている彼女の肌と同じ色をした肉塊に埋まっていて、どこからどこまでを身長と見なせばいいのか分からないからだ。  
 人間ではありえないほどの、病的と言うレベルを通り越した青白い肌。むしろ薄いクリアブルーと言った方が早い。それは一点の曇りも無い、澄み切った朝空を思わせる。  
 肌よりも濃い青をした髪。さほど長くなく、耳にかかる程度のショートカット。彼女の肌が空だと言うならば、こちらは澄んだ流れの淵だ。  
 人とは違う異形の色。  
 だがそれを、美しいとさえディーターは思った。  
 あどけなさの残る顔立ちだってサイズが小さいのを除けば、とびきりの美少女だ。  
 彼女の下半身らしき肉塊も、そこから生える一糸纏わぬ上半身も、ミミック自身が流したのであろう汗にぐっしょりと濡れていた。  
 汗に濡れたしなやなか肢体はランタンの揺らめく光を照り返して、妖しく濡れ光っている。  
 闇の中、オイルの燃える薄明かりに照らし出され、ガラス越しの炎が揺らめく度に彼女の身体が作る陰影が表情を変える。  
 ただ目の前で横たわり、荒く呼吸をしているだけだと言うのに。  
 その光景は、ひどく扇情的だった。  
 ここがまるで異国の娼館で、男をゆるやかに誘うエキゾチックなショーでも見ているような錯覚。  
 ゆっくりと上下するなだらかな起伏。  
 その先端には、幼い少女の造形にぴったりな慎ましやかな突起が、ちょんと突き出していた。  
 少女の蒼い全身にあってそこだけは人と同じように薄桃色。それもごく薄かったけれど青の中では一際映え、対照の淫猥さを醸し出す。  
 それは、何者も逃れえぬ大渦<メイルシュトローム>のようにディーターの視線を吸いつけて離さない。  
 快感に弛緩し伏せられた目が、愛を囁くようにうっすらと開かれた唇が、彼を誘う。  
 ぐびり、とディーターの喉が大きく動いた。  
 ディーターは熟練した探索者ではあったが、如何せん彼は若かった。  
 若さは、溢れ出す欲望を原動力にして実に正直に体の一部を反応させてしまう訳で。  
 さらには、それを理性で押し留められるほど彼は老練でもなかった訳で。  
 
 いそいそとバックパックを外して脇に放り投げ、続いて放り投げられるベルトパウチ。  
 積もった細かい埃がふわりと巻き上げられ、眼をちくちくと刺激するが最早気に留めすらしない。  
 一度、堰を切ってしまうと勢いはさらに加速する。  
 引き千切らんばかりの勢いでベルトを外してズボンを脱ぎ捨てる。  
 既に大きくテントを張った下着を一気にずり降ろした。下着に引っ掛かったペニスは下を向き、下着の戒めが解けたところでバネのように反動で振り上がって、ぺちんと腹を叩いた。  
 開錠している間中、ずっと耳元で甘く喘がれ続けたお陰でディーターのペニスは完全に勃ち上がっていた。  
 赤黒く充血した亀頭はピンで突付いたら破裂しそうなほど腫れ上がり、その下の笠もグッと張り出して今にも爆発しそうだ。  
 先端の割れ目からは既に先走りが湧き出していた。溢れた我慢汁は亀頭表面を伝い流れて、竿の根本まで蛞蝓が這ったような跡を付けている。  
 あとほんの一押しもすれば盛大に精を吹き出しそうな卑猥な肉塊。  
 露わにしたペニスの根元を持って下を向かせ、ディーターはその先端を未だ覚醒と微睡みの間をたゆたう少女へと向けた。  
 彼はそこで躊躇った。  
 相手は魔物とは言え、無力な少女でもある。意識を失っている女性に性的な悪戯をするなど男として誉められた行為だろうか?  
 その躊躇いもほんの数瞬。  
 どうせ相手は魔物なんだから気にする事は無い、ともっともらしい大義名分と自己欺瞞を掲げた雄の欲求にあっさり押し流された。  
 そうして、箱に覆いかぶさるようにして腰をゆっくりと降ろしていく。  
 箱の中の少女は、それが何であるか理解していないように見えた。  
 嫌悪に顔を歪めるでも無く。歓喜をもって迎え入れるでも無く。  
 ぼぅっと熱に浮かされたような面持ちで、ゆっくりと降りてくるペニスを眺めていた。  
 それが何であるのかさえ知らない、全くの無垢。  
 そこに汚らわしい雄の象徴を擦りつける。  
 一面の新雪に初めて足跡を印す時のような高揚感が雄の心を満たす。  
 高まる征服の期待に心臓は早鐘を打つように脈打って血液を送り出し、さらにペニスが張り詰める。  
「うっわ……」  
 ディーターは思わず呻いた。  
 亀頭の裏側が少女の胸元に静かに触れた。  
 たったそれだけの事だが、溜まっていた身体にはそれほどまでに気持ちいい。  
 少女の身体はひんやりとしていて、それがマグマのように熱くなったペニスに心地良い。  
 さらに肌はツルツルでスベスベでプニプニ。  
 触れているだけなのに頭の中身が抜けていきそうなほど気持ちよい。  
 触れているだけでこれ程ならば。  
 彼の腰が動き出すまで、そう時間はかからなかった。  
 
 少女の汗とディーターの先走りとが混じりあい、粘っこい水音を立てる。  
 グロテスクな亀頭が仰向けに寝そべる少女の上を行き来する。  
 腹の辺りまで下がり、顔の前まで上がる。前に。後ろに。ぷちゅり。くちゅり。  
 ペニスから送られて来る快感を求め、ディーターは口の端から涎を垂らしながら擦りつけ続ける。肉欲に染まったその顔からは、熟練した用心深い探索者の面影は微塵も感じられなかった。  
 乳輪とほとんど区別できないくらいの乳首で、くにくにと亀頭を擦る。  
 敏感になったペニスは、どんな小さい刺激も余さず掬い取って、快感へと変換する。  
「ふぅっ…ふぅっ…ふぅっ…」  
 目を瞑り、全てを感じ取ろうとするディーターは気が付かなかった。  
 彼のペニスの下。伏せられていた瞼が僅かに開く。  
 何も映してはいなかった虚ろな眼差しに生気が戻り始めていた。  
 普段のディーターならば気がついていたであろう変化だが、今の彼は苦しそうに眉を寄せながら、抽送を繰り返すばかり。  
「……」  
 少女の唇がかすかに動く。  
 温かぁい。  
 無音の呟き。  
 己の体の上を何かが動いているのは、ぽぅっと惚けた頭でも辛うじて理解できた。  
 胸の上を動き回る熱が、微睡みの縁にいた少女を引き戻す。  
 つるんとした滑らかな塊が粘液を纏って、その粘液を体に擦り込むように行ったり来たり。  
 手前勝手に快感を求めるディーターの行為も、絶頂に達した小さな身体には後戯のマッサージとなる。  
 辺り一面、獣のような男臭さに満ちているが不思議と不快じゃない。心地良い。  
 波の無い穏やかな水面に浮かぶような優しい気分。  
 ふわりとどこまでも落ちていってしまいそうな感覚。  
 縋る物を求めて、少女は両の腕を伸ばした。  
「あふぅ…あったかいよぉ」  
 少女がその腕に抱いたのは、雁の下のくびれ。  
「うわっ!…くっあぁぁ。ダメだって気持ちよすぎるって……っ!」  
 堪らないのはディーターだった。  
 ぎりっと奥歯が鳴る。  
 今のは危なかった。辛うじて耐えた。  
 噛み締められた歯の隙間から、熱い息と苦悶が一緒に出て行く。初心な小僧でもないのに、無様に声が上がってしまう。  
 少女の細腕にくびれを抱き締められたまま、ペニスが前に後ろにと動く。  
 敏感な雁首が狭い輪の中を通る度、腰が震えてしまって、とても速くなんて動かせない。  
 じりじりと脳を焦がす快楽を噛み締めるように味わい、達しないように耐える。  
 だが、少女の次の動きまではディーターには予測できなかった。彼女は亀頭の裏側にある紐が縒り集まったような筋、男の性感帯の中でも特に敏感な裏筋に顔を擦りつけたのだ。  
 まるで愛しい人に頬擦りするかのように。  
「ひっ!」  
 ディーターの顔が引き攣る。  
 不意を突いた快感にとうとう我慢も限界を超えた。  
 堰を切る。輸精管がぷくりと膨れる。ペニスの中を白い怒涛が駆け上がる。  
 ディーターは叫んだ。  
 叫びながら、弾けた。  
 
 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。もとより窓も無い暗い部屋では陽の変化から時を知る術も無く、静かに燃え続けるランタンの燃料の減り具合だけが辛うじて時間の経過を教えていた。  
 先に意識を取り戻したのは、ミミックの少女の方だった。  
 白濁液と一緒に意識まで放出した盗人より先に一回絶頂に達していたので、回復も早い。  
 断線していた回路が、徐々に繋がり始める。  
 少女の青く可愛らしい肢体には、腹と言わず胸と言わず、顔から髪の毛に至るまでべっとりと白濁液で染め上げられていた。  
 溜まりに溜まっていたディーターの精液はゼリーのように濃厚で、時間を置いた今でも湯気が立ちそうなくらい熱い。  
 それをたっぷりと頭からぶっ掛けられた少女は、いっそ無惨と言って良いくらいにドロドロだった。  
 自身にこびり付いた粘液が何であるか、少女は知らないのだろう。  
 細い指先に付いた精液を不思議そうにしげしげと眺めた後、口に運んだ。  
 途端、後悔した。泣きそうに歪んだ顔は、止めとけば良かったと如実に物語っていた。  
 ぺっぺっと口内に残る苦くて臭いのを必死に吐き出しながら、少女はふと、面を上げた。  
 自我を認識してから初めて見る物体に目が見開かれる。  
 人間!  
 あまりの驚愕に、驚かさなければいけない相手だと言うのも忘れ、本能が勝手に体を突き動かす。  
 自分の目前に何がいるのかを正確に把握した時、彼女の口からは悲鳴が飛び出し、身体は自分が知る限り最も安全な体勢を取ろうと勝手に動き始めていた。  
「きゃああぁぁぁあぁぁぁぁーー!!!」  
 耳をつんざく金切り声が小さな部屋に木霊した。  
 埃っぽい部屋の空気がびりびりと震える。  
 少女は驚異的な肺活量でずっと叫んだまま、ぐいっと後ろへと手を伸ばした。  
 彼女の体はある程度の伸び縮み出来るようで、ぐぅっと腕が伸びて、開きっ放しになっている蓋の縁に手がかかる。  
 そして、思い切り腕を後ろから前へと大きく振り下ろした。  
 手は蓋の内側を掴んだままだ。  
 当然、蓋も閉まる。  
 蝶番を軸にして後ろから前へ。  
 上から下に。  
 バタンと。  
 白濁に塗れた少女に向かって突き出されたままの、ディーターのペニスを挟み込んで。  
 
 先ほどの悲鳴を遥かに上回る、声にならない絶叫がディーターの口から迸った。  
 言語を絶する痛みがディーターを襲う。  
 思考を占拠するのはただひたすらに、  
 激痛。  
 激痛。  
 激痛。  
 男なら誰でもがその辛さに共感し、同時に誰でもが味わうのは御免だと言うであろう、発狂しそうな痛み。  
「はこにっ…!くっくわれっ…!なにがっ…!お…ぉぉぅっ…!」  
 意味不明の言葉の羅列が口から漏れる。  
 さきほどの天国から一転、地獄へ急降下。  
 下半身だけ裸になり露になったペニスを両手で押さえた無様な姿で、床の上で悶絶していた。  
 
 蓋を閉めたら何かを挟み込んで、次の瞬間、体の一部で住処でもある箱ごと放り投げられた。  
「んきゃっ!」  
 がらんがらん、と大きな音を響かせて固い床にハードランディング。  
「いったーい…あれ、逆さまだよぅ」  
 放り投げられた弾みで、丸みを帯びた蓋が下になったので箱全体が揺り籠のように揺れている。頭も下を向き、重力に引かれて垂れ下がった薄青の髪もつられて揺れる。  
 ゆらりゆらりと揺れる感じも面白いのだけど、今は元に戻ろう。  
 よっこいしょ、と大きく身体全体を揺り動かして反動をつけて箱をひっくり返す。  
 これで元通り。  
 蓋を持ち上げて、目一つ分の幅だけ僅かに開けてみる。  
 そーっと外を覗いたその視線の先。  
 どういう訳か、さっきの人間が苦しそうにうずくまっていた。  
 あの人間が自分に擦り付けてきたモノが何かは知らなかった。  
 とても恥ずかしくって、とてもイケナイ事をしているような気分になった。  
 だから、思わず箱の中に隠れた。  
 でもイケナイのと一緒に、とても甘くって気持ち良かった。  
 ついさっきの記憶を反芻する。途端、なぜか頬と頭の芯がぽぅっと暖かくなる。  
 何だろう、この気持ち。  
 知りたい。  
 知りたい。  
 でも、誰に聞けばいい?誰なら教えてくれる?  
 感情と一緒に揺れる視線がディーターの姿を捕らえて、ぴたりと止まる。  
 そうだ、アイツに聞けばいい。  
 なんか、うーうー唸ってるけど動いてるからまだ生きてる。たぶん。  
 でも、とりあえず生きてるか確かめてみよう。  
 
 兜よろしく頭の上にある蓋を跳ね上げて、裸身を晒す。  
 全身がべたつくのがちょっと気持ち悪かったけど、どうしようもないので気にしない。  
 と、見る間にミミック少女の両腕が、ぐぅっと伸びた。  
 ミミックに骨格は存在しない。スライムのような液体に近い流動質ではないが、身体全体が不定形な半粘体で構成されているのでこのような芸当も可能なのだ。そうでなくては形すらそっくりに真似るような擬態は出来ない。  
 伸びた両手は床を掴み、伸びた腕は今度は縮んで体の方を引き寄せた。当然ながら彼女が入っている箱も傾いて、前側の角だけで立つ格好になる。  
 両手を床について体が半ばまで水平になった手押し車のような姿勢。いざ、出発進行。  
 ペタペタと可愛らしい足音ならぬ、手音。そこに箱の角が床を擦るがりがりと言う耳障りな音が混ざる。  
 盛大にうるさい音を撒き散らしながら、少女は這い進む。  
 まだ小箱に棲んでいるに過ぎないミミックからすれば、ディーターは小山のような巨人に見えたが全く臆さなかった。  
 それは少女が無知なだけなのとは若干意味合いが異なる。  
 地獄の亡者のように低く呻いているディーターに、ミミックが気遣わしげに声をかける。  
「ねぇ…大丈夫?死んじゃって無いよね?」  
 蹲っている人間の髪の毛が、もぞもぞと左右に揺れる。  
 どうやら頭を振っているらしい。  
 動いているから死んではない。  
 けど、無事って感じでもない。  
「ねぇってば!大丈夫なの?」  
 人間の髪の毛が、再びもぞもぞと左右に揺れる。  
 どうしよう。  
 大丈夫じゃないっぽいよぅ。けれど、どうすれば良いのか分からない。  
「なんか、してあげようか?」  
 今度は髪が縦に振られた。  
「み、水…とって……」  
「水?」  
 きょろきょろと見回す。  
 視界に映る物と言えば、灰色をした壁と埃の降り積もった床ばかり。あとは目の前で唸る人間。  
「水なんてないよ?」  
「なかに…」  
 今にも力尽きそうに震える指先が、床に転がるカーキ色をした山を指し示す。  
「中に…水、袋があるっか…らっ…ぁっ」  
 まだ痛むのか、時折しゃっくりのような変な拍子になりながらも懸命に求める物を教える。  
「わかった!取ってくるね!」  
 再び、がりがりペタペタと這い進む。  
 
 ディーターが使っているバックパックは、背負子型の細い金属フレームにコットンキャンバス地のパックが付いた物だ。  
 パックの中には仕切りが設けられていたり、パック表面にもポケットが合ったりと、大小複数の収納スペースを持っているので細々とした装備品が多い探索者には使い勝手が良い。  
 とは言え、持ち主本人はどこに何が入っているか分かっているので使い勝手が良いのかも知れないが、全く知らない者からすれば小さな迷宮も同然だ。  
 雨蓋を大きく開け放ち、頭を突っ込んで探し物をしているミミックにとっても、このバックパックは非常に探し物勝手が悪かった。  
 パックの入り口部分に、彼女の下半身でもある箱が引っ掛かってしまい思ったように中を探れない。  
 自身よりも大きなバックパックを相手に登山しても埒があかないと思ったのか。いい加減、思い通りにならない事に焦れたのか。  
 ミミックの頬がぷくっと膨れる。  
 ディーターのバックパックを、親の仇でも見るような凄い目つきで睨みつけた。  
 ばっと右の腕を振り上げる。可憐な花のように広げられた掌。その小さな指が伸びた。  
 ぐんと伸びる。さらに、すぅっと薄くなる。  
 陽に透かせば向こう側が見えてしまうぐらい薄く、鋭く引き伸ばされる。  
 蒼く煌く刃と化した指を、バックパック目掛けて振り下ろした。  
 少女は力加減など知らなかった。  
 さっくり両断した。  
 見事なまでに真っ二つ。  
 バックパックを開けると言うただそれだけで良いのに、哀れ、巻き添えを食った品々が断面からゴロリと転がり出てくる。  
 あとで愛用品の数々が斬殺死体となっているのを見てディーターが泣きそうになるのだが、そんな事、今の少女には知った事ではなかった。  
 これが少女が物怖じしない理由だった。  
 人間との体格差など物の数ではない。臆する必要など彼女には無いのだ。   
 指を刃に変じさせ、邪魔な部分を切り刻んで、文字通り道を切り開いた。さっきに比べれば随分と入り口が広くなったお陰で探し易い。  
 元バックパックに、小さい体を捻じ込んで中を探検する。少女にとっては幸いにも水のたっぷりと入った皮袋はすぐ見つかったし、ディーターにとっては幸いにも皮袋は凶刃に倒れていなかった。  
 自身と同じくらいのサイズの、しかも掴み所の無い皮袋を引っ張って戻るのは苦労したけれど、どうにか配達する。  
「はい。水ってこれでしょ?」  
 ディーターは礼を言う間もあればこそ、ひったくる様にして受け取った。  
 そのままの勢いで、露になったままの股間に押し当てる。  
 皮越しに伝わる水の冷たさが、挟んだお陰で酷く熱を持った逸物に心地良い。  
「どう?」  
「はぁぁ…」  
 心の底からの安堵の声。  
 落ち着いた頃を見計らい、少女はこれで何度目になるか分からぬ気遣いの言葉をまたかけた。  
「ねぇ大丈夫?」  
「ああ、なんとか痛みが引いてきたかな。助かった、よ…?!」  
 
 一挙動で身を起こす。  
 起こした勢いを殺さず、続く動作で転がるようにして飛び退る。  
 箱の中からきょとんとした風情でこちらを見つめる異形の少女から目を逸らさずに、視界の端で自分の装備、特にパウチのたくさん付いているベルトを探した。  
 そこにはホルスターに入ったディーター愛用のダーツピストルや、親しい仲間にすら滅多に見せる事のない秘密の道具が入っている。  
 求めるベルトはすぐに見つかった。それは床に放り出されていた。  
 だが脳味噌をピンク色に染めて見境いの無くなっていた自分には力加減も無くなっていたのだろう。それはそう簡単に手の届く位置には無かった。  
 そこまでの距離、無限にも等しい数メートル。  
(こりゃ、やばいかもな…)  
 今の自分は下半身を露出したままの文字通り、丸腰。  
 やばい。まずい。大ピンチ。  
 他に相応しい言葉が無かった。それでもディーターは、ほんの少し前の迂闊な自分の首を脳内で締め上げながら、着々と脱出の見当をつけていく。  
 ここまでの侵入ルートは覚えているし、幸いにして途中には罠も無い。見た目の判断からすると、逃げなければいけない相手に大した機動力は無さそうなので一度距離を離してしまえば追いつかれないだろう。  
 遺跡の外には陸船の船員達がいるので、逃げ出した後で指差されて大笑いされるだろうがそれくらいはミスの代償として甘んじて受けるしかない。  
 この状況に歯噛みしつつも、彼は油断無く相手の動向を探り、ゆっくりと腰を落として体中にバネを蓄えていく。  
 目の前の怪物が何か動きを見せたり、チャンスさえあれば一気に跳びすさり距離を取る気なのだ。  
 見た目は女の形はしているけれども油断はできない。  
 高まる緊張に口内が渇く。室内に漂う埃も相まって、喉の奥が酷くひりつく感じがする。  
 数々の遺跡に潜り様々な危険を切り抜けてきたディーターの顔は、まさしくプロのそれであった。  
 しかし悲しいかな。下半身丸出しで、しかも股間に両手で水袋を押し当てているその様は露出狂か、贔屓目に見てもただのバカにしか見えなかったが。  
 繰り出されるであろう必殺の一撃から逃れんと機を伺う。  
 ディーターの集中がその一瞬を目指して収斂していく。  
 そんな一瞬の判断の狂いが生死を分けるかと思われた張り詰めた空気を、少女はいともあっさりぶち壊した。  
「ねぇねぇ!人間!」  
 ごく親しげな言葉。  
 全てはディーターの一人相撲。  
 偶然、街中で友人にばったり出会った時のように、とても気軽に少女は声をかけた。  
 飛んで来るのは鋭い爪の一撃かと思っていただけに、凄まじく予想外の反応に機を外されたディーターの体と心から緊張感がごっそりと流れ出る。この手の物は一度抜けてしまうと、元に戻すのは困難を極める。まさに覆水盆に帰らず。  
 
「ねぇ、あんた、人間でしょ?さっきの、何?」  
「あ、なにって…。え、さっきの?」  
 集中を極度に高めた分だけ反動も激しく、虚を突かれた頭は碌に回らない。  
 覚束無い言葉に、自然と少女の語気が強くなる。  
「だからぁ、さっきの!ギュッてしたらあったかくって、ふわーってなるみたいで気持ちよかった!」  
「いや、ナニって言われてもなぁ…」  
 ディーターのこめかみを汗が伝う。ついさっきまでとはまた違った緊張感が彼を支配していた。彼が焦るのも無理もなかった。それもそうだろう。  
 少女は、彼が先ほど少女に何をしていたのか答えろと言う。  
 鍵開けてたらエロい気分になったのでチンチン擦りつけて、気持ち良くなったので君の顔目掛けていっぱい射精しました。  
 言える訳が無い。  
「ねぇ…もう一回して?」  
 彼女には理由は良く分からなかったけれど、目の前の人間がしどろもどろな言葉を吐きながら、なにやら意味不明に両手を動かして不思議な踊りを踊っている。  
 全然自分の思い通りの答えを言ってくれない人間に、だんだんと苛立ちが募ってきた。  
「もう一回してくれないって言うなら、あんた、食べちゃうんだから…」  
 箱に入った異形の少女が、頬をぷーっと盛大に膨らませながら、恐ろしい事を言う。  
「いやいや、そうは言うけどね、お嬢ちゃん。俺はもう帰らなくちゃあいけないんだ。だから何だ、つまり…お嬢ちゃんのご期待には添えそうも無いんだな、これが」  
 愛想笑いをへばりつけながら、恫喝をやり過ごそうと懸命になるディーター。  
 ディーターは、彼としてはこの交渉の切り札を切ったつもりだった。  
 彼の言葉は、この手のガーディアンは守護するべき物や場所からは離れられないと言う前提に基づいていた。  
 ディーターは帰らなければいけない。彼女はこの場所にいなければならない。  
 だから、この問答も何もかも全てお終い。さようならお嬢さん、また会う日まで。  
 だがしかし、ディーターの目の前で頬を膨らませている小さな怪物はあらゆる意味で規格外だった。  
「連れてって」  
「はいぃ?!」  
 ディーターの目が点になった。  
 前提条件をあっさりと引っくり返された。  
「連れてって連れてって!連れてって!!」  
 固まっているディーターに向かって、小さな口から速射式ボウガンのように矢継ぎ早に言葉が打ち出される。  
「連れてってくれないなら、あんた…本当に食べちゃうんだから……」  
 そこでディーターは、はっと我に返った。  
 室内の空気が微かに動いていた。  
 全くの無風だった筈の室内に風が生まれつつある。  
 
 風量はまだほんの僅か。  
 彼が優れた知覚を持つ探索者で、なおかつ彼の体が冷や汗まみれで風を感じ取り易くなっていたからこそ分かったのである。ディーターは己の皮膚感覚を総動員して、素早く風向きを判断する。  
 空気の流れは、背中から正面に向けて動いている。つまり、ディーターから少女に向かっていた。  
 箱の中で不機嫌そうな唸り声を上げる少女に向かって、風が巻き起こり始めている。始めは微かな空気の揺らぎだったそれも次第に勢いを増し、今でははっきりと感じるくらいまでの勢いになっていた。  
 ぞわりとうなじの毛が総毛立つ。  
 それが如何なる技によるものか。ディーターには知りようも無かった。理解できる事はただ一つ。  
 こいつは掛け値無しにヤバい。  
 ディーターの直感がそう告げていた。  
「分かった!連れてく!連れてくから!!」  
 あっさりと前言を翻した。  
 後先考えている猶予も格好つけている余裕も無かった。静かに振り上げられつつある死神の鎌を前にして、熟慮長考出来るのは悟りを開いた者か自殺志願者くらいだろう。  
 後の事は後で考えればいい。今は己の生を繋ぎとめるのが最優先だ。  
「……ホント?」  
「ああ!ホントだ」  
 じとっと疑いの眼差しが、ディーターにはまるで冥府の裁判官のそれであるかに思えた。  
 今後の状況の転がり方次第では方便に終わるかもしれない承諾の言葉ではあったが、この場では誠意を持って接するべきであろう。少女の形はしていても、正面切って戦えば彼女は少なくとも自分よりは強いのだ。  
 ミミックの求めるように探索行に、そしてその後は街にまで連れて行くしかない。  
 カクカクとアホのように首肯するディーターに安心したのだろうか。  
 ミミックはその小さな顔に、にぱっと野に咲く花のような笑顔を乗せた。  
 盗人当然である自分の言葉を無条件で信じる、世間知らずで無垢な少女の可憐な笑顔。  
 ディーターの心臓がどきりと脈打った。  
 俺もとうとう焼きが回ったかなと、小さな溜め息が苦笑の形に歪められた唇の間から漏れる。  
 取り敢えずは、彼女を連れて行く前に、少女の酷い有様を何とかしなければ。  
 流石に己の放った欲望の残滓だけにディーターも居心地が悪いのだろう。そそくさとバックパックの残骸から、それなりに汚れていない布切れをサルベージ。  
 水袋の中身で布を濡らして、クリアブルーの柔肌を優しく拭ってやる。  
 体を彼に委ね、目を閉じてくすぐったそうにしているミミックを見ながら、ディーターは彼の師匠に思いを馳せていた。  
 師匠。あんたの言った通りだったよ。  
 錠前ってのは女と同じだった。  
 俺もあんたと同じだ。  
 かかってた性質の悪い罠にしっかりとやられちまったらしいや。  
 
 
 そうして連れ帰った好奇心旺盛なミミックが、箱に閉じ篭って静かにしていろと言うディーターの言い付けなぞ守る訳も無く。  
 一人で陸船の船内探検に出発し、あっさりと陸船のクルー達にバレて大騒ぎになったり。  
 お菓子で買収された少女が中で何があったかを彼女による監督脚色演出付きで話したお陰で、港に帰り着くまでディーターが女性クルー陣から虫でも見るような目で見られ続ける事になるのだが。  
 それはまた、別のお話。  
 
 『箱入り娘』 了  
 

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