昼でも日の光が差し込まないほどうっそうと木が茂る森の中、  
一組の男女が早足で森の中を歩く。  
 
男のほうはスケイルアーマーの上から皮のマントを羽織り、  
真紅の髪の下からのぞく細い目で眼前の木々の闇を睨みながら歩いている。  
鋭くも少し青臭さの残る顔つきや、鍛えられてはいるが大人ほど  
盛り上がっていない腕の筋肉から彼の年齢がそれほど高くないことが窺えた。  
 
女は細く小さな体で男と同じサイズの皮のマントを羽織り、  
さらにはフードを目深に被っているのでほとんどその容姿を窺い知ることができないが、  
全身をすっぽりと覆うマントですら隠し切れない流線型のボディラインだけが、  
マントで隠れたその人物の性別を雄弁に物語っていた。  
 
と、不意に先行する男が歩を止め、腰に下げていたロングソードの柄を右手で掴み、  
左手で背後の女性を制する。女は男の仕草に歩を止め、  
わずかに唾を飲みこみ前方の空間に神経を集中させる。  
 
しかし、深き闇から響いてきたのは  
「にゃあ」  
というなんとも間の抜けた猫の鳴き声だった。  
 
「まあ……こんな所に……かわいいわね」  
 
10メートル先、5メートル上方の針葉樹の太い枝にかわいい黒猫の姿を確認して、  
思わず女がフードを外すと、閉じ込められていたウェーブのかかったブロンドが四方に散る。  
 
「メヒィル様、お気をつけ下さい。このような森の中に似つかわしくない猫です」  
「大丈夫よ、あれは本気で怖がっている鳴き声だわ。追っ手の使い魔ならあんな声はあげないでしょう」  
「こちらの油断を誘おうとしている、ということも……メヒィル様!?」  
躊躇も逡巡もなく木の根元に近づく主人に、騎士は少しだけ声を大きくするが、  
肝心の少女は涼しい顔で黒猫に向かって両腕を広げる。  
 
「かわいそうに、登ったのはいいけれど降りれなくなったのね?  
私のところに飛び降りてきなさい。受け止めてあげるから」  
 
澄んだ青い瞳に子猫を映しながら、少女は幼児にするように語りかける。  
「にゃあ」  
しかし、黒猫は震える鳴き声を上げるだけで、  
無防備に差し出されたふくよかな胸に飛び込もうとはしなかった。  
 
「メヒィル様!」  
 
騎士の声に含まれた緊張と鞘から抜き放たれる剣の音に少女が彼の視線を追うと、  
黒猫の枝に近づこうと幹を這い降りてくる3メートルはある大蛇の姿が目に入った。  
この森に住むウワバミは近隣の牧場の子牛すら一飲みにするという。  
登った枝から降りられぬ間抜けな子猫などわけなく飲み干してしまうだろう。  
「シキッド、枝を!」  
 
メヒィルの掛け声で若き騎士はスケイルアーマーの下から短刀を取り出し、  
猫のいる枝の根元に投げつける。  
半分ほど枝が裂け、自重プラス黒猫分の重さを支えきれなくなってそのまま根元からメキリと折れた。  
ついに黒猫も空中へ放り出されるが、落下する小さな体を少女が受け止める。  
 
急に眼前の獲物を奪い去った邪魔者たちを蛇が睨みつけるが、  
騎士が鈍く光る長剣の切っ先を向けるとすぐに木の上に退散した。  
「あ、ちょっと!」  
メヒィルの声に慌ててシキッドが振り返ると、黒猫が彼女の腕の中から逃げ出し  
森の中へかけていく姿が目に入った。  
 
「大丈夫かしら……」  
「猫の心配をしている場合ではありません、メヒィル様」  
 
ブロンドを細い手で梳きながら、振り向いた少女は苦笑する。  
「こんな二人きりのときでもあたなは『様』をつけて呼ぶのね。  
咎める者もいないのだから、昔のように呼び捨てでもいいのに」  
 
「それは、私もメヒィル様もまだ何も知らない子供だったからです。  
さあ、行きましょう。我々にあまり時間は残されていないのですから」  
それだけ呟くと騎士は剣を鞘に戻し振り向きもせず歩き出す。  
少女は肩を竦め、少し寂しそうな表情を浮かべ彼の後に続いた。  
 
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
黒い森の上を、少女を背に乗せた怪鳥がはばたく。  
いや、正確には鳥ではない。  
何せその怪物は頭は梟で翼は鷹だったが、その胴は駱駝で足は子馬だったからだ。  
 
駱駝のこぶに寄りかかり手鏡を覗きこんでいた少女が梟の頭に向かってボソリと呟く。  
「ようやく、あの子を見つけた。ここで降りて」  
梟の頭が頷くと、怪物はゆっくりと下降を開始した。  
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
 
黒い森の中、二人の男が木々や地面の様子を調べていた。  
大剣を背負った男が煉瓦色の口髭をいじりながら地に伏した男に問う。  
「駄目だ、こっちにゃ黒猫しかいない。リットン、なんか分かったか?」  
リットンと呼ばれたねずみ顔の小男は地面の足跡と  
その上に転がる黒い粒をしばらく眺めてから答える。  
 
「足跡の上にあるマギ兎の糞がまだ固まってねえ。こりゃだいぶ近づきましたぜ。  
おまけにあっちは女の足ですし、この分なら後半日追いかけっこをすりゃ、  
追いつけるんじゃないですかね」  
それを聞いて上空の折られた枝を見つめていた髭面の男はにやりと笑う。  
「ふ、ならば川に着くころには追いつけるか」  
 
と、彼らの背後よりどかどかと足音を鳴らしながら禿頭の大男が姿を現す。  
「おーい、兄着たちぃ、大蛇の蒲焼焼けたぞぉ〜」  
大男は串に刺さった大振りの蛇肉を嬉々とした様子で二人の男に差し出す。  
「遅せぇぞパルポ!飯一つ作るのにいつまで時間かけてやがるウスノロ!」  
「ごめ〜ん」  
 
「まぁまぁブラッドの兄貴、いいじゃないですか。  
カリカリしてたらうまい飯もまずくなりますぜ」  
レットンが笑いながらパルポから肉を受け取るが、  
ブラッドは髭と同じぐらい顔を赤くして小男しかりつける。  
 
「だからてめえはいつまでたっても二流の傭兵なんだよ!」  
しかめっ面をするレットンを見てパルポが楽しそうに笑う。  
「や〜〜い、二流二流〜〜」  
「てめえは三流だパルポっ」  
「え〜〜」  
ブラッドの評価に思わずパルポは口を尖らせる。  
 
湯気の上がる肉を口にしながらブラッドの説教は続いた。  
「いいか。仕事の間は飯を食うのも睡眠をとるのも、  
女を抱くのも全て短い間に終わらせるのが一流なんだよ」  
「ええ〜、お姫様ヤるのもさっさと済まさなきゃ駄目ぇ?」  
パルポが巨体に似合わぬ泣きそうな声を上げるとブラッドはハハハと笑い飛ばす。  
 
「馬鹿め。お姫様まわすのは仕事がすんだ後だ。じっくり飽きるまでやりゃいいさ」  
レットンが肉を喉につまらせながら反論する。  
「だけどよお、お姫様引き渡すまでが仕事なんすよね?  
遊んでる間に逃げられたらどうするんですか。  
逃げられないよう縛ったり足を切り落として遊ぶなんて味気ないのはいやですぜ」  
ブラッドはにやりと笑って腰に下げた筒を叩く。  
「なーに、お姫様にはケツの穴にこいつを使う」  
 
外からの衝撃に筒の内部の何かが動き回り、子供の胴ほどもある筒が怪しげに蠢く。  
「なるほど、お姫様もそれならまともに動けないですね」  
レットンがくくく、と顔を歪める。  
「わ〜、わ〜、楽しみだぁ〜」  
パルポは肉を頬張りながら両手に持った串を打ち鳴らす。  
 
「命さえありゃ後はいくら遊んでもいいって話だ。  
相手は正真正銘のお姫様だからなぁ、楽しみにしとけよ。  
肉食ったらさっさと出かけるぞ、野郎ども!!」  
ブラッドの号令に二人の部下はおおっと掛け声を上げた。  
 
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
「こんな木こりも狩人も寄り付かない森に、大勢の人の気配がする。  
あまりよくないことが起こっているのかしら?」  
怪物を待機させ、森の中を歩いていた少女がふと呟く。  
 
漆黒のローブが光の差さない森の黒に混ざり、まるで闇自体が喋っているかのようだ。  
そこへ、小さな気配が近づく。  
 
「クロオ……ようやく見つけた」  
「にゃあ」  
少女の肩に、小さな黒猫が飛び乗る。  
 
「ずいぶん探したわ。さあ、一緒に帰りましょう」  
しかし黒猫はすぐに少女の肩から降りると、森の奥へ歩き始めた。  
 
「どうしたの?帰るならこっちよ」  
「にゃー」  
「……助けてほしい?」  
 
少女が誰を?と問う前に黒猫はさっさと歩き出す。  
「クロオの頼みなら、断れないわね」  
少女はため息を吐いて、猫の後に続いた。  
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
 
振り向いた騎士が、口元をぎゅっと引き締める。  
今まで自分たちが歩いてきた森の上空で、何匹か野鳥が飛び立つ気配がした。  
それは、何かが自分たちに追いつく予兆だった。  
 
「メヒィル様……ここでいったんお別れのようです」  
「シキッド、何を言っているの?」  
目を見開いてメヒィルは若き騎士に詰め寄るが、  
騎士はただ淡々とこれからすべきことを彼女に告げるだけだった。  
 
「ここから西に向かって歩き続ければ、夜になるまでに川に出ます。  
後は川沿いに伝っていけば、3日で領境にたどり着くでしょう。  
夜は今までのようになるべく木の上でお過ごしください」  
メヒィルは俯いて、騎士のマントの裾を掴んだ。  
「シキッド……死ぬ気ではないでしょうね」  
 
男は首を振って答える。  
「まさか。ただ、あなたを守りながら戦い抜く技量を持ち合わせていないだけです。  
心配することはありません。追っ手を退ければすぐにでもあなたに追いつくことを誓いましょう」  
 
少女は騎士の正面に立つ。  
「ならば、宣誓の儀式を」  
「儀式……ですか?」  
「ええ、かつてあなたが北方の山賊討伐に参加した時のように」  
「しかし今は時間が」  
困惑しさらに問い返そうとするシキッドに、  
メヒィルは無言のまま目で促す。  
 
その強い眼差しに、これ以上の問答は無駄と悟ったシキッドは  
「略式でよければ」  
と前置きをしてから剣を地面に刺し、彼女の前で恭しく片膝をつき頭を下げる。  
 
「シキッド・ガウルは天上に召されるその時まで、  
メヒィル・ララウヌの傍らで私の命と誇りを捧げる事を、  
戦争と風の女神フラウロに誓います」  
 
騎士の宣誓を受けて姫が言葉を返す。  
 
「メヒィル・ララウヌは天上に召されるその時まで、  
シキッド・ガウルの誇りと命の全てを預かる事を」  
 
わずかな沈黙。少しの間をあけて、最後の句が  
メヒィルの口から漏れる。  
 
「偉大なる主神イメンに誓います」  
 
驚き頭を上げるシキッドの前に、メヒィルの左手が差し出された。  
 
地面に剣を突き刺して跪き、戦争と風の女神に約束するのが主従の間で交わす戦争からの生還の宣誓。  
それがシキッドの行った儀式。  
 
対して、地面に剣を突き刺して跪き、主神への約束と3回の接吻をするのが男女の間で交わす婚姻の宣誓。  
それがメヒィルの返した儀式。  
 
「どうしたのですか?まだ儀式は終わっていませんよ」  
 
メヒィルは、頬を染めながらシキッドに続きをするように促す。  
男が差し出された女の左手にキスをするのが、婚姻の宣誓の続きだ。  
しかし彼は黙って主の左手を押し返し、立ち上がる。  
それが生真面目な騎士の答えだった。  
 
「シキッド……」  
 
すがるような声を出すメヒィルにシキッドは背を向ける。  
 
「メヒィル様、早くお逃げください」  
 
今度は、メヒィルが何を言っても無駄と悟る番だった。彼女も彼に背を向け走り出す。  
50歩ほど走った後振り向いて見た騎士の背中の輪郭は、涙で滲みよく分からなかった。  
 
 
その不明瞭な背中が、彼女が見た彼の最後の背中になる。  
 
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
「助けてくれ、と言ってもねぇ」  
 
少女は、顔の皮を剥がれ両足を切り落とされた男を見下ろす。  
 
「いくらクロオの頼みでも、もう手遅れよ。癒したり治したりは私の領分じゃないし。  
せいぜい、紡ぎあわせることができるだけよ」  
 
黒猫が彼女を見上げながら  
「にゃあ」  
と鳴く。  
 
「私たちの乗ってきた子を使えって?駄目よ、  
それじゃ私たちが帰れないでしょ。  
それにしても……すごいわね、この人」  
 
少女が男の側の地面を見下ろす。  
そこには、まるでナメクジが這ったかのように  
男の足から出た血が地面の上に紅い線を描いていた。  
もう致死量は近い。  
 
それでも男は剣を掴み、見えない目で主の下へ這ってゆく。  
うわ言のように姫の名を呟きながら。  
と、男の壮絶な姿に見入っていた隙に、黒猫が小さな体で自分より大きい怪しげな筒を  
少女の足元に転がしてきた。  
 
「なんなの……、それ?」  
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
 
「さーてと、鬼ごっこは終わりにしましょうやお姫様」  
にじり寄る口髭の男に、メヒィルは叫び声を上げた。  
「なーに、そんなに怖がるなって。ただちょっと縛り上げるだけだから。  
あんまり言うこと聞かないとあの騎士様みたいに両足切り落としますよ?」  
 
レットンが思わず非難の声を上げる。  
「そりゃねーですよ兄貴。せっかくのすべすべの足がもったいない」  
 
切り裂かれた衣服から伸びる白く長い足に、レットンは鼻の穴を広げて興奮する。  
「しょうがねえだろうよ。あの騎士様との戦いで触手入りの筒がどっかいっちまったんだよ」  
「……俺、太股フェチだから斬るときゃ膝から下だけにしてくださいよ」  
 
「ひ……非道な!シキッドの足を、切り落とすなんて!!」  
 
ブラッドはわざと丁寧な言葉を使って、姫の神経に揺さぶりをかける。  
「いやいや、結構あの騎士様もひどいんですぜ?うちのかわいい弟分の  
顔と足に傷つけたんで、弟分は今寝込んでてお姫様と遊ぶことが出来ねーんですよ。  
そういうことで、あいつの分も俺らと遊んでくれませんかねぇ」  
 
「おい……兄貴!」  
「うっせーな、がっつくなよ!後でてめえにもヤらしてやるってよ」  
「そうじゃなくて……」  
「なんだよどうしたってんだ」  
「この剣……抜いてくれねーかな」  
 
振り向いたブラッドは、レットンの脇腹を貫くロングソードに目を見張る。  
そしてその背後に佇む大きな触手生物の姿に思わず悲鳴を上げた。  
 
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
「全く、あんなに急いで。よっぽどお姫様のことが心配みたいね。  
ちゃんと私の説明聞いてたのかしら?」  
「にゃあ?」  
 
「そうね、あのままだと死んじゃうわね」  
「ふぎゃー!」  
 
少女は疲れた顔で肩を竦める。  
「私だって後を追いたいけど、魔力を使い果たしてもうへとへとなの。  
当分は歩くこともできないわよ」  
 
すると黒猫は少女のローブの裾から手鏡を取り出し、  
それを咥えたまま闇の中へ駆け出した。  
「ちょっとクロオ!……もう、また迷子にならなきゃいいんだけど」  
 
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※  
 
 
突然現れた触手生物に刺された小男を担いで、口髭の男も崖の下へ転がり落ちて去っていったが、  
メヒィルを取り巻く状況はあまり好転したとは言えなかった。。  
追跡者達を攻撃していた触手生物が、彼らが消えたことでメヒィルのほうへと近づいてきたからだ。  
それは、1メートルの卵形の胴体に、数十本もの触手が生えた怪生物。  
ローパーと呼ばれる、種によっては人間すら捕食するモンスターだ。  
 
じりじりと近づくローパーに、メヒィルが首を振って臓腑から吐き出すような叫び声をあげる。  
愛する者がいなくなり、異形の存在ににじり寄られる彼女の精神は  
発狂寸前まで追い詰められていた。  
長い触手がついに彼女の両足に巻きつく。  
 
「いやああああぁぁっ」  
 
そのおぞましい感触にもう一度叫び声をあげるが、  
卵形の本体は一定の距離まで近づくとそれ以上彼女の側に近づこうとしない。  
ただ、触手の一本が彼女の顔に近づいてくる。  
 
「い、や……」  
 
その整った顔を蒼白にしてメヒィルはがたがたと震えるが、  
触手は彼女の頬を撫で上げるだけだった。  
まるで彼女の瞳から流れ落ちる涙を拭き取るように。  
 
よく見ると、ローパーの柔らかい触手は所々が擦り切れ、真っ赤な体液が漏れ出ている。  
しかしそれでもローパーは自分の体の流血よりも彼女の体をさすり続けるほうが  
重要と言わんばかりに、その涙を拭き取る触手の動きをとめようとしなかった。  
 
「……?」  
 
2、3分その状態が続き、さすがにメヒィルもローパーが自分を今すぐ捕食しようとしていないことに気づく。  
だが、そうだとしたらなぜこのローパーはいまだ自分の側を離れず、  
両足を拘束し続けているのか。  
 
――――あの騎士様との戦いで触手入りの筒がどっかいっちまったんだよ――――  
 
口髭の言葉を思い出し、メヒィルの体に冷や汗が浮かぶ。  
捕食以外のローパーの目的。それは、生殖。  
他の生物の胎内に卵を生み出し、そして子孫を残すタイプがいることを、かつて彼女は伝え聞いたことがあった。  
そして放蕩な一部の人間がそれを生きた淫具として用いることがあるとも。  
もし、このローパーの目的がそうならば、ある意味殺されるのと同等のひどい目に遭わされるかもしれないのだ。  
 
「そ……そんな……」  
新たな恐怖に気づき、触手から逃れようと身を捩じらせた瞬間、触手が一本の剣を高々と持ち上げた!  
 
「いやぁ!」  
 
足に触手が巻きついていては避ける事などできる筈もなく、メヒィルは目を瞑る。  
しかしその剣は彼女のすぐ足元の草むらに突き刺さっただけだった。  
そして、怪物本体がうねらせていた全触手を全て縮める。  
 
「なに……?あなたは何がしたいの?」  
 
食べられるわけでもないし、犯されるわけでもない。  
しかし解放してくれる気配もない。問いかけても、答えは返ってこない。  
混乱したメヒィルは剣の柄に刻まれた文字を見て大きな瞳をさらに見開く。  
 
「これは……シキッドの剣!ねぇ、これをどこで!!」  
 
掴みかからんばかりの勢いで聞いても、怪物は何も言わずただ触手を蠢かすだけだった。  
 
「ああ……私はどうすればいいの?」  
 
逃げることも、シキッドの生死を知ることもできない。  
この怪物に捕らわれたまま飢えて死んでしまうのだろうか。  
 
一度止まっていた涙が再度滲んできたとき、縮こまっていたローパーの体が伸び上がり、  
地面に刺さっていた剣を引き抜いた。  
今度は、メヒィルはさきほどのように怯えなかった。  
そしてメヒィルの予想通り、剣はもう一度地面に突き刺さった。  
ローパーはもう一度体全ての触手を萎縮させる。  
 
「さっきと同じこの行いに……何の意味があると言うの?」  
その時、先ほどにはなかった動作がローパーに加わる。  
一本の触手がメヒィルの左手を取り、その先端が手の甲に触れたのだ。  
触手の体から流れ出る体液が付着していたので、  
メヒィルの手の甲は体液と同じ赤い跡がつく。  
 
「まるで、口紅を塗られたみたい……」  
 
幼いころ妹と二人でねえやの口紅を手のひらや額に塗って怒られたことを思い出した。  
 
「口紅……?」  
 
口紅、唇、口づけ。  
その時、メヒィルの中でなにかが閃く。  
 
剣を突き刺す騎士、剣を突き刺す触手。  
片膝をつく男、縮こまった触手。  
左手への口づけ、左手への触手の優しい接触。  
 
今までのローパーの行為は、行う者を触手ではなく人に置き換えれば、  
そして神への誓いがないことを除けば、全て婚姻の儀式の作法に則っている。 
 
「………………メヒィル・ララウヌは天上に召される……その時まで、  
…………ウルの誇りと命の全てを……預かる事を偉大なる主神イメンに誓います」  
 
メヒィルは口ごもりながら呟くと、剣を握っていた一番大きな触手を恐る恐る摘み上げ  
そこに柔らかな唇を触れさせる。  
 
「…………生を全うするその時まで夫婦になった二人で力を合わせ生き抜くことを、 
偉大なる祖先達に誓います」 
 
婚姻の儀式の接吻は合計3回行う。  
まず男性が跪いたまま女性の左手に。  
次に女性が男性の右手に。  
そして最後に二人が唇を重ねあい、婚姻の宣誓は終わりとなる。  
 
怪物は、メヒィルの予想通り、左手に接触していた触手を彼女の唇に近づけた。  
左手に接触していた触手を彼の口と見立てれば、 
それはつまり唇同士を重ね合わせようとしているように見える。 
 
「やっぱり……これは婚姻の儀式なの?」  
 
しかしそこで、後23センチで触手と唇が触れ合う距離で、触手の動きが止まる。  
ここまで来て躊躇するその姿に、彼女は自分の想像に確信を持つ。  
彼女は自ら触手へ唇を寄せようとすると、触手はわずかに後退しようとする。  
 
「そしていかなる困難が訪れてもあなたの傍に付き従うことを夫となったあなたへ誓います」 
 
しかし彼女は両手でその触手を掴み、逃れられないようにしてから  
うっとりとした顔で囁くように宣誓し、触手の先端を口に含みながら口づけをした。  
唇と触手の接吻が終わったあと、少女は蠢く触手ごとローパーの本体を抱きしめる。  
 
「あなた……シキッドなのね?」  
 
『いくらシキッド君に呼びかけても彼は答えられないわよ。  
今の彼には触覚と嗅覚しかないのだから』  
 
背後から聞こえてきた声に、メヒィルがびくっとして振り向くと、  
ローパーが彼女の体を守るように触手を彼女の周囲に這わせる。  
しかしそこにいたのはあの時の黒猫だった。  
 
「あなた……無事だったの」  
『あなた達のおかげでね。この子も感謝しているわ』  
「にゃあ」  
 
人のいない場所から声が聞こえ、メヒィルはまたびっくりする。  
よく見るとその愛玩動物は口に手鏡を咥え、  
なんとその鏡面に自分とそう年が変わらない少女が映り話しかけてくるのが見て取れた。  
その人知を超えた不可解な光景に、メヒィルは自然とある言葉を連想する。  
 
「……魔女?」  
『そう、キメラ作りが得意な、ね』  
「あ、あの、私はメヒィルと」  
『残念だけどお姫様、私とあなたには自己紹介する時間すら残されていないの。  
こっちはシキッド君の体を触手と紡ぎ合わせた時に魔力をほとんど使い果たしたから  
すぐにこの「鏡伝え」の魔法も使えなくなる。それに、シキッド君の体血まみれでしょう?』  
 
言われてメヒィルがシキッドの体を見ると、確かに最初のころより触手から流れ出る血の量が増えている。  
「これは……どうすれば止まるんですか?」  
『彼の体を新たに作り出すの』  
「それはどうやって」  
魔女の話を聞いている最中に、メヒィルの手の中でシキッドの触手がずるりと本体から抜け落ちる。  
 
『拒否反応ね。このままだと、彼の触手は全て抜け落ち、呼吸も食事もできなくなり死ぬ。  
キメラの材料に使ったのは、人間を苗床にして生殖活動をするローパーと思われるわ。  
まあ、あのならず者どもが持ってきたものだからどんな種類かは私には分からないんだけど。  
とにかく本体から切り離された触手だけだったから、とても脆くすぐに朽ちてしまうの』  
 
メヒィルは手を当てて触手の傷口を塞ぐが、流れ落ちる血は止められない。  
「脆い体、なんですか……?」  
 
『舗装もされてない森の中を目も耳も使えずがむしゃらに走りまわれば、  
すぐに体中傷だらけになるぐらいにね。  
もともとそんなに動き回れる体じゃないのに、無理しちゃって』  
「どうすれば、何をすれば新しい体を作れるんですか?」  
メヒィルの必死な声にも魔女は淡々と答える。  
『彼の体から胚をあなたが体内に取り入れ、あなたの体の中で成長させて産むのよ』  
 
「胚を取り入れる?その、私が胚を食べるんですか?それで胃の中で成長させるたりするんですか?」  
魔女の言葉はメヒィルの想像をはるかに超えるものだった。  
『いいえ、彼の触手の胚送管をあなたの膣から取り入れ、子宮内で新しい触手を育てるの』  
あまりの内容にメヒィルの頭が一瞬真っ白になる。  
 
「い、今なんて」  
『えーとね、膣っていうのはお姫様のお股に』  
「いえその、単語の意味が分からないわけでは」  
「にゃあ」  
黒猫の鳴き声を聴いて魔女は不思議そうな声を上げる。  
『え、何、恥ずかしがってるだけなの?』  
 
まるでなぜ恥ずかしがっているのか分からないような声に、  
思わずメヒィルはもじもじと反論する。  
「だって……その、それって恥ずかしいことでしょう?」  
『だけど、あなた達、今婚約したんでしょう?世俗のことはよく分からないけど、  
結婚したら男女はお互いに支え助け合うと私は書物で読んだのだけど、違ったかしら?』  
 
メヒィルは魔女の言葉に反論することができなかった。  
 
『シキッド君にもあなたに胚を育ててもらわなきゃ死んじゃうって説明してたから、  
てっきりもう受け入れは済んでると思ってたのに彼は血まみれのままだし。  
そう、外の人間ってそういうときに恥ずかしがるものなのね。またひとつ知識が増えたわ』  
 
「私が彼を受け入れれば……彼は助かるのですね」  
『あ、まだ続きがあるわ。彼は助かるかもしれないけど、あなたが無事かどうかは分からない。  
何せ元の触手がどんな種類かも分からないし、ローパーを素にしたキメラなんて私は作ったこともない。  
もちろん触手の胚を人間の女性に宿し、産ませたことなんてない。  
さらにいえば今の彼の汚れた触手があなたの膣に入れば、どんな病気になるかも分からない。  
そんな状態で出産させて、あなたの体が無事と言う保証はどこにもないの。それでもいい?』  
 
メヒィルは黙って首を縦に振った。  
その瞳に、強い決意を宿らせながら。  
 
 
メヒィルは近くにあった洞穴の中に、触手となったシキッドを招き入れ、壁に松明をかざす。  
 
「受け入れ」の時に魔女が側で見守りアドバイスをすると提案してきたが、  
メヒィルは丁重に断った。  
それでも魔女はもしこれであなたの身に何かあったらと食い下がったが、  
彼女の魔力が切れたのか突然鏡の中の彼女の姿が掻き消えた。  
 
飼い主よりも空気の読める魔女のペットが鏡を咥えこの洞穴まで二人を案内し、  
音もなく黒い木々の中へと姿を消した。  
 
「シキッド……」  
どれだけ言葉を紡いでも、今の彼には言葉が届かないのだろう。  
魔女は目も耳も使えないと言っていた。  
ならば、どうやって今彼女の意思を、心を伝えよう?  
 
もし彼に胚送管を差し入れる気があったのなら、両足を縛られたあの時  
とっくにメヒィルにそうしていたはずだ。  
しかし彼はそれをしなかった。  
たとえ自らの皮膚から血が流れ、体がばらばらになっても。  
彼女に産んでもらわねば、朽ち果てると分かっていても。  
 
それほどまでに、歯痒くなるほど自分を大切にするシキッドに、  
視覚や聴覚に訴えることなく自分を抱いてもらう。  
それには、やはりこの方法しかないだろう。  
メヒィルは皮のマントを敷き、その上でゆっくりと服を脱ぐ。  
そして一糸まとわぬ姿になって、彼の体を抱き寄せる。  
 
うねる触手が彼女の体から離れようとするが、  
メヒィルはそれを許さずその触手を自らの乳房や股間に引き寄せる。  
 
「逃げては駄目よ、シキッド」  
たとえ伝わらぬと分かっていても、初めての行為に、  
男を誘うという自らの振る舞いに心が昂ぶり、自然と声が出る。  
「あなたはもう、私の夫なのだから。妻に恥をかかせるの?」  
 
触手の逃亡がぴたりとやむ。  
たとえ言葉が伝わらなくても、違う何かが彼へメッセージを伝える。  
「お願い……私を抱いて。あなたの好きなように」  
湧き出る汗が。高鳴る鼓動が。硬くなる乳首が。湿り気を帯びる秘裂が。  
少女の体全体から生み出されるそれらが、触手を伝わり怪物に伝える。  
 
女の体と心に、男を受け入れる準備ができたことを。  
流れる体液をそのままに、触手が姫の体をするするとさすり始める。  
 
「あ……」  
 
最初は50本近くあった彼の触手も、今は15本ぐらいにまで減ってしまっている。  
そのなかで一番肉厚の触手が、少女の口の中に進入する。  
 
「ふぅ……」  
 
それとともに何本もの細い触手が少女の可憐な唇の中へ続いた。  
 
メヒィルは知らなかった。人間の口がこれほどまでに敏感な器官であることを。  
舌や口内粘膜は、口に含んだ物の温度、硬度、形状、質感などさまざまな情報を  
一瞬で読み取るほどの神経が集中しているのだ。  
その口内に、何本もの触手がさすり、蠢くと、頭がくらくらするような快感に覆われてしまう。  
 
12分して触手が抜かれたころには、彼女の顔はすっかり上気し、  
唇の端からは少しだけ涎が垂れ落ちていた。  
大人のキスだけで立っていられなくなった彼女は、マントの上に倒れるように座り込んだ。  
 
そんな体に覆いかぶさるように、何本もの触手が向かってくるが、  
キスの間にすら23本の触手が抜け落ちる。  
もう時間はそう残されていない。  
 
「シキッド……はやく、はやく」  
 
そして触手たちは、ゆっくりと性器の愛撫を開始する。  
細長い3本の触手が、乳首に、顔を出した淫核に巻きついた。  
 
「ひいああああぁっ」  
 
あまりの激しい感覚に、か細い悲鳴が少女の口からあがる。  
体全身をびくつかせる少女の動きに触手の動きが止める。  
 
「ああ……違うの、痛いんじゃないの……だから、はやく」  
 
切なそうな声を上げて乳首に巻きついた触手を自らの手でメヒィルは絡めとリ、動かす。  
その動きに、触手が意を決意したように動きを早め始める。  
 
「ああ……いいわ、シキッド……たとえそんな姿でも、私は……私は……」  
 
声が、体が、ほんのりと色づき始める。  
 
ずっとメヒィルはこうなることを望んでいたのだ。  
たとえ愛するの者の姿が変わっても、行為の意味に変わりはない。  
しかしついに、彼女の性器を愛撫する触手さえその体から抜け落ち始める。  
 
「おねがい……早く、早く……あなたの体の種を……私の中に……」  
 
一番太く逞しい触手が少女の足の付け根に押し当てられる。  
それが、何かメヒィルには分かった。  
それはとても大きくて、ぬるついているとはいえ少女の中に入るとはとても思えない。  
想像以上のサイズに思わず少女の体が凍りつくが、  
目の前で新たな触手が血を吹いて抜け落ちたのを見て、覚悟を決めた。  
 
手でその太い触手を自ら淫核の下に当てがうと、やさしくさすって彼に伝える。  
するとシキッドの本体がわずかに身震いし、ついに彼の触手は彼女の中へ進入した。  
 
「っーーーーー」  
 
声にならない空気が肺から搾り出される。  
それは、肉を貫く痛みだった。  
 
しかし、メヒィルは震える腕で、シキッドの本体を抱きしめる。  
血を流しているのは彼女だけではないのだから。  
痛みも苦しみも受け入れられる覚悟が、小さな少女の体に備わっていた。  
 
メヒィルの抱擁に答えるように、シキッドの残された触手が血飛沫を上げながら  
乳首や淫核への愛撫を再開する。少しでも快楽で彼女の体が辛さから逃れられるように。  
 
身を削っても彼女の苦痛を和らげようとするその献身に、  
激痛を上回る幸福感がメヒィルの脳を支配する。  
 
たとえ痛みを消すことができなくても、メヒィルにはその痛みに耐えることができた。  
 
ふと、体の中の触手がわずかに膨張するのが感じられる。  
 
「ああぁあぁっっ」  
 
受け入れる悦びに、身篭る嬉しさにメヒィルの脳が弾け、肉が融ける。  
シキッドの細長い胚を子宮で受け止めながら、メヒィルは全身を痙攣させ気を失った。  
 
 
「畜生、あんな化けもんに横取りされてたまるかってんだ」  
ブラッドは悪態を吐きながら丘を登る。  
レットンの治療を簡単に済ませ、崖を迂回したからかなりの時間が経っている。  
「つーか姫さん生きててくれよ。死んでたりしたら目も当てられねぇ」  
 
化け物の移動先は闇夜の森の中でもすぐに分かった。  
なぜなら奴の移動した後には、点々と抜け落ちた触手や体液が残されていたから。  
「間抜けめ。ま、こんだけ抜け落ちてれば楽勝だな」  
彼の気がかりは目的の姫の生死のみ。  
だからろくに警戒もせず、抜け落ちた触手が示す洞穴に入った。  
 
「ああ、畜生……せっかくの初物を……」  
 
そこにいたのは、裸のまま開脚させられ少女とその体を支える触手。  
しかし少女の股間の大事な聖域はぽっかりと口を開き液体で濡れそぼっていて、  
彼女がこの触手に何をされたのか雄弁に物語っていた。  
 
「ま、いいさ。とっとと弱ったローパーから取り戻し……」  
そこで、大剣を抜いたブラッドは言葉を止める。  
触手の本数が、今まで見てきた抜け落ちたものと合わせて計算が合わない。  
最初に見た時50本ほど生やしていて、洞窟に入るまで30本は抜け落ちたものを見かけたはずだ。  
しかし今ローパーの体には最初に見た時と同じぐらいの触手が生えそろっている。  
 
「こいつは一体どういうことだ!」  
思わず洞窟全体に反響するほど大きな声を出すブラッド。  
しかし、姫は少しもこちらを見ようとしない。  
汗だらけで、視点の定まらない瞳でずっと空を見つめ続けている。  
 
そんな少女の体が、びくりと震える。  
「あ……来る、来ちゃう!」  
 
うわ言のように吐き出される言葉。  
細い腰が、小振りなお尻がぶるぶると妖しく蠢き始める。  
 
「あ、シキッド、あ、あっ、出る、でちゃあぁっ」  
 
ブシュル、と彼女の秘裂から、体液とともに触手が飛び出した。  
 
「ひっ、ぐっ、あ、ぁぁ……」  
 
生み出された触手は、にょろにょろと皮のマントの上を動き回ると  
ローパーの本体まで移動して合体する。  
 
「嘘だろ……」  
 
これ以上の時間を与えれば、怪物はさらに触手を増やす。  
ならば、今この時、決着をつけねば。  
ローパーに近づこうとした時、ブラッドの足に何かが巻きついた。  
 
それは、ブラッドが目印にしてきた抜け落ちた触手。  
「馬鹿な……抜け落ちたのは動かないんじゃ……」  
そこでブラッドは産み出された触手が本体と合体するさっきの光景を思い出す。  
おそらく触手は朽ちて抜け落ちたものではなく、産み出されたばかりの生命力溢れる触手。  
 
「ちっ……間抜けは俺か」  
ブラッドが自嘲気味に呟くと、彼の体に触手が殺到し、骨の折れる嫌な音とブラッドの悲鳴が洞窟内に鳴り響いた。  
 
 
「うう……あんなに激しくすることはないでしょうに……」  
メヒィルが長く激しい夫婦の営みを思い出して、顔中を真っ赤にする。  
『すみません、メヒィル様。あの男が近づいてくる気配がしていたため、  
ゆっくりと触手を作る暇がなかったのです』  
 
「シキッド……シキッド?あなた、シキッドなのね!」  
赤髪の涼しげな瞳の男にメヒィルは飛びつく。  
「良かった……人間の姿に、戻れたのね」  
しかし騎士はゆっくりと横に首を振り姫の体を離す。  
 
『これは夢ですよ、姫様。あなたの夢の中だから、私はこの姿であなたに会うことができたのです』  
「ああ、夢でもいいわ。もっと、人間のあなたに触れさせて!」  
さらに抱きつこうとするメヒィルを、強い力でシキッドは引き剥がす。  
『姫様、そのようなはしたない真似はおやめください』  
「私にあんなことをして、させておいて、いまさら何を言うの?」  
 
『あの傭兵たちを退かせるために仕方なくあなたの身を汚してしまいました。  
全ては私の不徳と無力が引き起こした悲劇です。  
今回のとこはいつか領の混乱が治まった際に命を懸けてでも償います』  
「汚す?償う?あなたは何を言っているのです?私達は儀式を行い夫婦になったというのに。  
夫婦が睦みあうのは当然のことでしょう?」  
『……残念ですが、私達は夫婦などではありません。なぜならあの時交わした儀式では、  
男の私が主神に誓いを立てていないのですから。今の私に口はないのですから、当然ではありますけど』  
 
「シキッド……あなたは……」  
突然姫の平手が騎士の頬を打つ。  
「馬鹿よ!大馬鹿よ!」  
『はい、私はあなたを汚せねば守ることもできない大馬鹿者です』  
 
あまりにかたくなな騎士の心に、メヒィルは涙を流しながら目を覚ました。  
 
 
「シキッド……」  
彼女の体が夜の闇に冷えないよう触手が全身に巻きつき、  
枕代わりとなった本体の体温が彼女の頭を暖めていた。  
「それでも私は、あなたを諦めないわ……」  
 
起き上がった少女は触手と本体を、裸のまま強い力で抱きしめる。  
うねる触手は、何も言わず主の頬の涙を拭きとった。  
 
 
 
終わり  

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