――13――  
 
 今日も元気一杯に地平線から顔を覗かせた太陽は、夜の名残りにわだかまる朝靄をさっさと追い払う。  
 木々を抜けて吹く風は穏やか。空はと仰ぎ見れば、ペンキを塗ったかのように爽快なまでに青一色。  
 ハーピーならずとも、飛び立ちたいと思わせる素晴らしい朝空だ。  
 そんな空と対比を成すかのように、一人沈み込んでいる人間がいる。  
 無論、ここには二人しかいない。そのうち一人はここで頭を抱え込まんばかりに落ち込んでいる。  
 今、もう一人が四肢を地につけて、泉のほうから歩いていくる。顔を洗っていたのだろう。彼女のウェーブした金髪には水滴が絡みつき、朝日を受けて宝石でも散らしたようにきらきらと輝いている。  
 酔ってそのまま寝てしまったユーリーだったが、彼にはしっかりと昨晩の記憶があった。  
 フレデリカを憎からず思っていたのは確かだけれど、普段の自分はあんなに恥ずかしい事はしない。酒の類を初めて口にした少年には、それが酔いの恐ろしさだとは理解出来ず「女の人の脚を舐めて喜ぶなんて僕って変態だったのかな」と的外れな自問自答を繰り返す。  
 とても恥ずかしい上に、変な事をしたとフレデリカに怒られるのも怖い。  
 まともに彼女の顔も見れずにいると、  
「おはよう。よく眠れたかしら?ほら、早く食べちゃいなさい」  
 紙袋がひょいと飛んできた。何かと中を見れば、朝食が入っている。出かける前にまとめて作ってもらったのでメニューは昨晩と同じ。  
 袋の中から、視線を上げる。  
 怯えた態度を素直に不思議に思っているのか、彼女は目だけで、どうしたの?と問うている。  
 その視線を逸らす事も意図を無視する事も出来ずに、おっかなびっくり、ようよう口を開いた。まるで真冬に池に張った薄氷をつま先で踏む気分。  
「あの…怒ってないんですか?」  
「あたしが坊やの何を怒るって言うのかしら?オネショでもしたって言うのなら、話は別だけど」  
 彼女の顔には、怒りやその類いの感情は一片たりとも浮かんではいなかった。それ所か、冗談を言いながら笑ってさえいる。  
「あの…昨日の…僕、フレデリカさんに変な…事……」  
 続く言葉は、もごもごと口中に消えた。  
「あぁ、別にどうってことないわよ。あの様子じゃあ、お酒飲むの初めてだったんでしょ?酔っ払っちゃってたんじゃ、仕方ないもの。それに坊やの酔い方、可愛かったわよ」  
 ぱちりと鮮やかにウインク。  
 ユーリーはほんの数分前まで蒼白だった顔を、今度は真っ赤に染めて俯いてしまった。  
 肩を竦めて、大人の余裕を見せるフレデリカ。ここで自分が受け止めてやらねば、この少年はネガティブな方向に走っていってしまうだろう。とは言っても、フレデリカも内心、あまり余裕は無かったが。  
 ユーリーを見た途端、昨晩の記憶がどっと蘇り、高鳴る動悸がひどくうるさく思えた。  
(いまさら未通女でもないってのに、大人しくしなさいよ)  
 ユーリーには笑顔を見せつつも、跳ね回る心臓を静めようと躍起になっていた。  
 もしその二人の様子を誰かが端から見ていれば、見たすべての者が初々しいとか甘酸っぱいとか評しただろう。もっとも口にした途端にフレデリカの照れ隠しにぶん殴られただろうが。  
 そうして手早く朝食を片付け、支度を始めた。  
 半分まで来たとは言え、まだ目的地までの道程は長い。この先、何が起こるか分からない。早く飛び立てば、それだけ時間に余裕を得られる。  
 焚き火の跡には、ユーリーが上からしっかりと土をかけて火の気を消す。ゴミは野生動物が嗅ぎつけて、彼らを寄せないように穴を掘って埋めた。  
 この森は近隣一帯の水源なのは明らかだった。付近の住人によって、手入れが行き届いている。下草はきちんと刈られ、樹には枝を打った跡が見てとれる。簡単に汚すような真似は出来ない。  
 その間にフレデリカは鎧を身につけ、大して多くはないが荷物を整理し、鞄にきちんと詰め込む。  
 ユーリーが森の精霊と、泉の精霊に一夜の宿を借りた感謝を捧げた。  
 時間は大切ではあったが、フレデリカは急かさなかった。彼女自身はあまり敬虔とは言い難かったが、他人の信仰にまでとやかく言うほど無粋ではなかった。  
 ユーリーが祈りを捧げ終わるのを待ってから、二人は飛び立った。  
 
――14――  
 
 森の黒山羊亭は、ホワイトストーン村のメインストリートに面して建っていた。  
 メインストリートとは言っても、王都の華やかで喧騒に溢れたロイヤルマイルとは比べるべくもない。所詮は、頭にドが付くほどの田舎の小さな村。幼い子供の足で全力疾走しても、一分と経たずに通りの端から端まで走り抜けて、お釣りがくる。  
 通りに面して立ち並ぶ店の密度も歯の抜けたようにスカスカで、それらの建物の中で、森の黒山羊亭はホワイトストーン村にただ一軒しかないレストラン兼宿屋だった。  
 一階のレストランは村の寄り合いに使われたり、仕事の退けた男達でそれなりに繁盛していた。どちらかと言うと、昼に飯を食いにくる客よりも、夜に酒場として訪れる客のほうが多い。しかも客のほぼ全員が村人。身内だ。  
 ジャガイモ畑くらいしか見るものがない村に訪れるような奇矯な旅人は少なく、二階の宿屋部分はあまり使われていなかった。  
 そんな環境だ。  
 客のほとんどが農業に従事する村人という商売柄、日中の客足はかなり鈍い。  
 一日分の仕込みは終えたものの、よく訪れる連中は全員畑仕事に出払っていて、相も変わらず客のいない昼前。この店の主、フランツは生欠伸を一つ。噛み殺そうとする素振りも見せない。  
 くあぁ、とフランツが半ばまで大口開けたところで、ドアが揺れて彼は欠伸を中断させられる羽目になった。  
 スイングドアを押し開いた二つの人影は、フランツに欠伸を途中で止めさせた上に、彼の目をぎょっと見開かせた。  
 ただ、珍しい時間に客が来たというだけではない。来た客自身も珍しかった。  
 大きい影はごく自然に構えるフレデリカ、不安げに寄り添う小さい影はユーリーだ。  
 女の上半身と獣の下半身をした魔獣と、人間。そちらはまだほんの子供だ。下手をすると、どこぞから攫ってきた子供を連れた魔物にも見えてしまう絵ヅラ。  
 唖然とするフランツの前で、子連れの女魔獣はテーブルについた。  
 先代の店主、フランツの父親は店に人族以外のフォルムをした種族が入るなんて考えもしないで店を作ったので、テーブルも椅子もフレデリカにはまったく合っていない。  
 女は、フランツの僅かに恐怖を含んだ驚きで凍っている様子をまったく気にした風でもない。あるいは、単にこの手の反応に慣れているだけか。勝手に椅子をゴトゴトとどかしては、その大きな体を収められるだけの場所を作っている。  
「い…いらっしゃい」  
 フレデリカが自分の席を作っていくのを呆然として見守り、自分の商売を思い出してようやっとそれだけの言葉を搾り出せた時には、既に彼女は席を作り終わって座っていた。  
 フランツに、いや、ここの村人にほぼ全てに共通しているが、フレデリカの姿に驚くなというのは酷だ。彼らは魔獣などほとんど見た事がないからだ。  
 この村の近くで人族以外の種族は、村はずれの森に住み猟師を生業にする人狼の一家に、パン屋を営む黒エルフの夫妻くらいのものだ。例外は時たま現れる盗賊と、そいつらを撃退する為に雇われる冒険者達。  
 近くの山にヒポグリフが巣を作ってしまい、飛来する魔物に村が襲われて大変な事になった時もあったが、それは「人食い狼が出た」というのと同じレベルだ。  
 この天地に生きる知性を持った種族としての魔獣を、どの種族であれフランツが目にした機会は、両手の指で数えられる程度だった。  
 
 魔獣幻獣は元々の個体数が少ない上に、彼らはあまり他の種族と積極的に交流を持とうとしない。  
 そして、未知は根源的な恐怖を誘う。フランツの反応は、閉鎖的で辺鄙な村の住人としては上出来の部類に入る。  
「そうびっくりしなさんな。キマイラエクスプレス、聞いた事ないかい?王都にある郵便屋だよ」  
 フランツとしては客商売の手前、顔には出さなかったつもりだったが、驚愕はあまりの大きさに少なからず表情に漏れていた。  
 数種の生物的特徴の混ざった魔獣を、女と言い切っていいものかフランツには判断しかねたが、女はその戸惑いを別段気にした風もない。  
 あたしはそこの配達員さ、とにこやかに笑って付け加えた。  
 まだ驚きが抜けないフランツに、女が気さくに話し続ける。  
「昼にはまだちょっと早いけど、何か腹に入れておきたくってね。あたしとこの坊やの分、何か食わせてもらえないかい?」  
「あ…ああ、いいともさ。その、ランチ二人前でいいかね?」  
 店主の問いに、フレデリカは鷹揚に手を上げて答えた。  
 しばらくして、いくつも皿を乗せた木のトレイがテーブルに運ばれてきた。  
 朝焼いたばかりのライ麦パン。芽キャベツと鳥のシチュー。付け合せに塩で茹でた人参とブロッコリー。フレデリカには蜂蜜と湯で割って薄めたワイン、ユーリーには茶。  
 なかなかに美味そうで、量もそれなりにある。  
 ホワイトストーン村は小さくはあるが、余所者に出す食材に苦労するほど貧しい村ではない。  
「フレデリカさん、あの、こんな事してる場合じゃないでしょう」  
 店内に入ってから初めて、少年の方が口を開いた。見た目から想像される通りの聖歌隊にも入れそうな、なかなかの美声。前に座る女にだけ聞こえるように喋っているつもりなのだろうが、他に人もいない店内では少年の高い声はよく通り、フランツまで会話は届いていた。  
 人がせっかく作った料理に、こんなとは言ってくれるじゃないか。  
 ひどく焦っている感じで、詰め寄ると言うよりは苦言を呈す少年を、パンを千切りながら女はやんわりと抑えた。  
 少年の様子は店に入った時からずっとそうであった。姿も声も無い何かに、急げ急げと背中をどやしつけられ急き立てられているようだ。  
「落ち着きなさい、坊や。何事にも順序ってものがあるの。朝ご飯、少なかったでしょう?まずは腹ごしらえよ」  
 そう言われてもなお少年は、心ここにあらず、と言った様子で視線は定まらず、始終そわそわしている。  
 女の方は、彼女が握るとまるでティースプーンにも見えそうな木のスプーンを口に運んでは、心底料理を楽しんでいる。  
 少年の方は料理にほとんど手がついていない。  
 シチューとパンを全部胃袋に収めた女魔獣が、ワインで満たされた木の杯を片手に、他愛無い世間話でもするような感じで何気なく聞いた。  
 
「ねぇ、ところで親父さん、この村にエヴァン=マイルスって人はいるかしら?」  
「エヴァンさんかい?村の外れに住んでるが…」  
 少年がキッとフランツに振り向く。それは大の大人であるフランツが思わずたじろいでしまうほどの勢いだった。  
 少年の目に宿るのは、身を焦がすほどの焦燥感と、すがり付くような目つき。少年の事情も、何を思っているのかもフランツの知るところではなかったが、尋常ではない雰囲気なのだけは分かる。  
 エヴァン=マイルスは十年ほど前に、この村にふらりと来訪し、そのまま居ついた人物だった。  
 何があってこんな田舎の村で生活したいと言い出したのかは語らなかったが、人の少ない村だけあって入植者は大歓迎だ。  
 寡黙ではあるが働き者なエヴァンは今ではすっかりホワイトストーン村に溶け込んでいるが、ただ一点、村に来る前の事だけは口を開こうとしなかった。  
 口さがない、と言うよりも他人の噂話が飯よりも好きな実害は無いが少しばかり鬱陶しい連中は、色々と勝手な憶測を巡らせては好きな事を言い合っていた。  
 彼はそれらの噂については肯定も否定もせず、直接聞かされてもエヴァンはただ困ったような笑顔を浮かべるだけであった。彼の人柄が、それを許していた。  
 フランツにも、目の前の少年の態度にも全く動じない、人がいない割りに慌ただしい雰囲気に包まれた店内にあってただ一人平静を保つ女魔獣。  
 彼女は杯のワインを舐めるようにして飲みながら、まったく変わらぬ口調でさらに尋ねる。  
「ここからはどうやって行けばいいのかしら?」  
「店を出て左に行って、通りの一つ目の角を右に曲がって、あとはずっと道なりに行き止まりまで。そうさな、小一時間も歩けばエヴァンさんチだ」  
 突如、バン、という大きな音が静かな店内に響いた。  
 一体全体今度は何だ、とフランツが顔を向ける。  
 そこはつむじ風でも通り過ぎたかのようで、椅子はひっくり返って床に転がり、乱暴に扱われたスイングドアがキィキィと不満の声を上げながら揺れていた。そして、つい一瞬前までいた子供の姿が消えている。  
 ようやく床に落ちてきた木のスプーンが、カランと乾いた音を立てた。  
 今日に入ってから何回目の驚きか、既に数える事も放棄して呆然と戸口を見つめるフランツ。  
 そんなフランツめがけて、キラリと光る物が緩やかな放物線を描いて飛んでくる。彼は慌てて受け止めた。  
 握った手を開いてみれば、そこには大振りな銀貨が一枚。ランチの代金にしては多い。この一枚で二人が食べたランチが十回は食える。  
 投げた当の本人は、狐につままれた様子のフランツに艶やかに微笑み、杯に残るワインを一息で干した。笑みの形に細められているが全く笑っていない眼は、分かってるわよね、と言っていた。  
 何を、とはフランツも問い返さなかった。銀貨を前掛けのポケットにしまい込み、返事とした。  
「あんたら…一体なんなんだ…」  
 ただ、一言、当然の疑問が口をつく。自分の混乱を沈める為だけの無為な質問。  
 答えは最初から期待していなかったが、女が答えた。  
「言ったでしょ?あたしは郵便屋。用事は郵便配達、よ」  
 女は脇腹に付けたサイドバッグをピシと弾く。  
 ついで、伸ばしたままの指でまだ揺れるドアを意味深に指し示した。  
 フランツにはその意味する事なぞ、分かりようもなかった。  
 
――15――  
 
 ハッ、ハッ、ハッ。  
 辺り一面は、もう花もしぼんでしまったジャガイモと、まだ頭を垂れていない緑の麦穂。  
 夏の日を浴びる畑の中に、一頭引きの小型馬車がようやっと通れるか通れないか程度の道が通っていた。  
 畑の中を続く一本の道を走る。  
 ハッ、ハッ、ハッ。  
 獣のような自分の息遣いが、やけに大きく聞こえる。  
 胃に食べ物を収めたばかりなのに運動したせいで、横腹がじくじくと痛んだが、構わなかった。  
 こんなところで倒れるもんか。やっと来たんだ。母の死に悲しむ暇も無く。色んな人の好意に縋って。細いチャンスの糸から糸へと綱渡りして。  
 それもこれも、全てはまだ見ぬ父に会う為に。自分を想い、送り出してくれた母に応える為に。  
 手を、足を動かす。激しく呼吸する。  
 走った。走った。  
 苦しくても走った。  
 ひたすらに走った。  
 心臓が、肺が、足が、一同にユーリーに「休め」と訴える。さもなくば、ペースを落とせ、と。  
 ユーリーはそれらを無視し、動けを命令した。  
 一分でも、一秒でも早く、望みの場所へと辿り着かねば。全てが泡と消えてしまうのではないかという焦りが、ユーリーを突き動かす。  
 貪欲に空気を求める肺。激しく呼吸する喉はカラカラで、血でも吐くんじゃないかと思うくらい痛む。  
 胃の中身が逆流しそうになるのを堪える。酸っぱい臭いが鼻をツンと刺す。  
 全身の筋肉に力を取られ、思わず視界が霞む。  
 その視界に、薄く白いヴェールの向こうに一軒の家が見えてきた。  
 店主の言った通りだった。そこで道が終わっている。畑が開けている。一軒の家がある。  
 ようやく、ユーリーは走る足を緩めた。途端、今まで感じなかった疲労が全部まとめて襲ってきた。膝が笑い出し、まともに歩けない。それでも一歩一歩、地面の感触を確かめるようにしてゆっくりと家を目指す。  
 目指す場所は、もう既にそこにある。手を伸ばせば届きそうな所に建っている、丸太で組まれたそこそこの広さの家。  
 もう幻のように消えてしまう事も無い。ユーリーはそう思った。  
 と、扉が開いた。  
 農夫姿の中肉中背の男が出てくる。  
 あれが、顔すら知らぬ自分の父親。  
 肉親との再会の期待に、自然、顔が綻ぶ。  
「おとうさ……!」  
 凍りついた。  
 父らしき男の後から、続いて人影が大小一つずつ、出てきたからだ。  
 母よりも若い女性。  
 自分よりも年下の女の子。  
 聡明な少年が全てを悟るには、それで十分だった。  
 
――16――  
 
「坊やも速いわねぇ。追いつくのが大変だわよ」  
 妙に年寄りじみた台詞が、ユーリーの背に投げかけられる。  
 その言葉に反し、文字通り、化け物の体力を持つ女は息一つ乱れてはいなかった。  
 田舎の人間からすれば魔物その物である自分が登場して、わざわざ感動の再会シーンに水を差す事も無い。  
 そう遠慮して、わざとユーリーを追う足のスピードを緩めていた。  
 フレデリカは飛ぶ事も出来るが、走るのにも長けている。彼女の足は、人のそれを遥かに凌ぐ速度を出せる。少しくらいのハンデがあっても、ただの子供に追い着くくらい訳は無い。  
 フレデリカのシナリオとしては、再会シーンを見届けた辺りで出ていって、受け取りにサインを貰い、代金を立て替えてもらうかどうにかして、静かに引き上げる。その筈だった。  
 彼女の思惑から外れていた事と言えば、ユーリーが道の真中に立ち尽くしていた事だ。フレデリカの思い描いていた筋書きは最初っから躓いていた。  
 ユーリーにやすやすと追い着いて、肩を並べる。  
 フレデリカが追い着いても、ユーリーは立ちすくんだまま。  
 不思議そうな視線を向けられても彼は何も答えない。動く気配を見せない。まるで足から根でも生えて、立ったまま大樹の精<トレント>にでもなってしまったかのようだ。  
 フレデリカは視線を移した。  
 ユーリーから足元の地面へ、次いで道を辿り、さらには道の先にある家へと。そこにいる一組の家族へと。  
 フレデリカも当初からおおよその事情は悟っていたが、それが今、確証へと変わった。  
 
 昔、昔、ある所に男と女がおりました。  
 男は女を捨てて逃げました。女は愛を信じ続けました。  
 女は人づてに男の居場所を知り、幾度か便りを出しました。全ては梨のつぶてに終わりました。  
 女はそれでもなお男への変わらぬ愛をその胸に抱き続け、男が帰ってくるのを待ち続けました。  
 女は病に倒れ、男へと、彼との間にできた愛の結晶を託しました。  
 男は、逃げた先で新たな愛を育んでおりました。  
 つまりはそういう事だ。  
 
 それでもなお、フレデリカはユーリーを促した。  
 彼女には義務がある。天涯孤独になりかけのユーリーを、なりかけのままで終わらせる事。少なくとも一人、彼女の見詰める先にはこの少年の肉親がいるのだ。あの男性にユーリーを引き渡さなくてはいけない。  
 彼女には一つの想いがあった。ユーリーは自分とは違う。全てを捨てた自分とは違う。捨ててはいけない物、手から取り零してはいけない物をまだ持っている。それを捨てさせない事。  
「あそこが宛先みたいね。都合よく受取人もいるみたいだし。ほら、坊や、行くわよ」  
 フレデリカがサイドバッグの中の手紙を取り出し、呆けたように立ち尽くすユーリーの手を開かせて、捻じ込むようにして持たせた。  
 焦がれるような肉親への想いは、ユーリーに肝心の封書の存在すら忘れさせていたのだ。  
「…いいんです」  
 細い首と頭が、力無く振られる。  
 方向は横。  
 否定。拒否。拒絶。  
 それはフレデリカの予想に反していた。  
「なんで!どうして行かないのさ!」  
 予想外の反応に絶句し、ついで小さく叫んだ。  
 
「あそこにいるのは坊やの親父さんなんだろう?!坊やの持ってる手紙にだって、なんて書いてあるかぐらいは馬鹿なあたしにだって想像がつくさ!」  
 フレデリカは他人を殺めた事もあるけれど外道ではない。  
 人の不幸を嘲笑う性癖など持ち合わせていなかった。  
 だから、少年に反駁した。  
「手紙を手渡しで届けなきゃいけないってのを口実にして、坊やのお袋さんはウチを使って親父さんのところまで直に坊やを送らせたんだろうに!」  
 彼女からして見れば、十分な幸福がそこにある。質素かも知れないけれども、その手を血に汚す事もない生活。街の喧騒と華やかさとは無縁だが、土と共に生きる退屈なまでに穏やかな平和と家族の安らぎ。  
 多くの人が望み、そしてくぐる事の適わぬ扉が、今そこに開いている。何故、それを自分の手で閉ざそうと言うのか。  
 フレデリカのヒステリックなまでの声に対し、少年は反論しなかった。  
 ただ、静かに首を振った。  
 ユーリーは、手の内に携えたままの封筒に視線を落とす。その掌はいつの間にか握り締められて、中に納められた手紙ごと封筒をくしゃりと潰していた。  
 その封筒には封蝋が押されてはいなかった。彼の母はそれを買う金さえ削って高額なキマイラエクスプレスの料金を捻出し、ユーリーを送り出したのだ。  
 故に、ユーリーは封筒の中身を見ていた。書かれている文面を知っていた。  
 そこには、母親の父親への変わらぬ愛と、ユーリーの身を案じる言葉が綴られていた。これを綴った時に既に己が病魔に冒され、そう長くはないと母親は悟っていたのだろう。紙の中の母は、ユーリーの事を一身に案じていた。  
 その一枚の紙切れが、目の前の家庭に嵐を巻き起こすとも知らずに。  
 ユーリーの父親も、彼に対する負い目もあろうから、無碍にはしないだろう。だがおそらく、迎え入れられたとしても彼の存在は平和そうな三人家族に決定的なヒビを入れるであろう事は想像に難くない。  
 ユーリーは顔を上げた。  
 視線の先には一人の少女。彼よりも年下の女の子。自分と同じく父譲りの金髪をなびかせた、おそらくは腹違いの妹。  
 両親と手を繋いで、幸せそうに、満面の笑みを浮かべている。あの笑顔を曇らせたくない。  
 他人の安寧と幸福を打ち崩してまで己の居場所を奪い取ろうとはしない。出来ない。  
 他人を傷つけてしまうくらいなら、いっそ己が傷つく方を選ぶ。  
 それがこのユルギス=マイルスと言う自虐的なまでに優しい少年だった。  
「……いいんです」  
 先ほどと同じ呟きが、再び口をつく。  
 宛名を見る。  
 正しく、ここだ。  
「フレデリカさんはちゃんと仕事をしてくれました。荷物はちゃんと宛先に届きました」  
 馬鹿みたいに明るい声。  
 ざあ、と風が吹く。  
「でも、その荷物は受取人がいなかったみたいです。受取人がいないと、荷物は受け取ってもらえません」  
 街とは違う森の香りをたっぷり含んだ風が、実りを待つ夏の穂を揺らす。  
 少年の手から真っ白い紙吹雪を優しく受け取り、遥かな空へと散らしていく。  
「さあ、帰りましょう」  
 ユーリーは笑っていた。  
 笑いながら、泣いていた。  
 
――17――  
 
 ユーリーとフレデリカは、昨日と同じ泉を宿にしていた。  
 あの後、ユーリーはすぐに泣き止んだ。だが、僅かな涙は一緒に彼の感情全てまでも流し去ってしまったようだった。  
 今のユーリーを表すならばほんの一言で済んだ。ただ、虚ろ。  
 過酷な真実に打ちのめされている少年を一人、見捨てて置き去りに出来るほどフレデリカは残酷ではなかった。だいいち、ユーリーの受け取り印を貰っていないので、そこで荷物を放り出したら配達失敗になってしまう。  
 彼を連れて、帰路に着くしかなかった。  
 村に一軒しかない小さな食堂兼宿屋、森の黒山羊亭を再び訪れて、フレデリカは往路で減った水と食料を補給した。  
 異形のキマイラと少年のコンビは、スイングドアを押し開けて一歩足を踏み入れるや否や、様々な種類の視線を集めた。そのどれもこれもが、下着の色まで探りださんばかりの下世話な好奇心に満ちていた。  
 視線の主達は、己のこびり付くような嫌な視線を隠しているつもりだろうが全く隠し切れていない。  
 さきほどは店主しかいなかったレストランだが、今は幾人かの村人がテーブルを囲んで何事かを話していた。  
 その輪の中に、店主もいた。僅かに怒気と殺気を滲ませたフレデリカが睨みつけると、彼はばつの悪そうな顔をして、慌てて厨房に引っ込んでしまった。  
 フレデリカは心中でフンと鼻を鳴らした。わざわざそれを顔に出して、噂話に新たな餌をくれてやる必要は無い。  
(肝心な部分は喋ってはいないようだけど、まったく忌々しいったらありゃしない)  
 話題の中心は、先ほどのユーリーとフレデリカであるのは村人の視線からも明らかだった。と言うか、それしかないだろう。  
 亡霊のような雰囲気を放つ少年は、フレデリカ以上に好奇の目に晒されたが、視線とユーリーの間にフレデリカの黒猫の身体がするりと割り込んで盾になった。  
 遠巻きに見守る村人達に一言も発せさせず、注文した品を受け取ると、乾いた羽ばたきを残して村を後にした。  
 それから数時間、ユーリーは一言も発しなかった。  
 まるでユーリーの代わりに死神か、疫病神でも乗せているよう。  
 背中に圧し掛かる重い雰囲気に耐えかねてフレデリカも声を掛けようとはするものの、どう切り出せば良いのか考えあぐねて、結局は黙った。  
 二人は来たのと同じ道筋を逆さまに辿った。  
 道も同じなら、寝床も同じ。  
 焚き火が燃えている即席の竃も昨日と同じ場所。  
 違うのは、届ける筈の『荷物』はまだあって、その『荷物』に見られた快活さが今は欠片も無い所。  
「ねぇ、坊や。お腹すいてない?」  
「…すいてません。何も食べたくないです」  
 取り付く島も無い。  
「そっちは寒くない?こっちに来たら?」  
「ここでいいです。寒くありませんから」  
 彼女に答える時でさえ、ユーリーは膝を抱えて座り、じっと火を見詰めていた。  
 ユーリーとフレデリカの間には、雲に消えるほど高い壁があるようだった。何を投げかけても、壁を越えて届く事は無く、全てが跳ね返されては投げ手に戻ってくる。  
「そ。じゃあ、あたしが坊やの方へ行くわ」  
 しばしユーリーの顔を炎越しに見詰めていたフレデリカが、衣擦れの音一つさせずに身を起こす。  
 
 そのしなやかな身体が焚き火をぐるりと半周して自分の方に向かってくるのを目の端で捕らえながらも、ユーリーの顔も心も微動だにしない。  
 フレデリカはユーリーの隣に腰を下ろし、上半身は起こしたままで、ゆったりとした寝椅子に寝そべる風に下半身を寝かせ、すらりと引き締まっているその下半身をユーリーに寄り添わせた。  
 昨日までのユーリーであれば、豊満な肉体とここまで密着すれば顔色の一つくらいは変えたものだが、今は違う。  
 ユーリーは身じろぎ一つしなかった。まるで、いま隣に座ったのが空気か何かで、そこにフレデリカがいないかのような対応振りだった。無視しているのではない。目に入ってはいるが見ていないだけだ。  
 あまりにも刺々しい。  
 ユーリーの中で感情の大渦が、棘となって表れている。  
 その刺々しい態度は、他人にだけ向けられているのではない。内側にも向けられている。  
 棘は他人を刺し、自分を刺し、その棘故に周りから誰もいなくなっても内を向いた棘は抜け落ちる事無く、ただ己を傷つけていくだろう。  
(この不幸な坊やは、その棘の抜き方を知らないのでしょうね)  
 父を知らず、母子二人の家族。それも死に別れたのではなく、捨てられた女と父無し子。王都近隣であるとは言え、農村という集団は概して閉鎖的だ。そして閉鎖的な集団は、自分達とは違う物、集団内の異物にはことさら辛く当たる。  
 ユーリーの家族が苦労の連続であったのは想像に難くない。事実、その通りだった。  
 これだけのいい子だ。ずっと母を助けて生きてきたのだろう。  
 泣き言も言わずに。  
 否、言えずに。泣いて叫んでぶち撒けてしまいたい事全てを、小さな胸に飲み込んで。ただでさえ重荷を背負った母の負担にならぬようにと、その胸に縋る事も出来ず。  
(抜き方を教えてあげないと、この子は壊れてしまう)  
 事実、ユーリーの心中は恐ろしく冷たい風が吹き抜けていた。ユーリーが立つ大地は土ではなく、無数のガラス片で覆われていた。  
 幼く純真な心は透き通ったガラスのように美しいが、脆い。そして一度割れれば砕けた破片は鋭い切っ先となり、心を埋め尽くし、全てに突き刺さり傷つける。  
 己の心の中で答えを見つけようと彷徨えば彷徨うほど、虚無の風は身を切り裂き、ナイフのように鋭い欠片が足を刺して血が流れる。  
 大人ならば誰しも多少なりとも心を鎧う術を身に付けている。現実と心の折り合いの付け方を、生きる中でゆっくり学んでいくものだ。  
 ユーリーにはその時間は与えられなかったのだ。酷く辛い現実を真正面から投げつけられ、砕けたガラスだらけの心の中を裸足で彷徨い、折り合う答えを探すしかなかった。それが、砂漠に埋もれた砂金一粒を探すに等しい行為とも知らずに。  
「少し、お話をしましょ」  
 それに応える者はいない。  
「聞く気がなかったら聞く必要はないわ。あたしがただ独りで、坊やの隣で話すだけ」  
 そう前置きしてフレデリカは話し始めた。  
 ごく淡々した、掠れたような声だった。  
 
 むかしむかしって言うほどでもない、ちょっと昔のお話。  
 ある所に一人の女がいたの。決まりきった村の生活が嫌で街の生活に憧れて、それだのに出て行く勇気もない女。  
 そして、悲しくなるくらいに馬鹿な女だったわ。  
 ひょいと村に訪れた吟遊詩人に入れ込んで、駆け落ち同然で付いて行った。  
 離れた街に一緒に住んで、その男に貢いだ。貢いだ。貢いだ。  
 でも手に職もないような村から出てきた娘にろくにお金が作れる筈もないわ。  
 夜の街で働いて、体も売って、お金を作ってはひたすら貢いだ。彼の言う事なら何でもきいた。  
 そうして残った物と言えば、別れの挨拶が一言書かれた紙切れ一枚と、ボロボロの体。  
 勿論、全部貢いじゃってるんだからお金なんて無いわ。薬も買えなけりゃ、医者にも診てもらえない。  
 
 ごしゃっと音を立てて、焚き火の中の薪が崩れた。  
 フレデリカが静かな手つきで薪を足す。  
 ユーリーは無言だった。  
 フレデリカも急がなかった。  
 放り込まれた新たな薪が、古い薪と一緒に火の舞を踊り始めてから口を開いた。  
 
 女は粗末なベッドの上で死にかけてた。その女の前に魔女が現れた。  
 魔女は病なんて診やしなかった。代わりに、死にそうな女に尋ねたの。『お前はまだ生きたいかね?』ってね。  
 ほんっとーに馬鹿な女よね。頷かなければ、その手を取らなければ、安らかに逝けたかも知れないのに。  
 魔女が本当は何を考えていたのかなんて知らない。ただ、女は死にたくなかった。  
 それが幸いなのか不幸なのか知らないけど、女は死なずに済んだわ。  
 でも、死んだ方がマシだと思えるほどの借金も出来た。  
 人間である事もやめた。  
 
 キマイラと言う単語は二つの意味を持つ。  
 一つはこの世界に生きる魔獣の一種族そのものを指す。ライオンの頭に山羊の胴体、蛇の尻尾を持つ者達だ。  
 そしてもう一つは、『由来が異なる複数の部分から構成されている者達』。  
 フレデリカは後者だった。  
 真の意味での合成魔獣。  
 死にかけた女、黒猫、鴉、蝮。  
 大きな魔女の鍋に全部まとめてぶち込んで、ぐつぐつ煮込んでぐるぐるかき回して、呪文を唱えればポン!  
 フレデリカが両手で何かが爆ぜるジェスチャーをする。  
 それっきりフレデリカは口をつぐんだ。  
 ユーリーも無言だった。  
 ゆるやかに踊る炎が二人を照らす。  
 二対の瞳が、ぱちぱちと燃える火をじっと見つめていた。  
 足した薪が火の中で燃え崩れ始めた頃、ようようユーリーが口を開いた。  
 そこからは、およそ感情という物が消え失せていた。冬に吹く北風のように冷たく痛々しく、まるで一気に歳をとってしまったようだ。  
「フレデリカさんは不幸自慢がしたいんですか?」  
「あたしの方が坊やよりも不幸だから安心しなさいって言いたがってるって?まさか。あたしは自分を惨めにさせて喜ぶような性癖なんて持ってないわ」  
 フレデリカの言葉は事実だ。それが猫が混じっているからかなのかは彼女自身にも分からないが、彼女はどちらかと言うとサディストの気の方が強い。  
「あたしが言いたいのはね、人生やり直しがきかないって事よ」  
 フレデリカの視線は、ユーリーの横顔から動かない。  
 ユーリーもまた、火を見詰めたまま。視線は微動だにしない。構わず、フレデリカは続けた。  
「ここで吐き出さなけりゃ、坊やはずーっとその胸の中にもやもやしててトゲトゲしたモノを抱えて生きてかなきゃいけないって言ってるのよ。  
 過去はね、捨てる事は出来ない。起きてしまった事だから、ひっくり返す事も出来ない。  
 出来る事と言えば、飲み込む事だけ。でも苦くて大きくて刺々しいのを簡単には飲み込めないわ。  
 だから、まず最初にソレから棘を取ってあげないとダメ。  
 坊やはね、その棘の取り方を知らないだけなのよ」  
 フレデリカの片手が自分の背中に回された。  
「あたしが、坊やの胸にがっちり刺さっちゃってる棘の取り方を教えてあげるわ」  
 焚き火が爆ぜる音に混じって、ぱちり、ぱちりという音がする。  
 と、フレデリカの胸元を覆っている白い鎧がずれた。その鎧は社のキマイラ一人一人にオーダーメイドであつらえられており、専用の鎧はフレデリカの肌に吸い付くようにぴったりと合っている。その鎧と肌との隙間が大きくなる。  
 ビスチェ風の革鎧と高価そうなレース飾りのついた下着をまとめて引き剥がすようにして脱いだ。  
 夜目にも鮮やかな白い肌が露わになる。  
 
 フレデリカは、肉感的な裸身を惜し気もなくユーリーの前に晒していた。  
 胸元全てが冷たい夜気に晒され、わずかに粟立つがそれもすぐに消えた。それは焚き火の温もりか、それともユーリーの為とは言え肌を晒す僅かな羞恥の所為か。  
 日々の配達業務と実戦は、フレデリカの身体を筋肉質にならない程度にしっかりと鍛えあげている。それは彼女の全身余す所無く及んでいた。  
 昨日、ブラウスに見事な谷間を作っていた小高い二つの丘は、重力に屈する事無く、その質量感も誇らしげにツンと前方に突き出している。  
「今日は大盤振る舞いよ、あたしの胸を貸してあげる」  
 流石のユーリーもこれには反応した。否、まだ彼の感情は生き返ってはいない。反応したと言うよりかは、たまたま顔の向いた方向にフレデリカの裸があった、と言う感じだ。  
 フレデリカは、鎧の留め金を外した手を今度は彼女の方に向いたユーリーへと差し伸ばす。  
 肉親のものくらいしか女性の裸を見た事が無いであろう年頃の少年だというのに、戸惑う訳でも、照れる訳でもない。  
 漆黒の長手袋をしたような手が、そんな彼の後頭部にそっと添えられる。  
 そして手は主の元へと引き戻され、素晴らしい胸の谷間にユーリーの顔をグイと押し付けた。  
 まるで愛し子を抱くようにして、ユーリーを抱き締めながら、フレデリカはありとあらゆる全てへの許容をもって囁く。  
「いい、坊や?辛い時、悲しい時は泣いていいの。男の子だからって我慢する事はない。泣ける時にしっかり泣きなさい」  
 まるでブ厚い氷のようだったユーリーの表情が、じわりと揺らぐ。  
 どんなに厚い氷だとて、いずれは融ける。永遠に続く冬など無いのだ。暖かな日差しを受ければ、氷は融け、流れ、消えるのが宿命。  
 フレデリカのただの一言が、ユーリーにとってどれだけの救いと許しを運んだのだろうか。  
 なだらかな肩が震える。  
 嗚咽が搾り出される。  
 胸の奥底から溢れだす物は、ユーリー自身にも押し留める事は出来なかった。  
「そうよ、泣いて泣いて、涙と一緒に嫌な気持ちは全部捨てちゃいなさい」  
 フレデリカは双丘の谷間に、熱いものが伝い落ちるのを感じた。最初は僅かな一筋、それもすぐに滔々とした流れと化した。  
 ユーリーは泣いていた。  
 ぎゅっと閉じられた双眸から己の全てを吐き出すかのよう泣き方だった。涙は途切れる事無く溢れてはフレデリカの胸元を濡らしていく。  
 だが、滂沱と涙を流しているのというのに、不思議と泣き声は聞こえなかった。ユーリーは歯を食い縛り、己の声を殺しているのではない。  
 大きく口を開けて、喉を震わせていた。無音の叫びがそこからは迸っていた。  
 溢れる物が大き過ぎるが故に、人の感じ取れる範囲を超えてしまっていて誰の耳にも聞こえない。そんな感じだった。  
 それはまさに慟哭と呼ぶに相応しかった。  
 ユーリーの頭を優しく抱いているフレデリカの腕に応えるように、ユーリーもまた彼女をひしと抱きしめていた。  
 慟哭に震える少年の頭を、フレデリカはずっと撫でていた。彼女は嫌な顔一つ見せない。嫌な顔どころか、その顔には、まごう事なき慈母の微笑がたたえられていた。  
 
 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。  
 フレデリカの谷間を伝う涙の流れが途切れ、肩の震えも収まった頃、フレデリカがポツリと呟く。  
 手はゆるゆるとユーリーの金髪を梳ったまま。  
「捨てなさい、か。どの口が吐くのかしらね。  
 親も捨てた故郷も捨てた友人も捨てた。人でいる事すらも捨てた。くっついてくるのは馬鹿な選択しかしなかった過去のツケと呪いと借金ばかり。  
 その結果が純粋種達には"混じり"だからと嫌われる。かと言って魔術の産物だと人にも疎まれる。  
 あたしも坊やとおんなじ。嫌になるくらい独りぼっちよ」  
 一見、あっけらかんとした独白には、とても濃い自嘲が含まれていた。  
 フレデリカは悩み惑う人間が良くそうするように、ふと天を仰いだ。  
 だが、月も星も何か応えてくれよう筈も無い。そこに住まう神々にとって、人の悩みなど蟻にも等しい些末事。  
 健気にも女を不安から守ろうというのだろうか。回されたユーリーの腕に僅かに力が篭る。  
 星々の代わりに、少年が応えた。  
「違います。フレデリカさんは馬鹿なんかじゃありません。お店でフレデリカさんが言ってくれたから、僕はここまで来れたんです。馬鹿な選択なんかじゃないです。  
 最初は気まぐれなのかも知れないけどフレデリカさんは僕を助けてくれました。他の人が嫌いになっても僕はフレデリカさんを嫌いになったりなんかしません  
 何が混ざってたってフレデリカさんはフレデリカさんじゃないですか。  
 たしかに僕は独りぼっちです。でも、今は一人じゃないです。あの、その、フレデリカさんがいてくれるから……」  
「ふふ、ありがと。こんなに可愛くっても、やっぱり男の子なのね」  
 そうして、女はまた少年の頭を撫でてやり、少年は女を抱きしめ返した。  
 
――18――  
 
 一頻り、泣いたからだろうか。  
 ユーリーからは綺麗に憑き物が落ちたようだった。すっかり元通り、とは行かないまでも心を厚く覆っていた氷が剥がれ落ちたようで、ユーリーの瞳には感情と理性の光が戻ってきた。  
 ただし、この状態で、感覚とついでに本能まで戻ってくると男としては困った事になる。  
 ユーリーはほとんど全裸のフレデリカに抱きしめられ、その巨乳の谷間に顔を埋めているのだ。照れくささから腕の中から抜け出したくもあり、また彼女の芳しい香りと乳房の弾力をいつまでも味わっていたくもある。  
 そうしてユーリーの理性が葛藤している間にも、彼の本能は着実に仕事を果たしていく。すなわち、最高の雌を前にした雄としてスタンバイする為に。  
 股間が熱くなっていく。下着の中で勃ちあがり始めたモノの納まりが悪く、もじもじと内股をすり合わせる。  
 本人としては、フレデリカにバレないようにこっそりとしているつもりだったのだが、無論、ほとんど密着状態の二人なので隠しとおせる訳もなく。  
 人であった頃の人生経験から、フレデリカの方が男女の機微では初心な少年より何枚も上手だった。ユーリーの状態など、心も身体も両方とも簡単に予想出来た。  
「もっと慰めて欲しい?」  
 フレデリカの言葉は短い。  
 不意にかけられた言葉を無視する訳にもいかずに、悪戯を叱られる直前の子供のようにおずおずと顔を上げる。金色の瞳がユーリーを射る。  
 そこには悪戯っ子のような笑みと、好色が浮かんでいた。慈母は姿を潜め、娼婦が取って代わる。  
「まずは返事して。イエスかノーか、よ」  
 ユーリーは十代前半ではあるが、まだまだ幼さが残る年齢だ。加えて、その生い立ちと母の手伝いばかりしていたので友達も少なく、また彼らと一緒に遊ぶ時間も少なかった。その年頃の男子が三人も集まれば自然と話題に上る、所謂"その手の話"にも疎い。  
 それでも、おぼろげながらではあったがフレデリカの言葉の意味は分かった。  
 こくん、とユーリーの白い喉が動く。  
 ついで彼の頭も動く。  
 それはユーリーの心中を映して、引っ掛かりながらの歪な動きだったが、確かにコクリと縦に振られた。  
「そ、いいお返事。でもさっき言った通り、人生はやり直しがきかないの。だからぁ…途中でゴメンナサイって言っても許してあげないから」  
 賽は投げられた。子羊は雌狼の前に自らその美味そうな身体を投げだしたのだ。  
 フレデリカの指がユーリーの頤にかかり、つい、と自分を向かせる。  
 目が合う。暗闇から獲物を狙う猛獣のように炯々と光る眼差し。  
 ユーリーの唇に温かく柔らかい物が押し付けられた。  
 それがフレデリカの唇で、キスされたのだと理解した次の瞬間、舌が唇の隙間を押し広げて入り込んできた。  
 突然の事に目を見開くユーリーだったが、すぐに驚愕は快感に押し流された。  
 口内に伸ばされたフレデリカの舌先が、怯えて縮こまるユーリーの舌先をちょんちょんと突付いて、まずはご挨拶。  
 舌の腹全体を使って口蓋を舐める。先端でくすぐるようにして歯茎をなぞる。人よりも長く器用に動く舌が、緊張を解すようにユーリーの舌に絡みついては捏ねくり回す。  
 あちらこちらと気まぐれに動いてユーリーを翻弄し、蹂躙していった。  
 初めのうちはメデューサに石にされたみたいにカチンコチンだったユーリーだが、次第に体から力が抜けていく。まるでフレデリカがユーリーの体を縛る緊張を吸い出していくようで、重なった唇の間からクチュクチュと水音が漏れ始める頃にはとうとう彼女に体を預けていた。  
 
 母に頬や額にされた事のある親愛の情を示すキスとは全く違う、初めての濃厚な口付けにトロリと蕩け、ぬるま湯にでも浸かってうたた寝をしているような表情をしているユーリー。  
 最初は驚愕を映していた瞳も、いつしかしっとりと潤んでいた。  
 半開きになった口の端からは、ユーリーのとフレデリカのが混じりあった唾液が、つぅっと伝い落ちる。  
「あら、勿体無い」  
 顎先から半開きになった唇まで伝う跡を、ぺっとりと突き出された舌の腹が逆さまになぞり、舐めあげる。  
 ゴールまで辿り着く。優勝者にはユーリー少年の桜色の唇を漏れなく進呈。ちょんと触れ合う程度の軽いキス。  
「大人のキスはどうだったかしら?」  
 フゥフゥと切なげな吐息を漏らす唇を、フレデリカが小鳥のように啄ばみながら問う。  
 その答えを待つ気は彼女には最初から無かったのだろう。  
 何かを答えようと開かれたユーリーの唇に、物も言わせず再び重ねた。  
 先ほどよりもさらに深く。挿しいれられたフレデリカの舌はユーリーの口蓋をちろちろと舐め、唾液を啜り、お返しとばかりに自分の唾液を送り込む。  
 長い長い交換の後、ようやく離れた二つの唇の間を細い唾液の橋がしばし繋いで、切れた。  
 こくり、と嚥下したユーリーにフレデリカが再び問うた。  
「もう一回、する?」  
 躊躇があった。オネダリしてはしたない子と思われたくない。が、それもほんの数瞬の間のみ。  
 頬に朱を散らしたまま、うるんだ瞳でフレデリカを見詰める。  
「……はい」  
 二人の距離が再び縮まり、やがて零になる。  
 フレデリカの真似をしようというのだろう。健気に精一杯突き出されるユーリーの舌を、フレデリカは絡め取るようにして迎えた。  
 二匹の龍が睦みあうように、舌はその身をくねらせ、絡み合う。  
「あっ、そこは…」  
 ユーリーが反射的に身を引こうとする。  
 フレデリカが、目だけでニヤリと笑った。がばりと身を起こす。横からお互いを抱き締める形だったのを、フレデリカは人間離れした筋力に物を言わせてユーリーを優しく組み敷く。一瞬の早技はユーリーに抵抗すらさせなかった。  
 ジタバタともがくユーリーの口を文字通り塞いで黙らせて、フレデリカは彼の同意を得ずにその先のステップへと歩を進めていた。  
 二人の口腔から漏れる水音に、カチャカチャと言う金属音と激しい衣擦れの音が混ざる。  
 今までの中で最も長いキス。  
「…ぷはぁっ」  
「んんん!……っはぁ!あ、やだ、フレデリカさん、か、返して下さい」  
 長い長い口付けの終わりしな、フレデリカの手から何かが放り投げられる。ぱさっと軽い音を立てて地に落ちたのは、ユーリーが身に付けていた半ズボンと下着だ。  
 果たしてユーリーの下半身は剥かれ、白く細いユーリーの両足の間からは男の象徴が精一杯自己主張していた。ペニスと言うよりはオチンチンと表現した方がいいような、先端は半ば以上が皮に包まれている、まだ生っ白い子供のソレではあったが。  
 内股になり、ピンと勃ち上がったモノを両手で必死で隠そうとするが、それはフレデリカが許さなかった。  
 
 ユーリーが束になっても敵わない獣の筋力で優しく、しかしガッチリとユーリーの手首を掴み、彼が座っていたコートの上に組み敷いていた。組み敷く、と言う単語から連想される男女の位置とはの立場がまるで逆だ。  
「返してくださいよ〜」  
「あらぁ、着たままじゃ出来ないじゃない。それとも…坊やは着たままの方が興奮するのかしら?」  
「そういう訳じゃないですけど…」  
「じゃあ、いいわよね」  
 フレデリカはユーリーの抗議を風に柳と受け流す。  
 こんな人を捨てた自分に好意を寄せてくれたのだ。ならば、する事は決まっている。フレデリカは、ユーリーの意思に女として全身全霊全力を以って応える気だった。  
 雄々しいというよりは可愛らしいと言った風情の性器ではあったが、そいつを見てしまったのだ。体内を駆け巡る熱と疼きが、理性を痺れさせていく。もう止まらない。フレデリカ自身にも止められない。止める気もない。  
 フレデリカの頭が徐々に徐々に下がっていく。ユーリーの身体の上を舐めるように低く這う。  
 首、胸、腹、腰、そして太股の間へ。  
 フレデリカの視線はユーリーの顔を見たまま。ひたり、と見据えられてユーリーもその視線から逃れられない。フレデリカが自分のペニスのすぐ側まで綺麗な顔を寄せていくのを、ただじっと見詰める事しか出来なかった。  
「ひゃあ!」  
 フレデリカはぽってりとした唇をすぼめて、ふぅっと吹く。  
 途端、股に息を吹きかけられたユーリーが女の子のような悲鳴を上げた。  
「昨日は坊やがこうしてくれたのよね。だから、今日はあたしがお返ししてあげるわ」  
 若々しい肌に、ちゅ、と吸い付いた。  
「くっうぅん!」  
 フレデリカの身長、彼女の場合は全長と言うべきか、は窮屈ながらも背中にユーリーを載せられる事から分かる通り、人と比すると巨体と言える。  
 上半身は妙齢の女性ではあるが、そちらも全身とのバランスを取る為にかなりの大柄だ。魔獣になった時に、そういう風に変えられていた。  
 そして人のパーツも大きい。その舌も含めて。  
 フレデリカの大き目の舌が太股をちろり、ちろり、と舐め上げるたびにユーリーは声を上げた。  
 舌先からまるで電撃でも流れているように、舐められた所から背筋までがぴりぴりと痺れる。ユーリーは自分でも信じられないほどいやらしい声が出てしまう恥ずかしさから口元を手で押さえたが、その声を押し留める事なんて出来っこなかった。  
 翡翠の瞳は潤み、女の子のように長い睫毛が切なげに揺れる。  
 同時に腰も揺れる。  
 ユーリーはフェラチオという単語を知らない。  
 言葉を知らずとも本能は、敏感な幼竿をフレデリカの唇や舌で触れてもらえば、より大きな快感が得られる事を知っていた。  
 ユーリーのペニスはさらなる快感を求めて、腰を突き出すようにくねくねと揺れる。  
 揺れるのだが、熱烈に求められる事に嬉しそうにしているフレデリカに太股をがっちりと捕まれて、動きを握られているので届きようもない。  
 ユーリーにも自分がエッチな事をして欲しくって腰を揺らしているのは分かっていた。分かっているが、どうにも止められない。  
 どれだけフレデリカを求めようとも、切なげなユーリーに意地悪そうに微笑みかける彼女には決して届かず、逆に赤い舌が白い内股の上で奔放に踊ってはどうしようもなく腰をゾクゾクさせる。  
 彼女が頭を上下させる度に、金髪の幾本かがペニスを掃くようにして掠めていく。  
 焦らされて研ぎ澄まされた先端は、そんな些細な刺激でも残さず感じ取っては快感に変換していく。焦らされて過敏になった神経は、容易に細い身体を跳ねさせる。  
 
「やっ、やっ、フレデリカさぁん」  
 切なげにフレデリカの名を呼ぶユーリー。  
 ユーリー自身と同様に、たっぷりと焦らされ続けはするが頂きに達する事の出来ない切なさに、ペニスも涙を流し始めた。  
 慎ましやかなペニス先端に入った切れ込みを押し広げ、ぷくりと水滴が膨れる。  
 僅かに粘る水滴は、揺れる炎を照り返して、きらりと光る。  
 ユーリーが震えが伝わったのだろう。水滴が亀頭の先端にわだかまっていたのは、ほんの少しの間だけ。すぐに零れ落ちた。つぅっと滴る先走りは、段差の少ない造形の肉筒の根元まで光る道をつけていく。  
「もう、意地悪…しないで下さい」  
「意地悪ってどんな事?」  
「それは…」  
「意地悪って言うのは、こぉんな事、かしら?」  
 言うなり、小さな胡桃が二個包まれた白い袋を、そっと撫で上げた。  
 肉球を備えた指の腹の方ではない。手の甲側の毛皮で、だ。  
 人肌とは全く違う、滑らかなビロードで擦られる感触がユーリーの脳を痺れさせる。  
 満足に毛も生え揃わず、そよぐ陰毛も皺も少ないツルンとした少年の陰嚢が柔らかく擽られるたびに、甘く強烈な疼きがユーリーを喘がせた。  
「くうっ…ぅううん!ふぁっ!」  
 フレデリカは満足げな微笑をうかべながら、泣きべそをかく一歩手間まで来ているユーリーの嬌声をさらに引き出していく。  
 彼女の愛撫は決して忙しいものではなかった。あくまで優しく、羽毛のように軽やかに。蟻の戸渡りを円を描くように撫で、袋の中で放出を待ちわびる胡桃のコリコリとした感触を楽しみ、内股を擦り上げていく。  
 まるで掌中の小動物を可愛がるように、ゆっくり、ゆっくり。  
 おちんちんの下にぶら下がる袋がこんなにも気持ち良くなれる場所だと、これ以上ないと言うほどフレデリカはユーリーの身体に教え込んでいた。  
 ユーリーの口から漏れる鼻にかかった喘ぎがフレデリカの耳を震わせるたび、悦楽を欲する獣の部分がフレデリカの心をぞわぞわと侵食していく。フレデリカはそれを押さえるどころか、手に手を取り合って少年を弄ぶ。  
 最初はさらりとしていた指もいつしか溢れる先走りに塗れ、濡れたビロードで撫でられると言う独特の感覚がユーリーを焦がす。  
「フ、フレデリカさぁん…もう…」  
「ん?どうしたの?気持ちよくない?」  
 フレデリカは朗らかとさえ言える笑顔で尋ねた。  
 ユーリーがどれだけ辛くって何を訴えているかなんて、彼女にはまさに手に取るように分かる。  
 何よりも、フレデリカの目前で先走りをトロトロと垂れ流し、ぴくんぴくんと震えるペニスが彼の言葉以上の説得力を持って訴えている。  
(ちょっといじめ過ぎたかしら)  
 ちらりと反省が脳裏を過ぎったが、それも束の間。  
(坊やがあんまりイイ声で鳴いてくれるから、ずっと愉しんでいたくなるのよねぇ)  
 肉欲と嗜虐に染まった瞳でユーリーを見上げるフレデリカに、そろそろ次のステップに進もうと彼女の内なる獣性が提案する。  
 フレデリカは賛成した。耳では十分楽しんだ。次は味わってみたい。  
 
 先ほどからフレデリカの熟れたカラダも、ユーリーとの言語を用いない、より原始的なコミュニケーションを欲している。  
 ユーリーにはとても気付く余裕はなかったが、四つん這いの姿勢で高く掲げられた彼女の美尻と尻尾がまぁるく円を描くようにして蠢いていた。  
 息も絶え絶えのユーリーだったが、焦らしに焦らした本人が彼にお詫びをするかのように動いた。フレデリカの謝罪は言葉ではない。お詫びの印は、更なる快感。  
 ちゅ、とペニスの先端に吸い付いた。  
「っくん!あぁぁっっ」  
 ユーリーの喘ぎ声のオクターブが跳ね上がり、切羽詰った感じがいや増す。もう泣き叫ぶような声だったが、フレデリカは気にしなかった。  
 ちょんちょんと小鳥が餌を啄ばむみたいに、包皮から顔を出している亀頭にご挨拶。舌先を僅かに突き出して、ぷっくり膨らんだ表面を掠めるように一舐め、二舐め。  
 先っぽに生まれた甘美な痺れが腰まで届き、ユーリーを悶えさせる。  
 舌先は天辺に辿りつき、湧き出す先走りを舐める。自然、敏感な鈴口をフレデリカの舌が這い回る。  
 ユーリーは溜まったものではない。後頭部を地面に擦り付けるようにして仰け反り、産まれてからこっち味わった事の無い、強すぎる快感に悶えた。  
 元より自慰の経験もほとんど無いような少年に、元娼婦であったフレデリカの熟練の舌技に耐えられる筈もない。  
「…ひぅんっ!イイッ…くぅぅんっ!」  
 先端を被ったままの包皮と亀頭の間に、そっと舌先が挿しこまれる。亀頭の周りをくるりと回る。  
 途端、目の奥が白くなる程の快感が強烈にユーリーを痺れさせる。  
 くるり、くるりとフレデリカの舌がさらに回る。  
 視界を染める白光が爆発的に強くなる。ユーリーの顔が引き攣る。  
 フレデリカの唇の下で、亀頭がぷくりと膨れる。  
「ひぃぃ、んっ!やぁ!あ、あはああぁぁっ!!」  
 次の瞬間、  
「あはぁ!出た出た。坊やのおちんちんったら可愛いわ〜」  
 ん〜、と舌を伸ばす。  
 ペニスは火山のようにマグマを吹き上げて、伸ばされたフレデリカの舌と言わず、すっかり雌と化した顔と言わず、満遍なく白い化粧を施していく。  
 まだまだ発達途上のユーリーのペニス。その段差の小さい雁首を、包皮の上から段差をなぞるようにしてフレデリカが舐め上げる。  
 まだ精液を吹き上げている途中なのに、射精しながらの愛撫を受けた方は堪ったものではない。  
「やぁ!フレデ…ッリカさぁん。そっ…それ、キツ過ぎぃっ…です〜」  
 敏感になった所を舐められる。  
 さっきはフレデリカの口での愛撫をねだって振られた腰が、今はそこから与えられる強すぎる刺激から逃げようとして振られる。  
 動きにつられて一緒に振られるペニスからは精液が撒き散らされて、フレデリカの胸元や、ユーリー自身の体の上にぱたぱたと落ちては白く汚していく。  
 降り注ぐ精液を悦びと共に顔で受け止めながら、フレデリカは射精直後で敏感な先端を思う存分、舌で弄んでいた。快楽拷問のような口唇愛撫はユーリーを泣き叫ばせ、それはペニスの脈動が収まるまで続いた。  
 弓なりに背を反らせていたユーリーの身体から緊張がふっつりと抜け、とさっと地面の上に身体を横たえた。  
 ようやく解放されて息も絶え絶えのユーリーの上で、淫らな化粧をしたフレデリカが艶然と微笑んでいた。  
 
 美しい顔にこびり付いた精液をしなやかな人差し指で拭い取る。  
「さすが、若いだけあるわよね。こぉんなにたっぷり出しちゃって…嬉しいわ」  
 フレデリカが手を広げ、指輪でも眺めるような仕草をする。指先に煌くのは宝石ではなく、にちゃにちゃと粘る白い欲望の残滓。  
 それをフレデリカの蕩けた眼差しが見ていた。湯気が立ちそうなほど熱い精液の熱が匂いと一緒にフレデリカの身体に染み込んでいくようで、どんどん胎の底が熱くなっていく。  
 口を開ける。はぁ、と熱い吐息が漏れる。若い雄に見せ付けて官能を煽るように、紅い舌先を伸ばす。  
 フレデリカは躊躇せず、白濁に塗れたままの指を口に運んだ。  
「あ、ダメです、汚いですよ!」  
「あら、汚くなんかないわよ。坊やが出してくれた物ですもの。それに…こんなに美味しいんだから」  
 ちゅぷっ、ちゅぱっ、と殊更に大きな水音を立てて指にこびり付く精液を啜る。  
 己の行為と少年の青臭い性臭に酔い、陶然とした顔のフレデリカ。  
 ユーリーに見せ付けるように、彼のゼリーのように濃い精液を口に運んではワインでも味わうように飲み下す。  
 イケナイとは思うもののフレデリカほどの美女が自分の吐き出した白濁液を飲みこんでいく、その淫靡な光景がユーリーの雄をさらに駆り立てていた。心臓が大きく脈打ち、力強くビートを刻む。  
 一回放出した直後だと言うのに、ユーリーの幼竿は萎えるどころか鎌首をもたげ、前にも増して猛っていた。  
「はい。アーン、して」  
 フレデリカの指が、つ、とユーリーの口元に差し伸ばされる。  
 これが正気だったならば、とても口にしなかっただろう。  
 あらゆる箇所と五感全てから送り込まれる快感は二人から理性を奪い去っていた。  
 フレデリカの黒い毛皮に白が絡みついてマーブルになった指に、ゆっくりとユーリーの桜色の唇が近づく。  
 鋭い爪が隠された指先を唇が軽く食む。  
 そのまま、ユーリーは自分の吐き出した白濁汁がたっぷりと纏わりついた指をゆっくりと咥えた。  
 これが一人だったら、あまりのえぐい味に一瞬と持たずに吐き出していたろう。それが、フレデリカの指に乗っていると言うただそれだけで、採れたての蜂蜜みたいになる。自分の吐き出した物を舌で絡め取っては、その端からコクコクと飲み下していく。  
「ん…ふぅ……」  
 お返しとばかりに口唇奉仕するユーリーは、フレデリカの肢体に走った微妙な震えを見逃さなかった。  
 僕の舌で気持ち良くなってくれてる。  
 フレデリカが喜んでくれていると言う素直な気持ちと、女を悦ばせていると言う欲望が入り混じる。  
 事実、ざらりとした舌の腹が撫でていくたびにフレデリカは皮膚の下の神経そのものを舐められているみたいで、身体を柔らかい電流が走り抜ける。達するような快感ではない。ちりちりと脳を炙り、延々と『気持ちいい』が続く。  
「は…ぁ…んんっ!イイわ、坊や。んっ!ねぇ、もっと、もっと舐めて…」  
 舌の腹を丸め、指に巻きつけるようにしながら、長いストロークで扱くように舐める。  
 フレデリカの尾が先端を箒のように激しく振り、彼女の昂ぶりを示していた。  
 そんなフレデリカの様子が嬉しくって、無心に乳を吸う赤子のように、ユーリーは一心にフレデリカの指を舐め清めていった。  
 指先に舌先をキスさせて、ちろちろと細かく舐める。  
 まるでソレがフレデリカに生えた仮初めのペニスで、それに奉仕しているかのような錯覚。だが、けして不快ではない。目はすっかり潤み、口の端から涎が零れるのも構わずにユーリーは精液塗れのフレデリカの指に奉仕する。  
 指の付け根を湿った物が過ぎるたび、痛痒感に似た快感がフレデリカを襲う。激しくはないが無視する事など到底出来ない。もどかしいが故に、とてもタマラナイ。  
 奉仕を受けながらフレデリカは征服感に満ちた目でユーリーを見下ろしていた。  
 延髄辺りが、くつくつと煮える。ハァハァと飢えた獣のような荒い息が口から漏れる。  
 いつしか、フレデリカは右の手をユーリーの舌に委ね、左の手指で胸の谷間に飛び散った精液を掬っては自分の口元に運んでいた。  
 
――19――  
 
 小さな唇から、濡れた毛皮に覆われた指が引き出されていく。  
 半開きにされた桜色の唇の隙間から見えるのは、赤い口腔。そこから黒い指がゆっくりと出てくるのは、ひどく淫猥な光景だった。  
「んっ…ふっ…ちゅ、ふぅっ」  
 ユーリーは子犬みたいに鼻を鳴らしながら、去っていく指を舐め続ける。  
 長い指を追うように、名残惜しげに舌が伸ばされる。  
 引き出された指と舌先の間に、様々な汁の混ざりあった吊り橋がかかってプツリと切れた。  
「あっ……」  
 フレデリカが身体を起こした。ユーリーの太股の上で、彼の両足を跨いでしゃがんだ姿勢になる。彼女は歩く時には四つ足が必要だが、身を起こして座れば人と同じように動ける。  
 彼女の足が動いた。若い雄の視線を誘うように身をくねらせ、蠱惑的なまでの緩やかな動作で。  
 はじめて見る女性器への期待に、ユーリーの喉がごくりと大きく動き、鼻息が荒くなる。  
 人には描けぬ躍動感に溢れた曲線が、左右に開いていく。ユーリーにその中心にある物を見せつけるように大きく股を開き、はしたない格好で秘部を晒す。  
 望んだ物が見れる、とフレデリカの両太股の付け根をまじまじと食い入るように覗きこんだユーリーだったが、すぐにその顔が疑問に曇った。  
 そこは妙につるんとしていた。話しに聞いていたのとはかなり違う。  
「うふふ、エッチな坊やね。がっついちゃって、そんなにあたしのアソコが見たいんだ」  
「そ、そんなことは…」  
 スルリと蛇が現れた。フレデリカの尾だ。尻の側から回り込んで、しゃがんだ股の隙間から彼女の恥丘の前に出て来る。  
 猫が匂い付けで身体を擦り付けるようにして、蛇の頭がのっぺりとした部分を縦に擦る。  
 獰猛に笑う口から真っ赤な舌が姿を現して、じゅるりと舌なめずりする。  
「見たいんでしょ?あたしのア・ソ・コ。遠慮なんてする事ないわよ、これからそこに坊やのオチンチンが入るんだもの」  
 と、フレデリカが口の中でごにょごにょと、二言三言、何事かを唱えた。ユーリーには分からなかったが、それが解除の呪文だったのだろう。  
 不意に、彼女の股間ののっぺりとした部分がポゥと青白く光って複雑な紋様が浮かび、光はすぐに宙に溶け消えた。  
 のっぺりとした部分の一端が、ペロンと捲れる。  
 魔術を用いた前張りだ。  
 大元はエルフの貴族が愛娘の為にと異常な情熱を以って開発した貞操帯を起源にしているらしいが、今ではそちらの用途よりも魔素を操るのに長けた者達や人間とは違うフォルムの種族用の下着として使われる方が多い。  
 素材は薄い布か紙切れかのようで、フレデリカの毛皮の色に合わせて黒く染められており、極力目立たぬようになっていた。  
 捲れた端を、蛇の口が咥えた。ぺりぺりと日焼け跡の薄皮を剥くように、剥がしていく。  
 こぽりと蜜が溢れ出す。  
「うわぁ…」  
 魔術を使っているだけあって前張りにはかなりの防水性があるようで、外からのも内からのも水分をシャットアウトしていた。じくじくと溢れ出す淫液を全て、フレデリカの膣内に溜めるくらいに。  
 粘液はフレデリカの黒ビロードの毛にいやらしく絡みつきながら伝い落ち、尻の谷間に入り込んで、そこからポタポタと滴り落ちる。  
 見つめるユーリーも、見せつけるフレデリカも興奮が頂点に達し、肌は上気してほんのり薄桃色に染まっていた。  
 
 獣臭さと女の香りが混ざった、潮の香にも似た濃厚な性臭がプンと漂う。  
 毛皮に覆われた猫の半身の中に、そこだけ人と同じような性器が息づいていた。フレデリカの漆黒の毛皮と対比を成すように、毒々しいまでの赤い肉色。  
 愛液に濡れた陰唇はすっかり充血し、ぽってりと厚い花弁を開いていた。  
 秘裂は、ユーリーが欲しいと、フレデリカの言葉を代弁するかのように物欲しげに口を開いている。  
 まるで昏い森の中で、独り咲き誇る妖花のよう。  
「ほら、見て。坊やが欲しくって欲しくって、もうこんなになっちゃってるのよ」  
 まるで小水でも漏らしたみたいで、ユーリーの足元に粘ついた愛液の水溜りを作っていた。  
「だから、今のうちに謝っておくわ。ごめんなさいね、あたし、坊やを壊しちゃうかも」  
「フレデリカさんにだったら構いません。僕を、壊して…ください」  
 ユーリーのペニスの根本にしゅるりと蛇が巻きついた。尻尾がクイと天を向かせると、亀頭に熱い汁が滴り落ちてベトベトに濡らしていく。  
 フレデリカは妖艶に微笑むと、一気に腰を落とした。  
 僅かに白く濁った半透明の粘液が、じゅぷっと飛沫をあげる。  
「んく…ああぁぁぁんっ!」  
 一擦りで果てなかったのが、ユーリー自身にも不思議なくらいだった。  
 温かく愛液でぬかるんだ膣肉が彼自身を包み込む。柔らかく、それでいて全体をきゅうっと締め付ける。  
 巨躯の重みがかかって、ユーリーのペニスは根元まで咥えこまれていた。  
 フレデリカは腰を沈め、ユーリーの肩近くに両手を付いて上半身を支えていた。ユーリーを押し潰さないように、かと言って彼の腰が揺れても逃がさぬような絶妙な加減。  
「っあ…はぁぁぁ…すっごくイイわ。ユーリーのが入ってるぅ…」  
 幸せそうな呟きがフレデリカの唇から漏れる。  
 童貞を奪いユーリーの初めての女になれた満足感と、胎を満たす異物感がとても心地良い。  
 騎乗位で圧し掛かりながら、初めての快感に浸るユーリーの顔を見下ろし、フレデリカは微笑んだ。こちらも口の端からは涎が一筋伝い、蕩けている。  
「どうかしら?」  
「イイです…熱くって…オチンチンがくちゅくちゅされてて…」  
「うふふ、すっかり目が溶けちゃってる。でも、まだまだよ。こうすると…もっとイイでしょう?」  
 フレデリカはゆっくりと腰を上げた。ずずず、と引き抜かれていくのに合わせて快感が生まれ、フレデリカが息を吐くような静かな喘ぎをあげる。  
 もっとずっと胎を満たしていて欲しいと、引き止めようとナカへ引き摺りこむように淫肉が蠢く。  
 ペニスを丸ごと包みこむ淫裂に根元から先端へと扱かれて、ユーリーが眉根を寄せて苦しそうに呻く。  
 ズン、と腰が落ちる。汗や先走りや愛液の混ざった汁が、ぴゅっと飛び散る。  
「くあぁぁんっ」  
 ユーリーの白い太股にフレデリカの黒い毛に覆われた尻がペチンと当たる。再び、フレデリカの腰がゆるゆると上がる。二人が同時に喘ぐ。  
 腰のピッチが早くなっていく。  
 数秒に一回のペースで肉を打っていた音が次第に早まり、しまいにはペチンペチンと連続した音になる。  
 
 官能の荒波にもみくちゃにされているユーリーだが、まだ幼くても身体の奥に息づく雄の本能は本物だ。身体の上で勝ち誇ったように腰を振る女を征服しようと、果敢に反撃を試みる。  
 飛んでいる最中に散々掴んでいた魅惑的な取っ手に、ユーリーはまた手をかけた。  
 手をいっぱいに広げて掴んでも収まりきらない。瑞々しく、柔らかく、それでいて見事な形を保つ乳房。  
 魔王を初めとする魔族達に古から伝わる彼らの伝統的な料理の一つ、モチと言うものをユーリーが知っていたら、そう表現したかもしれない。だが似ているのは色合いのみ。突つけば豊かな弾力で押し返す肌触りはそれ以上。  
 白い乳房は薄く朱を帯びて、しっとりと汗ばんでいた。さっき流したユーリーの涙と一緒くたになって、揺れる炎に艶めかしく照り光る。  
 初めはおずおずと巨乳の表面を撫でるだけの掌。  
 それも、すぐに指を一杯に広げて鷲掴む。  
「あぁんっ!そう、よ、ユーリー。もっと…っはん!…乱暴にしても、あはぁん!っいい…わ」  
 ユーリーが言われたとおりに動く。右と左の胸を別々に揉みまわし、パン生地みたいに捏ねまわす。白い乳房に指が埋もれるほど強く掴む。たわわに実った二つの果実は少年の乱暴な愛撫を受け止めて、やんわりと押し返す。  
 揺れる柔肉の、桃色も鮮やかな頂点がユーリーの指に搾り出されるようにして、それぞれ好き勝手な方向を向いてはふるふると揺れる。  
 そこにはテクニックも何もなかった。  
「ねぇ、乳首もぉ…乳首もいじってぇ!」  
 はしたなく喘ぎ、ねだるフレデリカにユーリーがどうにか応える。ピンと固く勃つ二つの頂きを、両の親指と人差し指で摘み、同時にくりっと捻りつぶす。  
 あひぃ、と宙に舌を突き出してフレデリカが悶える。  
 お返しとばかりに、フレデリカが腰を上下させ、シェイクするように回す。  
「っん、あぅぅぅんんっ!」  
「あらぁ、手が止まってるわよ。んふっ!もっと動かさないと苛めちゃうわよぉ…ほら!ほらぁ!」  
 フレデリカの腰が早く小刻みに上下する。きゅうきゅうと締め付ける膣口で、包皮の上から敏感な雁首を擦る。  
 途端、ユーリーの喘ぎ声が切羽詰る。足先が、きゅうっと丸まる。  
「やっ、それ!キツ、イィッ!んっ!んっ!フレ…デリカさぁん!」  
 絶頂の予兆にユーリーの下半身が戦慄く。  
 フレデリカは動きを変えた。浅く早くから、ゆっくりと奥深くまで咥えこむ。もっとユーリーを感じていたい。ここで彼にイカれては愉しめない。  
 次第に二人の息が合って来る。  
 フレデリカが腰を上げる。ユーリーが引く。  
 逃がさないとばかりに狭い蜜壷が締め付け、退がる亀頭を媚肉が撫で回す。  
 段差の小さい雁首が壁を引っ掻き、愛液を掻き出す。  
 一息つく間も無い。フレデリカにも、ユーリーにも、一息つく気はない。  
 フレデリカが腰を落とす。ユーリーが突き上げる。  
 ペニスが抜けて閉じ合わさった隙間を再び引き剥がすように、肉の間を幼竿が掻き分けていく。  
 情熱的にうねる膣襞が肉槍の穂先を絡め取り、柔らかく抱き締める。  
 ジュプジュプと淫靡な抽送の音を伴奏に、荒々しい二つの呼吸と嬌声の合唱が森に響く。  
 自分が快感を貪れば、それが相手を気持ち良くさせる。  
 ユーリーが、フレデリカが、快楽を求めれば求めるほど、快感は相手にもフィードバックされる。  
 己の快感が相手の悦びに変換されて、ぐるぐると回り続け、高みを目指す螺旋を形成する。  
 
――20――  
 
 二人とも、もう限界だった。  
 フレデリカの視界がちかちかと星でも散らしたみたいに瞬く。体全てが焼けるように熱く、ふわりと浮きあがりそうな感覚。達しそうな予感。  
 秘裂は熱い汁を搾り取ろうと、きゅっきゅっとリズミカルに締まってユーリーを追い込む。  
 熟れたフレデリカでさえ、そうなのだ。ユーリーはかなり耐えた方だろう。  
「あふっ…あ、イキそ、はっ!…ユーリー!きて!一緒、いっしょにぃ!」  
「っくぅん!あ、ぼく、僕っも…イっちゃいそうですぅ!好き、好きです!フレデリカさん!」  
「あ、あたしも!あたしもぉ!あ…はんっあんっ!んんぅっ!もうダメ、離さない!だから…だから一緒にイッてぇっっ!!」  
 ユーリーの足の先が丸められる。細い身体が弓なりに反らされる。  
 背を反らした拍子に、今までで一番奥まで入り込む。  
 フレデリカの太股がぶるぶると震える。細かく震動する尻尾がピンと伸ばされ、天を突く。  
 二つの雄叫びが夜気を震わせた。  
 女に溢れろとばかりに注ごうとする放出。  
 男から一滴残らず搾り出そうとする蠕動。  
 ビュクビュクから、トクントクンへ。  
 天を仰ぎ、咆哮する石像さながらに固まっていたフレデリカが、がくりと頭を垂れた。肺の中身全てを搾り出すような、長い長いタメ息。胎内を満たしていく迸りの温かさと、次第に収まっていくペニスの脈動をフレデリカは愉しむ。  
 ユーリーはと見やれば、  
「あらら、完全に堕ちちゃったか。ま、初めてじゃ仕方ないかしら」  
 "気をやる"の言葉通り、激しい快感と射精の勢いでどこか彼方に正気をやってしまったみたいだった。  
 開かれた眼は月の無い夜の沼みたいに淀み、焦点を結んでいない。半ばまで開いた口からはフゥフゥと荒い呼吸が漏れて、胸は走った後みたいに忙しく上下している。  
 端正な顔は涎と涙に塗れて酷い有様だったが、フレデリカにはそれさえも愛おしく思えた。彼の汗まみれの金髪を慈しむような手付きで梳ってやる。じんわりと体中を満たす多幸感。  
 ユーリーが正気を取り戻したのは、しばらく経ってからだった。  
 心地良い沈黙の後、ハープの弦を爪弾くように、フレデリカからぽつぽつと口を開いた。  
「実はね、この身体になってから男と寝るのは初めてなの。ユーリーの初めてを貰ったけど、あたしのもあげちゃったわ」  
 屈託無く笑う。  
 フレデリカの告白を聞くなり、ユーリーの顔がぼっと火でも吹きそうな勢いで赤く染まり、心臓がトクンと脈打つ。  
 気だるい余韻も何のその。  
 彼の興奮は、ある一箇所を素直に顕れた。  
「あら、なんか大きくなってきてるわよ。あたしのナカにあれだけ出したのにエッチなユーリー……もう一回、する?」  
「…はい」  
 稚拙ながらも彼女を悦ばせようと、彼の方から腰を突き上げる。  
「む、生意気な。悪戯坊やはこうしちゃうんだから」  
 そして、主導権はあっさりと逆転された。  
 
 暗い森の中。鳥も寝静まる刻限。辺りでするのは朽ちた枝葉の落ちる音と、微かな虫の音のみ。  
 暗闇を僅かに切り取る明るい火の周りで、そこだけ森とは異質の音がする。  
 粘液質な水音と、熱に浮かされたような荒く早い呼吸、辺り憚らぬ淫声が二つずつ。  
 いつまでもいつまでも続くその音を邪魔する者は、誰もいなかった。  
 
――21――  
 
 太陽が昇る。  
 とうに森の生き物達は目を覚ましていた。鳥は囀り、青空を群れをなして飛ぶ。森は無気味なまでに静かな夜の顔から、昼の顔へと様変わりしていた。森の外に広がる畑でも近在の農夫達が精を出している頃だろう。  
 フレデリカとユーリーの目も覚めていた。意識は半ば覚めていたが、体の方はまだ寝転がったまま。  
 抱き締めあった姿勢のまま、お互いの体温と微睡みを楽しむ。寸法的にユーリーのほうが大分小さいので、抱き締めあうと言うよりはフレデリカに一方的に抱え込まれるといった感じだったが。  
 お互い様ではあったが、二人は酷い有り様だった。昨晩の張りきりようからすれば、それも無理はない。  
「ユーリーったら、すっごいベトベトよ。体、洗ってあげようか」  
「僕もフレデリカさんを洗ってあげます」  
 泉で体を清めるべく起きようとした二人の口から、異口同音に悲鳴が上がった。  
 身体中が痛い。手足が重い。  
 酷使した関節や筋肉、体のいたる所満遍なく。使い過ぎだ、とぎしぎし軋む苦情があちこちから押し寄せた。性器もひりひりと熱せられたように痛む。  
 繋がっている最中は快感が痛覚を脇に押しやっていたから、疲労も痛みも気にならなかった。  
 それが一晩たち、快楽の麻酔がなくなると全身の骨が鉛にでもなったかと思うくらい、体を疲労が鈍く包み込む。  
 二人は、そうっと身を起こして、泉を目指す。急に動かすとあちらこちらが痛むので、動かしても痛まない範囲を探りながら慎重に慎重に。その歩みは、鈍重なゴーレムさながら。  
 水の香りが届くくらいのすぐ近くにある泉に辿り着くまでに、フレデリカは一回腰から力が抜けてへたり込みかけ、ユーリーは三回つまづいて転びかけた。  
 朝日に水飛沫をきらめかせて洗いっこしながらお互いの様子を笑いあったが、それもじきに笑っていられなくなった。  
 二人はキマイラエクスプレスのある王都まで帰らなくてはいけないのだ。  
 しかも、距離はまだ三百キロ以上もある。  
 翼を酷使した訳ではないのが、まだしも救いであった。  
 それからしばらくして。  
 よろよろとした、見ている方が不安になるような危なっかしい飛び方で空を往く魔獣を、畑仕事に出ていた幾人もの人間が目撃した。  
 どうにか飛ぶには飛べたが、今度はこのペースでは手持ちの糧食が不安になって来た。二人とも、昨晩のハードな運動が祟って腹ペコだ。  
 途中、小さな街に寄った時は、フレデリカの姿以上に二人の常にしゃっくりでもしているかのような奇妙な動きが、訝しげな目を集めた。  
 怪我か病気だと思ったのだろう。稀に気遣わしげな声音でどうしたのかと尋ねる親切な者もいたが、二人揃って曖昧なお愛想笑いとしどろもどろな返事で誤魔化した。  
 恥ずかしくって、とても本当の事など言えやしない。  
 恥ずかしさから赤面する二人の様子に、さらに怪訝な顔をする人に手短かに別れを告げ、そそくさと立ち去った。もっとも、それも随分とぎこちない歩き方ではあったが。  
 フレデリカ自身は空を駆けるので疲れ具合は言わずもがな。ユーリーも背に乗っているとは言え、寒風に抗ってしがみ付いているので体力を要する。  
 少しだけの休憩で回復した体力は、飛ぶたびにヤスリにかけられるみたいに削り取られる。  
 疲労を誤魔化す為に飛んでは休み、休んでは飛ぶの繰り返し。  
 
 結局、駿足を誇る筈のキマイラ便が王都に戻ってくるのには、行きにかかった時間の倍を要した。  
 
――22――  
 
「フレデリカ、あんたは配達に行ったと思ってたんだがね。で、こいつはどういった訳だい?」  
 ようやく戻ってきた王都で二人を待っていたのは、苦々しい社長の声だった。  
 全く老いを感じさせない勢いのあるしわがれ声は、これ以上無いというくらいに渋い。  
 怒気を露わにしてはいないが、老婆の矮躯の周りをゆらゆらと不機嫌のオーラが漂うのが見て取れるようだった。  
 フレデリカは何かに責任転嫁して取り繕うとはしなかったし、ユーリーも彼女を庇う真似はしなかった。  
 日も暮れかけの頃にようやく還ってきたと思ったら、背中には運ぶべきオマケを積んだまま。それどころか、封筒は破損の上、紛失。郵便屋が命を賭けるべき受け取り印すら貰っていない。  
 下手に何か言っても全て逆効果だろう。  
 今の社長は、導火線に点火した爆弾も同じ。わざわざ導火線の火を扇いで、破裂を早める事はない。  
「納得のいく説明を聞かせてくれるんだろうね?」  
 フレデリカは黙って頷いた。  
 口内に溜まった唾を飲み込んで、整理すべき事柄を頭の中で組み立てて一列に整列させて、ゆっくりと彼女は切り出した。  
 事の顛末を、社長は黙って聞いていた。  
 報告も仕事の内であるので、事情説明はほとんどフレデリカが行ったが、無論、夜の部分は一切伏せていた。  
「…で、どうしようもないから戻ってきたの」  
 フレデリカの話は余計な修飾が無く要点はきちんとまとまっていて、さほど長くは無かった。  
 それでも、野盗に襲われたのでその旨の被害報告を提出するので、それなりの時間を要した。既に陽が落ちかけるている。  
 外からは家路を急ぐ人々と、夕餉の支度をする買い物客の活気に溢れるざわめき。  
 時折、元気良く走り抜けていく足音は、アルバイト中の魔術師学校の生徒達だろう。彼らが灯して回っている魔術を使った街灯が、其処此処でぽつぽつと光を宿し始めている。  
 店内にも闇が忍び寄り、薄暗くなり始めている。  
 社長がよっこらせと、小さい身体を動かした。  
 店内の数箇所にある柱には、それぞれ壁掛けランプが固定されている。社長はそのランプの一つに近づいた。  
 ガラス製の蝋燭の炎のような絞られた形のホヤを持ち上げて、ずらす。ホヤの内側には真鍮製と思しき細い筒。それも同じように持ち上げて、ユーリーには見えないがどこかにフックがあるのだろう、引っ掛けて止める。中には、大人の親指の先くらいのガラス球。  
 社長は節くれだった指でガラス球を指差して、  
「灯れ」  
 と言った。たったの一言だけだが、それが呪文だった。  
 
 ガラス球の中心にポッと無機質な白い光が宿る。光量はごく弱い。かと思うと、すぐに光は強烈に膨れ上がり、直視できないほどになる。  
 社長は明かりの調整用の金属筒は全開にしたままで、ホヤだけを戻した。  
 くるり、と並ぶユーリーとフレデリカに向き直る。  
 無言で、彼女が着ているゆったりとしたローブの袖口、その左の袖に右手を突っ込んだ。  
 ローブの袖口から戻ってきた右の手には、使い込まれた色合いの長煙管が握られていた。  
 ユーリーはちょっと首を傾げた。煙管は折り畳める形状にはなっていないのに、袖口に仕舞っておけるとは思えないほど、長い。  
「出ておいで、マロウフィクス。火をお寄越し」  
 ぱちり、と指を鳴らす。  
 突然、何も無い空間から滲み出るようにして何かが現れた。愛嬌のある丸っこい身体に円らな黒い瞳、大きな耳。ネズミに似ているが、長い髭と尻尾はちろちろと燃える炎で出来ていた。  
 ユーリーもフレデリカも正体など見当もつかないソイツが、ぽてっと社長の肩に落ちる。かさこそとローブを伝い、煙管の先までたどり着くと、尻尾を伸ばして火皿に詰め込まれた刻み煙草に火をつけた。顕れた時と同様に煙のように消える。  
 社長は右の眉をほんの少し、数ミリくらいだが、吊り上げた。  
 この坊や、たったの一日で随分と肝が据わってきとる。使い魔を見てもほとんど動じない。  
 社長の観察眼は鋭かった。ユーリーは初めて目にする使い魔を物珍しそうに見てはいたが、うろたえたりはしていない。  
 フレデリカと社長のやり取りの間中も、ユーリーはじっと黙り、澄んだ瞳には強い意志の光を宿らせて、フレデリカの傍に立っていた。  
 ユーリーは相応の覚悟を持って、自らの意志を貫こうとしていた。たかだか見た事もないと言うだけの魔術で簡単に心を揺さぶられたりしない。  
 社長は最初の一服を大きく吸い、きついが薫り高い煙草の味をゆっくりと味わう。  
「フレデリカ、あんたの話は分かったよ。依頼主がそう言ったんだったら仕方ないさ」  
 長く突き出した鼻から、ふーっと長く煙を吐き出した。  
 あたかも、それが積もりに積もった溜め息の代わりだと言うように。  
「で、坊やの方はどうするね?手紙も荷物も坊やの依頼通りに目的地まで届けた。だが受取人に届く直前で依頼主がキャンセルしたからって料金もチャラって訳にはいかないんだよ」  
 ふわりと漂う紫煙を突き抜けて、鋭い眼光がユーリーに飛ぶ。  
 大きい声ではないが、厳しい口調。悪意も叱責も感じられない。ただ、事実のみを告げている。  
 社長は再び煙管を咥え、燻らす。  
「坊やは、ウチに追加料金の金貨四枚分の負債があるってのを忘れちゃいないだろうね」  
 フレデリカの報告など前座に過ぎない。  
 フレデリカとユーリーにとって、ここからが正念場。  
「ここで、キマイラエクスプレスで働かせて下さい!お金は働いて返します!配達はまだできないけど、きっと憶えます!」  
「彼もこう言ってるしさぁ、働かせてあげてよ、社長。ユーリーの借金はあたしの分に上乗せしちゃっていいから」  
 それは、道中、二人で相談した事だった。  
 
 互いの孤独を理解し埋めあえる、番いとなれる相手を見つけたのだ。引き離される気など、二人にはさらさら無かった。  
 もし、担保としてユーリーが男娼館に売り飛ばされたとしても、フレデリカは即刻身請けに行くつもりだった。ちょっとくらい仕込まれてからでもいいかしら、と外道なアイデアがちらっとよぎりはしたが。  
「この坊やにどうやって手紙が運べるって言うんだね」  
 じろりと目だけが動いてユーリーを睨みつける。ふざけるな、と言わんばかりの矢のような視線がユーリーを射る。  
 この社長に生半可な言葉は通用しない。  
 社長は勘付いていた。フレデリカのユーリーに対する呼び方が、出て行く時とは違っている事に。  
「フレデリカ、坊やは重くなかったかい?」  
「全然。羽みたいに軽かったわ。重装備してる時に比べりゃ、よっぽどマシよ」  
 唐突な質問だった。今までの話の流れから完全に切り離され、遊離しているように感じられる社長の言葉。  
 少々面食らったものの、フレデリカは肩をすくめ、事も無げに応えた。  
 一大決心を言ったにも関わらず、放って置かれて不安げなユーリー。  
 ふむ、と小さく呟いて、社長は尖った顎を撫でながら、ほんの少し宙を見つめる。  
 フレデリカは心中で身構えた。社長が、この魔女が何を考えてるのかなんて分かりっこなかった。が、考えてる内容がこちらにとって良からぬ事なのだろうと見当はつく。今回の仕事は、イレギュラー続きでスマートさとは程遠い結果になりかけているのだ。  
 報酬は金貨八枚とかなりの額だが、半分しか納められておらず、しかも残り半分の返済が全て終わるのはいつになるか覚束無い。金にうるさい社長が、何か仕掛けてこない筈が無い。  
 フレデリカの準備は無駄に終わった。抵抗の予想される箇所を迂回し、脆い部分を突くのは戦術の基礎。  
 社長はおもむろにユーリーに振り向き、フレデリカにしたのと似たような質問をする。  
「坊や、フレデリカは重くなかったかい?」  
 質問の意図に気付いたフレデリカが慌てて制止しようとしても、時既に遅し。  
「はい、大丈夫でした。フレデリカさんはそんなに重くなかったですよ」  
 元気一杯に答えていた。   
 魔女としても商売人としても百戦錬磨の老婆の前では、齢十五に満たない少年など赤子も同然。  
 まさに赤子の手を捻るように、いともあっさりとカマ掛けに引っかかった。  
 無論、ユーリーがフレデリカを背負える筈も無い。  
 女が男の上に乗る。その言わんとする所は明白だ。  
「あー……やっちゃったー」  
 ばつが悪そうに視線を逸らすフレデリカと、苦虫を噛み潰したような顔で睨む社長。  
 それぞれの表情を浮かべる二人の間で、ただ本人だけがその返事の持つ意味を理解していなかった。  
「え…あれ?どうしちゃったんですか?!僕、なんか変な事言いましたか?」  
 二人に挟まれて、おろおろとするばかり。  
 社長が長煙管を口にやる。  
 
 刻み煙草に火が回り、ジジ…と微かな音を立てる。  
「だから人を運ぶのは嫌だったのさ。まったく、ウチの娘っこ共と来たら面倒ばっかり増やしおる」  
 ボヤキと共に鼻から盛大に紫煙を吐きだした。逆さまにした煙突みたいに、煙がぶはぁっと広がる。  
 諦観に満ちた深く大きな溜め息を一つ。  
 紫煙が霞みのように漂い、空気に溶け消えながらフワリと登っていき、天井辺りまで来た時にはすっかり見えなくなる。  
 長い沈黙の後、社長が一言、呟くように言った。  
「好きにおし」  
 ユーリーの顔に、ぱぁっと光が差す。至極真面目な表情を浮かべて強張っていた頬が緩み、彼の相貌と相まって、天使のようなと形容するのがピッタリの笑顔が浮かぶ。  
 フレデリカがひゅうと口笛を吹く。  
「ウチの社員が大切な荷物を傷物にしたと知られちゃあ、我が社の信用に関わるんだよ」  
 二人はまるで聞いちゃいなかったが。  
 喜びのあまり、ユーリーはフレデリカの胸に飛び込んでいた。  
 フレデリカも彼を抱きとめ、可愛らしいユーリーの額にキスの雨を降らす。  
「ただし、それが社員同士だったって言うなら話は別だ。別段、ウチは社員同士の恋愛を禁じちゃいない。それに誰と誰がくっつこうが離れようが世間様も気にしやせんだろうさ」  
 手に手を取って、指と指を絡めあい、一緒にいられる喜びを噛み締める。  
 子供みたいにはしゃぐフレデリカが、ユーリーをぐいと持ち上げる。とうとうユーリーを胸の谷間に抱き締めて、舞踏会でワルツでも踊るようにくるくると回る。  
 広い店内とは言え、キマイラが立って踊るにはちょっと狭い。  
 大きな漆黒の翼や尻尾が振り回されると、かなり鬱陶しい。二人とも社長の事など頭から飛び去ったようで、ワルツが終わる気配は無い。  
 社長は、やれやれと首を振りながら、店の奥に引っ込もうとした。  
 扉の前で急にくるりと振り向き、びしりとねじくれた枯れ枝みたいな指を突きつけた。  
「言っとくがね、坊や。ウチの仕事はきついよ。途中で投げ出したりなんかしたら承知しないからね」  
 フレデリカの胸と腕の中でもみくちゃにされながら、少年は社長に頭を下げた。  
 一つの扉は閉じられた。だが、別の扉が開かれる。  
 それがより不幸なのか幸福なのか、社長にもフレデリカにも、無論ユーリー自身にも分からない。  
 そこには苦難もあるだろう。大多数の人間の人生がそうであるように、挫折もあるに違いない。  
 だがしかし、そこは暗闇に閉ざされてはいない筈だ。  
 何故ならば、彼と彼女はもう独りではないから。  
 掌に温もりを感じる。その温もりを確かめるように、その感触が露と消えてしまわないように、握る手に僅かに力を篭める。同じくらいの力で握り返される。  
 ユーリーは明るい明日に向かって、元気一杯に挨拶をした。  
「はい、社長!よろしくお願いします!」  
 

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