――1――  
 
 今や伝説の中に記録を留めるばかりとなった、血と炎に彩られた混沌の時代。  
 その幾万幾億の命を飲み込んだ人と魔の対立も、僅かな手勢と共に魔王の城に乗り込んだ勇者と女魔王の七日間に渡る壮絶な一騎打ちと取っ組み合いと口喧嘩の果てにお互いに愛が芽生えてしまい、グダグダで有耶無耶の内に終わった。  
 理由すら定かでない対立の末、自分達の手で己の住む大陸をも沈めんとしていた戦いも遥かな昔となった時代。  
 かつては神の怒りを知らぬ魔道外法の産物と恐れられていた魔獣が街で郵便配達をしていてもおかしくないくらいに人魔の垣根の下がった、そんな時代。  
 
――2――  
 
 からん。ころん。  
 磨りガラスの嵌まった大きな観音開きのドアの、その片方が開く。  
 ドアチャイムの気の抜けた音色が、午睡にぴったりの空気を静かに揺らした。  
 暑さが峠を越えて秋の気配が少しは見えてきたと言うのに、まだまだ夏はその力を緩めるつもりがないようだ。  
 いまだ夏の暑さを纏った空気が、開いたドアの隙間からゆるりと入り込み、ひんやりとしていた店内を気だるげに掻き回す。  
 時ならぬ暑い微風に、冷気の魔術が魔力付与<エンチャント>された小さな珠が、壁に掛けられたままで揺れる。  
 予めチャージされた魔素が尽きかけて余命幾ばくも無い寿命目前のそれは、余計な仕事を増やすなと言わんばかりに、ちらちらと瞬いた。  
 からん。ころん。  
 開いたドアは、押した主が手を離せばゆっくりと元の場所へと戻る。ドアチャイムが再びやる気なさそうに仕事をする。  
 高価そうな木製のドアに嵌っているのは、これも高そうなドワーフ職人の手掛けた大きな磨りガラス。そこにはアーチ状に黒い文字で、こう刻まれていた。  
 "CHIMAIRA EXPRESS"、と。  
 一人の少年が、鏡文字になった社名の刻まれた磨りガラスを背に立つ。  
 足を踏みいれた店内は閑散とした。  
 
 客も店員も、人っ子一人いない静かな店内を少年は見渡した。  
 右手には受付け用なのだろう、彼の肩まであるカウンター。何人もが同時に書類を書いたり出来るように、バーカウンターのように横に長く伸びている。カウンターテーブルの高さは、ようやっと彼の胸元が届くくらい。向こう側がどうなっているか、彼に覗き見る事は出来ない。  
 左には、余裕で十人はまとめて席につけそうな大きなテーブル。それにテーブルを囲んで置かれる、いくつかの椅子。  
 他にも書類の詰まった棚や、幅広の紙を巻き取ったらしい筒っぽい物などなど。少年が何に使うのか想像がついた物など、半分にも満たなかった。  
 しかし、ここは確かに店である筈なのに、誰もいない。  
 少年の家の近所にあった小さな雑貨屋でさえ、入るなり威勢の良い声が飛んできたものなのだけれど。  
 他の事で頭が一杯の少年は気付かなかったが、もし鋭い観察眼を持つ者が訪れたならば、この部屋の放つ違和感に気づいたろう。  
 カウンターから壁までの間隔。家具と家具との隙間。店の奥へと続く今は閉まったままの扉。確かに全体的に広い店内ではあったが、それにもましてどれもこれも横に広い。普通の店を水平方向に無理やり引き伸ばしたみたいに、人が使うにしては間隔が開きすぎていた。  
 とは言え、少年にとっては瑣末事。彼は加速する不安感に耐えるので手一杯だった。  
 家具だけが揃っていながら、人だけがいないと言うのは不気味な物だ。それでなくても、ここは少年には初めての場所で、加えて頼る者も無く独りなのだ。  
 不安がむくむくと育ち、少年の心中で黒雲となる。  
 もしかして潰れちゃったのかな。  
 そんな不安もすぐに消えた。  
「はぁい、いらっしゃいませ。キマイラエクスプレスは貴方の大切なお手紙を迅速かつ丁寧確実に配達致します」  
 カウンターの向こうから、ひょいと女性が顔を覗かせたからだ。  
 緩やかにウェーブした豊かな金髪を逆立たせた、見事なライオンヘアー。  
 ハスキーな声も、サバンナの王者みたいなワイルドな美貌に良くマッチしていた。  
 綺麗な顔に仮面のような嘘っぽい笑顔を張り付けたままで、一息に挨拶を言い切った。  
 
「お客様、本日はどのようは御用で…って、あら?」  
 普段の客層とは全く異なる小さなお客様に、彼女は瞳をパチクリさせた。  
 仕草自体は可愛らしいのだが、実際、あまり可愛くは見えない。  
 それは彼女が女性として、いや、男性を含めてもかなりの大柄だからだ。  
 少年からではカウンターが壁となって視線を遮っているので、見れても受付け嬢の胸から上がやっと。  
 だが、それでも彼女の体躯が男性をも軽く凌ぐほどなのが想像できた。  
 彼女はマッチョな筋肉ダルマなのではなく、ブクブクと太っていて横に広いのでもない。彼女の身体は優雅なラインを描いており、不恰好の対極にいる。  
 ただ、大きい。白く清潔なブラウスの肩幅はかなりある。  
 胸元はメロンが二つ入っているかのように大きく丸く盛り上がっているが、体躯が大きいのでアンバランスな下品にならずに見事な調和となっていた。深く刻まれた谷間に鼻の下を伸ばすほど、少年は成熟してはいなかったけれども。  
「可愛らしいお客さんね。坊や、どうしたの?お父さんのお遣いかしら?」  
 こちらの方が彼女の素の喋り方なのだろう。営業スマイルの仮面を外し、気さくに少年に微笑みかける。  
 美女に笑みを向けられている羨ましい事態なのに、当の少年はそれ所ではなかった。  
 真っ白だった。  
 ここに来るまでに、散々どうするかを頭の中で繰り返したのに。  
 何を、どうすれば、いいのか。真っ白。  
 緊張の反動が、彼の頭の中身全て残らず吹き散らしていた。  
「あらら?もしもーし?」  
 要領を得ない会話に、と言うか会話が成立しない事に受付け嬢が首を傾げる。  
 少年は答えない。答えられない。  
 ぱくぱくと酸欠の金魚みたいに唇が意味を持たない形に歪むだけ。  
 何とかしなくちゃと言う焦りだけが急速に胸を満たし、目尻には涙が浮かび始めている。  
「あらぁ?坊や、どうしちゃったの?喋れないのかしら?それとも……冷やかしかしら?」  
 受付け嬢の甘い声色が、急速に冷えていく。  
 音も無く立ち上がり、カウンターに手をついて身を乗り出す受付け嬢は、事務作業をする人間には似つかわしくない長手袋をしていた。  
 肘の先から長くしなやかな手指の先に至るまで、艶めかしいほどの漆黒。  
 貴婦人が夜会で身に付けるような最上級の黒絹の品にも見える。もっとも、ずっと貧しい暮らしの少年に貴人が身を飾るドレスなど縁がある筈が無く、あくまでショウウィンドウを飾る品から得た知識だけだったが。  
 でも何かが違う、と少年は思った。  
 何か違和感がある。  
 手袋と言うには妙に生々しい。そう、まるで生きているような。  
 その違和感の正体に気がついた時、少年の口から漏れたのは納得の嘆息ではなく、恐怖に引き攣った声だった。  
「ひっ?!」  
 違う。  
 あれは長手袋なんかじゃない。  
 
 肘から先の黒い部分が彼女の自前であると少年は気付いた。  
 気が付かなければ良かったと後悔するだけの余裕も、少年には無かった。  
 肌の色が異なっているのではない。  
「あっ…ああ……」  
 受付け嬢の肘から先は、真っ黒い獣毛に覆われていた。  
 人間じゃない。  
 悲鳴も出てこない。  
 ただ肺の空気が搾り出されるだけ。  
「もう、黙っているだけじゃ分からないじゃないの」  
 そう言って、受付け嬢は更に身を乗り出した。  
 カウンターに手だけでなく足もかけて、その全身をカウンターテーブルの上に引きずり出す。  
 ぎしり、と彼女の重みを受けたカウンターが小さく抗議の声を上げた。  
 美しい顔を少年に近づけ、腰を高く上げた姿勢で四つん這いになる。  
 もし彼女が人間ならば、はしたない以外の何物でもないだろう。だが、種族によってはそれはごく自然な格好となる。  
 受付け嬢には上半身しかなかった。  
 足がないと言う訳では無い。  
 正確を期すならば、受付け嬢には人間種の下半身が無かった。  
 受付け嬢の下半身は獣だった。  
 彼女の腹から下で流れるような優雅な曲線を描くのは、不幸を運ぶ黒猫の下肢。サイズからすれば虎か豹と呼ぶべきか。全体的なプロポーションは猫科の猛獣のそれで、胸の部分から前が女性だ。  
 下半身もビロードのような短く黒い毛に覆われている、腕と同じ艶めかしい闇の色。  
 猫の背には翼もあった。  
 下肢が猫ならば、こちらは鴉。  
 彼女がどんな種族なのかなんて分からない。  
 人と魔の対立が終わってから長い年月が経つ。元は人側諸種族領の最大拠点であった此処、王都ハイエスト・ホープにおいてさえ、かつては魔に組していた者達の姿を見かける。  
 だが、それは都市部に於いての話。歴史的背景からゴブリンやオークなどの数が多い種族でさえ住んでいる人口が少ないのに、さらに魔獣ともなると王都近隣とは言え、農村部ではまだまだ彼らは珍しい存在だった。  
 生まれてこの方、人間以外を碌に見た事のない少年は恐怖に圧倒されていた。  
「本当に冷やかしなのかしら?だとするとぉ、あたしにも考えがあるわよ」  
 女の口の両端がゆるりと吊り上がる。  
 恐怖は更なる恐怖の呼び水となり、少年には女の口が耳まで裂けているかのような錯覚に陥った。  
 実際には、彼女の形の良い唇はにまにま笑っているだけなのだが。  
 本気でどうこうしようと思っているのではない。暇な受付けの合間に来た少年を、彼女は単にからかっているだけに過ぎない。  
 その証拠に、受付け嬢の目が笑っている。  
 だが、彼の短い人生の中でも最大級の恐怖に直面して石像さながらに固まっている少年に、それに気づけと言うのは酷だろう。  
 
「この辺りはね、子供が少ないのよ。どうしてか、坊やは知ってるかしら?」  
 知らない。  
 知っている訳が無い。  
 首を縦にも横にも振れず、かたかたと震えるばかり。  
「この辺の子供はね、ウチに冷やかしに来ちゃあ、みぃんな、あたし達に食べられちゃったからよぅ」  
 ばさり。  
 女の背にある漆黒の翼が広げられる。  
 濡れた女の黒髪のように艶やかな一対の翼。  
 それは誇るように高々と差し上げられて、少年の視界を黒で覆う。天井まで届かんばかりに一面の黒。  
 広げられた漆黒が、少年の意識までも黒に染め上げようとした時。  
「おやめ、フレデリカ」  
 しわがれた声が、何とか少年の意識を引き戻した。  
「あんたの接客って言うのは、お客に小便ちびらせる事かい」  
「あら、社長。いつの間に」  
 しわがれてはいるが、張りのある老婆の声。  
 呪縛から解き放たれた少年が、荒く息をつく。溺れかけた者がやっと空気にありつけた時みたいにして、肺と咽喉が貪欲に空気を求めて動く。  
 いつの間に現れたのか。  
 こんなに暑い夏の日だと言うのにまるで物語に出てくる悪い魔女みたいにローブを纏った老婆は、フレデリカと呼ばれた女の魔獣のすぐ傍に立っていた。  
「すまなかったねぇ、坊や。ウチの社員が悪さをしたみたいで」  
 謝罪の言葉の半分は少年へだったが、その後ろ半分はカウンターの上でポーズを決めたままのフレデリカに向けられていた。  
 矮躯に似合わぬ強烈な意思の光を宿した視線が、じろりと彼女を睨みつける。  
 当のフレデリカはと見ればさして悪びれるでもなく、ぺろりと舌を小さく覗かせて照れ笑い。  
 肩を竦め、大柄な体をしおらしく縮めながらの仕草は妙な可愛らしさがあった。  
「ごめんね、坊や。ちょっと悪戯してみたかったのよ」  
 フレデリカは謝りながら少年にニッコリと微笑みかけ、のそのそとカウンターの奥に戻っていった。  
 顔を向けてもいないのに分かるのか、フレデリカが通常の窓口の位置に戻るのを待って、老婆が口を開いた。  
「さて、と。ご覧のとおり、ウチは普通の店じゃないよ。もしも店を間違えたって言うんだったらお帰りはそっち。間違えていないってお言いなら、坊やはウチにどんな御用かね?」  
「これを……」  
 そう言う少年の手には茶色い物が大切そうに握られていた。彼が胸に抱くようにして持っているのは、薄くフラックスシードオイルを引いて水を弾くようにした丈夫な一通の封筒。  
 途中まで言い掛けて、言葉が喉に詰まってしまって、言い出せずに俯いてしまう。  
 これを渡せば終わりではない。渡してからが、自分にとって試練の始まりなのだ。上手くいく自信なんてまるで無い。でも、一度スタートの合図をしたら上手くこなすしかない。  
 老婆は、迷いをたっぷりと乗せた少年の態度に苛立つでもなく急かすでもなく、辛抱強く見守った。  
 数度にわたる逡巡の後、少年はきっぱりと言った。  
「これを…この手紙の配達をお願いします」  
 
――3――  
 
「ウチはキマイラエクスプレスだよ。その意味が分かってるのかい?」  
 少年よりも背の低い社長が、探るように言う。  
 その体には精力と覇気が溢れている。少年には、その様がまるで老婆が火の玉でも飲み込んでいるように感じられた。  
 完全に気圧されてしまって、老婆を見下ろしている筈が、逆に見下ろされているような感覚。  
「確かにウチは郵便屋だがね、他とは違うのさね。ウチの娘っこ達が、キマイラ達が運ぶ」  
 はぁい、とフレデリカの手がひらひらとカウンター越しに振られる。  
 手の甲側は全部滑らかなビロードに包まれているが、掌や指の内側にはピンク色の肉球が見え隠れしている。  
 社長はフレデリカをキマイラと呼んだ。  
 その台詞を少しでも魔に属する種族に関して知っている人が聞いたならば、即座に浮かんだ疑問にその首を捻っただろう。  
 キマイラとは、頭はライオン、胴は山羊、そして蛇の尻尾を備えた種族である。少なくとも女性のパーツはそこには存在しない。彼女の構成は、むしろスフィンクスに近い。  
 より知識が豊富な、特に魔術に通じた人間が社長の言葉を聞けば、納得の頷きを返すと共に、その顔に嫌悪感を乗せたであろう。  
 だが、その手の知識のごく限られている少年には本来のキマイラと、キマイラのフレデリカの差など区別が出来なかった。  
 だから、彼は素直に社長の言葉を受け入れた。  
 ああフレデリカさんはそういう種族だったのか、と。  
 少年にしてもキマイラエクスプレスを使うように言い付かりはしたが、その会社が実際にどういう風に手紙を運ぶのかまでは知らなかった。  
 彼は社長の質問にのみ、首肯した。  
「知ってます。とても早く届けてくれる郵便屋さんだって。それに、お金も凄くかかるっていうのも」  
「なるほど。確かにウチのお客のようだね。ほれ、フレデリカ、仕事だよ」  
 言われずとも当の昔に書類を作る用意は終わっている。受け付け票、羽根ペン、インク壺、料金表、今週の配達員ローテーション割りなど。全て彼女の前でスタンバイ完了。  
 彼女は優秀な配達員であると共に、優秀な事務員でもある。  
 彼女に限らずキマイラエクスプレスに無能はいない。努力すれば誰だって無能とは縁遠くいられる。努力する理由が彼女達にはあった。  
 フレデリカは羽根ペンを手に取り、片手でインク壺の蓋を外した。どちらも社長が使う時もあるので普通の人間用サイズなのだが、人に比して大柄だがしなやかな指は人以上に繊細に動いて、サイズの差は障害にならない。  
 羽根ペンの先端をインク壺に浸してしばし、ペン先をブルーブラックの海で泳がせて、インクを吸い上げたのを確認してから、ハスキーボイスが尋ねる。  
「まずは、送り主から。坊やのお名前はなんて言うのかしら?」  
「ユルギス=マイルスです。村ではユーリーって呼ばれてました」  
 
 カウンターの向こうからは、かりかりと筆を走らせる音がする。  
 その音を聞きながら社長は小さく鼻を鳴らした。尖った顎をゆるりと撫でる。『ました』。過去形だ。  
 やれやれ、またぞろ面倒事かね。心の中で溜め息一つ。だがそれを雰囲気にも、無論表情にも出しはしない。弱気を見せないのは商売の鉄則である。  
「ふむ。坊や、あんたいくつだね?だいぶ若そうだけれども、保護者は…お母さんか、お父さんはいるかね?」  
 ここは、担保を取っておくとしよう。  
「お母さんはいません…一週間前に亡くなりましたから」  
 そう言いながら、ユーリーは困ったような小さな笑みを見せた。  
 それが諦観なのか現実感を失しているからなのか、フレデリカには判断が付きかねた。ただ、ちょっと小首を傾げて苦笑するその様を、ひどく痛々しいと感じた。  
 ユーリーの運命は、彼に悲しみに浸る間を与えてくれなかっただけだ。  
 村人により右から左に流れるように手早く母の葬儀は執り行われ、ユーリーが遺骸に縋って泣く暇も無く共同墓地の隅に埋葬された。  
 雑という訳ではなかったが、けっして丁重とは言えず、死者を悼む気持ちもそこにはなかった。埋めたりするのは面倒だが、雑にやって化けて出られるのはもっと面倒。そんな感じを覚えた。ユーリーの直感は正しかった。  
「送り先は?」  
 社長は心の中で溜め息をもう一回。担保は無しだ。  
 それなりに長い付き合いの社長の心中はだいたい察せるけれど、お構い無しにフレデリカは淡々と書類の空欄を埋めていく。  
「ザッツボロー公領ホワイトストーン村の…」  
 そこでユーリーは、知らず知らずの内に口中に溜まった唾を飲み込んだ。  
 何かを決断するように。覚悟を決めるように。  
「エヴァン=マイルスまで」  
「あら、おんなじ姓ね。親戚の方かしら?」  
「父…らしいです」  
 ユーリーは困ったような、悲しいような様々な感情のない交ぜになった複雑な笑みを浮かべた。  
「僕は顔も知りませんけど」  
「あの…ごめんね、坊や」  
 フレデリカが、ばつの悪そうな表情を浮かべて俯いた。  
「ま、坊やも複雑な家庭事情をお持ちのようだが、こっちとしちゃ知った事じゃないさね。のこのこと首突っ込んでどうなる物でもないしの」  
 冷淡とも言える社長の態度が、逆にユーリーにはありがたかった。  
 同情されても、どういう感情を返せばいいのか、彼にも分からなかったから。  
 名前だけ知っている男は、自分にはいないものとばかり思っていた父であると、一週間前に告げられたばかりなのだ。そして、その事実を告げた者はもういない。  
 ユーリーの中は、様々な感情が荒れ狂う混沌の大渦だった。あまりにも激しい渦に、幼い心は自分自身を守ろうと感情を半ば凍らせていた。  
 
「お客の事情がどうあれ、ウチにとって大切なのは、依頼を受けて、しっかり運んで、きっちり報酬を受け取る事さ」  
 社長はユーリーに広げた右の手の平を突きつけた。  
 親指だけが折り畳まれている。立っている指は四本。  
「坊や、宛先はザッツボロー公領と言ったね。その距離なら四枚だね。銀や銅じゃない。金貨で四枚だ」  
 市井の人間には目の玉が飛び出すほどの、法外と言っても過言でない値段だ。  
 それを、社長と呼ばれたこの老婆は軽く言ってのけた。  
 普通の郵便料金の優に数倍はある。  
 郵便と一口に言っても、様々な種類がある。軍用から民間まであるが、その中でも一般市民に最も縁がある郵便と言えば、駅馬車郵便だろう。  
 各地にある駅から駅を繋ぐ駅馬車によって、リレーのように手紙を運んでもらう。  
 駅馬車を利用すると言うシステム上、駅から駅までは運んでもらえるが、宛先に直に届けてはもらえない。そこまで優れたサービスではない。  
 駅留めと言って、駅馬車によって宛先に一番近い駅までは届けてもらえるが、そこに留め置かれる。  
 駅に用の有る村人や、近隣の村の代表者がチェックに出向いて確認し、村人宛の手紙があれば持ち帰って届けるようになっている。  
 手紙の詰まった郵便袋よりも駅馬車に乗る人間の荷物が優先されるので、いつ届くか、出した方も出された方も分からない。  
 強盗に襲われる事もある駅馬車を使うので、僻地宛ともなれば届くのかさえもあやふやだ。  
 軍用郵便は信頼性も速度も上だったが、当然ながら市民に手の届く筈が無い。  
 そのような郵便システムにあって、キマイラエクスプレスがこれだけの料金を取るのには、無論それなりの理由があった。  
 キマイラエクスプレスは、宛先に直接配達するからだ。  
 何があろうと宛先まで出向き、誰であろうが配達員が直に手渡す。相手がどこぞの王様だろうが飼い猫だろうが、同じ。  
 加えて、もう一つ。何故ここまで値が張るのか、素直に頷ける理由がある。  
 話は単純。キマイラエクスプレスは、純粋に速い。  
 少年の依頼を例に取れば、ザッツボロー公領ホワイトストーン村までは王都から直線距離で約五百キロ。北から南に張り出した山脈を大きく迂回しなければいけないので、実際の道中は約六百。  
 徒歩でなら一ヶ月以上、駅馬車をどんなに上手く乗り継いでも優に一週間。健脚で知られるケンタウロス達がリレー形式で運ぶ軍用郵便でさえ、片道三日を要する距離だ。  
 そこをキマイラエクスプレスは一泊二日で飛ぶ。  
 これ以上を求めるならば、魔術に頼るか、奇跡にすがるしかない。  
 
――4――  
 
「お金はここにあります」  
 半ズボンのポケットに手を入れて、小さな麻袋を取り出してカウンターに置いた。  
 ジャラリと小さな金属音を立てて、小袋はカウンターのテーブルに力なく倒れ伏す。  
 ズボンも袋も埃だらけ。ユーリー自身も埃と汗と垢だらけ。  
 それは彼が、キマイラエクスプレスを探して歩き回った証拠だった。  
 キマイラエクスプレスの名は王都でも有名ではあるが、王都中に支社がある訳ではない。さらに料金が料金だけに、普通の市民の利用者は多くない。名だけなら兎も角、利用もしない人間が社の住所まで知っているケースは稀だった。  
 衛兵にも尋ねたが、公的施設ならともかくとして受け持ち地区以外にある一企業の住所までは、彼らも大雑把にしか知らなかった。ただでさえ乏しい財布の中身を減らす訳にもいかないので王都の街中を巡回する馬車も使えず、仕方なくユーリーは道を尋ねながら歩いた。  
 大城壁の外に広がる農村地帯から、キマイラエクスプレスの存在するダウンタウンのウェストブロックまで。  
 少年にとって、冒険と呼ぶに相応しい道程だった。  
 加えて、この十日間、天は地上に恵みの雨を降らせなかった。  
 夏の強烈な日差しは大地をじりじりと炙り、水気を奪っていた。どこの大通りも狭い街路も、熱気を伴なって舞う風も埃だらけ。  
 歩き通しだった少年の全身が茶色に薄汚れているのも、むべなるかな。  
 同様に薄汚れてしまった袋の中には、金貨が四枚きっちりとは入ってはいなかった。  
 高額貨幣もあるが、いかにも掻き集めましたと言わんばかりに、袋の中には雑多な貨幣がたくさん。  
 節くれだった指が、そのコイン達を一枚一枚チャリチャリと弾いていく。  
「坊や、失礼するよ。どれどれ、ちょいちょいの…ちょいと…確かにあるね」  
「はい、確かに料金は頂きました。坊や、お手紙、渡して貰ってもいいかしら?」  
 営業スマイルではなく爽やかに微笑みながら、フレデリカが何かを求めるように広げた手の平をユーリーに差し出す。  
 フレデリカに言われて初めて、ユーリーは自分がどのように封筒を持っているか、気がついた。  
 ぎゅっと細い腕の中に抱きしめていた。  
 もし、この手紙を手から離してしまったが最後、魂までも一緒に放してしまうと言わんばかりに。今にもくしゃりと潰れてしまいそうなほどにきつく、強く。  
 別段、意識しての行動ではない。無意識の内だった。  
 もう後には引けない。  
 宛先は伝えた。お金も払った。あとは届けるべき物を渡すだけ。届けるべき物はここにいる。  
 両の瞳に決意を漲らせ、怪訝に首を捻る社長に向かい、  
「僕も連れて行ってください」  
 ユーリーはそう言った。  
「お母さん…母からこの手紙はどんな事があっても直接渡すように言われています」  
 堰を切ったように、言い切ってしまわなければ命が危ういとばかりの気迫で一息に。  
「だから…お願いです。連れて行ってください!」  
 ユーリーの母は、そう彼に言い残して逝った。  
 
 お金は手紙一通に何とかギリギリ足りる分は都合がついたわ、と今にも消えてしまいそうなか弱い声で病床の母は言った。  
 でも、あなたの分までは足りなかった。  
 そう言って、小さく悲しそうに首を振った。  
 あなたには大変な旅をさせてしまうけれど、ごめんなさい。  
 母が何を言わんとしていたのか、それが分からぬほどこのユーリーという少年は馬鹿ではなかった。  
 これが彼の試練だった。  
 金も無く、親類縁者の一人としていない身寄りの無い少年が事を成そうとするならば、善意にすがるしかない。それも、神話にあるように慈悲深い蜘蛛の女神が救いの糸を天から垂らすのを待っていたのでは遅すぎる。誰かから善意をもぎ取るしかない。  
 母の遺志を成そうと、ユーリーは必死だった。  
 ましてや、これは背水の陣。借家であった彼の家は、家賃の払いが滞っていたのもあって追い出され、ほんの一日前に無くなっていた。  
 大家も病人を追い出しては後味が悪いが、身寄りは無いが五体満足健康な子供一人なら良心はさほど痛まなかったのだろう。家財道具の類いも、足らない家賃代わりにと差し押さえられていた。  
 ここで否と言われても、ユーリーには戻るべき場所なぞ、とうにない。  
「お願いします!!」  
 翡翠の双眸に精一杯の気迫をこめて迫る。  
 老獪な社長は、長い人生の中でユーリー程度の曰く付きの客ならごまんと見てきた。世界が不公平で不条理で残酷なのは今に始まった事ではない。  
 可哀想だと思わないでもないが、いちいち付き合っていたら体は兎も角として財布がもたない。  
 社長の返答はにべも無かった。  
「駄目だね、坊や。確かに料金はある。だから、その手紙は運ぼうさ。でもね、ウチじゃあ人は運ばないんだよ」  
 キマイラエクスプレス社では、小包こそ取り扱っていたが基本的に大荷物はお断りである。  
 キマイラ達一人一人が背負って運ぶと言う、その手段からして重量物向きとは言えない。しかも空を飛んで、となればなおさらの事。  
 それに人と言う荷物は運ぼうとすると、途端に手間が増える。飛ぶのに不慣れな、もっとも飛ぶのに慣れた人間などそうそういないが、者を運んで万が一にでも道中で落っこちられた日には即死は免れない。その際の保障をしなければいけないし、会社の評判にも傷が付く。  
 事故が無かったとしても、物がナマモノだけに当然ながら食う寝る出す、と必要だ。紙切れに比べれば遥かに手間とコストが掛かるし、その増えた手間全てを配達員が負担しなければいけない。おまけに、物言わぬ手紙や小包達と違って文句まで言う。  
 運送の手間だけではない。人を運ぶと言う事は、時として大変厄介な事態に首を突っ込む羽目になるのだ。  
 規則で取り扱っていないと言う理屈の上でも、そこを何とかと言い募る少年と社長の押し問答の趨勢でも、誰の目にも老婆が優勢に見えた。  
 が、運命の女神はいつも気まぐれで、突拍子も無い悪戯をする時がある。  
「いいじゃないのさ、社長。そこまで言ってるんだから、運んであげれば」  
 少年にとっての女神は、ほんのすぐ傍にいた。  
 余計な事を言うなと、童話に出てくる悪い魔法使いその物な恐ろしい視線にも怯まず、フレデリカと呼ばれたキマイラは言葉を続ける。  
 獣毛に覆われた美しい人差し指が、少年を指し示しながらリズムを刻むようにひょいひょいと揺れる。  
「その坊やは、封書付き『荷物』。『荷物』だからまともなお世話は無し。『荷物』が風に煽られて勝手に落っこちちゃっても文句は無し」  
 くすくすと喉の奥で悪戯っ子のように笑いながら、にっこりと笑う。  
「どう?」  
 それが自分に向けられた意思の確認だと気付くのに、彼はほんのちょっとだけ要した。  
 そして、そうだと気付いた途端。  
 弾かれたように頭を下げた。  
 チャンスの女神に後ろ髪は無い。去っていく彼女を捕まえる事は出来ないのだ。  
 
 ユーリーにとって、これは最後の望みだった。  
 どれほど頭を下げ続けただろうか。  
 時間の感覚が無くなってきた頃、忌々しげな表情を隠そうともしないで社長がフンと大きく鼻を鳴らした。  
「いいだろう。坊やの依頼、受けようさね」  
「本当ですか?!」  
 承諾の言葉に、垂れたままだったユーリーの頭がぴょこんと跳ね上がった。  
 垢だらけで薄汚れてはいるが、可愛らしい顔がぱぁっと明るくなる。  
「まだ喜ぶには早いよ。確かに請け負うさ」  
 社長が剣を含んだ語気でびしりと釘を刺し、機先を制する。  
「ただし!料金は倍額。今は無いようだからツケて後払いにしといてやるが、どれだけ掛かろうがどうあっても払ってもらうよ。  
 加えて、坊やが怪我しようが死のうが飯が不味かろうが文句は言わせない。  
 そして、フレデリカ。あんたが飛びな」  
「えぇぇっ?!」  
 少年と老婆のやり取りを、にまにまとチェシャ猫張りに笑いながら見ていたキマイラが急に会話の矛先を向けられて素っ頓狂な声を上げる。  
「えぇ、でも、社長…今週のローテーションじゃ、あたしは窓口業務なんだけど」  
「だから、どうしたね」  
 そこには老婆の矮躯に見合わぬ、有無を言わせない力強さがあった。  
「あんたが言い出した事だろうに、つべこべお言いでないよ。その口から吐いた言葉なんだから、しっかり責任取って貰うよ」  
「はぁい」  
 仕方が無い、と言わんばかりにフレデリカが肩をすくめる。  
 するりと身をくねらせ、猫の身ごなしそのものの動作で音も無くカウンターから降りた。社長直々に飛べと言われれば飛ぶしかない。だが、飛ぶにしてもいきなりは無理だ。色々と下準備がいる。  
 流石に茶々を入れ過ぎたかしらね、と頭の隅でちらりと反省してみるけれども、それもほんの少しだけ。  
 ずっと座って無味乾燥な書類整理やら面白い会話がある訳でない接客をしなければいけない退屈な店番よりも、実際に配達業務に就いている方が彼女は好きだった。  
 なにより、彼女は飛ぶのが好きだった。  
「決まったら話は早い。今から行きゃあ半分は距離を稼げる。二人とも三十分で支度しな」  
 唐突ではあったが、そこは熟練の配達人らしく、早々とフレデリカは行動に移っていた。  
 一度、そうと決めたならば彼女は迷わない。  
 既に店の奥に消えかけていたフレデリカが、閉じかけた扉から毒蛇の尻尾だけを覗かせ、ひゅっと一振りして社長の指示に諾と応えた。  
「ああ…」  
 今まで厳しい表情しか覗かせなかった社長が、はたと困った顔になる。  
 しわくちゃの困った顔で、何をして良いか分からずに社長と同じように困った表情をしているユーリーを見やった。  
 夏の日差しの中でキマイラエクスプレス社を探して散々歩き回った残滓が目に付く。彼の簡素な服と言わず彼自身の体と言わず、全身余す所無く、汗と埃で汚れていた。  
 この状態で更に旅をしろと言うほど、社長は冷酷ではなかった。  
「裏手にシャワーがある。浴びておいで。支度の時間は一時間にまけといてやるさね。フレデリカ!坊やにシャワーの場所を教えてやっとくれ!」  
 そうして、フレデリカがブラウスを脱ぎかけた酷く扇情的な状態で戻ってきて、初心な少年を真っ赤にさせた。  
 
――5――  
 
「ここから六百は……」  
「こっから北西に向かって……サウザンドヒルズの泉で泊まって…」  
「あそこは注意が……駅馬車……から報告が…襲われ…」  
 フレデリカが座っていたカウンター横の、奥へ続く扉を挟んで反対側には大きなテーブルが置いてある。  
 どっしりとした風格すら漂う落ち着いた色合いのローズウッドで出来たテーブルの上には、大きな一枚の紙が広げられていた。人の背丈くらい高さのある巻いて収納するスクロール状の地図で、サイズもそうであったが、この地図自体がそうそう見られない類の物だった。  
 ここまで大きく詳細な地図は一般人には所有する事が許されないからだ。  
 街中の小さなエリアに限定された街路図や旅行用に街道だけが描かれたいい加減な物ならともかく、地理や気象情報は国家にとって非常に大切な情報であり、軍事上の重要な戦略情報となる。それがびっしりと記載された地図は敵国にとっては喉から手が出るほど欲しい品だ。  
 あまり大きな争いの無い平和な時代ではあったが、平和とは次の戦の準備期間と考えるような人種が国家の要職について安全保障の手綱を握っている以上、一般人は詳しい地図を持つ事は許されなかった。  
 キマイラエクスプレスは国境破りを請け負う非合法密輸屋<ブロッケドランナー>ではないのだから、正式な所持許可を持っていた。ここまで詳細なクラスの所持許可は企業と言えど、そう簡単には下りない。  
 その持っているだけで官憲がすっ飛んでくる品の所持が許されている段階で、このキマイラエクスプレスと言う会社の特殊性が理解できよう。  
 フレデリカの目の前に広がる王都とその周辺領地図には、様々な字で書き込みが加えられていた。  
 地図には載っていないような小さな川や泉は休憩に使え、森や洞窟は嵐などの緊急時の避難場所に使える。さらには山から流れて来る風の癖、季節による天候の変化の仕方などいずれも飛ぶために重要な情報。  
 今までに何人もが次に飛ぶ誰かの為に、持ち帰った情報を書き記していったのだ。  
 もとより接客用であるらしく、テーブルのサイズは人間に合わせられていた。天板に広げられた地図を俯瞰するには社長は立ったままで丁度良いのだが、視点の低いフレデリカには立った状態ではいささか見辛い。  
 彼女は見目麗しい女性の体が付いた前半分を天板に載せて、寝そべるような格好をしていた。  
 いささか無作法ではあるが、フレデリカは気にしない。社長も注意すらしない。二人が無調法者なのではない。仕事の前のプリブリーフィングの重要性を知っているからこそ、マナーなぞより優先させているだけの事。マナーとは危険とは縁遠い連中が気にしていれば良いのだ。  
 取るべきルートを、予想される危険を、天候を、差し向かいで真剣な眼差しで話し合う。特に今回はいつもと違うオマケが付いている。  
 その真剣な様子を、シャワーから上がったユーリーが雰囲気に飲まれた様子で見ていた。  
 人心地つけて戻ってきたユーリーは、迷った。  
 先ほどまでは何も載っていなかったテーブルに紙が広げら、それを前にして二人が真剣に話し合っている。もっとも、地図を見た事が無い少年にはその凄く大きな紙が何であるかは分からなかったが。  
 配達の打合せなのだと想像は付いたけれど、想像がつくだけに仕事の邪魔をしては悪いので、自分が戻った事を言い出し辛い。  
 それでも時間は限られていて、ずっとこうして見ている訳にはいかない。  
 
 少年は勇気を出して、おずおずと声をかけた。  
「あの…シャワーありがとうございました」  
 まだ水気の残る頭をわしわしとタオルで拭いているユーリーを見て、社長が目を見開いた。  
 フレデリカが囃すようにヒュウと口笛を吹いた。  
 二人の反応も無理も無かった。  
 これが先ほどの、全身が埃で茶色っぽく染まっていた垢じみた少年と同一人物とは思えなかったからだ。  
 伸びやかな腕や足は農村に住む人間らしく健康的に日に焼けているが、胸元から覗く素肌はアラバスターのように白い。  
 タオルが乗っかったままの髪はサラサラで、フェアリーの裁縫職人が紡ぐ極細の金糸に勝るとも劣らない。  
 髪の毛が金糸ならば、瞳は特大サイズのエメラルドだ。  
 驚く二人の様子に不安に駆られたのか、おどおどした様が女の子のような中性的な容姿にとてもマッチしていた。  
 その手の趣味がある人間が彼を見たならば、思わず犯罪に走っても不思議ではない。  
 そんなユーリーの前で、ぼそぼそと女二人が悪事の相談でもするみたいに小声で会話する。  
「うっわぁ、すっごい美人じゃないの。ねぇねぇ、社長、ここまで見越してたの?」  
「ここまでの逸品だとは思っちゃいなかったがね。ま、これで上手い具合にツケの担保が出来たさ。もしも払えなきゃあ、その時ゃ男娼館が言い値で引き取ってくれるだろうよ」  
「社長、物は相談なんだけど売る前に味見させてもらってもいい?」  
「冗談はおよしよ。お手付きだって知れたら値が下がるだろうが。どんなモノだって初物は良い値がつくんだからね」  
「あの……僕、売られちゃうんですか?」  
 すっかり悪人その物の会話は、当の本人に丸聞こえだったが。  
 頭の天辺から爪先まで、服の下まで透かして見るような女二人の視線に、ユーリーが居心地悪げに身を捩る。  
 まるで市場で牛か豚でも見るかのような目付きで値踏みされれば、誰だって居心地悪くなるだろう。この手の視線に慣れていない少年ならば、尚更。  
「あはは、冗談だって。そんな事、流石の社長だってやらないわよ。ね、社長?」  
 その問いかけに社長は応えず、ただその口元をわざとらしくニヤリと歪めた。  
 
――6――  
 
「社長の台詞なら気にしなくっていいわよ。ああ見えても、見かけ通りに悪いって人じゃないから。今は、ちょぉっとばかり虫の居所が悪いだけなのよ」  
「誰の所為だと思っておいでだね」  
 じろりと飛んでくる不機嫌な視線を避けるように、フレデリカはテーブルの上で寝そべった体を翻した。  
 頭の先から尻尾まで入れるとユーリー二人分はありそうな巨体が、するりと優雅に動いて床に下りる。磨かれた木の床に爪が触れ、カツ、と僅かに音を立てた。  
「わぁ…」  
 すっかり着替え終わっていたフレデリカの装束に、ユーリーは目を奪われた。  
 フレデリカはユーリーの不躾な、良く言えば好奇心旺盛な、視線を許した。興味津々と言った少年の視線はフレデリカにはくすぐったかったが、同時に性的な意図を含まないそれは心地良くもあった。  
 王都領内に住むとは言え、大城壁よりも外の最も外縁部の農村地帯に居たユーリーには獣人ですら縁遠い。  
 少年にとってキマイラの、特に郵便配達用の装備など想像した事すらない物だった。  
 先ほど窓口にいた時はシンプルな白いブラウスを着ていたフレデリカだが、今はすっかりその身を鎧っていた。  
 鎧うと言っても、そこに無骨さは欠片も無い。  
 酒場や街角で吟遊詩人が歌う英雄譚の登場人物のように、その姿は凛々しかった。  
 胸を覆うのは、白く染められたビスチェ風の胸甲。乳房の下辺りから胸全体を覆い、胸元部分は喉元までせり上がっている。  
 革をなめした鎧は、彼女のグラマラスな肢体を忠実に反映して、大きく波打っている。ブラウスに深い谷間を形作っていた大きな双丘は堅いなめし革の下だが、ビスチェにはその二つの膨らみを強調するかのように銀糸で縁取りが施されている。  
 左胸には、黒い円の中で火を吐くライオンの頭と山羊の胴体に蛇の尻尾を持つ、小さな黒いキマイラの意匠。  
 キマイラエクスプレスの社章だ。それと、扉に書かれているのと同じ意匠の社名が小さな字で黒く書かれている。  
 鎧を付けているのは胸だけでは無い。四本の手足それぞれに手甲と言うか、脚甲を着けていた。  
 こちらもビスチェと同じ、白に銀の縁取り。  
 人で言えば、腕や脛部分を覆っており、手指を保護するガントレット部分は無い。  
 人とは違ってキマイラは獣と同じような姿勢なので、手首から先は関節の動く範囲が広い。下手に鎧をつけて手首から先の動きを阻害しないようにした方が良いのである。  
 鎧を着たフレデリカの動きは先ほどカウンターにいた時と同じにように機敏で、ユーリーにはどれも軽そうに見えた。  
 後肢の前辺りから黒い翼の羽根の付け根辺りまで。そこには、貴婦人がドレスの下に身に付けるようなアンダーバストタイプのコルセット。  
 人で言えば腰から腹にかけての箇所は、優美なくびれの曲線を描いているが、闇夜のような毛並みは黒革のコルセットの下に隠れている。と言ってもフレデリカが着ているのは、締め付けて無理矢理に腰の曲線を形作って男を騙す為の矯正下着ではない。  
 そんな物を付けずとも、彼女のくびれは十二分に魅力的だ。  
 
 コルセットには、胴の左右それぞれの側に皮製のサイドバッグが一個ずつ取り付けられていた。  
 光を弾く独特のツヤからすると、蝋が塗られて防水が施されている丈夫な旅行用の鞄だ。  
 魔術的な教育を受けた事の無いユーリーには分からなかったが、魔術視覚で見ればバッグは薄ぼんやりと光を放っている。より完璧に水気をシャットアウトする為に、防水の魔術が魔力付与されているのだ。  
 ほとんどの業務が手紙と言う水分に大変弱い代物を運ぶ以上、湿気は天敵だった。特に空を飛んで運ぶキマイラエクスプレス独特の悩みとして、雲に入ると湿度が極端に跳ね上がると言う事がある。  
 雲を避ければ済むのだが、毎度毎度避けていては時間ばかり喰ってしまう。それに突然の雨は避けようも無い。  
 コルセットがバッグを固定するためだけではないのは、華美ではないが装飾が施されている事からも明らかだ。  
 所々に銀細工と思しきメタルでアクセントがつけられていて、黒革の中で、とりわけフレデリカの滑らかな黒い毛皮の中で星のように煌いていた。  
「坊や、あんまりレディをじろじろ見るものじゃないわよ?」  
「あっ、ごめんなさい。フレデリカさん」  
「ふふっ、冗談よ。どう?綺麗でしょ。これがウチの配達する時の制服なの」  
 白と黒のコントラストも美しいキマイラを呆けたように見続けるユーリーに、フレデリカはくすぐったそうに微笑んだ。  
 フレデリカはそう言ったが、たとえ制服と言えど騎士団の儀仗用装備でもないのだから鎧をここまで飾る必要は無い。  
 わざわざ白く染めたり、縁取ったりすれば値段が高くなるだけで、装甲強度や実用性のみを求めるならば全く不要だ。  
 剥き出しの金属パーツなど光を反射して、むしろ敵に見つかりやすくなるだけ。  
 それでも、傭兵や冒険者らから見れば派手な鎧なのには当然ながら理由がある。もっとも、彼らの中にはフレデリカの白い鎧が地味に見えるほどの傾奇者もいたが。  
 理由は簡単。キマイラ達は兵士ではないから。  
 確かに危険と隣り合わせになる時もあったが、フレデリカが赴くのは戦場ではない。  
 もう一つ理由がある。彼女ら一人一人がキマイラエクスプレス社の広告塔を兼ねていた。  
 白く派手な鎧に身を包み、颯爽と空を駆けるキマイラ。  
 キマイラエクスプレス社ここに在り、と地上を行く人々の目に焼き付ける格好の素材を、抜け目の無い社長が逃す筈も無かった。とは言え、堂々と着飾れるとあって魔獣とは言え女性であるキマイラ達からは社長の方針は歓迎されていた。  
 フレデリカの装備はキマイラエクスプレスの制服だったが、旅慣れた冒険者達からだと、強盗に襲われる可能性も高い職業としては彼女はあまりに軽武装に見えたろう。  
 しばしば駅馬車などは、徒党を組んだ盗賊に手頃な獲物として狙われる。郵便と言うシステムは庶民に行き渡っているとは言えず、郵便物は割りと高価だったり貴重な品を多く含んでいるからだ。  
 だが、それは普通の人間の話。キマイラにとっては、この軽い武装の方が都合が良いのだ。  
 彼女達キマイラのような魔獣と言うカテゴリーで括られる種族は、総じて魔素<エーテル>との親和性が高い。  
 魔素親和性が高ければ高いほど、魔術の行使が楽であり、行使した際の効率も高い。これが魔術師に天賦の才が求められる理由である。  
 キマイラの親和性は人などよりも断然高い。限定的な魔術ならば、詠唱を伴なわなくても行使可能なくらいなのだ。  
 重く堅固な鎧を身につけて体力と敏捷性を奪われて配達業務に支障をきたすよりかは、魔術的な防御に頼った方が効率が良いのだ。それに空を飛ぶ以上、体は軽ければ軽いほど楽だ。  
 もっとも魔術的な防御も無敵と言うには程遠く、意識していないとまるで無防備になってしまう欠点があったが。  
 
 ユーリーが見守る前で、フレデリカはサイドバッグの中にテキパキと様々な荷物を詰めていく。  
「ほれ、坊やもボサッとしてるんじゃないよ」  
 声と一緒に何かが飛んで来た。ほいと投げ渡される。  
「えっ?!え、わ、わわっ」  
 ユーリーは上擦った声を上げてあわあわとお手玉しながらも、何とか落とさずに受け取った。  
「これは、コート…ですか?」  
 一塊になっているそれらは厚手のコートに毛糸の手袋。コートも内張りがしてあるし、手袋も毛糸が密に編まれていて見るからに暖かそうだ。今が冬であるならば。  
 しかし、季節は夏の終わりごろ。  
 今いる店内こそ冷気の魔術が効いているので涼しいが、一歩外に出ればまだ夏が居座っていて、猛烈に暑い。  
 我慢大会でもするのかな。  
 怪訝な顔をするユーリーに、  
「今は暑いけど着ておいたほうが良いわ。上がると寒いわよ」  
 と言いながら、フレデリカが真上を指し示した。別に天井の上に登るのではない。  
「寒い…んですか?」  
 ユーリーが首を傾げる。彼の知識の限りでは、疑問に思うのももっともだった。彼は今まで地上から離れた事が無い。  
 フレデリカが目指すのは地上から遠く離れた高みだ。そこは、風の仔達の住処。  
 地上と同じ環境だと思っていると、痛い目に会う。  
「高く飛ぼうとするとどんどん気温が下がるのよ。それに飛んでると風をもろに喰らうから、真夏でも冬みたいに冷えちゃうわ。あたしは暖気の魔術が効くから良いけど、たぶん後ろまでは効かないと思うのよね。凍って落っこちちゃっても知らないわよ」  
「わかりました。それじゃ、着ておきます」  
 ユーリーは彼女の言葉に素直に従った。  
 例え冷気の魔術と言えども夏の暑さを緩めてくれる程度にしか設定されていないので、冬用のコートを着れば暑い。  
 だが、自分は『お客様』であると同時に『荷物』だ。『荷物』は何も言わない。『荷物』は運び手に従うのみ。  
 ユーリーは黙ってコートに袖を通して、手袋をはめた。  
「うう、やっぱり暑いですよ〜」  
「もう少しの辛抱よ。男の子なら我慢しなさい」  
 これで準備は整った。  
 
――7――  
 
「わざわざ外であたしに乗っても、暑いだけだしね。中で乗って、外に出たら止まらずに一気に飛ぶわよ」  
 フレデリカが床に腹をつけて座り、背中をちょいちょいと指す。乗れ、という事らしい。  
 女の人に跨るというのが、何かとてもいけない事をするようで、気後れするユーリーに、  
「ほら、男の子ならぐずぐずしない」  
 フレデリカの尻尾が苛立たしげに振られる。振られる蝮の腹が床と擦れ合い、しゃっ、しゃっと音を立てる。  
 その音に背中を押されて、熱い風呂に爪先から入るような様子で、おずおずと翼の付け根のちょっと前辺りに跨る。行き先を探してウロウロしていた手も結局、フレデリカの肩に落ち着いた。  
 丁度、フレデリカの背中に跨る形になる。お馬さんごっこの姿勢。  
 もうそんな遊びをするほど子供じゃないのに、と恥ずかしさに頬がほんのりと赤くなる。  
「駄目。そんな乗り方じゃもろに風に吹かれるわ。飛ぶって言うのはね、とても強い風に頭から突っ込んでいくって事でもあるの」  
 下半身が猫だけあって、全身が柔らかいのだろう。フレデリカの腕が器用に背中側に回され、顔を少し赤らめたままのユーリーをぐいっと引き寄せる。  
 女性とは思えないほどの腕力に抗いきれず、ユーリーの体が傾いで、そのまま肩から上が剥き出しになったフレデリカの背中に這いつくばった。オンブされたままで水平になったような体勢だ。  
「正面からだけじゃない。横からも下からも風は気まぐれに吹いてくる。だから、こうやってぴったりくっつかないと飛ばされちゃうわよ」  
 背まで靡くライオンヘアーに鼻先が埋もれる。髪から匂いがふわりと漂い、鼻をくすぐる。嫌な臭いではない。むしろ、真逆だ。フレデリカの匂いと、香水の香り。二つが混ざり合って素晴らしい芳香を産む。  
 どくんと心臓が跳ね上がる。  
 色づいた程度だったユーリーの頬が、一気に火でも付いたかのように真っ赤に染まる。ユーリーを背負うフレデリカからでは彼の姿は見えない。熟れきったリンゴのような顔も見えない。  
 美少年好きのキマイラは、喉の奥でくすくす笑いながら、背中から伝わる感触で彼の慌てっぷりを堪能していた。  
 すっかり慌てちゃって初々しくて可愛らしいったらない。  
 でも、まだこれで終わりじゃない。坊やはどんな反応をしてくれるのかしら。  
「それに肩に手をかけられると、ちょっと動き辛いわね」  
 フレデリカのしなやかな手がユーリーの細い腕を取り、ゆっくりと導く。  
 少年の腕は、フレデリカの脇の下を潜り、更にその先へ。  
「それでぇ…坊やの手は、ここ」  
「うひゃあぁぁっ?!」  
 端から見れば、普通は立場が逆だろう、と言いたくなる可愛らしい悲鳴が上がる。  
 反射的に身を離そうとするユーリーだが、たおやかに見える手はまるで万力のようで、彼をがっちりと捕らえていた。女性であるとは言え、魔獣のフレデリカの力はかなりの物だ。しかも配達と言う厳しい肉体労働によって鍛えられている。  
 フレデリカが一見すると痴女にも見える行動をしたのには、純粋に合理的な判断もあった。  
 肩に手を置かれると腕を動かす時に邪魔だし、かと言って彼女が身に付ける鎧には掴めるような場所が無い。風圧に耐えて長時間掴まっていられそうな場所が、自分の胸から丁度いい具合に大きく張り出している。  
 並みの男なら泣いて喜びそうな素晴らしい取っ手ではあるが、如何せんまだ性の悦びに疎い少年では、恥ずかしさの方が先に立つ。  
 彼女の判断の中には、とびきり可愛らしい男の子の感触を味わおうという、不純な動機も多分に含まれてはいたが。  
 フレデリカの鎧は、体型が体型なので仕方がないのだが鎧という割りには露出が多い。それはユーリーとフレデリカが密着する箇所が多い事を意味する。  
 香りが伝わる。体温が伝わる。鼓動も、滑らかな肌の下で動く筋肉も、骨の動きすらも伝わる。  
 フレデリカは魔獣とは言えなかなか見られないほどの美人で、かなりの大柄だが抜群のプロポーションの持ち主だ。そこに男が密着すれば、起きる変化はただ一つ。  
 ユーリーが彼女の香りと体温を感じたのと同じように、フレデリカもまた、鎧越しに彼を感じていた。  
 幼いながらも、ユーリーの男は立派に機能していた。  
 
――8――  
 
 社長がパチンと指を鳴らす。  
 詠唱も一切無しのただそれだけの何気ない動作で、磨りガラスの嵌った正面扉が、不可視のドアボーイでもいるかのように独りでに大きく開いた。  
 虎視眈々と侵略の機会を狙っていた暑さが店内へと雪崩れ込む。  
「それじゃ、社長。いってきます」  
「ほいよ、気を付けていっといで。フライトプランはワシが書いて出しとくよ」  
 道に降りた途端、四方から熱気が押し寄せてくる。雨季を過ぎているので湿度が無いだけまだ楽だが、むわっとした熱気に押し包まれる。  
 さっさと上がらないと芯まで茹だってしまいそうだ。  
 時刻は昼下がり。勤め人は昼食を終えて、それぞれが午後の仕事までの一服を楽しんでいる時間。主婦や子供達は強い陽射しを避けて、家の中。埃っぽい道にはほとんど人気が無い。  
 飛ぶ、と言ってもキマイラがその体を蒼空に躍らせるには助走がいる。鳥のように軽やかにとはいかない。  
 助走距離を取るのに、人通りが多いとわざわざ道を空けてもらわねばならないのだが、今日はその手間は要らないようだ。社長もそう思っているようで、彼女が離陸の手伝いをする気配は無かった。  
 フレデリカは道の真中をゆっくり歩きながら、宙に手を差し伸べるように翼を広げた。  
 歩くペースを僅かに速めながら体の具合を確かめるように、あちこちの関節を回し、ついで右後ろ足左後ろ足と体を伸ばす。ユーリーには、体の下で引き締まった筋肉や骨がぐりぐりと動くのが感じられた。  
 フレデリカの翼がばさり、ばさりと羽ばたき始め、翼が振るわれる度に風が起きる。彼女の足も徐々に速まり、早足程度。  
 羽ばたきと風切り音には奇妙な音が混じっていた。  
 チ、チチ、チチチ、と儚げな音が次第に高く大きくなっていく。  
(なんの音だろう?)  
 首だけを回して探るユーリー。目に飛び込んできた光景に、彼は呆気に取られた。  
「うわあ…」  
 音の源は、フレデリカの翼だ。正確には、翼の周り。  
 黒翼は、青白い光の微粒子に彩られていた。蛍のような小さな光が無数に纏わりついている。  
 息をするのも忘れるほど見つめるユーリーの目の前で、粒は一羽ばたき毎に数を増していき、奏でる音もより高くなっていく。その音が、人の耳では捕らえきれないくらい高まった。  
 
 瞬間、光が爆ぜ、フレデリカの翼全体が光の膜に包まれた。  
 魔力でブーストされた羽ばたきが嵐を産む。今までとは比べ物にならない強烈な風が、轟と渦巻く。  
「うわ、わあっ?!」  
 背中を思い切り蹴飛ばされたような強烈な加速が襲う。  
 既にフレデリカは駆けていた。  
 街路を蹴る指先がぶぅぅん、と薄青い光を放ち始める。  
 ばさり、と一際大きく羽ばたく。指向性を持った猛烈な嵐が地面を叩き、蛍を思わせる燐光を纏った前後の足先が宙を踏みしめた。  
 ぐぅっと、内臓が下に押し付けられる感覚。水平線が下へ流れて消えていく。視界を青と少しの白が占めていく。  
 何も無い空中に蒼い爪跡が刻まれては、やがて風に消える。  
 重力の頸木から解き放たれる。この瞬間が、フレデリカは大好きだった。全てのしがらみを、体と心に絡み付く鬱陶しい事全てを振り切れるような気がして、思わず笑い出したくなるほど最高に心が躍る。  
 高揚する心のままに大空目掛けて駆け上がるフレデリカを、苦しげな呻き声が制した。  
 ユーリーだ。  
「うきゅぅ…うぅぅ」  
「あちゃ、ごめんね。坊やがいるの忘れて、ついいつもの調子で上がっちゃった」  
 ユーリーの体全体に圧し掛かっていた透明な布団が、ふと緩まる。まるで見えない巨人に首根っこを掴まれ、押さえ付けられていたようだった。  
「はあぁ…」  
「坊や、一息つけたかしら?まだ低いから、もっと上がるわよ」  
 ようやっと首を起こせたユーリーが一息つけたのを確認し、フレデリカは再上昇。今度はかなり緩く上昇していく。  
 その様子を、社長がきつい陽射しに目を細めて見上げていた。  
 ユーリーを背負ったフレデリカは、配達の度にそうするように上空で大きく旋回して蒼穹にクルリと輪を描く。  
 そのまま、いつもより随分とのんびりしたペースで高度を上げながら、西へと飛び去った。  
「行ったかね…まったく面倒な事になりそうだねぇ」  
 焼け付くような暑気を避けて、社長はよっこらせと姿相応の声と共に店内へ戻っていった。  
 
――9――  
 
 魔力を帯びた翼が制御された暴風を作り出し、それがフレデリカを強く押す。  
 魔力を纏った足先が何も無い宙を蹴って、文字通り飛ぶように駆ける。中空に刻まれた魔力の残滓が点々と連なり、航跡を描く。  
 空を飛べる魔獣幻獣達の中で、純粋に翼の力だけで飛ぶ者はあまり多くない。大抵は魔術を併用する。  
 魔術とは、魔素を媒介として己の求めるように世界を改変する業だ。無限に編まれ続ける世界という名のタペストリーに、紡いだ魔素で己の意思という一糸を捻じ込む行為に他ならない。  
 長ったらしい呪文も、複雑な印も、大仰な儀式も、手法は違えどその全てが大量の魔素をより効率的に扱おうとする為の手段に過ぎない。  
 今、フレデリカは詠唱もしなかったが、人が歩くのにいちいち手足の動きを意識しないように、魔獣は飛ぶ際に意識して魔力を使う訳ではない。  
 飛ぼうとする意思により、魔素との親和性の高い体は自然と周囲の魔素を集め、魔術的な効果を発揮する。人間にはどう足掻いても成せぬ技だ。  
 長距離を飛ぶのでペースを考えてトップスピードは出さないが、既にフレデリカは馬をも凌ぐ速度に達していた。  
「ほら、あれがお城。空からだと白鳥宮の双翼尖塔が良く見えるでしょう」  
 風がびょうびょうと吹き荒ぶ中で、不思議とフレデリカの声は聞き取れた。  
 白亜に輝く荘厳な建物が、足元の遥か下方を流れていく。夢にも見た事のない風景に、ユーリーは目を丸くしていた。  
 初めて空を飛んではしゃぐユーリーに、フレデリカはあれやこれやと解説してやっていた。  
 足の下に広がる地面には、色々な形をした小さな箱や立てた鉛筆みたいな物が無数にばらまかれている。その隙間を様々な太さの線が縦横無尽に走っている。  
 その一本一本が道だ。その線の上を大小さまざまな粒や塊が蠢いている。  
 指がすっと伸ばされて、眼下の一点を指す。  
「あの辺り、見えるかしら?他よりもずっと大きい通りがあるでしょ?あそこが王宮通り<ロイヤルマイル>で、前はウチもあそこにお店があったらしいのよ」  
 その度に、世慣れていない少年は素直に感嘆の声を上げた。  
 周囲の建物より一際高い石造りの大城壁を超える。人魔が対立していた時代に作られたと言われる大城壁はとても厚く、城壁の上は馬車が通れそうなほど広い。  
 地上から見た時は視界を埋め尽くす壁のようであった城壁も、今、自分の下を後ろに過ぎていくのはちっぽけな玩具のよう。  
 大城壁を越えると王都外縁部。そこから先は都の膨大な消費を賄う為の農村地帯だ。  
 玩具箱をぶちまけたような王都の町並みから抜けると、あとは農村地帯がずっと続くだけで、あまり変化は無い。地上に見える家の多寡はあるけれど、基本的に延々と緑が広がるだけ。話の種も少なくなる。  
 そうなってしまうと、年齢も境遇も住む場所も全く違う二人には、共通して話せるような話題がほとんど無い。  
 流石のフレデリカも、母を亡くしたばかりの少年に彼の家庭の事や彼の昔の事を聞いて話題を作ろうとするほど、無神経ではない。  
 ユーリーも、母にしっかりと教育されたお陰で慎み深かった。フレデリカの事情に、ずけとは踏み込まない。  
 少し気まずい雰囲気もあったが、それもじきに気にしなくて良くなった。  
 ユーリーが黙らざるを得なくなったからだ。  
 出発前にフレデリカの言った通りに、上空は寒かった。しかもユーリーが生まれて初めて味わうスピードは、当然ながら同じ速度の風を産み、それが身を切るように冷たい。  
 彼の歯が鳴り始めるまで、あまり時間はかからなかった。  
 フレデリカはあまり気にした素振りも見せず、淡々と同じペースを保って飛ぶ。  
 風は穏やか。雲は高く、雲量は少なく、視界は澄み渡っている。飛ぶには良い日和。  
 フレデリカは太陽の傾き具合から時間を計った。基本的に飛んでる最中には地図や時計は見れないので、キマイラの航法は地形と天測頼み。太陽の傾きから時間を計測するのくらいお手の物だ。  
 出発してから、おおよそ一時間。  
「坊や、凍ってないわよね?休憩するから降りるわよ」  
「……はいぃ」  
 ユーリーはしがみついたまま、なんとか返事をする。カチカチと歯の鳴る音が混ざるのは止められなかったが。  
 
 フレデリカの眼下には一本の茶色の線が引かれている。そこそこ大きな街道だ。  
 その街道沿いに生える一本の大樹に、彼女は目標を定めた。ある程度大きな街道では、距離を測る為に一定間隔で樹を植えるように定められている。同時に、大きな木陰は旅する人の良き休憩場所にもなる。  
 背中のユーリーを気づかい、ゆっくりと高度を下げていく。  
 羽ばたくのを止めた翼は風を産み出す事を止めて、空気の上を滑るように風に乗ってソアリングする。フレデリカは優雅とも言える動きで道に滑り込み、肉球を備えた女性の手と猫の後ろ足が音もなく地面を踏む。  
 幸いにして木陰には誰もいなかった。  
 誰かを驚かさずに済んで、フレデリカはほっとした。たまに休んでいる人を驚かせてしまう事があるのだ。一回ならずとも、驚いた馬車馬が暴れだして大事になりかけた時もある。  
 ユーリーはと見れば、華麗な着陸を決めたフレデリカと対照的にゾンビのような歪な動きで、よろよろと一時間ぶりの大地に降り立った。  
 かくかくと、しゃっくりするような動きで自分の腕で自分を抱き締める。そのまま、妙なダンスでも踊りだすように足踏みし始める。  
 ユーリーが何をしているのか、すぐさま察したフレデリカはサイドバッグの中から水袋を取り出した。  
 水袋を咥えたフレデリカの尾が、ユーリーの手に水袋を押し込む。  
 温かい。かじかんだ手には神の助けのようにありがたい。でも、指がかじかんで上手く動かせず、肝心の中身にありつけない。  
「ごめんね、坊や。次からはもう少し低く飛ぶから」  
 フレデリカがすまなさそうに言いながら、保温の魔術が魔力付与されて温かいままの水袋の中身を飲ませてくれた。  
 フレデリカ自身、他人を載せて飛ぶ、と言うのは初めてだったのだ。まさか、彼がここまで冷えるとは思っても見なかった。  
「はい。アーン、して」  
 普段だったら赤面しそうな台詞も仕草も気にならない。と言うか、気にしていられない。  
 開けてくれた水袋の吸い口を付けて、赤ん坊のようにちゅうちゅうと吸う。  
 温かい紅茶の威力は絶大だった。ユーリーは溶ける氷の気持ちがちょっとだけ分かった気がした。  
 フレデリカは言った通りにしてくれた。  
 あまり高く飛ばないようにしてくれた。お陰で、寒さは雪の降る真冬から秋も終わりの頃くらいには和らいだ。  
 そうやって一時間飛んでは降りて、十分間程度の休憩を取る。そして、また飛ぶ。  
 次第に眼下の風景が変わっていくのに、ユーリーは気付いた。  
 王都を出た頃は、風を受けて穂が波のようにうねる一面緑の小麦畑だったのが、  
「なんか、面白い景色ですね」  
「あら、良く気付いたわね。ここら辺は王都の周りみたいな小麦畑じゃないの。作ってるのはお芋と牛。牧草地と畑が混ざってて、二つが綺麗に分けられてるのよ」  
 良く見れば、地形も変わっている。平地から、緩やかな丘の連なりへ。地平線まで幾重にも丘が続いている。  
「丘が一杯あるから、サウザンドヒルズって呼ばれてるわ。この辺はどこ飛んでも似たような景色が続くから分かりにくいのよねぇ…」  
 きっちり四角形に整えられた牧草地とジャガイモ畑それぞれが色の違うタイルのように見える。モザイク模様の景色を眺めながら、キマイラ便は軽快に駆ける。  
 四回目の休憩を取って、飛び立つ頃には陽は傾きかけていた。  
 空は鮮やかなまでに赤く、太陽は西の地平線の向こう、自分のねぐらへと帰ろうとしている。  
 太陽の反対側の空は薄い青から濃い青へ、そして藍、紺と徐々に闇に近づいている。  
 東から夜がひたひたと迫ってくる。  
 全身を赤く染めて、二人は飛ぶ。  
 
――10――  
 
「見てごらん、坊や」  
 吹き荒ぶ風の中、フレデリカの右手が上がり、人差し指を伸ばした。  
 黒い指の指し示す先を、ユーリーは風に抗いながら目を眇めて見やった。人並みの視力しか持たないユーリーには、フレデリカが何を指しているのかまだ良く見えない。  
 波のようにうねる広大なモザイク模様の中に、ぽつんと緑色の染みが浮かんでいる。  
 初めは小さな点だった染みは、近づくにつれてどんどん大きくなっていく。  
 その染みからは一本の光の線が引かれていた。緩やかに延々と続く丘の起伏の低い所低い所を縫って引かれ、夕陽を照り返してキラキラと輝いている。  
 ユーリーの目でもようやく、それが何であるか分かるようになった。  
 森と、そこから流れ出る川だ。  
 空から地上を見ると言う経験が無いので正確さは甚だ心許ないが、見たところ大河ではない。フレデリカの文字通り人間離れした視力ならばいざ知らず、ユーリーにはせいぜいその程度しか分からない。その水が育む森もさほど大きくは無い。  
「あそこが今日の宿よ」  
 夏の陽射しを一杯に受けて生い茂った梢の中、一際大きな水面が光っている。  
 社長とフレデリカが相談していた時に口にしていた泉だろう。  
 そうこうする内に、二人は森のすぐ間近まで迫っていた。  
 フレデリカがゆっくりと高度を下げる。  
 もうユーリーの目でも、風に揺れる樹の一本一本が区別できる。  
 大地が近づくに従って、茹だるような暑さが戻ってきた。  
 と、フレデリカが奇妙な動きを見せる。彼女は今までの休憩でそうしたように、すぐには降りようとしなかった。  
 森の外縁上空を、反時計回りに大きくぐるりと回る。  
 一周、二周と回ってコースを変える。体をぐいと捻って左旋回九十度。  
 そこだけ樹が無く、ぽっかりと空に向かって大きく口を開けている泉の上空を一航過。  
 別に彼女は、遊覧飛行をしているのではない。これも業務の内だ。業務と言うよりは、生き延びる為に必要なプロセス。  
 なんですぐに降りないんだろう、と大きな背中で揺られながら少年は怪訝な顔をしていた。  
 それでも彼は問いかけはしなかった。ぴったりとくっ付くフレデリカの体が緊張していたから。  
 雰囲気で少年の言いたい事の目星はついていたけれど、フレデリカも何も答えない。彼女もそれ所ではない。  
 ユーリーからは見えなかったけれど、彼女は真剣な表情で眼下を見下ろしていた。  
 フレデリカを始めとするキマイラに限らず、空を飛べる者達にとって飛び立とうとする瞬間、降り立とうとする瞬間が一番無力なのだ。  
 羽ばたく力を溜め、あるいは慎重に足を降ろそうとする離着陸時に、予期しない横槍が入っても対処出来ない。  
 正面切って戦えば圧倒的な力を持つ相手と上手くやろうとするならば、相手が無力な時を狙って奇襲するに限る。と言うか、それしか手が無い。休憩した時は開けた地形ばかりを選んだが、今は違う。隠れる場所は豊富にある。  
 その奇襲に絶好のチャンスをほいと投げて寄越してやるほど、フレデリカは自分の命に執着しない訳ではなかった。  
 
 航過し終えたフレデリカは、上昇して再び高度を取っていた。  
 泉の上を飛び過ぎた時に、鋭い知覚を誇るフレデリカの目の端に引っ掛かった物があった。  
 小動物が木陰に隠れるようにして設営されている簡単なテント。煙を燻らせる焚き火。慌てたように走り回るいくつかの人影。手に手に携えるのは夕陽を反射して光る何か。  
 下にいるのがどういう連中で、何を目論んでいるのかなんて一目瞭然。  
 その程度の偽装でキマイラの眼から逃れようなんて甘い甘い。  
「まるでなっちゃいないわねぇ」  
 嘲笑うように呟く。  
 どういう存在に喧嘩を売ろうとしていたのか、下の奴らに一つ教育してあげよう。  
「坊や、今からちょっと振り回すわよ。しっかりと捕まってて」  
「振り回すって、どうかしたんで……うひゃあっ!」  
 ちょっと所の話では無かった。  
 フレデリカがそう言うや否や、がくんと高度が下がった。  
 足先から頭に向かって血が逆流するかのような嫌な感覚。木登りをしていて手を滑らせて落っこちた時と同じ感覚。  
 あの時はしたたかにお尻を打っただけで済んだが、今は高さが全く違う。落ちたら即死。恐怖に心臓と下半身が縮み上がる。  
 声も無く慄くユーリーに気にも止めず。  
 フレデリカが凛とした声で戦いの開始を告げる。その宣言は、魔術の詠唱。  
「魔素を紡ぎて鏃と成す!弾けよ、魔弾!疾く、我が敵を討て!一番から四番、装填!誘導選択、熱源追尾。射程選択、短距離。弾頭選択、爆裂」  
 魔素がハスキーボイスの詠唱に応じる。  
 大人の握り拳くらいの青白い塊が、何も無い空間から染み出すようにして姿を現す。フレデリカの前方に浮かぶ、数は四つ。  
 フレデリカは正規の魔術師ではない。だから魔術師学校で基礎から教わった事もないので、普通の魔術師がどういう風に唱えるのかは知らない。  
 彼女の使う魔術行使構文、いわゆる呪文は彼女がキマイラエクスプレスに入社してから覚えたものだった。  
 社からそう遠くない私塾に通ったのだが、その私塾の講師は正規軍を退役した魔術士官で、お陰で彼女の呪文はどうにも軍人めいてしまっている。フレデリカ自身、どうにも妙なリズムよねとは常々思っていた。  
 青白い人魂めいた魔力塊はまだ解き放たない。魔術による誘導はいい加減だ。今撃っても馬鹿正直に誘導された魔術弾頭は木々の生い茂った葉に当たるだけ。地面にいる連中までは届かない。  
 弓を引き絞ったままの己をイメージする。  
 様子見で上空を緩く旋回した時とは全く違う、高速を出しながらの左旋回。翼は巡航していた時よりも力強く羽ばたく。体が地面に垂直になるほど傾く。  
 ユーリーが泣きそうな悲鳴を上げながら、それでもしっかりとフレデリカにしがみつく。  
(あら、坊やったらあたしの戦闘機動に付き合わされてる割りには漏らしてないわ。あとで褒めてあげてもいいわね)  
 ちらりと思ったのも束の間、すぐさま意識を戻す。  
 さっき目にした焚き火の、泉を挟んで反対側に回る。そこから焚き火が真正面に来るまでさらに急旋回。  
 加えて同時に、木々に開いた隙間から泉目掛けてパワーダイブ。  
 もうユーリーには何がどうなっているのか考える余裕すらなかった。  
 
 フレデリカが急な機動をする度に、背後からは「きゃあ」とか「ひゃあ」とか悲鳴が聞こえる。胸に加わる力も、魅力的な出っ張りに手を掛けるのでは無く鷲掴む感じになっている。  
 奇襲する筈が急襲を喰らって慌てて逃げ回る連中と、的が視界に入る。  
 射線、クリア。  
 この為に梢の下まで急降下したのだ。引き絞られた不可視の弓弦を開放する。  
「Arcane missile!FOX2!」  
 暮れなずむ太陽が全てを紅に染める景色の中、突如として四条の流星が出現した。  
 青白い流星は、フレデリカを圧倒的に上回る素晴らしい速度で飛翔する。  
 魔術によるそれらが普通の流星と違うのは、狙った獲物目掛けて自ら軌道を変える事だ。今回、フレデリカは熱を追うようにセットしていた。  
 それらは高熱源、すなわち火が点いたままの焚き火に向かって殺到した。  
 ズズンと腹の底に響く爆音が四回。  
 連なる鈍い爆音と悲鳴が背後に聞こえた時には、フレデリカは既に高度を引き起こし終わっていた。  
 だが、まだ終わらない。  
 目を回しかけているユーリーが落っこちていない事を、背中の重みだけで確認。  
 身体を捻り森の梢の上を、緑の絨毯の上を駆けるみたいにして取って返す。局所的に叩きつけられる強風に梢が猛烈に揺さぶられ、脆い枝が折れては後方に吹き飛ばされる。  
 急襲を喰らった連中が、パニックから脱出するまでに降り立てるかが勝負所。手馴れた連中だと、すぐに回復して立て直すから厄介だ。  
 上空から泉目掛けて、隼が獲物を捕らえるみたいにして急降下。水面にぶつかると思われた瞬間、フレデリカはぐいっと体を引き起こし、力一杯翼を振るう。  
 最大までブーストされた翼が地面とフレデリカ自身の間に竜巻をおこし、空気のクッションを作って無理やりに落下速度を殺す。  
 時ならぬ嵐で水面を激しく波打たせながら、フレデリカと目を回しかけているユーリーは湖岸に着陸。フレデリカが羽を数回、羽ばたかせてからその背に畳んだ。  
 絶好のチャンスだったのに、反撃は来なかった。  
 空を駆ける魔獣が無事に地上に降りてしまった時点で、結末は決まっていたのかもしれない。  
 キマイラは堂々たる態度で地面に四肢を踏ん張り、一筋の油断も無く四方を睥睨する。  
 次の瞬間、ユーリーは目を丸くした。彼にとって女性とは、口汚く罵るなんて事はしない生き物だった。  
「出てきな!!くたばりぞこない共!それとも女一人にケツ蹴っ飛ばされたってママに泣きついて慰めて貰うかい?」  
 安い挑発の言葉にホイホイ乗せられて、吹き飛ばされ損ねた人影がまんまと誘き出された。数は三。彼らにとっては素直に吹き飛ばされていた方が良かったのか、それとも悪かったのか。  
 フレデリカの挑発に罵り返す言葉から察すると、あまり育ちのおよろしくない連中なのは確かだ。  
 爆発で吹き飛ばされて地面で倒れ伏したままの連中も、爆発から間一髪で逃れて殺気を隠そうともしない連中も。全員残らず、武装していた。  
 ここまで来れば、ユーリーにも分かった。  
 彼らはこの泉を使おうとしていた先客などではない。野盗だ。  
 そこまではユーリーでも分かったが、フレデリカは冷静にさらにその先まで考えを巡らす。  
 魔術攻撃で吹っ飛んだのが数人。武器を構えてるのが三人。十人にも満たない野盗集団の正体は、おそらくは街で食い詰めたゴロツキ共。人だけではない。ゴブリンやオークの姿もちらほら見える。戦闘能力が高いトロールのような連中はいない。  
 身に付けている鎧はひどく汚れていたり、右と左の肩当が違っていたりとちぐはぐで、手入れも適当だった。  
 彼らが手にするのもまともにメンテナンスされていない剣だったり、戦闘用ではない鉞だったり、果ては木の根っ子でも削ったと思しき手作りの棍棒を持った奴までいる。  
 構え方も危なっかしくて、どいつもこいつも見ちゃいられない。  
 
 駅馬車でも襲う気楽さで、キマイラエクスプレスに手を出そうと考えたのだろう。普通に比べればかなりの高額ふんだくる郵便屋なんだから、運ぶ荷物も高値の筈。  
 所詮、その程度の考えであったのは想像に難くない。  
 その値の張る筈の荷物にどうして護衛がいないのか、なんて思いも付かなかったのだろう。  
 その浅慮をたっぷりと後悔させてやる。  
 闘争本能に火がついて、フレデリカの身体の芯が燃えるように熱くなっていく。  
「あはぁ」  
 フレデリカが獰猛に笑う。  
「たったの三人ぽっちで、あたしをどうこう出来るなんて思ってるのかい?」  
 彼女の笑みは、野盗共の愚かさに対する侮蔑と嘲笑で満ちていた。そして、降るであろう血の雨への期待にも。  
 その恫喝に彼らは武器を構える事で応じた。応じたが、どいつもこいつも腰が逃げている。所詮は数頼みしか出来ない奴らだ。  
 皆殺すのに一分もいらない。  
 フレデリカがじりっと距離を詰める。  
 詰めた分だけ、野盗共が退がる。  
 詰める。退がる。  
 詰める。退がる。  
 詰めながら、姿勢を低くする。  
 上半身が地面に触れるほど低く下げて、それでいて腰は上げたままの這いつくばるような独特の姿勢。それでいて視線だけは外さない。急激にフレデリカの全身の筋肉が張り詰め、瞬発力を蓄えていく。今のフレデリカは引き絞られた弓の上の矢も同じ。  
 きゅ、と鎧の上から胸に力が加わる。ユーリーの手だ。  
 その年相応に小さな手には、フレデリカの本能に冷水を浴びせるだけの力が有った。  
 殺戮の喜びに沸き立つフレデリカの頭の中が、さーっと冷えていく。  
 そうだ。今日はいつもとは違う。後ろには坊やがいる。見せる訳に行かない。汚い死体も、血に狂うあたしも、どっちも。  
 殺せ殺せ殺せと声高に喚く魔獣としてのフレデリカに、人としてのフレデリカが手綱をつけて、組み伏せる。  
 手加減は苦手なのよね、と心中でぼやきながら慎重に歩を詰める。指先から研ぎ澄まされたナイフよりも鋭い爪が伸び、姿を覗かせる。  
 抜き身の剣を喉元に突きつけ合うような緊張感。  
 ほんの一突きで崩れ去るとても脆い均衡の上に築かれた、仮初めの静寂が場を支配する。  
 野盗達は場慣れしていると言っても、所詮は数に任せて有利な喧嘩しかしなかったり、抵抗できない無辜の民を食い物にしてきた連中だ。  
 手練れの発する錐のように鋭い殺気に曝されて、彼らはあっさりと馬脚を現した。  
 思ってもいなかった事態に焦りばかりが募る野盗の一人が、相談するように仲間の方へとほんの少し頭を巡らせた。その視線に誘われて、残る野盗二人の視線もお互いに見合わせるように動く。  
 その一瞬の隙を逃すフレデリカではない。  
 容赦はしてやるが、躊躇なぞ微塵もしない。  
 貯めこんだ体中のバネを一息に開放する。その瞬間、野盗達にはフレデリカが魔術を使って消えたかのように映った。  
「あたしの加速を甘く見てもらっちゃ困るわね!」  
 人では視認する事さえ難しいほどのダッシュ。瞬きする間に彼我の距離が無になる。体中に付けた装備も、背負ったユーリーすらもハンデにならない。  
 まずは鉞を持った奴。  
 飛び込みざまに前肢で軽く撫でてやる。たったそれだけで、そいつの二の腕を覆っている革鎧はボロ切れに変わり、血がしぶく。そいつが切られた腕を押さえようと動くよりも早く、フレデリカはそいつを蹴りつけて跳んだ。  
 
 次だ。  
 次の目標は、剣を持った奴。  
 彼は三人の中でも少しは腕に覚えのある方ではあったが、人の反応速度の外を駆けるキマイラには無力だった。  
 まだ構え終わってもいないのに、染みだらけの革製胴鎧に袈裟懸けに爪跡を刻まれていた。斬られたと思った時にはもう、一人目と同じように踏み台にされている。  
「ぐっはぁ…ッめんな、このアマァッ!」  
 蹴りつけられながらも果敢に振るう。  
 だが、フレデリカにとってそんな体勢が崩れた腰の入っていない打ち込みなんて、のんびりと飛ぶ蝶々も同じ。苦し紛れに振るわれた剣を、柔らかな身のこなしで避ける。  
 お返しよ、と言わんばかりに剣を持つ手首を毒蛇の尻尾がしたたかに打ち据える。噛まれてもいないのに上げた無様な悲鳴なぞ、耳にも入らない。  
「あんたで最後よ!」  
 空中で体を捻って、棍棒を持った奴に尻を向けて着地。  
 フレデリカの下半身は猫とは言え人の因子も混ざっている。下衆なんかには見せるのも勿体無い脚線美から、強烈な後ろ蹴りが繰り出される。地面すれすれから、掬い上げるような一撃。  
 思わず円やかな尻の曲線に目が行った阿呆は十メートルも吹き飛ばされた。  
 太った体が衝撃を和らげてくれたと見えて、なんとか気絶だけはしていない。既に敵にもならないどころか、立つのも辛そうな有様ではあるけれど。  
 フレデリカが疾風と化している間、ユーリーはきゅっと目を瞑ってしがみついていた。  
 最後の男を蹴りつけた反動を利用して跳び、フレデリカが最初にいた場所に、重さなど感じさせないような軽やかな動作で降り立つ。  
「さて、どうするのかしら?まだ、やる?」  
 ほんの瞬き数回にも満たない時間で三人を叩きのめして見せたと言うのに、フレデリカは僅かも息も乱していなかった。  
 この程度、彼女には準備運動の範囲だった。  
「どうしてあたしがあんたらを殺さなかったか分かる?あんた達に後ろで引っくり返ってる連中を持って帰ってもらう為よ。でもあげられるチャンスは一回きり。もしもイヤだって言うのなら……今度こそ皆殺しにしてあげるわ」  
 フレデリカが自分の顔の前に、右手をかざす。  
 黒く短い獣毛に覆われて、長くしなやかな指を備えている手。その五指の先から猛獣の爪が音もなく滑り出た。  
 凶悪に研がれた武器が夕陽を照り返して、鈍く光る。  
「さて、どうするのかしら?」  
 恐るべき力を秘めた美しい指が、野盗共を指し示しながらリズムを刻むようにひょいひょいと揺れる。  
 最初に飛びかかった奴、二番目に切ったの、最後に蹴り飛ばした男。伸ばされたままの鉤爪が、それぞれの顔を順繰りに指しては、また最初に戻る。  
「イエスかノーか、よ」  
 三者三様に苦しげな呻きを上げる野盗に最後通牒を突きつける。  
「イエスだって言うなら、さっさと回れ右してお寝んねしてるお友達を連れて帰る事。お家でもどこでも帰りなさい。でも、もしも、ノーだって言うのなら今度は容赦しない」  
 そこで言葉を一度切った。  
 大きな目が引き絞るようにして細められる。楽しそうな口調と正反対にそこに宿る光は全く笑っていない。くぅっと形の良い唇の端が吊り上っていくに従って、野盗共の顔が恐怖に歪んでいく。  
 ワイルドな美貌には、美しさと明確な殺意の同居した凄惨な笑みが浮かんでいた。  
「自分達の血で作ったプールで泳がせてあげるわ」  
 フレデリカの笑みの威力は絶大だった。  
 盗賊三人はあっという間に回れ右。倒れている連中を回収し、取る物も取らずに逃げ去った。  
 
――11――  
 
 野盗達は気絶した仲間を蹴り起こし、怪我をした者に肩を貸しながら遁走した。  
 下手な捨て台詞もなかった。そんな余裕があると勘違いできるほど、彼らの後ろから飛んで来る視線は生易しくなかった。  
 自分達が束になっても傷一つ付けるのが精々の恐ろしく強い魔獣が、殺意剥き出しで睨んでいるのだ。猛獣の顎の中にいると言うのにくつろげる人間がいるだろうか。  
 フレデリカの言葉に素直に従って、全員で全力で逃げるしか選択肢は無かった。  
 姿が見えなくなって数分後。  
 ワイルドヘアーを雄々しく風に靡かせ、百獣の王さながらに立つフレデリカの四肢から緊張が抜けた。ふーっと、肺腑の全てを吐き出すような長いため息を吐いた。  
 こちらは坊やを傷付けず、あちらを殺さず追い払う。  
 背中で身じろぎ一つしないユーリーに殺戮の現場を見せないようにした難しい状況だったが、何とか切り抜けた。  
 手加減して追い払うよりも、夜中に逆襲されたりと後腐れの無いようにいっそ皆殺した方がまだしも楽なのだ。  
「坊や、もう終わったわ。降りてもいいわよ」  
 野盗共は心底、恐怖を味わったのだろう。辺りから人の気配は消えていた。人よりも鋭敏な、密林に住む猛獣並みの五感を持つフレデリカでも、もう感じ取れない。  
 極細の鋼線をより集めたような筋肉から、戦いの緊張が溶け去っていく。  
 ふと、フレデリカは違和感を覚えた。  
「坊や?どうかしたかしら?」  
 返事は無かった。  
 さすがに気絶しちゃったのかしら、と思ったフレデリカは首を捻り、背中を視界に入れた。見るや否や、眉根が寄せられた。  
 ユーリーは彼女の背の上で身を起こしていた。なかなか胆の据わった様子で気絶もしていない。そこまでは良い。  
 が、円らな瞳は何も捕らえていない。  
 達人ともなれば剣以上に鋭く研ぎ澄まされた殺気だけを得物とし、相対する者の意識を奪うこそすら可能である。  
 ユーリーは王都外縁部の農村出身と言っていた。そこは都に近い分、随分と治安も良い。彼が白刃が煌く命をやり取りする場に立ち会った事など無いのは、ほぼ確実だろう。  
 訓練を積んだ大人でさえ、初陣では大小の差はあれど何かしらの失敗をやらかすものだ。少年が初めて臨んだ戦いの場で、場の持つ気に当てられて正体を失ってしまったとしても無理は無い。  
 フレデリカは身を捻り、振り落とすようにしてユーリーを降ろした。  
 思考の凍ったユーリーではあったが、外部からの刺激と状況に体だけが反応し、対応していた。  
 
 少し乱暴すぎたかしら、とのフレデリカの心配も杞憂ですんだ。かなり危なっかしげではあったが、何とか彼は転ばずにはすんだ。転ばずに立ちはしたが、それだけ。乱暴なフレデリカに文句を言うでもなく、体の両脇にだらりと手を伸ばし、ただ宙を見詰めている。  
 ユーリーを放って置いて、フレデリカは後肢前に括り付けられているサイドバックの留め金を外した。かつては彼女もそうであったように、これは言葉でどうこうした所でどうにかなる症状ではない。  
 留め金が開いたところに即座に蝮の尻尾が頭を突っ込み、中をごそごそと探る。  
 ずるりと戻ってきた尻尾は鈍く銀に輝く金属を咥えていた。皮の滑り止めがぐるりと巻かれたスキットル。フレデリカの大きな手に収まるくらいのサイズで、その気になれば一息で飲み尽くす程度の量しか入らないが、目的からすれば丁度いいサイズだ。  
 器用に動く尻尾からスキットルを受け取り、親指を捻るほんの少しの動作でキャップを外す。  
 中身を頭から浴びせるようにして飲ませた。  
 ツンときついアルコール臭と、熟成された甘味のある香りが鼻を突く。酒だ。  
「ほら、しっかりしなさい!」  
 ぺしぺしと頬を嗜めるようにごく軽く叩く。覗き込むようにして翠の瞳を見つめ、呼びかける。  
 フレデリカの呼びかけは功を奏したようだった。  
 ユーリーの眼にじきに知性の光が戻ってきて、  
「え…あ、フレデリカ…さ…うぁ、けほっけほっ」  
 口中の強い酒に、思い切りむせた。  
「ちょっとキツかったかしら?でも、もう大丈夫ね。それにしても、良く頑張ったわ。初めてなのに気絶しないだけ大した物じゃない」  
 ユーリーの頭をわしわしと撫でてやりながら、フレデリカは天を見上げた。  
 太陽はほとんど沈むくらいまで傾いて、全天が暗くなっている。木々に囲まれたこの場所は、もうじき闇に落ちるだろう。  
 その前にやる事はやっておかないといけない。  
 まずは明かりの確保。  
 今も昔も、夜と言うのは人の子の時ではない。闇に紛れ、本能に身を任せた魔物の蠢く時間なのだ。用心を怠ってブラックドッグに食われた旅人の話など、枚挙に暇が無い。  
 特に今日は、闇に住まう者達から見れば格好の食餌がいる。  
「坊やにも手伝ってもらうわよ。焚き火は連中が付けていってくれたのを使うとして、少し薪を拾ってきてくれないかしら」  
 ユーリーがお客様であったのは、キマイラエクスプレス社の扉を出るまで。今は彼は荷物であり、お客様扱いなどして貰えない。それはユーリーも承知の上だ。なにせ、彼はフレデリカが言った悪戯めいた言葉のお陰でここまで来れたのだ。恩人の言葉に異存がある筈が無かった。  
 フレデリカの言葉に、こくんと頷いて、踵を返す。  
 初めての実戦に立ち会った後遺症が、まだ尾を引いているのだろうか。  
 首を傾げるフレデリカの視線を背に受けて、微妙に足をふらつかせながら、ユーリーは泉の周りに広がる森に分け入って行った。  
 
――12――  
 
 陽がすっかりと暮れた夜の中、紅い火の精が小さな焚き火の中で楽しげに踊る。  
 彼らが炎の中でくるりくるりと回るたび、ぱちっ、ぱちっ、と火の粉が爆ぜる。  
 王都と同じく、この辺りも雨が少なかったのだろう。ユーリーが腕一杯に抱えて持って帰ってきた薪はすっかり水分が抜けており、良く燃えた。  
 焚き火の側には、野盗共が設営していった目の詰まった毛布を天幕にしただけの簡単なテント。その中には、同じく連中が残していった酒に食料、暇潰し用と思しきカード、洗われていない食器に鍋やら調理道具が転がっていたが、フレデリカは見向きもしなかった。  
 洗って使えば良いのでは、というユーリーのもっともな提案も「面倒くさいじゃない」の一言で斬って捨てられた。  
 フレデリカには、鍋を洗うのも、鍋があってもこの暗さの中で食材になる野草を探してくるのも両方面倒だったのだ。それに野盗連中が残していった物など、触りたくも無い。こちらの理由の方が大きい。  
 赤々と燃える焚き火の炎が、簡素な夕餉を彩る。  
 ぶ厚く切ったサラミとスライスした玉葱とチーズを挟んだ硬パン。バターと砂糖をたっぷり使ったショートブレッド。果物の砂糖漬け。  
 シンプルなメニューだが、量は多かった。  
 体が大きいのに加えて、ずっと体を動かし続けていたフレデリカは、ユーリーの倍も平らげて彼をビックリさせた。  
 チャージされていた魔素が抜けて保温の効果も薄れてしまい、だいぶ温くなってしまった紅茶を代わる代わる飲んで、食後のお茶にする。  
 人心地つき、あたりにはゆったりとした時間が流れる。  
 炎をぼんやりと眺めながら、フレデリカは頭の中で明日のコースをシミュレートしていた。揺らめくオレンジの光に浮かび上がる姿は、さながら聖なる墓所で宝物を守る守護の彫像のよう。  
 ユーリーは、炎に照らし出されて複雑に陰影の揺れるフレデリカの下半身に目が行った。  
 フレデリカの下半身は獣である。が、彼女の腕が獣毛に覆われていたり人には無いパーツが混ざってはいるが同時に人のラインを色濃く残しているように、脚の方も少なからず人族の因子を反映しているようで、猫と言うには人間らしさを含んでいる。  
 先刻、盗賊の一人が見惚れたように太股は優美な曲線を描く。そこには猫科の猛獣の持つ独特の躍動感と同時に、成熟した大人の女の肉感があった。  
 極上のビロードのように毛足が短いその様は、まるでぴったりとフィットする黒タイツでも履いているかのようで、艶めかしくうねるラインをユーリーの目に晒していた。  
 少年らしい健全な下心が無いと言えば嘘になるが、ただそれだけで見詰めてしまったのではないのもまた事実。  
 フレデリカの左太股。ごく短い毛に覆われているその中で、一箇所だけ、その毛並みを乱している箇所があった。よくよく見れば、闇色の毛皮に一筋、紅黒く短い線が引かれている。  
「フレデリカさん、そこ、怪我してるじゃないですか」  
「ん?ああ、こんなの掠り傷よ。大した事無いわ」  
 明日のお天気でも話すみたいに、軽やかにフレデリカが笑う。剣が掠めた時に出来たのだろうが、実際、流れ出した血は既に止まっている。  
「駄目です!もしも膿んじゃったら大変ですよ!」  
 そんな彼女に、ユーリーは顔を真っ赤にして言い募る。  
 確かに彼の言う通りだ。傷を消毒しないで放っておけば化膿する危険がある事も、時にはそれが命取りとなる事も。  
 だが、そこまでの傷ではないのはフレデリカの経験上、分かっていた。傷と言ったって太股の表面に毛ほどの傷が入った程度なのだ。生命力の強いフレデリカならすぐに塞がってしまう。  
 ユーリーは人の話を聞かずに力説している。焚き火に照らされているにしても、何が彼をそこまで駆り立てるのかと思うほど彼は顔を赤くしていた。と言うか、赤すぎる。  
 
 フレデリカは怪訝な顔でスキットルを開け、ちろりと一舐め。  
「あら」  
 合点がいった。  
 入れてくる酒を間違えたらしい。てっきりウイスキーだとばかり思っていた中身は、寒さの厳しい北方に住むドワーフ達が愛飲する蒸留酒。大の大人でも飲み慣れていないと踊りだすくらいで、度数はかなりキツい。  
「あらら…?」  
 気がそれる。フレデリカの体から力が抜ける。ユーリーの腕に力が篭る。  
 押し倒された。  
「傷はきちんと消毒しないとダメですよ。傷口から悪い病気が入ったりしたら…」  
 座った状態から、ごろりと寝転がらされる。そのフレデリカの下半身に、いつの間にやらユーリーが覆い被さっていた。  
「だから…僕が舐めて消毒してあげます」  
 そうして、少年はとんでもない事を言い放った。  
 慌てて止めさせようとするフレデリカの手も、全てが遅く、遠かった。  
 騎士が貴婦人の手にキスをするみたいにして、ユーリーの桜色の唇がそっと寄せられる。  
 酒精に酔ったのか、色香に惑わされたのか。おそらくはその両方で、頬を薔薇色に染めて太股にそっと口付けた。  
「うっくぅ」  
 妙な声と共に、フレデリカの手がピンで宙に縫いとめられたようにして、ぴたりと止まる。  
 気色悪さとくすぐったさと心地良さが、ごちゃ混ぜになった感触。内訳は心地良さが半分で、残りはその他。  
 瑞々しい唇を割って突き出された舌が、まるで焦らすような動きでちろりと傷跡をなぞる。  
 ゆっくりと下から上へ。登りきったら戻り、再び傷をなぞり、舐め上げていく。  
 訂正。心地良さが七分。頭の片隅で冷静に事態を俯瞰するフレデリカの一部が告げる。  
 ユーリーの行為に下心は無い。  
 フレデリカにもそれは分かっている。純粋に、好意と彼女の身を案じて出た言葉だ。  
 分かっているが故に、退けがたい。  
 これがみっともなく鼻の下を延ばしながらの台詞だったら、首根っこ掴んで容赦なく泉に叩き込み、強制的に頭を冷やさせただろう。  
 が、そうもいかない。  
 ユーリーの行為はフレデリカの傷を気遣っての事なので、そのような意図が無い以上は手を上げて制する訳にはいかなかった。かと言って、辛抱たまらなくなってフレデリカの方から手を出す訳にもいかない。  
 ユーリーはあくまでキマイラエクスプレス社で請け負った運びべき『荷物』なのだ。社員が荷物に手を出したのが知れたならば、社の信用に傷がつく。手を出した当人のフレデリカも、ペナルティは免れないだろう。  
 これでユーリーが彼女の好みで無いような男だったら問題はなかった。そもそも触らせたりしない。  
 だがしかし、相手は輝くような金髪をしたとびっきりの美少年ときた。食前の挨拶もそこそこに飛び掛り、食後の一服までフルコースで頂きたくなるような相手なのだ。  
 ユーリーは全く意図していなかったが、彼の行為はある意味、フレデリカには拷問だった。  
 砂漠を渡る渇した旅人の前に、青々と水を湛えるオアシスがある。だが、その水は毒水で、飲めば一時は渇きを癒せるが、後でもがき苦しむ羽目になる。それが今のフレデリカの状況だ。  
 
 ユーリーに彼女の葛藤など知る由も無い。  
 それどころか、フレデリカが形の良い眉根を寄せている様を傷が痛むのだと思って一層熱心に傷口に、もっとも既に傷は塞がりかけているのだが、舌を這わす。  
 傷を舐めているので、当然ながら口からは息がしにくい。自然、呼吸を確保する為にユーリーの鼻息が荒くなる。まあ、荒くなっていく原因は息がし辛いからだけではなかったけれど。  
 ゆっくりとしたペースの水音と、小さい荒い呼吸音。  
 それがまたエロティックな雰囲気を一層加速させる。  
 淫靡な空気と酔いにそっと後押しされて、既に消毒という行為を飛び越えて女の太股を一心に舐め続ける。ユーリーは完全に己の行為に没頭していた。  
 フレデリカの方は、崖っぷちに立たされて心境だった。  
 欲望と言う火の上に渡された、理性と言う一筋の細い紐が下からじりじりと炙られる。  
 ユーリーの舌が傷口を這うのがとてもイイ。  
 イイけど、良くない。  
 我慢すればするほど、意識してしまい、我慢できなくなる。そんなぎりぎりの綱渡りかと思われたフレデリカに、ふと、余裕が生まれた。  
 まるで若い愛人を侍らす貴族みたいね、とフレデリカは思った。  
「もういいわ、坊や」  
 行為を遮る言葉に、なにか気に触る事をしたんだろうか、と雨に濡れる子犬のような不安げな表情のユーリー。  
 ふわふわの金髪を指に絡めるようにゆっくりと撫でてやって、少年の怯えにも近い不安を消してやる。  
「ふふ、そんな顔しないの。もうそこは十分だわ。次は、こっち、よ…」  
 妖しく笑いかけながら、太股に這わされたままのユーリーの手を取る。少年の水を弾くような張りのある肌触りを味わい、その手を濡れそぼう秘密の園へと誘い、そして…。  
 そこでフレデリカは妄想を振り払った。  
(そんな事、ある筈ないじゃない…)  
 我ながら馬鹿な事を考えたものだ。  
 仮に今ここでフレデリカが妄想通りの行動を取ったとしても、相手から返ってくるのは拒絶だろう。  
 人魔が争っていた時代ならばいざ知らず。今では人と魔獣の間に立ち塞がる種族の壁はそれなりに薄い。互いの体格に倍ほども差があるようなカップルだってそう珍しくは無いし、体型自体が全く違うペアもいない訳ではない。  
 だが、もしもユーリーがフレデリカをもっと良く知れば、礼儀正しく慎み深い少年は嫌悪感を露わにはしないだろうが、距離を取ろうとするだろう。彼女を知ろうとした者、誰もがそうであったように。  
 大分、明かりの落ちた焚き火に照らし出されるフレデリカの顔は、この世の何もかもを諦めた者のようで、まだ若いにも関わらず酷く年老いて見えた。  
 その顔には、暗い自嘲の影が色濃く漂っていた。  
 森のフェアリーが旅人に悪戯するように、ユーリーの綺麗な金髪をついと一房摘んでは離し。また一房摘んでは離し。  
 いつの間にやら、ユーリーは人の太股を枕にしてクークーと気持ち良さそうな寝息を立てていた。本当に火がつくほど強いアルコールは覿面に効いたようだ。  
「さてと、坊やも寝ちゃったし、あたしも顔洗って頭冷やして寝るとしましょうか…」  
 自分の上であどけない寝顔を見せる少年を起こさないように慎重に抱き上げて、そっとどかす。フレデリカの膂力からすれば痩せぎすの少年一人くらい軽いものだ。今夜の彼のベッドでもある、ユーリーが昼間着ていたコートの上に彼を寝かしつけ、冷えないように包んでやった。  
 そうして、熾火でも飲みこんだように火照った顔と身体を醒ます為、フレデリカは一人静かに泉へと足を向けた。  
 

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